2018年1月1日(月)11:00より
2017年 歳晩礼拝宣教 ルカ2章22~38節
先週はクリスマス主日礼拝、キャンドルライトサービスと救い主イエス・キリストのご降誕をお祝いする喜びのときを共に持つことが出来、まことに感謝でありました。初めてこの教会で礼拝に与ったという方、久しぶりに礼拝に出ることができて喜ぶ方々もおられ感謝でした。私が大阪教会に来て、こんなにクリスマスに礼拝堂がいっぱいになったのは初めてでしたが。それは何より主ご自身がお一人おひとりを知り、覚え、導き続けていらっしゃるということです。この主を心から賛美します。
さて本日は2018年12月31日と1年最後の日が主の日と重なり、まさに歳晩主日の礼拝として捧げております。1年の大阪教会のあゆみ、そして皆さまそれぞれのあゆみがありました。
今年の初めに願った事や期待した事で、叶えられた事もあるでしょうし、いまだ課題とされる事もあるでしょう。人生に悩みは尽きません。
けれど私たちは、すべてを御手におさめ、愛をもって導き続けてくださるお方がおられることを、知っているか、いないかでは本当に天と地の違いであります。
Ⅰコリント10章13節に「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れの道をも備えていてくださる」とございますように、一切は主の御手のうちにある。そこに世にはない平安の道があります。
教会においては、激しい激しい嵐の日も多かった中で、今年1年も不思議にすべての主の日の礼拝が一度も途切れることなく、今日の歳晩礼拝を捧げることができました。
それは主の救いを必要としてこの教会を訪れるお一人おひとりのために、主が守ってくださったゆえであると信じます。
主の恵みに感謝いたします。一つひとつの恵みのできごとをかぞえつつ、主に感謝と賛美を捧げてまいりましょう。
本日はルカ2章22節~38節の「幼子イエスに救いを見たシメオンとアンナ」のエピソードより御言葉を聞いていきます。
出産後の清めの期間を経た母マリアは幼子イエスを携えて夫とともにエルサレムにのぼります。それは、神殿で彼らの初子を神に献げるためでありました。
まあこのところを引用して、礼拝の中で献児式や幼児祝福式が行なわれている教会も多いのではないでしょうか。今日は第二子を無事ご出産されて韓国から戻ってこられた、Dさん、ご長男Tくん、そして第二子のSくんもTさん共々ファミリーで礼拝に集われています。感謝です。後で「祝福のお祈り」をさせていただきたいと思います。
さて当時のユダヤの律法では、母親のきよめの期間を経てから、その初子を神に献げるという儀式があったのですが、その時に通常1才の小羊をいけにえとして献げるということが慣例であったようです。それが難しい場合は鳩を献げることが許されていました。
マリアとヨセフは鳩を献げる用意をしてたことから、その生活は質素なものであった事が伺えます。
先週のクリスマスは救い主イエスさまの御降誕を共にお祝いする礼拝を捧げましたが。その大きな喜びの知らせが真っ先に伝えられたのは羊飼いたちでした。その羊飼いたちも名もしれぬ貧しい人たちでしたが、寄る辺なき彼らは、しかしだからこそ、人一倍神を畏れて生きていた。実は神の救いを待ち望んでいた人たちであったのです。
「聖霊に導かれて」
さて、両親が神殿で鳩をいけにえとして献げようと幼子を連れて来た時。
丁度そこにシメオンという老人が霊に導かれて神殿の境内に入ってくるのです。
彼については「正しい人で信仰があつく、ローマの支配下にあったイスラエルの慰められるのを待ち望んでいる人であった」とあります。彼も又、主が臨んでくださる救いを待望している人でした。彼には「聖霊がとどまっておられて、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」というのです。
シメオンは旧約聖書に記された救い主が現れるというその預言を、ずっと握りしめ、年を重ねていく中にも、その希望は決して色あせませんでした。それは神の霊・聖霊が彼に留まり続けていたからです。
メシアに会うまで死なないとお告げを受けていましたが、待っても待ってもその日は来ない。彼はそういう中でも、神殿に出向いては祈り続け、聖霊もそのようなシメオンに留まり続けておられたのです。そして時満ちて主の霊が遂にシメオンを神殿にいた幼子イエスのもとへ導くのであります。
私たちも又、主のもとに留まり続けたシメオンのように、遂に主の御業を拝する者とされたいと願うものです。
今日の箇所にもう一人アンナという女預言者が登場します。
彼女は若いときに結婚しましたが7年後に夫と死に別れ86才になっていました。彼女は「神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」とございます。
このアンナも、シメオンと同様、主の救いをそれ程まで待ち望んでいた人であったのですね。
主の救いをいつも期待し、待ち望む信仰。主の名によって祈りの家と呼ばれる神殿を離れず、日々祈り続け、日常の中にも神に仕える思いをもって生きる。そういうライフスタイルをシメオンもアンナも長年守り続けていったんですね。そこに聖霊は留まり、神の栄光が確かに臨むのです。
私たちもそうです。聖霊の臨在、お働きに私たちは期待し、祈っているでしょうか。
主の家は祈りの家でありますから、神さまは本当に私たちが祈り備え、祈り心をもって礼拝に臨むことをどんなにか待っておられます。
「牧師が祈っていてくれる」。もちろん祈っていますが、みなさま自身が主に期待し、祈り備えていった時の礼拝とそうでない時の礼拝とは、大きく異なるでしょう。聖霊のお働きとお導きを期待し、信じて祈る。執り成して祈る。御言葉も。祝福も私に、私どもに与えてくださいと、祈って臨む。
そうしたところに主のゆたかな御業を見、その働きを体感することができるのです。
神殿には多くの人が来ていましたが、救い主イエスさまにお目にかかれたのは、このシメオンとアンナだけした。祈り続け、執り成し、仕え続ける人たちがいる。そこに教会の希望があり、主の御救いの証しが立てられていくんですね。
「幼子イエスに見た救い」
さて、シメオンが霊に導かれて神殿で幼子イエスと出会った時、彼は、幼子を腕に抱き、神をたたえてこう言います。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。この目であなたの救いを見たからです」。
彼は幼子イエスに会っただけなのに、まだ主イエスさまのお働きを目にしたわけでもないのに、彼は「この目であなたの救いを見た」と言うのです。これが「主の霊に満たされ、主の救いを待ち望んで生きる信仰者の姿だ」と、聖書は私たちに示します。
もう何度も何度も引用して恐縮ですが、ヘブライ人への手紙11章1節の「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」との御言葉はまさにそのようなことでありましょう。
