日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

カインとアベル

2014-06-29 13:14:02 | メッセージ
さんび礼拝宣教 創世記4章1~18節 

本日は第五週となりますので賛美礼拝としてこの時間を捧げております。救いの主である神さまを高らかに賛美する時、私たちは生ける神さまが共におられるという主のご臨在にふれ、畏敬の念と共に慰めと魂の安らぎを与えられます。それは言葉では言い尽しがたい大きな喜びであります。
今日は各賛美の前に、聖書のお言葉が正面に写し出されていますので、そこから生きる力を戴きつつ、恵みに応えてゆきたいと願っております。

先日、女優である小山明子さんのご講演を聞く機会がありました。夫は映画監督であられた大島渚さん。その大島さんが突然病に倒れ、それから17年間お連れ合いの小山さんは介護に携われ、二人で共に過ごし看取りをなさったそのご経験から見えてきたこと、それは「自分が変わらなければ人や周囲は変わらない」ということであったそうです。それは小山さんにとって「自分を手放す」という経験であった、ということでした。そんな小山さんが病の夫の介護や闘病生活にある時いつも心に持っていた思い。それは「人や世間からはどのように見られようとも、本人の望んでいることなら何でもしてあげよう」という決意でした。それによって最期まで「後悔がないように一緒に生きられた」と、おっしゃった言葉が今も私の心に残っています。「後悔いのない人生」、それは自分に執着しているところからは生まれません。かえってそれをささげていった中で得られるものなのですね。

さて、今日は創世記4章の「カインとアベル」の記事から御言葉を聞いていきたいと思います。

①「ささげもの」
アダムとエバの子であったカインとアベルは、それぞれ土を耕す者、羊を飼う者となります。二人はその得たものの中から、神に捧げるべくささげものを御前に持ってくるのでありますが。主なる神は「兄カインのささげものには目を留められず、弟アベルのささげものに目を留められた」とあります。まあここを読む限りにおいて、神はどうしてそのような対応をなさったのか、と考えてしまいますが。たとえば、カインは自分には食べるに良いものを保管し、ささげものには美味しくないものを持っていったのではなかろうかと想像をふくらませてみたりもいたしますが。しかしその理由について聖書は何も語っていません。ただここには、「アベルは羊の群れの中から肥えた初子をもって来た」と書かれていますから、アベルが羊の群れの中から「どれが神さまに喜ばれるものとして最善だろうか」と考えた上でそれを選び、身つきのよい初子の羊を引いて持っていったことが想像できます。神は小羊を御覧になられた時、アベルのその気持ちをお喜びになられたのではないでしょうか。

さて、一方のカインでありますが。
5節で、主がそのささげものには目を留めなかったことに対して、「カインは激しく怒って顔を伏せた」とあります。その様子をお気づきになった主は、カインに言われます。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」
そうですね。自分で本当に納得して、良心に責められることなくなした事なら、結果はどうであれ、顔を上げて生きてゆけばよいのです。しかし彼は、主に顔を上げて率直に「主よ、なぜですか。どうして私のものは受け入れて下さらないのですか」と、尋ねることができたのではないでしょうか。ところが彼は主に「正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」と問われた時も顔を伏せたままでした。正しい、というのは神の前にやましいことがないということです。正しくないというのは神に責めを負うべき思いがあったということでしょう。カインの場合それは神への感謝を蔑ろにしてしまったことへのやましさであったかも知れません。あるいはまた、弟アベルに対する強烈な嫉妬心という負の感情であったのかも知れません。そのようなカインに対して神は「正しくないなら罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」と告げられます。カイン自身が神に立ち返って再びみ顔を拝し、妬みや憎しみといった負の感情から解き放たれないなら、罪はカインに入り滅びることになってしまうということです。残念なことにカインはその神の忠告を聞き入れることなく、取り返しのつかない恐ろしい罪を犯してしまうのです。

話を戻しますが。最善のささげものとは何でしょう。
献金や祈り、奉仕、又、毎日の生活における生き方もそうですが、それらすべて「主なる神さまの恵みにどう応えていくか、という感謝の表れであり、それを神さまは喜び覚えてくださるのです。弟アベルのささげものにはそれが表れ、溢れていました。けれどもささげものは、人が目に見えるところで多い少ない、大きい小さいといった評価をするようなものではありません。今ささげています賛美もそうですね。上手いとか下手とか、声が大きい小さいということが重要ではなく、私たちの救い主への感謝と救いの喜びの思いに神さまは耳を傾け、ご臨在を示してくださるのです。

②「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」
さて、本日の箇所に人類の最初に起こった殺人事件、それも「兄弟殺し」というショッキングな記事が記されています。
先週、創世記3章からアダムとエバの物語を読みましたが。神と人とのゆがんだ関係は人と人との不義の関係を招き、人と人との不義の関係は神とのゆがんだ関係を映し出すのであります。
主がカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」とお尋ねになった時、カインは「知りません」と主に嘘をつき、「わたしは弟の番人でしょうか」と口ごたえします。主は、カインにそのように問いかけることを通して、罪の告白と悔い改めの機会を与えておられたのかも知れません。しかしカインはなおも主に逆らい、その機会を逸してしまうのです。
そこで主はカインに、「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる」と、遂に裁きの宣告がなされるのであります。
この主の宣告に対して、カインはやっと我に返ったのでしょうか。恐れおののきながら、「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」と、口にするのでありますが。

③「わたしが御顔から隠されて」
カインはしかし反省したとか悔い改めたというのではなく、ただ、「御顔から隠される」ということへの恐れ、つまり神さまの御顔をもはや拝することができなくなるという恐れを知ったのであります。この後、カインはエデンの東のノドの地に住むことになりますが、このノドとは「さすらい」という意味があります。彼は弟アベルを殺めた負い目をもち続け、命を狙われながら、地上をさまよい、さすらう者とされ、恐れに日々苛まれ続けなければなりませんでした。けれども、そのノドの地は地獄ではありません。そこは実に、私たちが生きるこの地上、現実の世界を指しています。

