礼拝宣教 ダニエル12章 待降節Ⅰ・アドベント
先週23日はラブソナタ大阪が中之島の大阪国際会議場で10年ぶりに開催されました。
教会からも数名が参加いたしました。先日のFAXで23日の集会は日本、韓国の参加者とスタッフを加えると総参加者3320人となり、そのうち116人の方がクリスチャンになる信仰決心をされたというご報告をいただきました。私たちの中にもお友達や知人をお誘いしてご一緒された方もおいででしたが。まずホールに入りますと、韓国からこの集会のために自費で訪日し、ご奉仕くださる方々が、次々と歓迎の挨拶をして出迎えてくださると、さらに会場に入りますと一人ひとりに丁寧な案内をして下さり、感激しました。
又、メインのラブソナタの集会では世界的にも活躍されている、砂絵を描くアーティストの、父なる神の愛を思い起こさせるパフォーマンスやフルート演奏者、オペラ歌手や声楽家による賛美がささげられました。自分の栄誉や称讃のためでなく、創造主であられる神さまの作品として、その神さまを賛美しておられるお一人おひとりのオリジナルな主イエスにある救いの証をとともに最高の賛美にふれ、心熱く、主の臨在の迫りを強く感じました。日韓の人たちが主イエスにあって一つとされ、和合し、国境を越えた天の国の喜びを頂いた思いです。「天の国は私たちの間にすでにあるのだ」と、おっしゃる主イエスのお言葉をまさに実感した貴重な時となりました。
さて、本日はこれまで4週に亘り読んできましたダニエル書も最後となります。
今日はダニエルの見た幻:黙示にあたる最後の12章から「希望の言葉」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
まず今日の箇所は、前の10章からなるダニエルの黙示録といわれるような「終わりの時についての幻」の記述でありますが。そこに示されたとおり、ユダヤの民に対する迫害は権力の移り変わりとともに厳しさを増し、ダニエルの後の時代には凄まじい弾圧と迫害が起こるのであります。
そのような中で、主の契約を破り偶像を拝む人たち。一方、権力に従わず、信仰を守り抜いた人たち。又、中には厳しい迫害下で殉教を遂げる人たちも預言されています。
今日の12章1節には、それらの預言とともに、「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く。国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう。お前の民、あの書に記された人々は」と語られています。
聖書には7人の大天使長がいてミカエルはそのうちの一人で、ユダヤの民を守る天使でありました。神に忠実に生きるために苦難に遭うイスラエル、ユダヤの民。その信仰の闘いの先には神の救いが必ずもたらされるという約束がここに宣言されているんですね。苦難はある。艱難は来る。信仰の闘いは主を信じる者すべてに起こってきます。しかし、必ず主なるお方による救いとすべてが報われる時が訪れる。それが聖書の変わることのないメッセージであります。
けれどもその日、その時まで主はいらっしゃらないのかというと、決してそうではありません。6節の「川の流れに立つ、麻の衣を着た人」もまた天使の一人でありましょう。その天使が激流のような厳しい迫害下で主に忠実に生きようとしていた人たちの間に立って共に闘っておられるということが象徴的に示されています。主は厳しい状況の中にも共におられるお方なのです。
2節-3節には「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々(多くの者を主の救いに導いた人々の意味)は、とこしえに星と輝く」と記されています。
ここには、いわゆる死者の復活が語られています。それは永遠の生命に入る者だけではなく、永久に続く恥と憎悪の的となる者も地の塵の中から、すなわち死から目覚めるというのですから、驚きです。
人はだれもこの世の人生をどう生きたかがすべて問われる日が来るのです。いわゆる裁きの座に着くべき時です。主イエスは、その時があたかも羊飼いが羊と山羊を左右に選り分けるように、その時にはそれぞれの業が明るみにされて、主に忠実に生きた者たちは永遠の命に与り、不義の者たちは永遠の罰を受ける事になるとおっしゃいました。
