礼拝宣教 ルカ15章1-10節 レント(受難節)
本日のルカ15章1~10節は、どちらもよく知られる「見失った羊」と「無くした銀貨」のたとえであります。さらに本日は読まれませんでしたが、その後にはこれまた印象深い「放蕩息子」のたとえが記されていますが。この3つのたとえは、いずれも「見失ったものが見つかり、一緒に喜ぶ」というお話であります。
これらのたとえ話は、そもそも冒頭の1節にあるように「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。」そのことが発端となっています。
彼らは徴税人や罪人たちを自分たちより劣る存在と見下し、排除していました。ところがイエスさまによって徴税人や罪人たちが主の前に迎え入れられ、喜びの食卓を一緒に与っているのを目の当たりにし、不平不満を言うのです。実に彼らこそ、神と人、人と人との関係性に歪みが生じていたと言えましょう。
では、まずはじめの「見失った一匹の羊」のたとえですが。これと同じたとえがマタイの福音書にもあります(18章)、そこでは「迷い出た一匹の羊」のたとえになっています。迷い出たものとはその文脈では「幼い子ども」を指し、この小さい者をつまずかせ、小さい者が一人でも滅びることは、天の父の御心ではないことが、そのたとえで強調されています。
一方、今日私たちが読んでいる「見失った羊」のたとえ話は、持ち主が羊を見失った話です。そこに主なるお方の思いが伝えられていることを心に留めて読む必要があります。
イエスさまは、「百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、その持ち主はどういう思いをするだろうか。九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」ということを問われます。
この一匹の羊には名前があり、ほかの何ものにも代替できない存在、唯一つのいのちです。本来そこにいるはずの一人が見失われ、見つけ出せなくなっている。羊飼いであられる主の憂いと悲しみが、このたとえは表しています。
1月から一昨日の金曜日まで越冬夜回りが行われ、路上で寝泊まりをされておられる生活困窮者への安否確認をしながら毛布、下着類、ホッカイロを配り、生活支援のよろず相談を行ってきました。そこから路上の生活から脱してアパートで新しい生活を始めた方がたもいましたが。その一方で、2人の方が路上で亡くなられるという何とも残念なことがありました。寝ておられる方をむりやり起こして確かめるわけにもいきません。又、冷たい地面に何も敷かずに居る人に段ボールや毛布を渡そうとしても、「必要ない」と言われると、無理強いはできません。それでもスタッフの方がたと話し合い、命を落とされないですむように可能な限り声かけし、最低限必要と思えるものは受け取ってもらうように働きかけよう、ということにいたしました。
現代の社会だけでなく、いつの時代でもそうかも知れません。百匹の羊もいる中で一匹を見失ったとしても、それは迷い出たのだから羊が悪い。自分に非はない。一匹ぐらい問題ない。また自分の目にかなう別の羊を代替すればいい。わざわざ見失った羊を捜すようなことをする必要がない。そんな風に他者に優劣をつけ、排除していくことがあるのではないかと思います。今日の聖書ではファリサイ派の人々や律法学者たちがそうでした。
しかし、見失った一匹とは本来神の大切な存在でありながら、置かれた状況から他に生きる道が見当たらず、よい助けやよい助言者に出会えなかったことが要因となって、そのように生きざるを得なかったのであります。本来なら彼らを保護し、救済すべき公的な立場にあったファリサイの人たちや律法学者は無関心なばかりか、神の前に見失われるほどに排除し、放置していたのです。
ここで、イエスさまは言われます。「その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った羊を見つけ出すまで捜し回らいないだろうか。」
それは、すべての羊の持ち主、主なる神さまのお心です。見失った一匹を見つけ出すまでさがし、見つかったら大喜びでその羊をかついで連れて帰る羊飼の姿は、ご自分の宝であるその一人をいつくしまれる神のお姿です。それは同時に、飼うもののいない羊のようにされている群衆を見つめ、断腸の思いで涙された、あの愛なる主イエスのお姿であります。
イエスさまは次のように言われます。
5節、「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」
イエスさまは「罪人とみなされる人たちを迎えて、食卓を共にされ」ました。神の前に失われていたが、見出された人と喜び祝われるのです。それは天の国の祝宴であります。そこには分け隔てはなく、だれもが招かれているのです。