シメオンはその信仰の目によって、まだ幼子のイエスさまの中に、主の御救いを見たのですね。
私たちはどうでしょうか。この信仰の目によって、生きているでしょうか。
目に見えるところの状況や世間の情勢にとらわれ左右されていると、神のご計画と祝福に気づくことができません。そこに不安や恐れ、悲観的な考えが渦巻いてしまい、せっかく用意されている恵みを台無しにしてしまうかも知れません。聖書はそのような虚しい生き方からの解放を私たちに提示します。
大切なのは「信仰の目をもって生きる道」です。まだそれを見ていないけれども、それを事実すでに成っている事として生きる。そうして生きる中に、たとえ困難な問題、八方ふさがりの状態に陥ったとしても、主の介在と解放、平安を私たちは体験するのです。
「シメオンの祝福」
さらにシメオンは信仰の目を通して、まず幼子イエスの救いについてこう語ります。
31節「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」。
その救いはユダヤ人、イスラエルの民に限ったものではなく「万民の救い、異邦人
を照らす光である」というのです。
シメオンはイスラエルの民の救いを待ち望みつつ祈って来た人であったにも拘わらず、このように語るのです。
マタイの福音書には生まれたばかりの救い主イエスさまのもとを最初に訪れたのが、異邦人の学者たちだと記しています。ユダヤ人、イスラエルの民からすれば神の祝福の契約と何の関わりもない、隔ての壁の外側にいたそういう異邦人の学者たちが、救いの希望を見ることを切に望んでやって来て、幼子イエスさまにお目にかかるのですね。
私たちはこうして始められた、全世界の救いの啓示の光に照らされている者であります。その神の恵みを、この年の瀬に思い起こし唯、感謝であります。
さらに、シメオンは両親を祝福し、重大なことをマリアに告げます。
1つは、救い主イエスは「イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められた」方だということです。
主イエスの到来によって、イスラエルの民の中には主を信じ受け入れて立ち返って救いを得る人もいる。その一方で、神の愛と救いを頑なに拒んで滅びに向かう人もいる。そのことを示しています。又、神が与えた律法の本質が見失われているようなユダヤ社会の中で、小さくされ、排除されていた人々を、主は立ち上がらせ、おごる者はいさめ、戒められましたが。彼らは悔い改めることなく、神の子を十字架にかけるという恐ろしい罪を犯してしまうのです。
シメオンは、幼子を見た時「今こそあなたの、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」と言いましたが。ここには「救いの到来、神の国の訪れを、確かにこの目で確認した」との平安を言い表わしているんですね。私どももそのような平安を日々確認する者でありたいと願います。
2つめの重大なことは、「あなた(マリア)自身も剣で心刺し貫かれます」と言っていることです。
主イエスが人類の罪の贖いを果たすために、十字架に引き渡された時。鞭打たれボロボロになった姿で苦しみながら息を引き取る我が子イエスの、そのお姿をマリアはその間近で見ることになるのですね。ほんとうに胸を刺し貫かれる思いで、その場に居合わせることとなったのです。シメオンは祝福して言ったとありますが、そのどこが祝福といえるのでしょう。
多くの人は祝福と言いますと、豊かで健康で、順調で円満でと考えます。
しかし聖書のいう祝福は自分だけが幸せだったらよいのとは違います。
ヘブライ語に「シャローム」という言葉がありますが。「こんにちは」とか挨拶で用いられる言葉ですが。それは「豊かであふれるほどの祝福があるように」ということです。このシャロームには個々人に留まらない社会全体の平和、和解、安全や健全性、そして救いまでもが、込められているのです。
シメオンは、主イエスが受けることになる苦難は「多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」と述べます。その真の救いがもたらされるためには、多くの人の心にある「罪」があらわにされる必要があるということです。
私たち、否私の中にある、神に逆らって自我をとおしていこうとする頑なな罪が、神の子の苦難と無残な死によってあらわになった。しかし、そのことをとおして、主の御救いは十全かたちで実現されていくのです。
キリスト者、クリスチャンはみんなそうです。十字架を見上げる時、自分から罪に気づかされ、神に立ち返って生きる者とされている。罪があらわになったからこそ、主の血による大いなる代償によって赦され、生かされている者とされている。それが私たちキリスト者であります。
主イエスの苦難のすべては「神の業があらわれるためであった」。イエス・キリストの苦難とその死によって、遂にイスラエルのみならず全世界、すべての人々を贖う救いの業が成し遂げられたのです。
このシメオンがマリアに語った祝福は、どんな苦難の中にあっても、主があなたと共におられるという約束です。それは十字架の苦難と死を通って復活された主イエスのいのちに与っているという約束でもございます。ハレルヤ。
明日は新年最初の元旦礼拝を献げます。
神の栄光の顕れ、神の国の到来とシャロームの実現を待ち望むシメオンとアンナのように来たる年2018年も、主イエスにある救いの道をここから歩み続けてまいりましょう。祈ります。
2017年 歳晩主日礼拝式
2017年12月31日(日)午前10時30分
2018年 元旦礼拝式
2018年1月1日(月・休)午前11時
2018年新年主日礼拝式
2018年1月7日(日)午前10時30分
「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者である。初めであり、終わりである。」ヨハネの黙示録22章13節
天地万物をお造りになり、今もすべてを統めておられる主なる神を礼拝いたしましょう。すべてのあゆみが整えられ、祝されます。みなさまのご来会をお待ち申しあげています。
メリークリスマス、救い主イエス・キリストのご降誕を心よりお祝い申しあげます。
巷では11月頃からクリスマスソングが流れ、ツリーやきらびやかなイルミネーションで飾られて、クリスマスセールなどと、教会よりも早くからわきかえっていますが。
私たちはキリスト教会暦のもと、12月3日からアドベントを守りながら、4週目の本日主の日にクリスマス礼拝を迎えました。このアドベントの期間「神の愛と救い」が肉をとって現された二人の女性、マリアとエリサベトを通して、私たちもその信仰に神の救いを黙想してまいりましたが。先週は身重のマリアが、親類のエリサベトを訪ねたところから御言葉を聞きました。
エリサベトが聖霊に満たされ「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう」と言うと、マリアは「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」と、主をあがめ、喜びたたえました。
