日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

「悲しみ」を本当に知る

2016-07-24 16:09:34 | メッセージ
礼拝宣教 サムエル記下21章1節-14節   

今日はサムエル記下21章から御言葉を聴いていきたいと思います。
ダビデ王の時代に3年間、ひどい飢饉が続きます。もともとイスラエルは雨が降らない時期が多いのですが、3年ともなれば井戸も干上がるほどで、穀物の収穫も厳しく、備蓄も底を尽きはじめた頃でしょう。
 そこでダビデが主に託宣を求めた。つまりお伺いを立てたところ、主はこうおっしゃいます。
「ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある」。
 サウルはダビデ王の前王ですが、その前任の王がギブオン人に対して行った罪が清算されないまま放置されている。未だ罪が解決されていないということでした。
 
今日のこの箇所から神さまはどういうメッセージをお語りになっているのか?一週間祈り求めながら、聖書を繰り返し読み、黙想しました。

その中で一つ見えてきたことは、「悲しみ」を本当に知る、ということです。

ギブオン人は、イスラエル、カナンの先住民を代表するアモリ人の生き残りでした。ヨシュアの時代に、イスラエルの民はギブオン人と平和的な条約を主にあって結んでいました。イスラエルの民は決して彼らを殺さないと主に誓ったのです。ヨシュア記9:3-27に詳しいことが記されていますが。
しかし、サウル王は「イスラエルとユダの人々への熱情の余り、彼らを虐殺」しようとしました。
そのため多くのギブオン人が犠牲になったようです。
 これは確かにダビデの時代の事ではないのですが、ダビデはギブオン人を招いて話を聞くことにいたします。ダビデは彼らに会うと、真っ先に「あなたたちに何をしたらよいのだろう。どのように償えば主の嗣業を祝福してもらえるだろう」と尋ねます。するとギブオン人は答えます。「問題なのは金銀ではありません・・・・わたしたちを滅ぼし尽くし、わたしたちがイスラエルの領土のどこにも定着できないように滅亡を謀った男、あの男の子孫の中から7人をわたしたちに渡してください・・主の御前で彼らをさらし者にします」。
 するとダビデ王は、「引き渡そう」と言ってそのとおりにするのです。
しかし、要求されるままにサウルの子孫7人を引き渡すことが果たして神の御心であったかどうかは、聖書には何も書かれていません。

ここを読んで思いますのは、ダビデは彼らのその壮絶な思いについて聞きながら、神に伺うこともせず、その場で彼らの要求どおりにする、と即答しているんですね。ダビデにはその問題の本質よりも、すぐにでも問題を解決したい、そんな一種の焦りのようなものがあったのではないでしょうか。
ギブオン人たちの心のうちにあった言い尽くしがたい悲しみを知ろうとすることより、とにかく彼らの要求を聞きだして問題を除去することをいの一番に考え、彼らの言うとおりにしたのかも知れません。ダビデは彼らの心の傷として残っている悲しみや痛みに向き合うことなく、ただ形だけの解決策をとったように思えます。イスラエルの国が、平和の誓いを破り彼らに負わせた悲しみや痛み。彼らの訴えの重さ。それはどれほどのものであったでしょうか。
 そのようなことを思います時、かつて私たちの日本が侵略戦争をしたことの罪責を思い起こさずにいられません。戦争の時代だったのだからということではとても済まされない、特に近隣諸国にへの残虐な行為は決して拭い去ることのできない歴史の事実です。にも拘らずそれが、だんだんと教科書から消されているようです。戦争の愚かさを伝えるそこ「ピース大阪」も、最近は日本がかつて犯した過ちについての資料がのきなみ展示から撤去されています。それが自虐的な歴史観で、国を誇ることを妨げているとする人たちとの中立性が保たれるためだそうですが。
「戦後補償」の問題はすでに国と国の間で解決されていると聞かされていますが、被害に遭われた人の悲しみと痛みは消えてはいません。被害者と家族は単に補償金だけの問題ではなく、国としての心からの謝罪の言葉を求めているのです。
 若い世代の人たちの中には、日本のした過去のこと、昔のことが今の自分たちのこととなぜ関係あるのか、と思う人もいるでしょう。私も戦争の悲惨さを知らない世代です。直接的加害者ではありません。けれども、いまだに被害に遭われた方とその家族の深い悲しみと痛みがいやされていないということを知らされる時、それは「神の前に罪責が清算されず、問われ続けている」ように思うのです。真実な和解が与えられていない。それは子や孫に続く次世代、将来に係わってくるでしょう。歴史は繰り返されるといいますように、過去の過ちが忘れ去られないようにおぼえ、また繰り返されることのないように罪を認める和解の道が必要とされています。二度と悲惨な殺し合いによる犠牲者、家族や友を失って悲しみ苦しむ人たちを作らないための責任が、この国の今を生きる者としてございます。

