日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

2013年の感謝

2013-12-31 10:10:23 | お知らせ
今年も、日本バプテスト大阪教会のブログにお立ち寄り戴き、ありがとうございました。
大変多くの方々に見ていただき、喜んでおります。
今後は礼拝宣教プラス、他の記事も入れていきたいと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。

今年は新会堂が与えられ、ほんとうに感謝の年となりました。
みなさまにとって2014年が恵みゆたかな年となりますよう、お祈りいたします。
どうぞ、よい新年をお迎えください。 在主・平安

おしらせ

元旦礼拝:2014年1月1日(水)午前11時
新年礼拝:     1月5日(日)午前10時30分

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日々新たにされて

2013-12-29 21:04:21 | メッセージ
歳晩礼拝宣教 ヨハネ3・1~8

先週は新会堂でのクリスマスが叶い、ほんとうに感謝な時でした。本日は2013年最後の主日さんび礼拝として捧げます。

「今年の恵みを振り返って」
今年は1月にK姉、3月にY兄、4月にはE姉と3人の大阪教会の兄姉が召天されました。K姉は会堂建築に当初から係って戴き、設計についてのノウハウを提供してくださったり、吹抜けの会堂について大変参考になる提案をしてくださり大きく貢献なさいました。K姉もきっと主の御もとにあってこの新会堂を喜んでくださっていることでしょう。3月2日の献堂式には、嬉野、呉、大阪からご親族が出席したいという旨のご連絡を戴きました。又、E姉は、年の始め頃だったと記憶していますが。「新会堂が完成したらぜひ12月のクリスマス礼拝に出席したい」とおっしゃっていました。しかしその願いは叶いませんでした。6月にE姉の記念会が行われました折には、ご遺族が遠くは佐賀より、ご親族がたくさんいらしてくださいました。先日のクリスマス祝会時に、お姉さんと弟さんが新会堂にお立寄りくだいました。納骨室が整った暁には、E姉の御遺骨を納めたいというお申し出を戴きました。
 仮会堂で行われました9月第一主日の召天者記念礼拝には、召天会員・会友のご遺族がこの日を覚えて近くから遠くからたくさんご出席くださり感謝でした。主にある兄弟姉妹の召天は、この世にあっては悲しく、寂しい出来事ですが、しかし、この兄弟姉妹の生きた証しを通して、ご家族ご親族の方々のうちに主イエスに導かれる思いを与えられた方、再び教会に行かれるようになった方がおられるということです。「一粒の麦が地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12章24節)あの御言葉のとおりですね、とある兄弟は私におっしゃっていましたが、ほんとに主は生きておられる、と思い知らされました。

旧会堂を出て仮会堂に移った日、私はイスラエルの民の40年の荒野の旅になぞらえ40週の歩みに主が「昼は雲の柱、夜は火の柱」で守り、導いてくださることを願い共に祈りましたが。主は祈りに答え、数々の証しとなる出来事を与えてくださいました。
3月からの仮会堂での限られたスペースでは、礼拝と祈祷会を行うのが精々で、伝道の働きについては正直、自分たちで動いたり、活動するのは難しく、週ごとの礼拝が精いっぱいだと考えていたのです。
けれども、不思議ですよね。毎週のように様々な礼拝者が与えられ、主は豊かに働かれました。先週はH兄の信仰告白とバプテスマ式が行われましたが、主は仮会堂というそのような中においても、救霊の御業を起こしてくださいました。またこうして本日はM姉が転入のお証しをして下さり、あゆみを共にするよう導かれました。仮会堂での9ヶ月間の道のりは大変なこともありましたが、様々な気づきを与えられましたし、こうして新会堂で1年の締めくくりの礼拝に与かることのゆるされた恵みを心から主に感謝します。新しい年に向け、さらなる解放と救いの御業が主によって起こされていくようにと祈り求めてまいりましょう。

「イエスのもとに来て」
先ほどヨハネ3章1節~8節が読まれました。ヨハネ3章といえば16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という御言葉がよく知られています。クリスマスにも「救い主イエスさまのご降誕は神さまからの大いなるプレゼントである」ということを共に喜び祝ったわけですが。

本日は、その御言葉が語られるきっかけとなった、ニコデモとイエスさまのやりとりからメッセージを受けとっていきたいと思います。
ここを読んでまず気になりますのは、2節で、ニコデモが「ある夜、イエスのもとに来て言った」というところです。ある日とかある時ではなく、「ある夜」ニコデモは闇にまぎれるように秘かにイエスさまのもとを訪れるのです。ファリサイ派に属していたいわゆるユダヤ人のエリートで、議員という地位と立場もあったのでしょうか。前の2章には、イエスさまの言動やそのなさったしるしを見てイエスさまに尊敬の念を抱いていたのです。しかし彼はユダヤ教徒の知識を有し指導的な立場にもありましたから、「学問もしたことのないような一介のナザレの田舎ものから教えを乞うなんて、ユダヤの同胞や社会に知られたりすると、それはまずい」というような思いがあったはずです。そこで彼は、夜であれば人目につかないだろうということで、日が暮れてからイエスさまのもとを訪ねたのでしょう。しかし、それでもニコデモがイエスのもとを訪ね、教えを乞うには、自分のプライドやメンツを捨てる勇気がきっといっただろうと思うのです。彼はそういうものをかなぐり捨ててイエスさまの前に出たのです。神に仕え、ユダヤ社会では地位や名声を得、何ら落ちどなく過ごしてきた。しかし心の底にはなぜか満たされない思いを感じていたのではないでしょうか。それは霊的な渇きであり、人がどんなに学んでも修練しても得られるものでは決してありません。彼は神を畏れ敬う人でありましたが、それにも拘わらずいまだ心には平安がなく、魂の飢え渇きは満たされることがなかった。ですから、イエスさまの言葉と行いに御神の権能を垣間見た時、この人なら何か学びに与れるものがあるかも知れないと考えたのでしょう。「イエスさまのもとに来た」というのは、初めの大きな一歩であったといえます。
聖書はいまだ世界のベストセラ―であります。実に多くの人が聖書を読み、そこから学ぼうとし、そこに自分にとって必要なものを見出そうとページをめくります。又、ニコデモのように勇気を出して教会を訪ねてみる人も多くいます。しかしながらなかなか続かず、途中で投げ出してしまう人が多いのも確かです。なぜでしょう。その疑問に対する一つの答えが今日の聖書の中に語られています。

イエスさまはこのニコデモに対して、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われます。
このイエスさまのお言葉から推察しますと、高齢であるニコデモは「神の国に入るのにはどうすればいいのか」という切実な問いをもっていた。それをイエスさまはお見通しのうえで、そのようにおっしゃったのです。イエスさまが「人は、新たに生まれる」必要がある、とお答えになったことに対して、ニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができましょうか」と反論します。人が神の国に与ることを妨げるのは「罪」です。だからこそニコデモはどうしたら罪を犯さずにすむのか、戒律を熱心に学び、善行に努め、必要であれば犠牲のささげものをなしてきたのです。ところが、それだけでは足りず、新しく生まれ直さないと、そこまでしないと神の国に入ることはできないということを聞き、「一体どうやって今さら母の胎から出た罪なき赤ん坊いなることができるのか」と考えたのも無理はありません。

