日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

見失ったものを見つけるまで

2023-02-26 14:14:51 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ15章1-10節 レント(受難節)

本日のルカ15章1~10節は、どちらもよく知られる「見失った羊」と「無くした銀貨」のたとえであります。さらに本日は読まれませんでしたが、その後にはこれまた印象深い「放蕩息子」のたとえが記されていますが。この3つのたとえは、いずれも「見失ったものが見つかり、一緒に喜ぶ」というお話であります。
これらのたとえ話は、そもそも冒頭の1節にあるように「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。」そのことが発端となっています。
彼らは徴税人や罪人たちを自分たちより劣る存在と見下し、排除していました。ところがイエスさまによって徴税人や罪人たちが主の前に迎え入れられ、喜びの食卓を一緒に与っているのを目の当たりにし、不平不満を言うのです。実に彼らこそ、神と人、人と人との関係性に歪みが生じていたと言えましょう。

では、まずはじめの「見失った一匹の羊」のたとえですが。これと同じたとえがマタイの福音書にもあります(18章)、そこでは「迷い出た一匹の羊」のたとえになっています。迷い出たものとはその文脈では「幼い子ども」を指し、この小さい者をつまずかせ、小さい者が一人でも滅びることは、天の父の御心ではないことが、そのたとえで強調されています。
一方、今日私たちが読んでいる「見失った羊」のたとえ話は、持ち主が羊を見失った話です。そこに主なるお方の思いが伝えられていることを心に留めて読む必要があります。

イエスさまは、「百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、その持ち主はどういう思いをするだろうか。九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」ということを問われます。
この一匹の羊には名前があり、ほかの何ものにも代替できない存在、唯一つのいのちです。本来そこにいるはずの一人が見失われ、見つけ出せなくなっている。羊飼いであられる主の憂いと悲しみが、このたとえは表しています。

1月から一昨日の金曜日まで越冬夜回りが行われ、路上で寝泊まりをされておられる生活困窮者への安否確認をしながら毛布、下着類、ホッカイロを配り、生活支援のよろず相談を行ってきました。そこから路上の生活から脱してアパートで新しい生活を始めた方がたもいましたが。その一方で、2人の方が路上で亡くなられるという何とも残念なことがありました。寝ておられる方をむりやり起こして確かめるわけにもいきません。又、冷たい地面に何も敷かずに居る人に段ボールや毛布を渡そうとしても、「必要ない」と言われると、無理強いはできません。それでもスタッフの方がたと話し合い、命を落とされないですむように可能な限り声かけし、最低限必要と思えるものは受け取ってもらうように働きかけよう、ということにいたしました。
 現代の社会だけでなく、いつの時代でもそうかも知れません。百匹の羊もいる中で一匹を見失ったとしても、それは迷い出たのだから羊が悪い。自分に非はない。一匹ぐらい問題ない。また自分の目にかなう別の羊を代替すればいい。わざわざ見失った羊を捜すようなことをする必要がない。そんな風に他者に優劣をつけ、排除していくことがあるのではないかと思います。今日の聖書ではファリサイ派の人々や律法学者たちがそうでした。
しかし、見失った一匹とは本来神の大切な存在でありながら、置かれた状況から他に生きる道が見当たらず、よい助けやよい助言者に出会えなかったことが要因となって、そのように生きざるを得なかったのであります。本来なら彼らを保護し、救済すべき公的な立場にあったファリサイの人たちや律法学者は無関心なばかりか、神の前に見失われるほどに排除し、放置していたのです。

ここで、イエスさまは言われます。「その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った羊を見つけ出すまで捜し回らいないだろうか。」
それは、すべての羊の持ち主、主なる神さまのお心です。見失った一匹を見つけ出すまでさがし、見つかったら大喜びでその羊をかついで連れて帰る羊飼の姿は、ご自分の宝であるその一人をいつくしまれる神のお姿です。それは同時に、飼うもののいない羊のようにされている群衆を見つめ、断腸の思いで涙された、あの愛なる主イエスのお姿であります。

