
礼拝宣教 ルカ4・16-21 バプテスト世界祈祷週間・待降節
今週からアドベントに入りました、救いの主のご降誕、クリスマスを待ち望みつつ、この待降節の一日一日を歩んでまいりたいと願います。又、本日はバプテスト世界祈祷週間の礼拝として主におささげしています。その現況報告を兼ねた祈りのときが持たれました。特にこの一週間は週報にも「今日から来週の日曜日」の祈りの課題を掲げましたので、世界のバプテスト教会と連なり、その主の御前における働きを共に祈ってまいりましょう。
本日は先に読まれました聖書の箇所より、「主イエスによる解放の訪れ」と題して、御言葉に聞いていきたいと思います。
イエスさまはユダヤ人として、幼い頃から安息日はいつもユダヤ会堂(シナゴグ)で神に礼拝をお捧げになっておられました。
この当時の会堂は、礼拝のための場所としてだけでなく、学校、いわば寺子屋のような場所でもあり、地域のコミュニティセンターでもあり、救済の場、時に法廷にもなったようであります。神のことばを聴き、賛美して祈りをささげる。ユダヤの会堂がそれだけ人々の日常のコミュニティや生活と深く結びついていたのですね。キリストの教会にとりましても、それは一つの理想的なひな型であるでしょう。
その、ユダヤ会堂でもたれていた安息日の礼拝では、まず私どもの使用している聖書でいえば、旧約聖書の申命記、民数記のうちから「信仰告白」のところが読まれていたということです。
その一つの申命記6章4節以降にはこう記されています。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神を神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。」
ここには次世代に信仰を語り継いでいく、幼児期の聖書教育が重んじられていた、という事がわかります。私たちの教会も次世代を育む働きを主から託されていることを覚え、再度、「こどもたちが集うことができる神の家」というビジョンを祈りつつ具体化していきたいですね。
さて、ユダヤ会堂での礼拝は先の「信仰告白」に続いて、「賛美の祈り「願いの祈り」「感謝の祈り」などが捧げられたようでありますが。その後、その安息日の「聖書の朗読」が行われたようです。
それはその後に行われた説教よりも、朗読の御言葉そのものの方が重要だったということです。なぜなら神のことばは人の先入観や解釈に左右されず、誤りのない確かな真理が語られ、伝えられて来たからです。
先週まで礼拝で読んできたネヘミヤ記にも、城壁の完成時に朝からお昼まで聖書朗読がエズラによって朗読されたということが記されていましたように、聖書朗読の重要さが脈々と受け継がれているのです。
私たちキリスト教会の礼拝も又、「聖書朗読」を行うことを大事にしています。これは旧約時代を受け継ぐ新約、すなわち「キリストによる新しい契約」を確かな救いの基盤として受け取るためです。現在、日本でもカルト教団がキリスト教とあたかも関係があるかのような情宣活動をしていますが。
カルトの教団にはキリスト以外のその教団の創始者を教祖のようにたたえ、神のことばである聖書がその教祖やカルト教団にとって都合のよいような解釈され、真の神のことばが損われています。
キリストが、「天地が滅びるまで、律法のその教えの一点一角も地に落ちることはない」とおっしゃったように、「神の生きた御言葉」がその教えの根底にあるからこそ、それが人を真に救うことができる福音となり得るのです。
ところで、その聖書朗読の折、イエスさまはいつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとお立ちになります。すると会堂司から、「預言者イザヤの巻物が渡され」、イエスさまがお開きになると、次のように書かれてあるのに目が留まったというのです。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
その御言葉を朗読し終わったイエスさまは、こう言われます。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」
この「今日」とは、会堂でユダヤの人たちがイエスさまの聖書の朗読を耳にし、実現したというイエスさまのお言葉を聞いた、そのときという意味であります。
それは又、イエスさまの時代以降におきましても、「今日の私たちが、このイザヤ書の解放の預言の言葉を耳にし、それを主イエス・キリストが実現なさった、なさっている」と聖書の言葉を受けとるとき、「主イエスによる解放」「救い」が私の中に実現する、という事であります。それは、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」とコリント二6章2節にある今日であり、その時なのであります。
