日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神の約束

2009-08-30 07:14:08 | メッセージ
エレミヤ31章27節~34節  

 聖書の旧約と新約というのは約束の約であり、神と人間の間に交される契約のことであります。信仰はこの契約を基としているのです。エレミヤ書のこの箇所は、バビロニアに攻め込まれ、すでに壊滅的状況にあったユダとエルサレムの人々に対して、主が「見よ、新しい契約を結ぶ時が来る」と約束なさるところであります。新しい契約というのですから、古い契約があった訳で、それこそ主がシナイ山でモーセに授けた律法であります。
 この契約は、イスラエルの民がかつて出エジプトへと導かれた主に忠実に従うなら祝福をもたらすが、これに反して不信であるならばのろいを受けることになるという条件つきのものでした。イスラエルの民は、その神との契約を軽んじ、エレミヤの再三にわたる神に立ち帰って悔い改めて生きなさいとの警告にも拘わらず、神の律法に背き、罪を犯し続けました。そして遂に審判の時を迎え、バビロニアによってユダの国は崩壊します。
 バビロニアに捕囚として連行されたユダの人々は、異国の地にあってさまざまのことを思い巡らしたことでしょう。「なぜこんなことになってしまったのか。エレミヤがあんなこと、こんなことを言っていた。自分たちは真実な預言に耳を傾けることが出来なかった、、、」。そこで彼ら自らが、このような事態を招いたのだということを今更ながらに思い知らされたことでしょう。何もかも失ってようやくそのことに気づいた、いや気づかされたのです。そしてその暗闇の中で放たれるともし火のようなエレミヤの預言の言葉を、彼らは受けとり握り締め、それを「希望の約束」としていったのではないでしょうか。主は石の板にではなく、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、心に記す」(今も肝に銘じると言われますが、心はリバムという原語から来ている「肝」:レバーのことです)。そしてそのことをして、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」と言われるのです。
これこそ、主が古い契約を破棄なさった新しい契約(神の約束)の宣言です。
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ハートフェルトコンサートインOSAKAへのご協力感謝いたします。

2009-08-23 21:52:11 | お知らせ
今年の1月から祈り、準備をしてまいりましたハートフェルトコンサートインOSAKAが8月22日(土)クレオ大阪中央にて開催されました。当日は気候も守られ遠くより近くより多くのご来場者を迎え、出演者・スタッフ合わせて総勢600名となりました。

プログラムも出演者の小田彰先生をはじめ、田渕雅子氏、前田敦子氏、ベル・フィリア、プレイジィングリンクの方々をとおして、心に触れるコンサートとなりました。

このコンサートのためにご協力戴きました多くの諸教会・諸団体のみなさま、ほんとうにありがとうございました。心より御礼申しあげます。

又、今回の音楽コンサートをとおして、ひとつの教会だけでなく諸教会と福音宣教のビジョンをもち、協働することの大切さを知らされました。
諸教会や諸団体を訪問させて戴くなかで、「一つの教会で特伝を行うのに限界がある」「こういった企画があったらうれしい」「今後も続けるの」などというお声がありました。又、ある教会の牧師先生は、自らチラシをもって駅で配布してくださいました。こういうお話を伺いながら、背筋が正されるとともに、大変励まされました。今回の音楽コンサートが今後に活かされるなら真にうれしいかぎりです。

最後になりましたが、みなさまの上に、神さまの豊かな祝福がありますよう、お祈り申しあげます。平安

感謝にかえて     
                 日本バプテスト大阪教会 牧師 下川 俊也
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まことの平和につながる言葉

2009-08-16 06:41:56 | メッセージ
エレミヤ28章(27章参照)より

本日の箇所でエレミヤが首にはめたくびきには、旧約聖書において苦難とか柔順という意味があります。バビロン王のくびきを負うというのは、その王に柔順に仕えるということなのでしょうが、神さまが異教の王をしてそのよう言うのはおかしいと思うかも知れません。しかしバビロン王に対抗して戦争をすることではなく、神の支配下にある彼に従うことに神の意図とご計画があったのです。
罪の結果やがてユダの国にもたらされる審きの時を前に、神が示したもう逃れの道、それがバビロンへの降伏でした。そしてそれは真の神のみ声を聞き分け、従うことが出来るか否かという、最後的な神からの通告、肯定的に言えば神からの信仰のチャレンジでもあったのです。そこに平和につながる道があったのです。それは人間的な思いや感情によってなかなか理解しがたいことであります。主は、そのみ言葉に従い、バビロン王のくびきを負い、従うなら、そのことによって平和のうちに最終的にバビロンの統治が終わり、解放される日が来ると言われました。
しかし、ユダの国は神ならざるもの、安易に平和を語る者に聞き従い、神の言葉に逆らい続けたため、本当に悲惨な経験をしなければなりませんでした。エレミヤの預言は現実のものとなりました。ユダは壊滅的に崩壊し、バビロン捕囚がなされるのであります。しかし、エレミヤの言葉どおり、後にユダの捕らわれの民はバビロンから解放されるのであります。まさに9節の「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる」と言われた通りであります。現代の社会に生きる私たちもまた、まことの平和につながる言葉(たとえば:戦争の過ちから生まれた「平和憲法」)に聞き、行う者とされていきたいものです。
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まことの礼拝

