日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

春の特別集会&チャペルコンサート ご案内

2015-04-22 08:41:34 | お知らせ

① 特別集会

日時 4月26日(日)午前10時30分

講師:中野 博誉さん 
  (日本バプテスト同盟高槻バプテスト教会牧師、ピアニスト)

メッセージ 「もし悲しみが無かったら」

聖書 マタイによる福音書5章3-4節より

ピアノ曲目 「アメージンググレース」
      「主よ、人の望みの喜びよ」

席上、自由献金がございます。


☆聖書の説き明かしと、ピアノの奏から祈りと希望の
 メッセージをいただきます。


どなたでもお気軽にいらしてください。

心から歓迎いたします。


*JR/大阪市営地下鉄:天王寺駅から徒歩5分に教会が
 ございますので、公共の交通機関でいらしてください。


② チャペル・ピアノコンサート


4月26日(日)
  
  開場:13:30
   開演:14:00

Piano 中野 博誉(ナカノ ヒロオ)

演奏者紹介
バッハ、ショパン等、幅広いジャンルのピアノ曲を奏でる。
ピアノ曲集「あなたがいてくださるから」「立って、あなたのもとに」等
3枚のCDをリリース。ピアニスト、朝日放送「福音の光」
ラジオ牧師。日本バプテスト同盟高槻バプテスト教会牧師でもある。 

演奏者からのことば
 激動の時代を生きた音楽家たち。その生涯において
彼らが音楽に託した深い祈りと希望のメッセージとは。
この季節、新緑の香りを運ぶ風を感じながら、ピアノ音楽
を通して彼らの真実な思いに心を向けてみませんか。

演奏曲目
      
F.リスト 「愛の夢 3番」
F.ショパン「夜想曲 2番」 
S.ラフマニノフ「前奏曲作品 23の6」 
J.S.バッハ「平均ピアノ曲集より 1番前奏曲とフーガ」                                       J.S.バッハ「主イエスよ、私はあなたを呼ぶ」
J.S.バッハ 「平均律ピアノ曲集24番 前奏曲とフーガ」
 F.ショパン 「夜想曲 13番」
F.ショパン 「バラード 4番」
F.ショパン 「夜想曲 16番」
R.シューマン「子どもの情景より『夢』」        
                                        
(曲目は変更になる場合があります。)
 
 
            
入場無料(但し東日本大震災被災地支援の為の自由献金があります)

会場:日本バプテスト大阪教会

大阪市天王寺区茶臼山町1-17 ℡ 06(6771)3865

*JR天王寺駅・大阪市営地下鉄(御堂筋線・谷町線)天王寺駅から5分程度
 ですので公共の交通機関でお越しください。 






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目からうろこ

2015-04-19 15:51:29 | メッセージ
礼拝宣教 使徒言行録9章1節~19節a 

いよいよ来週26日は中野先生をお迎えしての午前は特別礼拝、午後からはチャペルピアノコンサートが行なわれます。コンサートまでの残る一週間、主に期待しながら、中野先生のご準備のために祈り、私たちもできるかたちで備えていきましょう。

「序」
本日はサウロの回心の記事から、「目からうろこ」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
私たちは普段日常の会話の中でも「あっ、目からうろこ」と口にいたしますが。それは一般的に「誤りを悟り、迷いから覚める」というコトワザとして用いられています。
欧米をはじめ世界の至る所で用いられているこのコトワザの起源となっているのは、皆さんに言うまでもなく、本日の箇所の使徒言行録9章18節「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった」という聖書から来ているのです。

サウロ(ギリシャ語圏ではパウロ名)は、そのような「回心」の出来事を通して、キリストの使徒として、シリア(ダマスカス)、トルコ(小アジア)、さらにローマへとキリストの福音を実に躍動的、且つ熱心に伝えてゆくことになったのです。このサウロの働きがあったからこそ、ユダヤの地を越えた地域の人たちに主の福音を伝え、教会の創設をはじめ、キリスト教がここまで世界中に拡がってゆくという神のご計画が、着実に進められて来たといってもよいでしょう。       

