礼拝宣教 サムエル記下21章1節-14節
今日はサムエル記下21章から御言葉を聴いていきたいと思います。
ダビデ王の時代に3年間、ひどい飢饉が続きます。もともとイスラエルは雨が降らない時期が多いのですが、3年ともなれば井戸も干上がるほどで、穀物の収穫も厳しく、備蓄も底を尽きはじめた頃でしょう。
そこでダビデが主に託宣を求めた。つまりお伺いを立てたところ、主はこうおっしゃいます。
「ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある」。
サウルはダビデ王の前王ですが、その前任の王がギブオン人に対して行った罪が清算されないまま放置されている。未だ罪が解決されていないということでした。
今日のこの箇所から神さまはどういうメッセージをお語りになっているのか?一週間祈り求めながら、聖書を繰り返し読み、黙想しました。
その中で一つ見えてきたことは、「悲しみ」を本当に知る、ということです。
ギブオン人は、イスラエル、カナンの先住民を代表するアモリ人の生き残りでした。ヨシュアの時代に、イスラエルの民はギブオン人と平和的な条約を主にあって結んでいました。イスラエルの民は決して彼らを殺さないと主に誓ったのです。ヨシュア記9:3-27に詳しいことが記されていますが。
しかし、サウル王は「イスラエルとユダの人々への熱情の余り、彼らを虐殺」しようとしました。
そのため多くのギブオン人が犠牲になったようです。
これは確かにダビデの時代の事ではないのですが、ダビデはギブオン人を招いて話を聞くことにいたします。ダビデは彼らに会うと、真っ先に「あなたたちに何をしたらよいのだろう。どのように償えば主の嗣業を祝福してもらえるだろう」と尋ねます。するとギブオン人は答えます。「問題なのは金銀ではありません・・・・わたしたちを滅ぼし尽くし、わたしたちがイスラエルの領土のどこにも定着できないように滅亡を謀った男、あの男の子孫の中から7人をわたしたちに渡してください・・主の御前で彼らをさらし者にします」。
するとダビデ王は、「引き渡そう」と言ってそのとおりにするのです。
しかし、要求されるままにサウルの子孫7人を引き渡すことが果たして神の御心であったかどうかは、聖書には何も書かれていません。
ここを読んで思いますのは、ダビデは彼らのその壮絶な思いについて聞きながら、神に伺うこともせず、その場で彼らの要求どおりにする、と即答しているんですね。ダビデにはその問題の本質よりも、すぐにでも問題を解決したい、そんな一種の焦りのようなものがあったのではないでしょうか。
ギブオン人たちの心のうちにあった言い尽くしがたい悲しみを知ろうとすることより、とにかく彼らの要求を聞きだして問題を除去することをいの一番に考え、彼らの言うとおりにしたのかも知れません。ダビデは彼らの心の傷として残っている悲しみや痛みに向き合うことなく、ただ形だけの解決策をとったように思えます。イスラエルの国が、平和の誓いを破り彼らに負わせた悲しみや痛み。彼らの訴えの重さ。それはどれほどのものであったでしょうか。
そのようなことを思います時、かつて私たちの日本が侵略戦争をしたことの罪責を思い起こさずにいられません。戦争の時代だったのだからということではとても済まされない、特に近隣諸国にへの残虐な行為は決して拭い去ることのできない歴史の事実です。にも拘らずそれが、だんだんと教科書から消されているようです。戦争の愚かさを伝えるそこ「ピース大阪」も、最近は日本がかつて犯した過ちについての資料がのきなみ展示から撤去されています。それが自虐的な歴史観で、国を誇ることを妨げているとする人たちとの中立性が保たれるためだそうですが。
「戦後補償」の問題はすでに国と国の間で解決されていると聞かされていますが、被害に遭われた人の悲しみと痛みは消えてはいません。被害者と家族は単に補償金だけの問題ではなく、国としての心からの謝罪の言葉を求めているのです。
若い世代の人たちの中には、日本のした過去のこと、昔のことが今の自分たちのこととなぜ関係あるのか、と思う人もいるでしょう。私も戦争の悲惨さを知らない世代です。直接的加害者ではありません。けれども、いまだに被害に遭われた方とその家族の深い悲しみと痛みがいやされていないということを知らされる時、それは「神の前に罪責が清算されず、問われ続けている」ように思うのです。真実な和解が与えられていない。それは子や孫に続く次世代、将来に係わってくるでしょう。歴史は繰り返されるといいますように、過去の過ちが忘れ去られないようにおぼえ、また繰り返されることのないように罪を認める和解の道が必要とされています。二度と悲惨な殺し合いによる犠牲者、家族や友を失って悲しみ苦しむ人たちを作らないための責任が、この国の今を生きる者としてございます。