エリサベトも子どもができなかった苦しみと、一転して高齢で子どもを宿すという悩みを通る中から、「主は今こそ、こうして、わたしに目を留めてくださった」と主を賛美します。
二人はアドベントの期間を通して、世間や世の視線がどうであれ、救い主である主がこの「わたしに目を留めてくださる」そのことを確信していったのですね。
今日も私たち一人ひとりに目を留めてくださる救いの主を覚えつつ「大いなる喜びの知らせ」と題し、クリスマスのメッセージを聞いていきたいと思います。
「家畜小屋に生まれた救い主」
ヨセフとマリアはベツレヘムに住民登録をするためにガリラヤのナザレを出立します。
距離的にはおよそ120キロ程ですが。私が2000年に聖地旅行でナザレに見学に行った時、その道は小高い丘が幾つも連なっていて、山あり谷ありという感じでした。当時は現在のように道路は整備されておりません。マリアは臨月で子どもがいつ産まれてもおかしくなかったという状態でしたから、彼らにとってそれはもう想像を超えるような険しい道のりであった事でしょう。
そうしてようやくベツレヘムの町に入るや、マリアは出産の時を迎えるのであります。
聖書はそれを「マリアは月満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶の中に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と簡潔に記しています。
それは、住民登録のために町に多くの人々が来ていて宿が取れなかった、ということはあるでしょう。けれど考えてみると、ベツレヘムは婚約者ヨセフのお里であります。親戚や知り合いも住んでいたはずです。
これは恐らく結婚前のマリアが身重になったということが何らかのかたちで親戚や知人の耳にも入り、当時としては大変なゴシップ、親族の恥というようなことで、誰も彼らを家に迎え入れる者がなかった、ということもありえます。
いずれにしてもマリアとヨセフは世間から顧みられない、もっといえば疎外されたような中、家畜小屋で救い主イエスさまを産むのです。
一体その時の誰が想像し得たでしょうか。神の御子、救い主メシアがこういうかたちで家畜小屋に生まれ、動物の食べるほし草をベットにするなどと。
しかし、それが神さまのご計画なのです。
主の御業は、世から疎外され、軽んじられ、顧みられないようなところに自らお降りになられ、そこから救いがはじまっていくのです。そうして十字架に至っては人間のどん底にまでお降りになる。その事によって全人類の贖いの業が成し遂げられるのです。
この当時、ローマの支配下にあったユダヤの人々は、様々な束縛や制限を受けた生活を強いられていました。
そのような中で人々は、預言者たちによって告げられたメシアがやがて出現し、ユダヤの人々に解放をもたらしてくれると信じていたのです。彼らが祈り待ち望んでいたのは、救世・主メシアの華々しい出現によって解放と統治がもたらされる事でした。そういういわば革命家、カリスマ的指導者を彼らは期待していたわけです。
確かに主メシアは預言通りユダの地にお生まれになりました。
しかし、それは権力のある王宮や立派な神殿にではなく、みすぼらしく薄暗い家畜小屋であった。神の愛と救いは、こうして顕され今に至ると、聖書は語るのです。
「羊飼いたちに告げ知らされた喜びの知らせ」
さて、この神の御子、主メシア、救い主の誕生の知らせが最初にもたらされたのは、「野宿をしながら夜通し羊の群の番をしていた羊飼いたち」でありました。
王宮や神殿に仕えていた宗教家たちや律法や預言に詳しかったお偉い方たちではなく、貧しく名も無い無学な羊飼いたちであったのです。
この当時の羊飼は、家もなく年中羊と共に生活していたため、安息日も守ることができません。町で豊かに暮らす人たちからすれば体裁も汚らしく、悪臭がするということで蔑(さげす)まれ、公の裁判の証人にもなることができませんでした。
そのように彼らは社会にあって様々な差別や偏見を受け、社会から孤立した生活をせざるを得なかったのです。
そんな羊飼いたちのもとに天使が現れ、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と、神の御子・救い主が「あなたがたのためにお生まれになった」と、大いなる喜びの知らせが届けられるのですね。
町の人々は思っていたでしょう。「神の救いの祝福は彼らにはない」。
けれど神の救い、主メシアは、まず社会にあって貧しく、疎外されている羊飼いたちにその姿を現してくださったのです。
もし、救い主、主メシアが王宮や神殿の中でお生まれになったとしたなら、彼らはそのお姿を決して見る事も拝する事もできなかったでしょう。彼らは隔ての壁の外におかれ、大いなる喜びの知らせ聞くことがなかったでありましょう。
神さまの救いのご計画は、救い主がきらびやかな王宮や神殿にではなく、貧しい家畜小屋にお生まれくださったことによって、世の貧しく、世にあって居場所のない人々の間に臨んだのです。そうしてそれは具体的なかたちで、主メシア、救い主がお生まれになったとの「大きな喜びの知らせ」が羊飼いたちにもたらされるのであります。
教会もそうですが、牧会というもので大事な視点は、力のある人、能力のある人に合わせ、その人を大事にしていくと争いや諍いが生じますが。弱く小さくされている人を大事にしていくとき争いは起きません。
「神の国の民」
さて、羊飼いたちはこの天使の出現とみ告げに対して「非常に驚いた」とあります。
それはただビックリしたというだけでなく、心の底から畏れの念が生じた、それは「自分たちのようなもののところに、ほんとうにもったいない」という畏れであったでしょう。
又、民の中にも数えられもしない自分たちに「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と言われたことに対する驚きであったでしょう。
ここを読むとき、私たちはこの驚くべき幸いに与った者たちが、その「主の恵みの大きさに気づく人たちであった」ということを知らされます。
主イエスはおっしゃいました。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」(ルカ6章20節b)
今日の「救い主イエス・キリストの誕生と羊飼いたちに臨んだその知らせ」のエピソードは、よく読むとこの「地上の力による統治」と「神の恵みによる統治」。言い換えれば「この世の国」と「神の国」とが対比して書かれているようです。
世の統治は、支配下におく全領土の住民をもってその権勢を示します。
住民登録は人頭税を徴収するためであり、住民の数を把握して皇帝の権力を示すものでありました。それは又、徴兵登録にも使用されるものでした。こういう形でローマ帝国は全領土の住民を管理、統治していたのです。それがこの世の権力による国であったということです。
