さんび礼拝宣教 創世記4章1~18節
本日は第五週となりますので賛美礼拝としてこの時間を捧げております。救いの主である神さまを高らかに賛美する時、私たちは生ける神さまが共におられるという主のご臨在にふれ、畏敬の念と共に慰めと魂の安らぎを与えられます。それは言葉では言い尽しがたい大きな喜びであります。
今日は各賛美の前に、聖書のお言葉が正面に写し出されていますので、そこから生きる力を戴きつつ、恵みに応えてゆきたいと願っております。
先日、女優である小山明子さんのご講演を聞く機会がありました。夫は映画監督であられた大島渚さん。その大島さんが突然病に倒れ、それから17年間お連れ合いの小山さんは介護に携われ、二人で共に過ごし看取りをなさったそのご経験から見えてきたこと、それは「自分が変わらなければ人や周囲は変わらない」ということであったそうです。それは小山さんにとって「自分を手放す」という経験であった、ということでした。そんな小山さんが病の夫の介護や闘病生活にある時いつも心に持っていた思い。それは「人や世間からはどのように見られようとも、本人の望んでいることなら何でもしてあげよう」という決意でした。それによって最期まで「後悔がないように一緒に生きられた」と、おっしゃった言葉が今も私の心に残っています。「後悔いのない人生」、それは自分に執着しているところからは生まれません。かえってそれをささげていった中で得られるものなのですね。
さて、今日は創世記4章の「カインとアベル」の記事から御言葉を聞いていきたいと思います。
①「ささげもの」
アダムとエバの子であったカインとアベルは、それぞれ土を耕す者、羊を飼う者となります。二人はその得たものの中から、神に捧げるべくささげものを御前に持ってくるのでありますが。主なる神は「兄カインのささげものには目を留められず、弟アベルのささげものに目を留められた」とあります。まあここを読む限りにおいて、神はどうしてそのような対応をなさったのか、と考えてしまいますが。たとえば、カインは自分には食べるに良いものを保管し、ささげものには美味しくないものを持っていったのではなかろうかと想像をふくらませてみたりもいたしますが。しかしその理由について聖書は何も語っていません。ただここには、「アベルは羊の群れの中から肥えた初子をもって来た」と書かれていますから、アベルが羊の群れの中から「どれが神さまに喜ばれるものとして最善だろうか」と考えた上でそれを選び、身つきのよい初子の羊を引いて持っていったことが想像できます。神は小羊を御覧になられた時、アベルのその気持ちをお喜びになられたのではないでしょうか。
さて、一方のカインでありますが。
5節で、主がそのささげものには目を留めなかったことに対して、「カインは激しく怒って顔を伏せた」とあります。その様子をお気づきになった主は、カインに言われます。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」
そうですね。自分で本当に納得して、良心に責められることなくなした事なら、結果はどうであれ、顔を上げて生きてゆけばよいのです。しかし彼は、主に顔を上げて率直に「主よ、なぜですか。どうして私のものは受け入れて下さらないのですか」と、尋ねることができたのではないでしょうか。ところが彼は主に「正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」と問われた時も顔を伏せたままでした。正しい、というのは神の前にやましいことがないということです。正しくないというのは神に責めを負うべき思いがあったということでしょう。カインの場合それは神への感謝を蔑ろにしてしまったことへのやましさであったかも知れません。あるいはまた、弟アベルに対する強烈な嫉妬心という負の感情であったのかも知れません。そのようなカインに対して神は「正しくないなら罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」と告げられます。カイン自身が神に立ち返って再びみ顔を拝し、妬みや憎しみといった負の感情から解き放たれないなら、罪はカインに入り滅びることになってしまうということです。残念なことにカインはその神の忠告を聞き入れることなく、取り返しのつかない恐ろしい罪を犯してしまうのです。
話を戻しますが。最善のささげものとは何でしょう。
献金や祈り、奉仕、又、毎日の生活における生き方もそうですが、それらすべて「主なる神さまの恵みにどう応えていくか、という感謝の表れであり、それを神さまは喜び覚えてくださるのです。弟アベルのささげものにはそれが表れ、溢れていました。けれどもささげものは、人が目に見えるところで多い少ない、大きい小さいといった評価をするようなものではありません。今ささげています賛美もそうですね。上手いとか下手とか、声が大きい小さいということが重要ではなく、私たちの救い主への感謝と救いの喜びの思いに神さまは耳を傾け、ご臨在を示してくださるのです。
②「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」