さて、ダビデは彼らの要求のとおり、早期解決を図りサウルの子孫7人を捕らえて引渡しました。
その7人の中に、リッパという女性とサウルとの間に生まれた二人の息子が含まれていました。
7人が処刑された後、彼女は荒布を取って岩の上に敷いて座り、空の鳥や野の獣が死者を襲うことがないようによう自分の息子2人だけでなく7人全員の死体を昼も夜も見守り続けるのです。
それは大麦の刈り入れの始まりの初夏から雨の降る10月頃迄の少なくとも6ヶ月間も続いたようです。暑い夏の突き刺すような日照りの中でも、7人の遺体が野獣や鳥などから食われ、ついばまれないように、リッパは大事に守り続けたのですね。彼女がどれ程その死を悲しんだかを知らされるわけですが。同時にそれは、サウル王の側女であった彼女のサウル王に対する忠義であったのではないでしょうか。

まあそうしておりますと、その6ヶ月もの間さらしものにされたサウルの子孫の遺体をずっと見守り続けた側女リッパの行いが、ダビデ王のもとに伝わります。

ダビデはそのリッパの行動に心動かされて、サウルの骨とその息子ヨナタンの骨を運び入れ、さらされた者たちの骨と一緒に、丁重にサウルの父キシュの墓に埋葬するように命じます。人々はそのとおりに行いました。ダビデはこうしてサウルとその子孫を丁重に埋葬したんですね。
 すると、「この後、神はこの国の祈りにこたえられた」。それはつまり、待望の恵みの雨が降り出し、飢饉はやみ、主の嗣業の地に再び祝福が取り戻されたということです。

ここで改めて気づきますことは、飢饉は単に7人が処刑されることによってやんだのではないということであります。
 サウルの側女リッパがさらしものにされた7人のからだを愛情と忠義を尽くして見守り続ける。その姿は、ダビデ王に真に心に留めるべきものを思い起こさせたのではないでしょうか。神の前でなされた誓いより人の誇りや情熱を優先された結果、なされた過去の罪責。そこに思いをいたす事よりも、早期の解決を図ることを優先したダビデに、神はリッパの姿を通して本当に大切にされるべきことをお示しになったのではないでしょうか。

ダビデのサウルとその子孫に対する弔いはリッパにとって大きな慰めになったことでしょう。
そうしてそこから起こる確執や争いはもはやなかったでありましょう。これらのことを通して、神さまはこの国の祈りに答えられ、この国の人々を苦しめていたひどい飢饉はやんだのであります。

最後になりますが。
今日の引き渡された7人の人々は、サウルの子孫とはいえ直接的なギブオン人の殺害とは関係がない人たちでありました。そういう人たちの命がギデオン人たちの命を償うものになったかどうかは甚だ疑問が残ります。ギブオン人たちの心はそのことで本当に晴れたのだろうかとも思います。いずれにしても、それはダビデとイスラエルの人々にとって過去の罪責からの解放にはなりませんでした。
なぜなら、その根本の問題がなおざりにされていたからです。
その根本の問題とは何でしょう。それはカナンの地にイスラエルの民が入植した、移り住んだヨシュアの時代に、神の御前で誓われた、「ギブオン人を殺さない」とする契約を、サウルが破り、彼らの惨殺に及んだ罪にあったということです。
 しかし、神さまは、リッパのさらされた7人の尊厳を守る姿とサウルへの忠義をご覧になられたのです。又、ダビデ王は彼女の姿から、神の御前に真に知るべき命の尊厳と神の義に気づかされました。そうしてダビデが心を込めて埋葬した行為の中に、神ご自身への真の悔い改めが表されたのです。こうして神との平和が築かれていく時、人と人との平和が、地のうえに祝福が与えられていくのであります。

私たちは今日の箇所を読む時、罪のない7人が捕らえられさらしものにされたその姿に、すべての人間の罪のために十字架にはりつけにされ、さらされたイエス・キリストのお姿を見るのであります。 

このお方を見上げる時、私たちは神の義と愛、そして人の尊厳の回復を知り、祈る者とされます。
「悲しみを本当に知り」、真の慰めをお与えくださるお方は、私たちの罪の身代わりとなり、罪の裁きと贖いを成し遂げてくださったイエス・キリストである、ということをおぼえ感謝します。主イエスの十字架によって、私たちは神さまとの真の和解を頂いていることをいつも再確認して、この地にあって主の御救いの喜びと平和を告げ知らせ、証しするものとされてまいりましょう。
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「良い知らせ」のはずが

2016-07-17 15:13:09 | メッセージ
主日礼拝宣教  サムエル記下18章1節-19章1節 

先日、家の冷蔵庫の調子が悪くなり中が冷えなくなりまして、これも暑さのため遂に故障かと覚悟しておったのですが。その時ちょっとひらめいて、これまで氷を作る機能を全く使っていなかったので、この際氷ができるかを試してみたらどうか、とやってみたところ、氷が見事に出来たんですね。壊れていなかったんです。そればかりでなく、冷蔵機能をはじめ全体の機能がよく働くようになったんですね。これは一つの発見でした。
一つの機能の通りが滞っていたのを通してあげることによって、冷蔵庫全体の機能がうまく動き働きだした。これってまさに使徒パウロさんがコリントの手紙12章で、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」と、キリストの体なる教会について書かれた事と同じだなあと思わされました。
キリストの体なる教会において、「わたしも、あなたも、主に大切な存在として愛された人」、一人ひとりの存在が大切にされてこそ福音は実体となって教会も祝福され、証しが生まれてくるということですよね。今月末31日の信徒研修会には、このようなことについて共に学び合える機会が与えられておりますので、どうぞ祈りの備えをもってご参加くださるよう、お願いします。