では一方の、神の国とはどのようなものでしょうか。
まず天使は、「恐れるな。わたしは、民全体に与える大きな喜びを告げる」と語ります。
皇帝のような「全領土の住民よ」ではなく、「民全体」です。それは、ユダヤの民に限られたことでなく、ここでの民というのは「神の民」を指しています。キリストにあって今や信じる者すべて神の民とされているからです。
ところで羊飼いは、羊を数えるのを数ではなく、その名前を呼んで確認するそうです。「はい何々ちゃん」「はい誰々」と数えるんですね。しかし、その羊飼いたちは、この世の国では住民の一人にも数えられず、小さくされていた。けれども神の国が近づいた時、その民全体への救いの知らせは真っ先に名も無き彼らが呼び出されることから始められていったのです。
権威や力によるすべもない彼ら羊飼いたちは、真に神を畏れて生きていたのです。そのような神の民一人ひとりの総称が「民全体」ということなのでありましょう。
ここに主イエスの「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」とのメッセージが込められているように思います。
「主の恵みに満たされた人の役割」
さて、大きな喜びに満ち溢れた羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださった出来事を見ようではないか」と話し合った後、「急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」とあります。
一刻も早く救い主にお会いしたいという期待に胸ふくらませた羊飼いたちの思いがほんとうに伝わってくるようです。
彼らは「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」。
しかしそれだけでは終わりません。神の救いをいわば身をもって体験した彼らは「この幼子(救い主)について天使が話してくれたことを人々に知らせた」というのです。
良い知らせを先に受取った自分たちは、民全体に与えられたこの福音を皆に知らせるべきだと考えたのです。彼ら羊飼いは町の人々から日頃は差別や偏見を受け、疎外されてきました。にも拘わらず彼らはその町の中に入り、その人々に「大きな喜びの知らせを伝えた」のですね。多少は気が引けたかも知れません。町の人が自分たちの言うことを信じてくれるだろうかという考えが頭をよぎったかも知れません。けれど、神の驚くばかりの恵みを体験し、大きな喜びと感謝にあふれる彼らでしたから、もう伝えずにはいれなかったのでしょう。このような新鮮な喜びに私どもも常に与っていたいと願うものであります。
ところがです、「それを聞いた町の人たちは皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」とあります。まあ、それは羊飼いたちのように神の恵みをすぐに受取る感性が鈍くなっていた、聞いただけではにわかに信じることができなかったのでしょうが。しかし福音の証言は確かになされたわけです。後は神さまの御業なんですね。
大切なことは、羊飼いたちが大きな喜びに溢れて、救い主がお生まれになられたことを分かち合うために、大きな喜びの知らせ、福音を告げ知らせたという事実であります。
「心に納める:御言葉を受けとめる」
まあ町の人たちはそのようでありましたけれども、19節を見ますと「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めていた」とあります。
これが今日のクリスマスのメッセージのいわゆるシメになりますが。
多くの人々が羊飼いに告げ知らされたこの出来事を不思議にしか思わなかった中で、マリアは違いました。
彼女は羊飼いたちに告げられた主のお言葉を、心のうちに納めていたのです。ここでいう「心に納める」となっている言葉は、牛が草を食んで、胃袋の中に入れては口の中に戻し、そしてまた胃袋の中に入れてということを繰り返して消化していく、そのように反芻することを意味します。
マリアは御言葉を食べるように心に納めては思い起こしと何度も反芻して神の御心を求めていたということでしょう。それは御言葉の黙想や祈りによって。
このことで思い浮かんでまいりますのが、後にイエスさまが少年になった折、神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり、質問しているのを両親が見て驚き、「お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と言うところで、イエスさまが「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前です」とおっしゃったんですね。その時両親にはその意味が分からなかったのですが。それでも母マリアは「これらの事をすべて心に納めていた」と、今日の箇所と同様のことが書かれているのです。
もし彼女が神の御言葉を聞いてもその場限りで気にも留めない人だったなら、又、日常の出来事の中に神のご計画や導きを感じることがない人だったなら、どうなっていたでしょうか。果たして救いの御業は成し遂げられていたでしょうか。
「これらの出来事をすべて心に納め」、神の御心に生きたマリアがいたからこそ、主の救いの御業は成し遂げられていったと言っても過言ではないでしょう。
私たちは霊の糧である神の御言葉を、パンやご飯のように食べているでしょうか。
ちなみに今日のイエスさま誕生の地ベツレヘムは「パンの家」という意味だそうです。
私たちが毎日3度3度の食事をして健康が保たれ働くことができるように、霊の糧、命の御言葉に養われてこそ、日々神の民としてあゆむことができるのではないでしょうか。
まず羊飼いにもたらされた「大きな喜びの知らせが」、2000年という歳月、世界の国々に、そして私たち一人ひとりのもとに届けられています。私たちも又、その喜びを共にしつつ、今週もここからそれぞれの生活の場へと遣わされてまいりましょう。祈ります。
【クリスマス礼拝】
24日(日)午前10:30-12:00
クリスマスの賛美歌とメッセージのとき、ご一緒に主イエス・キリストのご降誕をお祝いします。
入場は無料ですが、自由献金はございます。
【燭火礼拝・クリスマスキャンドルライトサービス】
24日(日)午後6:00-7:00
聖夜のキャンドルライトのもとで、救い主到来の預言、キリスト誕生の予告、ご降誕と歓びを共に祝う人々と、
聖書朗読がなされ、クリスマスの賛美歌をご一緒にうたい、聖書からのメッセージを聞きます。
入場は無料ですが、自由献金はございます。
*燭火礼拝での自由献金は全額、日本聖書協会の点字聖書作製、止揚学園、釜崎キリスト教協友会、それぞれの働きのために献げます。
☆世界の救い主イエス・キリストのお誕生をお祝いするこの祝福のときを、ご一緒いたしませんか。
心より歓迎いたします!