イエスさまは次のように言われます。
5節、「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」
イエスさまは「罪人とみなされる人たちを迎えて、食卓を共にされ」ました。神の前に失われていたが、見出された人と喜び祝われるのです。それは天の国の祝宴であります。そこには分け隔てはなく、だれもが招かれているのです。

「罪人を迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言ったファリサイ派の人々や律法学者たちは、罪人と言われている人たちが神の前に喜ばれる、その喜びを共にすることができませんでした。
彼らはある意味ユダヤ社会で立派に生活できていた人たちです。いわば九十九匹の羊であり、九十九人の悔い改める必要のない正しい人たちであるともいえるでしょう。百人のうち九十九人もの人が正しい人であるなら、罪人の1人くらいどうでもいいじゃないか。それがこの世、世界のある意味、合理的で常識的な考え方と言えるかも知れません。
しかし、羊の持ち主にとってその1匹の価値は尊く、非常に大きいのです。100%は完全です。しかしそのうちの1%が欠けた99%は不完全な状態です。その1匹あってこそ、喜び満ちる世界なのです。

それでは今日の2つめ、「無くした銀貨」のたとえについて見ていきましょう。
イエスさまは、「ドラクメ銀貨10枚持っている女がいて、その1枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」と言われます。
ドラクメという銀貨の単位は聖書の後ろの付録表によれば1デナリオンと同等の額のようです。
それはこの時代のほぼ1日分の賃金に相当するということであります。まあ、それは確かに必要なものであったとはいえますが。その女性にとって9枚の銀貨があれば当分食べて生活していくのに問題ないようにも思えます。又、見つかったといって隣り近所まで呼んで一緒に喜ぶほどのことかと思います。ともし火をつけ、わざわざ家を掃き、見つけるまで、何も念を入れて捜す必要はなかったと思えるのです。一体そこまでして見つけ出し、一緒に喜ぶ理由がどこにあったのでしょうか。

おそらくそれは、その銀貨が彼女にとってどうしても10ドラクメでないといけなかった、というわけがあるのでしょう。言い換えれば、9ドラクメでは意味をなさなかったという事でしょう。
たとえば注解書には、「この10ドラクメは女性が嫁入りのために備えていたものであり、それをつないだ首飾りか頭飾りとなるものであった」とも記されていました。
つまり、この人にとってその1ドラクメをなくしてしまえば、たとえ9つの銀貨があったとしても、それ自体の価値がなくなる、ということです。だから彼女はもう真剣になって、無くした1枚の銀貨を捜し回ったということです。
私は以前、お腹がすいてコンビニに飛び込んで食べ物を捜したところ、財布の中身がほとんど入っておらず、あと10円あれば買えるのに、その10円が足りないがために買う事が出来なかったという恥ずかしい経験があります。そのことによって10円の価値について思わされましたが。
100円ショップの商品、今は消費税込で食品は108円、他の生活品は110円かかりますが。その1円が足りないと必要な商品を買う事ができません。その場合の1円って本当に価値がありますね。

いずれにしましても、この1枚の銀貨をなくしたこの女性にとって、その1枚の銀貨はなくてはならないものであり、又、実は残りの9枚の銀貨共々に必要不可欠なものであったということです。それだけに、この1枚の銀貨を見つけた時の喜びは大きなものとなり、9節「友達や近所の人々を家に呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」と、イエスさまはおっしゃるのです。その喜びはこの後で語られている「見失った一匹の羊」のたとえと同様、一緒に分かち合われていくのです。

