日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

生きている者の神

2010-06-27 06:44:08 | メッセージ
宣 教 マタイ22章23~33節

復活はないと言っているサドカイ派の人々が、主イエスに近寄って来て尋ねます。「先生、モーセは言っています。「ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけなければならない」と。さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。
サドカイ派の人々は死者の復活を信じていませんでしたから、彼らがこのような質問をすること自体おかしなことですよね。
つまり、このサドカイ人たちの目的は、「復活」があると公言していたイエスさまを論破することにあったのです。
彼らは、跡継ぎを残すことを目的とした結婚(戦時中は日本にも似たようなことがあったようですが)についての律法を使い、こういうケース、つまりどの兄弟も子を残すことなく死んだ場合、もし復活があるとすれば、その時この女はどの兄弟の妻になっているのか。おかしな話で矛盾してはいないかと議論をふっかけるのです。
少し解説が必要です。この質問の背後には体と魂は一つというヘブライ的な捉え方があり、復活も体と切り離されるということは考えられなかったのです。サドカイ人は体が死ねば魂も死ぬので復活はないと信じていたのですが、ファリサイ人は体も魂も復活すると信じていました。しかしそのファリサイ派のなかには、からだの復活について議論があまりにとりとめも無いところまで進んでいき、「死者は着物を着て復活するか否か。その着物は死んだ時に着ていたものか否か」といった、まあ、そのように復活の時には現世と同じ状態に復元されるというような考えを持っていたわけです。
サドカイ派はそういう現世復元の復活観をネタに主イエスを陥れようとしたのですね。
主イエスに、「もし復活があるというのなら、あなたはこれをどう説明されますか」と迫ったわけです。

主イエスはお答えになります。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」
「あなたたちは聖書も神の力も知らない」主イエスは、先の質問のような現世をそのまま復元したような一部のファリサイ派の活理解を退けます。
「復活は人の考えや尺度では計り得ないものだ、聖書をほんとうに理解していないなら、また神の力もほんとうのところ知らないから、思い違いをしているのだ」とそのように言われているのです。それは逆にサドカイ人への問い、「あなたは、神の力に期待する信仰があるのか」という問いかけとなっています。
神の力というものを「多分これはできないだろう。しかしこれくらいはできるだろうと」自分で計り、想定してかかるのは、これは神への信仰ではありません。神の力やその可能性を制限してしまう。それはある意味、神ではなく自分の力、世の力により頼む偶像化です。
続けて、主イエスは言われます。「死者の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
「神があなたがたに言われた言葉」
ここで主イエスは、神がモーセに語られた出エジプト3章6節の言葉を引用しているのですが、イエスさまそれをモーセに語られたとは言わず、「あなたがたに言われた言葉」とおっしゃっています。神の言葉はモーセに語られて後、今も変わることなく生きている。
私たちにとってもそうです。主イエスの言葉は遠く時を隔てたところで語られたにも拘わらず、今も私たちに向けて語り続け、行くべき道を「み言葉」をもって導いてくださるのです。
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」
それと、前の質問で「その女は七人のうちのだれの妻になるか」とありましたが、当時は妻というのはある意味その夫や家の所有物のように扱われていたわけであります。まあ、復活の際にまで、こういう現世の復元がつきまとわれるなら、それは妻にとってもたまったものではありませんね。

NHKの子ども番組でおもしろい歌のフレーズがあります。子どもの目線から「お父さん、お父さん、ぼくのお父さん。電車に乗ると通勤客。会社に行くと課長さん。歯医者に行くと患者さん。お店に行くとお客さん」と続くのですが。6月20日は父の日ですが、お父さんもこういう立場的なものばかりで呼ばれると、私は一体何者なのか。私という存在意義はいったいどこにあるのかとなってしまいそうですね。

主イエスは、新約時代の誰々の妻というような何か所有物のように考えられていたことに対して、神が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とおっしゃったことを示されます。イサクをアブラハムの長男とは呼ばず、ヤコブをアブラハムの子孫とはおっしゃらない。世に生きる一人ひとりにその名があるように、一人ひとりにその存在意義があり、その一人ひとりを神はその名で呼ばれるのだということです。
神さまは、誰々の奥さん、あるいは何々家の長男、次男、何々会社の課長さんとは呼ばれないのですね。
「わたしはあなた(自分の名前を入れてみるとよい)の神」だ、とその人をその人として呼びかけ、ご自身を顕されるお方だと、主イエスは言っておられるのです。だれだれの妻とか、世の何に属しているということが問題にはならないということです。

