日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主イエスの十字架、私の十字架

2015-03-29 15:05:02 | メッセージ
受難週礼拝宣教 ルカ23章32~43節 

本日の箇所はイエスさまが十字架に磔にされる場面であります。
そこにはユダヤの民衆、ユダヤの議員、ローマの兵士、そしてイエスさまと同じように十字架に磔にされた2人の犯罪人と、様々な登場人物が記されています。
今日は特に、十字架上でのイエスさまのお言葉とこの二人の犯罪人たちに焦点を当てつつ、「主イエスの十字架と私の十字架」と題して御言葉から聞いていきたいと思います。

①「主イエスのとりなし」
本日のところで、まず何と言っても印象深いのは、イエスさまが十字架に磔にされながらも「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われた、という事です。
ここでイエスさまが、「彼ら」と言っているのは、罪の無いイエスさまを十字架に磔にしていった人々のことであります。祭司たちや律法学者、ファリサイ派の人々は、イエスさまの言葉と行いを理解できず、憎しみと妬みが殺意にまで及びます。又、ユダヤの議員たちは、神の時をわきまえ知ることができませんでした。さらにユダヤの民衆は、イエスさまのエルサレム入城をホサナ、ホサナと喜び迎えましたが、僅か数日で「イエスを十字架につけろ」と大声で叫ぶのです。さらにローマの権力によってイエスさまは鞭打たれ、屈辱を受け、十字架につけられました。ですからそこにはユダヤ人とローマ人の両者が関わっていたんですね。イエスさまはそのような自分を十字架に引き渡し、殺害しようとする者のために、父の神に赦しを乞い、とりなされるのです。追いつめられ死の恐怖を前にされたイエスさまのこのお言葉にはただ驚くばかりであります。
かつてイエスさまは、「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回。『悔改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(ルカ17:4)とおっしゃいました。さらに、「あなたがたは敵を愛しなさい」(ルカ6:35)と語られました。
それは、まさにこの最期の最期までイエスさまご自身、敵対する人びとを赦し、執り成されたのです。これが神の愛です。イエスさまがその身をもって示された愛は、赦しと、敵でさえ「神の愛に立ち返って生きるように」と執りなす祈りであります。イエスさまは彼らが罪から解放され、立ち返って命を得ることを願われたのです。今も変ることなく、ともすれば救いようもない罪深い者のために、十字架の主がとりなしてくださるということは、私どもにとってもどんなに大きな救いと希望であることでしょう。
同時に、そのとりなしは、主に赦され従う私たちに与えられた手本であり、招きであります。

②主イエスの十字架
さて、この十字架上でのイエスさまのとりなしの言葉は、同様に十字架に磔にされていた二人の犯罪人にももちろん聞こえていたでしょう。
しかし犯罪人の一人は、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」とイエスをののしった、というのです。イエスさまとりなしの言葉は彼の心に届きません。心を閉ざしイエスさまを「ののしり続けた」(原意)のです。彼はユダヤの議員たちやローマの兵士たちと同じように、イエスさまに向かって「自分を救ってみろ」といい、さらに「我々を救ってみろ」と言うのです。
十字架刑はもともとローマ帝国の処刑方法です。彼はユダヤ人であったようですので、ローマ帝国に対して何らかの政治犯か活動家であったのかも知れません。ローマ帝国の支配の下でユダヤ民衆はいつか救世主(メシア)が現れて、政治的な指導力や軍事力を発揮し、ユダヤの民を解放に導くと、期待していたと考えられます。それがもしかしたら、「あのイエスという男かもしれない」。そんな期待が十字架に磔になった弱々しいまるで敗北者のその姿によって崩れ去った。それが「自分を救ってみろ。我々を救ってみろ」と、ののしりの言葉になったのでしょう。
 しかし、かりにイエスさまがそのような世の王としてローマ帝国を滅ぼしユダヤを解放なさったとしても、それは一時のものに過ぎません。世には争いが絶えず、その強大なローマの帝国さえもやがて滅亡の時が訪れました。世の権力や支配は必ず終わりが来ます。しかし、イエスさまはそういう形とは異なる「天の国」(神さまがご支配される国)を人々に伝え、お示しになられたのです。それはまさに、イエスさまが罪人の一人となって、神の裁きを受けることによって、すべての人の罪の贖いを果たされる道であったのです。世から見るなら十字架のイエスさまはまさに敗北者のように見えますが、そうではないのです。イエスさまが罪ある私たちを赦し、贖うには、こういう形でしか救い得なかったのであります。D・ボンフェッファーはその著書「主のよき力に守られて:一日一章」(p.170)の中で次のように言っています。「神はこの世において無力で弱い。しかし神はまさにそのようにして、しかもそのようにしてのみ僕たちのもとにおり、また僕たちを助けるのである。」
 ところで、マルコやマタイの福音書では、その犯罪人の2人ともイエスをののしったと記されておりますが。このルカ福音書では、もう一人の犯罪人がイエスさまのとりなしの祈りを聞いて、相方の犯罪人に「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」と言ってたしなめたと記されています。
彼ももしかしたら始めの犯罪人と一緒にイエスさまをののしっていたのかもしれません。ところが彼は十字架上で、父の神に自分たちのことをとりなされる主イエスの姿を目の当たりにしたのです。彼はもう一人をたしなめ、「お前は神をも恐れないのか」と言いますが。そのイエスさまのお姿ととりなしの言葉に、神を畏れ敬う心を取り戻すのです。十字架刑という極限の状況で、彼はイエスさまの中に神の救いを見出すのですね。
彼はここで何と、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言うのであります。イエスさまはその言葉に対して次のようにおっしゃいます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる(未来形:だろう)」。