主の前に私たちの1人ひとりが、この貴重な1枚の銀貨であり、主の前に取り戻されるべきかけ替えのない存在であることを、このたとえを通して主イエスは語っておられます。

ここまで、イエスさまがファリサイ派の人々や律法学者に話された、「見失った羊」と「無くした銀貨」のたとえを見てきました。
「罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と、徴税人や罪人を見下し、イエスさまに不平を言った彼らでしたが。実はその彼らも又、神の御前においては欠けをもち、主の救いを必要とする一人の人間であるのです。
見失われていた1匹の羊、無くした1枚の銀貨が見出されることによって、99匹の羊、9枚の銀貨も又、ほんとうに価値あるものとされるのであります。
主イエスはファリサイ派の人々、又律法学者たちも、それだから、「一緒に喜び合おう」と、訴えておられるのです。

私たちも今日のこの聖書のメッセージを受け、神さまが招いておられる幸いを覚えると共に、同様に招かれているおひとりお一人と、天の大きな喜びを共にしてまいりましょう。
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2023年2月26日(日) 主日礼拝式 おしらせ

2023-02-22 12:54:34 | 教会案内

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神の前に豊かに生きる

2023-02-19 13:24:28 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ12章13-21節 


イエスさまの教えを聞くために集まって来ていた群衆の中の一人が、イエスさまに嘆願して言います。「先生、私にも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。
彼は遺産相続の問題で、兄弟が自分に分け前をくれないから何とかしてほしいとイエスさまに訴えます。彼がそのように訴えたのは、当時の裁判や相続分配については、律法学者が主にそれを裁いていたからです。
旧約聖書の申命記やレビ記にある律法に基づく調停がなされていたので、イエスさまなら正しい裁きをして下さるだろう、と訴え出るのです。

それに対してイエスさまは、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と言われます。それは一見冷たい答えのように思えますけど、この人の訴えや悩みを拒絶したというのではないのです。
実際に遺産相続の問題はほんとうに深刻で根深いものがあります。肉親という近い間での争いとなりますから、複雑に問題が絡みあい、憎しみや恨み、陰湿さの様相も呈します。そういう中で、この人もいたたまれない思いに苦しみ、イエスさまに何とかしてほしい、とその苦情を訴えたのでしょう。
イエスさまもこの人の怒りや悔しさ、苦悩や痛みをきっと察しておられたことでしょう。
それについては、勿論法的なかたちで律法学者に解決を仰ぐことを否定なさらなかったはずです。ただイエスさまは、ご自身については律法学者のように解決する者ではないとおっしゃっているのです。
ヨハネによる福音書の12章47節を見ますと、イエスさまは「わたしが来たのは世をさばくためではなくこの世を救うためである」と言っておられるとおりです。
また続けてこうおっしゃいます。「父なる神のご命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。」
 イエスさまは貪欲によって「命」、それも「永遠の命」が損なわれることを問題になさっておられるのです。
 そこでこの遺産問題に関わる人だけでなく、その周囲にいた弟子やすべての群衆に対して、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と言われ、「ある金持ち」のたとえ話をなさるのです。

では、16節以降のたとえ話を丁寧に読んでまいりましょう。
「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らした」とあります。
彼は予想もしなかった豊作で、大喜びし、ふっと気づきます。作物を保管する場所がない。それであれやこれやと思い巡らした結果、「やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまおう』」。
この金持ちは大きな倉を新しく建替えることができたくらいですから、一介の農夫ではなかったのでしょう。多くの農夫を雇っていた大地主であったことが想像できます。彼はあり余る程の物をすでに持っていたということです。
ただこの人が残念なのは、「その倉に穀物や財産をみなしまいこんで」、一つ残らず自分の物としたことです。この人の他者との関係性はすでに損なわれているのです。

