日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

人間は何ものなのでしょう。

2010-07-25 07:01:49 | メッセージ
宣 教 詩編8:2-10

今年も長雨に加えて局地的な集中豪雨によって各地に被害が出ました。都会に住み先進的な技術や情報によって守られているかのような生活をしておりますと、自然に対する感性も鈍くなってきている気もいたします。「輝く日を仰ぐとき、月星ながめる時、いかずちなりわたる時、まことのみ神を想う」という賛美歌がございますように、心からすべてを活かし治めたもう主なる神さまを讃える喜びと、その主を畏れる思いをも与えられます。

都会の大阪ではなかなか夜空の星を見ることが少ないですが。私は小学5年生の時でしたか。山口県の秋吉台で北九州地方連合の夏期聖書学校のキャンプが行われていたある晩、草原に横たわって夜空に輝く満天の星を見て感動したものです。星があまりにきれいで間近に迫るような光景でした。又、大海原とその水平線の壮大さを目の当たりにした時も、人間ってほんとうにちっぽけな存在だということを強く思わされるとともに、神様の創造のみ業の素晴らしさにただただ感嘆するばかりでありました。4節「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。月も星も、あなたが配置なさったもの。」

5節で詩人は「人間は何ものなのでしょう」、又「人の子は何ものでしょう」とうたいます。
ヘブライ語で「人間」はエノシュという言葉で、それは「無力な」「弱い」存在であるという意味が込められています。又、「人の子」はアダムという言葉で、創世記のあの最初の人であるアダムに由来し、それは「土の塵」で造られたような小さき者を表しています。
詩人は人間の「無力さ」「弱さ」、人の子の「小ささ」を引き合いに出して、人間は到底神さまの顧みを受けるに足りない者であるにも拘わらず、「神さま、あなたはこのような者を何ゆえ御心に留めてくださるのですか。何ゆえ顧みてくださるのですか」と、驚きと深い感動をもってうたいあげているのです。

神はこのような弱く、小さき人、土のちりから造られた人に、栄光と威光を冠としていただかせ、「御手によって造られたものすべて治めるように、その足もとに置かれた」というのです。「羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を渡るもの」それらすべてを治めるように、神さまは弱く、ちっぽけな人間に神の恵みの管理者として格別な使命を託されたのであります。まさにそれは創世記1章で、人は歴史の初めから神の委託を受けて、すべての生き物や動物を治めるようにと命じられていました。人はその与えられた責任に対しての畏れを忘れるわけにはいきません。さらに、ノアと神との契約において、神はノアとその子孫という人間だけでなく、大事なことですが、地のすべての生き物と祝福の契約を結んでくださったのです。

この詩は私たちに如何なる使信・メッセージを送っているのでしょうか。
昨年は新型インフルエンザが日本中に流行し脅威をもたらしましたが。今年は口蹄疫が流行し宮崎県を中心に被害が拡大し、いわれなき差別も生じ、特に牛や豚を家族のように飼っておられる方々は激しい悲しみと心の痛みを日々負っておられます。高鍋では殺処分をこれ以上は止めて欲しいと知事に申し出て一時はストップしていたようですが、先日の新聞によれば知事の考えが変わり、殺処分を再するようになったと聞いています。
日本バプテスト連盟に連なる児湯キリスト教会から発信されています「ニュース「口蹄疫」惨状」によりますと、6月19日現在で、感染・又その疑いは291件。殺処分対象は19万9284頭(牛、豚、ヤギ、羊含め)だそうです。

私はある報道を聞いて驚いたのですが、この口蹄疫というのは牛や豚にとって格別死に至るようなものではなく、感染力は強いものの1~2週間程度で自然に治っていくたぐいのものであるということでした。ではなぜ殺処分しなければならないのかというと、社会的風評から国内すべての牛や豚の消費が落ち込み、経済に混乱をもたらす恐れがあるから、というまったく人間側の都合による政策である、ということです。

