礼拝宣教 ヨハネ黙示録22章 賛美&証
本日は賛美と証しの礼拝です。
先にKさんからは熊本地震被災地ボランティアをとおしてのお証し。Sさんから転入会のお証しがありました。この地上にある人の世は様々な困難と課題が尽きませんが、主イエスの福音は私たちに生きる証しと日毎に新しい賛美の歌を授けてくださいます。
4月から礼拝で読んできましたヨハネの黙示録も今日の22章で最後となります。
この章には、「主イエス・キリストの来臨」が確実な事、すぐにも起こることとして示されています。そのような神のときの迫りを覚えつつ、ヨハネの黙示録の時代に激しい迫害に遭った信徒たちの祈りと共に、今日の箇所から主のメッセージを聞いていきたいと思います。
①「命の水」
さて、まずここに出てまいります「命の水」についてです。
22章1節以降で、ヨハネが天使から「神の小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川」を見せられます。
「命の水」については、「主なる神さまご自身が『命の水』の源泉である」ということが、旧約聖書のエゼキエル、ゼカリヤ、ヨエル各書に記されております。さらに新約聖書に至りますと、ヨハネによる福音書4章で、主イエスご自身が「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」とおっしゃっています。
今日の箇所の冒頭では、「神の小羊の玉座から流れ出て」とございますとおり、はっきりとこの命の水が、世の罪を取り除く神の小羊、主イエス・キリストから湧き出る恵みであることが明らかにされています。もはや覆いは取り除かれました。私たちの救いのために流された御血汐。そのあふれ流れる愛と義、すなわち「命の水」。その和解と平和は都の大通りメインストリートの中央を流れ、両岸に植えられた「命の木」を育み、遂にはその葉が諸国の民をいやしていくというのです。
主の来臨によってこの世界は新しいエルサレム、新天新地に変ります。
21章5節「見よ、わたしは万物を新しくする」。この世界は創世記3章に記されているように、アダムとエバが罪を知り、神に背いてエデンの園から隔てられてから人間は、「命の木」を見ることも、知ることもできなくなっていました。しかし新約の時に至り、救い主イエス・キリストの到来と罪の贖いによる御救いが成し遂げられることによって、今日の箇所に記されています「命の木」のゆたかな実りに与ることが許されたのです。もちろんその完成は主が再びおいでになられるときですが、その日を待望し、備えつつ歩む者にすでに実現されているのです。
ここに「木の葉は諸国の民の病を治す」とありますが。それは単に肉体の病のいやしだけでなく、まさに「死に至る病」、罪による死の滅びからの解放、神の祝福を阻むあらゆる呪いからの完全な解放を表わします。さらにそれは、個々人に留まらず、諸国の民のいやし、和解と平和につながっていきます。
又、「神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見ます。」
もはやあの時のアダムとエバのように神の御顔を避け、身を隠す必要はありません。
小羊主イエスによる赦しと和解の中で神を仰ぎ見、礼拝します。しかも最後の主の日、「新しいエルサレム」が訪れたとき、はっきりと「主と顔と顔とを合わせて仰ぎ見る」(3節)のです。
使徒パウロはコリントの信徒への手紙一13章でこう言いました。
「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部分しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」
さて、次いで天使は、すぐにも起こるはずのことを示します。そのような迫りの中で、12節「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。」さらに14節「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである」と、これは主イエスさまからの直接的なお言葉として語られているのです。
命の木に対する権利。それをお与えになるのは主ご自身です。人の努力や精進、倫理や道徳心によって決して得られるものではありません。私たちが唯、主イエスの十字架の贖いという門を通って主の都に入れるように。自分の衣、御救いの義の衣を日々洗い清める幸いな者としてこの生涯を歩み通したく願います。
主イエスはヨハネ福音書10章で、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」とおっしゃいました。その牧草とは羊のように迷いやすい私たちのために与えられる「命の糧」、御言葉であります。
又、17節に「霊と花嫁」なる教会、そして信徒たちが「主よ、来て下さい」と切望する呼びかけに対して、主は「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」と、確かに応え、招いてくださっています。
詩編23編にございますように、「主はわたしの羊飼いとして、憩いの水のほとりに伴って、魂を生き返らせてくださる」のです。私たちも又、主イエスこそ「渇くことのない命の水」の源であることを心に留めたいと思います。
②「主の光がすべてを照らす日」
さて、新しいエルサレムにおける最大の特徴とも言えるのは、「主の光がすべてを照らす」ということです。
5節、「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」