日本バプテスト大阪教会
主の御名を讃美いたします。アドベント第3週の礼拝を共に主に捧げておりますが、来週はいよいよクリスマスの礼拝を迎えます。
「マリアとエリサベトの出会い」
先週は、天使による「救い主イエス・キリスト誕生の知らせとその御計画」をマリアが我が身に受けていくの御言葉を聞いていきました。マリアは親類のエリサベトにも子どもを宿しているとの知らせを聞きますが。今日はそのマリアがエリサベトに会いにいったというところから御言葉に聞いていきたいと思います。
エリサベトは、主の御計画により、とても高齢になって子を宿すことになります。それは世間の噂の的となり、人々から興味本位の視線にさらされることになります。そうして5ヶ月間人目を避けて家に引きこもるのですが。まあ初めての出産であり、体力的にも相当な不安や恐れの中で、マリアのこの訪問は、エリサベトにとってどれ程大きな励ましになったことでしょう。
片やマリアも、10代半ばの年若く、自分も婚約者もあずかり知らぬ妊娠です。2人とも神の御計画によって、ユダヤ社会の道徳律から、人々の視線にさらされ続けねばならなかったのです。本当に大変な状況に彼女たちは放り込まれたのですね。
人は途方もないような出来事に遭遇したとき、「ああもう自分はダメだ、独りだ」と嘆き、悶える外ないような思いに支配されてしまうのではないでしょうか。
けれども先週ありましたとおり、マリアは天使から高齢のエリサベトも又神の御心によって子どもを宿したことを知らされ、大変勇気づけられるのですね。そうして彼女は、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と、神の御旨に応えていくことができたのです。
マリアは、この事態に信仰をもって立ち向かって行くために自分の身に起こっていることを分ち合い、理解し合えるのは、まさしくこのエリサベトの存在であると、そう確信したのでありましょう。
そうした思いをもってマリアは、急いでエリサベトの住むユダの町へ向かい、天使の予告どおり子を宿しているエリサベトと出会うのであります。
本日も先にSさんの証しを伺いました。共に祈っていてくださる友の存在の大きさ。こうして主にある兄弟姉妹の証を聞く時、大いに励まされ、救いの原点を思い起こすことができます。
さて、エリサベトがマリアからの挨拶を受けると、その胎内の子がおどって、彼女は聖霊に満たされ、声高らかにマリアにこう語りだします。
「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。
マリアはただ挨拶を交わしただけなのに、まだエリサベトに何も話していないのに、マリアが自分の胎内に子どもを宿していること、又、それがエリサベトにとって「わたしの主」であること、さらに自分の胎内の子も、それを知って喜びおどったことを告げるのです。
不思議なことに、マリアはエリサベトに会ったら聞いてみたいと思っていた以上のことを、彼女から知らされることになるのです。まさに聖霊によってこの事どもが起こるのであります。
主の御業がなることを受け入れていったマリアは、同じく主のご計画に導かれるエリサベトから、そのような大いなる祝福の言葉を受けるのです。
マリアもエリサベトも、そのおかれた状況を考えれば、決して手放しに「おめでとう」などとは言えないものをその身に負うことになった訳ですが。けれどそこで「まあ、あなたも大変ねえ」とか「お互い何とか頑張っていきましょう」などとは言わないんですね。むしろ二人の出会いから生じたものは、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」という神への信頼の確信や「身分の低い、このはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」という神の御計画に対する期待であったのです。
信仰者同志の関わりは、単なる労いや励ましに終始するものではなく、神への信頼を呼び覚ますもの、神の御計画に望みを、期待を寄せていくものであることをここから知らされるのであります。
私たちにとりましては、その幸いな出来事が直接的に起こっているのが、教会です。
計り知れない主の御計画によって呼び集められ、すべてが主なる神の御手のうちにあると信じる私たち。
イエスさまが「二人、三人がわたしの名によって集まるところに、わたしもそこにいる」とおっしゃる、その私たちの間に、聖霊がゆたかにお働きくださって、主への信頼と期待。賛美へと導かれるのです。
主に望みをおく信仰の兄弟姉妹の共なる祈り、とりなし、御言葉による励ましに、どれ程、神の力が働いているかということをみなさまお一人おひとりがすでに経験していらっしゃることでしょう。
マリアは神の力と働きを確認するため、エリサベトと直接顔を合わせました。一歩踏み出して、主が備えてくださった兄弟姉妹との主イエスにある関わりを頂いて、「祈ってください」。逆に「祈っていますよ」という関係を築いていくことが、神の祝福に与る大切な要素であると思います。
「マリアの信仰の賛歌」
さて、今日はもう一つ、「マリアの賛歌」(マニフィカート)と呼ばれる箇所から、御言葉を聞いてきたいと思います。
マリアは47節で「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と高らかに賛美していますが。この「あがめる」というギリシャ語の大本の意味は「大きくする」ということです。
わたしの魂は主を大きくします。自分を小さくして神さまを主、あるじとします、ということです。
先週、48節の「はしため」という言葉は「奴隷」「しもべ」という意味だと学びましたが、同じですね。自我に仕えるのではなく主に仕える。「主」を大きくし「わたし」を小さくするということです。
そのように50節を見ると、マリアのうちに「主を畏れる」思いが強くあったことがわかります。
私たちは主への信仰をもっていると自認していても、主を畏れ敬う心で生きているかどうかは、主の御目に明らかで、主はすべてお見通しです。「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及ぶ」。この50節の御言葉は真理です。主はすべてご存じであることを畏れつつ、本物の平安を生きていきたいものです。
ところでマリアは、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」と言っていますが。彼女は異邦人が住むところと境のガリラヤ、「ガリラヤから何のよいものがでようか」といわれるようなその地の、小さなのナザレの町で育ち、しかもまだ10代半ばでした。
当時のユダヤにおける社会的地位は低かったのです。けれどもそれだから卑しめられ、不当な扱いを受ける人の祈りを知っていたでしょう。そして唯、主にのみ頼る外ないわたしたちを主は受け入れ、憐れみ:これは腸がちぎれるほどの慈愛という元の意味ですが、そういう愛をもって「わたしたちを決してお忘れになりません」と賛美するのです。
51節からの「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」とある中の6つの動詞、「力を振るう」「打ち散らす」「引き降ろす」「高く上げる」「良い物で満たす」「追い返される」とあるのは、ギリシャ語原文では完全過去不定分詞の動詞形で、「すでに行なわれた過去のことを言っているのではなく、未来に期待されることをすでに起こったこと」として述べているのです。つまり「必ずそうなるでしょう」という彼女の確信と期待、それは主への信頼なのです。ここにマリアの信仰が表明されているのです。
ヘブライ人への手紙11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあるとおりです。