「罪人を迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言ったファリサイ派の人々や律法学者たちは、罪人と言われている人たちが神の前に喜ばれる、その喜びを共にすることができませんでした。
彼らはある意味ユダヤ社会で立派に生活できていた人たちです。いわば九十九匹の羊であり、九十九人の悔い改める必要のない正しい人たちであるともいえるでしょう。百人のうち九十九人もの人が正しい人であるなら、罪人の1人くらいどうでもいいじゃないか。それがこの世、世界のある意味、合理的で常識的な考え方と言えるかも知れません。
しかし、羊の持ち主にとってその1匹の価値は尊く、非常に大きいのです。100%は完全です。しかしそのうちの1%が欠けた99%は不完全な状態です。その1匹あってこそ、喜び満ちる世界なのです。
それでは今日の2つめ、「無くした銀貨」のたとえについて見ていきましょう。
イエスさまは、「ドラクメ銀貨10枚持っている女がいて、その1枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」と言われます。
ドラクメという銀貨の単位は聖書の後ろの付録表によれば1デナリオンと同等の額のようです。
それはこの時代のほぼ1日分の賃金に相当するということであります。まあ、それは確かに必要なものであったとはいえますが。その女性にとって9枚の銀貨があれば当分食べて生活していくのに問題ないようにも思えます。又、見つかったといって隣り近所まで呼んで一緒に喜ぶほどのことかと思います。ともし火をつけ、わざわざ家を掃き、見つけるまで、何も念を入れて捜す必要はなかったと思えるのです。一体そこまでして見つけ出し、一緒に喜ぶ理由がどこにあったのでしょうか。
おそらくそれは、その銀貨が彼女にとってどうしても10ドラクメでないといけなかった、というわけがあるのでしょう。言い換えれば、9ドラクメでは意味をなさなかったという事でしょう。
たとえば注解書には、「この10ドラクメは女性が嫁入りのために備えていたものであり、それをつないだ首飾りか頭飾りとなるものであった」とも記されていました。
つまり、この人にとってその1ドラクメをなくしてしまえば、たとえ9つの銀貨があったとしても、それ自体の価値がなくなる、ということです。だから彼女はもう真剣になって、無くした1枚の銀貨を捜し回ったということです。
私は以前、お腹がすいてコンビニに飛び込んで食べ物を捜したところ、財布の中身がほとんど入っておらず、あと10円あれば買えるのに、その10円が足りないがために買う事が出来なかったという恥ずかしい経験があります。そのことによって10円の価値について思わされましたが。
100円ショップの商品、今は消費税込で食品は108円、他の生活品は110円かかりますが。その1円が足りないと必要な商品を買う事ができません。その場合の1円って本当に価値がありますね。
いずれにしましても、この1枚の銀貨をなくしたこの女性にとって、その1枚の銀貨はなくてはならないものであり、又、実は残りの9枚の銀貨共々に必要不可欠なものであったということです。それだけに、この1枚の銀貨を見つけた時の喜びは大きなものとなり、9節「友達や近所の人々を家に呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」と、イエスさまはおっしゃるのです。その喜びはこの後で語られている「見失った一匹の羊」のたとえと同様、一緒に分かち合われていくのです。
主の前に私たちの1人ひとりが、この貴重な1枚の銀貨であり、主の前に取り戻されるべきかけ替えのない存在であることを、このたとえを通して主イエスは語っておられます。
ここまで、イエスさまがファリサイ派の人々や律法学者に話された、「見失った羊」と「無くした銀貨」のたとえを見てきました。
「罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と、徴税人や罪人を見下し、イエスさまに不平を言った彼らでしたが。実はその彼らも又、神の御前においては欠けをもち、主の救いを必要とする一人の人間であるのです。
見失われていた1匹の羊、無くした1枚の銀貨が見出されることによって、99匹の羊、9枚の銀貨も又、ほんとうに価値あるものとされるのであります。
主イエスはファリサイ派の人々、又律法学者たちも、それだから、「一緒に喜び合おう」と、訴えておられるのです。
私たちも今日のこの聖書のメッセージを受け、神さまが招いておられる幸いを覚えると共に、同様に招かれているおひとりお一人と、天の大きな喜びを共にしてまいりましょう。