日本では死んだ後の世界のことを、いわゆる天国とか地獄とかいうわけですが。それは何かきらきら光あふれる所とか、真っ暗闇で鉄棒をもった鬼に苦しめられる所だろうかとかぼんやりと想像する人も多いかも知れません。しかし聖書は大変明確です。それは永遠の生命と永久に続く憎悪の的。前者は、主なる神さまとの永遠の交わりに入れられること。そして後者は神さまとの交わりが永久に絶たれてしまうことです。一言でいえば、神と共にある世界か、神なき世界かです。人間にとって本当の地獄というのは、
神との関係や交わりが断絶した状態のことなのです。それを聖書は罪といいます。
「光あるうちに光の中を歩め」との聖書のお言葉がありますように、日毎日毎の延長線上に来たるべき時があるということを覚え、日々励み務めたいと願います。
さて、5節~7節は、艱難の時代を経た成就に向けての宣言です。
しかしダニエルはこれらの主の幻を見せられても理解できず、「主よ、これらの終わりはどうなるのでしょうか」と尋ねます。それに対して天のお方は、「ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらのことは秘められ、封じられている」と告げます。このところを口語訳聖書は「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい」と訳しています。それは、この先行き見えない時代にあって、神のご計画がはっきりとは分からない。否、分からなくなってしまうような状況にたとえなったとしても、「あなたの道を行きなさい」「神が与えてくださるあなたの人生をひたすら行くんだよ」といわれているんですね。私たちクリスチャンも主イエスの、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14章)という、その道に招かれています。
水曜日の聖書の学びの時にある方が、この今日の箇所を読まれてこうおっしゃいました。「自分の死も近いかな。体重も減り不安になり悩むことはあるけど、今の自分は幸いであることを感謝できる。ダニエルがこの先の結果を知りたいということに対して、神さまは何も答えられなかったことに共感できる。未来を不安に思わずに今を幸いにいれることが感謝」と、その方はおっしゃったんですね。これってすごい証だと思いませんか。
もう今日の聖書のメッセージをそのままにご自分の言葉で話してくださったように思います。この私に与えられた救いの道を、たとえそこに茨が生えていようが、砂利道であろうが、でこぼこ道だろうが、感謝をもってひたすら歩む。なぜならそれが神が共にいてくださる道だからです。今日からアドベント、クリスマスを待ち望んで行く時節に入りましたけれど、それがインマヌエル、主が共におられる「命の道」なんですね。
冒頭でもお話しましたが。ラブソナタの集会で韓国のオンヌリ教会の牧師がお話しくださったのですが。その中で、「あなたは誰」「あなたは何者ですか」と、大阪市内の人たちに次々とインタビューしていくという映像を見せてくださいました。その問いかけに戸惑う人、驚く人、分からないという人、と反応は様々でしたが結局誰もその問いかけに答えることができなかったのです。多くの人は普段そんなこと考えたりせず過ごしているし、若い人だと自分探しの旅を内に外にすることもあるでしょうが。その答えを見いだす人は少ないのではないでしょうか。
しかし、この「わたしは誰で、何者か」という人間にとって根本的な答えをもっている人と、もっていない人とでは、その生き方は全然違ってくるのですね。聖書にその答えがあります。
聖書の中で「人は何ものでしょう」と問いかけている箇所がいくつかございますが。
たとえば、ヨブ記7章17節以降で、その激しい試みの中でヨブはこう言っています。「人間とは何者なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか。朝ごとに訪れて確かめ、絶え間なく調べられる。いつまでもわたしから目をそらされない。唾を飲み込む間すらも、ほうっておいてはくださらない」。
ヨブはその非常な苦しみの中で、自分を知っておられる方の中に自分の存在を見いだしています。ダニエルもまた大変厳しい時代状況、恐れと悩みが絶えない中にあったと想像できますけれども。そういう「わたしは何ものか」、「我ら神の民とは如何なる存在なのか」という苦悩の中で、彼はなお「神は我救い」と主を賛美して、自らの道を歩み続けたのでありましょう。