ともし火の光と聞いて、やはり思い浮かびますのは、主の来臨にそなえるために主イエスがお語りになった「10人のおとめ」のたとえです(マタイ25章)。この黙示録を読み出してもう何度もそこを持ちだしてまいりましたので、またかとお思いになるかも知れませんけれども。今回は遂に5節にあるように、そのともし火の光も、もはや要らなくなるということであります。
主の来臨、すなわち花婿なる主が真暗な夜に突然来ても、迎えられるように「ともし火」をもって備えることの大切さ。それはどんな闇夜であれ、ほんの小さなともし火があれば花婿を確認して、出迎えることができるようにしておくということです。
いかに暗闇のような世にあっても、主の来臨に備えて「ともし火」を灯し続けるための「油」を携えておく必要があります。それが今私たちに託された生き方であります。
10人のおとめのたとえでは、5人は愚かで、5人は賢かった。愚かなおとめたちはともし火を持っていたが油を用意していなかった。賢いおとめたちは壺に油を入れて持っていたとあります。彼女らは待ちくたびれて眠気に襲われるのですが、突然「花婿だ、迎えに出よ」との声に、愚かなおとめたちは夜中でもう閉まっている中油を探しにいった。その間に花婿は到着して用意のできている5人は花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸は閉じられてしまうのであります。
その来るべき主の来臨のときが訪れますと、「もはや夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らないのですね。なぜなら「神である主が僕たちを照らし」、すべてが主の光のもとで照らされる時がやって来たからです。
それは私たちのすべての行い、信仰の生き方が明るみになる日でもあります。その事を知っていると、知らないとでは、同じクリスチャンでもその生き方が大きく違ってくるでしょう。あの10人のおとめたちのように。
主イエスは私たちが罪と死に滅びることなく、主のもとに立ち返って、主の命に生きるように、戸が閉じられるその時まで招き続けてくださっています。その主の愛に応えて生きる。、それは私たちにとってどんなに大きな力、希望でしょうか。「すべてを照らす日がやってくる。」すべてが主のもとに明るみに出され、報われる日がやがて訪れる。そのような希望の持てる日々の歩みとされていきたいと、そう願います。
Sさんから先程転入会のお証しを伺いました。主から離れようとしているその時々に、主は信仰の友を遣わして主のもとに白鳥さんを幾度も引き戻さられた事を知らされました。主は生きておられます。「わたしはアルファであり、オメガである。最初にして、最後の者。初めであり、終わりである。」主は私たちの間に幕屋を張って、いつまでもともにいてくださる、その希望のメッセージを今日も確認し、主の招きに応えて歩んでまいりましょう。
本日は賛美と証しの礼拝です。
先にKさんからは熊本地震被災地ボランティアをとおしてのお証し。Sさんから転入会のお証しがありました。この地上にある人の世は様々な困難と課題が尽きませんが、主イエスの福音は私たちに生きる証しと日毎に新しい賛美の歌を授けてくださいます。
4月から礼拝で読んできましたヨハネの黙示録も今日の22章で最後となります。
この章には、「主イエス・キリストの来臨」が確実な事、すぐにも起こることとして示されています。そのような神のときの迫りを覚えつつ、ヨハネの黙示録の時代に激しい迫害に遭った信徒たちの祈りと共に、今日の箇所から主のメッセージを聞いていきたいと思います。
①「命の水」
さて、まずここに出てまいります「命の水」についてです。
22章1節以降で、ヨハネが天使から「神の小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川」を見せられます。
「命の水」については、「主なる神さまご自身が『命の水』の源泉である」ということが、旧約聖書のエゼキエル、ゼカリヤ、ヨエル各書に記されております。さらに新約聖書に至りますと、ヨハネによる福音書4章で、主イエスご自身が「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」とおっしゃっています。
今日の箇所の冒頭では、「神の小羊の玉座から流れ出て」とございますとおり、はっきりとこの命の水が、世の罪を取り除く神の小羊、主イエス・キリストから湧き出る恵みであることが明らかにされています。もはや覆いは取り除かれました。私たちの救いのために流された御血汐。そのあふれ流れる愛と義、すなわち「命の水」。その和解と平和は都の大通りメインストリートの中央を流れ、両岸に植えられた「命の木」を育み、遂にはその葉が諸国の民をいやしていくというのです。
主の来臨によってこの世界は新しいエルサレム、新天新地に変ります。
21章5節「見よ、わたしは万物を新しくする」。この世界は創世記3章に記されているように、アダムとエバが罪を知り、神に背いてエデンの園から隔てられてから人間は、「命の木」を見ることも、知ることもできなくなっていました。しかし新約の時に至り、救い主イエス・キリストの到来と罪の贖いによる御救いが成し遂げられることによって、今日の箇所に記されています「命の木」のゆたかな実りに与ることが許されたのです。もちろんその完成は主が再びおいでになられるときですが、その日を待望し、備えつつ歩む者にすでに実現されているのです。
ここに「木の葉は諸国の民の病を治す」とありますが。それは単に肉体の病のいやしだけでなく、まさに「死に至る病」、罪による死の滅びからの解放、神の祝福を阻むあらゆる呪いからの完全な解放を表わします。さらにそれは、個々人に留まらず、諸国の民のいやし、和解と平和につながっていきます。