では、まずその「サウロの回心とは何か」を、読み取っていきたいと思います。
そもそもサウロは熱心なユダヤ教徒としてキリスト教会とその信徒への恐るべき迫害者でありました。彼は多くのキリスト者を、捕えては投獄し、その殺害にさえ加担したのです。さらに彼は、エルサレムから国境のシリアのダマスコまで逃れたキリスト者たちを捕えようと、その後を追っていました。彼はそうすることが神から与えられた正当な使命と考えていたからです。その動機は、キリスト者が憎いからとか、復讐心からというものではありません。彼はユダヤ教徒として神とその律法を人一倍熱心に信じ、守り育ちました。そんな彼にとって、十字架で無残に死を遂げたイエスを救い主と信じるキリスト者は異端であり神を冒瀆する者でしかなかったのです。ですからサウロは、キリスト者を迫害しユダヤ教に改宗させることこそ、神に対して忠実なこと、正しいことだと信じて疑わなかったのです。

3節、「ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいてきたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らすと、サウロは地に倒れ『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞きます。サウロが「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」原語では「わたしこそ、あなたが・・・である」という答えが返ってきたというのであります。それは彼にとってどんなに衝撃的な言葉だったでしょう。これまで「主のため」「神様のため」と信念をもってキリスト教会とその信徒への迫害と弾圧を繰り返してきた。そのことすべてが、何と主ご自身に対してなしていたことだったというのですから、そりゃあ天地がひっくり返るほど驚いたはずです。

8節「サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。」
9節「サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。」とありますが。
まあ、それほど衝撃を受けたのでありましょう。

彼は3日間暗闇の中で何を思い、何を願ったのでしょうか。きっと頭は混乱していたことでしょう。不安と恐れの中で、とてつもない自らの罪の重さにさいなまれ、その苦悩から何とか救われたいが自分の力ではどうすることもできず、もがき苦しんでいたのではないでしょうか。

しかし、サウロがそうしている間に、主はあるご計画を進めておられました。ダマスコにいた弟子の一人アナニアに幻の中で呼びかけ、「サウロのもとへ行くように」とお命じになるのです。それは絶望の闇に沈むサウロに、主の救いと使命を伝えるためでした。  
サウロは復活のイエスと出会いましたが、自分の罪に苛まれ悔いるところで留まっていたのです。彼はまだ救われていませんでした。サウルには「回心」(主に立ち返ること)が必要だったのです。しかしそれはサウロの力や思いによってできるものではありません。主の愛に触れ、罪の赦しを経験し、いやされて、主との交わりの回復を得なければならなかったのです。主はそのサウルの回心のために、弟子のアナニアを遣わされようとしていたのです。

当初アナニアは、迫害者サウロについて多くの証言を聞いていたので、当然サウロのもとへ行くことには否定的な思いがありました。けれども、アナニアは主のお言葉にただ身を従わせてサウロのもとを訪ねて、兄弟サウロと言って手を置いて「主イエスはあなたの目が見えるようになり、聖霊で満たされるように、とわたしをお遣わしになった」と言うと、たちまちサウロの目からうろこのようなものが落ち、元どおり目が見えるようになったというのです。
「目から鱗のようなものが落ち、見えるようになった。」
冒頭にも申しましたが、広辞苑では「目からうろこ」というのは、「あることをきっかけとして、急に物事の真相や本質が分かるようになること」と解説されています。

サウロは、激しく迫害し弾圧してきたキリスト者のアナニアの来訪に何を思ったでしょう。恐れや申し訳なさもあって緊張したのではないでしょうか。恨みごとの1つや2つ言われても当然でしょう。
ところがアナニアが、何と自分の上に手を置いて、「兄弟サウロ」と言って、自分のために祈ってくれたのです。恨まれ、なじられてもいたしかたない自分に、「兄弟」と呼びかけ執りなすアナニアの中に、彼は主イエスを見出し、その主の深いご愛を、全身熱くなるほどに体感したのではないでしょうか。彼はこうして聖霊に満たされたのです。そのとき、聖書は「サウロの目からうろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった」と伝えます。
それはただ肉眼で見える視力の回復を言っているのではないでしょう。サウロは、このアナニアとの出会いによって、主は罪を犯し続けるような者のために、十字架の苦難の中で執り成されたこと、この罪深い者が滅びることなく、主の愛に立ち返って救われるようにと願っておられることを感慨無量に知ったのです。
サウロは、アナニアとの出会いによって、どん底の罪人であった自分を救い出してくださる主の愛の本質を見、体感したのです。サウロはこのような体験をするまでは、自分はすべて分かっている。見えていると思っていました。けれども生ける主との出会いによって、実は自分は何も見えていなかったことを知るのです。そして、アナニアとの出会いの中に働かれる聖霊によって、彼の霊的な目をふさいでいたうろこのようなものが、ポロリと落ち、主なる神さまの愛と救いが見えるようになるのです。