さて、そのイエスさまの言葉を聞いた人々は皆、「イエスさまをほめ、その口から出る恵みの言葉に驚き」ます。まあ、一様にイエスさまをほめ、その恵みの言葉に驚いたとあります。それはイザヤ書の御言葉に目を留められたイエスさまご自身のその口から出たその神のことばに、人びとは恵みと神の威厳を覚えた、ということです。
しかし、それは同時に、「この人は大工ヨセフの子じゃないか」という驚きでありました。幼い頃から知ってる大工のヨセフの子が、教師のラビたちについて学問したわけでもあるまい。そういった偏見がナザレのユダヤ人たちの目を曇らせていたのです。そこには、「自分はイエスをよく知っている」という思い込みがあったのです。
こういった思い込みというのは案外私たちの内にあるものかも知れません。「あの人はこういう人だ」と、決めつけ当てはめる。あたかもそのすべてをわかっているのかのような思い込み。それは偏見であり、一方的な決めつけであり、差別です。うわさ話、メールやライン、SNSのやり取りからこういったことも起こります。それは人の目を曇らせます。せっかくのよい出会いや関わりを台無しにし兼ねません。何よりそこに働かれる神さまは悲しまれ、そこにある祝福まで損なわせてしまうことになるのです。
イエスさまはそのナザレのユダヤ人たちに、「カファルナウムの町でしたいろいろなことを、わたしたちにもしてくれたとあなたたちは言うに違いない」と、おっしゃいます。
イエスさまはそのカファルナウムで権威と力をもって神の国の到来を告げ、悪霊を追い出し、病をいやされ、福音をお語りになりました。そのうわさは地方のナザレの町の人たちも耳にしていたのです。
このカファルナウムという町はユダヤ人以外の異邦人が多く住む町でもありました。ナザレの人たちは、そういった異邦人にも種々の神の御業がなされたことに激しい妬みと言いますか、「自分たちこそ正当なユダヤの神の民なのに」というような感情が強く働いていたと考えられます。
イエスさまはそんなナザレの人たちに対して、ユダヤ人のだれもが知っている預言者エリヤとエリシャのエピソードを取りあげて、異邦人であっても神に救いを求める者が与えられる神の恵みを説かれたのです。
エリヤの時代、神に逆らいバアルの神殿を建てアシュラ像を造ったイスラエルのアハブ王に対して、預言者エリヤは神からの厳しい警告をするのですが、命を狙われケリトの川のほとりに身を隠すことになります。すると、朝夕ごとにカラスがパンと肉をエリヤに運んできましたが、飢饉で川の水も枯れますと、イスラエルにも大勢の夫のいない女性がいたはずなのに、エリヤは北の異教の地、フィニキアの町サレプタの異邦人で、やもめのもとに遣わされました。
神の人エリヤが、そのやもめに、「パンを一切れ、手にもってきてください」と言うと、彼女は「わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」。エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。まずそれでわたしのために小さいパン菓子を造って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。「主が地の面まで雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」やもめは行って、エリヤの言葉通りにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べる物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくなることはなかった。」
なぜやもめの、それも異邦人のもとに行けと、神さまが仰せになったか。その理由について聖書は何も記していませんが。ただ驚くのは、その女性がそういった状況の中で、実際エリヤにパン菓子を焼いて差し出したことです。「あなた何いっているの、それ私たちの最後の食事になるかもしれないのに」とは言わないで、それをエリヤに焼いて持っていったことです。その人が言われたとおりにしようと決意したのは、彼女に万物をおさめ養ってくださる神に望みをかけた祈りがあり、このエリヤが神からの人だとさとって、その言葉を信じる事が出来たからではないでしょうか。彼女はそれが見え、その声が聞こえたのです。
