日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主日礼拝式(召天者記念日) 2024/9/1 おしらせ

2024-08-28 11:54:04 | 教会案内
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神様の祝福

2024-08-25 17:11:53 | メッセージ
宣教  創世記35章1-20節  C・H
 
救われて良かった!このことばは教会創立記念誌に載せられたある人の証の言葉です。記念誌には教会員の皆さんが顔写真とともに証の文を書いていましたが、この方だけは救われて良かった!と一言だけでした。口数少ない60代の女性でしだが、何と彼女らしくシンプルな証だろうと思いました。記念誌の多くの証の中で今も記憶に残っている唯一の証の言葉です。救われて良かった!
ここで誰かが何が良かったですか!突っ込んできたとしたら彼女は何と説明したのでしょう。私たちも神様の恵みによりただ信仰によって救われました。救われて何が良かったでしょう。はっきりと自分のことばで人に伝えることができれば本当にその方は幸せだと思います。神様にも喜ばれることでしょう。
このことを覚えながら、今日は創世記35章おいて、「神様の祝福」という主題をつけてみました。これからご一緒にこのところの御ことばを学んでいきたいと思います。

35章一節に神様はヤコブに「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい」と命じられます。しかし、その前に34章で大事件があったことを見逃すことはできません。ヤコブは兄エサウと和解した後、カナン地にあるシェケムの町の手前で宿営をしますが、その土地の族長ハモルの子シェケムはヤコブの娘ディナを捕らえ寝てはずかしめます。そこでハモルとシェケムはヤコブをたずねて息子の嫁にしてください。縁を結んでこの土地で住み自由に行き来し、この土地を得てくださいといいます。しかし、憤っていたヤコブの息子たちは許せない感情をもって悪巧みをたくらんで、割礼を受けていない者に妹をやることは出来ないと割礼を男子みんなに受けさせます。三日になって、傷が痛んでいるとき、ヤコブの二人の息子ティナの兄シメオンとレビガ、それぞれ剣を取って、難なく町を襲い、すべての男子を殺しました。
それでヤコブは二人の息子に「あなたがたは、私に困ったことをしてくれて、私をこの住民のカナン人とペリジ人の憎まれ者にしてしまった。私には少人数しかいない。彼らがいっしょに集まって私を攻め、私を打つならば、私も私の家の者も根絶やしにされるだろう。」とこのように生き詰まるような不安と恐れの中で神様は支持を出します。
今日の35章です。「ベテルに上り、そこに祭壇を築きなさい。」
大変な状況の中で困っているときに、神様から与えられる御ことばは最高です。
平安が与えられます。困ったときには真っ先に神様の御ことばを求めて、
ひたすら祈るのが助けになるでしょう。神様の働きには御ことばが伴います。

さて、35章1-20までの御ことばから重要な単語3つ取り出して考えていきたいと思います。ベテル。祭壇。祝福。
ベテルという場所の名前は創世記だけでも10回出てきますが、ヤコブの人生において、とても重要なところです。神様はヤコブがベテルで神様にあったところに行って祭壇を築くように支持を出します。そして、守り導いて行かれます。ヤコブは家族単位で異国の神神を取り除き、身をきよめ、着物を着替えてベテルに上って行こう。私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつもともにおられた神に祭壇を築こう。と自分の家族と自分といっしょにいるすべての者たちに呼びかけます。運命共同体として人達が族長ヤコブに従い、今までの身についていた偶像を捨て、身をきよめ、着物を着替えることによって、真の神様に対する信仰の決心と新しく覚悟をして旅立ちます。そして、争いが起こったそのところから旅立つと神様からの恐怖が回りの町々に下ったので彼らはヤコブの子らのあとを追わなかった。と書いてあるように、ヤコブが恐れていたシェケム事件後、神様はヤコブの子どもらの暴虐があったにも関わらず御心によって導かれ回りの住民たちから守られました。ここにも神様の真と恵みを覚えられます。神様は回りの町々に恐怖を与えることの一つの方法でヤコブの一族を見事に守り、行きなさいと言われたベテルまで責任をもって彼らを連れて行かれました。ヤコブの一族とともにおられた神様!今日も私たちとともにおられ、私たちの行くべきすべての道のりをも守り導いておられることを信じ神様に感謝したいと思います。ヤコブは、自分とともにいたすべての人々といっしょにカナンの地にあるベテルに着き、祭壇を築きます。