さて、本日の箇所については先ほど読まれ、子どもメッセージもなされました。このストーリの粗筋についてはお分かりのとおりだと思いますが。しかしここから何を神さまからのメッツセージとして聞き取っていくかは難しいようにも思います。
そういう中で、特に目が留まりましたのは、「良い知らせ」という言葉が5回も記載されているということです。この良い知らせとは、ダビデ王に反旗を翻してイスラエルを分裂させ、王位を狙うダビデ王の息子アブサロムとその軍勢にダビデの側が勝利し、ダビデの王位は守られたということです。(昨日トルコで軍事部の一部によるクーデターが起こり鎮圧されたということでしたが。)今日の箇所で確かにイスラエルは分裂することなく、謀反を企てる者たちはいなくなったのですから、それはダビデ王とその家臣たちをはじめイスラエルにとって大いなる「良い知らせ」のはずでした。
ところが、勝利にわきかえる家臣・兵士らの思いとは裏腹に、ダビデ王はただ息子の死を悼んで嘆きます。
19章1節「ダビデは身を震わせ、城門の上の部屋に上りながら、『わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。』」と王としての立場もそっちのけになりふり構わず大声で嘆くのですね。ここに私は今日神さまが語りかけているメッセージが秘められていると思えたのです。

先週ダビデの犯した過ちについて記された箇所を読みました。自分の王位と権力を欲望のままに乱用したその罪の結果、ダビデはバテシェバとの間に生まれた子を亡くすことになるのです。さらに、ダビデの家に悲劇が続きます。長男アムノンが異母兄弟アブサロムの妹を辱めたことで、アブサロムはその憎悪と復讐からアムノンを殺害するのです。父ダビデの心痛は収まりません。そして、今度はそのアブサロムがこともあろうに父ダビデに反逆し、その王位を狙う者となるのです。
 ダビデは王宮から逃れ息子アブサロムから命をも狙われるようなことになりながらも、家臣らには、「若者アブサロムを手荒に扱わないでくれ」(18章5節)と命じていました。何ともダビデの境地は複雑であったことでしょう。しかし、ダビデは反旗を翻すアブサロムを敵とは見ていなかった。いや敵として見ることができなかったんですね。彼の死を知ったダビデはここで、「わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった」とまで言っています。親バカといえばこんな親バカいるでしょうか。しかしこれがダビデという人なんですね。
 ダビデはこれまで家臣らの手前アブサロムのことを若者と呼んでいました。しかし彼を亡くした時、その本心から、「わたしの息子アブサロムよ」と5回もその名を呼び、深く嘆きます。ダビデにとって「アブサロムは一人のかけがえのない息子」であったのです。
けれどこの「わたしがお前に代わって死ねばよかった」という言葉には、その死をいたむばかりでなく、ダビデ自身の深い自責の念がこめられていたのです。
 このあまりに辛い出来事は、ダビデにかつての罪、先週のバテシェバの夫ウリヤの殺害の件ですね。それを思い起こさせたに違いありません。あの時に遣わされた預言者ナタンはこう告げました。「主は言われる。見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。」 ダビデは自分の過ちや不甲斐なさのためにアブサロムが犠牲になった、自分こそその責めを負い、死ぬべき存在であったと、泣き崩れるように自分の罪を告白しているんですね。

19節で、ダビデの兵士アヒマアツは、王に伝える良い知らせについて「主が王を敵の手から救ってくださった」と述べています。家臣ヨアブやアヒマアツの敵はアブサロムでした。しかし、ダビデの敵はアブサロムではありません。ダビデにとっての敵は自分の罪でした。神の御心に従って生きることができない自分の不甲斐なさがダビデの真の敵であったのですね。
 どうでしょう。人は誰でも多かれ少なかれ戦うべきものがあります。そこで人を憎んだり、サタン呼ばわりしたり、ただ起こって来る事柄に勝った、負けたというのがクリスチャンの戦い方ではありません。大切なのは「私の戦いの本質は何か」「私は何と戦っているか」を知り、見きわめてることです。御言葉に聞き、祈る。それがクリスチャンの戦い方です。