又、預言者エリシャを通していやしに与ったナアマン将軍は、イスラエルに敵対する異教の地の軍人であり、高い地位にあったのですが。彼を支える部下の助言を天からの声として受け取り、プライドや偏見を捨て去り、その身を神に委ね、エリシャから聞いたとおり川の水に3度身を浸していやされたのです。彼も又、異邦人でありました。その信仰によって神の恵みに与り、いやされたのでした。
このように、イエスさまがナザレの人々に対して異邦人への神の恵みを示されたのは、ユダヤ人であったナザレの人たちの心が、神の開かれた福音に対して重く閉ざされていたからです。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(18-19節)
この恵みの言葉が恵みとして聞こえないのです。もっと言えば、素晴しい事、良い事だと考えても、自分の事とは関係無いように思えたとき、激しい嫉妬心に変わったのです。
それはエリヤ、そしてエリシャの時代もそうでした。イエスさまもユダヤの民の間で歓迎はされないだろう、と分っておられたのす。このことの後、イエスさまはナザレではごくわずかな人をいやされただけで、その他は何も奇跡を行うことができなかった。そして人々の「不信仰」に驚かれた、とあります。何とイエスさまが奇跡を行うことができなかった!その理由は、神の恵みを拒み、受け入れない不信仰にあった、ということです。
今日の箇所の終りのところに、「会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」とありますが。
こういうことが、あのカルバリの十字架のときまで続いていくのです。
待ち望んでいたはずの神の恵みのときがすでに目の前に現れているのにも拘わらず、ナザレのユダヤの人々は、メシアであるイエスさまと神の恵みのときを受け入れることができなかったのです
先にイエスさまを通して読まれたイザヤの書、「捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を」という解放の訪れ。それはまさに、自分の思いや考えに捕われてがんじがらめになっていた人びと。又自分は見える、自分は知っている。あの人たちとは違うのだと高を括っていたナザレのユダヤの人々たちに向けて、告げられたのです。このイエスさまによる解放の訪れ。この福音、神の恵みを彼らが信じ受け入れるのに大きな妨げとなったのは、自分たちはよく見えている、わかっているというおごりと高ぶりだったのです。
にもかかわらず、それは目が開かれ、聞く耳をもって聞くようにとの、神の寛大な愛を表す熱いメッセージであったのです。
実に私たちも又、この寛大な神の愛によって生かされ、救いに与るものとされているのでありますが。私たちキリスト者も又、自分の考えは凝り固まっていないか。偏っていないか。高慢に陥っていないか、問われます。
イエスさまはそのようなあつれきの中で地上での生涯を送られ、ついに十字架にかけられましたが、そのお姿によって神に敵対する人の罪が明らかにされました。さらに、主は復活をとおしてすべての人びとに救いの確かさをこの世界に示されたのです。
今年も残すところ1ヶ月あまりとなりました。この1年もコロナ禍の収束の出口が見えない中、様々な制約の中での日々の生活であったかと思いますが。そういう中にあっても主の恵みと愛は私たちに対して尽きることはありませんでした。
本日は特に主の解放の福音の訪れを、世界各地で伝え、証し、分かち合われている主の働きに共に連なることができます幸いを主に感謝します。全ての人に与えられた主イエス・キリストの救いの福音がさらに共に分かち合われて、ゆたかになっていきますように私たちも祈り、努めてまいりましょう。
礼拝宣教 ネヘミヤ記12章27節―43節
今朝は先程読まれました12章の神殿の奉献式と祝典(27)の記事から、「うめき声が賛美の歌声に」と題し、御言葉に聴いていきたいと思います。
バビロンによって滅ぼされ40年以上もの間廃墟となったエルサレムに、まず神殿が再建され、次いで20年の長い歳月を経て、打ち破られたままであった城壁が再建されたわけですが。
まずユダの人びとがなしたのが、先週8章の記事を読みました「礼拝」でありました。彼らはまず、主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書が書記官エズラに要請して夜明けから正午までそれが朗読されます。次いで、レビ人たちがその律法の書を飜訳し、意味を明らかにしながら読み上げられました。それで民衆はその朗読をそれぞれに理解することができたということです。これは宣教にあたるのでありましょうが、ここにはそれを聞いた民は皆泣き、悲しんだとあります。
それは彼らの先人が主とその律法に対して犯した背信と過ちを思い起こして、その罪深さを悔い改め、気づかされ、その結果起こってしまった出来事を嘆き悲しむほかなかったのであります。