仏教では人間には生・老・病・死の4つの苦しみがあると教えていますように、人の現実には生きていく苦しみ、老いていく苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみがあります。それはノド、さまよい・さすらう人生に違いありません。しかしながら聖書は、その苦しみ自体に苦しみがあるのではなく、神の不在(神との関係の断絶)、兄弟姉妹の不在(兄弟姉妹との関係の断絶)に、苦しみと恐れの根源があると説いています。人間にとって一番の苦しみは、神が御顔を隠されるそのところ、神の不在にこそ、人の恐れと苦しみの根源があるのです。

④「カインに付けられたしるし」
さて、自らの恐ろしい罪を自覚したカインでありますが、主は罪の縄目におびえ、苦しむカインに言われます。
「カインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」
そうしてカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた、というのであります。本当に神さまの深い慈しみを知らされる思いがいたします。それにしましてもこの「カインに付けられたしるし」とは何であったのでしょうか?
カインの犯した罪はとてつもなく重いものでした。それはカイン自身の命をもってしてもつぐなえるものでは決してありません。カインは一生涯アベルを殺めた責めを負って生きなければなりませんでした。けれども、主はカインにしるしを付けることによって、彼をまもられた、というのですね。このカインは、主が付けられたそのしるしを見る時、自分の罪を思い起こしたことでしょう。そしてそのしるしによって救われているという、その主の御憐みを憶え、さすらいの地にあっても生き行く慰めと力を得たことでしょう。
私どもにとりまして、自らの罪深さと共に救いを思い起こさせるもの、それはまぎれもなく主イエスの十字架であります。主イエスが十字架上で流された御血によって私の罪が贖われているというその救いを生涯忘れることなく、主の御憐みに感謝してゆく時、私どもはたとえさすらいの地であったとしても、生かされて生きる喜びの道が備えられているのです。

私ども人はみなカインの子孫であります。人との関係の中で優劣を付け、ある時は高ぶり、ある時は卑下して落ち込み、妬み、さげすむそんな罪の縄目からなかなか自由になれず、自分を又、人を傷つけてしまうような者であります。
しかし、私どもは、主イエスの十字架の御前に立たされてゆく時、主の深い憐れみと赦しのもとに、心からの悔い改めとこの世では決して得られない聖霊によるいやしと平安を戴くのであります。そして十字架のキリストにおける神との和解は、人と人との和解をも促し、もたらしてくれます。
「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(Ⅱコリント6章2節)
今日、主の御前にいで、十字架の主によるゆるしと和解のしるしを新たに刻み、主の御顔を拝して生きて行く者とされてまいりましょう。私どもに付けられた「主イエスの十字架のしるし」を覚え、心から応答の賛美を主にささげましょう。

祈ります。
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分かれ道に立って、見定めよ

2014-06-26 09:26:11 | 巻頭言
巻頭言 

TVのニュースなどつけますと、サッカーワールドカップ・ブラジル大会一色ですが。日本の将来にとって大きな分岐点ともなるような国政の動きが慌ただしくなってきております。今月中にも「集団的自衛権」について閣議決定がなされようとしています。戦後70年築き上げてきた平和の道は、今一体どこへ向かおうとしているのでしょうか。戦争ができる国へと舵を切りだすような危険な大転換であります。時間をかけての国会審議や憲法の改正という手続きを経ず、政府の「閣議決定のみ」で決めようとする異常な事態であります。これまで歴代の内閣法制局(法の番人)は集団的自衛権は認められず、許されていないという見解をずっと保ち、守ってきました。だから日本は自ら外国に対して武力攻撃をすることなく、他国からの武力攻撃もなされることなく、戦争による戦死者を国内外に一人も出さなかったのです。そこには「平和憲法」の歯止めがあったからですね。ところが今の政府は、憲法の平和主義を骨抜きにし、血が流れる事をいとわない体制を形作ろうとしています。
私たちは聖書の言葉から聞く時、神の言葉である十戒には、神の言葉として「殺してはならい」(出エジプト20章13節)と命じています。又、イエス・キリストは「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26章52節)と言われました。
戦後70年間積み重ねて来た平和主義をそんなに簡単に投げ捨ててもよいのでしょうか。極めて危険な決議がこの6月中にも政府の閣僚のみでなされようとしていることに非常に深刻な危惧の念をおぼえます。
又、掲示板でご紹介していますが。吉田敬太郎さん、この方は衆議院議員時代に軍部批判をして投獄される中、「汝復讐するなかれ」と説く聖書の言葉に出会い、クリスチャンとなられた後、牧師となられ、その後若松市長を3期務められた、骨太なクリスチャンであられた方です。戦争の過ちが二度と繰り返されないために、歴史の証言が葬り去られてはなりません。併せて、バプテスト教会連合の一信徒の女性から始まりました「憲法9条をノーベル平和賞に」の署名についても、ご理解とご協力お願いいたします。また、23日は「沖縄(命どう宝)の日」として、沖縄の平和を覚える日です。
 二度と戦争の過ちを繰り返さないために、宗教者として祈り、できることをなしてまいりましょう。手遅れにならないうちに。

 かつてドイツのヴァイツゼッカー元大統領は次のように叫ばれました。「過去に目を閉ざす者は結局の ところ現在にも盲目となる。」
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あなたはどこにいるのか

2014-06-22 16:15:24 | メッセージ
主日礼拝宣教 創世記3章1~24節 

先週はエデンの園において、人であるアダムを「助ける者」として、そのあばら骨の一部から女が造られたこと。そして、互いに助け合うパートナーとされた彼らの喜びと祝福を御言葉から聞くことがでました。さらに私たちはそこからイエス・キリストにより主にある霊的交わりに招かれた互いを喜び、祝福する者、祈り執り成し助ける者とされていることを覚えました。そこに私たちのエデンの園(パラダイス)が開かれているのです。

さて、3章に入りますと、二人は神の戒めに背き罪を犯す事になるのであります。今日の個所を読みますと、二人が神に対して罪を犯していくことに大きな影響を及ぼしたのは、蛇であったとあります。この蛇は野の生き物のうちで最も賢く、女を罪へといざなったというのです。

この蛇とは一体何ものなのでしょうか?蛇は神の造られた生き物にすぎません。これは一つの象徴です。それをサタンという人もいるでしょう。まあ、自分と対立し、意見の合わない人を対話も深めることなくあたかもサタンで呼ばわりして裁き、排除するような紛争や分裂が残念ながら社会的な風潮として強まってきているように思えますが。この蛇に象徴される力とは、神の御心に逆らって生きるように目論み誘い、神との関係を引き裂こうとする悪意ということができます。又、人が自らを神であるがごとく思い高ぶるようそそのかして滅びるように仕向ける働きともいえます。
 
