宣 教 詩編8:2-10
今年も長雨に加えて局地的な集中豪雨によって各地に被害が出ました。都会に住み先進的な技術や情報によって守られているかのような生活をしておりますと、自然に対する感性も鈍くなってきている気もいたします。「輝く日を仰ぐとき、月星ながめる時、いかずちなりわたる時、まことのみ神を想う」という賛美歌がございますように、心からすべてを活かし治めたもう主なる神さまを讃える喜びと、その主を畏れる思いをも与えられます。
都会の大阪ではなかなか夜空の星を見ることが少ないですが。私は小学5年生の時でしたか。山口県の秋吉台で北九州地方連合の夏期聖書学校のキャンプが行われていたある晩、草原に横たわって夜空に輝く満天の星を見て感動したものです。星があまりにきれいで間近に迫るような光景でした。又、大海原とその水平線の壮大さを目の当たりにした時も、人間ってほんとうにちっぽけな存在だということを強く思わされるとともに、神様の創造のみ業の素晴らしさにただただ感嘆するばかりでありました。4節「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。月も星も、あなたが配置なさったもの。」
5節で詩人は「人間は何ものなのでしょう」、又「人の子は何ものでしょう」とうたいます。
ヘブライ語で「人間」はエノシュという言葉で、それは「無力な」「弱い」存在であるという意味が込められています。又、「人の子」はアダムという言葉で、創世記のあの最初の人であるアダムに由来し、それは「土の塵」で造られたような小さき者を表しています。
詩人は人間の「無力さ」「弱さ」、人の子の「小ささ」を引き合いに出して、人間は到底神さまの顧みを受けるに足りない者であるにも拘わらず、「神さま、あなたはこのような者を何ゆえ御心に留めてくださるのですか。何ゆえ顧みてくださるのですか」と、驚きと深い感動をもってうたいあげているのです。
神はこのような弱く、小さき人、土のちりから造られた人に、栄光と威光を冠としていただかせ、「御手によって造られたものすべて治めるように、その足もとに置かれた」というのです。「羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を渡るもの」それらすべてを治めるように、神さまは弱く、ちっぽけな人間に神の恵みの管理者として格別な使命を託されたのであります。まさにそれは創世記1章で、人は歴史の初めから神の委託を受けて、すべての生き物や動物を治めるようにと命じられていました。人はその与えられた責任に対しての畏れを忘れるわけにはいきません。さらに、ノアと神との契約において、神はノアとその子孫という人間だけでなく、大事なことですが、地のすべての生き物と祝福の契約を結んでくださったのです。
この詩は私たちに如何なる使信・メッセージを送っているのでしょうか。
昨年は新型インフルエンザが日本中に流行し脅威をもたらしましたが。今年は口蹄疫が流行し宮崎県を中心に被害が拡大し、いわれなき差別も生じ、特に牛や豚を家族のように飼っておられる方々は激しい悲しみと心の痛みを日々負っておられます。高鍋では殺処分をこれ以上は止めて欲しいと知事に申し出て一時はストップしていたようですが、先日の新聞によれば知事の考えが変わり、殺処分を再するようになったと聞いています。
日本バプテスト連盟に連なる児湯キリスト教会から発信されています「ニュース「口蹄疫」惨状」によりますと、6月19日現在で、感染・又その疑いは291件。殺処分対象は19万9284頭(牛、豚、ヤギ、羊含め)だそうです。
私はある報道を聞いて驚いたのですが、この口蹄疫というのは牛や豚にとって格別死に至るようなものではなく、感染力は強いものの1~2週間程度で自然に治っていくたぐいのものであるということでした。ではなぜ殺処分しなければならないのかというと、社会的風評から国内すべての牛や豚の消費が落ち込み、経済に混乱をもたらす恐れがあるから、というまったく人間側の都合による政策である、ということです。
宮崎日々新聞という地元誌の記事に口蹄疫の殺処分に携わっておられる作業員のことが、掲載されていたのを読み、心が痛みましたので、少し読ませて戴きます。
「産廃ボックスに約100頭の豚を詰め込み、ブルーシートをかぶせて炭酸ガスを注入。20秒後、激しく暴れる豚がぶつかる感触を、シートを抑える両腕に感じる。1分半後、絶叫がうめき声に変わる。2分後、音が途絶える。身の毛がよだつ静けさが漂い、20人ほどの作業員は皆、黙ったままうつむいていた。「もういいでしょう」と獣医師が口を開くまで。