さて、ダビデは彼らの要求のとおり、早期解決を図りサウルの子孫7人を捕らえて引渡しました。
その7人の中に、リッパという女性とサウルとの間に生まれた二人の息子が含まれていました。
7人が処刑された後、彼女は荒布を取って岩の上に敷いて座り、空の鳥や野の獣が死者を襲うことがないようによう自分の息子2人だけでなく7人全員の死体を昼も夜も見守り続けるのです。
それは大麦の刈り入れの始まりの初夏から雨の降る10月頃迄の少なくとも6ヶ月間も続いたようです。暑い夏の突き刺すような日照りの中でも、7人の遺体が野獣や鳥などから食われ、ついばまれないように、リッパは大事に守り続けたのですね。彼女がどれ程その死を悲しんだかを知らされるわけですが。同時にそれは、サウル王の側女であった彼女のサウル王に対する忠義であったのではないでしょうか。
まあそうしておりますと、その6ヶ月もの間さらしものにされたサウルの子孫の遺体をずっと見守り続けた側女リッパの行いが、ダビデ王のもとに伝わります。
ダビデはそのリッパの行動に心動かされて、サウルの骨とその息子ヨナタンの骨を運び入れ、さらされた者たちの骨と一緒に、丁重にサウルの父キシュの墓に埋葬するように命じます。人々はそのとおりに行いました。ダビデはこうしてサウルとその子孫を丁重に埋葬したんですね。
すると、「この後、神はこの国の祈りにこたえられた」。それはつまり、待望の恵みの雨が降り出し、飢饉はやみ、主の嗣業の地に再び祝福が取り戻されたということです。
ここで改めて気づきますことは、飢饉は単に7人が処刑されることによってやんだのではないということであります。
サウルの側女リッパがさらしものにされた7人のからだを愛情と忠義を尽くして見守り続ける。その姿は、ダビデ王に真に心に留めるべきものを思い起こさせたのではないでしょうか。神の前でなされた誓いより人の誇りや情熱を優先された結果、なされた過去の罪責。そこに思いをいたす事よりも、早期の解決を図ることを優先したダビデに、神はリッパの姿を通して本当に大切にされるべきことをお示しになったのではないでしょうか。
ダビデのサウルとその子孫に対する弔いはリッパにとって大きな慰めになったことでしょう。
そうしてそこから起こる確執や争いはもはやなかったでありましょう。これらのことを通して、神さまはこの国の祈りに答えられ、この国の人々を苦しめていたひどい飢饉はやんだのであります。
最後になりますが。
今日の引き渡された7人の人々は、サウルの子孫とはいえ直接的なギブオン人の殺害とは関係がない人たちでありました。そういう人たちの命がギデオン人たちの命を償うものになったかどうかは甚だ疑問が残ります。ギブオン人たちの心はそのことで本当に晴れたのだろうかとも思います。いずれにしても、それはダビデとイスラエルの人々にとって過去の罪責からの解放にはなりませんでした。
なぜなら、その根本の問題がなおざりにされていたからです。
その根本の問題とは何でしょう。それはカナンの地にイスラエルの民が入植した、移り住んだヨシュアの時代に、神の御前で誓われた、「ギブオン人を殺さない」とする契約を、サウルが破り、彼らの惨殺に及んだ罪にあったということです。
しかし、神さまは、リッパのさらされた7人の尊厳を守る姿とサウルへの忠義をご覧になられたのです。又、ダビデ王は彼女の姿から、神の御前に真に知るべき命の尊厳と神の義に気づかされました。そうしてダビデが心を込めて埋葬した行為の中に、神ご自身への真の悔い改めが表されたのです。こうして神との平和が築かれていく時、人と人との平和が、地のうえに祝福が与えられていくのであります。
私たちは今日の箇所を読む時、罪のない7人が捕らえられさらしものにされたその姿に、すべての人間の罪のために十字架にはりつけにされ、さらされたイエス・キリストのお姿を見るのであります。
このお方を見上げる時、私たちは神の義と愛、そして人の尊厳の回復を知り、祈る者とされます。
「悲しみを本当に知り」、真の慰めをお与えくださるお方は、私たちの罪の身代わりとなり、罪の裁きと贖いを成し遂げてくださったイエス・キリストである、ということをおぼえ感謝します。主イエスの十字架によって、私たちは神さまとの真の和解を頂いていることをいつも再確認して、この地にあって主の御救いの喜びと平和を告げ知らせ、証しするものとされてまいりましょう。