本日の箇所を読んでまず頭に浮かびますのは、「欲」という一文字であります。
「欲」を広辞苑で引きますと、第一に「ほっとすること」「願うこと」とありました。意外でした。欲という漢字の左の谷は「穀物」を表し、右の欠は「口」を開くとの意味があって、つまり本来は「穀物を食べる」という意味だそうです。これも意外でした。欲というのは人間が生来生きる上で願っていること、ほっとすることであるのです。しかし、それがその与えられた豊かな恵みに感謝することを忘れ不満をつのらせ、飽くなき満足を追い求めていくときに、欲望という泥沼にはまって罪を犯すようなことになっていくのですね。
主なる神はかつて人に命じて言われました。2章16節「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると死んでしまう。」
ところが蛇は女に言います。4節「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる。」
6節「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」とあります。アダムは何と簡単に女の言うとおりにしたものですよね。

この時、アダムと女は、エデンの園において死もなく、神の完全な守りと平安の中で過ごすことができていた。そこには食べて余りある食糧もあり、人として何不自由なく生きる世界があった。なのに、なぜ彼らは蛇の誘いに乗ってしまったのでしょう。

人は何もかも満たされ、整った環境を与えられ、受けるばかりの中に置かれてしまいますと、その尊い恩恵が神からのものであり、神の賜物による恵みであることを忘れ、気づかなくなってしまうのです。そうして恵みに満ちた日々は平凡で飽きたりた毎日となり、感謝なき心はやがて今あるものでは満足できない、というような不満をつのらせていきます。そして遂に魔が差すというようなことが起こり得るのです。こうして人は神が「これを食べたら死んでしまう」と忠告なさったものにまで手を伸ばすことになってしまうのです。そのようなことを思いますと、人は本当に弱く、もろいものだと言わざるを得ません。

さて、この善悪の知識の木から取ってその実を食べたアダムとその女は、7節「二人の目が開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」とあります。

2章に、二人は裸であったが「恥ずかしがりはしなかった」とありましたが、ここで「二人の目が開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせて、腰を覆うものとした」と、それは二人の目が開いたことで、互いの心のうちに「恥ずかしい」という意識が生じたということです。
「恥ずかしい」という意味にはいくつかあります。この箇所では「自らをやましく感じること」又、「過ちや罪などを意識して面目ないと思う」そのような感情が起こってきたということです。彼らのうちに罪の自覚が生じ、自分の中にとても隠さずにおれない部分があることを知り、恥ずかしくなり、うしろめたくなって、いちじくの葉なんかでとりつくろい、神のみ顔を避けて、身を隠すのです。こうして神との麗しい関係は歪んだものになってしまいました。
9節、主なる神はアダムを呼ばれます。「どこにいるのか。」
10節、彼はおびえながら答えます。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
彼らが神の御心に逆らうまでは、無垢な存在であったのです。すべて神のみ心のうちに生きるところに喜びと楽しみが伴っていたのです。そこにエデンの園の原型があったのです。ところが、彼らは神が取って食べるなと言われた善悪の木の実を食べると、罪を自覚して神の前に出ることができなくなるのです。自らをやましく思い、互いに身を覆うもので取り繕うとする彼ら。
無垢であったアダムの心に変化が生じます。彼は「取って食べるなと命じた木から食べたのか」との神の問いかけに対して、12節「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」とつまり、彼は自分が神に対して罪を犯した、自分が悪かったということよりも、女が勧めたのでと弁解しパートナーであるはずの女に自分の過ちの責任を転嫁するのです。そして女も又、13節、「蛇がだましたので」と、弁解し責任逃れをしようします。

現代においても、犯した過ちや失敗を認めるのは損をする愚かなことだというような風潮が当然のようにまかり通っています。何とか自分だけは傷つかないで守るために自分を正当化しようとする人の弱さ。聖書は神との信頼関係が損なわれてゆくとき、人との関係も損なわれることを如実に語っています。
アダムにとって神は祝福を与えて下さるお方でした。そして女はその祝福を分かち合い、喜び合う存在として神が与えて下さったパートナーであったのです。ところが、神に対して罪を犯し、自分の非を認めようとはせず、その責任のなすり合いがなされる中で、本来与えられた祝福は失われていきます。信頼は損なわれ、猜疑心に取りつかれたあげく憎しみ合うようにさえなってしまいます。神との分断、人と人との分断。実はそこに蛇の一番の狙い、目的があったのです。

13節の「神の何ということをしたのか」というお言葉には、深い落胆と嘆きが込められているようであります。神はまず蛇に向けて、裁きを言いわたされ、次いで女に産みの苦しみ、そしてアダムに、労働の苦しみ、さらに死すべき者として「塵に返る」ことが告げられます。その罪の結果とはいえ、何とも暗たんとした気持ちにさせられる場面でありますが。

ところが20節には、「そのアダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべての命あるものの母となったからである」と続くのですね。神はアダム・人に「塵に返る」、死ぬべき者にすぎないと告げられたにも拘わらず、ここでアダムは妻の女をエバ、命、それは「生きる」(動詞的意味)とそのように名付けたというのであります。
人は神に対して犯した罪によって死がもたらされるのですが。人はたとえその限られた時間の中で「命を生きる」、そう宣言したということですね。まあ、ここには人間のしたたかさと言いますか、それこそが神がその人の鼻に命の息を吹き込まれた「生命力」であろうかと思いますが。命が引き継がれてゆくことの中に、「命を生きる」という希望を人は見出すのであります。

さて、その2人の様子を御覧になっていたであろう主なる神は、21節「アダムと女に皮の衣を作って着せられた」というのですね。アダムと女が神に犯した罪は消えません。がしかし、主なる神は彼らを憎んでおられるのではなく、むしろ、人間のもつ弱さを慈しんで、それを覆ってくださるのであります。