帰宅後、風呂に入り、早く忘れたいと黙って缶ビールをあおった。「無益な殺処分に加担した」と自己嫌悪に陥りながら。翌日、体には原因不明のじんましんが出ていた。医者からは、何かショックなことが無かったか尋ねられたが、うわさや差別されるのが怖くて、何も言えなかった。云々。」
こういう実情について私は殆ど知りませんでした。「無益な殺処分に加担した」との負い目が消えず、その苦悩を負っている作業員の方々のメンタルケアーも急務だということです。
人間の都合による殺処分。一体何なんでしょう。人間とは一体何ものなのでしょうか。
今日、世界の各地域で異常気象によるさまざま災害が起こっています。これは自然災害というより、地球環境や自然の破壊による人災とも言える面が多いといわれます。
本日の詩編の言葉をかりるなら、「神に僅かに劣るものとして造られた人間」が、その造られた恵みとその使命を無視し、神の意に反して大宇宙や地球を意のままに支配してきたことへのツケが回ってきているのではないでしょうか。
それはまさに、土くれによって似姿に造られたに過ぎない者を御心に留め、恵み深いまなざしで御目を注いでくださっている天地の創造主なる神さまへの背信行為以外の何ものでもありません。
詩人は「こんな小さな私ども人間を神は御心に留めてくださり、御目を注いでくださっている」という神の恵みへの感謝と畏れをもっていました。その創造主への感謝と畏れを忘れた現代の人間社会は、この地上のよき管理者としての務めも忘れてしまったかのようです。「人間とは何ものなのでしょう」とのみ言葉が、又違った響きをもって今日の私たちに問いかけているようです。
ローマの信徒への手紙8章に次のようなみ言葉が記されております。
「全被造物もまた、神の子たちの現われるのを切に待ち望み、共にうめき、産みの苦しみを味わっています。」「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」とⅡコリント6章に記されていますように、祈り、務めてまいりましょう。
今年も長雨に加えて局地的な集中豪雨によって各地に被害が出ました。都会に住み先進的な技術や情報によって守られているかのような生活をしておりますと、自然に対する感性も鈍くなってきている気もいたします。「輝く日を仰ぐとき、月星ながめる時、いかずちなりわたる時、まことのみ神を想う」という賛美歌がございますように、心からすべてを活かし治めたもう主なる神さまを讃える喜びと、その主を畏れる思いをも与えられます。
都会の大阪ではなかなか夜空の星を見ることが少ないですが。私は小学5年生の時でしたか。山口県の秋吉台で北九州地方連合の夏期聖書学校のキャンプが行われていたある晩、草原に横たわって夜空に輝く満天の星を見て感動したものです。星があまりにきれいで間近に迫るような光景でした。又、大海原とその水平線の壮大さを目の当たりにした時も、人間ってほんとうにちっぽけな存在だということを強く思わされるとともに、神様の創造のみ業の素晴らしさにただただ感嘆するばかりでありました。4節「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。月も星も、あなたが配置なさったもの。」
5節で詩人は「人間は何ものなのでしょう」、又「人の子は何ものでしょう」とうたいます。
ヘブライ語で「人間」はエノシュという言葉で、それは「無力な」「弱い」存在であるという意味が込められています。又、「人の子」はアダムという言葉で、創世記のあの最初の人であるアダムに由来し、それは「土の塵」で造られたような小さき者を表しています。
詩人は人間の「無力さ」「弱さ」、人の子の「小ささ」を引き合いに出して、人間は到底神さまの顧みを受けるに足りない者であるにも拘わらず、「神さま、あなたはこのような者を何ゆえ御心に留めてくださるのですか。何ゆえ顧みてくださるのですか」と、驚きと深い感動をもってうたいあげているのです。
