宣教 列王記上17章1~16節
「お帰りなさい」。今日は私も「ただいま」と申しあげます。七日間の夏季休暇を戴き、郷里福岡に帰省し、リフレッシュして帰ってくることができました。19日は大阪教会の礼拝が主にあって捧げられましたことを感謝いたします。私たち家族は新会堂となった西南学院教会で礼拝を捧げ、礼拝牧師夫人が礼拝堂をはじめ各設備を懇切丁寧に説明しながら案内くださいました。西南学院教会はまあ何でもビッグサイズで、立派な教会堂でした。21日の火曜日は久山療育園のワークキャンプに家族で一日のみ部分参加し、草取り作業、入所者とのふれあい、又天神での街頭募金活動などにも勤しむことができ、懐かしい方がたともお会いする時が与えられ、充実した一日となり、ほんとうに感謝でした。お祈りありがとうございました。
先週の礼拝で読まれた列王記11章には、神殿建設を成し遂げた後のソロモン王の偶像礼拝と神への背信、その末路について記されていました。ソロモン王の神さまへの背信と罪の結果、一つであったイスラエル王国は北イスラエルと南ユダの二つの王国に分断されるという事態を招きます。
本日の箇所は北イスラエル王国のアハブ王の時代のことが記されていますが、このアハブ王はいわゆる悪王であり、その諸悪については16章に詳しく書かれてあります。
彼はシドン人の王の娘イゼベルとの結婚により、異教のバアル神の礼拝所を設置し、さらに北イスラエルの都サマリヤにまでバアルの神殿や祭壇を建て、その民に偶像礼拝を推奨し、自ら進んでそれを行いました。北と南に分裂する前の統一王国時代のソロモン王は、シドンの女神アシュトレトと異教の神ミルコムに礼拝をささげて主なる神への背信行為を犯しましたが、このアハブ王も又、ソロモン王と同じ過ちを繰り返したわけです。その最たる罪は、一人の権力者アハブ王によってもたらされた偶像礼拝が、その民全体に広がったということであります。
①「神の言葉に聴き従う人」
この一人の悪王によって民の心は偶像礼拝に向かい、生ける神の怒りを招いたのであります。そうして遂に預言者として遣わされたのがエリヤであります。彼の人となりについてはギレアドの住民でテシュベル人であったということ以外、何も記されていません。
彼が誰の子で、どういう家系かということについて何も触れられていないのです。それはこのエリヤという人が、何か身分や位のある人から、あるいは権力のあるものから遣わされたのではなく、直接「神から遣わされた預言者」であるということを表しているようです。言い方は悪いですが、「どこの馬の骨かわからない」。しかし、ただ神によって、神から遣わされた人、それがエリヤなのであります。
彼はアハブ王の前にただ一人で出て行き、主の言葉をまっすぐに伝えます。
「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」。これは、その生ける主に背くアハブへのいやみともとれますが、エリヤは1節「わたしが告げるまで(主のお言葉があるまで)数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」とそのように主の言葉を伝えるのであります。すごい度胸といいますか、一国の王様の前でよくぞ言ったものだと思いますが。きっとエリヤだって不安や恐れがなかったわけではないでしょう。
しかし、彼は王ではなくすべての命を司る生ける神をこそ畏れる人であったのです。
さて、神が天を閉じ、雨も降らず、露も降りない、となりますと、これは一大事であります。飲み水だけでなく、野菜も作物も採れなくなり、飢餓が来ます。けれども、そのような主の言葉を聞いたアハブ王が畏れの念を持ち、悔い改めたかといえば、そうではなく、逆にエリヤは命を狙われることになります。多少雨が降らなかったといって、蓄えや他国との物流もあるというおごりがあったのかも知れません。現代に生きる私たちもまさにそのようではないでしょうか。私たちの国においても昨年東日本大震災と原発事故が起こり、飲料水や生鮮食品など食生活について様々な不安が募っています。さらに局地的な大雨による水害が度重なり、お米や農作物に多大な被害が及んでおります。米国でも大豆の先物価格が急騰しているそうですが。とはいえ、ス―パ―に行けばあらゆる食物が豊かに並び、雨は降らなくとも蛇口をひねれば水が出るという生活の中で、この時代に対する神の御心を聴き分けることができなくなっているのではないでしょうか。
今日まずここで、預言者エリヤを通して注目すべきは、「わたしが告げるまで」、すなわち「主の言葉があるまで」という点であります。大地に露も雨も降らないこの危機的状況は、「主の言葉の飢饉」の状態を実は指しているのです。御言葉がないという危機的状況をアハブ王は全く理解できません。今日の日本のこの状況の只中で、私たちはたとえ小さくとも、この時代に向けて語られる主の御言葉を切に祈り求め、真摯に聴き従ってまいりましょう。
②「神の計らいと養い」