イエスさまは、「だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃるのですが。「新たに生まれる」の「新たに」という原語アノーセンは、再びという意味以外にも、「上から」、つまり神さまの側から、という意味をもっています。ですからこの水と霊とは、上から、神さまからの賜物として与えられるバプテスマ、そして聖霊を表しているのです。
使徒パウロは、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(Ⅰコリント12:3)と述べています。それは天の神からの新生によるものです。人がどんなに力を尽くして律法を守っても、善行を積んでも、自分の力で神の国を見るもの、入るものとなることはできません。聖霊が人のうちに完全に働かれるときにそれは実現されるものなのです。
人が新たに生まれるという出来事は、8節で「風は思いのままに吹く」とイエスさまがおっしゃったように、人と人の関係、祈りと祈りの最中に、目には見えなくとも風の吹くように働かれる聖霊によって起こされていくものなのです。私どももさらにさらに、「聖霊のご臨在」「上よりの新生の力」「命の息吹」を祈り求めてまいりましょう。

最後に、もう一度2節のニコデモが「イエスのもとに来て」という御言葉に目を向けて宣教を閉じたいと思います。
ニコデモがイエスのもとに来たのは、これが最初で最後ではありません。ヨハネ福音書の中に、この3章の箇所を含め3度ニコデモに関する記述が出てくるのです。2度目はイエスさま裁こうとする法廷で、ニコデモはイエスさまの弁護者として登場します。さらに一歩前に自分の意志を表明する者となるのです。そして3度目は、アリマタヤのヨセフと一緒にイエスさまの遺体を十字架より取りおろし、お墓に葬っているのです。夜の人目をはばかるようなひそやかな信仰から、遂に昼という公に身をさらして、イエスさまを信じていることを表明している彼がそこにいます。その後ニコデモは、イエスさまとの出会いを通してクリスチャンになったという初代教会の伝承もあるようですが。

この事を思うときに、人が神の国を見るものとされるためには、ここが本日のポイントですが、何度も「イエスさまのもとに来て」ということが重要であります。すなわち、それは主の信仰を分かつ共同体である教会の兄弟姉妹と共に祈り、御言葉に与り、主が自ら生きてお示しになったように、愛をもって仕えていく、ということであります。そのよう中で、聖霊の臨在に触れ、日々新たにされていくのです。卒業クリスチャンなどありません。私たちは世にある限り、週ごとの礼拝の場から一歩を踏み出した様々な人間関係のの中で、聖霊の導きを祈り続け、新たに生まれるという経験を与えられます。年を重ね身体のあちこちが思うように効かなくなっていっても、「日々新たにされていく」、これが信仰に生きるクリスチャンに与えられた光栄であります。
3章21節には次のようにあります。
「しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれなされたということが、明らかになるために。」
今年一年様々な出来事の中にも、光の内に歩ませて下さった主に、心から感謝と従いゆく応答の賛美をおささげしましょう。
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最高のささげもの

2013-12-25 08:34:12 | メッセージ
キャンドルサービス宣教 マタイ2章11節b

「メリ―クリスマス、クリスマスおめでとうございます。」全世界に与えられた希望の光、救い主イエス・キリストのご降誕を、こうして新しく建てられた教会堂において皆さまと迎えることができましたことを、心より感謝しています。

①「導かれて」
今日初めて教会にお出でになられたお方はいらっしゃいますか?又、久しぶりにお越しくださった皆さま、求道中の方、ようこそいらっしゃいました。皆さまはこのクリスマスのキャンドルライトサービスへ様々な思いを持っておいでになられたことでしょう。しかし、それは皆さまの意志や決定に先立つ「神さまの選びと助け」があってこの場に導かれた、ということであります。
先程読まれました聖書の東方から来た学者たちは、「メシヤはベツレヘムで生まれる」という預言書の言葉と共に、その時を告げるかのような不思議な星に導かれユダヤの地にやってきます。すると、「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」とあります。星が彼らを救い主・キリストのもとへ導いたのです。
さらに、「『ヘロデのところに帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」とありますように、ここでは夢の中でみ使いの声を聞き、それに従って彼らは滅びではなく、救いの道に導かれました。
星や夢にちなんだ唄が世界中に多くありますけれども。その星や人の見る夢も神さまがお創りになり、お与えになったものです。それは人間の意識、無意識如何に拘わらず、自分という存在を超えた大きな存在によって、人知では計り知れない天のご計画のうちにおかれている事を知るように促しています。このクリスマスの時も、決して偶然ではなく、又皆さまの意志や決断によってではなく、天の神さまのご計画のもと、神の必然によって「救い主・キリスト」との出会いへと導かれているのであります。
今日、神さまから招かれた幸いなお一人おひとりにクリスマスの祝福を心よりお祈り申しあげます。

②「選ばれて」
さて本日の聖書では、救い主・キリストに初めてお会いできたのは、東方の学者たちであったと伝えます。それは王やユダヤ人、エルサレムの住民でなく、ユダヤの国境を隔てた遠い東の国に住む「異邦人」たちでした。ユダヤ人からすれば外国人であり、神の救いからも隔てられている、とされていた彼らが、救い主、イエス・キリストの誕生という歴史の初めの証人となったのです。
もう一つクリスマスについての記事が記されていますルカの福音書では、その素晴らしい瞬間に羊飼いたちも招かれていたことが記されています。この羊飼いたちもまた、ユダヤ社会やエルサレムという中心都市の人びとからは蔑まれ、汚れた者と称されていた人たちであります。けれども彼らが羊飼いたちほど心の底から神の救いと解放を待ち望み、メシアの到来を切望していた人たちはいませんでした。そしてまさに、神の救いはその羊飼いたちに臨んだのです。

さて、この東方の学者たちですが。おそらくペルシャ方面から来たであろうと言われておりますが。彼らの贈り物が3つだったことから3人で訪れたと思ってしまいますが、その贈り物からみてかなりの地位があったようですから、わりと多くの供を引き連れての旅であったのかも知れません。
そんな東方の学者一行が、ゾロゾロと都エルサレムのヘロデ王のもとをいきなり訪れて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちはその方を拝みに来たのです」と、真正面から尋ねたのです。彼ら学者たちは、「メシア、待望の王であるからそれは王宮にお生まれになったに違いない」と考え、いわばサプライズといいましょうか、プレゼントをもって乗り込んだのでありましょうが、まあまったく身に覚えのないヘロデ王は当然戸惑ったことでしょう。学者たちは「神の約束であるユダヤの王、待望された王がお生まれになった。是非とも拝みたい」と、ただその思いで自分たちの見た星を頼りに、遠くから遥々国境を越え、時間も労力も費やし王宮を訪ねたのです。
彼らも羊飼いたちと同様、心から神の救いを仰ぎ見ることを切望していた人たちであったのです。10節「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」
イエスさまは、「だれでも幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃっていますが。この東方の学者たちのどこか無鉄砲ともいえる行動も、その喜びようもまた、羊飼いたちがみ使いの知らせにかけつけてゆく様子も、幼子のように神の国を慕い求めるその姿であります。
それとは対照的なのが、ヘロデ王や都エルサレムの人々でありました。日常の様々な事どもに心ふさがれ、神の時が訪れるのに、それを受け入れることができなかったのです。きませんでした。
東方の学者たちは、「神の示されるこの特別な王に是非とも会って礼拝したい」という期待に満ちていました。彼らが抱いていた「礼拝したい」、それは又「神の救いに与りたい」という強い願いは、本来神さまが全世界の人たちに等しく与えられたものであります。
ところが、多くの人は日常の事どもや思い煩いに心がふさがれて、あの王やルサレムの住民たちのように神の恵みを受け取ることができなくなっているのです。