この最期の場面を読んである方は、「この犯罪人はこのイエスさまの、『今日わたしと一緒に楽園にいる』との約束を戴いて、亡くなってしまうのですね」とおっしゃいました。そのとおりです。彼は十字架から下りて助かるというのではなく、その十字架の上で苦しみながら地上の生涯を終えるのです。けれど彼は、「今日、あなたはわたしと一緒に楽園にいるだろう」というイエスさまの約束、これは罪のゆるしの宣言ですね。その確かな希望を戴いて召されていくのです。楽園というのは、あのアダムとエバ、人間が神と近く共に生きたエデンの園を彷彿とさせます。神の救い、主イエスが一緒にいてくださる。いることになる。それが彼にとっての、又、主に救われた私たちにとっての楽園、パラダイスなのです。

③私の十字架
最後に、今日の宣教題を「主イエスの十字架と私の十字架」とつけました。
主イエスの十字架を挟んで左右に二人の犯罪人の十字架がありました。今から2000年も前のできごとです。けれども今日の箇所から示されますことは、それが「私の十字架」でもある、ということです。犯罪人の一人は十字架上でイエスを最期までののしり続けました。一方の犯罪人は十字架のイエスとの出会いを通して、主の御赦しと救いを得るのです。私はこの二人の犯罪人が十字架につけれられたように、罪に滅ぶ外ないような者であります。そのような者のために、罪の無い主イエスが十字架にかかり貴い犠牲を払い、私の罪の裁きを受けてくださったのです。これこそまさに、ルカ福音書からこれまで放蕩息子のたとえ、徴税人のザアカイ等の物語を読んできましたように、「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのである」との福音なのです。
滅びの十字架を共に担って下さった主イエスの犠牲とその痛み。それは神の愛であります。その深い大きな御救いを生涯忘れることがないように、日々主を賛美し、仕えつつ、主がもたらされた福音を伝え、証しする者とされてまいりましょう。やがて完全なかたちで訪れる神の国を待ち望み、希望をもって歩んでまいりましょう。
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仕える者になりなさい

2015-03-22 15:26:53 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ22章24~30節 

昨日はお天気にも恵まれバザーが行なわれました。ご奉仕本当にお疲れ様でした。失礼ですが、お年を召した方々も若い人のように活き活きと会堂献金のために、又大阪教会を知っていただくために、とお働き下さっている御様子はとても嬉しく、本当に感謝でありました。主が報いてくださいますようにお祈り申しあげます。

さて、本日は先程読まれ、こどもメッセージにもございましたが。「使徒たちの間に、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか」という議論が起こる、そのような箇所であります。
しかしそれは、イエスさまがいよいよ十字架の「苦しみを受ける前に、使徒たちと共に過ぎ越しの食事をしたい、と切に願って」持たれた最後の晩餐のその席で起こった、とルカは赤裸々に伝えます。
イエスさまは使徒たちと共に食事の席にお着きになると、自らパンを裂き、杯をとり、使徒たちにお渡しになって感謝の祈りを唱えてから言われます。「これはあなた方のために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
私どもも月ごとの主の晩餐においてこの主のお言葉を聞き、救いの御業を思い起こすわけです。
ところが、そのような席でイエスさまは使徒たちの思いもよらない言葉を口になさるのです。「わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている」と、そう言われるのです。それを聞いた使徒たちは、「自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論し始めた」というのですね。まあその様子を想像しますと、「私は決してイエスさまを裏切るようなことはあり得ない」とか「互いに誰だれはいつもイエスさまに用いられるからそんなことはないだろう」「誰だれは始めから従っているからだいじょうぶだろう」とか、そんな議論が飛び交っいたのではないでしょうか。そういうやりとりの中で、「使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いのだろうか」という議論も多分起こったのでありましょう。

そこでそれを聞いていたイエスさまは、使徒たちにこのようにおっしゃるのであります。
「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振う者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそうであってはならない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになりなさい。上に立つ人は、伝える者のようになりなさい。」

この「いちばん若い者のようになりなさい」という言葉は、岩波訳では「若輩の者のようになるがよい」と訳されています。それは、自分はまだまだ未熟な者、まだまだ足りない者だという認識を持つ、あるいはそういう謙遜さを失わないように、というさとしでありましょう。同じルカの編集による使徒言行録5章には、「若者たちが遺体を包み、運び出して葬った」と記されていますが。そんなふうにある意味人の嫌がるような働きを若者たちは買って出たということなのでしょう。それは又、年長者への労りや敬意を示す行為でもあったのです。しかしイエスさまは立場や年齢に関わらず、又固執することなく、あなた方は「いちばん若い者:若輩の者のように仕える者となりなさい」と使徒たちに命じ、招いておられるのですね。
ヨハネの福音書では、この場面にイエスさまが弟子たちの足を洗われるという印象的な記事が挿入されています。そこにはこう記されています。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たち愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネ13章) 
 イエスさまは引き渡される場において、自分を見捨てて逃げ去っていくような弟子たちの弱さを知りながら、決して見限るようなことはなさらず、最後まで愛し抜かれ、その証しとして、ご自分を裏切り引き渡す者も含む弟子たちの足を一人ひとり洗われるのですね。自らそのように行って、弟子たちに互いに「仕え合うこと」を示されたのであります。