先週、たまたま部屋を整理していて1枚の映画チケットが手元に残っていたのを知り、その足で「祈りのちから」、本題は「WAR ROOM」:戦いの部屋ですね、それを鑑賞してきました。今上映中ですので内容の詳細は控えますが。そこで改めて、わたし達クリスチャンには祈りという最強の武器が与えられている幸い。そして祈りは確かに神さまが聞かれ、応えられるという確信を強く頂きました。映画の中で特に考えさせられたのは、祈るとき、どこか見当違いの祈り方をしていないかどうかです。先ほど申しましたように、それは「私の問題の本質は何か」を知る必要があるということです。
 たとえば、これは一つの例ですが。自分のことをよく思わない人がいたとします。いくら自分の方から心開こうとしても、うまく意思疎通ができず悩み苦しんでいるとします。時にそんな相手のことがうとましくなり、逆に憎悪のような思いにかられ、敵の様に思えるようなこともある。そういう事が続くと、まあ人間的な思いでは相手のために祈る気持ちはもはそがれ、祈ることもできなくなっていきます。けれども、実はそういうときこそ、神さまの出番なのです。
 どういうことかと申しますと、こういった状況になりますと大概「神さま、どうかあの人を何とかしてください」とか「何かのきっかけが与えられ和解することができますように」など祈ると思うのですが。先に申しましたように、相手に対して祈る気さえそがれてきますと、仕舞いには「神さま、私にはどうすることもできませんが、私とあの人の間にあなたがご介入ください」としか祈りようがなくなります。実はそこから本当の祈りは始まります。
祈りとは私の願いを神に押し付けることではありません。否、私の人生、私の対人関係、私の病や問題、課題や願望までも、「神よ、あなたが介入してください、あなたがお働きください」と祈ることなのです。今年の大阪教会の標語はまさに、婚礼の席でぶどう酒が切れてしまった問題が起こったとき、主は、水をぶどう酒に変えて、その問題を解決され、栄光を顕されたように、「その主ご自身が御手を動かし、事態を変えてください」と願い、主の御言葉のとおり、水がめの中に水をいっぱいいれる、ということです。そこに、主のお働きを切に願い求める者のうえに、主はその栄光と解決の道を与えてくださる、ということであります。敵はあの人、この人ではありません。病そのものでも、問題そのものでもありません。神のお働きを妨げ、損なおうとしている力や働きこそが、真の敵なのです。
その戦いに主が勝利してくださることを確信して祈ることです。

新約聖書エフェソ6章10節以降にこうあります。
「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つこと ができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」

ダビデがここで、アブサロム自身を敵としていなかった、ということが今日のとっても大切なメッセージであると思います。真の敵は人ではありません。人を争わせ、不和や憎しみをもたらし、罪へ誘う悪の諸霊とその勢力です。神の愛から引き離し、人間らしく生きることを損なわせる世の力が今も働いています。けれども主はその世の勢力、悪の力に対してすでに勝利されたのです。そこで私たちに求められているのは、この主なる神さまに全幅の信頼をもって、あなたの勝利と栄光をあらわしてください、と祈ることなんですね。祈りとはそういった意味からいえば、霊の戦いであります。主なる神さまは、様々な問題がうずまく世にあって、私たちにその霊の戦いにおける最も大きな武器である祈りと信仰を与えていて下さいます。主イエスは言われました。「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16章33節)
 すでに完全な勝利を成し遂げられた主にご介入頂いて、私たちも祈りを通してその主の勝利に与っていきたいと願います。

さて、今日の箇所からもう一つ思わされたことがあります。
それは、私たちの置かれている立場によって、その受け取る思いや気持ちは必ずしも同じものではなく、異なる場合があるということですね。「良い知らせ」を王に伝えたいと勇んで向かったアヒマアツ。けれど、それはダビデにとって良い知らせとはなりませんでした。ダビデはイスラエルの王という立場でしたから、わが陣営が敵に勝利したという良い知らせに対して、全面的に喜び、家臣たちの労をねぎらってやるというのが、まあ指導者としては求められているように思えますが。でも、ダビデはそれができず、息子アブサロムの死を嘆き続けたんですね。
 19章あとで家臣のヨアブは、勝利したのに悲嘆に暮れ、嘆き続けるダビデ王に、「あなたは、あなたの命を救ったあなたの家臣たち全員の顔に恥をさらされました。あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるのですか」とダビデ王を諌め、ダビデはイスラエルの人々と自ら心は一つであることを呼びかけ再び立ち上がるのです。

立場立場によって人の思いや気持ちが異なることは確かにございます。人の悲しみに対しても、それを自分が経験したことがなければ、その気持ちを察したり、自分のこととして感受することはなかなかできません。又、自分の気持ちに余裕がなく、しんどいときには、喜んでいる人の喜び、又幸せな人の幸せを共にすることがなかなか難しかったりするものです。かえって幸せそうな相手をねたんだり、やっかんでみたりする思いがわいたりすることさえあるでしょう。
 何故分かってくれないのか?どうしてそんな態度をとるのか?そういう言い方をするのか?と相手を責めたくなったとき、その相手の態度の中に、その人だけが知ること、感じること、その立場でなければ分からない何かがあるのかも知れません。主は一人ひとりのその心と思い、又祝福や平安を妨げている力をも知っておられます。そこに主のご介入を祈る、まさに祈りの必要性があります。