水曜日の夜の祈祷会の時、皆さんもご存じのKさんがこんな話をして下さいました。「以前はからクリスチャンの娘に聖書の話や教会へ行くようにとの勧めを聞いていたけれど、うっとうしく思っていただけで、聖書を見てもピンとこなかった。けれどこうして教会に来るようになって娘のそういった存在や話がありがたく感じるし、聖書を読むと感じ入って涙が出てくるのです。」このように話して下さったのですが。まさにそれは聖霊のお働きですね。イエスさまがご用意下さった出会いを通して、今日のお話ではありませんが、「目からうろこ」でしょうか。神さまの愛が見えるようにされた姉妹はこれから信仰告白とバプテスマに向けて準備していかれます。どうか、その守りと祝福をこのアナニアのように覚え、執り成なして下さるよう皆さんにお願い致します。
さて、元のどおり見えるようになったサウロですが、身を起こして「バプテスマ」を受け、食事をして元気を取り戻したとあります。サウロがバプテスマを受けたのも、アナニアの言うように聖霊の満たしを受けたからです。だれでも、主の愛の圧倒的な迫り、聖霊の臨在によって、主イエスが生きておられる、今もお働きくださっていることを知ることができます。そして、食事をしたというのは、おそらく共にパンを裂いて、主の恵みを分ち合う愛餐であったのでしょう。主の霊による交わりに身を置くことを通して、サウロは元気を取り戻すのです。そこに生けるキリストの教会の原点があります。

「サウロの使命」
最後に、主はサウロとその使命について15節、16節でこうおっしゃっています。
「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないのかを、わたしは彼に示そう。」

サウロが福音を伝えるために立てられたことは分かります。けれど主のために苦しまなくてはならないとは、どういう事でしょうか。サウロがそれまでキリスト教会と信徒に対して激しくなしてきた迫害や弾圧に対する罰なのでしょうか。
ここで、主イエスは「わたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」と言われていますが。この「わたしの名を伝えるために」の「伝える」という言葉は、原語で「担う」とも訳せる言葉です。そのように読みますと、「サウロは主イエスの名を担うために主が選んだ器」となり、それは、サウロが主の十字架の苦難と死による罪の贖いの業を、その身に担い行くという大変重みのある働きであることが分かります。
彼がその後福音を伝えるために捕えられ、獄中の身にあった時に、フィリピの信徒たちに書き送った手紙の中にこのような一節があります。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
主イエスの名を担って行く時、実際そこには様々な苦難が起こってきました。しかしその苦しみは、キリストの苦しみにあずかり、その死の姿にあやかって、死者の中からの復活に達したい、との望みにつながっていたのです。「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないのかを、わたしは彼に示そう」との主のお言葉も、それは何か主がサウロに報復するためだということではなく、まさに主イエスの担われた十字架を彼が共に担い行くようにと立てられた、ということを示しているのです。
もう一つ、彼がコリント二、4章10節以降に記した言葉をお読みします。
「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」
本日は「目からうろこ」と題して、聖書から聞いてまいりました。
私たちも又、主イエスさまと出会い、目からうろこという体験をした時、そこに関わるアナニアのような助け手としての存在がいたのではないでしょうか。誰かが主イエスさまと出会う時に、私も又、アナニアのような働きが託されていないか、共に祈り求めていけると、うれしいですね。そこに必ず聖霊がお働きになっておられます。私たち一人ひとり、たとえ小さくとも、主イエスの十字架を担う器として立てられていることを覚えつつ、その先に備えられた希望を見失うことなく、あゆんでまいりましょう。

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春のチャペル・ピアノコンサート ご案内

2015-04-16 17:02:05 | イベント


4月26日(日)
  
  開場:13:30
  開演:14:00

Piano 中野 博誉(ナカノ ヒロオ)