又、「神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見ます。」
もはやあの時のアダムとエバのように神の御顔を避け、身を隠す必要はありません。
小羊主イエスによる赦しと和解の中で神を仰ぎ見、礼拝します。しかも最後の主の日、「新しいエルサレム」が訪れたとき、はっきりと「主と顔と顔とを合わせて仰ぎ見る」(3節)のです。
使徒パウロはコリントの信徒への手紙一13章でこう言いました。
「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部分しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」
さて、次いで天使は、すぐにも起こるはずのことを示します。そのような迫りの中で、12節「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。」さらに14節「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである」と、これは主イエスさまからの直接的なお言葉として語られているのです。
命の木に対する権利。それをお与えになるのは主ご自身です。人の努力や精進、倫理や道徳心によって決して得られるものではありません。私たちが唯、主イエスの十字架の贖いという門を通って主の都に入れるように。自分の衣、御救いの義の衣を日々洗い清める幸いな者としてこの生涯を歩み通したく願います。
主イエスはヨハネ福音書10章で、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」とおっしゃいました。その牧草とは羊のように迷いやすい私たちのために与えられる「命の糧」、御言葉であります。
又、17節に「霊と花嫁」なる教会、そして信徒たちが「主よ、来て下さい」と切望する呼びかけに対して、主は「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」と、確かに応え、招いてくださっています。
詩編23編にございますように、「主はわたしの羊飼いとして、憩いの水のほとりに伴って、魂を生き返らせてくださる」のです。私たちも又、主イエスこそ「渇くことのない命の水」の源であることを心に留めたいと思います。
②「主の光がすべてを照らす日」
さて、新しいエルサレムにおける最大の特徴とも言えるのは、「主の光がすべてを照らす」ということです。
5節、「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」
ともし火の光と聞いて、やはり思い浮かびますのは、主の来臨にそなえるために主イエスがお語りになった「10人のおとめ」のたとえです(マタイ25章)。この黙示録を読み出してもう何度もそこを持ちだしてまいりましたので、またかとお思いになるかも知れませんけれども。今回は遂に5節にあるように、そのともし火の光も、もはや要らなくなるということであります。
主の来臨、すなわち花婿なる主が真暗な夜に突然来ても、迎えられるように「ともし火」をもって備えることの大切さ。それはどんな闇夜であれ、ほんの小さなともし火があれば花婿を確認して、出迎えることができるようにしておくということです。
いかに暗闇のような世にあっても、主の来臨に備えて「ともし火」を灯し続けるための「油」を携えておく必要があります。それが今私たちに託された生き方であります。
10人のおとめのたとえでは、5人は愚かで、5人は賢かった。愚かなおとめたちはともし火を持っていたが油を用意していなかった。賢いおとめたちは壺に油を入れて持っていたとあります。彼女らは待ちくたびれて眠気に襲われるのですが、突然「花婿だ、迎えに出よ」との声に、愚かなおとめたちは夜中でもう閉まっている中油を探しにいった。その間に花婿は到着して用意のできている5人は花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸は閉じられてしまうのであります。
その来るべき主の来臨のときが訪れますと、「もはや夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らないのですね。なぜなら「神である主が僕たちを照らし」、すべてが主の光のもとで照らされる時がやって来たからです。
それは私たちのすべての行い、信仰の生き方が明るみになる日でもあります。その事を知っていると、知らないとでは、同じクリスチャンでもその生き方が大きく違ってくるでしょう。あの10人のおとめたちのように。
主イエスは私たちが罪と死に滅びることなく、主のもとに立ち返って、主の命に生きるように、戸が閉じられるその時まで招き続けてくださっています。その主の愛に応えて生きる。、それは私たちにとってどんなに大きな力、希望でしょうか。「すべてを照らす日がやってくる。」すべてが主のもとに明るみに出され、報われる日がやがて訪れる。そのような希望の持てる日々の歩みとされていきたいと、そう願います。
Sさんから先程転入会のお証しを伺いました。主から離れようとしているその時々に、主は信仰の友を遣わして主のもとに白鳥さんを幾度も引き戻さられた事を知らされました。主は生きておられます。「わたしはアルファであり、オメガである。最初にして、最後の者。初めであり、終わりである。」主は私たちの間に幕屋を張って、いつまでもともにいてくださる、その希望のメッセージを今日も確認し、主の招きに応えて歩んでまいりましょう。