歳晩礼拝宣教 マタイ2・13-23
今日は2018年の最後の主日礼拝として共に捧げております。気候の変動の大きかった一年でしたが不思議な主の御手によって、礼拝と祈祷会、諸集会が今年も一度も途切れることなく守られ、捧げられることができましたことを、主に心より感謝いたします。又そこには雨の日も風の日も主を慕い求める皆さまの信仰と愛がございましたことを大変うれしく思います。
「1年のあゆみをとおして」
今年はテサロニケ一5章16節の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」との年間聖句のもと「喜び・祈り・感謝」というテーマを礼拝でも事あるごとに覚え、共々に歩んでまいりました。
教会では諸集会ごとに想像を超える素晴らしい主のお働きと祝福を頂く1年となりましたが、そういう中で6月末に敬愛するY姉が天に召されるという、地上にある私どもには寂しい出来事がございました。けれども「私たちの国籍は天にある」という、やがて天の御国でY姉ら先に天に召された兄姉らとの再会の日が訪れる希望を、私たちは確認させて頂くときとなりました。又、うれしい知らせとしてFさんご夫妻に新しい命、第一子が誕生いたしました。教会が子どもたちでにぎやかになってきているのは本当にうれしいですね。近日はTさんご夫妻の結婚式を私たちも共々に喜ぶ時となりました。
又、Sご夫妻が茨木から阿倍野に引っ越して来られ、これまで往復40キロの道のりを毎週自動車を運転されて祈祷会と礼拝に集われていたのですが、今は歩いて来れるようになりました。あの大阪北部地震の時に、もしご夫妻が茨木にまだお住いになっていたら被災されてどうなっていたかと思いますとゾッといたしますが、ご夫妻から「ほんとうにこちらに引っ越していて助かりました」と伺い、主のお守りに感謝でした。
まあおひとりお一人にそれぞれの一年のあゆみがおありでしたでしょう。喜びの出来事、嬉しい出来事、その一方で悲しみの出来事、苦しい出来事もあったことかと存じます。しかし私たち主を信じて生きる者にとって真に幸いなことは、その一年のあゆみを振り返ってみる時、すべての私どものあゆみのすべてを主はご存じである、ということです。なぜ?というような出来事も、人には理解してもらえないことも、現れたことも隠されたことも一切主はご存じであられる。そのことのゆえに私たちは慰めと希望を見出します。同時に畏れも生じます。全き義であられ慈愛にとみたもう主の御意志とその導きをこの一年の最後の礼拝において確認し、感謝と主の御前に向き直ることをもって新たな年に備えたいと願います。
「痛んでいる人と共に」
さて、先週は、救い主・御子イエス・キリストのご降誕をお祝いするクリスマス礼拝とキャンドルサービスを救いの喜びのうちに捧げることができ、ほんとうに感謝でした。
今日は、そのクリスマス後の聖書記事から、御言葉を聞いていきますが。ここを読みますと、クリスマスの救いの喜びや温かさから一変して、世の力、闇の勢力による恐れ、嘆きと悲しみの出来事が記されています。
ヨハネの黙示録に、「竜は子どもを産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた」とあります。そして、「女に大きな鷲の翼が2つ与えられた。荒野にある自分の場所へ飛んで行くためである」とも書かれていますが。
今日の箇所のところで、産まれて間もない幼子イエスと、両親のヨセフとマリアはエジプトに逃れたためにその命は助かりましたが。ペロデ王は「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」と聖書は伝えます。
せっかく神の御子が誕生なさったのになぜこんなことが起こったのでしょう。
この事について、聖書教育の青年成人科の筆者が書かれていることが心に留まりました。(聖書教育10/11/12 p.114 そのままお読みしますが。)
「ある方がこんな質問をしていました。『この子どもたちはイエスさまが助かるために犠牲になったのですか?』それに対して、ある牧師がこのように答えました。『むしろ、イエスさまは、この悲しい出来事の中でのSurvivor(生存者、生き残った人々となった)と考えることはできないでしょうか。イエスさまは、その生涯の始まりから、人々の死と嘆きを背負って歩まれたのです』。」
この聖書教育の筆者はかつて2011年福島において東日本大震災・原発事故をご自身体験された被災者のお一人ですが、次のようにも記しておられます。
「被災地では多くの方が亡くなりました。被災された方々の中には、そのことの悲しみから、自分たちが助かったことを喜べない方がいます。
まあ、それは被災に限らず、暴力や圧力、戦争や紛争、今日の記事にあるようなジェノサイト、虐殺はその最たるものであります。それは、そういう中での生存者の多くが胸に抱く思いであるでしょう。
聖書教育の筆者は続けてこう記しています。
「Survivorとしてのイエスさまについて考えながら、イエスさまは、そのような方々の痛みや嘆きさえも知っていてくださるのだと思いました。」