演奏者紹介
バッハ、ショパン等、幅広いジャンルのピアノ曲を奏でる。
ピアノ曲集「あなたがいてくださるから」「立って、あなたのもとに」等
3枚のCDをリリース。ピアニスト、朝日放送「福音の光」
ラジオ牧師。日本バプテスト同盟高槻バプテスト教会牧師でもある。 

演奏者からのことば
 激動の時代を生きた音楽家たち。その生涯において
彼らが音楽に託した深い祈りと希望のメッセージとは。
この季節、新緑の香りを運ぶ風を感じながら、ピアノ音楽
を通して彼らの真実な思いに心を向けてみませんか。

演奏曲目
      
F.リスト 「愛の夢 3番」
F.ショパン「夜想曲 2番」 
S.ラフマニノフ「前奏曲作品 23の6」 
J.S.バッハ「平均ピアノ曲集より 1番前奏曲とフーガ」                                       J.S.バッハ「主イエスよ、私はあなたを呼ぶ」
J.S.バッハ 「平均律ピアノ曲集24番 前奏曲とフーガ」
 F.ショパン 「夜想曲 13番」
F.ショパン 「バラード 4番」
F.ショパン 「夜想曲 16番」
R.シューマン「子どもの情景より『夢』」        
                                        
(曲目は変更になる場合があります。)
 
 
            
入場無料(但し東日本大震災被災地支援の為の自由献金があります)

会場:日本バプテスト大阪教会

大阪市天王寺区茶臼山町1-17 ℡ 06(6771)3865

*JR天王寺駅・大阪市営地下鉄(御堂筋線・谷町線)天王寺駅から5分程度
 ですので公共の交通機関でお越しください。 






















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主イエスの証人として

2015-04-12 20:12:09 | メッセージ
礼拝宣教  使徒言行録1章3 節~11節 

「序」
本日から約2カ月、5月いっぱいまで使徒言行録から御言葉を聞いていきます。
先週迄読んできましたルカによる福音書とこの使徒言行録は同じルカによって書かれたとされています。ルカ福音書は、地上におけるイエス・キリストの生涯とその活動が記されていましたが。先週はそのルカ福音書から、復活されたイエスさまの希望のメッセージを聞きました。その後24章において、主イエスは「弟子たちをベタニヤの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福しながら彼らと離れ、天に上げられた」というところでルカ福音書は終っています。
このように福音書だけを見れば、主イエスの活動や教えはそこで一応終わってしまったようにも見えますが。今日から読みます使徒言行録を見ますと、この主イエスが天に昇られたのは、終わりではなくて新しい活動の始まりであることが分かります。つまり、主イエスが天に昇られたことによって、かねてより約束されていた聖霊が降り、その聖霊をとおして今も生きてお働きになっておられる。主とその救いを知ることができるのです。
ある注解書の中で、「本書はいわば『一粒の麦』が地に落ちて死ぬことにより、いかに多くの実を結ぶに至ったかの証言であり、教会の成立とその活動、そこに生き生きと働いた聖霊の業の証言の書である」という言葉に触れました。
私たちクリスチャンとされた者もまた、イエスさまが一粒の麦として地に落ちて死ぬことによって、罪を贖われ、主の御救いに与るという驚くべき救いの実りとして今日あるわけです。それは、主イエスが2000年の時を経て今もなお生きて働いておられるという聖霊の証明であります。
聖書教育誌の資料に、「1860年J・ゴーブルが米国バプテスト自由伝道協会の宣教師として横浜に到着したその同じ年に、私たちと関わりの深い米国南部バプテスト連盟は日本へ最初の宣教師としてQ・A・ローラ夫妻を送り出したが、しかしローラ夫妻が乗船したエドウィン・フォレスト号は太平洋上で行方不明となった。それから後に日本に初めて南部バプテストの宣教師が到着したのは29年後の1889年であった」(「宣教の先駆者たち」ヨルダン社より)との記述を見つけました。
私たちのもとへ、主イエスの救い、主の十字架と復活の福音が届けられるまでに、主に倣い一粒の麦となった幾多の人々たちの献身的な働きがあったことを忘れてはならないでしょう。