今日の箇所で、ダニエルが先行きも見えず、主の啓示が理解できない中で、「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか」と、その日、その時がいつ来て、どうなるのかを知らせてくださるように尋ねてますが。それに対して天の使いは、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。終わりの時までこれらのことは秘められ、封じられている。多くの者は清められ、白くされ、練られる」と答えます。
私たちの信仰も何か心地の良く順調に事が進むような時よりも、むしろ逆境の中で問われ、試され、育まれていくものですね。御言葉に聞き、よりたのみ、信じて待ち望んでいく中で、主に「清くされ、白くされ、練られていく」のですね。
まさにヘブライ人への手紙12章にあるように「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます。」
このように、艱難は忍耐を忍耐は練達を練達は希望を生むということを私たちは知っています。そうですね。主は愛する子を鍛錬し、清め、白くし、練られるのです。
そうして13節の最後には「希望の言葉」がこう綴られています。
「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がる(復活する)であろう。」
ここでも、世の先行きの見えない状況に思い悩み、振り回されず、ただ「あなたの道を行き、憩いに入りなさい」と招かれています。
今日何度も申しました。世の中の多くの人は、『自分は何もの』かという問いかけについて、答えることができない。又、知らずに過ごし、一生を終えているのです。
「わたしは誰であるのか」「わたしは何ものか」このことを知っている人は、いろんな試練や試みに遭っても、その根底のところで揺らぐことがありません。
私たちは主の愛と恵みによって「罪を贖われ、神の子」とされた者です。
その根底のことを日々確認し続ける。それがクリスチャンの道であります。そこに「わたしの道、命の道」があります。神の民、神の子とされ、今を生かされている喜びと感謝にあふれる者でありたいと願います。
今日聖書のメッセージ、「希望の言葉」を胸にまたここから今週のあゆみ、クリスマスに向かってそれぞれが「自分の道に従って」主に整えられてまいりましょう。
先週23日はラブソナタ大阪が中之島の大阪国際会議場で10年ぶりに開催されました。
教会からも数名が参加いたしました。先日のFAXで23日の集会は日本、韓国の参加者とスタッフを加えると総参加者3320人となり、そのうち116人の方がクリスチャンになる信仰決心をされたというご報告をいただきました。私たちの中にもお友達や知人をお誘いしてご一緒された方もおいででしたが。まずホールに入りますと、韓国からこの集会のために自費で訪日し、ご奉仕くださる方々が、次々と歓迎の挨拶をして出迎えてくださると、さらに会場に入りますと一人ひとりに丁寧な案内をして下さり、感激しました。
又、メインのラブソナタの集会では世界的にも活躍されている、砂絵を描くアーティストの、父なる神の愛を思い起こさせるパフォーマンスやフルート演奏者、オペラ歌手や声楽家による賛美がささげられました。自分の栄誉や称讃のためでなく、創造主であられる神さまの作品として、その神さまを賛美しておられるお一人おひとりのオリジナルな主イエスにある救いの証をとともに最高の賛美にふれ、心熱く、主の臨在の迫りを強く感じました。日韓の人たちが主イエスにあって一つとされ、和合し、国境を越えた天の国の喜びを頂いた思いです。「天の国は私たちの間にすでにあるのだ」と、おっしゃる主イエスのお言葉をまさに実感した貴重な時となりました。
さて、本日はこれまで4週に亘り読んできましたダニエル書も最後となります。
今日はダニエルの見た幻:黙示にあたる最後の12章から「希望の言葉」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
まず今日の箇所は、前の10章からなるダニエルの黙示録といわれるような「終わりの時についての幻」の記述でありますが。そこに示されたとおり、ユダヤの民に対する迫害は権力の移り変わりとともに厳しさを増し、ダニエルの後の時代には凄まじい弾圧と迫害が起こるのであります。
そのような中で、主の契約を破り偶像を拝む人たち。一方、権力に従わず、信仰を守り抜いた人たち。又、中には厳しい迫害下で殉教を遂げる人たちも預言されています。