さらに19節、「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と」。その言葉に、この人の貪欲さがよく表されています。
ここを原文に沿って訳されている改訂版新共同訳聖書で読むと、「自分の魂にこう言ってやるのだ。『魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ』」となっています。
 なんとこの人は財産をもっていることで気が大きくなり、自分の魂さえも自分の所有物のように思い違いをし、自分の欲望のみを満たそうとするのです。、
この魂はギリシャ語で「プシュケー」。それは、人が単に肉体的、身体的なものとは異なる霊的な存在であることを示しています。それは、天地万物の創造主であられる神が人をお造りになられたとき、土の塵からできたに過ぎないものに、神ご自身の息をその鼻から吹き入れられることによって、人は生きる者となった、と創世記2章に記されていますが。この神の息がまさに今日のところのギリシャ語で「プシュケー」「魂」なのです。
つまり、人は単に身体的、肉体的なものでなく、命の源であられる神の霊的いのちによって生かされている存在なのです。                                 
ですから、「ある金持ち」のたとえで語られていますのは、単に地上における営みや寿命ではなく、人の本質である「魂」についてであります。それは永遠の命に通じる話ともいえるでしょう。
たとえの方に戻りますが。
先程も申しましたが、この金持ちは穀物や財産をしまいこめる大きな新しい倉を作り、そこに十分蓄えておけば自分の「魂」も同様に満たされ、満足のいく毎日が保証される、と考えました。  
富の力は強いものです。いくら自分がそういうものに影響されないと思っていても、いざ財産や富を手にすると、それに捕らわれて人が変わったようになってしまう人もいます。失うのを恐れて家族や近しい人さえも縁を切ってしまう人もいます。
イエスさまに相談しようとしたこの人もそういったうめきがあったのかも知れません。

ここでイエスさまはきっぱりと、「有り余るほどのものを持っていても、人の命は財産や富によってどうすることもできない」とおっしゃいます。
富や財産そのものが悪いわけではありません。管理することも大事でしょう。問題は命の源である神との関係性が損なわれ、ひいては財産争いが生じたごとく人と人との関係性が損なわれてしまうことにもなるのです。
お金の使い方にその人の価値観や人生観が表わされると言われますが。生き生きとした価値ある人生とは、「いくら持っているか」ということにではなく、与えられた恵みに感謝し、それを「どのように用いるか」によって決まるのでしょう。

さて、イエスさまは多くのたとえ話をなさいましたが、その中で神さまが登場して直接お語りになっているのは、このたとえ話だけです。それは、神が直接登場なさるのでなければ言い表すことのできない、重要な事が語られているということです。
その20節のところをここも改訂版の新共同訳聖書でお読みします。
「しかし神はその人に言われた。『愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか。』」
ここに、「魂の主人がだれであるのか」ということが語られているのです。
この金持ちは、「自分の魂にこう言ってやるのだ。魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ」と言うのであります。しかし、この魂を司っておられるお方は、唯おひとり、天創万物の創造主であり、すべてのいのちの源であられる神なのです。どんなに富や財産を持っている人も、あるいは、ときの支配者や権力者も、すべての魂は神さまに知られ、神さまが司っておられるのです。人の命も寿命も主なる神さまの領域の事柄であります。
自らの魂を保証したこの金持ちの命、魂は、この主なるお方によってその夜にでも取り上げられてしまう、ということであります。そのことを知らずに富や財産を蓄え、自らを保証しようとするのは、神さまがおっしゃっているように、「愚かな者」だということです。
 人の貪欲は決して飽き足りず、満たされることを知りません。
それは魂の平安が損なわれた状態です。

22節以降でイエスさまは、生きるための「いのち」のことについて「何を食べようか、何を着ようかと思い悩むな、煩うな」とおっしゃっています。そして25節で「あなた方のうちで誰が思い悩んだからと言って寿命をわずかでも延ばすことができようか」と、続けておっしゃっています。
たとえの金持ちは豊作による作物に満たされました。それ自体は神さまの祝福といえますが、彼は18節にあるように、その神さまの恵みと祝福である豊作物をはじめ財産を、自分のためだけに大きな倉を建て、そこに「みなしまい」込んだのです。そうして自分のためだけのために使い果たしていこうとしました。さらに、多くの財産を前に自分の命さえ思い通りにできると思い違いをしていたのです。
イエスさまのお言葉で言えば、21節「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならなかった」者であったのです。それは実に残念な人生であり、魂が損なわれた状態であります。
それに対してイエスさまは、「すべての必要をご存じである神に信頼し、唯神の国と神の義を求めて生きる」ように招かれます。そこに命の必要、魂の必要が備えられると言われるのです。
私たちはどうでしょう。もちろん与えられた人生を喜び、楽しんで生きることは良いことであります。お金や財産に限らず、私たちの体、その命さえも、すべては主なる神さまのご支配の中で与えられている神の賜物、恵みです。
 その上で私たちにとって何ものにも替えがたい財産。それは、主イエスが十字架の上で勝ち取って下さった「永遠のいのち」です。それは、いのちの源であられる神と結ばれて生きる新しい魂、「プシュケー」であります。私たちはこの神の命に生きるために神に日々招かれているのです。

