クリスマス礼拝宣教 ヨハネ1:1-5,14
「メリ―クリスマス」、救いの御子イエス・キリストのご降誕おめでとうございます。
普通はお誕生日を迎えた本人に「おめでとう」と言うものですが。イエスさまは全世界のすべての人の救いのためにお生まれ下さった、いわば「神さまからのプレゼント」でいらっしゃるのです。それでこの日私たちはお互いに「主イエスのご降誕おめでとう」と祝福の言葉を交わすのです。
さて遂に、今日「新会堂でクリスマス」をと掲げ祈ってまいりましたこの時を迎えることができました。感慨無量、神さまに感謝であります。このような記念すべき日に、当教会に初めてご来会くださった方もおられるでしょう。ようこそ、心から歓迎いたします。
先程、ヨハネによる福音書1章から聖書のお言葉が読まれました。この福音書が書かれた目的について20章31節に「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシヤ(キリスト)であることを信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と、このように記されています。
本日のクリスマス礼拝において、まことに幸いにもHさんという一人の魂が、まさにこの福音書のお言葉の通り、救いの主、イエス・キリストを信じ、新しい命をお受けになった。私たちは本日の聖書のお言葉を見える形で共に体験させて戴いたわけであります。
ヨハネによる福音書3章16節には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と記されてあります。神さまは、罪に滅びゆくしかないような人間のその罪を贖い、救うために御独り子であるイエスさまを地上に遣わしてくださった。それがクリスマスのメッセージであります。
その記念すべき日に、「神さまからのプレゼント」を戴き、救われ、新しい命に与られた兄弟の信仰告白とバプテスマの時を、皆さまと共に持つことができ、大変うれしく思います。本日のメッセージはもうこれで十分かも知れませんが。もう少しヨハネ1章から御言葉を聞いていきたいと思います。
1章1節の冒頭には、「初めに言があった」と記してありますが。これは有名な天地創造の記事である創世記1章冒頭の「初めに、神は天地を創造された」というお言葉を想起させます。神さまの創造の御業は、神ご自身が「光あれ」と宣言されたお言葉によって始り、世にあるすべての造られたものは、御言の受肉、すなわち御子キリストの到来によって「新しい命の創造の業」が始められたのであります。こうして、神の御言葉イエス・キリストによって新たな命に与るという大いなる希望の光を得た、それが創世記1章のメッセージであります。
話は変わりますが。先日、新聞のコラムに詩人の谷川俊太郎さんがある高校の図書研究会の生徒たちを対象に授業をなさったときの情景が掲載されていました。
谷川さんが「言葉って、どこから出て来ると思う?」と問いかけます。「頭の中」かな、「心」かな、と首をひねる生徒たち。それ対して谷川さんは、「人は生まれてきたときには言葉を持っていない。周りの大人が使う言葉を学び、まねて、自分の言葉にしていく。実は言葉って、自分の外にあるものなんだ」とそう答えます。
私はそのやり取りに、なるほどなあ、と思いました。人は言葉を与えられ、蓄えられていく生きものなのです。自分の外にある言葉と出会い、それに触れることを通して内側が変えられ形成されていくものなのです。
創世記は神という絶対的創造の源であられるお方の「光あれ」という御言葉から、すべてのものが造られました。まさに、自分の外にある言葉によって、人も造られたことが示されているのですが。人は歳を重ねるごとに言葉を自分の内にもっていると考え、独りよがりになり、心もよどんでいくというようなことが往々にしてあるものです。けれどもそこで、神の言葉はすべての「命の源」であることを知るなら、人は神の言によって日々新たな命を受け、新しい人として建てあげられてゆくのです。そこにこの聖書が「いのちの御言葉」というゆえんがあります。
さて、このヨハネ福音書1節には、漢字の葉がついていない「言」が何度も繰り返して出て来ますが。この「言」とは神を指すものであります。それはまさに、出来事のこと、実体と同義語であり、具体的にはイエス・キリストが肉となって世に現れたそのことを指しております。
それは14節に記されているとおり「言が肉となって、わたしたちの間に宿られた」という出来事であります。この「肉」とは神の「霊」とは対極にあるもので、弱く、もろい、やがては朽ちはてる存在であることを表しています。
神さまは、御独り子のイエス・キリストを人の肉をとった存在として、私たちの世界にお遣わしになりました。人と人の間に住んでくださったのです。イエスさまは、その生涯を通して苦しむ者、悩む者、世の権力に小さくされた者、罪深き者、病人や汚れていると称された人たちを招き、交わり、食事をされる中で、神の国の福音を伝え、分かち合って生きたのです。そしてあの十字架の受難に至っては、人の底知れぬ暗闇のどん底にまで伴う方としてご自身を与え尽くされました。こうして私たちは人生の暗闇の中で、この方の光を見るのです。
先程、Hさんが救い主イエスさまを信じて生きる信仰告白をなさいましたが。先日最後のバプテスマの準備クラスがもたれた折、彼が「救いは自分の内にではなく、外にあるということを実感しました」とおっしゃったのです。
そこには、もちろん教会に来られるきっかけというものがおありだったわけですが。しかしそこからHさんが神の導きや聖霊の働きを体験され、主イエスと出会い、その救いに与られた出来事は、彼自身の内から起こったものではなく、彼の外から、向こう側からやって来た、与えられた、ということであります。そこには神さまの先立ちと介在があり、聖霊の宿る教会の兄弟姉妹たちとの出会いと交わりがあったのです。
神さまの愛、御子イエス・キリストの恵み、聖霊の親しき交わりに触れ、罪のゆるしと世にはない平安を得、兄弟は主の救いを体験なさったのであります。1章14節「言は肉となってわたしたちの間に宿られた。」
今日「わたしたちもその栄光を見た」のであります。
今日のこのクリスマスは、まさに救い主がこの世界に、私たち人間のために来てくださった記念の日。「神さまからのプレゼント」を喜び、祝う日であります。私たち一人ひとりに与えられた恵みと真理に満ちたこの主イエスさまのご降誕を、心から感謝と賛美をもってお祝いいたしましょう。
今週24日午後7時からクリスマス・キャンドルライトサービスが行われます。どうぞご来会ください。