今日のお話から、「良い知らせ」のはずが、という題をつけました。血肉による戦いによっては解決するどころか、新たないさかいが生じるだけです。私たちとって最も価値あること、それは「主にあって霊の戦いに勝利する」ことであり、「私のうちに働こうとする罪や悪の力から、解放され、主イエスの救いにある平和と和解の喜びを頂くことです。それが得られるまで忍耐強く主のご介入を期待し、祈り続ける。そのようなクリスチャンとしての戦いを希望をもって日々続ける者とされてまいりましょう。
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権力のもつ罪の罠

2016-07-10 17:04:17 | メッセージ
礼拝宣教  サムエル記下11章  
                                                       
             
本日のサムエル記下11章にはダビデの生涯で最大の汚点ともいえる過ちが包み隠さず赤裸々に記されています。
先週、神の箱がエルサレムに運び上げられるということで、神の箱の回りを喜び踊ったダビデの純粋な信仰の姿を見たのですが。今回のダビデはまるで別人のようにも思えます。しかしそれは同じダビデであります。
              
神に油注がれて王に立てられたダビデともあろう人が、このような大きな取り返しのつかない過ちを犯した。いかに信仰心が厚く、正しい人であったとしても、いつ誘惑に陥って罪を犯すか分かりません。私たちは聖書の中に人の弱さと神の戒めとを見ます。           
新約聖書のペトロ一5章8節以降で、「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがらのがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」とありますように、どんな時も主の御前に身を慎んで目を覚まし、誘惑の罠から逃れ得るよう信仰に踏みとどまる者となることを願います。

ダビデの場合、この時期、アンモン軍やアラム軍に勝利し、まさに王としてその権勢は飛ぶ鳥を落とす勢いでした。神の祝福はまさにダビデ王と共にあるそのような時にダビデは姦淫を犯し、それを隠すため画策し、それが失敗すると、その忠実な部下を騙して最前線に送り戦死させるのです。 
             
それはまことに皮肉なことに、先週のダビデ王がエルサレムの自分の町へ喜び踊りながら運び入れた、神の箱の中の十戒に刻まれた「殺してはならない」「姦淫してはならない」「隣人に関して偽証してはならない」「隣人の家を欲してはならない」という4つの重罪をダビデ王は犯してしまったのです。
             
さて今日の箇所でダビデは、王たちが出陣する時期が来ても、戦いは部下のヨアブに任せ、自分はエルサレムに残って昼寝をし、夕方目が覚めるとひまつぶしに王宮の屋上を散歩したとあります。戦いを案じる必要がないほど彼に余裕の思いがあったのか知れませんが。家臣らが命がけで戦っている時に王は昼寝をし、高い所から町を見下ろしていたのです。そういう時に、彼は屋上から水を浴びている美しい女性の姿に目が留まるのです。彼女はウリヤの妻バト・シェバでした。
 たまたま大層美しい女性が水を浴びていたということで目がいってしまった。まあそれはそれとして、問題はダビデが人をやってその女が誰か調べさせ、兵士ウリヤの妻であると分かっていながら彼女を召しいれ、床を共にしたことです。これは、いかにダビデ王であっても許されない「姦淫」の大罪です。

ダビデは王でしたから、バト・シェバとの力関係は明らかでした。バト・シェバはその行為が神に罪を犯すことは知っていても、王に逆らうことはできませんでした。王に命じられるまま否応なく従う外なかったのかも知れません。

私たちの世の中においても、学校、スポーツ芸能界、警察、自衛隊組織、政界と、様々な組織や職場における上司や指導的立場にある者によるパワーハラスメントが問題になっています。それが表ざたになっているのはごく一部でしょう。大半は隠蔽され、被害者は泣き寝入りする他ない事が多いのではないでしょうか。宗教者も又、例外ではないでしょう。私も教会の牧師という立場を過つことがないよう、やはりこの「力」ということに対して絶えず自戒しておかねばと肝に銘じております。牧師の言うことは何でも正しいなんて、みなさんは思っていないとは思いますが、牧師も人間でありますから間違いや誤りはあり得ます。そういう時に牧師も信徒も日ごろから互いに対話できる関係づくり、祈りあえる土壌を培っていけるかどうかがとっても大切かと思います。聖霊の風通しのよい教会でありたいものです。

話を戻しますが。バト・シェバからの使いで、彼女が「子を宿した」ことを知ったダビデはそれを隠すためにその夫ウリヤを戦場から呼び戻し、家に帰って妻と共に過ごすように勧めます。そうすることで、彼女が宿した子が夫の子であるという理由づけになるからです。
しかしウリヤは、「神の箱もイスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と共にしたりできるでしょうか、わたしはそんなことはできない」と断るのです。ウリヤはそのように大変律儀で、忠実な人物であったようです。まあそのように断られたダビデは、今度はウリヤを招き食事を共にし、酒に酔わせた後、彼を妻の家に送るように企てます。しかしウリヤは王宮を退室し、主君の家臣たちと共に眠り、家には帰らなかったのです。
王と同士たちに忠実であった勇士ウリヤと、自分の犯した大罪を力でもみ消そうとするダビデの姿とは、何とも対照的です。 
              