その罪のゆえにもはやエデンの園から出て行かざるを得なかった人間、それはこの地上に生きる私たちでありますが。その私たちに父なる神は今や、イエス・キリストによる救いという「義の衣」を着せ、罪の身を覆ってくださいました。
罪あるまま、足らざるまま、欠け多きそのままの姿をさらしつつも、なお御前に立ち返って命を生きることを願う私たち人間に、今日も父なる神は、罪の身を覆う義の衣、主イエスの十字架の義と愛による贖いをもって、神と人、人と人との交わりを回復へと導いて下さるのであります。
「あなたはどこにいるのか。」神との和解の道、天の平安、永遠の命に与って生きる恵みに応えて、今週の歩みをなしてまいりましょう。

最後にヨハネ黙示録22章13節~14節を読んで今日の宣教を閉じたいと思います。
「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。」 祈ります。
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独りではない

2014-06-15 17:58:48 | メッセージ
礼拝宣教 創世記2章18節~25節 


18節、主なる神は言われました。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

先週は人が土のちりから造られ、神の命の息を吹き入れられることで人(アダム)が生きる者となったこと。又、神はアダムを用意されたエデンの園に住まわせ、そこを耕し、守るようにされた、という記述から「人の存在と使命」について聞きました。
エデンとは、へブル語で「楽しみ」「喜び」という意味があります。ギリシャ語では「パラダイス」;楽園(ルカ23:43)と言います。エデンには、人が生きる喜びや楽しみがありました。4つの川に通じ肥沃な地、豊かな鉱物や食べ物があり、多くの生き物がいたエデン。神は人をそのエデンの園に住まわせ、そこを耕し、守るようにされたのです。そのように初めの人アダムには、エデンで土を耕し、守っていくという仕事があり、その報酬としては余りある程の食物がありました。
ところが、主なる神さまは、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われます。すべて必要が満たされ、蒔いたものが実を結ぶ喜びがあり、豊かにそれを戴く楽しみがある。
それにも拘らず「人が独りでいるのは良くない」というのはどういうことでしょうか?アダムがよき労働や物質的豊かさや保証を得てもなお、神の前に幸せそうには見えなかったとするなら、何が原因であったのでしょう。それは人としての根源的な欠乏感、「孤独」でした。

1章の天地創造の箇所で繰り返されたのは、神の「良し」「極めて良かった」それは甚だ美しい、ともいうべき感嘆の連呼でありました。ところがここに至って初めて、「良くない」という言い方がなされているのです。神の楽園であるエデンにおいてすら、「人が独りでいる」こと、「孤独」でいることは「良くない」というのです。

そこで19節以降、「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持ってきて、人がそれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった」とあります。ところが「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった」と記されています。

神は人の助け手としてあらゆる動物を土から造り、人のところへ持って来られ、どれが人に合う助け手となるかを御覧になられます。けれども、人はその中にどれ一つとして助け手を見出すことができなかった、というのであります。
人はみな生まれた後、名づけられてやがて名前で呼び合うようになります。そこに互いのう関係ということが起こされ深められていくのですね。ペットの犬や猫なども飼い主が名づけるわけですが、それは飼い主にとって都合のよいもの過ぎません。
ではなぜ、神ご自身が直接助ける者とはなられなかったのかという疑問も起きるかもしれません。もちろん神は私たち人間を助けて下さるお方であります。しかしここにある「彼に合う助ける者」とは、それは単なるヘルパー的な意味での「助け手」とは違うのです。

21節以降を読んでみましょう。「主なる神は、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた」とあります。
まるで緊急治療室で手術がなされているかのような光景が思い浮かんできそうですが。

それよりここで注目したいのは、神はその「彼に合う助ける者」について、他の動物といった生き物のように土のちりからではなく、人のあばら骨の一部から造られた、ということであります。それは、人を介して助ける者をお造りになられたのであります。 
なぜあばら骨からだったのか?頭や手足の骨であってもよかったのではないかとも思うのでありますが。古くからあばら骨のある胸には、「愛情の宿るところがある」とか「魂のやどるところがある」と信じられていました。今も子どもなどに、心はどこにある?と聞くと大概の子はどこで聞いたか、「ここ~ぉ」と胸のあたりでハート型に指を合わせて見せるものです。まあ昔からあばら骨はその人の心情や魂を包み、守る役割があるとされていたのですね。神はその胸のあばら骨の一部を抜き取って女を造り、彼に合う(ふさわしい)助ける者として出会わされたというのであります。
それは、人の心の楽しみや喜び、又、労苦や悲しみといった心情を分かち合うことのできる存在こそが、人にとっての「彼を助ける者」であったということであります。
ここをただ表面的に読んで、女は男の一部から造られた。だから女は男に劣る、服従する者だというような考え方。又逆に、女が男の一部から造られたなんてこれは女性蔑視の考え方だとするのも、これはどちらも間違いであります。
確かに助ける者といえば、手伝いとか助手というヘルパーという響きが強くあり、そこに助ける側と助けられる側といった関係を連想しますけれども。しかしここで神がおっしゃった「彼に合った助ける者」とは、「~をしてあげる」「~をしてもらう」という従属関係ではなく、互いに心情を感受し合い、仕え支え合うパートナーとして「彼に合う助け手」が必要だという事であります。

23節、人は言った。「ついに、これこそわたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」

この言葉こそ「人」が初めて直接語った言葉として聖書に記述されているわけですが。「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」というこの表現には、「やっと見つけた」「探していたのはこれだった」 そのような感動が読み取れますね。それは彼と向き合うその人も又、同様であったでしょう。その感動は、人としての思いや心情を共に味わう感動、共有する感動であります。喜びや楽しみ、驚きといった人生の味わいを分かち合える相手。その後には悲しみや苦しみをも共にすることになるわけですが。彼はもはや孤独ではありません。
聖書は人の創造に際し、土のちりから造られたと伝えるように、肉体的にも精神的にも人がいかにもろく、弱い者であるかということを示します。神は「人は独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」とおっしゃって、そんな弱さやもろさをもつ人に、励まし合い、支え合い、生きる喜びを共有できるための仲間をお造りになられたのであります。それはここでは男と女という形で述べられているのですけれども。しかしそれは何も夫婦という形に限られたことではありません。
人は他者の存在によって励まされ、支えられているのであります。人はみな草のように弱く、やがては枯れていくはかない存在でありますけれども、その限られた時間、人生を如何に生きるかということは実に大切であります。人は独りでは生きられません。孤独の中に埋没していくことほど辛く苦しいことはありません。人の孤独をご存じであられる神は、人が思いや心情を共有したり、分かち合ったり、時には違いを通して互いが気づきや学びを与える「関係」。喜びも、悲しみ、苦しみさえも共に死、愛情を育む関係。そういう「彼に合う助ける者」が必要と出会いをお与えになるのであります。