私たちも又、神から与えられている恵みに心が鈍くならないよう、この学者たちのように生涯求道心をもって救い主を拝していきたいものです。
その東方の学者たちでありますが。彼らは星に導かれ、遂に救い主・キリストと出会うのであります。ところがその救い主は、家畜小屋におられ、小さくか弱い赤ん坊、乳飲み子の姿であり、そこには王座も王冠もなく、世に言う権力をもつ王としての風貌は何もありません。それにも拘わらず彼らはこの幼子こそ救い主・キリストである、と信じることができたのであります。私はこの事こそ、今日の聖書が伝えるエピソードの最大の奇跡だと思うのであります。彼らは、霊的な目を通して、その薄明かりに照らされた乳飲み子の中に、神の栄光の救い、キリストを見るのです。
クリスマスとはキリストのミサ。つまり「祝祭」のことです。救い主であるキリストが受肉された。肉の体をとって私たちのところに来られたそのことを、心から祝い、礼拝を捧げる、これがクリスマスであります。私たちもまた、霊の目を開かれ、この救い主、神の御子キリストを真に拝することができますよう、聖霊の助けと導きを切に祈るものです。

③「宝の箱を開けて」
最後に、東方の学者たちが「宝の箱を開け」て、彼らの最も大切な宝を「ささげた」と記されています。黄金は、今でも変わらない高価な宝ですね。乳香は、アラビア産の、芳香のある貴重な樹脂であり、礼拝の時にささげる香としてもちいられたようです。没薬も、香料の一種で高価なものでした。「宝の箱を開けて」とは、彼らにとって最もよいものをささげたということです。それは救い主にお会いして、その救いの尊き恵みに与ったことへの心からの感謝であり、献身を表しています。
喜びあふれる中で、最高のものを幼子イエスさまにプレゼントした東方の学者たち。
しかし、まずプレゼントを差し出されたのは他ならぬ神さまご自身であられました。
ヨハネ3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とありますように、御独り子イエス・キリストを救い主としてこの世界に与えくださったのです。私たちが救に与って喜びに満ちあふれるために、神さまは御自分の最高の宝である御独り子を私たちに与えてくださったのです。
東方の学者たちが自らの「宝の箱を開けた」ように、共に喜ぶ私たちも、神さまに最高の感謝、最高の讃美、そしてその御恵みを分ち合う献身という名の最高のささげものを、ささげしていく時、神さまはそれを何倍にも、何十倍にも豊かに祝福して下さるでしょう。

今年もこのキャンドルライトサービスの席上献金は、全額、3箇所に送ります。
1箇所は、目のご不自由な方々の救いの道標となる点字の聖書作製のために、2か所目は、
滋賀県にあります障害を抱えている人たちの施設、止揚学園に。3か所目は、この厳寒の下、野宿生活を強いられている方々が凍死や病気から守られるように越冬支援をされている釜ヶキリスト教協友会へ、送金いたします。私たちは直接的にお手伝いや奉仕ができなくても、心からその働きのために祈り、このささげものをもって福音のともし火を分かつ者とされたいと願っております。
 イエスさまは今夜も、世の人の思いもよらぬお姿でこの街のどこかにたたずんでおられるかも知れません。このキャンドルのともし火のような神さまの救いと御心に心開かれ、新しい年に向かって歩んでまいりましょう。メリークリスマス!祝福をお祈りします。
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神さまからのプレゼント!

2013-12-22 17:19:11 | メッセージ
クリスマス礼拝宣教 ヨハネ1:1-5,14

「メリ―クリスマス」、救いの御子イエス・キリストのご降誕おめでとうございます。
普通はお誕生日を迎えた本人に「おめでとう」と言うものですが。イエスさまは全世界のすべての人の救いのためにお生まれ下さった、いわば「神さまからのプレゼント」でいらっしゃるのです。それでこの日私たちはお互いに「主イエスのご降誕おめでとう」と祝福の言葉を交わすのです。

さて遂に、今日「新会堂でクリスマス」をと掲げ祈ってまいりましたこの時を迎えることができました。感慨無量、神さまに感謝であります。このような記念すべき日に、当教会に初めてご来会くださった方もおられるでしょう。ようこそ、心から歓迎いたします。

先程、ヨハネによる福音書1章から聖書のお言葉が読まれました。この福音書が書かれた目的について20章31節に「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシヤ(キリスト)であることを信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と、このように記されています。

本日のクリスマス礼拝において、まことに幸いにもHさんという一人の魂が、まさにこの福音書のお言葉の通り、救いの主、イエス・キリストを信じ、新しい命をお受けになった。私たちは本日の聖書のお言葉を見える形で共に体験させて戴いたわけであります。

ヨハネによる福音書3章16節には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と記されてあります。神さまは、罪に滅びゆくしかないような人間のその罪を贖い、救うために御独り子であるイエスさまを地上に遣わしてくださった。それがクリスマスのメッセージであります。
その記念すべき日に、「神さまからのプレゼント」を戴き、救われ、新しい命に与られた兄弟の信仰告白とバプテスマの時を、皆さまと共に持つことができ、大変うれしく思います。本日のメッセージはもうこれで十分かも知れませんが。もう少しヨハネ1章から御言葉を聞いていきたいと思います。

1章1節の冒頭には、「初めに言があった」と記してありますが。これは有名な天地創造の記事である創世記1章冒頭の「初めに、神は天地を創造された」というお言葉を想起させます。神さまの創造の御業は、神ご自身が「光あれ」と宣言されたお言葉によって始り、世にあるすべての造られたものは、御言の受肉、すなわち御子キリストの到来によって「新しい命の創造の業」が始められたのであります。こうして、神の御言葉イエス・キリストによって新たな命に与るという大いなる希望の光を得た、それが創世記1章のメッセージであります。

話は変わりますが。先日、新聞のコラムに詩人の谷川俊太郎さんがある高校の図書研究会の生徒たちを対象に授業をなさったときの情景が掲載されていました。
谷川さんが「言葉って、どこから出て来ると思う?」と問いかけます。「頭の中」かな、「心」かな、と首をひねる生徒たち。それ対して谷川さんは、「人は生まれてきたときには言葉を持っていない。周りの大人が使う言葉を学び、まねて、自分の言葉にしていく。実は言葉って、自分の外にあるものなんだ」とそう答えます。