今日はサムエル記下21章から御言葉を聴いていきたいと思います。
ダビデ王の時代に3年間、ひどい飢饉が続きます。もともとイスラエルは雨が降らない時期が多いのですが、3年ともなれば井戸も干上がるほどで、穀物の収穫も厳しく、備蓄も底を尽きはじめた頃でしょう。
そこでダビデが主に託宣を求めた。つまりお伺いを立てたところ、主はこうおっしゃいます。
「ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある」。
サウルはダビデ王の前王ですが、その前任の王がギブオン人に対して行った罪が清算されないまま放置されている。未だ罪が解決されていないということでした。
今日のこの箇所から神さまはどういうメッセージをお語りになっているのか?一週間祈り求めながら、聖書を繰り返し読み、黙想しました。
その中で一つ見えてきたことは、「悲しみ」を本当に知る、ということです。
ギブオン人は、イスラエル、カナンの先住民を代表するアモリ人の生き残りでした。ヨシュアの時代に、イスラエルの民はギブオン人と平和的な条約を主にあって結んでいました。イスラエルの民は決して彼らを殺さないと主に誓ったのです。ヨシュア記9:3-27に詳しいことが記されていますが。
しかし、サウル王は「イスラエルとユダの人々への熱情の余り、彼らを虐殺」しようとしました。
そのため多くのギブオン人が犠牲になったようです。
これは確かにダビデの時代の事ではないのですが、ダビデはギブオン人を招いて話を聞くことにいたします。ダビデは彼らに会うと、真っ先に「あなたたちに何をしたらよいのだろう。どのように償えば主の嗣業を祝福してもらえるだろう」と尋ねます。するとギブオン人は答えます。「問題なのは金銀ではありません・・・・わたしたちを滅ぼし尽くし、わたしたちがイスラエルの領土のどこにも定着できないように滅亡を謀った男、あの男の子孫の中から7人をわたしたちに渡してください・・主の御前で彼らをさらし者にします」。
するとダビデ王は、「引き渡そう」と言ってそのとおりにするのです。
しかし、要求されるままにサウルの子孫7人を引き渡すことが果たして神の御心であったかどうかは、聖書には何も書かれていません。
ここを読んで思いますのは、ダビデは彼らのその壮絶な思いについて聞きながら、神に伺うこともせず、その場で彼らの要求どおりにする、と即答しているんですね。ダビデにはその問題の本質よりも、すぐにでも問題を解決したい、そんな一種の焦りのようなものがあったのではないでしょうか。
ギブオン人たちの心のうちにあった言い尽くしがたい悲しみを知ろうとすることより、とにかく彼らの要求を聞きだして問題を除去することをいの一番に考え、彼らの言うとおりにしたのかも知れません。ダビデは彼らの心の傷として残っている悲しみや痛みに向き合うことなく、ただ形だけの解決策をとったように思えます。イスラエルの国が、平和の誓いを破り彼らに負わせた悲しみや痛み。彼らの訴えの重さ。それはどれほどのものであったでしょうか。
そのようなことを思います時、かつて私たちの日本が侵略戦争をしたことの罪責を思い起こさずにいられません。戦争の時代だったのだからということではとても済まされない、特に近隣諸国にへの残虐な行為は決して拭い去ることのできない歴史の事実です。にも拘らずそれが、だんだんと教科書から消されているようです。戦争の愚かさを伝えるそこ「ピース大阪」も、最近は日本がかつて犯した過ちについての資料がのきなみ展示から撤去されています。それが自虐的な歴史観で、国を誇ることを妨げているとする人たちとの中立性が保たれるためだそうですが。
「戦後補償」の問題はすでに国と国の間で解決されていると聞かされていますが、被害に遭われた人の悲しみと痛みは消えてはいません。被害者と家族は単に補償金だけの問題ではなく、国としての心からの謝罪の言葉を求めているのです。
若い世代の人たちの中には、日本のした過去のこと、昔のことが今の自分たちのこととなぜ関係あるのか、と思う人もいるでしょう。私も戦争の悲惨さを知らない世代です。直接的加害者ではありません。けれども、いまだに被害に遭われた方とその家族の深い悲しみと痛みがいやされていないということを知らされる時、それは「神の前に罪責が清算されず、問われ続けている」ように思うのです。真実な和解が与えられていない。それは子や孫に続く次世代、将来に係わってくるでしょう。歴史は繰り返されるといいますように、過去の過ちが忘れ去られないようにおぼえ、また繰り返されることのないように罪を認める和解の道が必要とされています。二度と悲惨な殺し合いによる犠牲者、家族や友を失って悲しみ苦しむ人たちを作らないための責任が、この国の今を生きる者としてございます。