教会という集まりはある意味この天の国の関係を表しているといえましょう。はじめに神がその名を読んでくださり、それに応えて生きようとする尊い一人ひとりの集まりであります。だからまず、はじめに組織や群れがあったのではないのですね。
主の救いにより罪深いこの私が見出されたものとして、自己の存在が取り戻され、その人として輝いて生きる自由を得た。また得ようとしている。そのような尊いお一人お一人が主の名によって集うところ。それがキリストの教会であります。

さて、主イエスは次に「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」だとおっしゃいます。
この主イエスの言葉が本日のみ言葉の全体に流れている福音だろうと、私は思うのですが。
復活というものを、ただ私たちは死後のことのように考えるものです。
確かに、使徒パウロが言ったように、「この体はいずれは死を迎えるが、主の日が来たら、主の復活の似姿に変えられる。」 その希望を私たち主に信頼するクリスチャンは戴いています。けれども、その大いなる日は、どこか遥かかなたにあるかのように思えるのです。

そのような私たちに主イエスは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われるのです。「死んだら朽ちないからだを身にまとい、主の復活に与る」。もちろんそれも聖書の約束です。しかし、主イエスはここで「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だ」とおっしゃっているのですね。

主イエスが今も生きておられることを知って生きることの中に、すでに私たちは主の復活に与っている、主の復活のうちにおかれているしるしを見るのです。すべてのものの命、私たち一人ひとりの命すべては、天の父なる神のみ手にあります。その天の父なる神との関係の中にあるのです。そのことを知らなければ、その愛に立ち返らなければ、人は生きているようであっても、実際は根無し草のように世に漂いつづけるしかないのであります。

使徒パウロは「キリストと結ばれ人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と述べています。この言葉は、今も生きて働かれる主のうちにあって真実であります。この世に生きる私たちにとって喜びや楽しみもありますが、苦しみや悩みもあります。けれども、どのようなことがあっても主のみ手のうちにおかれているというゆるぎない確信をもってあゆむのなら、尽きることのない平安を得ることができるでありましょう。
「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」に期待をし、従ってまいりましょう。
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思いわずらうな

2010-06-20 07:39:30 | メッセージ
宣教 マタイ6:25-34

主イエスがこのところで強調しておられるのは「思い悩むな」:口語訳「思いわずらうな」ということです。この箇所でその言葉が6回も用いられています。
しかし、思い悩む、といえば人間誰しも生きるうえで何がしかの「思い悩み」はつきものです。悩むな、と言われても、それは悩んでいる人にはあまりに酷な事です。又、人は悩みながら成長していく面も確かにあります。悩む、という言葉の持つ響きは人として大事な要素を持っているようにも思うのです。
私はここでは、思い悩むというより、むしろ口語訳聖書の「思いわずらう」という訳に従いたいと思います。この思いわずらいは、心が一つの方向に定まらず、いろんな方向に向い混乱している状態を指す要素を含んでいます。特に先ほどの、神と富に仕えることはできないというみ言葉にあるように、心が二つ方向に割れている状態が、思いわずらうということをよく表しているといえます。

ここで、主イエスが「思いわずらうな」とおっしゃったのは、「神に信頼をおいている者は、神がすべてのことを配慮し、与えてくださるのであるから、思いわずらいに捕われなということであります。それは心が一つの方向、つまり神の方向に向いている状態であるからです。
しかし、現実の生活の中で、神を信じている者でも、ここに記されていますように、食べるもの、飲むのも、着るものをはじめ、先ほどの富についても、それらの所有に対してあれやこれやと思いわずらうことは、聖書の時代も今日も変わらない事柄ではないでしょうか。けれども、主イエスがこの話を弟子たちにお語りになられたということがみそだと思います。すなわちそれが、主を信じる者へのメッセージであるということです。

27節「あなたがたが、思いわずらったからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」とおっしゃいます。詩編90編にありますように、人の生涯というものはすべて主なる神さまのみ手のうちにあります。寿命というものも神が定められる事柄であります。今日の時代はまあこの当時とは異なり最先端の医学や医療によって昔よりは延命になっているということはあるかも知れません。けれどもどうでしょうか。むしろ、思いわずらう事によって病になり、寿命が縮んでしまうという可能性はあります。