私はそのやり取りに、なるほどなあ、と思いました。人は言葉を与えられ、蓄えられていく生きものなのです。自分の外にある言葉と出会い、それに触れることを通して内側が変えられ形成されていくものなのです。                      
創世記は神という絶対的創造の源であられるお方の「光あれ」という御言葉から、すべてのものが造られました。まさに、自分の外にある言葉によって、人も造られたことが示されているのですが。人は歳を重ねるごとに言葉を自分の内にもっていると考え、独りよがりになり、心もよどんでいくというようなことが往々にしてあるものです。けれどもそこで、神の言葉はすべての「命の源」であることを知るなら、人は神の言によって日々新たな命を受け、新しい人として建てあげられてゆくのです。そこにこの聖書が「いのちの御言葉」というゆえんがあります。

さて、このヨハネ福音書1節には、漢字の葉がついていない「言」が何度も繰り返して出て来ますが。この「言」とは神を指すものであります。それはまさに、出来事のこと、実体と同義語であり、具体的にはイエス・キリストが肉となって世に現れたそのことを指しております。
それは14節に記されているとおり「言が肉となって、わたしたちの間に宿られた」という出来事であります。この「肉」とは神の「霊」とは対極にあるもので、弱く、もろい、やがては朽ちはてる存在であることを表しています。
神さまは、御独り子のイエス・キリストを人の肉をとった存在として、私たちの世界にお遣わしになりました。人と人の間に住んでくださったのです。イエスさまは、その生涯を通して苦しむ者、悩む者、世の権力に小さくされた者、罪深き者、病人や汚れていると称された人たちを招き、交わり、食事をされる中で、神の国の福音を伝え、分かち合って生きたのです。そしてあの十字架の受難に至っては、人の底知れぬ暗闇のどん底にまで伴う方としてご自身を与え尽くされました。こうして私たちは人生の暗闇の中で、この方の光を見るのです。

先程、Hさんが救い主イエスさまを信じて生きる信仰告白をなさいましたが。先日最後のバプテスマの準備クラスがもたれた折、彼が「救いは自分の内にではなく、外にあるということを実感しました」とおっしゃったのです。
そこには、もちろん教会に来られるきっかけというものがおありだったわけですが。しかしそこからHさんが神の導きや聖霊の働きを体験され、主イエスと出会い、その救いに与られた出来事は、彼自身の内から起こったものではなく、彼の外から、向こう側からやって来た、与えられた、ということであります。そこには神さまの先立ちと介在があり、聖霊の宿る教会の兄弟姉妹たちとの出会いと交わりがあったのです。
神さまの愛、御子イエス・キリストの恵み、聖霊の親しき交わりに触れ、罪のゆるしと世にはない平安を得、兄弟は主の救いを体験なさったのであります。1章14節「言は肉となってわたしたちの間に宿られた。」
今日「わたしたちもその栄光を見た」のであります。
今日のこのクリスマスは、まさに救い主がこの世界に、私たち人間のために来てくださった記念の日。「神さまからのプレゼント」を喜び、祝う日であります。私たち一人ひとりに与えられた恵みと真理に満ちたこの主イエスさまのご降誕を、心から感謝と賛美をもってお祝いいたしましょう。
今週24日午後7時からクリスマス・キャンドルライトサービスが行われます。どうぞご来会ください。
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平和の使者として

2013-12-15 20:45:02 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ20章19~29節 アドヴェント(待降節)Ⅲ

この箇所は、復活の主イエスが弟子たちに現れなさる場面でありますが。人がその罪のために滅びることなく神に立ち返って命を得るために、主イエスは受難の苦しみの中で十字架におかかりになられました。そのなきがらが墓に納められた時、そこに弟子たちの姿はありませんでした。

「主の日に集う恵み」
19節に「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」とあります。彼らはイエスの共謀犯となることを恐れていたのであります。そこへ、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
今私たちは日曜日に礼拝をしていますが、死より主イエスが復活なさったのが週の日の初めである日曜日であったことから、それ以降世々に亘ってキリスト教会は、この日を主の日として主の復活を記念する礼拝を捧げています。

イエスさまの弟子たちは、ユダヤ人たちを恐れ、一つの家に潜み戸には鍵をかけていました。狭い部屋の中にイエスの弟子たちと、いつもつき従っていた男女ら数名が、いわばすし詰め状態で息を潜めていたのです。彼らには「イエスの仲間だ」ということでユダヤ当局に捕えられてしまうという不安と恐れがありました。それは主イエスとその教えに敵対する勢力に対する外的恐れであります。
又、彼らは、イエスさまを見捨てて逃げた事への後悔や自責の念という内的恐れに責め苛まれていました。彼らの心も又、内から鍵をかけ、閉じこもってしまっているような状態であったのです。
イエスの弟子であるがゆえに襲ってくる恐れ。それは何もこの弟子たちだけに限ったことではありません。このヨハネ福音書が編纂された時代、ヨハネの教会につながっていた信徒らも、又ユダヤ教勢力からの厳しい迫害の中で同様の恐れを抱いていたのであります。ヨハネはそのような信徒らに励ましを与えるように、「主イエスがおびえる弟子たちの真ん中に立たれた」というエピソードを書き記すのです。

24節以降には、復活の主イエスがトマスに現れなさる場面が記されてあります。
トマスは何らかの理由で初めにイエスさまが立たれた時に居合わせなかったので、他の
弟子たちが興奮気味にその時の様子を報告するのを複雑な思いで聞いていたのでしょう。
彼だってイエスさまにもう一度お会いすることができれば、どんなにうれしいことかと思ったでしょう。けれど、そんなことが本当にあるのだろうかという疑いの心、自分だけがそこに居合わせなかったもどかしさから、26節でトマスは、「あの方の手に釘の跡を見て、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と断言します。
このところから、トマスは懐疑主義的で実証されないと信じない人物だと言われますが、しかし状況の中で彼の心も又、内から鍵がかかったような頑なになっていたということでしょう。
しかし、幸いなことに第二の主日、イエスさまが復活されて8日目に、主イエスはトマスにも、まあこれはトマスのためにといってよいでしょう、お姿を現わされ、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者にではなく、信じる者になりなさい」と言われました。すると、すぐにトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と言って不信を改め、回心したというのでありますね。

このトマスの回心は、むろん主イエスとトマスの関係においてなされたのでありますが。実はそこには、「わたしは決して信じない」というようなトマスを受け入れる主の群れの兄弟姉妹たちの存在があったのであります、不信感と猜疑心、諸々の感情に、なお固く閉ざされたトマスを彼らは見守りつつ、執り成し祈ったに違いありません。ですから、疑い惑うトマスもまた、信じられない心をもちながらもなおその群れに留まり続けることができたのです。                                   そうして、主イエスが傷跡を見せられて、「そこに手を指し入れてみなさい」と言われた時、彼はハッと気づいたのですね。自分の不信という如何に大きい罪が、どれほど主イエスさまを、そして主にある兄弟姉妹たちを傷つけ、苦しめ、心痛めさせたのか。主イエスのみ手とわき腹の傷跡が、自分の不信、罪のためであったこと。主はその深く重い罪から解放し、その苦しみから救うためにこうして目の前に現れて下さったことを、彼は悟ったのであります。