今日の12章1節には、それらの預言とともに、「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く。国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう。お前の民、あの書に記された人々は」と語られています。
聖書には7人の大天使長がいてミカエルはそのうちの一人で、ユダヤの民を守る天使でありました。神に忠実に生きるために苦難に遭うイスラエル、ユダヤの民。その信仰の闘いの先には神の救いが必ずもたらされるという約束がここに宣言されているんですね。苦難はある。艱難は来る。信仰の闘いは主を信じる者すべてに起こってきます。しかし、必ず主なるお方による救いとすべてが報われる時が訪れる。それが聖書の変わることのないメッセージであります。
けれどもその日、その時まで主はいらっしゃらないのかというと、決してそうではありません。6節の「川の流れに立つ、麻の衣を着た人」もまた天使の一人でありましょう。その天使が激流のような厳しい迫害下で主に忠実に生きようとしていた人たちの間に立って共に闘っておられるということが象徴的に示されています。主は厳しい状況の中にも共におられるお方なのです。
2節-3節には「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々(多くの者を主の救いに導いた人々の意味)は、とこしえに星と輝く」と記されています。
ここには、いわゆる死者の復活が語られています。それは永遠の生命に入る者だけではなく、永久に続く恥と憎悪の的となる者も地の塵の中から、すなわち死から目覚めるというのですから、驚きです。
人はだれもこの世の人生をどう生きたかがすべて問われる日が来るのです。いわゆる裁きの座に着くべき時です。主イエスは、その時があたかも羊飼いが羊と山羊を左右に選り分けるように、その時にはそれぞれの業が明るみにされて、主に忠実に生きた者たちは永遠の命に与り、不義の者たちは永遠の罰を受ける事になるとおっしゃいました。
日本では死んだ後の世界のことを、いわゆる天国とか地獄とかいうわけですが。それは何かきらきら光あふれる所とか、真っ暗闇で鉄棒をもった鬼に苦しめられる所だろうかとかぼんやりと想像する人も多いかも知れません。しかし聖書は大変明確です。それは永遠の生命と永久に続く憎悪の的。前者は、主なる神さまとの永遠の交わりに入れられること。そして後者は神さまとの交わりが永久に絶たれてしまうことです。一言でいえば、神と共にある世界か、神なき世界かです。人間にとって本当の地獄というのは、
神との関係や交わりが断絶した状態のことなのです。それを聖書は罪といいます。
「光あるうちに光の中を歩め」との聖書のお言葉がありますように、日毎日毎の延長線上に来たるべき時があるということを覚え、日々励み務めたいと願います。
さて、5節~7節は、艱難の時代を経た成就に向けての宣言です。
しかしダニエルはこれらの主の幻を見せられても理解できず、「主よ、これらの終わりはどうなるのでしょうか」と尋ねます。それに対して天のお方は、「ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらのことは秘められ、封じられている」と告げます。このところを口語訳聖書は「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい」と訳しています。それは、この先行き見えない時代にあって、神のご計画がはっきりとは分からない。否、分からなくなってしまうような状況にたとえなったとしても、「あなたの道を行きなさい」「神が与えてくださるあなたの人生をひたすら行くんだよ」といわれているんですね。私たちクリスチャンも主イエスの、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14章)という、その道に招かれています。
水曜日の聖書の学びの時にある方が、この今日の箇所を読まれてこうおっしゃいました。「自分の死も近いかな。体重も減り不安になり悩むことはあるけど、今の自分は幸いであることを感謝できる。ダニエルがこの先の結果を知りたいということに対して、神さまは何も答えられなかったことに共感できる。未来を不安に思わずに今を幸いにいれることが感謝」と、その方はおっしゃったんですね。これってすごい証だと思いませんか。