今日の箇所で、イエスさまは「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」と議論する彼らに言われます。
「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」

主であるイエスさまご自身が弟子である彼ら、しかも離反してしまうような弱さを抱えた彼らのために最後の晩餐を持ち、愛をもって給仕されたのであります。
「わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」

「給仕する者」はギリシャ原語ではディアコネオンで、それは「執事」の語源となる言葉です。この当時、給仕をするというのは奴隷の仕事でした。世の人びとが権力の座につき奴隷を多く召し抱えることを欲した時代に、イエスさまは自ら使徒や弟子たちに給仕する者となって、人に仕えるよう弟子たちを招きます。それは単にこれをします、あれをします、というのとはちょっと違います。たくさんいろんなことをするというのではなく、自ら若い者、若輩の者のようになって神と人に「仕える」ということです。主が仕える者となって下さったように、主にあって仕える者となる。それが大事なのです。


さて、イエスさまは使徒たちに「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」とたたえます。
イエスさまは、その公生涯において、荒れ野の試みにはじまり、多くの村や町を巡られては時に野宿しながら、又時に食事さえ満足にとれない日もありながら、神の国を宣べ伝え、病人をいやし、解放を告げ知らせていかれました。それに加え、律法学者やファリサイ派の人々の非難、中傷、又人々の無理解と拒絶に心を痛めてこられたことでしょう。そういう中、実際イエスさまのもとを多くの弟子たちが去っていった、と聖書に記されています。けれどもそういった状況が続く中でも、使徒たちはイエスさまのもとに一緒に踏みとどまってきた。そのことをイエスさまは労っておられるのです。

イエスさまがお受けになる試練はこの後、捕縛、そして十字架の苦難の極みにまで達します。使徒たちはイエスさまが捕えられたときには勇ましく抵抗しますが、もはやそれを阻止することができないと分かると為す術も無くなってしまいます。
使徒の筆頭格であったシモン・ペトロは、「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」とイエスさまに勇ましく約束します。彼は確かに捕えられたイエスさまを追って遠く離れて従ったのですが、最後には保身のあまりにイエスさまのことを知らないと否むことになるのです。イエスさまはそうなる前からすでにそのことをご存じでした。31節に記されているとおりです。
しかしあえておっしゃったこの28節のお言葉は、使徒たちの弱さを否定するのではなく、彼らのその時に至るまでの思いというものを肯定的に受容して、「絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」と励ましておられるのですね。それは使徒たち以降のキリスト教会の信徒たちにとっても、如何に大きな支えの御言葉となったことでしょう。

ここにおいてイエスさまは、御自身が父なる御神から委ねられた神の国の支配権を使徒たちに委ねると語られました。これは大変なお言葉であります。何か使徒たちの働きが立派で優れていたからではありません。いいえ、むしろイエスさまの「わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」とのお言葉によって低くされた、仕える者として生きることを知らされた使徒たちに、イエスさまはそれを委ねるとおっしゃっているのですね。

今日のお話は、イエスさまが十字架の苦しみを受けられる前に、いわば神の国の完成を間近にして最後の晩餐を12使徒たちと共に持たれた、その場面での出来事から聖書に聞いてまいりました。まさに神の国は、イエスさまが僕となって人々に仕え、その極みともいえる十字架の贖いの死を遂げられたことを通してもたらされるのです。使徒たちは仕える者として世に来られた主イエスの証し人であり、その言葉と主の御霊なる聖霊によって、その神の国を治めるようになる、と約束されているのです。
その意味の深さを使徒たちがもし知っていたのであれば、「だれがいちばん偉いだろうか」などと議論することはなかったでしょう。しかし、彼らが後に、主イエスが十字架の苦難と死を通って復活されたことを知った時、いかに自分たちがふがいない者かを痛感したことでしょう。そして又、自分の力では到底立ち得ない者であることを思い知って心低くされ、そこから主に仕えて生きる者とされていったのではないでしょうか。

私どもも、イエスさまが神の国の過ぎ越しを前に、使徒たちの給仕をなさり、御体と御血潮を表すパンと杯を分かたれた。又、自ら僕のようになってたらいに水を汲み、すべての弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふかれた。このお姿。このお方こそが私たちの救い主であられ、神の国をもたらしていて下さる方なのだといということを、感謝をもって喜びたいと思います。今日もイエスさまは私たちにおっしゃいます。「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」
この主イエスの招きに応えてこの週もここから歩み出してまいりましょう。
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イベントのご案内

2015-03-21 13:13:40 | イベント
春のチャペルコンサート

4月26日(日)
  
  開場:13:30
  開演:14:00

Piano 中野 博誉(ナカノ ヒロオ)

バッハ、ショパン等、幅広いジャンルのピアノ曲を奏でる。
ピアノ曲集「あなたがいてくださるから」「立って、あなたのもとに」等
3枚のCDをリリース。ピアニスト、朝日放送「福音の光」
ラジオ牧師。日本バプテスト同盟高槻バプテスト教会牧師でもある。       
  