一人の人が主と出会い、立ち返り、救われていくには、もちろん神さまの導きや御手が働かれることが不可欠でありますけれども。そのためには、一人の人が受け入れられる群れがなければなりません。なぜなら、聖霊は主を信じる人々の間にお働きになるからです。
主イエスは23節で、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなた方がゆるせばその罪はゆるされる。だれの罪でも、あなたがたがゆるさなければ、ゆるされないまま残る」と言われています。
そのように兄弟姉妹たちの見守りと執り成しの祈りがなされる時、聖霊が豊かにお働きになられるのです。逆に無関心であれば救いと解放は起こされません。私どもも隣人の救いの祝福のためにますます熱心に祈り執り成し、主にある御恵みを分ち合っていきたいと願います。

このヨハネの福音書は、信仰的な闘いや悩み多き世にあって、キリスト者として歩む道を示します。その原点は週の初め、主の日に共に集い、兄弟姉妹の真ん中に立たれる主イエスにお会いして礼拝を捧げ、主にあって仕え合う。そこにあります。
心の戸に鍵をかけたくなることがあったとしても、一つところに集まり続け、祈り執り成し合う中に、復活の主イエス来られ、「あなたがたに平和があるように」と祝福してくださるのです。

「手とわき腹の傷跡を見せた主」
さて、復活の主イエスさまは、弟子たちに手とわき腹とをお見せになります。
それは先に触れましたトマスにも同様なことをなさったのですが。弟子たちは、ずっとイエスさまのおそばについて、普段からイエスさまのお姿を見ていたにも拘わらず、彼らはイエスさまを救い主であることを信じることができず、言ってみればイエスさまに躓いてしまい、恐れのために逃げ出してしまったのです。イエスさまを間近に見ていたから信じられたのではなく、逆に間近に見ていたがゆえに信じられなかったということであります。
イエスさまはここで弟子たちに何をお見せになったかというと、ご自身の受難予告どおり、「十字架の受難と死を通って復活したのだ」ということを明示された、証明されたのですね。「弟子たちは、主を見て喜んだ」とありますが。その喜びはとても一言では言い表せるものではなかったでしょう。閉ざされた心が解放を得、絶望が希望に変えられたのです。それはまさしく主と共に死から命へと移されたような瞬間でした。イエスさまが差し出された手とわき腹の傷を見た彼らは、どれほど自分たちの罪を思い知らされたことでしょう。しかし、主イエスは十字架の死より復活なさったのです。イエスさまの復活、罪の赦しに与った喜びはどれほど深く、大きな喜びとなったことでしょう。彼らは活ける神を大いに賛美したに違いありません。

「平和の使者として」
さらに、復活のイエスさまは重ねて弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言われた後、弟子たちに対して「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とおっしゃいました。それは、解放と救いの恵みを受けた彼らが、罪のゆるしを得させる主イエスのミニストリー(役割)を託されたのです。キリストの弟子として世にあって仕えて生きる。それは何も聖書に記されている弟子たちだけではありません。主イエスを信じてキリスト者とされた者はすべて、復活の主イエスによって聖霊を受けて新しく創造された人、キリストの平和の使者とされているのです。
使徒パウロはⅡコリント5章17節~18節で次のように述べています。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者です。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(中略)神は、キリストによって世をご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をお授けになりました。」
この「和解のために奉仕する任務」と今日の23節の「罪を赦す権能」とは、ともに神の国の平和が実現されていくための大切な要素です。キリスト者とされた私どもは、そのような「平和の使者として」の務めを主より託されているのです。

「恐れと平和」
さて、先に弟子たちは「恐れ」を抱いて生きざるを得ないような状態であった、ということを申しました。この「恐れ」の対照語は「平和」なのです。イエスさまは恐らくヘブル語で「シャローム」とおっしゃったのだろうと言われていますが。それは「平和」とともに「平安」という意味があります。ユダヤでは一般的なあいさつとして交わされているのですが。彼らにとってシャローム・平和とは、「神が共におられる時のこと」を意味しているのです。イエスさまは自責の念にかられる弟子たちに、「なお神はあなたがたと共にいてくださる」とおっしゃったのです。
対する「恐れ」ということで思い浮かびますのが、救い主イエスさまご降誕の知らせを聞いたヘロデ王です。彼はベツレヘムに救い主がお生まれになるとの知らせを聞いて、「不安を抱いた」とあります。ヘロデ王は自分の地位や立場が危うくなるという強い恐れをもったのです。それは、神が共にいてくださる平和、平安を知らない、否、受け入れようとしない、そこから来る恐れであったと言えましょう。ヘロデ王はそこで、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、皆殺しにさせた」というのですね。恐れは時に自分を守ろうとするあまり攻撃的になり人を傷つけます。

話は変わりますが。
ほんとうに権力の暴走は怖いものです。先日も近隣国の身ぶるいするようなニュースが飛び込んできましたが。しかしそれはどこか遠い世界のことでしょうか。憶測や思い込みによる恐れや不安が殺戮をひき起こす引き金になっていることは歴史の証明するところですが。そこに人間の罪深さ、そして脆さを見るようです。
先日来より巨大与党のおごりといいますか、多数勢力による秘密保護法が強行採決されてしまいました。これからの日本社会の先行きに重苦しさを禁じえません。国家が個人より重んじられ、公共という名のもとで、人のいのちと尊厳が軽んじられ、生きづらい社会になっていくことを危惧いたします。秘密保護法が施行されると、こういうコメントもできなくなるのでしょうか?すべて平和を造り出すために務める人たちの働きや、不正を告発する人たちの良心が萎縮して、その尊い働きが消えてしまうような社会になってほしくない、と切に願うものであります。私たちは政治運動としてではなく、主イエスがこの地上におけるご生涯を通して実現しようとなさった平和への思いを受け継ぎ、たとえ小さくても祈り、御国の到来に努めたいと願います。
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弟子の足を洗うイエス

2013-12-09 13:50:01 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ13:1-15 アドヴェントⅡ

この記事はヨハネ福音書だけに記されているものですが。キリストによって救われたその弟子として生きる私たちが、その関係性において如何にあるべきかを示す重要なエピソードであります。聖書には「主イエスがご自分の時(十字架の受難と死)の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあります。このエピソードを取り上げたヨハネはどこにそのような主イエスの愛を見出したのでしょう。ご一緒に読んでいきたいと思います。
それは過越祭の前に弟子たちと共に食事をとられている最中に起こりました。突然イエスさまは、「上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」というのです。
通常一般的に、足を洗うのは奴隷の仕事でした。このイエスさまの行動に弟子たちは大変驚いたに違いありません。彼らは自分たちのうちでだれが一番偉いのかと言って争っていたのですから、このイエスさまのなされた行為は理解し難く衝撃的なことであったはずです。

イエスさまはかつて、弟子たちを呼び寄せられて次のようにおっしゃいました。
「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:43-45)