さて2節、「主の言葉がエリヤに臨みました。主はエリヤに、「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリト川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる」と語られます。
主の御言葉を忠実に行なうエリヤに主は共におられ、災いから守られるよう計らってくださるのです。
このケリトの川というのは「断ち切られた小川」という意味があるそうで、その川のほとりはまさに分断され、人里離れた寂しい地でありました。当然食べ物も無いようなところであり、誰だってそのような処に行きたいとは思わない場所です。
けれどもエリヤはここでも、「主が言われたとおり直ちに行動し、ヨルダン川の東にあるケリト川のほとりに行き、そこにとどまるのです」。まあ着いてみればやはりそこは本当に糧を得られない何もないような寂しい地でありました。エリヤも人の子であります。主の導きとはいえ、不安や心配がなかったはずはありません。
私どもも時に、神のみ心だと確信し歩み出したものの、自分の考えた通りではない事態が起こって、これははたして本当に御心であったのか?自分の判断は正しかったのか?と思いあぐねるといったことがないでしょうか。しかし主は、その名を呼び求める者の道を知っていてくださるのです。
このエリヤでありますが、何とカラスが毎日朝と夕の2回、パンと肉を彼のところに運んで来て、水もその川から汲んで飲むことができ、飢え渇きを十分しのぐことができたというのであります。主はカラスを用いてエリヤを養ってくださったのです。
しかし、カラスが人間にパンや肉を運んでくるなんて何ともユニークです。カラスといえば生ごみや残飯の入ったごみ袋を突いて物色し、辺りかまわず散らかしまくって去っていくという迷惑ものという印象がありますので、そのような人助けのできる配慮に富んだカラスも居るのかと思ってしまいますが。このカラスですけども、実はイエスさまのお話にも登場してまいります。それはルカ12章24節です。イエスさまはカラスを引き合いに出しこうおっしゃいました。「カラスのことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神はカラスを養ってくださる」。神はカラスにも深いご配慮といつくしみ深い思いをもっておられるのです。まあ旧約聖書の世界でも、カラスは汚れた鳥として食べることが禁じられていたとか、人の目を突き、荒れ果てたような地に住みつくことから嫌われ、不気味な鳥として見られていたのです。けれども神の目からご覧になれば、つまらないもの、存在価値のないものでは決してないとうことです。イエスさまは敢えて空を飛ぶ鳥の中からカラスを選び、そんなカラスでさえ神は養って下さる。ましてやあなたがたは、鳥よりどれほど値打ちあることか。だから思い煩わなくともよいとおっしゃっているんですね。
神はこのカラスを用いて、身も心も疲れ果て、不安と恐れにさいなまれていたエリヤにパンと肉を毎日朝と夕の2回運ばせなさったのです。孤立無縁、孤独であったエリヤに、嫌われもののカラスが寄り添うように日々食物をもってきた。
私たちも行き詰まったように思える時、万策尽きたと思いあぐねるその時、主は不思議とみ言葉を与え、導かれ、人を遣わして、道を開いてくださいます。
エリヤはどんなにか神のご配慮とその計らいによる支えに、身も心も魂をも強められたことでしょう。逆に名もなき小さな私たちがこのカラスではありませんが、主の名のもとに遣わされ用いられることもあるでしょう。まさに、主は御言葉に聴き従う人の道をご存じでおられ、行く先々の必要と助けを送ってくださる、また遣わしてくださいます。それが私たちの生ける真の神さまなのです。
③「何を第一とするか」
今日のこの箇所にはもう一つのエピソードが記されてあります。
ケリトの川のほとりでカラスに養われたエリヤでありましたしたが、この地方に雨が降らなくなり、川は枯れてしまい飲み水もなくなってしまいます。
そのとき主の言葉がエリヤに臨みます。8節「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」。
エリヤは主の言葉どおりに、立ってサレプタの町に行きます。シドンは異教徒の地でありましたから、エリヤにとってその町へ入ることには躊躇や戸惑いがあったと思われます。 ある意味エリヤの御言葉に聴き従う信仰が主に試されます。
彼は一人のやもめを見つけると、まず「水を飲ませてください」と声をかけ、この人こそ主がおっしゃったやもめと確信すると、さらに「パンも一切れ、手にもって来てください」と言います。
するとこのやもめは答えます。「わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしとわたしの息子の食べ物を作ってそれを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」。