宮崎日々新聞という地元誌の記事に口蹄疫の殺処分に携わっておられる作業員のことが、掲載されていたのを読み、心が痛みましたので、少し読ませて戴きます。
「産廃ボックスに約100頭の豚を詰め込み、ブルーシートをかぶせて炭酸ガスを注入。20秒後、激しく暴れる豚がぶつかる感触を、シートを抑える両腕に感じる。1分半後、絶叫がうめき声に変わる。2分後、音が途絶える。身の毛がよだつ静けさが漂い、20人ほどの作業員は皆、黙ったままうつむいていた。「もういいでしょう」と獣医師が口を開くまで。
帰宅後、風呂に入り、早く忘れたいと黙って缶ビールをあおった。「無益な殺処分に加担した」と自己嫌悪に陥りながら。翌日、体には原因不明のじんましんが出ていた。医者からは、何かショックなことが無かったか尋ねられたが、うわさや差別されるのが怖くて、何も言えなかった。云々。」

こういう実情について私は殆ど知りませんでした。「無益な殺処分に加担した」との負い目が消えず、その苦悩を負っている作業員の方々のメンタルケアーも急務だということです。
人間の都合による殺処分。一体何なんでしょう。人間とは一体何ものなのでしょうか。

今日、世界の各地域で異常気象によるさまざま災害が起こっています。これは自然災害というより、地球環境や自然の破壊による人災とも言える面が多いといわれます。
本日の詩編の言葉をかりるなら、「神に僅かに劣るものとして造られた人間」が、その造られた恵みとその使命を無視し、神の意に反して大宇宙や地球を意のままに支配してきたことへのツケが回ってきているのではないでしょうか。
それはまさに、土くれによって似姿に造られたに過ぎない者を御心に留め、恵み深いまなざしで御目を注いでくださっている天地の創造主なる神さまへの背信行為以外の何ものでもありません。

詩人は「こんな小さな私ども人間を神は御心に留めてくださり、御目を注いでくださっている」という神の恵みへの感謝と畏れをもっていました。その創造主への感謝と畏れを忘れた現代の人間社会は、この地上のよき管理者としての務めも忘れてしまったかのようです。「人間とは何ものなのでしょう」とのみ言葉が、又違った響きをもって今日の私たちに問いかけているようです。

ローマの信徒への手紙8章に次のようなみ言葉が記されております。
「全被造物もまた、神の子たちの現われるのを切に待ち望み、共にうめき、産みの苦しみを味わっています。」「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」とⅡコリント6章に記されていますように、祈り、務めてまいりましょう。
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信仰の祈り

2010-07-18 07:32:00 | メッセージ
宣 教  詩編3:1-9

この詩編は1節に「賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」という解説があります。ダビデ王といえば神の召命により油注がれて民衆にも慕われた王としても大変立派な人物でありました。しかし、その一方で、家臣の妻を自分のものにし、あげくの果てにその家臣を戦場の最前線に送り意図的に戦死させるという大きな罪を犯しました。ダビデは王の権力や地位を自我の欲望達成のために利用したのです。
一切をご存じである主は預言者ナタンをダビデのもとへ遣わし、ダビデに主の裁きを次のように告げました。「見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。」(サムエル記下12:11)神はすべてのことを見ておられ、そのことに対して義をもって裁かれるのです。まさにそのナタンの預言どおり、ダビデの息子アブサロムが、徐々に仲間につくものを増やし、遂に謀反を起こして父ダビデの命を狙い、その王座を奪い取るのです。