立派になりたい、認められる人になりたい。それはおよそ誰の心にも起こり得る欲求でしょう。イエスさまはそのような人の思いを否定なさるのではなく、「まずは仕える者になってごらん」とおっしゃるのです。地位や立場を得れば、とにかく権威的にふるまってしまうのは一部の政治家や官僚ばかりではないでしょう。主イエスは決して高飛車にではなく、僕のように身をかがめ仕える者となってその模範を示されたのです。

さて、本日の冒頭1節にある過越祭とは何かと申しますと、イスラエルの民が出エジプトの折に、モーセをとおして神がお命じになった通り、羊の血を家の鴨居にぬることで災いが通り過ぎて難を逃れ、それによって出エジプトという救いと解放をイスラエルの民は受けることとなっていった、その記念の祭なのですね。それ以後、イスラエルの人びとは神に羊を捧げ、ほふって、みなで食べて、主の大いなる救いと解放の御業を思い起こして、感謝を表していったのです。そういうイスラエルの人びとにとって最も重要な出来事を記念して守り続けてきたのです。        
ユダヤ人であったイエスさまは、その過越祭を前に、罪を贖うためご自分の命をささげる時が来たことを自覚されたのです。それはまさに世の罪を取り除くべく十字架の苦難と死に向かう道でありました。
ヨハネ福音書は、旧約のイスラエルの民が羊の血のきよめにより贖われ、救いと解放を受けたように、まさに神の小羊・イエス・キリストの尊い血しおを通して、罪の滅びから救いと解放が与えられることを伝えています。主イエスこそ「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)なのです。
そのように全人類に向けられた主イエスの愛は、まず身近に伴われていた弟子たちに深く表されました。イエスさまは、彼らを「この上なく(最後まで、余すことなく)愛し抜かれた」のです。

本日はこのイエスさまの洗足の記事に登場する、二人の弟子について考えてみたいと思います。一人は、イエスさまを裏切ることになったイエスカリオテのユダです。
イエスさまは、11節に「ご自分を裏切ろうとしている者がだれであるのかを知っておられた」と記されてありますように、すでにユダの裏切りをご存じのうえで、ユダの足をもお洗いになったのです。すべてをお見通しになっておられたにも拘わらずイエスさまは、ユダの名前をあげることも、責めることもなさらず、他の弟子立ちと同様に彼の足を洗われ、手ぬぐいでふかれました。
一説によれば、ユダはイエスにその力による政治的指導力を求めていたともいわれて、もっとその能力で権威的力をもってユダヤの民を牽引してほしいという願望があったとか。けれどもその願望はいつしか失望に変わっていったのです。ろばに乗った柔和なイエス。腰をかがめ自分の汚い足を洗うイエス。ユダには全く理解できませんでした。イエスが窮地に追い込まれたなら、ひょっとすると本領を発揮なさるかも知れない。ユダの心にはイエスを試そうとするそんな高慢な考えがあったのかも知れません。
イエスさまはすべてのことをご存じの上で、そのようなユダの足を洗われた、そんなユダであろうとも最後まで愛し抜かれたのです。
しかし、ユダはイエスさまの愛に心を閉ざしたまま、その後、銀貨と引き換えにイエスさまを売り渡して裏切るのであります。そして最後まで主の愛に立ち返ることなく自ら命を絶ってしまうのです。

さて、もう一人は、イエスさまの一番弟子であったシモン・ペトロであります。
イエスさまがペトロの足を洗う番がきたとき、ペトロは「わたしの足など、決して洗わないでください」(8節)と拒みました。これは何ともペトロらしいなと思うのですが、彼は弟子のうちでも非常に行動派で正義感の強い人でした。でありましたから、イエスさまともあろうお方が自分の足など洗われるなど、許されないこと、とんでもないことです、と彼は猛然とお断りしたわけです。
それに対してイエスさまはペトロに、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」とお答えになります。
ペトロはイエスさまのこの衝撃的なお言葉を聞いたとたん、反射的に「主よ、じゃあ足だけでなく、手も頭も」洗ってくださいと頼みます。まあ、どこか単純率直なペトロでありましたから、「イエスさまとかかわりがなくなるなんて、とんでもない。それなら全身洗っちゃってください!」ということだったのかも知れません。
そのペトロに対してイエスさまは、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」(10節)と言われました。
 イエスさまと行動を共にし、御言葉によってきよくされた弟子たち。しかし道を歩けばすぐに汚れる足のように、様々な罪の汚れがからみついてきます。その汚れからきよめられるにはどうしたらよいのでしょうか。
ここでイエスさまがおっしゃった「かかわりがなくなる」というお言葉ですが。「かかわり」と訳された原語メロスとは、取り分や分け前に与るという意味、又、全体に対して一部という意味です。あの、走れメロスを思いおこされた方もおられるでしょう。この文脈では、あなた自身、もっとも汚れたと思える部分とイエスさまがかかわりをもたないなら、「イエスさまの栄光を受ける運命を共にすることはない」と、おっしゃったんですね。最も私の汚れたように思える部分、醜い心、罪深い思い、憎しみ、嫉妬、妬み、悪意、それを主イエスに洗って戴かないのなら、主イエスと私と何のかかわりもない、と言われているのです。罪を洗って戴く事を受け入れず拒否することは、主の十字架の血しおの恵みを拒否することを意味していたのです。7節でイエスさまが「わたしのしていることは、今はあなたには分るまいが、後で、わかるようになる」と言われたのは、まさにこの十字架の苦難と死による罪のきよめの御業についてであったのです。

さて、イエスさまは、この後の36節以降において、ペトロの離反;ペトロがイエスさまを否むだろうということを、予告されています。
「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」とのお言葉をペトロに語ります。それに対しペトロは、「主よ、なぜ今ついていけないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と忠誠心をもって答えるのでありますが。イエスさまは「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うであろう」とペトロの離反を予告なさるのです。そうしてその夜イエスさまが官憲に捕えられ引き渡された時、ペトロは後を追っては行ったものの、「あなたはイエスの弟子の一人ではないのか」「園でイエスと一緒にいたのではないか」などと問われると、ペトロは三度それを「打ち消して」、イエスさまとの関係を否認してしまうのです。その時にイエスさまがおっしゃったとおり「鶏が鳴く」のですが。      
ルカ福音書22章には、ペトロがその鶏の鳴き声を聞いた瞬間に、イエスさまの「お言葉を思い出して激しく泣いた」と記されています。このイエスさまのお言葉を思い出した時、彼はどれだけ自分の不甲斐なさ、罪深さを思い知らされたことでしょう。しかし、同時にイエスさまは、こんな自分であることを十分ご存じのうえで、あのように足を洗われ、とりなし祈って下さっていたのだ、ということに気づいたことでしょう。
ペトロは、イエスさまが自分の足を洗われたその意味、「わたしが洗わないのなら、わたしとのかかわりもないことになる」とのイエスさまのお言葉の真意を、そしてその愛を、イエスさまを否み躓いたそのときに思い知るのです。「イエスという男など知らない」と逃げ出すような者であるとわかっていながら、かかわりをもっていてくださったことのその重み。その深い愛情に打たれた体験は、ペトロがその後、主イエスの愛を伝える福音の原動力にされていったのであります。