そこでエリヤはこう言います。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」。
エリヤはこの貧しいやもめを前にして遠慮や迷いがなかったのでしょうか。何もこんな困窮している人でなくても、この地方には他に食物を提供することのできる家があったのではないでしょうか。ところが、主はこの何も持たないような、何も頼るものがないようなこのやもめをお用いなさるのです。かえってその主にすがる他ないような貧しさゆえに彼女をお用いになることができた、といえるかも知れません。
一方、エリヤは主の言葉に期待し、信頼していく者を豊かに祝福してくださる生ける神と、その言葉を確信していたからこそ、そのようなやもめにパンを要求し、このように言う事ができたのではないでしょうか。
ここでエリヤが「まずわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい」と言っていますが、その本意は、「まず、すべてを造り、すべてを治めておられる主なる神さまに、それを捧げなさい」ということです。エリヤは異教のやもめに生ける主なる神さまを指し示し、その「神さまに信頼をし、従って命を得なさい。主はあなたがたを顧みてくださる」と、証しし、信仰のチャレンジをなげかけたのであります。
エリヤから御言葉を聴いたやもめは、「行ってエリヤの言葉どおりにした」とあります。
壺の粉も瓶の油もあとごく僅かしかなかった。いやむしろ一食分でなくなるほどであったからこそ、彼女はエリヤから聴いたお言葉にかけていったのでありましょう。
すると、どうでしょう。「彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった」というのです。このエピソードが強調していることは、「まず何を第一としていくか」という御言葉であります。そこには信仰が問われます。今日私は何を第一として生きるのでしょうか。イエスさまは言われます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。
私たちもまた、神との交わり、人との関わり、生の全領域において、まず神の国と神の義を求めていくことが求められています。そして何よりも、私たちがそのように生きていくところに、主の祝福の約束があることを、今日心新たに確認したいと思います。今日の箇所から「主の言葉は真実である」との恵みの体験と、神の国の豊かな交わりに希望をもって共に与ってまいりましょう。
「お帰りなさい」。今日は私も「ただいま」と申しあげます。七日間の夏季休暇を戴き、郷里福岡に帰省し、リフレッシュして帰ってくることができました。19日は大阪教会の礼拝が主にあって捧げられましたことを感謝いたします。私たち家族は新会堂となった西南学院教会で礼拝を捧げ、礼拝牧師夫人が礼拝堂をはじめ各設備を懇切丁寧に説明しながら案内くださいました。西南学院教会はまあ何でもビッグサイズで、立派な教会堂でした。21日の火曜日は久山療育園のワークキャンプに家族で一日のみ部分参加し、草取り作業、入所者とのふれあい、又天神での街頭募金活動などにも勤しむことができ、懐かしい方がたともお会いする時が与えられ、充実した一日となり、ほんとうに感謝でした。お祈りありがとうございました。
先週の礼拝で読まれた列王記11章には、神殿建設を成し遂げた後のソロモン王の偶像礼拝と神への背信、その末路について記されていました。ソロモン王の神さまへの背信と罪の結果、一つであったイスラエル王国は北イスラエルと南ユダの二つの王国に分断されるという事態を招きます。
本日の箇所は北イスラエル王国のアハブ王の時代のことが記されていますが、このアハブ王はいわゆる悪王であり、その諸悪については16章に詳しく書かれてあります。
彼はシドン人の王の娘イゼベルとの結婚により、異教のバアル神の礼拝所を設置し、さらに北イスラエルの都サマリヤにまでバアルの神殿や祭壇を建て、その民に偶像礼拝を推奨し、自ら進んでそれを行いました。北と南に分裂する前の統一王国時代のソロモン王は、シドンの女神アシュトレトと異教の神ミルコムに礼拝をささげて主なる神への背信行為を犯しましたが、このアハブ王も又、ソロモン王と同じ過ちを繰り返したわけです。その最たる罪は、一人の権力者アハブ王によってもたらされた偶像礼拝が、その民全体に広がったということであります。
①「神の言葉に聴き従う人」
この一人の悪王によって民の心は偶像礼拝に向かい、生ける神の怒りを招いたのであります。そうして遂に預言者として遣わされたのがエリヤであります。彼の人となりについてはギレアドの住民でテシュベル人であったということ以外、何も記されていません。
彼が誰の子で、どういう家系かということについて何も触れられていないのです。それはこのエリヤという人が、何か身分や位のある人から、あるいは権力のあるものから遣わされたのではなく、直接「神から遣わされた預言者」であるということを表しているようです。言い方は悪いですが、「どこの馬の骨かわからない」。しかし、ただ神によって、神から遣わされた人、それがエリヤなのであります。