使徒パウロはフィリピの信徒への手紙3章12節以降でこのように記しています。
「わたしは、既にそれを得たというのではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後のものを忘れ、前のものに前進を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
 今週の22日水曜からレント、受難節に入ります。私たちが神の前に豊かな者となるために、主イエスがその命さえ惜しまずお与え下さったことを日々思い起こしつつ、神の前に豊かに歩んでまいりましょう。
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2023年2月19日(日)主日礼拝式 おしらせ

2023-02-15 13:50:16 | 教会案内

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「ともし火」のたとえ

2023-02-12 12:37:41 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ8章16-18節 

多くの人にとって日常に欠かすことのできないもの、それは「あかり」でしょう。
まあ、現代はたいがいの家庭でも電灯器具がついていて、壁際にあるスイッチやリモコンボタンを押せば、暗い部屋もまあ昼のようにすぐ明るくなりますけれども。この時代のユダヤでは週報の表にあるような、燭台の皿に油と灯芯を入れ、それに火を灯していました。
 イエスさまはこうしたユダヤの人々が日常生活に欠かすことのできなかったこの「ともし火」を通して、神の国の奥義についてのたとえ話をなさるのです。
今日私たちに語りかけられる聖書のメッセージに耳を傾けてまいりましょう。
16節で、イエスさまは次のように言われます。
「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。」
そのとおりです。器で覆えば何の役にも立たず消えてしまうでしょう。ベッドの下だと足元は照らしても暗く、第一危ないです。背の高い燭台にあかりを灯せば、部屋全体が照らし出され、明るくなります。

このイエスさまのおっしゃることを注意深く聞くと、イエスさまは入って来る人に「光が見えるように」と言われているのがわかります。自分以外の誰かが入った時、その光が見えるように光をかかげていることが大切なのです。
 ではそもそも、この光とは何でしょうか。
それは、私たちのすべてを照らし出すことのできる何かです。

17節でイエスさまは、その光によって照らし出されるのなら、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず公にならないものはない」とおっしゃっています。
 その後の18節でイエスさまは、「だから、どう聞くべきかに注意しなさい」と言われます。
と、言うことは、ともし火が「神の言葉」であり、それを覆い隠すか、人との関わりの中で活かすか否かという話であることがわります。

さらに、このともし火のお話は、「御言葉を私がどう聞くか」ということが、重要なメッセージとして語りかけられているのです。
それは、今日の個所の前にある「種を蒔く人」のたとえから語られていますように、その「種」とは「神の言葉」であると、イエスさまは言われます。
この御言葉の種をまく人は神さまご自身でありますが、そうしてまかれた御言葉の種について、まず、道端に落ちた種は人に踏まれ、鳥に食べられてしまうのですが。   
それは、「御言葉を聞くが、信じて救われることがないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去られる人たちのことです。」
次に、石地に落ちた種は芽を出ても水気がないために枯れてしまいますが。
それは、「御言葉を聞いて喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである」ということです。茨の中に落ちた種は、その茨が押しかぶさってしまいます。
それは、「御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟すまでに至らない人たちである」と言うことです。
そして最後の良い地に落ちた種は、生え出て百倍もの実を結ぶものでありますが。それは、「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」と言われるのです。ちなみに岩波訳では、「美しい善い心で御言葉を聞き、それを保ち、不屈の中で実を結ぶ者」となっています。そのような者に私共もなっていきたいと願うものでありますが。