昨日も「いのち」を考えるという講座に参加し、自死された方の遺児たちとの出会いを通して非営利団体の「自殺対策支援センターライフリンク」を立ちあげて「生きる支援」「いのちへの支援」とご自身おっしゃる活動を続けて来ておられる清水康之さんのお話を伺いました。講演では、NHKの番組ディレクタ―をしていた当時、ある番組で大学生の遺児が口にした「つらい気持ちを誰にも話せなかった」という言葉に心動かされ、その後退職されてこの活動を始められたそうです。後には、東日本大震災でご家族を亡くされた方々にもそれが共通した思いであり、ご遺族は誰にもその思いを話せずに、日々を過ごしておられるという思いに至ったそうです。そのような事から被災地にも足を運んで震災でご家族を亡くされたご遺族への支援やケアもなさっておられるということでした。
お話の中で心に留まりましたのは、遺児たちは自分と同じような苦しみやつらさを持つ人と出会うことによって、「自分だけではないんだ、同じような状況の中で苦しんできた人がいたんだ」ということを知り始めて、自分のもっていた感情や思いを安心してそこで話すことができ、励ましと支えを共に受け、次第にその痛み傷もいやされていくということでした。そして、そのいやされた人は今度は励まし、支える側になっていろんな形で活動を支えているそうです。人は独りでは生きられません。神は人の孤独の苦しみを分かち合うことのできる仲間、パートナーという存在をお造りになり、「人が独りでいるのは良くない」と、人と人とを出会わして下さるのです。

創世記3章以降に記されておりますが。人は知恵を得た代償として欲望を持つ者となり、そのことのゆえに人間関係がゆがめられる、ということが起こってきました。文明社会の中で、経済、物質的豊かさを追求するあまり、人と人の関係が損なわれたり、軽んじられたりといったことが血縁関係の中においてさえ起こっています。人はそこで益々孤独になっていきます。「私はもう一月近く人と話していません」「誰一人助けを求めることができる人がいません」そのような人が実際増えて来ているそうです。そのために万引きをして何度も投獄される人までいるそうです。どんな形であっても関わりが起きるからです。
天の父なる神は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助け手を造ろう」とおっしゃいました。そして遂に孤独にあえぐ私たち人間に、「共におられる神、主イエス・キリスト」をお与え下さいました。又、そのみ体なる教会を通して、人が再び神の祝福のみもとにおけるエデンの楽しみと喜びを見出し、それを他者と分ち合うことが出来るようにと、今も聖霊の息吹は吹きこまれ続けています。私たちはそのような救いの恵みに与った初めの愛を週ごとにこうして思い起こし、その恵みに応えていく歩みをなしていきたいと願います。

さて、本日の最後の25節のところに、「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」とありますが。

お互い良い面ばかりでなく、時には弱さをも認め合い祈りを共にできる関係、そこにまさに私たちのエデンがあります。そしてそのような互いの弱さをさらし祈り合えるのは、
自分も又、助け手を必要とする弱く、欠けたる面の多い「人間」であることを自覚し、主イエスによって赦され、救われた存在であることを知るからです。

「恥ずかしがりはしなかった。」それは、互いが、まず神からかけがえのない作品として愛のうちに造られた者であるということを認め合っていたからです。
この社会全体が一人ひとりすべての人のうちにその尊厳を認めることができるなら、どれほど命が尊ばれる平和な世界が実現していくことでしょう。残念ながら程遠いどころか、逆行しているような状況にあるわけですが。そのような中でいのちの福音に与った私たちは、自らもかけがえのない存在とされていることを信じ喜ぶと共に、あらゆる偏見から自由にされ、互いのあるがまま認め祝福を分ち合っていきたいものです。主イエスの言葉と招きのうちに祝された関係が築かれていくことを祈り求めながら、今週も歩み出してまいりましょう。
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人の存在と使命

2014-06-08 21:38:50 | メッセージ
礼拝宣教 創世記2章4節b~17節 聖霊降臨(ペンテコステ) 

「お帰りなさい」。聖霊降臨おめでとうございます。この日、使徒言行録2章にありますように、聖霊がキリストを信じる群れに降り、神の救いの出来事福音を世界中に伝える教会が誕生いたしました。今日はこのうるわしき喜び出来事を感謝しつつ、礼拝を捧げてまいりたいと思います。
昨日は大阪ブロック女性一日修養会が当教会で開かれ、やすらぎの介護シャローム副社長の俣木聖子さんから貴重な体験に基づくお話を伺いました。その中で、特に心に留まりました言葉は、「神さまから頂いたビジョンを生きることは狭い道を選び取ることであったが、本当にこれでよかった」とおっしゃっていました。人はそれぞれ生かされている存在であり、何らかの使命をそれぞれに与えられているのです。

さて、本日は先程読んで頂いた創世記2章のところから、「人の存在と使命」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

「人の存在(命)」
先の創世記1章では、神があらゆる被造物、野の草木などをお造になられた後で、動物などの生き物を従わせ治める者として、人をお造りになったという記事を読みましたが。
今日の箇所では、神が人を被造物の初穂としてお造りになったということが強調されています。
2章4節以降に、「主なる神が地と天をつくられたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。」
火星から探査機によって送られてきた映像など見ますと、草も生えていない荒涼とした赤土の地表に虫一匹も見当たらず、生命が感じられない世界とはこうも殺伐としたものなのか、と思いますが。そんな火星でもかつては水が流れていた運河だったのでは、というような痕跡が見られるということで、その地下には何らかの生き物が存在するかも知れないと、探索が続いているのだそうです。
6節に「水が地下から湧き出て、土の面すべてを潤した」とあります。
地下から泉が湧き出たことによって命が始まってゆくのですね。1章1節には「神の霊が水の面を動いていた」とあります。
神はこの潤された地に、「土のちり(アダマ)で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられる」ことで、「人は生きる者となった」と、聖書は伝えます。
ここには、私たち人は神によって造られた大地の一部である「土くれ」から造られたことが示されております。人は生まれ、いずれは死に、その体はやがて大地に帰ります。それだけであるのなら何ら草木のような他の被造物と変わりありません。しかし、人は神の命の息が吹き込まれることで、霊を持って生きる者とされた霊的存在である、と聖書は伝えます。それは初めの人のみならず、今も、生きとし生けるすべての人は神の命の息を吹きこまれ生かされている霊的存在であり、そこに人の尊厳があるのです。

