宣 教 マタイ22章23~33節
復活はないと言っているサドカイ派の人々が、主イエスに近寄って来て尋ねます。「先生、モーセは言っています。「ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけなければならない」と。さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。
サドカイ派の人々は死者の復活を信じていませんでしたから、彼らがこのような質問をすること自体おかしなことですよね。
つまり、このサドカイ人たちの目的は、「復活」があると公言していたイエスさまを論破することにあったのです。
彼らは、跡継ぎを残すことを目的とした結婚(戦時中は日本にも似たようなことがあったようですが)についての律法を使い、こういうケース、つまりどの兄弟も子を残すことなく死んだ場合、もし復活があるとすれば、その時この女はどの兄弟の妻になっているのか。おかしな話で矛盾してはいないかと議論をふっかけるのです。
少し解説が必要です。この質問の背後には体と魂は一つというヘブライ的な捉え方があり、復活も体と切り離されるということは考えられなかったのです。サドカイ人は体が死ねば魂も死ぬので復活はないと信じていたのですが、ファリサイ人は体も魂も復活すると信じていました。しかしそのファリサイ派のなかには、からだの復活について議論があまりにとりとめも無いところまで進んでいき、「死者は着物を着て復活するか否か。その着物は死んだ時に着ていたものか否か」といった、まあ、そのように復活の時には現世と同じ状態に復元されるというような考えを持っていたわけです。
サドカイ派はそういう現世復元の復活観をネタに主イエスを陥れようとしたのですね。
主イエスに、「もし復活があるというのなら、あなたはこれをどう説明されますか」と迫ったわけです。
主イエスはお答えになります。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」
「あなたたちは聖書も神の力も知らない」主イエスは、先の質問のような現世をそのまま復元したような一部のファリサイ派の活理解を退けます。
「復活は人の考えや尺度では計り得ないものだ、聖書をほんとうに理解していないなら、また神の力もほんとうのところ知らないから、思い違いをしているのだ」とそのように言われているのです。それは逆にサドカイ人への問い、「あなたは、神の力に期待する信仰があるのか」という問いかけとなっています。
神の力というものを「多分これはできないだろう。しかしこれくらいはできるだろうと」自分で計り、想定してかかるのは、これは神への信仰ではありません。神の力やその可能性を制限してしまう。それはある意味、神ではなく自分の力、世の力により頼む偶像化です。
続けて、主イエスは言われます。「死者の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
「神があなたがたに言われた言葉」
ここで主イエスは、神がモーセに語られた出エジプト3章6節の言葉を引用しているのですが、イエスさまそれをモーセに語られたとは言わず、「あなたがたに言われた言葉」とおっしゃっています。神の言葉はモーセに語られて後、今も変わることなく生きている。
私たちにとってもそうです。主イエスの言葉は遠く時を隔てたところで語られたにも拘わらず、今も私たちに向けて語り続け、行くべき道を「み言葉」をもって導いてくださるのです。
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」
それと、前の質問で「その女は七人のうちのだれの妻になるか」とありましたが、当時は妻というのはある意味その夫や家の所有物のように扱われていたわけであります。まあ、復活の際にまで、こういう現世の復元がつきまとわれるなら、それは妻にとってもたまったものではありませんね。
NHKの子ども番組でおもしろい歌のフレーズがあります。子どもの目線から「お父さん、お父さん、ぼくのお父さん。電車に乗ると通勤客。会社に行くと課長さん。歯医者に行くと患者さん。お店に行くとお客さん」と続くのですが。6月20日は父の日ですが、お父さんもこういう立場的なものばかりで呼ばれると、私は一体何者なのか。私という存在意義はいったいどこにあるのかとなってしまいそうですね。
主イエスは、新約時代の誰々の妻というような何か所有物のように考えられていたことに対して、神が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とおっしゃったことを示されます。イサクをアブラハムの長男とは呼ばず、ヤコブをアブラハムの子孫とはおっしゃらない。世に生きる一人ひとりにその名があるように、一人ひとりにその存在意義があり、その一人ひとりを神はその名で呼ばれるのだということです。
神さまは、誰々の奥さん、あるいは何々家の長男、次男、何々会社の課長さんとは呼ばれないのですね。
「わたしはあなた(自分の名前を入れてみるとよい)の神」だ、とその人をその人として呼びかけ、ご自身を顕されるお方だと、主イエスは言っておられるのです。だれだれの妻とか、世の何に属しているということが問題にはならないということです。