リスト作曲   愛の夢 3番
     ショパン作曲   夜想曲 2番                                                     
                 夜想曲 13番
                    バラード4番
     …他
                
(曲目は変更になる場合があります。)
 
  お招きの言葉
  
  激動の時代を生きた音楽家たち。その生涯において
  彼らが音楽に託した深い祈りと希望のメッセージとは。
  この季節、新緑の香りを運ぶ風を感じながら、ピアノ音楽
  を通して彼らの真実な思いに心を向けてみませんか。
           


入場無料(但し東日本大震災被災地支援の為の自由献金があります)

会場:日本バプテスト大阪教会

大阪市天王寺区茶臼山町1-17 ℡ 06(6771)3865 
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今日、救いがこの家を訪れた

2015-03-15 15:12:34 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ19章1~10節 

本日は徴税人の頭で金持ちであったザアカイが主イエスと出会い、主に立ち返り、変えられていく物語であります。
彼は徴税人でありました。この当時徴税人はただの税金の取り立て人ではなく、ユダヤを支配していたローマから雇われたユダヤ人が、同胞である民から様々な税を取り立て、ローマに献上していたのです。先回もお話したように、その取り立ての裁量もある程度徴税人に任されていて、私腹を肥やす者も多かったのです。
まあ、そういうことからユダヤの民は徴税人を強く嫌い、ローマに魂を売った「売国奴」として見ていたのです。このザアカイはそのような徴税人たちの頭で、金持ちであったということですから、まあユダヤの人々からはどうしようもない「罪深い男」として激しく蔑視されていたのです。

本日の箇所で、彼がイエスさまを見ようとしますが、「群衆に遮られて見ることができなかった」とあります。背が低いザアカイに場所を空けてくれる人、声をかけてくれる人は寂しいかな、一人もいなかったのですね。地域や近所の人との関わりがない。挨拶してもらえないというのは寂しい。受け入れられていない事を知る寂しさはどんなに切ないものでしょう。
又、彼にとって深刻だったのは、ユダヤ人として、信仰の父であり、民族の父であるアブラハムの子と呼ばれる者の中に数え入れてもらえなかったということです。ユダヤの同胞から、あれはもうアブラハムの子という資格はないと、うしろゆびを指され続けてきたザアカイの心は、いつしか頑なになり、その態度も又、ささくれだつものになっていたのかも知れないと想像いたします。

さて、そのようなザアカイでしたが。彼は、どういう理由か「イエスがどんな人か一度見ようと思った」というのであります。普段ならお金にならない人とは関わろうとはせず、税金を取れるような人なら押しかけてでも会おうというのがザアカイであったと思えるのですが。そんな彼がどうしたことか、「イエスという人物に会ってみたい」と思ったのですね。
 彼は時々聞こえて来るイエスという人のうわさを興味深く聞いていたのかも知れません。徴税人をはじめ当時罪深いとされていた人たちと食卓をともにし、神のゆるしと愛を語るというそのイエス。また、彼こそは永く待ち望まれて来たメシア・救い主なのではないかとうわさされるそのイエスはどういう人なのかと随分気になっていたのではないでしょうか。
 同胞であるはずの人たちに遮られたその壁の向こう側に、何か救いがあるかもしれない。彼はもう祈るような気持ちで走り出し、先回りをしていちじく桑の木によじ登り、イエスを見ようとしたのです。

すると、5節「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊りたい。』」
何と、イエスさまは大勢の群衆に囲まれながらも、いちじく桑の木に登っていたザアカイを見つけ、ザアカイの名前を呼ばれるのです。「あいつは罪深い男」だと後ろゆび指される彼をイエスさまは見出し、「ザアカイ」とその名を呼ばれるのですね。それは上からの目線ではなく、下から見上げるのです。まさにアンダースタンドのまなざしで呼びかけられるのです。
イエスさまがザアカイの名前を知っておられたのは、すでに弟子となった者の中に徴税人であったレビがいましたから、もしかするとレビがイエスさまに耳打ちしていたのかも知れませんが。大事なのはイエスさまが木の上に登ったザアカイの心の中を深く察して、その魂の必要、求めを見出されたということです。イエスさまは大勢の群衆を前にしますが、そのザアカイ一人の魂の必要を見出し、彼と一対一で出会われるのですね。  

しかし、このことはザアカイだけのことでしょうか。いいえ、イエスさまはご聖霊をお送りくださって今この時も、ここにおられるお一人お一人の魂との出会いを求めておられるのです。神の国の福音は大勢に向けて語られておりますが、肝心なことは、主がこのザアカのように御救いを求める魂を見出すこと、一対一の出会いを願っておられるということです。御言葉が自分に語られているものとして聞いて受けていくときに、今日も主イエスは出会ってくださいます。それも、私たちの魂の悩み、飢え渇きの底なき淵に立って私の名を呼んでくださるのです。逆にそうでないのなら福音は素通りしていくだけでしょう。
ちなみに、このザアカイという名についてある説では、「ザカリア」という由緒あるユダヤの名前のギリシャなまりで、元来はザカリアであったとも言われております。このザカリアとは「主はおぼえておられる」という意味があります。