さて、本日の箇所に人類の最初に起こった殺人事件、それも「兄弟殺し」というショッキングな記事が記されています。
先週、創世記3章からアダムとエバの物語を読みましたが。神と人とのゆがんだ関係は人と人との不義の関係を招き、人と人との不義の関係は神とのゆがんだ関係を映し出すのであります。
主がカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」とお尋ねになった時、カインは「知りません」と主に嘘をつき、「わたしは弟の番人でしょうか」と口ごたえします。主は、カインにそのように問いかけることを通して、罪の告白と悔い改めの機会を与えておられたのかも知れません。しかしカインはなおも主に逆らい、その機会を逸してしまうのです。
そこで主はカインに、「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる」と、遂に裁きの宣告がなされるのであります。
この主の宣告に対して、カインはやっと我に返ったのでしょうか。恐れおののきながら、「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」と、口にするのでありますが。
③「わたしが御顔から隠されて」
カインはしかし反省したとか悔い改めたというのではなく、ただ、「御顔から隠される」ということへの恐れ、つまり神さまの御顔をもはや拝することができなくなるという恐れを知ったのであります。この後、カインはエデンの東のノドの地に住むことになりますが、このノドとは「さすらい」という意味があります。彼は弟アベルを殺めた負い目をもち続け、命を狙われながら、地上をさまよい、さすらう者とされ、恐れに日々苛まれ続けなければなりませんでした。けれども、そのノドの地は地獄ではありません。そこは実に、私たちが生きるこの地上、現実の世界を指しています。
仏教では人間には生・老・病・死の4つの苦しみがあると教えていますように、人の現実には生きていく苦しみ、老いていく苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみがあります。それはノド、さまよい・さすらう人生に違いありません。しかしながら聖書は、その苦しみ自体に苦しみがあるのではなく、神の不在(神との関係の断絶)、兄弟姉妹の不在(兄弟姉妹との関係の断絶)に、苦しみと恐れの根源があると説いています。人間にとって一番の苦しみは、神が御顔を隠されるそのところ、神の不在にこそ、人の恐れと苦しみの根源があるのです。
④「カインに付けられたしるし」
さて、自らの恐ろしい罪を自覚したカインでありますが、主は罪の縄目におびえ、苦しむカインに言われます。
「カインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」
そうしてカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた、というのであります。本当に神さまの深い慈しみを知らされる思いがいたします。それにしましてもこの「カインに付けられたしるし」とは何であったのでしょうか?
カインの犯した罪はとてつもなく重いものでした。それはカイン自身の命をもってしてもつぐなえるものでは決してありません。カインは一生涯アベルを殺めた責めを負って生きなければなりませんでした。けれども、主はカインにしるしを付けることによって、彼をまもられた、というのですね。このカインは、主が付けられたそのしるしを見る時、自分の罪を思い起こしたことでしょう。そしてそのしるしによって救われているという、その主の御憐みを憶え、さすらいの地にあっても生き行く慰めと力を得たことでしょう。
私どもにとりまして、自らの罪深さと共に救いを思い起こさせるもの、それはまぎれもなく主イエスの十字架であります。主イエスが十字架上で流された御血によって私の罪が贖われているというその救いを生涯忘れることなく、主の御憐みに感謝してゆく時、私どもはたとえさすらいの地であったとしても、生かされて生きる喜びの道が備えられているのです。
私ども人はみなカインの子孫であります。人との関係の中で優劣を付け、ある時は高ぶり、ある時は卑下して落ち込み、妬み、さげすむそんな罪の縄目からなかなか自由になれず、自分を又、人を傷つけてしまうような者であります。
しかし、私どもは、主イエスの十字架の御前に立たされてゆく時、主の深い憐れみと赦しのもとに、心からの悔い改めとこの世では決して得られない聖霊によるいやしと平安を戴くのであります。そして十字架のキリストにおける神との和解は、人と人との和解をも促し、もたらしてくれます。
「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(Ⅱコリント6章2節)
今日、主の御前にいで、十字架の主によるゆるしと和解のしるしを新たに刻み、主の御顔を拝して生きて行く者とされてまいりましょう。私どもに付けられた「主イエスの十字架のしるし」を覚え、心から応答の賛美を主にささげましょう。