さらに続けてイエスさまは、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、(御言葉を)どう聞くかに注意しなさい」とおっしゃいます。
この隠されてきたこと、秘められたこととは、まさにイエスさまによって顕された神の国、その御救い、福音であります。だからこそ、御言葉をどう聞くかに注意しなさい、とおっしゃるのです。
そうですね。どんなに聖書の言葉を暗唱しても、又知識として細かく知っていたとしても主イエスの福音を聞き取り、自分のこととして受け取らなければ一体何の益があるでしょうか。

以前にお話しましたが、同じルカ10章である律法の専門家がイエスさまを試そうとして、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねます。すると、イエスさまは、「律法に何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われます。彼はそこで、『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えます。イエスさまは彼に、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われました。しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とは誰ですか」と言うのです。それを聞いたイエスさまは、「善きサマリア人」の話しをなさるのですが。律法の専門家は、律法をまる暗記するほどの知識を持っていました。確かに彼の答えは正しかったのです。
しかし、彼はイエスさまのもう一つの問いかけである、「あなたはそれをどう読んでいるか。」それをいかに聞き、いかに生きているか?という問いに対して答えられなかったのです。

本日個所に戻りますが。イエスさまは、「どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取りあげられる」と、仰せになります。
 近年世界の至るところで、この「持っている人はさらに、持っていない人は持っているものまで」と言う言葉が悲観的に使われているようですが。イエスさまは何も経済至上主義的なことを言っておられるのではありません。
むしろ、そういった風潮を揶揄し、持っている、知っている、わかっている、そこに利があるのか。否、そうではない。「乏しい者は神の祝福に与ることはできない」というような者に対して、今一度御言葉をどう聞くかに注意しなさい、と呼びかけておられるのです。
イエスさまのおっしゃる「持っている人」とは、先に申しました「御言葉」を善い心で聞き、それをよく守り、忍耐して実らせる人のことです
イエスさまとその御言葉に救われ、神の福音に本当のゆたかさを見出す人こそ実は富める者であるのです。
このルカ8章において、イエスさまから話を聞こうと追い求め、集まって来た民衆の一人ひとりが、まさにそうであったのではないでしょうか。
一方で、「持っていない人」とは。せっかく神の御言葉が人となって目の前に現れたのに、自分たちの地位や立場が危うくなるという不安と嫉妬心から福音を拒み、受け入れることが出来なくなっているユダヤの宗教的、政治的地位や力を誇示していた指導者たちのことであったのです。
つまり、イエスさまは「自分たちは富んでいる、ゆたかだ」と思い込んでいる人たちのことを、「持っていない人」だと言っておられるのです。

 水曜日の聖書の学び会の折にある方が、「近年耳が聞こえにくくなってきまして、なかなか人の声が聞きとることができないのですが、今日のこのイエスさまのお言葉に、聞く耳を持つことの大切さを強く感じます」と、おっしゃった言葉が心に留まりました。ほんとうですよね。私も何か聞こえることが当たり前のように思っているところがありますが。耳が遠くなられ、なかなか聞き取れなくなった方にとりましては、私よりもずっとずっと人の声に言葉に耳を澄ませて聞こうとされておられることを感じた次第です。そういった姿勢で御言葉を聞いていく者になっていきたいと改めて思わされました。

神の国の福音、その生ける御言葉の光が私たちの日々の生活を照らし出し、証しとなるまでに御言葉に聞き、実を結ぶ人生を送っていきたいと願います。
この福音の喜びを、共に分かち合う者とされてまいりましょう。
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2023年2月12日 主日礼拝式 お知らせ