イエスさまが「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊りたい。」
 このイエスさまのこのお言葉はザアカイには、「主はわたしをおぼえておられる」と聞こえたのではないでしょうか。「主はわたしをお忘れにならなかった」。そう分かった時、ザアカイは喜びにあふれてまるで転がるように木から降り、イエスさまを家に迎え入れるのです。

しかし、イエスさまがザアカイの家に行くという選択は、周囲にいたユダヤの群衆に「あの罪深い男のところに行って宿をとった」とつぶやきや蔑視を生じさせることになりました。
きっとその時ザアカイは、人々のつぶやきや蔑視を我が身に負ってまで自分を受け入れようとされるイエスさまに救い主の真実を見るのですね。うわべじゃない。この方は本気なのだ、と彼は知るんです。
8節「ザアカイは、立ち上がって、主に言った」とあります。
彼はここでイエスさまにではなくキュリオス;主に言ったというのです。これは主に立ち返ったザアカイのまさに信仰告白なのです。そして彼は救いを受け入れた真実を示すかのように神と人々の前に、こう宣言するのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」

それをお聞きになったイエスさまは言われます。
「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

11節には「人々がこれらのことに聞き入っていた」と記されています。あのザアカイの変えられた様、その宣言の中に、そしてイエスさまのお言葉の中に、つぶやき、蔑視した人たちのうちにも、主の御救いの豊かさを知らされるのであります。これが福音の豊かさであります。一人の人が見出され、救いを得るという出来事が、それを目にし、耳にする人にまで主の御救いを仰がせるのです。

最後になりますが、一昨日13日、私はMさんのお母さまのお兄さま、伯父さんの告別式のご奉仕をさせて頂きました。「10日夜、クリスチャンの伯父が天に召されたので、火葬前に聖書を読んで最後のお祈りをしてもらえないか」とK夫妻からお電話がありました。故人の所属している教会の牧師は事情があり難しいということで、私に依頼があったわけですが。私も13日だけはスケジュールがあいていましたので、お引き受けできたのです。そして、当初は火葬前の僅か5分足らずのご遺族だけのお別れの時の予定であったのですが。姪っ子のMさんがご遺族に働きかけて、ご親族含め15人程で告別式を行うことになり、故人を天の故郷にお見送りすることとなりました。
私はその告別の式において、そこに集っておられる方々の讃美歌の歌声の大きさにちょっと驚きつつ感激しました。実に、その多くの方がクリスチャンであられ、又、教会にも通われたことのある方がおられることを知らされました。そして何よりも、こうしてお別れの時を持つことができたことは、本当に神さまのお取り計らいであったということを思わされました。故人のご子息は小さい頃教会に連れられていたそうですが、この出来事を通して、神さまがきっと彼をまた教会へ導いてくださるであろうことを信じて、祈りました。

「今日、救いがこの家に訪れた。」
今日も失われたものを捜して救うために来て下さったイエスさまに、神の愛と救いを私たちも見出しつつ、主の招きに応えていく者とされていきましょう。
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人の正しさと神の義

2015-03-08 21:27:34 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ18章9ー14節 

本日もイエスさまのたとえ話ですが。「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ話から、今日は「人の正しさと神の義」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
まず、このお話は「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」イエスさまがお語りになったということでありますが。
正しく生きたい。これは本来どんな人のうちにもある願望ではないでしょうか。それは神が人をご自分に似せてお造りになられたからであります。神が全き義なるお方であるように、人も正しく生きたいという願いが備わっているのですね。ですから、どうしたら正しく生きてゆけるのか考え、それに努めることは尊いことに違いありません。
しかしその一方で、自分の正しさを主張しようとする時、人は他人を引き合いに出し、線引きをして、あの人よりはまし、といって自己正当化することがないでしょうか。

それでは、イエスさまのたとえ話に耳を傾けていきましょう。
ファリサイ派の人と徴税人の二人が、祈るために神殿に上りました。
ファリサイ派の人は、立って、心の中で祈ったとあります。立って祈るのはユダヤの慣習だそうですが。ここに彼は声を出してではなく、心の中で祈ったとあります。だれでも自分は人より優れているとか、人よりましだとか、口には出さないでしょう。けれども神は人が口に出さなくても、人の心にある思いをご存じなのですね。どんなに形は正式に祈ろうとも、神の前においてはその心の中までごまかすことはできません。
 彼は「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と心の中で祈ったというのです。
 その祈りの前半部分は、「わたしがほかの人たちのようでない」ことを主張し、さらに、離れて祈っていた徴税人をして「わたしはこのような者でもないことを感謝します」というのです。そして、後半部分では、「わたしは教えや規定に対してこんなに人一倍努力しているんだ」と言うかのように、それをあげ連ねています。
そんな「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」、イエスさまはこのたとえ話を語っておられるのです。