そしてそれはクリスマス、救い主イエス・キリストの誕生によってその救いの御業がまさに開始されていくのです。そしてその十字架の苦難と死、復活によって救いの御業は実現するのです。神の愛と憐れみが私たち人間のお姿となってくださる。受肉してくださる。
その主の救いが現わされる日を待ち望み、互いに祈るマリアとエリサベト。
アドヴベントとはまさにこのように、祈る以外ない私たちの現実のただ中に、解放をもたらす神の恵みの出来事を待ち望む時なのです。
その御恵みは今も継続していることを聖霊が導き、明らかにしてくださるのです。
主は今日もインマヌエル、共におられる方として望みをおくものと共に、御計画と御救いを実現しておられます。
私どもも又、主に愛され守られている者として祝福の挨拶を互いに交わしつつ、来週の主のご降誕・クリスマスに備えてまいりましょう。
フィリピ2章6-8節
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でした。」
アドベント第二週の礼拝を共に主にお捧げできる恵みを感謝いたします。
招詞に読まれたヨハネ3章「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない。・・・・はっきり言っておく、だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることができない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」とございます。
本日、Nさんの信仰告白とバプテスマが主の恵みの下で行なわれました。この地上に生まれた誕生と共に、今日霊による新生、第二の誕生日をお迎えになられたこのうえない記念の日、私どもも喜びを共にでき、たいへん嬉しい限りです。
今日は先ほど読んで戴いたルカ1章26節から38節は「イエス・キリスト誕生の予告」の記事であります。いわゆる受胎告知ですが。本日はここから、マリアの信仰について聞いていきたいと思います。
イエス・キリスト誕生の予告は、このルカ福音書ではお読みになったとおりマリアにスポットライトがあてられています。一方、マタイ福音書ではマリアのいいなづけのヨセフがこの出来事をどのように受けていったか、を読み取ることができます。
私が小学生の時に通っていた教会では、毎年このアドベントの時期にクリスマスページェント(降誕劇)の練習をして、クリスマス礼拝の本番に臨んでいたことが思い起こされます。
この場面で、天使が「恵まれた女よ、おめでとう」とマリアに受胎告知いたしますと、マリアが間髪入れずに「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と、まあそんなふうに即答するのですけれども。
でもまあマリアがおかれた状況等を考えますと、そんなに「はい、ありがたいことです、どうぞ」などと言えるものではなかったでしょう。
マリアが天使の言葉を受け入れていくには相当な沈黙の時間といいますか、恐れと不安を抱え悩んでいた時間があったのではないではないかと、そう思えるのです。
今日はそんなマリアが、神のご計画を受けとめていく過程に思いを馳せながら、御言葉に聴いていきたいと思います。
マリアは婚約者のヨセフと結婚をし、平凡ですが幸せな家庭を築くはずでした。
ところが、そこに天使が現れて「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」との言葉を聞くのです。マリアは戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ、口語訳では「思い巡らした」とあります。
まあいきなり「おめでとう、恵まれた方」と言われたら、そりゃあだれでも何のこと
か、あのこと、このこと頭を駆けめぐるんじゃないでしょうか。
さらに天使はたたみかけるように、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みを戴いた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」とお告げになります。
マリアはこの天使のお告げを一体どのように聞いたことでしょうか。一方的に語られる神のご計画です。
それもまだ結婚もしていない自分が身ごもって男の子を産むというのです。
マリアはヨセフと婚約していました。ヨセフが知らないうちに胎に子を宿すということになると、婚約者のヨセフとの信頼が崩れ去るでしょう。
さらに当時のユダヤ社会では、女性がその責めを負い、姦淫罪で石打ちの刑に処せられるというマリアの身に危険が及ぶことであります。又婚約者のヨセフとの信頼関係が崩れ去る大きな危機になりかねません。どうヨセフに申し開きができるのかという危険さえありました。そういう危機感の中で、マリアはどうヨセフに申し開きができるのかという恐れと不安でいっぱいになったことでしょう。
マリアは天使の言葉に、自分の預り知らぬこの出来事ゆえに、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と答えます。
彼女は「そんなことはありえない」と、その正しさを精一杯訴えるほかなかったんですね。
しかし、その同じマリアが38節では、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と、そのように答えるのです。マリアはどうして一転して、それを受け入れることができたのでしょうか。
さて、ここでもう一人の登場人物(登場人物というのも何ですが・・・)天使にスポットをあててみましょう。
天使は「神に仕え、神のみ旨を伝えたり、人間を守護し導く存在」と言われています。
ルカ福音書によれば、マリアに主のお告げを伝えたのは大天使ガブリエルであったとあります。
先ほどお話ししたクリスマスのぺ―ジェント(降誕劇)の中で、その舞台回しをしていく役割、話を進めていく役割は、よくよく考えますとみな天使たちなのです。
マリアに天使が現れて告げる。羊飼いに天使が現れて告げる。博士たちにやはり天使が現れて告げる。その前後にはザカリアに、またヨセフにも天使が現れます。これはクリスマスの物語の一つの特徴であります。
クリスマスの出来事は天使を抜きに語ることができないのです。
今日の場面では、その天使のお告げに驚き戸惑うマリアでした。神のご計画と我が身に起こることを受け入れられず戸惑う彼女が、これも又、天使の励ましの言葉によって変えられるのであります。
天使はまず、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」と言っていますが。これは大いなる励ましであります。「あなた独りで頑張れ」と言うのではなく、「神の聖なる霊。偉大なる神の力に包まれる」というのですから。そうする中で「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。さらに天使は親類のエリサベトの話を持ち出し、先週読みましたように、大変高齢である彼らに不思議に子が与えられたことを伝えて、こう言うのです。「神にできないことは何一つない」。
人間、自分独りではないということは本当に安心しますよね。神さまのご計画を受け入れていくチャレンジを親類で近しい高齢のエリサベトが勇敢にも受け入れていった、というこの事実はどんなにマリアの胸を熱くしたでしょうか。
又、「神にできないことは何一つない」という言葉が、どんなにマリアの心を後押ししたことでしょうか。
これらの天使の言葉を聞くことによって、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言うことができたのです。ちなみに、この「はしため」という言葉はあまりよい訳ではありません。もともとギリシャ語原語のデユーロス「奴隷」「僕」という言葉なのです。マリアは「わたしは神さまにとらえられた者、神さまに無条件に仰せつかったことを成す外ない者です。仰せつかった通りになりますように」と言っているんですね。まあ10代半ばの女性がこのような信仰の言葉を言い得たというのは驚くばかりですが。