2023-02-08 12:36:46 | 教会案内
礼拝式:10:30-11:45

*聖書と讃美歌をお持ちでない方は、教会に備え付けのものがございます。
*礼拝の中で献金の時をもちますが、それぞれ自由献金です。

 


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平和の道をわきまえていたなら・・・

2023-02-05 14:39:22 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ19章41-48節 

 今年もはや2月になりました。今週の11日は世間の暦の上では「建国記念の日」とされていますが。かつて思想信条や信教分離が国によって侵される中、キリスト教界もまた戦争への道を辿った反省から、この11日を「信教の自由を守る日」として特に覚え、連合社会委員会主催のオンライン集会が11日に行われます。
昨今の国々の様相は、どこも兵器で身を固め、至る所で武力による力の行使が懸念されています。外交なき偽りの平和が暴走を招きはしないかと空恐ろしさを感じます。現に今、戦争のために多くの人たちが国を出ざるを得ない難民生活を余儀なくされています。又、この戦争のために小麦粉などの主要な食物の流通が途絶え、食糧が不足しています。多くの人が飢餓や病気に苦しんでおられます。
 もし、世界が過去の教訓に学び続け、「平和への道をわきまえていたなら・・・。」  主なる神さまは今の世界をどのようなまなざしで見つめておられるでしょうか。

 本日は、ルカによる福音書19章41ー49節から、御言葉に聴いてまいりましょう。
 この当時のエルサレムは、ローマ帝国の支配下にあり、その軍事力による統治、ユダヤにも行政機関はあったものの、ユダヤの民は一部の特権階級のローマにおもねるその傀儡政権によって抑圧された日常を余儀なくされていたのです。比較的平穏に見える都エルサレムでも、政治家と宗教家などの指導者たちが結託して財をなし、律法の精神である、「神への愛と隣人愛」がないがしろにされるような社会となっていたのです。
ご存じのようにエルサレムには神殿があり、いつも多くの巡礼者が都に上って来たわけですが。境内では捧げものとして牛や羊、山羊や鳩などが売られていました。まあ遠方から来る巡礼者は遠くから引いてくるわけにはいかない事情があったのです。ところが、一生に一度は、という思いでやって来た貧しい巡礼者たちや神殿に来る貧しい人たちや外国から来る巡礼者に、法外な値でそれら鳩などの動物を売ったり、外国通貨を両替するという搾取が行われていたのです。
本来そうした不正にはユダヤの指導者たちが正すべきことでしょうが。彼らはそれがエルサレムとその神殿が栄えることになると容認していたのです。また、神殿の入り口には律法による救いを得られず、物乞いをするしかない人たちや寡婦、孤児、寄留者、又、搾取される人びとが捨ておかれ、放置されたままでした。
 
イエスさまはそのエルサレムが近づいて来て、見えた時、その都のために涙されます。
同じルカ13章31節以下の、特に34節には、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」と記されています。
すなわち、神がお与えくださった律法は、民がそれを守り行うなら平和と喜びをもたらすものであります。預言者はいつの時代もその祝福の神に立ち帰るようにと、神から遣わされるのでありますが。指導者と惑わされる民らはそれを拒み、その口を封じようとするのです。
そこでイエスさまは、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」と仰せになります。
 
 当時の都エルサレムは先ほども申しましたが、ローマ帝国の支配のもとにありつつも、そこに寄りかかり、そのユダヤの指導者たちに「虎の威を借りる狐」のようにずる賢く立ち回っていたのです。彼らの口にする「平和」は、ローマ帝国による力の支配によるもので、神とその戒めから生じるものではありません。その行き着く先は滅びでしかないのです。イエスさまはそのような偽りの平和に寄りかかり、やがてはみかぎられ滅びに至るエルサレムのために嘆き、泣かれたのです。