ここまで、イスカリオテのユダとペトロのケースを読み取ってきましたが、如何でしょうか。ユダだけが何か裏切り者のようにクローズアップされますけれども。ペトロも追いつめられるとイエスさまを否認し、そのかかわりを否定したのです。
では、この二人の大きく異なっていた点とは、何でしょう。
それは、イエスさまの洗足、足を洗うという関係性に象徴されます愛と赦しに、気づくか気づかないか。受け入れるか拒み続けるか。そこではないでしょうか。その違いによってこの二人の弟子の生き方が大きく変わるのですね。ユダは自分の犯したことの重大さに責めさいなまれ、主の赦しに気づくことなく、あるいはそれを拒んで自らその生涯を閉じるのです。
一方のペトロも自分の弱さや罪深さに躓きますが、彼の心のうちにはイエスさまの愛と赦しの御言葉が鮮明に思い起こされた。それを受け入れてやがて立ち直り、イエスさまのお約束どおり、主の兄弟たちを力づける者とされていくのであります。御言葉を自分の心のうちに蓄えていくことは本当に大切なことです。

さて、イエスさまは弟子たちの足を洗った後、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか」と弟子たちに言われました。イエスさまが弟子たちの足を洗われたのは、もちろん弟子たちを最期まで愛し抜かれたことの表れであり、その具体でありました。しかしそれだけではありません。イエスさまは14節以降に「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」とおっしゃっています。

イエスさまは、弟子たちの度重なる「誰が一番偉いだろうか」という議論を耳にする中で、
自ら僕となって弟子たちの足を洗われました。彼らに互いに仕えること、仕える者の姿で互いにかかわる者となりなさい、とご自身の姿をとおしてお示しになられたのです。それはこれ以上言葉を必要としないほどの説得力で弟子たちの心に迫ったことでしょう。

私ども人間同士の関係というのは、どこか自分にとって心地よく思えるところでは共感もし、受け入れあうことができても、わずらわしい部分やうっとうしく思えることがあると、かかわりを断ってしまいたくなるものです。しかしその感情のままに関係を断ってしまうような集まりなら、世のサークルや団体と何ら変わりありません。肝心なことは、主イエスが自ら模範をお示しになったとおり、一番汚れやすい部分である足を互いに愛と赦しをもって洗い合うことです。それが実は、イエスさまとかかわる者とされる、ということであります。
日常の生活において「足」は頻繁に洗う必要があるほど、汚れやすく傷みやすい部分であります。だからこそ、愛と赦し、支え合う手で互いに足を洗い合うことによって、私たちの間にキリストの愛が満ち溢れてくるのです。それが、主の愛に招かれた、聖霊に満たされた、教会の証しであります。

私たち大阪教会の新会堂が完成し、アドヴェントのこの時、クリスマスを迎えていく準備をしていますが。建物は立派になりましたけれども、その建物の本質としてのイエス・キリストの愛と恵みに応えて、キリストの御からだなる教会が建てあげられていくよう、益々祈り求めてまいりましょう。
主イエスさまが僕の姿となって私ども人に仕え、十字架の死に至るまで愛し抜かれたこと。私たち罪深い者とかかわりをもち続けていてくださる恵み。このイエスさまの愛をより深く、より多くの方々と分かち合うべく、「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」とのお言葉に応えてまいりましょう。神の国の実現を待ち望みつつ、主イエスのお姿に倣い、メロス・主の栄光に与る運命を共に、かかわるものとして、共に生きるあゆみを続けてまいりましょう。お祈りいたします。
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命の門を通って

2013-12-01 14:21:14 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ10:1-18 アドヴェントⅠ・新会堂

本日はクリスマスを待ち望む待降節(アドヴェント)を迎えましたが。私ども大阪教会は新会堂建築のため3月第一主日礼拝より筋向いの大川ビル4F仮会堂に一時移転してから実に40週目の本日、晴れてこの新しく建った大阪教会の会堂に帰ってくることができました。40週、280日の旅路が主の先立ちのもと無事守られ、導かれる中、主は私どもに恵みの御業をいくつも与えてくださいました。仮会堂のスペースが限られた空間、なかなかわかりにくいビルの4Fと入りにくいような場所であったにも拘わらず、神さまは多くの新来者、大阪にお仕事で出張中の方や旅行中のクリスチャンの方がたを送ってくださいました。また召天者記念礼拝では多くのご遺族の方々が集われ、感謝でした。今月の新会堂でのクリスマス礼拝ではその1つの神さまからのプレゼントであろうと思いますが、H兄の信仰告白とバプテスマが行われる予定です。このように本日は新会堂が完成して最初の記念すべき礼拝を皆さまと共に捧げることができてほんとうに嬉しく思っております。
思い返しますと、新会堂建築の幻が与えられ建築準備委員会のもと2008年に吉田先生を迎えての最初の研修会が行われ、以降、建築の規模、設計や業者に関する協議がなされていきました。その後2011年には総会を経て建築委員会が正式に立ち上がり、そこでこれまでの総括をしながら、建築設計・施工業者の選定が具体化していきました。2012年末にはF工務店に設計・施工をお願することとなり、2013年からいよいよ新会堂建築の工事が開始され本日に至った次第です。2008年から丁度5年の歳月を経たわけですが。この新会堂建築に際して強く私どもが掲げた思いというものがありました。それはこの天王寺という寺町にあって「キリストの香りのする教会堂」を建て上げるということであります。
どうでしょうか。以前の教会堂はビルのような建物でしたので、キリストの教会と気づくことなく素通りされる方も多かったようですが。しかしこの新会堂は前の道路を歩いてゆかれる多くの方々が教会堂を見上げていかれます。建築中にも立ち止まって新会堂を見上げておられる方が何人もいらっしゃって思わずニンマリとしてしまいましたけれども。
5メートルほど道路から後ろにさげて建てられた設計面での工夫も功を奏して通りを行き交う方がたに「キリスト教会ここにあり」との存在感を示しています。又、私どもは心から主を礼拝する礼拝第一の教会堂をと願っていました。どうでしょうか。讃美が天に届く吹抜けの礼拝堂、思い切り大きな声で賛美できる礼拝堂が与えられました。それも叶えられましたね。本日はまず、私どもの必要を満たしてくださった主なる神さまに感謝と賛美を心から捧げていきたいと願っています。
さらに今後はこの教会堂を通してより多くの方、様々な方がたと与えられた素晴らしい福音を分かち合っていきたいですね。私どもは実にそのために召されキリストの体なる教会の一員とされているのです。ではそのためにどのように歩んでゆけばよいのでしょう。本日も御言葉に聞きながら備えて臨みたいと思います。
先ほどヨハネ福音書10章1~18節までが読まれました。
まずこの10章は旧約聖書のエゼキエル書34章から引用されたものと思われるのでありますが。そこには「イスラエルの牧者」、直接的には王や指導者たちについての預言が記されています。「主は、イスラエルの牧者、指導者を、イスラエルの群れを治め、養うために立てたにも拘わらず、彼らは群れを養わず、弱いものを強めず、病めるもの傷ついたものを包んでやらず、また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した」とあります。そこで主なる神ご自身が「わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」と宣言なさるのです。又、「主ご自身が群れを養い、憩わせ、失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」ともあります。そしてさらに、「主によって集められた群れのために一人の牧者を起こし彼らを牧させる」と言われるのであります。それは主の僕ダビデであるとおっしゃっているのです。そのように主はダビデをイスラエルの君主として立て牧させるとエゼキエルを通して預言しているのであります。しかし、このダビデとは統一王国時代のダビデ王のことではありません。ダビデが生き返って王になるというようなことではなく、主の主権を帯びた霊的な王なるメシヤ、それはまさしく私どもにとりましての救い主イエス・キリストの到来を意味しているのです。