本日は「主イエスの証人として」と題して、御言葉を味わいたいと思います。
まず、3節で「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数々の証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」ということでありますが。使徒たちはこの生きておられる主イエスに接し、どんなに喜びに満たされたことでしょう。使徒たちは胸の高まりと喜びでいっぱいであったことでしょう。

彼らは主イエスと食事を共にしていたとき、主イエスから「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」と命じられます。そしてさらに、「あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである」との約束を受けるのです。
そこで使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建てなおしてくださるのは、この時ですか」と主イエスに尋ねます。
イエスさまはイスラエルの建国についてではなく、「神の国」について話された、と3節にあるわけですが。使徒たちは依然として主イエスがイスラエルのために国を建てなおしてくださることを期待し、それを起こされるのは「聖霊によるバプテスマを授けられるこの時ですか」と尋ねるのです。そこには使徒たちのメシア像といったものが、非常に政治的権威を持つものとして期待されていたことが示されています。

すると、主イエスは使徒たちに次のようにおっしゃいます。
「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

使徒たちはこのイエスさまの言葉を如何に聞いたことでしょう。
何も書かれていませんので分かりませんが、主イエスはその時や時期、つまり神の完全な主権が確立されるその時は、「父(神)が御自分の権威をもってお定めになることで、あなたがたの知るところではない、と言われるのです。
その上で、イエスさまは使徒たちに、「あなたがたの上に聖霊が降ると、力を受ける」との約束と、その聖霊の働きによって「あなたがたは地の果てに至るまで、わたしの証人となる」との使命をお与えになるのです。主イエスが語られた「神の国」:神の完全な統治はまさに使徒たちが聖霊によって「主イエスの証人」とされていく中で実現していくことがここに言い表されているのです。
そのことを話し終ると、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられ、彼らの目から見えなくなってしまわれました。」

イエスさまの苦難と死という悲しみを経験した使徒たちでしたが、彼らは復活された主イエスと出会い、喜びにあふれていました。それが今度は、主イエスが天に上げられ、もはや肉眼で認めることができなくなってしまうのです。とり残された彼らはその有様をただ茫然と見つめて立ちつくす外なかったのであります。使徒たちには聖霊降臨の約束と、とてつもなく大きな使命が残されました。

「約束と使命」
復活されたイエスさまはもはや使徒たちから離れ去っていかれたのでしょうか?
ヨハネによる福音書14章18節にはこうあります。「わたしは、あなたがたをみなしごとはしておかない。あなたがたのところへ戻ってくる。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。」またその16章7節以降でイエスさまは次のように言われました。「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」
イエスさまはこの弁護者とは真理の霊であり、父の神が主イエスの名によってお遣わしになる聖霊であると明言しておられます。又「その方が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と言っておられます。そしてそのお方は弁護者でありますから、もはや罪に断罪されることがないように主イエスの救いの御業による弁護をしてくださるお方なのです。
イエスさまは天に上られてもはや彼らの目からは見えなくなりましたけれども、天に昇られることによって、聖霊が降り、その御救いと共に主イエスが以前にも増して時間や空間をも超えて、どんなときにも生きて働いておられることを彼らは知るようになるのです。それは又、私たちも同様なのではないでしょうか。信仰は目に見える確証によって得られるものではありません。むしろ見えないものに目を注ぎ、そこに主の働きを認めることによって生きた神を知る、体感するのであります。
聖霊を受けるとは、十字架と復活を通して罪と死に打ち勝たれ主イエスが今も、又いつも共におられるという勝利と喜び。その大いなる証の力であります。イエスさまはそのように聖霊によって力を受けた使徒たちに、「主イエスの証人となるように」と使命を与えられるのであります。

さて、それはまずエルサレムから始まる、と言っています。
使徒たちにとってエルサレムは決して居心地のよい所ではありませんでした。そこは幾多の躓き、失敗、苦い経験の場であったのです。しかし、そこに彼らの主イエスの証人としての始まりがあるというのです。
今自分の立っているところから、そこから主イエスの証し人となっていくこと。聖霊の導きによる隣人との出会いはまさに今私たちがそれぞれに立たされている現場に用意されているのです。主イエスは確かに「地の果てまでわたしの証人となる」とおっしゃるのでありますが。その一歩は、自分の今おかれているそのところから始まるのです。
聖霊が降った後、使徒たちはエルサレムにおいて主の証しに集中いたしました。そしてそれが、ユダヤとサマリア全土へ、そして小アジアへ、さらにローマへと拡がっていきます。それはまさに、使徒たちのうちに臨んだ聖霊を通しての圧倒的な力によるものでありました。主の証人を介して聖霊を受け、主の救いに与った人びとがさらに主イエスの証人となり、そこから世界中に主イエスの福音、神の国の教えが拡がり、今こうして私たちのもとにも届けられているのであります。