彼はアハブ王の前にただ一人で出て行き、主の言葉をまっすぐに伝えます。
「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」。これは、その生ける主に背くアハブへのいやみともとれますが、エリヤは1節「わたしが告げるまで(主のお言葉があるまで)数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」とそのように主の言葉を伝えるのであります。すごい度胸といいますか、一国の王様の前でよくぞ言ったものだと思いますが。きっとエリヤだって不安や恐れがなかったわけではないでしょう。
しかし、彼は王ではなくすべての命を司る生ける神をこそ畏れる人であったのです。
さて、神が天を閉じ、雨も降らず、露も降りない、となりますと、これは一大事であります。飲み水だけでなく、野菜も作物も採れなくなり、飢餓が来ます。けれども、そのような主の言葉を聞いたアハブ王が畏れの念を持ち、悔い改めたかといえば、そうではなく、逆にエリヤは命を狙われることになります。多少雨が降らなかったといって、蓄えや他国との物流もあるというおごりがあったのかも知れません。現代に生きる私たちもまさにそのようではないでしょうか。私たちの国においても昨年東日本大震災と原発事故が起こり、飲料水や生鮮食品など食生活について様々な不安が募っています。さらに局地的な大雨による水害が度重なり、お米や農作物に多大な被害が及んでおります。米国でも大豆の先物価格が急騰しているそうですが。とはいえ、ス―パ―に行けばあらゆる食物が豊かに並び、雨は降らなくとも蛇口をひねれば水が出るという生活の中で、この時代に対する神の御心を聴き分けることができなくなっているのではないでしょうか。
今日まずここで、預言者エリヤを通して注目すべきは、「わたしが告げるまで」、すなわち「主の言葉があるまで」という点であります。大地に露も雨も降らないこの危機的状況は、「主の言葉の飢饉」の状態を実は指しているのです。御言葉がないという危機的状況をアハブ王は全く理解できません。今日の日本のこの状況の只中で、私たちはたとえ小さくとも、この時代に向けて語られる主の御言葉を切に祈り求め、真摯に聴き従ってまいりましょう。
②「神の計らいと養い」
さて2節、「主の言葉がエリヤに臨みました。主はエリヤに、「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリト川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる」と語られます。
主の御言葉を忠実に行なうエリヤに主は共におられ、災いから守られるよう計らってくださるのです。
このケリトの川というのは「断ち切られた小川」という意味があるそうで、その川のほとりはまさに分断され、人里離れた寂しい地でありました。当然食べ物も無いようなところであり、誰だってそのような処に行きたいとは思わない場所です。
けれどもエリヤはここでも、「主が言われたとおり直ちに行動し、ヨルダン川の東にあるケリト川のほとりに行き、そこにとどまるのです」。まあ着いてみればやはりそこは本当に糧を得られない何もないような寂しい地でありました。エリヤも人の子であります。主の導きとはいえ、不安や心配がなかったはずはありません。
私どもも時に、神のみ心だと確信し歩み出したものの、自分の考えた通りではない事態が起こって、これははたして本当に御心であったのか?自分の判断は正しかったのか?と思いあぐねるといったことがないでしょうか。しかし主は、その名を呼び求める者の道を知っていてくださるのです。
このエリヤでありますが、何とカラスが毎日朝と夕の2回、パンと肉を彼のところに運んで来て、水もその川から汲んで飲むことができ、飢え渇きを十分しのぐことができたというのであります。主はカラスを用いてエリヤを養ってくださったのです。
しかし、カラスが人間にパンや肉を運んでくるなんて何ともユニークです。カラスといえば生ごみや残飯の入ったごみ袋を突いて物色し、辺りかまわず散らかしまくって去っていくという迷惑ものという印象がありますので、そのような人助けのできる配慮に富んだカラスも居るのかと思ってしまいますが。このカラスですけども、実はイエスさまのお話にも登場してまいります。それはルカ12章24節です。イエスさまはカラスを引き合いに出しこうおっしゃいました。「カラスのことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神はカラスを養ってくださる」。神はカラスにも深いご配慮といつくしみ深い思いをもっておられるのです。まあ旧約聖書の世界でも、カラスは汚れた鳥として食べることが禁じられていたとか、人の目を突き、荒れ果てたような地に住みつくことから嫌われ、不気味な鳥として見られていたのです。けれども神の目からご覧になれば、つまらないもの、存在価値のないものでは決してないとうことです。イエスさまは敢えて空を飛ぶ鳥の中からカラスを選び、そんなカラスでさえ神は養って下さる。ましてやあなたがたは、鳥よりどれほど値打ちあることか。だから思い煩わなくともよいとおっしゃっているんですね。