教会という集まりはある意味この天の国の関係を表しているといえましょう。はじめに神がその名を読んでくださり、それに応えて生きようとする尊い一人ひとりの集まりであります。だからまず、はじめに組織や群れがあったのではないのですね。
主の救いにより罪深いこの私が見出されたものとして、自己の存在が取り戻され、その人として輝いて生きる自由を得た。また得ようとしている。そのような尊いお一人お一人が主の名によって集うところ。それがキリストの教会であります。
さて、主イエスは次に「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」だとおっしゃいます。
この主イエスの言葉が本日のみ言葉の全体に流れている福音だろうと、私は思うのですが。
復活というものを、ただ私たちは死後のことのように考えるものです。
確かに、使徒パウロが言ったように、「この体はいずれは死を迎えるが、主の日が来たら、主の復活の似姿に変えられる。」 その希望を私たち主に信頼するクリスチャンは戴いています。けれども、その大いなる日は、どこか遥かかなたにあるかのように思えるのです。
そのような私たちに主イエスは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われるのです。「死んだら朽ちないからだを身にまとい、主の復活に与る」。もちろんそれも聖書の約束です。しかし、主イエスはここで「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だ」とおっしゃっているのですね。
主イエスが今も生きておられることを知って生きることの中に、すでに私たちは主の復活に与っている、主の復活のうちにおかれているしるしを見るのです。すべてのものの命、私たち一人ひとりの命すべては、天の父なる神のみ手にあります。その天の父なる神との関係の中にあるのです。そのことを知らなければ、その愛に立ち返らなければ、人は生きているようであっても、実際は根無し草のように世に漂いつづけるしかないのであります。
使徒パウロは「キリストと結ばれ人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と述べています。この言葉は、今も生きて働かれる主のうちにあって真実であります。この世に生きる私たちにとって喜びや楽しみもありますが、苦しみや悩みもあります。けれども、どのようなことがあっても主のみ手のうちにおかれているというゆるぎない確信をもってあゆむのなら、尽きることのない平安を得ることができるでありましょう。
「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」に期待をし、従ってまいりましょう。
復活はないと言っているサドカイ派の人々が、主イエスに近寄って来て尋ねます。「先生、モーセは言っています。「ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけなければならない」と。さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。
サドカイ派の人々は死者の復活を信じていませんでしたから、彼らがこのような質問をすること自体おかしなことですよね。
つまり、このサドカイ人たちの目的は、「復活」があると公言していたイエスさまを論破することにあったのです。
彼らは、跡継ぎを残すことを目的とした結婚(戦時中は日本にも似たようなことがあったようですが)についての律法を使い、こういうケース、つまりどの兄弟も子を残すことなく死んだ場合、もし復活があるとすれば、その時この女はどの兄弟の妻になっているのか。おかしな話で矛盾してはいないかと議論をふっかけるのです。
少し解説が必要です。この質問の背後には体と魂は一つというヘブライ的な捉え方があり、復活も体と切り離されるということは考えられなかったのです。サドカイ人は体が死ねば魂も死ぬので復活はないと信じていたのですが、ファリサイ人は体も魂も復活すると信じていました。しかしそのファリサイ派のなかには、からだの復活について議論があまりにとりとめも無いところまで進んでいき、「死者は着物を着て復活するか否か。その着物は死んだ時に着ていたものか否か」といった、まあ、そのように復活の時には現世と同じ状態に復元されるというような考えを持っていたわけです。
サドカイ派はそういう現世復元の復活観をネタに主イエスを陥れようとしたのですね。
主イエスに、「もし復活があるというのなら、あなたはこれをどう説明されますか」と迫ったわけです。
主イエスはお答えになります。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」
「あなたたちは聖書も神の力も知らない」主イエスは、先の質問のような現世をそのまま復元したような一部のファリサイ派の活理解を退けます。
「復活は人の考えや尺度では計り得ないものだ、聖書をほんとうに理解していないなら、また神の力もほんとうのところ知らないから、思い違いをしているのだ」とそのように言われているのです。それは逆にサドカイ人への問い、「あなたは、神の力に期待する信仰があるのか」という問いかけとなっています。
神の力というものを「多分これはできないだろう。しかしこれくらいはできるだろうと」自分で計り、想定してかかるのは、これは神への信仰ではありません。神の力やその可能性を制限してしまう。それはある意味、神ではなく自分の力、世の力により頼む偶像化です。