ダビデの工作は忠実なウリヤの態度によって2度も失敗に終わります。
そこで彼は過ちを隠すため遂に権力を最大限使ってウリヤを最前線に送り出して、他の兵士たちを退却させ、置き去りにして戦士させるという恐ろしい計画を企てるのです。しかもその書状をウリヤ自身に持たせ、彼が信頼を寄せる上司ヨアブに王の命令として送りつけるのですね。
あの羊飼いをしていた少年時代のダビデは、正義感が強く、神さまに信頼する少年でした。しかし王になり、権力を持つことによって、ダビデは神さまへの畏れや信頼を忘れ、大切なものが見えなくなってしまったのかも知れません。
              
イエスさまが荒野で試みに遭われた時、悪魔がやってきて、高い所にイエスさまを立たせ、世界の国々を見せて、「わたしには一切の権力と繁栄を与えることができる。もしわたしを拝めば、みんなあなたのものになる」と誘惑します。それに対してイエスさまは、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕よ」と書いてある、とそのサタンの誘惑を退け、神の御心のうちに歩まれるのであります。
地位や権力、お金もそうでしょうが。ともすればそれらによって人間は囚われ、大切なものを見失ってしまうような力が働くということですね。

王となったダビデは、自分の犯した過ちまでも地位や権力によってもみ消したり、覆い隠すことができると、思い違いをしてしまったのかも知れません。待ち受けていたのは恐ろしい罪へのいざないでした。
   
結局、ウリヤは王に忠実に従って最も危険な場所に赴き、アンモン人によって殺されてしまいます。いや正確にいえば、ウリヤはダビデによって殺されたのです。ウリヤの死を知った妻のバト・シェバは、「夫のために嘆いた」とあります。その一言にこめられた彼の心の傷の深さ、心の複雑さ。
ダビデが犯した重罪は、バト・シェバ、そしてウリヤ、さらには共犯者にしてしまったヨアブに対してもそうであったように、権力をもつものがそうでないもを相手に、その力関係によって隣人の尊厳と生命を奪ったことにあります。

さて、ウリヤが死んだあと、喪が明けるとダビデはバト・シェバを妻にしました。そしてバト・シェバは子を産みます。世間の見た目には、当時のことですから、やもめとなった家来の妻を引き取ったダビデは、情け深い王として善を行ったように見えたでしょう。ダビデの工作はうまくいったように思えました。
 ダビデは力ですべてをもみ消すことができたと考えたかも知れません。しかし主の御目をごまかすことはできません。11章の最後には、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」と記されています。主はダビデの行った悪を見逃されません。

「主の十字架」
12章において、神さまは預言者ナタンをダビデの下にお遣わしになります。
 ダビデは主の僕ナタンに自分の犯した大罪を指摘され、ダビデはその責めを負うことになるのです。それはバト・シェバとの間に生まれた子の死でした。
ダビデは自分の犯した罪のために、わが子を失うこととなりました。その代価はあまりに大きなものでした。けれども、このことをとおして彼は人ではなく、自分の罪深さを本当に知り、心のそこから神さまに立ち返って悔い改めたのです。

実はここに、「主の十字架」の真理が啓示されているのです。御子イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架にはりつけにされ、苦しみ痛みながら、私たちの罪の裁きを自ら引き受け、死んで罪のあがないを成し遂げてくださった。わたしたちが主の十字架を仰ぐとき、己の罪深さを知らされます。神の御心を痛めていたことに気づかされます。同時に主イエスにある救いの恵み、御神の慈愛、聖霊のご臨在を知るものとされます。
 
神は愛であり、義なる裁き主でもあられます。主はすべてをご存じであり、すべてを明るみにされるお方であります。
ガラテヤ6章7節-10節にこうあります。「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来 て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族となった人々に対して、善を行いましょう。」

ここから、主イエスの御救いに応えて生きる私たちとされてまいりましょう。
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神の御前で喜び踊る