そうしてマリアは、「主があなたと共におられる」。その約束にかけて生きようとする決断をしたのです。
誰にも頼れない。親にも、いいなづけのヨセフさえ頼れないその中で、唯一つ確かな支え。それは天使の伝えた「神にできないことは何一つない」という御言葉への信頼です。まさに目に見える保証によらず、神の約束にすべてをかけて生きる決断をするマリア。
高齢のエリサベトが(バプテスマのヨハネ)を宿すというのも、このおとめマリアが救い主イエス・キリストを宿すというのも、神のご計画は人の思いを遥かに超えており、それは人の計画とは大きく異なるものであります。
差し出された神のご計画が、自分の計画や願望と異なった時、マリアのように「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」とは素直に言えないのが私たちではないでしょうか。
私たちは計算して、これくらいなら出来るだろうとか、無理だろうとか判断します。そうして計画して人生のプランを立てるのです。
けれども、そうして立てた計画に何か起こって、自分の思い描いていたものと大きく違っていこうとする時。私たちはきっと、大きく動揺して「どうして」とか「ありえない」
とかいって、すんなり受け入れられることの方がまれだと思うんですよね。
けれどもそういう中で、「主が共におられる」との約束を信じ望む者は、そこで主の言葉にかけて生きていくかどうかを迫られます。そうして「わたしは主にとらえられた者」「お言葉どおり、この身になりますように」と、これは積極的な意味で、人生を受け入れ、神の御計画に与る者に変えられていくんですね。
天使はマリアに言いました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」。考えてもみなかったような出来事の中でこそ、私たちはむしろ自分の力ではない「聖霊の力」「いと高き方の力」に包まれ、導かれます。自分には出来なかったような勇気や知恵、愛情や忍耐強さが与えられていきます。主の御心を知り、受け入れることによって私は変わる。そうだからクリスチャンの人生には希望があるのです。
そのような信仰の人生、信仰の歩み。それは決して孤独な独りぼっちの営みではありません。私の苦闘の中に、その悶々とした只中に、主は天使を送り、御言葉を与え、聖霊の臨在と、信頼への招きを与えてくださいます。教会や同信との繋がりを通して、又共に集う礼拝や祈祷会を通して、それは働かれるでありましょう。
主は何らかのサインを私たちに絶えず送り続けてくださいます。信仰に基づく柔らかな感性でそれをキャッチできる人は幸いです。
マリアは天使の言葉を心に留めて戸惑い、何度も思い巡らし、葛藤をする中で、マリア
自身の計画や思いを神さまに明け渡していくのです。そうすることによって彼女は「主の御計画」をその身に引き受けて生きる者に変えられるのです。
アドベント、待降節とは、まさにこのような神のご計画に期待していくときです。、聖霊の力、主の力に信頼して生きる備えをなす時なのです。
人の計画に遙かにまさる神の御計画に望みをおいて聖霊の力、主の力に満たされるときなのです。
今日のこの箇所を読んで準備していた時に、先日小倉に帰省する飛行機内で読みました「聖なるあきらめ」(物事に執着しない「諦め」と、物事を明らかにする「明らめ」が、
人を成熟させる、というカトリックのシスターでもある鈴木秀子さんの著書の中で「ある兵士の祈り(無名兵士の祈り)」(訳:G・グリフィン神父)が紹介されていて、とっても心に響いてきましたので、それをみなさまにもお分かちしたいと思います。
「ある無名兵士の祈り」
大きなことを成し遂げるために力が欲しいと神に求めたのに
謙虚を学ぶようにと弱さを授かった
より偉大なことが出来るように健康を求めたのに
より良いことが出来るようにと病弱を与えられた
幸せになろうと富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった
世に人々の賞賛を得ようと成功を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いは全て聞き届けられた
神の意に沿わぬものであるにもかかわらず
心の中で言い表せないものは全て叶えられた
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ
原詞は南北戦争時代に身体障害を伴う回復不能な病となった南軍無名兵士が残したものと言われています。この詩から、自分が計画していた人生が大きく変わってしまう経験をなさったのでしょう。又、期待していたいたものとは真逆の事どもが起こっていったのでしょう。けれどもこの方は、そのような中で、単なる諦めとは全く違う、それは希望とも呼べるような信仰の詩を綴っているんですね。
このアドベントの日々が、私たちにとりましても「聖霊の力、神の力に包まれ」、主の御心を知り、行なう者となれますよう祈り期待しつつ、それぞれの場へ遣わされてまいりましょう。
本日からクリスマスを待ち望むアドベント(待降節)に入りました。
12月はルカ福音書の1章、2章を丁寧に読みながら、御言葉に聞いていきます。
本日の箇所は、イエス・キリストの誕生に先駆け、悔い改めのバプテスマ(洗礼)を施した「バプテスマのヨハネ」の誕生についての記事であります。
その前に、この福音書の序文、一番はじまりのところから読みました。
「序文に映えるメッセージ」
4つの福音書の序文、初めの言葉はそれぞれの福音書の特長や目的がよく表われています。例えば、マタイ福音書の序文には、「イエス・キリストの系図」が記されています。ここには救い主イエスは、信仰の父祖であるアブラハムの子孫であり、イスラエルの民を守り治めたダビデ王の子孫としてお生まれになった。神の子であり王である救い主、メシアとしてイエス・キリストはお生まれになった、ということがこの序文から読み取れます。
又、マルコ福音書の場合は、イエス・キリストの誕生の記事はありませんが、その序文には「神の子イエス・キリストの福音の初め」となっております。それは、神の子イエス・キリストがそのご生涯を通して、「神の国」とその「福音」についてお示しになられたということを、この序文から読み取ることができます。
では、このルカ福音書の序文はどうなっているかといいますと、ルカは「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々が私たちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと多くの人々が既に手を着けています」とあります。
この「わたしたちの間で実現した事柄」というのは、イエス・キリストの十字架の贖いの業と復活の希望であり、聖霊の御業です。その実現した業に、それはまさに福音という喜びの知らせに、今日私たちも与っているわけであります。
私が今日ここを読む時、特にこの「わたしたちの間で」という言葉が心に留まりました。
同じルカ福音書の17章でファリサイ派の人々が「神の国はいつ来るのか」とイエスさまに尋ねた時、イエスさまはこう言われています。
「神の国は、見える形では来ない。「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われました。いうならば、「神の国はあなたがたの間に実現しているのだ」ということですね。