イエスさまは後にこの出来事を聞かれて、自分が殺されるのでなく、他の多くの男の子が死ななければならなかったことを、どのような思いで受けとめられるだろうと思うのであります。
私たちの今も、世の力、闇の勢力は働き、いつ思いがけない状況が起こるかも知れません。その真っ暗闇の事態のただ中に、イエスさまは深い共感をもって共におられるお方となるために生き残る者となられた。神が人と痛みを共にして下さることの究極の現れが十字架のお姿であります。
今日は「痛んでいる人と共に」という題でお話をしておりますが。
私たち主イエスの御救いによって生かされている者は、そのような主イエスの痛みと贖いによって救われた存在であります。この神の愛と救いは、個人にとどまらず、そうして主のみ救に生かされた私たちを通して、今、救いを必要としている人にもたらされることが期待されているでしょう。
主イエスは十字架にかけられる前に弟子のペトロに「あなたは、立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。
私たちも又、主のみ救いへの感謝から、自発的に自分のできることを考え、だれかの助けになりたいと思うでしょう。それは素晴らしい救いの賜物であります。
ただ、それは気をつけなければならないなと思ったことが先週ありました。それは私自身のことですが。
それは、先日自分がささげたお祈りの中で、「どうか、苦闘している隣人のために留まり、寄り添う優しさを持つ私たちとしてください」と祈ったのですが。その時は気づきませんでしたけど、しかし後になって「苦闘している隣人のために、寄り添う優しさを持つ私たちとしてください」という言い方は、苦しい最中にある人にとってみれば重たいことですし、与える人、受ける人という構図がそこに生じていないだろうか、と考えたのです。
そういったことは、もしかしたら「教会の敷居は高いなあ」と思わせているかもしれないなぁと。「その人のため」というのが、押しつけがましくなると上からの視線ととられることもあるんじゃないでしょうか。又、弱者の側に立つというのも、ではだれが強くてだれが弱いかというのは日常の中での判断は大変難しいものです。
そういう意味からすれば強者、弱者。善と悪の判断は神さまの領域といえるのかも知れません。
私たち人間がそういったことを決めつけ、色分けしたり、片方のかたを持ったり、裁いたり、というのも傲慢なことなのかもしれません。では、心痛む人の真の隣人となるには一体どうすればよいのでしょうか。
それは、イエスさまに倣っていくほかないように思います。
イエスさまはきっぱりと「わたしは世をさばくためでなく、世を救うために来た」とおっしゃいました。ヨハネ福音書3章17節には「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためでなく、御子によって世が救われるためである」とあります。
これは先ほど申しましたように、「共にあるもの」;インマヌエルとして、「神にとりなす」ためにおいでになったのです。イエスさまはすべての人と痛みを共にしつつ、十字架の死の間際まで執り成し続けてくださいました。今もそうです。
私たちが「隣人や病んでいる人と共に」あろうとする時、私たちは上から何とかしてあげようではなく、「神に祈りつつ、とりなすもの」であることを主のご生涯から学びたいと思います。
さて、今日のところから、もう一つのメッセージを示されました。
それは、神のみ救いを受け入れて従う命の道についてです。
ヘロデ王の神に背を向け、救いを拒む世の力のすさまじい破壊力。それは多くの人の尊い命と生活を奪いました。
そういう厳しい状況の中で、ヨセフは神のお言葉を信じ、受け入れ従っていきます。
エジプトに避難する折、又イスラエルの地に帰国する折、さらにガリラヤ地方に向かう折と、3度とも主の天使に夢で告げられたとおり、ヨセフは主の言葉に忠実に従って行動していくのです。それはあの先々週の1章18節以降のマリアが子を宿したことを知らされた時からそうでした。実にこのヨセフが神の言葉に聞いて、そのとおりに自分を従わせていったことによって、神の救いのご計画が実現していくのですね。
この現代も又、神に背を向け、救いの道を拒む世の力によって、神さまがお造りになった美しい自然も人の尊い命も損なわれています。あらゆる殺戮も、地球温暖化も、放射能や大気汚染も、美しい海が土砂に埋められていくのも、神の愛とみ救いを拒み続ける罪のなせる仕業です。
今年も内外において、多くの愛が冷えほんとうに不安や恐れを感じるようなことも起こっております。ある意味、このヘロデの暴虐の時代と重なって見えるこの社会であります。
しかし、今日のこの個所は、たとえどのような時代にありましょうとも、神さまが旧約から預言者を通してご計画され、約束されたみ救いの成就と神の統治は決して揺るぐことはない。すべての人に開かれた救いの言葉に聞いて歩むなら、それは命に至る道となる。これが聖書のメッセージであります。
今年一年の最後の主日礼拝をこうして、その神さまに栄光を帰すことができる幸いを本当に感謝いたします。
今週は明後日には2019年の幕開けとなる元旦礼拝をもって、1年のあゆみをスタートしていきたいと願います。祈ります。