聖書に登場するファリサイ派の人は、神から選ばれた民という選民意識のもと、神に対する責務として、律法を守るべく生活を律し、聖別しなければならないことを主張し、自らそれを実践してきた人たちでありました。このファリサイ派に入会するにはある条件があったそうです。それは律法を何よりも厳守していたことから、律法を知らない人、知っていても守らない人とは交際しないという誓約をたてることだったそうです。 
このファリサイ派の人は、「わたしはほかの人たちのように」悪とされるようなことはしていない。罪人とされる人たちとは違う、と祈るわけですが。それは先回もファリサイにあたるヘブライ語には、「分離した者」という意味があり、彼らは律法を知らない者、又律法を守らない人と自分たちを分離し、そういう人たちと一切付き合わず生きることが、聖なる者としての生き方だと理解していたのです。
 まあですから、ファリサイ派の人たちはお互いを兄弟と呼び合い、その団結は固く強いものでした。その信仰生活については、ファリサイ派の人の祈りに示されていますように、週に2度の断食に励み、献金も全収入の10分の1をささげて実践していたのです。まあそれ自体は、一つの生き方であり、献身の形であると言えるでしょう。
問題は、ファリサイ派の人たちが律法を知らない人、守ることのできない人と自分を比較し、自らを高みにおいて他者を卑しめたということです。神に対して「私は人と比べこれだけやっているから合格でしょう」、彼ら罪人は不合格とまるで学生が自分で合格通知を出すかのように高慢になっていた。そこに問題がありました。
現代社会にあって生きる私たちは幼いうちから、何かと人と比較され育ってきたのではないでしょうか。何から何まで評価され、あたかもそれで人の価値も決められていくような錯覚に陥ってしまうとしたなら、非常に残念なことです。

ところで、たとえ話のもう一方の徴税人はどうだったかといいますと。
彼は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』。
この当時のユダヤ社会における徴税人というのは、一般的な税金の徴収人とは事情が違っていました。それは当時のイスラエルがローマ帝国の植民地とされていた事情から生じた特別な職業だったのです。彼らはユダヤ人でありながら支配国のローマから雇われ、ユダヤの同胞から税金を徴収していたのですが。その徴収の裁量権が委ねられていたことから、多くの税金を徴収して私腹を肥やしていた者もいたようです。ですからユダヤの人々は普段から徴税人に対して恨みと怒りをもち、彼らを軽蔑していたのです。
まあこのような徴税人の行為を律法に照らしてみれば、どれだけ多くの律法違反があげられたことでしょう。ファリサイ派の人が祈りにおいて、「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者」、つまり支配国、敵と通じる者ともとれるわけですが、それらと同列に、徴税人をあげた背景には、そのような事情があったのです。

その彼は、祈るために神殿に上って来たのですが。まるで身を隠すように神殿のすみに遠く立ちます。それなら何も神殿にわざわざ来なくてもよいのにと思いますが、そうではないのですね。そこには、神の前に出てゆるしを乞わなければならないという強い自責の念が彼の内にあったからです。けれども彼は、義なる神の前に出た時、その御前に近づくどころか、「目を天にあげる」ことさえできず、ただ「胸を打ちながら、神様、罪人のわたしを憐れんでください」と口にするのが精いっぱいであったのですね。目にいっぱいの涙をためたこの人の姿が浮かんでくるようでありますが。

さて、イエスさまはこのたとえ話の結びの言葉として14節、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とおっしゃいます。
しかし当時の常識としてそんなことはありえない話でした。社会的に義とされるのはファリサイ派の人たちであって、徴税人でありはずはないのです。ところがイエスさまはそんな社会の偏見を覆されるのです。

2週間前の礼拝宣教においてルカ15章の「放蕩息子のたとえ」を読みました。その後半部分で、父が放蕩のあげくに帰って来た弟にとった歓待ぶりに対して兄が父に猛反発する場面がありました。この兄の気持ちも理解できます。その時兄は父にこう食ってかかりました。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会するために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。
何だか今日のファリサイ派の人とこの兄とが、重なって見えてきませんか?
兄は何年も父に仕えている。父の言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに何で、その自分には子山羊一匹すらくれなかったのに、あの放蕩の息子には肥えた子牛を屠ふっておやりになるのですか、と猛然と抗議しますよね。常識的にみれば、それは不公平といえます。
イエスさまがこれらのたとえ話を通して伝えておられるメッセージ、それは「神の義」であります。「人の正しさ」「人が立てようとする義」でもありません。人を義とされ受け入れるのは父なる神さまです。その「義と愛の神」にメッセージの中心があります。
多くのファリサイ派の人たちは、律法を守り、行い、罪人とされた人たちと分離して義人となれば、神の救いを受けて永遠の命に得ることが出来ると考え、熱心にそれを成し遂げようとしました。
しかし、皮肉なことに自分で義を立てようと努めれば努めるだけ、自らを誇り、他者を裁き、見下す高慢な思いへ変質していったのです。彼にはもはや父の家に帰る弟の気持ちなど分かりません。自責の念にかられ、悔改める徴税人を隣人として受けとめることができないのです。
父なる神の御目は、自分は正しく、より優れた者として誇り、おごる者にではなく、遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、ただ「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈る以外なかった徴税人へ注がれています。

しかしこの徴税人にいたしても、彼が罪を悔改めたから神の義、神の救いを受けたということよりも、大切なのは、まずその前に父なる神が罪深い者が帰って来るのを待っていてくださるから、いつくしみ受け入れてくださるから、「義とされる」のです。
人その神さまの犠牲的愛といつくしみによって初めて、神のもとに立ち帰ることができるのです。今、レントの時節を迎えておりますが。私たちはその父なる神の犠牲の愛のもとに御独り子イエス・キリストの十字架が立てられていることを知っています。