「希望」
最後に、今日の終わりの箇所で、茫然と天を見つめていた使徒たちに、白い服を着た二人の人がそばに立ってこう言ったというのです。「なぜ天を見上げているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

この言葉は使徒たちにとって、大変力強い励ましとなったに違いありません。
主イエスの証人となっていく彼らの前途には様々な困難や問題、そして迫害が待ち受けています。それらを前にして、「聖霊を受け、力を与えられるとの約束」、「再び主イエスが帰って来られるという希望」が与えられるのです。
今もキリストの教会に注がれる聖霊によって私たちひとり一人も又、主イエスの救いの証人として立てられています。
聖霊の力を存分に受け、主イエスが再び来られる希望をもって、私たちのエルサレム、生活の場、それぞれの現場へと今週も遣わされてまいりたいと願います。
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主イエスの復活

2015-04-05 14:30:28 | メッセージ
イースター宣教 ルカ24章1節~12節 

主イエスのご復活、イースターを心からお祝い申しあげます。
生憎のお天気ですが、駐車場の奥の丘の桜も満開の中でこうしてイースター礼拝を迎えることができました。桜も苗木からあれほど見事に花を咲かすまでにどれくらいの年月を要するのでしょうか?現在の教会堂は三代目ですが、初代の教会堂が建てられた約60年前に頃に桜の苗木が植えられたのでしょうか。永い年月を経、真夏の暑さ、真冬の風雪を耐え忍びながら、その時宜にかなった時につぼみをつけ、こうして毎年花を咲かせてきたのですね。花を咲かせるのは1週間前後と大変短いですけれど、それがほんとうに美しいのは、そういった忍耐の時を経て来たからではないでしょうか。しかし、どんなに美しいものもやがては散ってゆきます。ソメイヨシノはおおよそ60年程で木が弱り始めるとのことです。だんだんと花の散るのが早くなるようですので、「そろそろ次の苗木を植えていた方がよい」という妻の話を聞きながら窓から桜に見とれていましたところ、週報にも記させていただきましたとおり、その日のうちに関西黎明教会の牧師ご夫妻から、大阪教会で使わなくなったテーブルをお譲りしたお礼にと、何と桜の苗木を頂戴しました。細いながら新しい緑が芽吹くその苗に大阪教会の将来への希望を見せられたようで、たいへんうれしくなりました。

さて、本日は特別なイースターですので、通常の聖書教育の箇所を一時離れ、「主イエスの復活」についての記事から、御言葉を聴いていきたと思います。

①空の墓
イエスさまの十字架刑とその死、さらに葬りに至る最期まで、その傍らにいたのは婦人たちでした。彼女たちは十字架刑で無残な死を遂げ、安息日の始まる前にと慌ただしく墓に納められたイエスさまの遺体に、きちんとした処置がされていないことがずっと心にひっかかっていたようです。
そこで、イエスさまの死後三日目となる安息日の明けた週の始めの日の明け方早くに、イエスさまの遺体に塗るため、準備していた香料を持って墓に向かうのです。イエスに従う者であったということで、どんな仕打ちにあうか分からない中、彼女たちは勇敢にもそのように行動したわけで、どれほど婦人たちはイエスさまを慕っていたことかと思うのでありますが。
ところが、その墓に着くと「墓の石がわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった」というのですね。その現実を前に婦人たちは「途方に暮れて」しまうのです。
 愛する人、尊敬する人の死を経験した人にとってみれば、せめて最期の葬りはきちんとして、故人の地上での生の証しに墓地に納骨したいと願うのはある意味自然なことでありましょう。おそらくこの婦人たちもまたイエスさまの死を、その存在のすべての終わりとしてとらえ、せめてもの記念として、きれいなかたちで残したいと考えたのではないでしょうか。ところが、そこに肝心のイエスさまのなきがらが無いわけですから、空っぽの墓を前に彼女たちはもうどうしてよいか分からず、ただうなだれる以外なかったのではないでしょうか。