2009-08-09 07:06:55 | メッセージ
エレミヤ7章1~11節

ここには神殿での礼拝時は「主の神殿、主の神殿、主の神殿」と何度も繰り返して唱え、いとも敬虔に見えても、日常では昔からの偶像神をはじめ、異教的な言い伝え、神殿があるから大丈夫といった迷信により頼んでいたエルサレムの人々の状況が記されています。もはや神を愛し、畏れ敬う心を忘れ、自分のご利益ばかりを求めてやまない人々。そこに不正や搾取の罪がはびこり、偽預言者や私服を肥やす祭司たちの偽りの言葉に惑わされていく下地ができたのであります。結局人々はまことの神ではなく、人間の作った神殿を崇拝していたに過ぎなかったわけでありますね。そういう偶像に仕えていたことの帰結が、罪にまみれた日常であったということであります。偽りの言葉、偽りの礼拝をするものは、当然日常にあっても、神のみ言葉が実を結んでいかないのです。
私たちもこういった礼拝と日常の信仰生活の二面性には気をつけなくてはなりません。バプテスマを受けているし、献金もしているし、とりあえず日曜日の礼拝に出席していればもう安心だという信仰の神話がないでしょうか。礼拝に出席して、ああ恵まれた。今日の話はまあまあやったなあと思いながら、礼拝堂から一歩外に出ると、神さまとの関りがない別の世界にチャンネルが切り替わってしまうのであれば、これはまことに残念なことであります。み言葉が生活に生きていないクリスチャン生活。それはまるで塩気のない塩、炭酸の抜けたコーラのようであります。クリスチャンではない世の人々は、そういうクリスチャンの姿をよく見ていて、それが大きな躓きとなります。み言葉を聞いたら従って生きるところに命があります。そのことによって日常に救いと変化がもたらされ、証となっていくのです。その生活の中で、日常の中で主のみ声、み言葉に聞き従って生きていくことが大切であります。
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エレミヤの召命

2009-08-02 08:13:57 | メッセージ
エレミヤ1章4~19節より

 エレミヤに臨んだ主の言葉に目を向けてみましょう。
9節、10節「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」。ここには、崩壊と滅びの中にあっても、主のみ言葉の種は芽を吹き、ユダだけでなく、やがて世界に実りを結んでいくというとてつもないことが、預言されているのであります。一見、エレミヤが南ユダ王国に蒔き続けていったみ言葉の種は、人間の目でみる限りでは芽を吹かなかった、絶え果てたように見えます。しかしその地に蒔かれたみ言葉は、やがて確かに芽を吹き、実をつけるときが訪れる、と主は言われているのです。
 主はまた、エレミヤにアーモンドの枝の幻を示して語りかけます。11節「エレミヤよ、何が見えるか。」そこにはまだ実のないアーモンドの枝だけがエレミヤの目に映ります。アーモンドの実がなっていく気配などまったくといいていいほど感じられない状態です。それはまさに当時の南ユダ王国の状況と重ねられています。人間の目からすれば、そこにまったく希望や期待を見いだすことができない状況であります。しかし厳しい冬を耐え抜いてきたアーモンドの樹木は必ず暖かい春が訪れると、その枝にアーモンドのつぼみが芽吹いてゆく。そのように語られたみ言葉は、厳しい侵略と捕囚の時を経て、必ずや花開き実を結んでゆく。主なる神さまが、それまでずっと目を覚まして見守り続けていると、おっしゃっているのです。(余談ですが、「冬、深い雪の下に眠っていた種は、春、太陽の愛をうけて、バラの花を咲かせる」との「The Rose 」の歌詞の一節が思い起こされました。)
 人の目には神から見捨てられたようにしか見えない状況。もう絶望しかない現状。私たちの人生の旅路にもそのように思えることがあるでしょう。しかし主は、「目を覚まし」ています。厳しい現実のただ中で、なお主は目を見張り、世界を、また私たち一人ひとりを見守り続けておられるのです。ユダは長い捕囚の年月を経て、バビロニアに捕らわれの身から解放され、エルサレムに帰還する日がやがて訪れます。これらの苦難の日々を通して、遂に再び主なる神への信仰の復興が起こり、エルサレムの神殿も再建され、エレミヤの名前のごとく「主は建てたもう」というみ業は成し遂げられていくのであります。
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