今日は「人の正しさと神の義」について、ファリサイ派の人と徴税人のたとえ話を通して、聞いてきましたが。このお話は人ごとではなく、自分の心のうちにもこのファリサイ派の人のような思いがありはしないか。この徴税人のように救いを求め神の愛とゆるしに生きているか、と問いかけます。
自分の正しさによっては決して救われ得ない者が、神の慈愛、すなわちイエス・キリストの贖いによって救われ、生かされている。今こうして「神に義とされ、救いを受けて活かされている」ことは当たり前のことでは決してないのです。私たちクリスチャンはそのことを日々忘れることなく、感謝の応答をもって歩みゆく者であります。

本日の箇所においてイエスさまはこのように「神の義」をお語りになったことで、この後、ユダヤの指導者たちの陰謀によって捕えられ、裁かれ、十字架刑に引き渡されてゆきます。
確かに私たちはその当時、イエスさまを十字架につけよ、と叫んだユダヤの群衆ではありません。ファリサイ派や律法学者のような者でもありません。
けれども私たちは、自分の心の内にも、確かにイエスさまを十字架に引き渡した罪性、人をつまはじきにし、裁き、自分の正しさを誇り、おごるような性質がありはしないか、と問われます。いつもそこから本当に自由にされ、解放されて歩みゆく者でありたいと願うものです。
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友なるイエス

2015-03-01 13:36:05 | メッセージ
礼拝宣教 「友なるイエス」 ルカ16章1~9節 

昨日は新会堂が建てられて最初の「結婚式」が祝福のもと行われました。お天気にも恵まれ2階のバルコニーが結婚式で初めて用いられたことも嬉しかったですね。カナの婚礼で水をぶどう酒に変えられた主イエスは、新しいご家庭を築いてゆかれるお二人と、み守る人すべてに今も素晴らしい幸いをくださることを感謝します。又、この挙式のために準備と奉仕、あるいは参列くださった教会の皆さまに心より感謝申しあげます。お二人のご家族、ご友人、知人の方々にこの結婚式をとおして福音の種が蒔かれたことも喜びでありました。証の立てられるよいご家庭となりますよう、お祈り申しあげます。

さて、先週は「放蕩息子」のたとえ話を読みました。父親の財産を放蕩三昧の果てに使い果たして帰って来た弟息子を、父親は雇い人(奴隷)の一人としてではなく、愛する子として迎え入れたというお話でした。そこには、罪ある者の魂が滅びることなく、命を得るようにと、その御独り子イエスさまをお与えくださった神さまの犠牲の愛が示されているということを、改めて知らされ感謝でした。

本日の箇所もイエスさまによる「不正な管理人」のたとえ話であります。
このたとえ話は、聖書の中でも最も難解なたとえ話の一つ、と言われております。それは世間一般では理解し難いようなことがそこに語られ、いわゆる道徳訓や私たちが考える福音理解とぶつかってしまうからです。
このたとえ話を読むためには、まず私たちの固定観念をぬぐい去る必要があります。
人は自分が考える以上に思い込みが強く、偏見をぬぐいきれず、それに囚われて本質的なことがみえないことが往々にしてあるものです。このたとえ話はあたかも「だまし絵」のように見る見方によって、素晴らしい神さまの福音のメッセージを伝えるものであることを、初めにおぼえて読んでいきたいと思います。

では、イエスさまの今日のたとえ話をもう一度丁寧に読んでいきましょう。
イエスさまは弟子たちに次のように話されました。ある金持ちに一人の管理人がいたが、主人の財産を不正に浪費していることが明るみに出てしまった。主人は、もうその管理人に管理を任せておくわけにいかないと考え、管理人に会計報告を出すように命じ、解雇の予告をしました。私たちの身近でも今だに議員さんの政治とカネが問題になり、嫌気がさしますが。
管理人は主人から一切の権限を与えられていたのですね。だからそういう浪費もできたのでしょうが。このたとえでは、この管理人が、どんなことにそれを使ったかなどは何も語られません。けれどもそれは仕事や経理上の失敗ではなく、明らかな浪費、無駄に使ったという事実があり、それが主人にばれてしまった。そのため責任を問われ、解雇されるかもしれない、そういう窮地に追い込まれたことだけが語られています。

そこで、この管理人は会計の報告を作るために与えられた時間を考え抜いて、「自分がたとえ管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」と思いつくのです。
彼はそくそれを行動に移します。主人に借りのある者一人一人呼び出して、最初の負債者の油100バトスの借りの証文を50バトスに、別の負債者の小麦100コロスの証文を80コロスに、それぞれ減額して、自分の前で証書を書き直させて負債者たちに恩義を売ったのです。これはいわゆる証文書偽造の不正行為でありますが。