さて、8節で、「主なる神は、東の方のエデンに園を設けた」とございます。
このエデンの園が地理的にどこにあったのかは定かではありませんが、エデンには歓喜という意味があり、それは前回のお話になりましたように、神が「見よ、それは極めて良い」とされた見目うるわしい世界がそこに広がっていたことを想起させます。
主なる神は、園に「見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えさせ」、人はそれを享受しながら生きる喜びを得ていた。それがエデンの園であったということです。今、私たちは流通も発達し、世界中の食べ物を口にすることが出来ますけれども。このエデン、歓喜あふれる世界の恵みを享受して生きる喜びをどこか見失っているような現実の社会であることを、考えさせられるわけです。

ところで、10節には、「エデンから1つの川が流れ、園を潤して、そこで分れて、4つの川になっていた」という記事があります。
先に、地下の湧水が地の面を潤していた、ということに触れましたが。水は命の源であり、それは人が生き、生活していくために不可欠な資源でもあります。旧約聖書の預言者エゼキエルは、幻を見て、水が神殿の敷居の下から湧き上がり、川となって流れゆくそのところはどこでも、群がる生き物すべてが生き返り、果実は絶えることなく実をつけるようすを謳っています。命の川の流れがあるところに、いやしと回復、豊かな食物の宝庫があるのです。
本日は聖霊降臨(ペンテコステ)の記念すべき礼拝を感謝のうちに捧げておりますが。ヨハネ福音書7章37節でイエスさまは、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われました。
これは、イエスさまを信じる人々が受ける聖霊であります。聖霊は生ける命の水であり、川のようにイエスさまを信じる人々からあふれ流れ、働かれるのであります。その豊かな恵みと神の臨在をいただいていることを体験できることは喜びであり、そこに私たちは「キリストにあるエデンの園」を見出すのであります。

「人の使命」
15節にうつりますが。ここで「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」とあります。

先回の1章の創造の記事では、神は人に「動物や生き物を支配し、治めるように命じ、そこに神の「良い」という御声が響き渡ったのでありますが。この2章において神は、「人をそこに住まわせて、地を耕し、守るようにされた。」つまり、その管理を人に委託されたのです。
以前私が住んでいた九州の教会は畑があり、そこにナスやキュウリ、イチジクの木を植えていました。私はもっぱら食べるばかりで、たまに水をやる程度でしたが。それども時々土に触れ実のなってゆく様子を眺めるのは楽しいことでした。何でも土いじりはいやしの効果があるそうで、そういう時人はエデンの園にいた時のことを思い出すのでしょうか。
農園や菜園においてまず何より大事なのは、地を耕して命ある種や苗が育つためのよい土壌を作ることでしょう。そして水をやり日光に気をつけて肥料をやって守ってゆくことはむろん大事ですね。「地を耕し、地を守る。」そのことに心と体を使っていけば、それだけの報いがあるでしょうし、逆にそれを怠たり、その実りを乱獲するなら、その負は人の側に跳ね返ってきます。
福島の原発事故の直後、有機農法に取り組んで来られた農家の主(あるじ)が絶望し自ら命を絶つという痛ましい出来事がありました。長い年月をかけて耕し、手しおにかけてきた土壌が一瞬にして取り返しのつかないような汚染された地となってしまった。その無念というもの如何ばかりであったでしょうか。今も海に地に放射能汚染は繰り返され、それが地下水や井戸を経由し、又海産物や農産物を経由して人体にも及んでいることを危惧いたします。原発事故後、福島フィールドワークに参加した折、放射性物質が大気や水を汚染し、自然界の植物、生物、そして人体を汚染していることのそれが、目には見えないということに言いようのない怖れを強く感じました。
「神は人を住まわせ、人がそこを耕し守るようになれた。」神から管理を委託されたこの大地をどのように耕し、守っていくか。その真価がかつてないほどに問われている今の日本、私たちであります。

「自由と豊かさの中で」
さて、本日の箇所の16節以降を読みます。
主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると死んでしまう。」

この言葉を読んだ時、ある人たちは、すべての木から取って食べる自由があるなら善悪の知識の木からも取って食べてもいいじゃないか、というかも知れません。
けれども考えてください。エデンの園の所有者は一体誰でしょうか。それは人間ではなく神であります。神が人に生きるためのあらゆる恵みの賜物を与えておられるのです。それはただ神の一方的な恵みによるものです。にも拘わらず、人は自分がまるでそのすべての所有者であるかのようにむさぼり、人が神の恵みの賜物によって生かされているということを忘れ、管理者としての使命を投げ出し、土くれから出来た者にすぎない者であるかということを見失って遂に一線を越えてしまった時。人類は自ら招く殺伐とした状況に直面することになりはしないでしょうか。
人が神とエデンの園で顔と顔を合わせるように生きていた時、人は神が「決して食べるな」と命じている木に対して、「それに手をつけて食べないという自由を選び取る」事ができた。そこに平安があったからです。エデンの園はまさしく楽園でありました。
しかし、人がその与えられた自由をむさぼり食った時、いのちの神との関係は大きく損なわれ、地は呪われるものとなったのです。それは寓話に過ぎないとは決していえない現状が今、私たちの前には数知れず拡がっています。
社会、政治、医療、あらゆる分野でそのことが問われています。科学や文明の発展の中でこそ、いのちの神に対する畏れの念をもつことが求められています。科学や文明の発展の中で益々拡がっていく選択肢の中から私たちが何を選び取っていくのか。その与えられた自由が滅びを招くことだけは避けたいものです。

今日は神が人をお造りになられた記事から、私どもの存在と使命について、もう一度創造主の前にあって、祈り立ち帰って、神の作品として存在し、その使命を託されていることを再確認いたしましょう。