その主の御前に心砕かれた人びとを見たネヘミヤとその前から神殿再建に尽くしたエズラは、レビ人と民全員にこうさとしたのです。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
主はかつて滅ぼされ捕囚の地にあった人びと、又ユダとエルサレムに取り残され、うめき、苦しみの日々を送っていた人びとを、決して放置なさらなかったのです。
主はご自分の民が滅びることをお望みにならず、その交わりの回復と復興とを与えていて下さる。この主を喜び祝うことこそが、今日の礼拝であり、その救いのあがないへの感謝と賛美こそが、一人ひとりの生きる力の源になる。先週のおさらいでありますが。
その恵みのとき、救いのときは、主イエス・キリストにおけるあがないの御業によって今日の私どもにも与えられているのです。主を喜び祝うことこそ、私たちの力の源であるのです。
さて、今日の12章の神殿の奉献式と祝祭は、エルサレムの城壁が完成してから3ヶ月後に行われたようでありますが。そのくらいの準備期間を要したということです。
私たちの新会堂も2013年11月に完成いたしましたが。それから4ヶ月後の翌年の3月に感謝礼拝を兼ねた献堂式を行いました。そこで、改めてこの教会堂が与えられた恵みを主に感謝し、主のために用いていくべく主にお献げすることを内外にお知らせしました。その日、連合、連盟の諸教会の主にある方々が祝福を携えておいで下さり、喜びを共にしてくださいましたね。あれから早いものでもうすぐ10年になろうとしています。
さて、聖書を見ますとこの第二神殿の奉献式と祝典において、まず、祭儀を行うことができたレビ人が集められます。その多くはエルサレムの市内からではなく、その周辺の村や町から集められて来たとあります。
一説では、エルサレムの城壁が焼け落ち、破壊されてからレビ人は、エルサレムの住民として住むことがでなくなり、エルサレム市内から離れた村や町に住む以外なく、いわば避難生活を余儀なくされていたということです。その理由の1つは、12部族にはそれぞれ土地が与えられていましたがレビ人は土地を所有せず、神に仕えることを専念したのです。その必要な物資等は土地を所有していたユダの部族から受けていたのです。ところがエルサレムの崩壊後、土地を持たないレビ族の人たちはエルサレムの都を離れざるを得なくなり、自給自足の生活をしていたということです。
そういう中で前の11章を読みますと、その祝典にさきがけ「エルサレムに住む住民たちを集めよう」という作戦が行われたことがわかります。なぜならエルサレムの神殿再建はその住民としてのすべてのユダの民の生活の再建とつながっていたからです。神殿がその周辺や地域に生きる人々の生活に不可欠な存在であったということです。教会はどうでしょうか。
こうしてエルサレムにレビ人たち、さらに「詠唱者」、今で言う「聖歌隊員」や「奏楽者」が再びかの地に集められて来たのです。この「城壁の奉献式と祝典」は、こうして神の民一人ひとりが集い、一人の人のようになって祝われることとなるのです。
ところで、今日の神殿の奉献式と祝典の会場は、先週読みました8章でなされたように神殿で行われるかと思いきや、神殿の城壁とその周辺が会場でした。賛美と祈りの大パレードでもってそこを行進して、主を喜び祝うというものであったのです。
それは神の民として取り戻された彼らが、神の都エルサレムの再建と復興を神の祝福のもと、共に確かなものとして築き直していくという決意と願いを祈りとパレードという行動で表わすものであったのです。
ネヘミヤは、まずユダの長たちを再建した城壁に上らせ、2つの大きな賛美と祈りの合唱隊を編成します。それは集められたレビ人、祭司、詠唱者たちであり、この賛美と祈りの合唱が、城壁に囲まれたエルサレムの町全体、その民の間にとどろき亘ったのです。
先週の8章の城壁再建の折に行われた礼拝では、主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書の朗読が書記官のエズラによってなされ、ユダの民衆はそれを聞いた。又レビ人によってその律法の飜訳と解説がなされ、それをユダの民衆が聞くということにありました。その目的は先に申しましたように、主がなしてくださった救いの御業を「アーメン」「アーメン」とほめたたえて唱和し、主を礼拝する。「主を喜び祝う」ことにありましたが。
今日の神殿の奉献式と祝典は、再建された城壁、神殿だけでなく、エルサレムの都の周りを祈りと賛美の合唱隊によってパレードしていくというカタチで行われます。しかし、その目的も又「主を喜び祝う」ことにあります。
そのことについて、8章43節以降にこう記されています。