本日のヨハネ10章は、「イエスがよい羊飼いである」ということが全体のテーマになっていますが。2節~5節では、中近東における羊飼いが羊を飼う、牧畜生活の様子が伺えます。朝方、羊飼いたちは自分が委託されている羊をその囲いから門を開けて連れ出して、牧草を食べさせ、運動させ、またきれいな水の流れに導き、渇きをいやさせます。夕方には、主人の囲いへ羊を先導して連れ帰ります。これが羊飼いの一日の仕事であり責任なのです。
つまり、主人とは父なる神、羊飼いはイエス・キリスト、羊が主なる神さまによって集められた民であるのです。

ところが、1節で「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」とありますように、羊飼いを装って羊を奪い、散らそうとする者らがいたということです。これは羊飼いのように囲いの門から入るのではなく、ほかの所を乗り越えて来る、いわば偽キリスト、反キリストのことを示しています。そこにヨハネの教会がおかれていた時代的な背景を読み取ることができます。この時代はユダヤ教の指導者たちの激しい迫害にヨハネの教会の信徒たちは遭い、会堂から追放され、殉教の死を遂げる危険にさらされていたのであります。けれども「羊は飼い主である羊飼いの声しか知らないので、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る」というのです。
ここには羊飼いと羊、つまり主イエスと神の民の群れとの深いつながり、強い信頼関係が語られています。逆にいえばヨハネの教会に対する迫害や攻撃が激しさを増していたと考えられます。にも拘わらず、まことの羊飼いである牧者を知っていることの強さ。主イエスのその声を知っているので、決して他のものについていったりはしない、そのような信頼関係が築かれていたからです。私どもの又、主イエスの信頼に日々応えて生きることができるように、と願います。
そして本日の中心部分となる7節以降のイエスの言葉を読んでみましょう。
「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」
 先のところでイエスさまは、ご自分が羊の囲いの門を通ってくる「羊飼い」だとおっしゃいましたが。このところではイエスさまご自身が「羊の門」だ、と語られています。
ヨハネ14章6節では「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれでも父(御神)のもとに行くことができない」と語られていますが。イエスさまはそのような天の門、羊の門であられるということであります。
まさに10章において「わたしは羊の門である」と言われるイエス・キリスト、本日の宣教題であります「命の門を通って」こそ、主の羊の群れである私どもは命を受け、しかも豊かにそれを受けていくことができる。これが今日のメッセージであります。

ところで、ここには羊を盗み、屠り、食い物にしようとする盗人や外敵の襲来があることが語られていますが。そういうような事態が牧羊の折に起こることもしばしばあったのです。羊飼いは外敵に対して羊を守るために自分が傷を負い、あるいは命を失うことすらありえたのです。それは主人から委託された羊を守るために忠実であったからです。けれども12節にあるように、「自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」とあります。
 救い主イエスさまはどうでしたでしょうか。
11節には「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃっています。このお言葉のとおり主イエスさまは、ユダヤ人だけでなく、囲いの外におかれていたともいえるすべての罪に滅びる外ないものを生かし、命を得させるため自ら十字架の苦難と犠牲をお受けになったのです。どんなにかその苦い杯を父なる神さまに取り除いて下さいと願われた事でしょう。しかし主イエスさまは父の御神に忠実に従い、託された羊の命が救われるために、自らの命を十字架に引き渡され、受難を引き受け、自ら命をささげられたのです。ここに「わたしは羊の門である。わたしを通って入る者は救われる」といわれた主イエスさまの御言葉の真実がございます。主イエスさまこそ、「命の門」であられます。この「命の門」がキリスト教会のいわば命の砦になっているのですね。
主イエスさまは罪に滅びる外ないような私たちのために血を流し、肉を裂いて、命をもささげてくださった。わたしたちが当然負わなければならない罪の代償として罪の裁きを受けられ、その命を捨ててくださったのです。こうして、この御子イエスさまの贖罪のゆえに私どもは罪赦され、主イエスさまの流された尊い血しおによって罪贖われ、主に導かれる羊とされているのです。しかしそればかりではありません。主イエスさまは17節で、「わたしは命を再び受けるために捨てると」おっしゃいました。主はそのお言葉のとおり三日後に死人の中から復活され、私どもも又、その復活の希望に与る平安と喜びを日々戴いているのです。

さて、イエスさまは16節のところでこうもおっしゃっています。
「わたしにはこの囲い(救い)に入っていないほかの羊もいる。その羊も導かねばならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」
この御言葉はイエスさまご自身の御意志でありますが、それを聞く私ども「命の門」を通って来たものにも主と共に務める意志を呼び覚ます言葉であります。使徒言行録18章10節において、主は幻の中でパウロに次のように告げました。「わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」この天王寺・阿倍野の町にも主はその羊を探し、見出そうとなさっています。確かに今日私どもは遂にこうして立派になった素晴らしい教会堂にやって来ました。立派な門もできあがり、そこを通ってまいりましたけれども。私どもは何よりもこの「命の門」救い主イエス・キリストという「命の門を通って」、その命にいよいよ豊かに与っていくものとされたいと願います。それは未だ主いとエスのその救いを知らない方々が、その命の門を通って主イエスの御救いの喜びに満ち溢れる経験を共にさせて戴く喜びであります。
主のおっしゃった「わたしには、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊も導かなければならない」とのお言葉は、主から託された使命と責任を果たしていく喜びの務めへと私どもを促します。
さて、正面玄関には車椅子が入れるスロープもでき、教会堂内は段差のないバリアフリーにされました。多目的トイレもできました。以前の旧会堂の時よりも、様々な方が訪れやすい状況がかなり整いました。同時に主イエスのお言葉と行いに倣う心のバリアフリー化がいよいよ整えられ、霊的にもキリストの体なる教会として建てあげられていきたいと切に願います。私が少年であった40年前と今日とでは時代が変わり、教会に訪れる方がたはほんとうに多様化してきています。今後さらに来会者の一人ひとりをお迎えしていくために私どもの知識や学びも必要でしょう。しかし何よりも、私どもにとってイエスさまの救いの福音を共に分かち合える喜びと希望がありますから、キリストの愛に建てられている教会にふさわしく、うみみつかれることなく主のいみ声に聞き従っていきたいものです。
今日は、救い主イエスさま御降誕を待ち望む待降節第一週です。その深い救いの恵みを喜び祝う中で、「命の門」であられるイエス・キリストを通って、主の救いに与る方がたがこのクリスマスの時期にさらにさらに導かれなさいますよう共に祈ってまいりましょう。
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