②復活なさった主イエス
するとそこに、輝く衣を着た二人の人(主の使い)がそばに現れます。「神はいったいどこにおられるのか」とも思える状況において、意外にも主の使いは彼女たちのすぐ「そば」に現れるのです。
恐れて地に顔を伏せる婦人たちに彼らは言います。『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』

主の使いは「死者の墓に主イエスはおられない。復活なさって、今、生きておられる」と婦人たちに伝えます。
さらに、かつてイエスさまがお語りになったお言葉を思い起こすことによって、一切は神のご計画であること、又主の約束のお言葉は信頼に価すべきものであることを示すのです。イエスさまが「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」とおっしゃったとおり、主イエスはまさにその御業を成し遂げ、復活されて今も、生きておられる。「婦人たちは、そのイエスさまのお言葉を思い出すことによって、「主イエスが今生きておられる」との信仰の確信を得るのであります。

この今日の記事の後に、二人の弟子がエルサレムから郊外へ向かうエマオ途上で、復活の主イエスが彼らに現れなさる記事が記されています。二人の弟子は復活された主イエスと一緒に歩いているのにも拘わらず、それが主だと認めることができずにいました。悲しみと失意の内に故郷に戻ろうとする彼らには、自分たちのそばにいる旅人が復活の主イエスであることが分からなかったのです。彼らは先の婦人たちの証言を耳にし、その上主イエスが先の二人の天使同様、「メシアはこういう苦しみを受けて栄光に入るはずではなかったか」と言っておられるのでありますが、それでも彼らは気づきません。   
しかし、その弟子たちはあることで、その目の前におられる方が復活の主イエスだということに気がつくのですね。そのあることとは、道すがら主イエスが、メシアについて聖書全体にわたり書かれていることを説明され、彼らと一緒に食事の席にお着きになって「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」その時であります。「二人の眼が開け、それが主イエスだと分かった」というのですね。
このようにして、弟子たちは失意と思い煩いの肉の眼では復活の主イエスを認めることはできませんでしたが、聖書の言葉とイエスさまがその日常においてなされた行為を思い起こすことによって、「主イエスは今生きておられる」ということに気づくことができたのですね。

実にこのようなことは、日常で御言葉に聴き従って生きる私たちも経験しているのではないでしょうか。聖書の言葉は遠い過去のもの、死んだ者の単なる遺言ではなく、実に今も生きて働く神の力なのです。そしてそれは何か実体のない非現実の世界にあるのではなく、パンを裂き共に食事をするというような私たちの日常の中で、復活の主との出会いがあり、今も、生きておられる主イエスの御業を見ることができるのであります。
日々御言葉に親しみ、御言葉を読み、聴くことによって、主の御言葉を思い起こすことは、主イエスとの生きた関係を築くためにとても大切なことです。

最後に、主イエスの言葉を思い出した婦人たちは、「主イエスが今、生きておられる」との復活の確信を得るのでありますが。ただ「ああよかった」と、それだけで終わってはいません。彼女たちは主イエスの復活の最初の証人として、「墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた」というのです。
それは単なる報告ではありません。主イエスの復活の証人となって、使徒たちに、又その他の弟子たちに、さらに多くの人にも繰り返し宣べ伝えた、ということですね。
それは、すべての弟子たちが主イエスのお言葉を思い起こし、十字架の苦難と死を経た主イエスが、今も、生きておられる喜びを共に分かち合うためでした。ここに福音の喜びと希望がございます。

復活された主イエスは、お約束なさったとおり私たちに今日この日も聖霊を送り、今も生きて働いておられます。だから私たちも又、復活の主イエスと共に御言葉に生き働くのです。24章45節以降にはこう記されています。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの目を開いて、言われた。次のように書いてある『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』」。
主の復活のお姿にあやかる希望に与りつつ、私たちも又、あの婦人たちのように主の約束の言葉に希望を見出し、日々日常において、主が生きておられる体験の証しを分かち合い、その希望と喜びを伝えゆく者とされてまいりましょう。


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