「神は大いなる喜びをお与えになり、女も子ども共に祝った。エルサレムの喜びの声は遠くまで響いた。」
この祈りの合唱隊の賛美が、長きに亘り焼け落ちたまま荒廃したエルサレムの町の住民、又その周辺で生活をせざるを得なかったレビ人たち、さらに周囲の民族から虐げられるような生活をせざるを得なかった人たち、そして捕囚の身から解放されて帰って来た人たちと、その総てのユダの人たちが生きていく「力の源」になっていったのです。
とくに、ここでわざわざ「女も子ども」も共に祝ったと記されているのは、嵐のような時代の中で一番しわ寄せがいくのが、弱い立場に立たされ続けてきた女性や子どもたちであったということではないでしょうか。
ひるがえって、コロナ禍、さらに物価の上昇と私たちを取り巻く社会環境も様々な問題が生じているわけですが。とりわけ女性、寡婦、子どもたち、一人親世帯をそういった問題が直撃しています。ご高齢の方、様々なハンディを抱える方の多くもそうなのかもしれません。
しかしそれは、神を畏れ敬うことが損なわれた社会を露呈しているのですが、実はコロナ以前からそうであったのです。
エルサレムの神殿崩壊という出来事も又、それまでユダ、イスラエルの社会と民が神とその戒めに背を向け、神ならざるものを拝してきた問題が露わにされた時であったあったと言えましょう。
散らされた彼らが主御自身による捕囚からの解放とエルサレムへの帰還の道が拓かれ、民は心の底から真に神に立ち帰っていく道を示されて悔い改め、神殿の再建へと導かれたのです。
悔い改めの涙と共に打ち砕かれた人びと、そして、弱く小さくされた人々の「うめきの声を賛美の歌声に」、主御自身が変えてくださったのであります。その賛美の歌声は主が与えてくださったものなのです。
来週からいよいよ救い主、イエス・キリスト御降誕・クリスマスを待ち望んでいく時節、アドベント(待降節)を迎えます。神の救い主は、私たち人間の姿となってこの世界に来て下さいました。
それは私たちの喜びだけでなく、今苦しんでいる人の苦しみ、悲しんでいる人の悲しみ、嘆いている人の嘆き、うめきいている人のうめきを、主御自身のものとしてくださる。その憐(あわれ)みこそが人となりしイエス・キリストであります。
主イエスの十字架刑による死は、私たちにとって理不尽、理解しがたいといえる出来事までも主がどこまでも、あなたと共にいると、血を流し、傷ついた姿をもって現された、慈愛の神のお姿そのものなのです。
主イエスはその死を超えてご復活なさいました。それは主イエスを救いと望む者にとって希望の光です。事実、私たちを苦悩と闇の滅びで終わらせない生ける神の力なのです。そこに私たちのイエス・キリストにある救いの希望があります。「うめきの声を賛美の歌声」に変える力があるのです。だから、ネヘミヤは「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」と。
そして、今日の聖書は、先週と同様、様々な人、立場、それぞれの状況が如何にあろうとも、一緒にこの救いの主を喜び祝う。そこに揺るぐことのない平安と本物のゆたかさ、祝福があるということであります。
今このとき、その恵みを確認し、この私たちの、この世界、この社会における「うめき声が賛美の歌声に」なっていくことを祈り、求めてまいりましょう。
礼拝宣教 ネヘミヤ記7章72節―8章12節
今朝は先程読まれました8章のところから「共に喜び祝う」と題して、御言葉に聴いていきたいと思います。
先に読みましたエズラ記とこのネヘミヤ記は共にバビロンによって破壊された神殿の再建についての記述でありますが。ネヘミヤの場合はまず、神殿再建の動機と熱い祈りから始まります(1章)。
ネヘミヤは彼の兄弟の一人であったハナニから、「捕囚を免れて生き残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けており、エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままである」という話を聞いて、「座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげた」というのであります。
そもそもこのように城壁が打ち破られ、城門が焼け落ちたのは、先の時代のユダの人びとの神への背信から生じた事柄であり、彼らの神に対する罪、的外れな生き方にあったわけですが。ネヘミヤはその事を自分たちの事柄として受けとめ、嘆き、食を断ち、神に祈るのです。そして打ち破られた城壁、焼け落ちた城門をどうしても放置しておくことができなくなったのです。又、エズラにもネヘミヤにも共通するのは、神さまとの関係性を損なう「罪」を悔い改め、神さまとの関係修復がなされていくことが急務であるという事でありでした。つまり、打ち破られた城壁、焼け落ちた城門、つまり神殿の再建と信仰の刷新とが神さまのお導きのもと内実ともになされていく、本日の8章に至るのであります。本日はその8章から共に御言葉に聴いていきたいと思います。