続けて、主イエスは言われます。「死者の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
「神があなたがたに言われた言葉」
ここで主イエスは、神がモーセに語られた出エジプト3章6節の言葉を引用しているのですが、イエスさまそれをモーセに語られたとは言わず、「あなたがたに言われた言葉」とおっしゃっています。神の言葉はモーセに語られて後、今も変わることなく生きている。
私たちにとってもそうです。主イエスの言葉は遠く時を隔てたところで語られたにも拘わらず、今も私たちに向けて語り続け、行くべき道を「み言葉」をもって導いてくださるのです。
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」
それと、前の質問で「その女は七人のうちのだれの妻になるか」とありましたが、当時は妻というのはある意味その夫や家の所有物のように扱われていたわけであります。まあ、復活の際にまで、こういう現世の復元がつきまとわれるなら、それは妻にとってもたまったものではありませんね。
NHKの子ども番組でおもしろい歌のフレーズがあります。子どもの目線から「お父さん、お父さん、ぼくのお父さん。電車に乗ると通勤客。会社に行くと課長さん。歯医者に行くと患者さん。お店に行くとお客さん」と続くのですが。6月20日は父の日ですが、お父さんもこういう立場的なものばかりで呼ばれると、私は一体何者なのか。私という存在意義はいったいどこにあるのかとなってしまいそうですね。
主イエスは、新約時代の誰々の妻というような何か所有物のように考えられていたことに対して、神が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とおっしゃったことを示されます。イサクをアブラハムの長男とは呼ばず、ヤコブをアブラハムの子孫とはおっしゃらない。世に生きる一人ひとりにその名があるように、一人ひとりにその存在意義があり、その一人ひとりを神はその名で呼ばれるのだということです。
神さまは、誰々の奥さん、あるいは何々家の長男、次男、何々会社の課長さんとは呼ばれないのですね。
「わたしはあなた(自分の名前を入れてみるとよい)の神」だ、とその人をその人として呼びかけ、ご自身を顕されるお方だと、主イエスは言っておられるのです。だれだれの妻とか、世の何に属しているということが問題にはならないということです。
教会という集まりはある意味この天の国の関係を表しているといえましょう。はじめに神がその名を読んでくださり、それに応えて生きようとする尊い一人ひとりの集まりであります。だからまず、はじめに組織や群れがあったのではないのですね。
主の救いにより罪深いこの私が見出されたものとして、自己の存在が取り戻され、その人として輝いて生きる自由を得た。また得ようとしている。そのような尊いお一人お一人が主の名によって集うところ。それがキリストの教会であります。
さて、主イエスは次に「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」だとおっしゃいます。
この主イエスの言葉が本日のみ言葉の全体に流れている福音だろうと、私は思うのですが。
復活というものを、ただ私たちは死後のことのように考えるものです。
確かに、使徒パウロが言ったように、「この体はいずれは死を迎えるが、主の日が来たら、主の復活の似姿に変えられる。」 その希望を私たち主に信頼するクリスチャンは戴いています。けれども、その大いなる日は、どこか遥かかなたにあるかのように思えるのです。
そのような私たちに主イエスは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われるのです。「死んだら朽ちないからだを身にまとい、主の復活に与る」。もちろんそれも聖書の約束です。しかし、主イエスはここで「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だ」とおっしゃっているのですね。
主イエスが今も生きておられることを知って生きることの中に、すでに私たちは主の復活に与っている、主の復活のうちにおかれているしるしを見るのです。すべてのものの命、私たち一人ひとりの命すべては、天の父なる神のみ手にあります。その天の父なる神との関係の中にあるのです。そのことを知らなければ、その愛に立ち返らなければ、人は生きているようであっても、実際は根無し草のように世に漂いつづけるしかないのであります。
使徒パウロは「キリストと結ばれ人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と述べています。この言葉は、今も生きて働かれる主のうちにあって真実であります。この世に生きる私たちにとって喜びや楽しみもありますが、苦しみや悩みもあります。けれども、どのようなことがあっても主のみ手のうちにおかれているというゆるぎない確信をもってあゆむのなら、尽きることのない平安を得ることができるでありましょう。
「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」に期待をし、従ってまいりましょう。