最後になりますが。
先週もJR西日本あんしん社会財団による「いのち」を考える連続講座に参加し、西宮市社会福祉協議会・障害者総合支援センターにしのみやセンター長で、NHKのEテレ障害者情報バラエティ「バリバラ」にレギュラー出演され、著書に「生まれてきてよかった~てんでバラバラ半世紀」などございます玉木幸則さんのお話を伺う機会がありました。ご自身脳性マヒで言語障害があり、90分という講演時間を話しきるのは大変なことだと初め思ったのですが、あっという間の90分でした。この方は仮死状態でお生まれになり、4歳というまだ幼い頃親から「肢体不自由者の施設」に無理やり入れられるという経験をなさいます。しかし「そのつらい経験が、今の仕事を支えている」とおっしゃっていました。   
玉木さんはそのお話で、「しあわせ」は世間や人が決めることはできないとおっしゃっていました。最近ニュースで、超軽量児の赤ん坊を出産したばかりのお母さんが、「この子は生きるために生まれた」とおっしゃったその言葉が、自分のことのようにうれしくて、強く心揺さぶられたそうです。
神さまは人を土のちりで造り、そこに命の息を吹き入れて、人が生きる者となった、と聖書は伝えます。命あるすべての人に、一人ひとりに、「生きるために生まれた」存在の意義と使命があります。今日私たちは聖霊の命の息吹をおぼえつつ、それぞれ世に遣わされてまいりましょう。今週の一日一日のうえに神の救いの御業が起こされていくことを祈り、期待しながら。お祈りいたします。
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見よ、それは極めて良かった

2014-06-01 16:48:01 | メッセージ
礼拝宣教 創世記1章1節~2章4節前半 

「お帰りなさい」。
昨日は、ベルフィリアのコンサートが行われ、教会堂に入りきれないほどの140名以上の参加者はいたかと思いますが、本当に素晴らしい時となりました。この日もそれぞれ異なる大きさのベルをベルリンガーが使いこなしながら、それが一つのチームを構成し、見事なハーモニーの美しい調べにただ感動させられました。
又、私は先月からJR西日本あんしん社会財団(宝塚脱線事故の後にできた財団)が主催します「いのちを考える」というテーマで6回の連続講座に聴講にいっておりますが。先回はその3回目の講座で、クリスチャンドクターで、金城学院大学院長、淀川キリスト教病院理事長の柏木哲夫先生からお話を聞く機会がありました。そのご講演で、心に残りましたのは、「使命」とは読んで字のごとく「命を使う」という意味であり。運命とは、命を運ぶという意味であるという言葉でした。私たちは使命や運命ということを言いますが、人にはそれぞれの使命がありますが。何のために命を使っているのか、ということを改めて考えさせさせられました。又、運命については、聖書のイザヤ書46章中に「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い(持ち運び)、救い出す」という御言葉から、神さまが究極のところで私たち一人ひとりを持ち運んでくださる、という真理について触れられたお話に感銘を受けました。

さて、本日の礼拝より少し長いですが9月末まで、創世記をゆっくり読んでいきます。
今日はその初めの1章~2章4節の天地創造の記事から、「見よ、それは極めて良かった」というテーマで、御言葉に聞いていきたいと思います。

この「見よ、それは極めて良かった」という言葉は、記憶にある方もおられるでしょう、
私ども大阪教会の献堂感謝式にご出席下さった方々に、感謝の思いを込めて「どらやき」をプレゼントしましたが、そのどらやきに焼印されていた言葉です。くすしき主の御業が働いて神さまによって完成された新会堂であります。神ご自身が、この御手の業を御覧になって、「見よ、それは極めて良し」とおっしゃっているのではないかと、この御言葉を選ばせて頂きました。その祝福に応え、これからもこの会堂を通して行われる礼拝、諸集会をもって、主の呼びかけに応える歩みを続けてまいりたいと願っております。

まず、この創世記について常に問題になりますのは、人類はサルから進化したという進化論との対比や歴史年代との矛盾についてであります。しかし、そういう観点から創世記は編纂されたものではないということを始めにおさえておくことが肝心であります。

この創世記が記されたのは、紀元前6世紀頃のイスラエルの民がバビロニアの捕囚とされていた時代です。捕囚として異教の地に生活を余儀なくされていた彼らは、ある意味敗北感と絶望的状況において、「私たちの神はなお生きて働かれるお方、共におられるお方である」ということを確認していく必要がありました。神は虚しい偶像や木、石といったものに宿られるのではなく、ご自身がお造りになられた者たちに深い愛のまなざしを注ぎ、祝福をしてくださるお方である。そのような信仰の再確認をしていく必要があったのです。そこで、それまでは口伝で語り継がれてきた民の歴史を書きものに綴っていったわけであります。その一つが、創世記なのであります。

バビロニアの神ならざるものが神として君臨し、世の権威が横暴をきわめる暗黒と混沌とした時代の只中で、「光あれ」との神の御声は、どれほど彼らを勇気づけたことでしょうか。天地万物の神、すべてを治めておられる神への信仰を再確認していくことは、イスラエルの民にとって、その存在の根拠を見出すに等しいことだったのです。
ですから、この箇所から進化論やあるいは宇宙の起源と対比させて論じることは的外れなことでありますし、そもそも人類の叡智をいくら集めたところで、この世界の起源の本当のところなど解明できるものではないでしょう。せいぜい分かる事と言えば、この世界には必ず「初めのときがあり、終わりのときがある」ということです。
創世記は単にバビロ二アの捕囚民だけのためにあるのではなく、今私たちが生きている終末ともいえますこの現代においても、闇を照らす「光」であり、神の御手の業を指し示す希望といのちのメッセージなのであります。

さて、本日の「見よ、それは極めて良かった」というテーマですが。
天地創造の神は、6日間創造の業をなさるのでありますが。その1日ごとに、それらの創造されたものを「見て、良し」とされたとございます。そして、いよいよ6日間の創造の業を終えられた時に、「神はお造りになったすべてのものを御覧になって、『見よ、それは極めて良かった』とおっしゃっているのです。「見よ、それは極めて良かった。」