- 「一人のひとのようになった」
冒頭で、「民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。」とあります。
この時点で城壁の再建は終わり完成していたようですが(7章)。ユダの人々は「水の門の前にある広場」にぞくぞくと集ってきて、「一人の人のようになった」というのです。
この「一人の人のようになった」という言葉と似た言い方としては、「一致して」とか、「心を一つにして」という言い方があります。けれども、往々にしてそれは自分たちの思いや考えによって、また、力や地位のある人の発言や扇動によって突き進んで「一つになる」「一致する」ことが方向づけられるものです。それは残念なことに人間的な力や言動による同化や強要、反対者への排除が起こることがあります。
一方、ここで聖書が「一人の人のようになった」といっているのはどういうことかと申しますと。「民は皆、一人のひとのようになった」とありますように、それは単なる群衆ではなく、主体的な意志をもった民衆の一人ひとりが集い、一人の人のようになったということです。
私たちはここで今礼拝を捧げておりますが、それも、そうしなければならないとか。誰かに言われて行ったというのではなく、自分の意思をもって神さまの御前に出で、礼拝を捧げよう、御言葉を聞き主を賛美しようと、ここに集まって来られたのではないでしょうか。
そういう神さまの招きに応えた一人ひとりの民による礼拝が、「一人の人のようになって」、主を喜び祝う祝祭が捧げられているのです。
さて、祝祭であるこの礼拝をささげる私たち一人ひとりには様々な課題があるでしょう。
ネヘミヤ記を読みますと、ユダの再建として城壁の修復がなされたものの会衆の一人ひとりは未だ生活に事欠き、敵の脅威を身に感じ、やはり様々な問題を抱えていました。城壁の再建は彼らが平安に暮らしていける復興を実現していく事柄でもあったのです。
そのためには、目に見える城壁にも優る、主なる神さまの霊的堅固な砦を必要としていたのです。それは、民である彼らが神の平安と祝福を受け継ぐ者として父祖から受け継いできた「モーセの律法」、すなわち神と民との契約、命の御言葉こそが彼らのうちに築き直されていく必要があったのです。民はその日、主の御前にあって、そのことを確認すべく「一人の人のようになった」ということであります。
主の日の今日、私たちも又、主イエス・キリストによって与えられた、救いの契約と命を得させる御言葉に聞き、それを確認するため、主体的にこの礼拝に集って来ました。それは、あらゆる物質にも優る豊かさ。もっと言えば、「主の恵みと救い以外、私の魂を生かしてくれるものはない」という主への信頼、信仰によるものです。「一人の人のようになって」この礼拝もまた捧げられているということであります。この主の日の礼拝から私たちの生活のすべてが始っていく。人生も又、内に外に築かれていく。その確かさを今日も確認しつつ、共に、心をこめて主を賛美する礼拝であることを願い、祈ります。
- 「礼拝の要素」
さて、今日のこの箇所では、まずユダヤ人たちがシナゴグで守っていた礼拝の原型を見る事ができます。それは、新約(新しい神との契約)の時代に及んで、現代のキリスト教会においても継承されており、私たちが週ごとに捧げる礼拝の中にもその要素を見る事ができるわけであります。
まず書記官であり祭司であったネヘミヤの大先輩のエズラが、民の要請によりモーセの律法の書を持って来た後、用意された木の壇の上に立って、それを読みあげたとあります。
これは礼拝でいうところの「聖書朗読」にあたり、礼拝の中心であります。これが何と夜明けから正午迄、だいたい7時間程度かったというのですから、読む側のエズラはさぞや大変だったでしょう。しかし、その律法の書を聞く会衆も(律法の書を理解することのできる年齢に達したすべての男女すべて)もまた、エズラによって律法の書が開かれると、立ちあがったとありますので、その朗読の最中ずっと立ち続けて律法の書を聞いていたということでしょうか。こちらも大変であったかと思えますが。
そして驚くことは、その律法の書をもってきて朗読するようにしたのは、指導者たちではなく、民の会衆が主体的に要請した、とある点であります(1節)。