2016-07-03 19:10:18 | メッセージ
礼拝宣教 サムエル記下6章1節-23節 
                               
「神への畏れ」
今日はサムエル記下6章の御言葉からそのメッセージを聞いていきます。
まず、その神の箱ですが。この箱の中身はモーセを通して神が授けられた十戒の刻まれた板が入っており、何よりそれは主が共におられるという印ともなる、イスラエルの民にとって大切な神の箱であったのです。その箱がぺリシテ人らに一旦奪われてしまうのですが、ぺリシテ人らは神の箱を運び込んだことで町に災いが下り、恐れをなした彼らはエルサレムに近いキリアト・エアリムに神の箱を移すのです。
 今日のところでは、その神の箱をイスラエルの王となったばかりのダビデがエルサレムの自分の町に移そうとするわけであります。
 その前半には「牛がよろめき、神の箱の方に手を伸ばし、箱を押さえたウザに、神が怒りを発し、この過失のゆえに彼を打たれた」ということが書かれています。神の箱が落ちてはならないと手で押さえたのになぜだろうと思うのでありますが。実は民数記4章のところを読みますと、かつて神はモーセとアロンに対して、聖所とそのすべての聖なる祭具を宿営から次の宿営へ運搬する時に、「聖なるものに触れて死を招くことがあってはならない」と忠告されているんですね。ウザの場合まさに聖なる神の箱に手を伸ばし、聖なるものに触れ死を招いてしまったということでありましょう。2、3節には彼らが新しい車で神の箱を移そうとした、と重ねて記されています。神のために最新の車を用意したというのは何かすばらしいことのように思えますが、実はそこに大きな過ちがあったのです。
 本来神の箱はその両側に付けた環に、アカシア材の棒を差し込んで、それをレビ族ケハトの氏族だけが「担いで移す」ことがモーセの時以来定められていたのです。人の思いや考えは、「新しい車を用意した」ように、如何にも体裁よく、又効率的であるのがよいように思えるかも知れません。しかし神の知恵と御心は人の思いを遥かに超えておられます。神の定めに畏れをもって彼らがそのように神の箱を聖別された者に担がせ、用心深く運んでいったなら、車は傾かなかったであろうし、ウザも安易に手を伸ばして、聖なるものに触れて死を招くことはなかったでしょう。
 新しい車なら見栄えも効率よく神の箱を運ぶことができる、といった人の思い上がりが、神を怒らせた要因であったのではないでしょうか。私たちは転がり兼ねない神の箱に手を伸ばして、その箱を押さえてどうして悪いのか、と思いますが。問題は、ウザが神になり、神を守り助ける存在となり、神への畏れの念が欠如していた、ということではないでしょうか。
 
さて、そうして神がウザを撃たれたのを目の当りにしたダビデに恐怖心が起こります。「どうして主の箱を私のもとに迎えることができよう」と、それは神への畏れが希薄でまったく足りなかったことへの恐れであります。その恐れのあまり、もはや「ダビデの町、自分のもとに神の箱を移すことを望めなかった」ダビデは、神の箱をペリシテのガト人の家に向かわせます。そこはかつてダビデと戦ったあの巨人ゴリアトもガト人でした。なぜダビデはイスラエル人ではなく、異教のペリシテのガト人の町に神の箱を移したのでしょうか。それは多分、ウザの死の出来事以来、イスラエル人は恐れてだれも神の箱を自分の家に置こうと思わなかった、まあその苦肉の策としてガト人の家に移す外なかったのでありましょう。
 そうして3ヶ月間、神の箱はガト人の家に置かれるのでありますが。思いもよらぬことに神はその家の者一同とその財産のすべてを祝福されます。その報告を聞かされたダビデ王は直ちに出かけ、喜び祝って神の箱をガトの家からダビデの町に運び上げるのですね。これはもはや何としてもダビデの町に神の箱を運び上げなければ、ということであります。ダビデは、神は聖なる厳格なお方であると共に、ガトという異教の人のうえにも栄光を表されるお方であることを知ります。
 歴代誌上15章によれば、このガトの人の家からダビデの家に神の箱を運んでいく時、ダビデは「特別に聖別されたレビ人たちによって運ばせた」とあります。そして今日の6章13節には、「主の箱を担ぐ者が」とありますように、今度は車ではなく、主がかつて定められたとおり、箱の環に棒を差しいれ、それをこのために特別に聖別された者に運ばせます。ここにはウザのあの出来事のように二度と主の怒りを招いてはならないという「神への畏れ」の思いが如実に表れているようです。それは、神の箱を担ぐ者が6歩進んだ時、ダビデは肥えた雄牛を神にささげるのですが。ここにも神を敬うダビデの心を読み取ることができます。
 神は聖なるお方です。罪ある人間が到底触れることの出来ないお方であります。にも拘わらず私たちが罪に、あのウザのように滅んでしまうことがないように、神は御子イエス・キリストをお遣わしになり、十字架のみ業によって罪をきよめ、「天の父よ」と呼ぶ特権を私たちに与えてくださっています。どれほど尊い恵みであり、幸いでしょうか。

「神の御前で」
さて、そうして神の箱が運ばれる時、ダビデは麻のエファド・祭司がつける胸当てを身に着け、「神の御前で力のかぎり踊った」とあります。この「踊る」というのは原語で「ぐるぐる回る」という意味があります。彼は運ばれる神の箱の回りを何度も何度もぐるぐる回りながら、イスラエルの人たちと共に喜びの叫びをあげ、跳ねるように力の限り、つまり自分のもてる精一杯を尽くして踊ったのです。 もはや王として人からどう見られているかといった思いは微塵もなかったのでしょう。最新の車で王の威厳を示して運び入れるのではなく、彼は主の御前で、王としてではなく、一人の人間として、神が愛し生かしてくだっている恵み、又、神がともにおられるという確信に満たされながら、その喜びを力のかぎり、跳ね上がるほど踊ることによって表現したのですね。いやむしろ、そのように踊らずにはいられないほどの喜びが溢れていたのですね。
 今日の聖書の箇所には何度も「主の御前で」ということが記されていますが。新約聖書・コロサイの信徒への手紙3章33節には、「何をするにも人に対してではなく、主に対してするように心から行いなさい」とあります。そのように主への感謝、救いの喜びを、人にどう見られているか、どう思われるかではなく、神の御前にあって神さまのために喜びと感謝を表現し、言い表せる者でありたいですね。 