しかし、ダビデはそのほんとうにボロボロのような状態の中から、「主よ、それでも」という祈りをもって主に向い訴え祈るのです。罪を犯したその重荷と苦悩からもう逃げ、主に背を向けて祈ることなどできないような状態であったといえましょう。
けれども彼は、「主よ、それでも」と祈り求めます。
彼はある意味、その名をイスラエルとよばれたヤコブにも似たしたたかな信仰をもっていたといえます。ヤコブは父を騙し兄から祝福を奪い取ったような人物でしたが、生きるか死ぬかという困難を前に、夜通し神と取っ組み合いをし、救いと祝福をもぎ取ったのでした。一方ダビデも神の前に大罪を犯しましたが、ヤコブが祝福をしてもらうまでは離しませんと必死に主にしがみついていったように、ダビデも又、「主よ、それでも」と、どこまでも主により頼んでいくのであります。これが信仰の姿であります。そして又、このように祈れるのは、ダビデが「あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。あなたに向って声を上げれば、聖なる山からあなたは答えて下さる」。つまり、主を呼べば「答えて下さる」との信頼が根底にあるからです。
信仰とは神への信頼と期待です。祈りも賛美も信頼と期待を抜きにはなり立ちません。
どんな状況におかれても主に信頼して祈る。期待をもって祈る。「主よ、それでも」と祈る。これが信仰の祈りです。今週はこれだけは覚えて帰ダビデは7節で「いかに多くの民に包囲されても、決して恐れません。主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください」と祈ります。

新約聖書の福音書の記事の中に、イエスを裏切ったイスカリオテのユダが自分の犯した罪の重荷に耐え切れず自らの命を絶ったことが記されています。ユダがそこで本当に主に立ち返る道、悔い改め、主の赦しのうちに新しく生きる道を知っていれば、どんなにそのあゆみは違ったことでしょうか。
人間にとってもっとも深刻な事態それは、死への恐怖や不安ではなく、「神から離れてしまう」ことにあるのです。
人がもし重大な罪を犯してしまったなら、その犯した罪の重荷から一生逃れられるものではないでしょう。生涯恐れと不安にさいなまれ続けることでしょう。しかしそこで、まことの神の存在、十字架のあがないの主を知ることができるのなら、その人の生き方、道はまったく変わる、違ってくるのです。神から離れてしまうことの恐れを覚えるならば、主に背を向けず、逃げることなく、主に向って魂の底から悔い改め、主に立ち返って平安を得る必要があります。


本日はこの詩編から「信仰の祈り」という題をつけました。
先行きが見えず、どうしたらいいのか分からないような恐れと不安の現実の中で、「主よ、それでも」と主に信頼を置いて、ひたすら祈り求めたダビデ。彼がそのように祈ることができたのは、霊的なまなざしでもってまことの平安は主のもとにあるという確信を戴いていたから、主を仰ぎ見ることができたのです。
ヘブライ11章1節、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えていない事実を確認することです。」
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幸いなる道~根をしっかり張る

2010-07-11 08:11:53 | メッセージ
宣 教 詩編1編

このところを今回じっくり読んでいく中でとても大切なことに気づかされました。
真の神を知らされた者の2通りの生き方です。それは、実を結び、葉もしおれることのない木と風に吹き飛ばされるもみ殻に象徴されています。もみ殻というものは中身がないものです。いわばみ言葉に生きることが抜け落ちてしまったそのような有様のことです。
神に逆らうとありますが、知らないから逆らうのではありません、知っているから逆らうのです。知っていて逆らう。それが人間の罪であります。

そんな風に吹き飛ばされるもみ殻とは対照的なのが木であります。川のほとりに植えられた木のように主の教えをぐんぐん吸収し、根を張って生きる人、その人はやがて実を結び、その人のすることは様々な面で繁栄をもたらす、というのです。

先日教会の駐車場の敷地の斜面に落雷に打たれた大木の処理をK兄弟と業者の方がなさってくださったときのことです。その大木はもはや根が腐っており幹の中も空洞でしたので意外に簡単に処理ができたのです。しかし、中には切り株だけになっているのに、まだ根をしっかり張っていている大木は生きているんですね。根をしっかり張っているためにこちらはさすがに処理することはできなかったのです。

絶えることのない流れのほとりにおいて植えられた木は、熱風が他のすべての木を枯らしてしまう時にも、根をしっかり張って日ごろから水分を吸収し続けているため、しぼむことなく季節には実を結ぶことができます。それとは反対に、根をしっかり下ろして張っていないのなら、どこからその木は水や養分を吸い上げることができるでしょうか。
日々主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむことをとおして、流れのほとりに植えられた木のように、熱風が吹いても葉はしおれることもなく、時がくれば実をつける、そのような信仰者となりたいものです。