私たちのバプテストの教会も、信徒が主体的に教会形成に努め、牧師を立て、共に担いつつ教会を建て上げて来た。そういう伝統の上に今があるわけですが。それも又、ユダの民がまず律法の書により、信仰とその生活が築かれていったように、私たちキリストの教会も礼拝で聖書が朗読され、それを開くことを大切にしているわけですね。
そしてその朗読の後、「エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、『アーメン、アーメン』と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。」とあります。
これは礼拝の私たちの「讃美」「感謝」「頌栄」「祝祷」といった要素であるといえます。
また7節には、エズラが読んだ律法の書を13人のレビ人たちが翻訳し、意味を明らかにしたとありますが。ユダの人々の中には原語であるヘブル語を話す人たちもいたようです。けれどその多くは長い捕囚の時代に生まれ育ちペルシャの文化や習慣、言語の影響を受け、アラム語を話していたようです。その点でも神の言葉を翻訳し、その意味を解説していくという作業が必要だったのです。その奉仕をヘブル語とアラム語ができたレビ人たちが担ったようであります。皆が理解できるようにとの配慮がなされていったということでしょう。
先日、日本聖書協会のスタッフの方のお話を伺う機会がありました。現在日本のキリスト書店や一般書店などからも40カ国近くの聖書が直接購入できるようですが。これまでに飜訳された聖書の言語は700言語を以上とのことですから、大変なご苦労があったことでしょう。世界の国々、又諸民族でも言語が複数あるわけで、それはすごいことだと思います。
まあユダヤ人と文化も時代も異なる私たちが、聖書の理解を深め、受け取っていくためには、その解き明かしの奉仕者やメッセンジャーを通して、聞き学んでいくということがどうしても必要なわけであります。
- 「共に喜び祝う」
さて、ユダの会衆はレビ人たちがそのように神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読みあげたので、その朗読を理解した彼らは皆、律法の言葉を聞いて泣いていた、とあります。
それは、これまでの自分たちの辿ってきた道のり、神への背信による国家の崩壊、捕囚からそこに至るまでのあゆみが、まさに神の御言葉によって照らし出され、その御言葉が胸に迫った。今風に言えば「胸に刺さった」からでありましょう。また、損なわれた神との関係性を思い知らされ、自らの罪深さを嘆き悲しみ、泣いたのです。
しかし、それはただ嘆き、悲しんで後悔のみで終っては何にもならないのです。聖書が説く「悔い改め」、ギリシャ語でというメタノイアという言葉は、世間でよく誤解されて用いられている「後悔」や「反省」することとは全く異なります。神さまの方へ180度方向転換して、立ち返って生きるということです。何度も自分の罪をほじくり返しては自分や人を責め続けるのは、悔い改めではありません。
ネヘミヤとエズラは言います。「今日は、我らの主に捧げられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
贖なってくださった解放の主の御業を喜び祝うということこそが、聖なる日にふさわしい、というのです。罪のゆえに捕囚の身とされていた人びと。あるいは廃墟に取り残されていた人びと。それらのすべての離散の民を主である神が憐れみ、いつくしみ、贖いとって、再び神の民としてユダの地に帰って来ることを良しとしてくださった。
ネヘミヤは1章8節で、「どうか、あなたの僕モーセにこう戒められたことを思い起こしてください。『もし背くならば、お前たちを諸国の民の中に散らす。もしわたしに立ち帰り、わたしの戒めを守り、それを行うならば、天の果てまで追いやられている者があろうとも、わたしは彼らを集め、わたしの名を住まわせるために選んだ場所に連れて来る。』彼らはあなたの僕、あなたの民です。あなたが大いなる力と強い御手をもって贖われた者です。」と神に祈りました。
このネヘミヤの神への祈りは叶い、ついに「主を喜び祝う日」が訪れたのであります。
その礼拝の後、「人々は最上の食物を食べ、ぶどう酒を飲んだのです。その備えのない人たちには、持っている人が分け合い、共に喜び祝うように促され、ユダの会衆は皆、その日、心から主を喜んで祝い、それを「力の源」としてあゆみ出すのです。
私たちの解放はまさに主イエス・キリストの救いの御業によってもたらされました。
私たちは月の初めに主の晩餐を分かち合います。救いの主、イエス・キリストは、私たちの罪を贖うために十字架につけられ、その尊い血によって私たちは救われています。この主の十字架を見上げる時、私の、そして人間の罪の深さを思い知らされます。しかし主は3日後によみがえられました。主の赦しと和解を得て、罪を悔い改めて生きようとする私たちが、新しく生きる者とされるために主は復活してくださったのです。