イエスさまは続けて、「神の国は見える形で来ない」とおっしゃっていますが。それはファリサイ派の人たちが多くの民衆が見える形での解放や統治を期待し、それを先導するような指導者、王となるようなヒーロー的な人物を待ち望んでいたからです。そういう救済者メシアが出現することを彼らは神の国の到来と結びつけて考えていたのです。
政治的改革、よい社会革命、それを先導するような人物を求めていくのは人の常ですが。
イエスさまは「神の国はそういう見える形の理想世界とは違う」「あんな社会がいい、こんな生活がいいというようなものではない」とおっしゃるんですね。
①「隠れた神の御計画と御業」
前置きが長くなりましたが、では「神の国」は如何にして、わたしたちの間で実現していくのか、今日のエピソードから聞いていきたいと思います。
5節から登場する、神にお仕えしていた祭司ザカリヤも、又その妻エリサベトも由緒あるアロン家の娘として育ち、二人とも「神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」と記されています。
ユダヤ人として模範的な生き方を彼らはしていたのでしょう。彼らには子供がいませんでした。又、すでに年をとっていたということです。
今、現代は本当にそれぞれの生き方、ライフスタイルが尊重されるようになり、それにとやかく言う方が世間知らずと言われるほどですが。この当時の時代のことですから、ザカリヤもエリサベトも無神経な言葉に随分と悔しく悲しい思いをしてきたんじゃないでしょうか。
又、神の民としての祝福を継承していくことを大変重んずるユダヤの社会でありましたから、人からならぬ祈りがそこにあったでしょう。「神よ、どうして顧みて下さらないのか?」という思いもあったのではないでしょうか。しかし、彼らも年をとり、もはやその期待すら薄れていたのかも知れません。
そうしたある時、ザカリヤが「主の聖所に入って香をたく」大役のくじを引き当てるのです。これも主の御計画であることが、天使ガブリエルの出現によって明らかになるのであります。
その天使はザカリヤに「恐れることはない。ザカリヤ、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。(ヨハネとは主は恵み深いという意味)」その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。
確かにその後ヨハネの誕生は、人々に神に対する畏れと期待を呼び覚ましました。
「この子は将来どんな人になるのだろう」と人々は言ったとありますが。ヨハネは後に救い主イエスが来られるための道を備える人となって人々に歓迎されるのです。
ザカリヤは天使の言葉に対して、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と言うのですが。まあ彼はとても常識のある人だったようです。「自分が望んでいた時期、タイミングとあまりに大きなズレがある。今さらあり得ないし、世間も何というだろうか」といろんなことが頭の中をかけ巡ったのかも知れません。
天使はそのザカリヤに対して、「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と宣言します。
ザカリヤは非の打ちどころのない正しい人ではありましたが、もしかしたら彼の心の内に「正しくなければ」「常識的でなければ」といった神の正しさよりも人の考える正しさを優先してしまう思いがあったのかも知れません。しかしだれも彼を笑うことはできません。私たちはなかなか神さまの御心をキャッチする事のできない鈍感な存在です。
聖書は、見えるから、証拠があるから信じ、受け入れるというのは信仰ではないといっています。ここでは天使もそのようにいっています。
信仰とは、ただ神の御言葉をまっすぐに信じ、受けることでしかないのです。
もう何度も礼拝でヘブライ11章1節「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」との御言葉を引用していますが。そのように「まだ目には見えていないが、それを事実として受け取って生きていく」そのところに、「神の御業の確認が日々起こされていくのですね。そのようなワクワクする信仰の歩みを日々続けていきたいですね。
話を戻しますが、天使はザカリヤが「口が利けなくなり・・・話すことができなくなるのは、わたしの言葉を信じなかったからである」と語っています。これは信じなかったがゆえの結果とも言えます。しかしこれも又、後には神の栄光が顕されるための御計画であったとも言えるでしょう。なぜならそこには、「この事の起こる日まで」、つまり「二人に子供が与えられて、その子にヨハネという名がつけられる時まで」という期限がつけられているからです。「この事の起こった日」57節以降、口が利けなかったザカリヤに、エリサベトが「この子に何と名をつけたいか」と手振りで尋ねたら、彼が字を書く板に「この子の名はヨハネ」と書くと、たちまちザカリヤの口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」と記されていますね。
口が利けるようになるまでの期間というのは沈黙の中で先に申しました、彼の中にある自分の思いや常識や価値観と、ただひたすら真っ直ぐ神の言葉に聞いていくこととの葛藤の時であったのでしょう。もし彼の沈黙が守られなかったなら、彼の自我が言葉となって噴出したかも知れません。けれどもその沈黙の時を経てザカリヤは守られたんですね。アーメン。
私たちの疑いや不信は神さまの御計画、御業を止めることなどできません。アーメン。
神さまは信じることができなかったザカリヤに、話すことができない期間を設けることによって、遂にその実現の時まで彼を導かれたのです。「あなたの願いは聞かれた」というお約束がこうして実現するのです。
そしてザカリヤもその主の恵みに与ることにより、自分の正しさではなく、主の正しさに信頼して生きる信仰者として立つことができたのです。それは、「主の御計画とその実現の時まで」主がお導き下さる、という力強いメッセージなのです。
②「私たちの願いは聞き入れられている」
今日はもう一つ、この「あなたの願いは聞き入れられた」という天使が告げた主の御言葉は、ザカリヤ独りの喜びと解放の事柄としてではなく、妻のエリサベトの喜びと解放の事柄につながっていたということであります。
25節にあるとおり、「エリサベトは自分が神から忘れ去られていたわけでは決してなく、主はずっと目を留めていて下さっていたことを知る」のです。又、「主こそ、彼女と人々の間に神の国をもたらして下さるお方であることを知る」のです。さらに58節では、「主がエリサベトを大いに慈しまれたことを聞いた近所の人々や親類は、喜び合った」とあります。解放と和解の福音が脈打っているのです。
主イエスがおっしゃった「神の国はあなたがたの間にあるのだ」(17章21節)との御言葉を彷彿とさせる出来事がここに起こされていくのです。神の恵みと御計画とは「個人」だけに働くのではなく、人と人の関係性の中に神の国は実現されていくんですね。このメッセージを私たちも共に聞いていきたいものです。
きっと今日の宣教題のように「私たちの願いは聞き入れられた」ということを、共に体験し、共に喜びを分かち合う時を主が必ず備え導いて下さると、信じます。
今教会では、病を抱えておられる方が多くおられます。又、しばらく教会の礼拝にお見えになられていない方もおられます。又、それぞれが抱えておられる課題がございます。ご家族や愛する人たちが、そういう状況におられる方もいらっしゃいます。
共に覚え合い、関心を向け、益々主に執り成し、祈っていくことは、主の恵みをさらに豊かに与り、分かち合うことにもなっていくでしょう。
私たちの間にそのような神の国の実現がこれからも益々ゆたかに起こされていきますように。又、忍耐強く愛をもって祈り続けていくことができますように。
今週も主ご自身に信頼しつつ、ここからそれぞれの場へ遣わされてまいりましょう。