それから、イエスさまは神殿の境内に入られますが。その神殿の有様を目の当たりにして、商売をしている人々を追い出し始め、彼らに言われます。
「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」このように激しく怒られるのです。
これはイエスさまの宮清めと言われていますが。
今も世界中の大きな寺院などでは、露天が参道までのところと境内の奥まで続き、売り買いされていますが。問題は神への悔い改めと感謝、正義と憐みの心がないがしろにされ、不正や搾取が放置されているその状態であり、指導者が骨抜きにされている、そのようにとうてい平和とは言い難い社会であったわけです。福音書の中で、イエスさまがここまで激しく公然とお怒りになられたというのはここだけであります。

神は、「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」と言われるのでありますが。これは預言者イザヤに示された、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」イザヤ書56章7節の御言葉であります。そしてそれは、すばらしいことにユダヤ人だけでなく、すべての民、すべての人々の祈りの家なのです。
そのイザヤ書56章6節から読みしますと、「主のもとに集まって来た異邦人が主に仕え、主を愛し、その僕となり・・・わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。」と記されてあります。
イエスさまはこのお言葉を文字通りもたらすお方として民衆に訴えかけられるのです。
そのエルサレムの神殿境内には、このイザヤ書のお言葉に導かれ、旅費を工面して苦労をしながら、谷や山を越え何とか遠方からエルサレムの神殿に辿り着いた巡礼者たちがそこにいたのではないかと、想像いたします。
 法外な値で両替して捧げものを売りつける酷い商人と、それを容認して場所代を巻き上げ甘い汁を吸う人たち。そんな巡礼者の信心を食い物にするような力が渦巻いているエルサレムの神殿、その宮は、「すべての国の人の祈りの家」からはほど遠いものであったのです。
深刻なのは、そのような状況をユダヤの力ある政治的、宗教的な指導者たちが律法などの識者らが作っていたということであります。彼らは律法を守り教えているようであっても、その実は神から離れ、名声や地位、富を得ることに貪欲になっていったのでしょう。当初は神に捧げる思いで始めたことが、いつのまにか自我の思いを満たすことにすり替わっていったということであります。
 昨今、カルトの問題が紛糾していますが。信仰心も人の思惑優先となり本来あるべき神の愛と救い、悔い改めに相応しい神と人、人と人との関係性が損なわれ、閉鎖的で排他的な集団となっていきますと、平和など造り出せるものではありません。私どもも道を誤まることがないように、いつもイエス・キリストが歩まれた道、その言動に目を向け、悔い改めと感謝をもって祈りつつ、平和を造り出す者でありたいと切に願うものです。

聖書に戻りますが。
さて、イエスさまは、そのようなエルレムのユダヤ社会を憂いつつも、そこにありますように、「毎日、境内で教えておられた」のです。
命を狙われるような圧力と緊迫感の中で、なお、変らずに神の御言葉を語り続けたそのイエスさまの話に、「民衆は皆、夢中になって聞き入っていた」のであります。そこに大きな希望がありました。エルサレムの民衆にはイエスさまの話が届いていたのです。それは、イエスさまが決してあきらめることなく、エルサレムの人たちの救いと平和を切に願い、語り続けたからです。彼ら民衆も又、抑圧からの解放と神の審きによって平和がもたらされることを、切に待ち望んでいたのです。

最後になりますが。
今日のこの箇所は、イエスさまの涙と怒りが描写された聖書の中でも印象深い場面であります。
この涙と怒りは、主なる神さまのユダヤの民に対するイザヤ書に記されるところの、熱情の神の愛の顕われでありましょう。イエスさまは、本来神の民であるはずの彼らが、神の前に立ち帰り、同様に救いを得た異邦人と共に神を賛美する神の平和、シャロームの実現をどれほど願っておられたことでしょう。
「彼らが平和への道をわきまえていたなら・・・。」彼らのために嘆き、泣き、怒りつつも、愛してやまなかったイエスさまのお姿であります。
私たちも又、日々神の愛に目覚め、立ち帰り、神の義と愛に生きる者とされてまいりましょう。
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2023年2月5日 主日礼拝式 おしらせ

2023-02-02 08:47:29 | 教会案内
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