神は御独り子をこの地上に贈り、十字架の苦難と死を通して私どもの苦しみ、悲しみ、理解し得ないような私どもの苦悩をも共に負ってくださったのです。
この死と復活を通られたお方であられるからこそ、すべて人の痛みや苦しみを知ってくださる、インマヌエルなる神さまなのです。
最後に、本日は「共に喜び祝う」という題をつけさせて頂きました。
12節「民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。」とあります。
ユダの民は神さまのみ教えを心から受け取り、それが救いの喜びとなったとき、その恵みを同胞と分かち合うゆたかさとなりました。私ども誰しも、体の不調、心の疲れ、仕事や生活のままならない時があるやも知れません。そんな時、聖書の御言葉に聴き、分かち合う友、祈り合える友が与えられているということは、ほんとうにありがたいことではないでしょうか。
私たちは主の御救いを祝う礼拝から生きる力の源に与っています。お祈りします。
2022年11月13日 主日礼拝式・バプテスト福祉デーのお知らせ
日本バプテスト連盟のバプテスト福祉デーとして、京都市にあります「バプテストめぐみ会」の特別養護老人施設・バプテストホーム、大阪市にあります「しんもり福祉会」の平和の子保育園、両国保育園、福岡県糟屋郡にあります「バプテスト身心障害児(者)を守る会」の重症心身新障害児(者)施設久山療育園、こちらも福岡にあります「福岡白百合会」の特別養護老人施設・花畑ホーム、大牟田市にあります「キリスト者福祉会」の障がい者施設・大牟田敬愛園を覚えます。
本日の宣教 ネヘミヤ2・11-20 スティブン・クンケル
神様がネヘミヤを通してユダヤ人をエルサレムの城壁を再建なさるのです。そのように神様は私たちを教会の再建のためにお用いになられるのです。キリスト様に栄光を与えるために一致するために、教会と私たちは神様に呼ばれています。エルサレムの城壁が再建されたように、私たちの関係と協力によって主のみ体なる教会が建てあげられることを信じています。
クリスチャンの一致については、キリスト様自身がヨハネ17:20−23でこのように祈られました。「また、彼らについてだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々についても、お願いします。父よ、あなたが私のうちに居られ、私があなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちのうちにいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をおつかわしになったことを信じるようになります。あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。私が彼らのうちにおり、あなたが私のうちにおられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになった事、又、私を愛されたように彼らをも愛された事を、世が知るようになります」。
使徒パウロも、クリスチャンの一致についてエペソの手紙4:1―6に、次のように書きました。「ですから、主の囚人である私は、あなた方に勧めます。招かれたあなた方は、その招きにふさわしく歩み、謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛を持って互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて霊による一致を保つように熱心に努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなた方が、一つの希望に預かるようにと招かれたのと同じです。主は一人、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの父の神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられます。」
パウロのメッセージもキリスト様のメッセージのようにクリスチャンが互いに一つになり、教会が一致し、神様の御心がかなうことができるように励ます事を祈りました。ネヘミヤ記から学ぶ時、違っている考え方のクリスチャンと一緒に協力できる教会の一致を、神様の栄光のために果たすことができるようにと神様は願われている事を教えて下さいます。