さて、ダビデは彼らの要求のとおり、早期解決を図りサウルの子孫7人を捕らえて引渡しました。
その7人の中に、リッパという女性とサウルとの間に生まれた二人の息子が含まれていました。
7人が処刑された後、彼女は荒布を取って岩の上に敷いて座り、空の鳥や野の獣が死者を襲うことがないようによう自分の息子2人だけでなく7人全員の死体を昼も夜も見守り続けるのです。
それは大麦の刈り入れの始まりの初夏から雨の降る10月頃迄の少なくとも6ヶ月間も続いたようです。暑い夏の突き刺すような日照りの中でも、7人の遺体が野獣や鳥などから食われ、ついばまれないように、リッパは大事に守り続けたのですね。彼女がどれ程その死を悲しんだかを知らされるわけですが。同時にそれは、サウル王の側女であった彼女のサウル王に対する忠義であったのではないでしょうか。
まあそうしておりますと、その6ヶ月もの間さらしものにされたサウルの子孫の遺体をずっと見守り続けた側女リッパの行いが、ダビデ王のもとに伝わります。
ダビデはそのリッパの行動に心動かされて、サウルの骨とその息子ヨナタンの骨を運び入れ、さらされた者たちの骨と一緒に、丁重にサウルの父キシュの墓に埋葬するように命じます。人々はそのとおりに行いました。ダビデはこうしてサウルとその子孫を丁重に埋葬したんですね。
すると、「この後、神はこの国の祈りにこたえられた」。それはつまり、待望の恵みの雨が降り出し、飢饉はやみ、主の嗣業の地に再び祝福が取り戻されたということです。
ここで改めて気づきますことは、飢饉は単に7人が処刑されることによってやんだのではないということであります。
サウルの側女リッパがさらしものにされた7人のからだを愛情と忠義を尽くして見守り続ける。その姿は、ダビデ王に真に心に留めるべきものを思い起こさせたのではないでしょうか。神の前でなされた誓いより人の誇りや情熱を優先された結果、なされた過去の罪責。そこに思いをいたす事よりも、早期の解決を図ることを優先したダビデに、神はリッパの姿を通して本当に大切にされるべきことをお示しになったのではないでしょうか。
ダビデのサウルとその子孫に対する弔いはリッパにとって大きな慰めになったことでしょう。
そうしてそこから起こる確執や争いはもはやなかったでありましょう。これらのことを通して、神さまはこの国の祈りに答えられ、この国の人々を苦しめていたひどい飢饉はやんだのであります。
最後になりますが。
今日の引き渡された7人の人々は、サウルの子孫とはいえ直接的なギブオン人の殺害とは関係がない人たちでありました。そういう人たちの命がギデオン人たちの命を償うものになったかどうかは甚だ疑問が残ります。ギブオン人たちの心はそのことで本当に晴れたのだろうかとも思います。いずれにしても、それはダビデとイスラエルの人々にとって過去の罪責からの解放にはなりませんでした。
なぜなら、その根本の問題がなおざりにされていたからです。
その根本の問題とは何でしょう。それはカナンの地にイスラエルの民が入植した、移り住んだヨシュアの時代に、神の御前で誓われた、「ギブオン人を殺さない」とする契約を、サウルが破り、彼らの惨殺に及んだ罪にあったということです。
しかし、神さまは、リッパのさらされた7人の尊厳を守る姿とサウルへの忠義をご覧になられたのです。又、ダビデ王は彼女の姿から、神の御前に真に知るべき命の尊厳と神の義に気づかされました。そうしてダビデが心を込めて埋葬した行為の中に、神ご自身への真の悔い改めが表されたのです。こうして神との平和が築かれていく時、人と人との平和が、地のうえに祝福が与えられていくのであります。
私たちは今日の箇所を読む時、罪のない7人が捕らえられさらしものにされたその姿に、すべての人間の罪のために十字架にはりつけにされ、さらされたイエス・キリストのお姿を見るのであります。
このお方を見上げる時、私たちは神の義と愛、そして人の尊厳の回復を知り、祈る者とされます。
「悲しみを本当に知り」、真の慰めをお与えくださるお方は、私たちの罪の身代わりとなり、罪の裁きと贖いを成し遂げてくださったイエス・キリストである、ということをおぼえ感謝します。主イエスの十字架によって、私たちは神さまとの真の和解を頂いていることをいつも再確認して、この地にあって主の御救いの喜びと平和を告げ知らせ、証しするものとされてまいりましょう。