まあ主人にとってこの管理人のしたことは、まず財産を浪費された上に、さらに油と麦を貸し与えた証文を書き変えられて損害を被るのですね。まあひどい話であります。
この管理人は情状酌量の余地はどこにもないように思えます。そこで主人が怒り狂ってこの管理人を訴え出てもおかしくないところでしょう。
ところがこの主人は、何と驚いたことに、「この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」というのですね。まあ、こんなことをされてほめる人は普通いないでしょう。こんな不正なやり方がまかり通り、肯定されてよいわけがありません。
この当時のこういった油(オリーブ油)や小麦などの収穫物の貸借については、いわゆる先物取引のようなものとして作物自体にも貸借の利子を決めて、それを加算していたようです。農作物は出来不出来によって収穫の多い年と少ない年がありますから、そうしたリスクを含めて小麦の利子は20パーセントと、そのうえに作物相場の変動リスクとして5パーセントを加えた25パーセント。オリーブ油の場合は利子が非常に高くて80パーセントと、相場のリスク20パーセントを加えた100パーセント、つまり返済するときは2倍の量にして返さなければならなかったそうです。油の利子がこんなに高いのは小麦と違って薄めて混ぜ物にされてしまうリスクが高かったので、その保証料が利子として高くついたそうです。けれどもこれはいくらなんでも高すぎです。この管理人は貸手の「油100バトス」だったのを「50バトス」に、別の貸手の「小麦100コロス」だったのを「80コロス」に書き直させたというのは、いわば貸手に無利子としてやったということです。
片やこの主人はというと、利子分は入らなくなりますが元手はそれで減ったわけではなく、まあもうけはないが、損はしないということです。そして勿論主人も貸手から大変感謝されることになるでしょう。この管理人はそういうことを推し図った上ですね、たとえ主人から解雇通告を受けても、二人の貸手に大きな恩義を売ったのだから、もしもの時は彼らが自分を迎え入れてくれるだろうという想定をして、それを実行に移したんです。だから「主人は、不正な管理人のこの抜け目のないやり方をほめた」ということなんですね。
たとえ話はここで終わり、その後この管理人がどうなったかは語られていまにで分かりませんが。
イエスさまはこの抜け目のない管理人をして、8節「この世の子らは、自分の仲間に対して、このように光の子らよりも賢くふるまっている」。まあここまでは分かります。光の子というのはクリスチャンのことなんですが、世間にはクリスチャンでなくとも抜け目のない人、計算高い人、世渡り上手という人って確かにいます。ところが問題はこの後の言葉です。弟子たちも愕然としたであろうことをイエスさまは口になさるのです。「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住いに迎え入れてもらえる」。

「まさかイエスさまが不正にまみれた富で友を作れ」とおっしゃるとは驚きであります。
けれども、ここで初めに申しましたように、このたとえ話は「だまし絵」を見るように、一方的な見方に囚われないで、別の角度からも読むことが必要です。
私たちは「正しく生きる」ということにあまりにも道徳的な固定観念を持つあまり、本質的なことが見えなくなっている場合が往々にしてあるのです。イエスさまを非難した律法学者やファリサイ派の人たちもそうでした。
 しかし私たちはまずここで、イエスさまが「そうしておけば、あなたがたは永遠の住いに迎えてもらえる」とおっしゃっているその方向からこの言葉を聞くことが大切なのです。
 このたとえで、実は主人が不正な管理人をほめたのは、彼が今主人から託されている富を使って、自分を受け入れてくれる友を作っておくように賢く備えていたからです。つまり、この話を聞いていた弟子たちに主イエスは、「永遠の住いに迎えてもらえるための友を作れ」とおっしゃっているわけですが。まあ律法学者らは戒めを守り、自らの義を立てることで永遠の命を獲得することができるように努めるのであります。しかし、イエスさまは永遠の住いを得るための友を作って備えなさい、というのであります。さらにそれを、不正にまみれた富を使って、というのですから弟子たちも、又私たちも混乱するわけです。しかし、どうでしょう。みなさん。私たちは聖書を読んで律法学者、ファリサイ派をわからずやのように思ったりするかも知れません。けれども、彼らは長い歴史の中で今も変わらずに細かな律法の規定を大変な努力をして厳格に守っているのです。一方、私たちクリスチャンはどうでしょうか。特に何をしたからというのではなく、さらに神に対して日々罪を犯すような私たちを神は、ただ主イエスの救いの十字架の業によって赦され、受け入れられているのですね。これは天国から見たら不正ではないでしょうか。自分には義がないのに、唯主イエスの血によって贖われ、救いに入れられ、その上、ともに天の国の喜びに与る友をこうして得ているのです。それは本当に素晴らしい天の恵みであります。それはまさに、変な言い方かも知れませんが、不正な富で得た友であり、お互いを永遠の住いに迎い入れてくれる、主イエス・キリストにある友であります。神は救い主イエスさまを私たちの友としてお与えくださったのです。又、イエスさまをその私たち一人ひとりの友としてくださったのです。
ですから、私たちの間に躓きや問題がたとえあったとしても、許し合い、和解を心がけ、又お互いの違いを喜んで、「あなたは、私を永遠の住いに迎い入れてくれる友です」と、お互いを貴い存在としていくように主が招いておられることに、目を留めてまいりたいものです。
さらに、ここには実際のお金や財産に関する富についても語られています。
私たちは実にそれらのものをすべて神さまから委ねられており、如何に用いて使うか託されているのです。この世の富に仕え神とその恵みを軽んじ、世の滅びに向かうのであるなら、それは何ともったいない浪費でしょうか。与えられた恵みを活かして、友人、知人、家族、さらにあなたの隣人となるべき人々を主イエスの友として、永遠の住いに迎い入れる働きに、ごく小さな事から忠実に仕えていきましょう。祈ります。

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