神はこのカラスを用いて、身も心も疲れ果て、不安と恐れにさいなまれていたエリヤにパンと肉を毎日朝と夕の2回運ばせなさったのです。孤立無縁、孤独であったエリヤに、嫌われもののカラスが寄り添うように日々食物をもってきた。
私たちも行き詰まったように思える時、万策尽きたと思いあぐねるその時、主は不思議とみ言葉を与え、導かれ、人を遣わして、道を開いてくださいます。
エリヤはどんなにか神のご配慮とその計らいによる支えに、身も心も魂をも強められたことでしょう。逆に名もなき小さな私たちがこのカラスではありませんが、主の名のもとに遣わされ用いられることもあるでしょう。まさに、主は御言葉に聴き従う人の道をご存じでおられ、行く先々の必要と助けを送ってくださる、また遣わしてくださいます。それが私たちの生ける真の神さまなのです。
③「何を第一とするか」
今日のこの箇所にはもう一つのエピソードが記されてあります。
ケリトの川のほとりでカラスに養われたエリヤでありましたしたが、この地方に雨が降らなくなり、川は枯れてしまい飲み水もなくなってしまいます。
そのとき主の言葉がエリヤに臨みます。8節「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」。
エリヤは主の言葉どおりに、立ってサレプタの町に行きます。シドンは異教徒の地でありましたから、エリヤにとってその町へ入ることには躊躇や戸惑いがあったと思われます。 ある意味エリヤの御言葉に聴き従う信仰が主に試されます。
彼は一人のやもめを見つけると、まず「水を飲ませてください」と声をかけ、この人こそ主がおっしゃったやもめと確信すると、さらに「パンも一切れ、手にもって来てください」と言います。
するとこのやもめは答えます。「わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしとわたしの息子の食べ物を作ってそれを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」。
そこでエリヤはこう言います。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」。
エリヤはこの貧しいやもめを前にして遠慮や迷いがなかったのでしょうか。何もこんな困窮している人でなくても、この地方には他に食物を提供することのできる家があったのではないでしょうか。ところが、主はこの何も持たないような、何も頼るものがないようなこのやもめをお用いなさるのです。かえってその主にすがる他ないような貧しさゆえに彼女をお用いになることができた、といえるかも知れません。
一方、エリヤは主の言葉に期待し、信頼していく者を豊かに祝福してくださる生ける神と、その言葉を確信していたからこそ、そのようなやもめにパンを要求し、このように言う事ができたのではないでしょうか。
ここでエリヤが「まずわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい」と言っていますが、その本意は、「まず、すべてを造り、すべてを治めておられる主なる神さまに、それを捧げなさい」ということです。エリヤは異教のやもめに生ける主なる神さまを指し示し、その「神さまに信頼をし、従って命を得なさい。主はあなたがたを顧みてくださる」と、証しし、信仰のチャレンジをなげかけたのであります。
エリヤから御言葉を聴いたやもめは、「行ってエリヤの言葉どおりにした」とあります。
壺の粉も瓶の油もあとごく僅かしかなかった。いやむしろ一食分でなくなるほどであったからこそ、彼女はエリヤから聴いたお言葉にかけていったのでありましょう。
すると、どうでしょう。「彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった」というのです。このエピソードが強調していることは、「まず何を第一としていくか」という御言葉であります。そこには信仰が問われます。今日私は何を第一として生きるのでしょうか。イエスさまは言われます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。
私たちもまた、神との交わり、人との関わり、生の全領域において、まず神の国と神の義を求めていくことが求められています。そして何よりも、私たちがそのように生きていくところに、主の祝福の約束があることを、今日心新たに確認したいと思います。今日の箇所から「主の言葉は真実である」との恵みの体験と、神の国の豊かな交わりに希望をもって共に与ってまいりましょう。