先日の新聞でお読みになった方もおられるかも知れませんが。フィンランドという北欧の国の政府が比較的裕福な男性40歳代1200人を二つのグループに分け、一つのグループは健康管理をしっかりと行い、もう一つのグループは特に何もしないようにして15年間追跡調査をしたところ。さて、どういう結果になったと思われますか。これは実に意外な結果が出たそうです。ナンと健康管理をしっかり行ったグループの方が心身を病んだり、死亡率が高かったというのですね。あるコメディアンが健康のためなら死んでもいいとか言っていましたが。管理も度を超して思いわずらいになってはかえって命を損なうことになりかねないという一つの例でしょう。
まあ、健康に拘わらず、思いわずらうことによって、心が様々な方向に割れていき、逆にいろんな問題や事件も起こっているというのが現代の社会といえるのかも知れませんね。

「その日の苦労は、その日だけで十分である」。
主は、明日のことや先のことを思いわずらうのではなく、今、現在しっかりとなすべきことと向き合い、悔いの無いように生きることこそ大切である」と教えてくださいます。
「その日なすべきことだけでも十分あるのだから、それを精一杯やれば、「思いわずらう」暇などない。天の神に信頼し、一日一日を精一杯生きることが信仰者の生き方である」と主イエスはおっしゃっているのです。

詩編55・23をお読みします。
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。
 主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。」
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魚から銀貨

2010-06-13 07:18:46 | メッセージ
宣 教 マタイ17:24-27

イエスさまは、ペトロにこう言われましす。「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨1枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」。
イエスさまは神の子どもたちは税金を「納めなくてもよい」と、その自由を主張いたしましたが、それを正論として振りかざそうとはいたしません。正論は時として人を問答無用に審いたり、事態を硬直化させてしまう危険性があることを、イエスさまはご存じでした。
イエスさまは、税金を納めないのは自由だけど、そこで人々をつまずかせるようなことになるのなら、つまずかせないためにあえて納める自由を選択する道を示されます。
そこには長年神殿税を納めることを大事にしてきたユダヤ人たちへの配慮があったのでしょうか。イエスさまの信仰の思いははっきりあるけれども、それを押し通すことで人々をつまずかせていてしまうのなら、自分の正論を押し通すことをも放棄し得るという事です。
変な言い方ですが、たかが神殿税のことで人々を躓かせ、主への信仰まで見失うような事になるのなら、それを否定するのではなく、一緒に納める道をイエスさまは選択されます。

この個所で実に興味深いのは、イエスさまが、即二人分の税金をペトロに渡されなかったという点であります。普通だったらすぐに「はい、これで税金を納めてきなさい」とおっしゃってもいいように思いますが。
しかしなぜか、「湖に行って釣りをしなさい、、云々」というふうに、わざわざ回りくどいような仕方でもってその道筋をお示しになられるのです。なぜでしょうか。
そういうことを、私は今日の宣教を準備する中でずっと考えていました。

釣りと税金、一体何の関係があるでしょうか。いや、、、何もありませんよね。私も魚釣りが大好きなんですが。何で好きなのかと言いますと、「今日は一体どんな魚が釣れるのか」とわくわくの期待感。「今夜のおかずを釣るぞ」というモチベーションなどあります。そういう思いを持って魚釣りをしていますと、竿さきや浮きだけに集中し、時間も他のことも忘れて没頭します。心地よい波の音、潮風が鼻をくすぐり、釣れた時の手ごたえとその嬉しさはひとしおです。まったりとした時間をもつことによって気持ちをリセットし、ほんとうにリフレッシュされるんですね。まあ、皆さんもそれぞれに、違った仕方でそういうリセットやリフレッシュをされていることがおありだと思いますが。

ぺトロは唐突なイエスさまの「釣りをしなさい」とのお言葉をどう思ったでしょうね。
けれども、このようなある意味ばからしいと思えるような、ユーモアのあるイエスさまのはからいには、ペトロの重たい気持ちをいやし、解放する力があったのです。

釣った「魚から1枚の銀貨」。それはイエスさまとペトロの二人分の税金に値するお金です。
それを納めなさい。何ともユーモラスなこの計らいで、湖に出かけたペトロはきっとその重たい気持ちに覆われた心がリフレッシュされたのではないでしょうか。
この魚がどんな種類の魚かはわかりませんが。魚は、2000年前から救い主イエスさまを表すシンボル(象徴)です。魚をギリシャ語でイクトウスと言います。この5文字のイはイエス、ク(クリスト)はキリスト、ト(テオス)は神、ウ(フィオス)は子、ス(ソテ―ル)、これは救い主という意味です。

心重きペトロの解決の道は、やっぱりイエス・キリストというお方のうちにあるのです。いろいろあってもイクトウス、やっぱりイエスは神の子、私の救い主。その中に救いと解放があるのです。ここを読んでうれしいのは、イエスさまはペトロがうっかり即答してしまったことを非難するのではなく、ペトロの思いや気持ちに温かく寄り添い、ほんと粋なはからいでもって前に進んで行けるようにしてくださったことです。