もう今日の聖書のメッセージをそのままにご自分の言葉で話してくださったように思います。この私に与えられた救いの道を、たとえそこに茨が生えていようが、砂利道であろうが、でこぼこ道だろうが、感謝をもってひたすら歩む。なぜならそれが神が共にいてくださる道だからです。今日からアドベント、クリスマスを待ち望んで行く時節に入りましたけれど、それがインマヌエル、主が共におられる「命の道」なんですね。
冒頭でもお話しましたが。ラブソナタの集会で韓国のオンヌリ教会の牧師がお話しくださったのですが。その中で、「あなたは誰」「あなたは何者ですか」と、大阪市内の人たちに次々とインタビューしていくという映像を見せてくださいました。その問いかけに戸惑う人、驚く人、分からないという人、と反応は様々でしたが結局誰もその問いかけに答えることができなかったのです。多くの人は普段そんなこと考えたりせず過ごしているし、若い人だと自分探しの旅を内に外にすることもあるでしょうが。その答えを見いだす人は少ないのではないでしょうか。
しかし、この「わたしは誰で、何者か」という人間にとって根本的な答えをもっている人と、もっていない人とでは、その生き方は全然違ってくるのですね。聖書にその答えがあります。
聖書の中で「人は何ものでしょう」と問いかけている箇所がいくつかございますが。
たとえば、ヨブ記7章17節以降で、その激しい試みの中でヨブはこう言っています。「人間とは何者なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか。朝ごとに訪れて確かめ、絶え間なく調べられる。いつまでもわたしから目をそらされない。唾を飲み込む間すらも、ほうっておいてはくださらない」。
ヨブはその非常な苦しみの中で、自分を知っておられる方の中に自分の存在を見いだしています。ダニエルもまた大変厳しい時代状況、恐れと悩みが絶えない中にあったと想像できますけれども。そういう「わたしは何ものか」、「我ら神の民とは如何なる存在なのか」という苦悩の中で、彼はなお「神は我救い」と主を賛美して、自らの道を歩み続けたのでありましょう。
今日の箇所で、ダニエルが先行きも見えず、主の啓示が理解できない中で、「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか」と、その日、その時がいつ来て、どうなるのかを知らせてくださるように尋ねてますが。それに対して天の使いは、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。終わりの時までこれらのことは秘められ、封じられている。多くの者は清められ、白くされ、練られる」と答えます。
私たちの信仰も何か心地の良く順調に事が進むような時よりも、むしろ逆境の中で問われ、試され、育まれていくものですね。御言葉に聞き、よりたのみ、信じて待ち望んでいく中で、主に「清くされ、白くされ、練られていく」のですね。
まさにヘブライ人への手紙12章にあるように「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます。」
このように、艱難は忍耐を忍耐は練達を練達は希望を生むということを私たちは知っています。そうですね。主は愛する子を鍛錬し、清め、白くし、練られるのです。
そうして13節の最後には「希望の言葉」がこう綴られています。
「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がる(復活する)であろう。」
ここでも、世の先行きの見えない状況に思い悩み、振り回されず、ただ「あなたの道を行き、憩いに入りなさい」と招かれています。
今日何度も申しました。世の中の多くの人は、『自分は何もの』かという問いかけについて、答えることができない。又、知らずに過ごし、一生を終えているのです。
「わたしは誰であるのか」「わたしは何ものか」このことを知っている人は、いろんな試練や試みに遭っても、その根底のところで揺らぐことがありません。
私たちは主の愛と恵みによって「罪を贖われ、神の子」とされた者です。
その根底のことを日々確認し続ける。それがクリスチャンの道であります。そこに「わたしの道、命の道」があります。神の民、神の子とされ、今を生かされている喜びと感謝にあふれる者でありたいと願います。
今日聖書のメッセージ、「希望の言葉」を胸にまたここから今週のあゆみ、クリスマスに向かってそれぞれが「自分の道に従って」主に整えられてまいりましょう。