神はこのような弱く、小さき人、土のちりから造られた人に、栄光と威光を冠としていただかせ、「御手によって造られたものすべて治めるように、その足もとに置かれた」というのです。「羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を渡るもの」それらすべてを治めるように、神さまは弱く、ちっぽけな人間に神の恵みの管理者として格別な使命を託されたのであります。まさにそれは創世記1章で、人は歴史の初めから神の委託を受けて、すべての生き物や動物を治めるようにと命じられていました。人はその与えられた責任に対しての畏れを忘れるわけにはいきません。さらに、ノアと神との契約において、神はノアとその子孫という人間だけでなく、大事なことですが、地のすべての生き物と祝福の契約を結んでくださったのです。
この詩は私たちに如何なる使信・メッセージを送っているのでしょうか。
昨年は新型インフルエンザが日本中に流行し脅威をもたらしましたが。今年は口蹄疫が流行し宮崎県を中心に被害が拡大し、いわれなき差別も生じ、特に牛や豚を家族のように飼っておられる方々は激しい悲しみと心の痛みを日々負っておられます。高鍋では殺処分をこれ以上は止めて欲しいと知事に申し出て一時はストップしていたようですが、先日の新聞によれば知事の考えが変わり、殺処分を再するようになったと聞いています。
日本バプテスト連盟に連なる児湯キリスト教会から発信されています「ニュース「口蹄疫」惨状」によりますと、6月19日現在で、感染・又その疑いは291件。殺処分対象は19万9284頭(牛、豚、ヤギ、羊含め)だそうです。
私はある報道を聞いて驚いたのですが、この口蹄疫というのは牛や豚にとって格別死に至るようなものではなく、感染力は強いものの1~2週間程度で自然に治っていくたぐいのものであるということでした。ではなぜ殺処分しなければならないのかというと、社会的風評から国内すべての牛や豚の消費が落ち込み、経済に混乱をもたらす恐れがあるから、というまったく人間側の都合による政策である、ということです。
宮崎日々新聞という地元誌の記事に口蹄疫の殺処分に携わっておられる作業員のことが、掲載されていたのを読み、心が痛みましたので、少し読ませて戴きます。
「産廃ボックスに約100頭の豚を詰め込み、ブルーシートをかぶせて炭酸ガスを注入。20秒後、激しく暴れる豚がぶつかる感触を、シートを抑える両腕に感じる。1分半後、絶叫がうめき声に変わる。2分後、音が途絶える。身の毛がよだつ静けさが漂い、20人ほどの作業員は皆、黙ったままうつむいていた。「もういいでしょう」と獣医師が口を開くまで。
帰宅後、風呂に入り、早く忘れたいと黙って缶ビールをあおった。「無益な殺処分に加担した」と自己嫌悪に陥りながら。翌日、体には原因不明のじんましんが出ていた。医者からは、何かショックなことが無かったか尋ねられたが、うわさや差別されるのが怖くて、何も言えなかった。云々。」
こういう実情について私は殆ど知りませんでした。「無益な殺処分に加担した」との負い目が消えず、その苦悩を負っている作業員の方々のメンタルケアーも急務だということです。
人間の都合による殺処分。一体何なんでしょう。人間とは一体何ものなのでしょうか。
今日、世界の各地域で異常気象によるさまざま災害が起こっています。これは自然災害というより、地球環境や自然の破壊による人災とも言える面が多いといわれます。
本日の詩編の言葉をかりるなら、「神に僅かに劣るものとして造られた人間」が、その造られた恵みとその使命を無視し、神の意に反して大宇宙や地球を意のままに支配してきたことへのツケが回ってきているのではないでしょうか。
それはまさに、土くれによって似姿に造られたに過ぎない者を御心に留め、恵み深いまなざしで御目を注いでくださっている天地の創造主なる神さまへの背信行為以外の何ものでもありません。
詩人は「こんな小さな私ども人間を神は御心に留めてくださり、御目を注いでくださっている」という神の恵みへの感謝と畏れをもっていました。その創造主への感謝と畏れを忘れた現代の人間社会は、この地上のよき管理者としての務めも忘れてしまったかのようです。「人間とは何ものなのでしょう」とのみ言葉が、又違った響きをもって今日の私たちに問いかけているようです。
ローマの信徒への手紙8章に次のようなみ言葉が記されております。
「全被造物もまた、神の子たちの現われるのを切に待ち望み、共にうめき、産みの苦しみを味わっています。」「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」とⅡコリント6章に記されていますように、祈り、務めてまいりましょう。