1日目から6日目までにお造りになったものは、それぞれに良いものでありましたが、それらすべてを見わたされた時、「それは、極めて良かった」とおっしゃるのです。
空も海も山々も、またあらゆる動植物もそれぞれに良い。けれど、それらすべてが有機的に結び合わされた様子を御覧になって、心の底からといいますか、天地万物の造り主であられる神はそのことを喜ばれ、それを大いに満足されたというのであります。この「極めて良い」という原語は、「美しい」と感嘆されたという意味をもっております。先にハンドベルコンサートでのハーモニーの調べの美しさに感動した、と申しましたが。
この世界に存在するあらゆるいのちは、神がお造りになられた他のいのちや被造物と結びつき、つながるなかで互いに生き、生かされているといえるでしょう。生態系という言葉がありますように、この世界は神さまがお造りになったもの同志がつながり合って生かされているのです。「見よ、それは極めて良かった。」ここには、「見よ」と促す言葉がありますが。私たちが神のお造りになった大自然と生き物たちのいのちの営みを見る時にどうでしょう。それは時に感動を与えるほど美しく壮大で、まさに神の御手の働きが思い起こされるのであります。しかし、その神がお造りになった生態系の調和が崩れていきますと、自然界、動物界、そして人間にも異変が起こり、個々のいのちを脅かす事態になりかねません。
そこで、今日特に私どもが聞く必要がありますことは、神さまが6日目に「人」を創造された箇所に語られるメッセージであります。

27節で「神は、ご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」とあります。
この地上にあって人は何と、神の似姿として造られ、生かされている存在であるのです。神は一人の人間を本当にかけがえのない存在としてお造りになられたのであります。それは誰一人として世界に自分と同じ人間が存在しないというオリジナルの存在、オンリーワンとして人を造られたのであります。どんなに似ていたとしても、どんなに近い血縁関係であっても「私」と同じ人はどこにもいません。世界中どこを探しても私という人間は私唯一人、オンリーワンの存在なのです。
そのように一人ひとりが「神の似姿」というかけがえのない存在として神が造られた。そのことが、26節の「我々にかたどり、我々に似せて」の「我々」という言葉に込められているのだ、という神学者もいるくらいです。それほどまでに、人間の一人ひとりは尊く造られているということであります。それはすなわち、神のご性質がさまざまな特性をもって私ども一人ひとりに注がれている。神の作品として私ども一人ひとりが神のご意志をもって生きる者とされているのであります。

ところで、聖書の神は唯一なる神であられますが。聖書で神が我々とおっしゃる時、それは神の三位一体のご性質、「父なる神、御子イエス、聖霊なる神」として臨んでおられることを顕わします。それをたとえるなら、水は液体ですが、個体になれば氷になり、液体になれば水蒸気として存在するように、三位一体として、私たち人間一人ひとりと関わってくださるお方なのであります。
新約聖書のフィリピ2章6節以降に次のように記されています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間の姿で現れ、、、」とございます。
キリストはお一人ですが、キリストは神の身分であるにも拘わらず、私ども人間一人ひとりの姿となって現れなさった、というのです。それは、キリストがその一人ひとりのためにご自身を与え尽くされたということでもあります。それほどに私ども一人ひとりは、神にとってかけがえのない存在として造られ、生かされ、愛されている存在であるのです。イザヤ書43章に「わたしの目にあなたは価高く、貴い」という御言葉がありますが、私どもは神の似姿としてかけがいのない一人ひとりであるのです。

もう一つ。27節には、神の似姿として「男と女に創造された」とございます。
ここで大事なのは、神が「違いもったもの」を敢えて造られ、その違いのゆえに互いを補完し合い、助け合うパートナーとされたということです。人間同志も共に生きる存在として造られたことを互いに認め合うところに神の祝福は臨むのであります。

28節「産めよ、増えよ、地に満ちて地に従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべて支配せよ。」

ここで注目しますことは、5日目まで神はその造られたものに対して語りかけることをなさいませんでしたが、この6日目の人の創造に際して、神は初めて直接彼らにとか、あなたがたに、と語りかけ、祝福していらっしゃるのです。
神はその人間に向けて、「お造りになった自然界の生き物、動物をすべて支配せよ」とお命じになります。しかし、この「支配せよ」という意味は、権力でもって搾取し、その立場を濫用していくことではありません。如何にこの世界において人間はその言葉を過って用い、世の権力や地位による搾取や濫用が繰り返されていることでしょうか。それは創造の神への反逆の罪ということができます。
神はお造りなられたすべての生き物本来の在り方を、人が保ち、守って治めていくことを期待しつつ、「見よ、それは極めて良かった」と言われます。この地球と世界に及ぶ神の秩序が保たれ、損なわれる事がないよう人間にその働きを託しておられるのです。

神はさらに次のように呼びかけます。
29節「見よ、全地に生える、種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物になる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべていのちあるものはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。

神は、このような創造世界のなりゆきとその完成を御覧になり、「見よ、それは極めて良かった」と大いにほめたたえるのです。良かったというのは、単に良いと言うこと以上に、美しい、神御自身が心の底から感動なさり、大満足なさったという事であります。

私たち一人ひとりは神のかけがえのない作品としてこの地上にあって生かされています。それは又、同様に神の創造の業である他の存在を生かし、それらと共に生きるように招かれているということでもあります。そこに神さまが私ども人間の大きな使命があるといえます。創造の神の祝福と喜びがそこに今も満ち溢れるのです。

2章2節以降で、第7日に「神は御自分の仕事を完成され、「安息」なさった」とあります。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第7の日を神は祝福し、聖別された」とございます。「安息日」はもともと「休息の日」でありました。
私たちにとっても、本当の意味での安息日はあるでしょうか。人は体を休めることだけで真の安息を得ることはできません。主の日は、これを「いのちの始りの日」としておぼえ、すべての世の束縛からの解放と自由、救いが与えられていることを、礼拝を通して確認し、神の安息に与る恵みと喜びを他者と共に分かち合うのです。そこに、創造の神さまの祝福があり、真の平安があると信じるからであります。

本日は創世記1章の天地創造の記事から、神さまが私たちに向けて語りかけているメッセージを聞いてきました。この後、主の晩餐が行われますが。すべての「いのち」の源であられる神さまが、私たちを神の子としてくださるために払われたその尊いいのちの対価を心に刻みつつ、神からいただいているいのちに感謝しながら、神のご用のために勤しんでまいりたいと願い、祈ります。
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