祈ります。
本日は第五週となりますので賛美礼拝としてこの時間を捧げております。救いの主である神さまを高らかに賛美する時、私たちは生ける神さまが共におられるという主のご臨在にふれ、畏敬の念と共に慰めと魂の安らぎを与えられます。それは言葉では言い尽しがたい大きな喜びであります。
今日は各賛美の前に、聖書のお言葉が正面に写し出されていますので、そこから生きる力を戴きつつ、恵みに応えてゆきたいと願っております。
先日、女優である小山明子さんのご講演を聞く機会がありました。夫は映画監督であられた大島渚さん。その大島さんが突然病に倒れ、それから17年間お連れ合いの小山さんは介護に携われ、二人で共に過ごし看取りをなさったそのご経験から見えてきたこと、それは「自分が変わらなければ人や周囲は変わらない」ということであったそうです。それは小山さんにとって「自分を手放す」という経験であった、ということでした。そんな小山さんが病の夫の介護や闘病生活にある時いつも心に持っていた思い。それは「人や世間からはどのように見られようとも、本人の望んでいることなら何でもしてあげよう」という決意でした。それによって最期まで「後悔がないように一緒に生きられた」と、おっしゃった言葉が今も私の心に残っています。「後悔いのない人生」、それは自分に執着しているところからは生まれません。かえってそれをささげていった中で得られるものなのですね。
さて、今日は創世記4章の「カインとアベル」の記事から御言葉を聞いていきたいと思います。
①「ささげもの」
アダムとエバの子であったカインとアベルは、それぞれ土を耕す者、羊を飼う者となります。二人はその得たものの中から、神に捧げるべくささげものを御前に持ってくるのでありますが。主なる神は「兄カインのささげものには目を留められず、弟アベルのささげものに目を留められた」とあります。まあここを読む限りにおいて、神はどうしてそのような対応をなさったのか、と考えてしまいますが。たとえば、カインは自分には食べるに良いものを保管し、ささげものには美味しくないものを持っていったのではなかろうかと想像をふくらませてみたりもいたしますが。しかしその理由について聖書は何も語っていません。ただここには、「アベルは羊の群れの中から肥えた初子をもって来た」と書かれていますから、アベルが羊の群れの中から「どれが神さまに喜ばれるものとして最善だろうか」と考えた上でそれを選び、身つきのよい初子の羊を引いて持っていったことが想像できます。神は小羊を御覧になられた時、アベルのその気持ちをお喜びになられたのではないでしょうか。
さて、一方のカインでありますが。
5節で、主がそのささげものには目を留めなかったことに対して、「カインは激しく怒って顔を伏せた」とあります。その様子をお気づきになった主は、カインに言われます。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」
そうですね。自分で本当に納得して、良心に責められることなくなした事なら、結果はどうであれ、顔を上げて生きてゆけばよいのです。しかし彼は、主に顔を上げて率直に「主よ、なぜですか。どうして私のものは受け入れて下さらないのですか」と、尋ねることができたのではないでしょうか。ところが彼は主に「正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」と問われた時も顔を伏せたままでした。正しい、というのは神の前にやましいことがないということです。正しくないというのは神に責めを負うべき思いがあったということでしょう。カインの場合それは神への感謝を蔑ろにしてしまったことへのやましさであったかも知れません。あるいはまた、弟アベルに対する強烈な嫉妬心という負の感情であったのかも知れません。そのようなカインに対して神は「正しくないなら罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」と告げられます。カイン自身が神に立ち返って再びみ顔を拝し、妬みや憎しみといった負の感情から解き放たれないなら、罪はカインに入り滅びることになってしまうということです。残念なことにカインはその神の忠告を聞き入れることなく、取り返しのつかない恐ろしい罪を犯してしまうのです。
話を戻しますが。最善のささげものとは何でしょう。
献金や祈り、奉仕、又、毎日の生活における生き方もそうですが、それらすべて「主なる神さまの恵みにどう応えていくか、という感謝の表れであり、それを神さまは喜び覚えてくださるのです。弟アベルのささげものにはそれが表れ、溢れていました。けれどもささげものは、人が目に見えるところで多い少ない、大きい小さいといった評価をするようなものではありません。今ささげています賛美もそうですね。上手いとか下手とか、声が大きい小さいということが重要ではなく、私たちの救い主への感謝と救いの喜びの思いに神さまは耳を傾け、ご臨在を示してくださるのです。
②「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」