「喜び合えないミカル」
ところでこのダビデが主の御前で喜び踊る様子を高い所から見下ろしていた人物がいました。前の王サウルの娘ミカルです。彼女は「窓からこれを見下ろしていたが、主の御前で跳ね踊るダビデ王を見て、心の内にさげすんだ」というのです。又、ダビデが家の者に祝福を与えようと戻って来ると、ミカルはダビデを迎えて言います。「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように。」 
かなり辛らつな一言ですが。
 このミカルは、かつて父であったサウル王の策略によってダビデの妻とされるのですが。サウル王がダビデに敵意をもったため、ミカルはダビデを守るために尽くします。その後サウル王が激しくダビデの命を狙うようになり、ミカルは父サウル王によって再婚させられてしまうのです。そしてダビデが王になると、ミカルと再婚した相手からミカルを取り戻す、というまあミカルは気の毒な人であったという気もいたしますが。
 いずれにしろここでミカルがダビデの喜ぶ姿に冷淡であったのは、彼の王としての威厳が損なわれたと思えた、そのことへ激しい憤りから来ているのだと思うのです。ミカルはサウル王の娘でしたから、幼少の頃から王の娘として育ち、父サウル王の姿を見ながら育ったのでしょう。そういう中で、王というのはこういう姿であるべきとの観念をもっていたんだと思うんですね。その物差しでダビデ王が踊った姿を見たとき、彼女はもう情けなくなり、それは王としてのプライドを傷つけることだ、とダビデを見下したのです。

そのことに対してダビデはミカルに言います。
21節「そうだ、お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。」
 先ほど申しましたように、ダビデは人ではなく、唯神の御前で、主のために力のかぎり踊ったのですね。そして、「わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう」というのです。
 それは、自分を王として立てた家臣らは神を畏れ敬う者たちであるから、彼らから返って私は敬われる、とそう言っているのです。神を畏れ敬う家臣たちは、ダビデ王の行動が格好いいとか悪いとかいううわべではなく、その根底にある神への畏れ、感謝、愛を見て、共感するということです。
 
ミカルはかつて主の箱がダビデの町に着いた時、民の喜び、ダビデ歓喜、ダビデが子どものようにはしゃぎながら踊ったその喜びを自分の喜びとすること、共感することができなかったのです。なぜならミカルはダビデを王として立てた神さまをほんとうには知らなかったからです。それはダビデにとって大変残念なことでした。

これは連れ合いから聞いたことですが。
 彼女がかつてイスラエルを巡礼した時、チャプレンが話してくれたそうです。
そのチャプレンが引率する団体に、ある時、行く先々で何かやらかす壮年がいたそうです。これがいなご豆だといえば。湯がきもしていないそのままを口にしてみたり。これはザアカイのいちじく桑の木といえば、気づくと木によじ登っていたり、とそんなことばかりする人だったらしいです。一同この壮年が次に何をやらかすのかと心配しながら各所を回っていたそうですが。そして一行が泉のほとりまで来た時、遂にその壮年が泉の中に入って大声で、「主よ、私を生涯あなたに従う者であらせてください」と、まあ大きな声で祈った時、それまで冷ややかなに彼のことを見ていた人たちは感動して泣き出したそうです。聖霊が働いたんですね。変えられなければならなかたのは、実はその行く先々で「恥ずかしいからやめて」「面倒起こさないで」とやっかいに思われていたその人じゃなく、彼を冷ややかな目で見て、冷笑していた人たちだったんですね。
 個々人の神さまへの向き合い方は様々でしょう。感謝や喜びの表現も人それぞれあって良いのです。こうあらねばならないとか、こうすべきだ、という事はありません。むしろいろんな表現の仕方は拡がりとゆたかさを与えてくれます。
もちろん皆が好き勝手なことをすれば混乱してしまいますけれども。しかし何をするにしても尊いのは、ダビデが主の御前で力のかぎり踊ったように、救いの喜びや感謝が神さまに「私らしく」表されることですね。この私らしくというのが実に大切なのです。誰かのようにではなく、形にはめるのでもなく、私らしく恵みに応えて生きる。その自然体が証しになっていくんですよね。

「神の愛と祝福の糧」
最後に、神の箱がダビデの町に着いて、天幕に置かれたときに、ダビデはまず神の御前にさまざまな献げものをささげました。そしてその後、そこに集った民をダビデは祝福し、そのすべての人たちに、パン、なつめやし、干しぶどうの菓子を分け与え、民は皆、それぞれ自分の家に帰って行った、とあります。
 その配られたものは食べ物だったんでしょうが、その本質は「神の愛と祝福の糧」です。それがそれぞれの遣わされている場に持ち帰られて、さらに分かち合われる。私たちの使命がここに示されているように思えます。
 今日は神の箱を通してのお話でした。今私たちは神の箱に優る主イエスをここにお迎えしています。主イエスの御前で、共にその恵みを力の限り喜びを表し、共に分かち合っていく者とされてまいりましょう。
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