豊かに実りをもたらすかどうか。それは「根をしっかり張っているか」ということにかかっています。しっかりと信仰の根を下ろし、主のいのちの水を吸い上げて生きていきましょう。
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神学校週間

2010-07-07 07:43:46 | 巻頭言
今週は神学校週間として日本バプテスト連盟の教派神学学校である西南学院大神学部をはじめ、九州、東京の各バプテスト神学校とそこで学んでおられる献身者をおぼえて祈り、ささげる時を設けております。

私も22歳の時でしたか、この大阪教会から推薦を戴いて、4年間西南学院大神学部での学びの時を与えられました。その間奉仕神学生として久留米教会、シオン山教会、糟屋教会(当時・篠栗伝道所)の3つの教会に在籍して、実践的な現場での学びをもさせて戴きました。当時、推薦教会であった大阪教会から他の教会に出席する場合、教会籍を移すか否かという議論がありました。移すことに否定的な考え方として、推薦教会との関係が切れてしまうことへの不安、奨学金を推薦教会の名前で借り受けしているということがあったのです。しかし、大阪教会の当時の中島牧師はその行くところその行くところでの教会生活が始まったのなら、たとえ1年でもその行くところの教会にきちんと籍を移していく方がよいと押し出してくださいました。私は祈りながら、1年であってもその行くところの教会にお客さんとしてではなく、メンバーの一員として関りをもち、奉仕するため籍を移して、その教会員になることを選択しました。そうして久留米、シオン山、糟屋それぞれの教会で豊かな交わりを与えられました。
又、神学部での聖書や神学の研鑽はとても大事な時でしたが、同時に神学部の寮で同じ釜の飯を食べ、共に早朝の礼拝をささげ、祈り合い、又、時には真剣に仲間のことで激論になったり、ぶつかり合ったりした共同生活は誠に貴重な時でありました。
大阪キリスト教短大神学科での2年をあわせ6年間で得た神学校での出会い、学び、体験は、その後牧師になってから20年間の豊かな肥やしになっています。神学校と献身者を覚えて、どうぞお祈りとお支えをお願いいたします。(T・S)
                                             
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目を覚まして祈っていなさい

2010-07-04 07:12:24 | メッセージ
宣 教  マタイ26章36~46節

イエスさまご自身は、その誘惑とどのように戦われたのでしょうか。
イエスさまの今日の祈りを聞いてまいりますと、その祈りが変わっていくのがわかります。
初め、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」とご自分の思いと願いを祈られます。次には、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」とご自分の思いより神さまの御心を大事にされます。そしてさらに、「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行なわれますように」、父よ、あなたの御心こそが行なわれますようにと、祈りがだんだん変化していくのです。イエスさまは、父の御心にご自分を託し、委ねることによって、この誘惑に勝利されるのです。イエスは天の神に「父よ」と祈り続ける中で、父の御心である「杯」を受け取っていく者へ変えられていきます。この「杯」には、「苦しみを分かち合う象徴」としての意味合いがあるのです。


ここを読むと、イエスさまは三度も繰り返して祈られたとあります。文字通り一回、二回、三回ということではなく、何回も何回も何回もという意味なのですね。ですからイエスさまであっても一回御心が行なわれますようにと口に出されても、そこでまたご自分の思いや願いが湧いてきて同様に祈られる、そういった祈りの戦い、切なる祈りを繰り返して祈られる中で、遂には父の御心に自分を委ね切り、従わせて、誘惑に打ち勝たれたということであります。その事を思いますとき、私たちのように弱く移ろいやすい者が祈らなければならないのは当然のことであると思わされます。神の子でさえ、これほどに祈られたのです。

私たちは「誘惑に陥らず」、時に備えて目を覚ましているために、もっともっと「祈らなければならない」「祈り続けなければならない」ということであります。私たちはイエスさまがそうであられたように、人としての弱さ、苦悩を持って生きています。だからこそ、その弱さを認め、御心に聞いて従う生涯の歩みを通す事ができる。誘惑に遭わないように目を覚まして祈っていなければなりません。
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