さて、本日の箇所に人類の最初に起こった殺人事件、それも「兄弟殺し」というショッキングな記事が記されています。
先週、創世記3章からアダムとエバの物語を読みましたが。神と人とのゆがんだ関係は人と人との不義の関係を招き、人と人との不義の関係は神とのゆがんだ関係を映し出すのであります。
主がカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」とお尋ねになった時、カインは「知りません」と主に嘘をつき、「わたしは弟の番人でしょうか」と口ごたえします。主は、カインにそのように問いかけることを通して、罪の告白と悔い改めの機会を与えておられたのかも知れません。しかしカインはなおも主に逆らい、その機会を逸してしまうのです。
そこで主はカインに、「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる」と、遂に裁きの宣告がなされるのであります。
この主の宣告に対して、カインはやっと我に返ったのでしょうか。恐れおののきながら、「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」と、口にするのでありますが。
③「わたしが御顔から隠されて」
カインはしかし反省したとか悔い改めたというのではなく、ただ、「御顔から隠される」ということへの恐れ、つまり神さまの御顔をもはや拝することができなくなるという恐れを知ったのであります。この後、カインはエデンの東のノドの地に住むことになりますが、このノドとは「さすらい」という意味があります。彼は弟アベルを殺めた負い目をもち続け、命を狙われながら、地上をさまよい、さすらう者とされ、恐れに日々苛まれ続けなければなりませんでした。けれども、そのノドの地は地獄ではありません。そこは実に、私たちが生きるこの地上、現実の世界を指しています。
仏教では人間には生・老・病・死の4つの苦しみがあると教えていますように、人の現実には生きていく苦しみ、老いていく苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみがあります。それはノド、さまよい・さすらう人生に違いありません。しかしながら聖書は、その苦しみ自体に苦しみがあるのではなく、神の不在(神との関係の断絶)、兄弟姉妹の不在(兄弟姉妹との関係の断絶)に、苦しみと恐れの根源があると説いています。人間にとって一番の苦しみは、神が御顔を隠されるそのところ、神の不在にこそ、人の恐れと苦しみの根源があるのです。
④「カインに付けられたしるし」
さて、自らの恐ろしい罪を自覚したカインでありますが、主は罪の縄目におびえ、苦しむカインに言われます。
「カインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」
そうしてカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた、というのであります。本当に神さまの深い慈しみを知らされる思いがいたします。それにしましてもこの「カインに付けられたしるし」とは何であったのでしょうか?
カインの犯した罪はとてつもなく重いものでした。それはカイン自身の命をもってしてもつぐなえるものでは決してありません。カインは一生涯アベルを殺めた責めを負って生きなければなりませんでした。けれども、主はカインにしるしを付けることによって、彼をまもられた、というのですね。このカインは、主が付けられたそのしるしを見る時、自分の罪を思い起こしたことでしょう。そしてそのしるしによって救われているという、その主の御憐みを憶え、さすらいの地にあっても生き行く慰めと力を得たことでしょう。
私どもにとりまして、自らの罪深さと共に救いを思い起こさせるもの、それはまぎれもなく主イエスの十字架であります。主イエスが十字架上で流された御血によって私の罪が贖われているというその救いを生涯忘れることなく、主の御憐みに感謝してゆく時、私どもはたとえさすらいの地であったとしても、生かされて生きる喜びの道が備えられているのです。
私ども人はみなカインの子孫であります。人との関係の中で優劣を付け、ある時は高ぶり、ある時は卑下して落ち込み、妬み、さげすむそんな罪の縄目からなかなか自由になれず、自分を又、人を傷つけてしまうような者であります。
しかし、私どもは、主イエスの十字架の御前に立たされてゆく時、主の深い憐れみと赦しのもとに、心からの悔い改めとこの世では決して得られない聖霊によるいやしと平安を戴くのであります。そして十字架のキリストにおける神との和解は、人と人との和解をも促し、もたらしてくれます。
「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(Ⅱコリント6章2節)
今日、主の御前にいで、十字架の主によるゆるしと和解のしるしを新たに刻み、主の御顔を拝して生きて行く者とされてまいりましょう。私どもに付けられた「主イエスの十字架のしるし」を覚え、心から応答の賛美を主にささげましょう。
祈ります。