私たちも時として失敗したり、思ったとおり事が行かなかったりということがあります。重い気持ちになることや、がっかりして悲しみに捕まってしまうこともあるでしょう。
けれども、目を上げれば思いがけない主の助け、ユーモアととれるほどの温かな主のはからいがきっと与えられます。主に倣う私たちもまた、あらゆる人たちとの関わりの中で、温かな配慮や愛情ある言葉を心がけ、主の御国の豊かさを共に味わうものとされてまいりましょう。
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天の国は・・・

2010-06-06 08:16:49 | メッセージ
宣 教 マタイ13:31-33 

イエスさまのお働きは4章のところにありますように「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って宣べ伝え始められました。この世の権力や悪に支配され流され、滅びに向うそんな人々の間で天の国の到来を宣言されたのです。
この箇所は、イエスさまがその「天の国について」お話になられたところでありますが。その天の国が一つは「からし種」に、もう一つは「パン種」にたとえられています。

最初にイエスさまは「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種より小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」と言われます。
からし種というのは成長すると数メートルほどの木のような大きな野菜になるそうです。からし種はマスタードなどにも入っている小さな小さなな粒くらいの大きさです。どうですか、その粒くらいの種が、成長すると鳥がやって来て枝に巣を作るほどになるというのです。その様子が想像つくでしょうか。

聖書の他の箇所でイエスさまは、からし種を私たちの「信仰」にたとえて次のようにおっしゃっています。「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向って、「ここから、あそこに移れ」と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」(マタイ17:20)。
「からし種一粒」の信仰をもって、主に期待し、依り頼んで生きるとき、思いもよらない神さまの力が働き、人の業ではない神さまのみ業が起こると言うのであります。
私たち人間の小さな小さな信仰を通して、計り知れない神さまのご支配と力が豊かに大きく働かれるのです。
私たちひとり一人の信仰は、ある意味からし種ほどの小さな小さなものといえるのかも知れません。けれども、そのからし種ほどの天の国が私たちの畑、私たちの間に蒔かれる時、そこに神さまの恵みと力が働いて、それは育まれ、大きく成長していき、遂には様々な形の御国の祝福がそこになるということであります。私どもの信仰は神さまから見ればほんとうに小さなからし種のようなものといえるでしょう。しかしその祝福の種を日々の生活に、そして私たちの間に希望をもって種蒔いてまいり ましょう。

さて、イエスさまは又天の国について別のたとえで「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」とおっしゃいました。
パン種はイーストやパン酵母のことですが、粉状で小麦粉に少し入れ水にこねると発酵してパンが大きく膨らむんですね。
先ほどのからし種は「小さい」ということが強調されていましたが、このパン種にいたっては粉を混ぜ合わされて、もはやその存在が隠れて見えない。人の目にも、どこにあるのかわからなくなります。しかし、やがて全体を大きく膨らますその働きは確実に見えないところ、隠されているところで豊かに発揮されている のです。祈りというものがまさにそうですね。そこに天の国にたとえられるパン種の存在とその働きを見ることができます。それは、人の思いや計画によらず、神のみ旨とご計画による世界です。
それではイエス・キリストを通してもたらされた天の国というパン種を、信仰者、キリスト者が如何に持ってこの地上で生きるのか。如何にこのパン種を生活の中に、信仰の歩みの中に混ぜ込んでいくのか。そのパン種が本物であり、よく練られているのならば、おのずその人は、その教会はこの地上にあって隠れた神さ まの存在とその働きを指し示し、証しと執りなし、その天の国の豊かさを地上にあって多くの人たちと喜び合うこととなるでしょう。そういうことがここには聖書のメッセージとして私どもにも語られているのではないでしょうか。
私たち主を仰ぎ見て生きるものの信仰について、ヘブライ書11章1節にこう記されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
まさにこの天の国にたとえられた「パン種」のように、信仰もまた目には見えなくとも、神さまの存在とその働きがなされていることの確信を得、さらに豊かなことはその事実をしっかりと確認することが主を仰ぎ見て生きる者に賜物として与えられていくということです。
お一人お一人のうちに、神さまのみ国、天の国の種が蒔かれているということをおぼえ、感謝します。同時に、その種は天の国の祝福と広がりをともに喜び合い、豊かに成長していくために、キリストの教会に与えられていることを覚えたいと思います。
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