ベテルという場所は彼が親元を離れて不安のなかで旅立つときに神様が現れて祝福の約束の御ことばをもって励ましてくださった所であります。
その約束の御ことばとは(創世記28章:15)「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがとこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」こういうわけで、ベテルという場所は、彼の信仰の出発点であり帰るべき場所でありました。神様は帰って来てその約束を果たしてくださった神様に感謝するための祭壇を築くように導かれます。
このときの祭壇を築くことは今日私たちにとっては礼拝と言えるでしょう。
私たちは毎週礼拝を通して神様との関係を確認し信仰を深めることができます。礼拝は私たちの信仰生活の軸です。
神様はかつてイスラエル民族をエジプトの奴隷から解放させ自分の民として、関係を作るために、まず律法を与え神の幕屋とそのなかに祭壇を作らせ、わたしはあなたの神、あなたはわたしの民という契約を結び、まず神様に礼拝することを教えられました。
祭壇がある幕屋はやがて来られるキリストの模型だと言われています。
現在も、神様は私たちを罪の奴隷から解放させ、この世から分離させ、イエスキリストの支配の中に入れられ、礼拝者として招かれています。

本章に戻って、7節、9節から13節まで読んでみたいと思います。ヤコブはそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それはヤコブが兄からのがれていたとき、神がそこで彼に現われたからである。
こうしてヤコブがパダン・アラムから帰ってきたとき、神は再び彼に現れて彼を祝福された。神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブである。あなたの名は、もうヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。神はまた彼に仰せられた。わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいがあなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にもその地を与えよう。神は彼に語られたその所で、彼を離れて上られた。」

ここでのポイントは「神は再び彼に現れて彼を祝福された。」ですが、神様は私たちにも現れて祝福してくださっていることを覚えたいと思います。
全能の神があわれみによって、神様を知るように、信じて救われるように、私たちを導いてくださいました。そして、礼拝者として招いてくださっています。

私たちが今日も礼拝を捧げられるのは私たちの特権です。
礼拝を捧げること自体が祝福であります。
神様はヤコブの兄エサウではなくヤコブに祭壇を築くように仰せられました。ヤコブに現れて、祝福してくださいました。
神様はエサウではなくヤコブを選んだように、私たちを選び、私たちとともにおられます。私たちのすべての道のりに伴い、ご自分の者として豊かな恵みをもって取扱い導き、守り、助け、祝福してくださっておられます。

今日の宣教のことばの初めに、救われて良かった!何が良かったか自分のことばで人に伝えることが出来ればその人は幸せだと言いました。
この良かった!ということばは神様が創造の業を終えた第6日に発せられたことばでもあります。私自身、神様のあわれみを受け救われました。それで良かったことは、「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られたものです。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべでが新しくなりました。」(第2のコリント5:17)この格調高い御ことばのように、私が再創造されたことです。そして、神様から目線で良かった!キリストにあって、神様に受け入れられたことです。それだけでなく、闇の中から光の中に入れられ、もはや罪に支配されることなく、死の恐怖からも解放され、永遠の命をいただき、真理の御霊様より自由が与えられています。
幾らでも言えます。自分がキリストを知り、信じることによって得られる祝福は無尽蔵であります。神様の祝福は信仰によって、自分自身がどれほど経験できるかによるものでしょう。

今日の聖書箇所でヤコブが経験した祝福は何だったでしょう。
(35章:3)を読んでみましょう。「そうして私たちは立って、ベデルに上って行こう。私はそこで私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」このように、神様に祝福されたヤコブに苦難がなかったわけではありませんでした。しかし、苦難の日に私に答え、自分の歩いた道に、神様はいつもともにおられたというインマヌエルの祝福はヤコブが経験した祝福でした。今日私たちにも与えられている祝福、私たちとともにおられる主!このインマエルの祝福を神様に感謝し、主イエスキリストに賛美を捧げたいと思います。今週も主とともに一足一足歩んでまいりましょう。

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2024/8/25 主日礼拝式

2024-08-22 12:41:24 | 教会案内

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神様との平和

2024-08-18 17:13:47 | メッセージ
宣教  聖書 創世記33章1-20節 C.H

人はなぜ争うのでしようか。その原因はどこにあるのでしょう。
神様は人間を本来平和な世界で住むように造られました。それなのに人間が自ら神様への不従順と反逆によって台無しにしてしまいました。その罪が人間を神様から引き離してしまい、神様との関係が壊れる事により、神様と人間との関係だけではなく、人間と隣人、自分と自分、自然との間も平和がなくなり、すべでの関係のバランスが取れなくなってしまいました。そういう結果で創世記4章にアダムとエバの息子で兄カインがアベルを殺した人類の初めての殺人事件以来、人類の歴史は戦争の歴史と言われるほど、民族は民族に国は国に敵対し立ち上がり次から次へと絶えず争いは止みません。今もそうです。
この問題の解決策はどこにあるのでしょう。人類にとって根本的な課題ではないでしようか。これからご一緒に考えていきたいと思います。

それでは先ほど読まれた創世記33章の内容は兄エサウとヤコブの和解の話しですが、ヤコブが叔父ラバンの家から出て兄エサウに会い和解するまでのヤコブが取った行動一つ一つを見逃すことはできません。
神様がこの土地を出て、あなたの生まれ故郷に帰りなさいと言われたにせよ、父の家に帰るのにはエサウとの和解がどうしても必要になります。
兄のことが大きな問題であるわけです。兄エサウの復讐に対する不安と恐れは自分の力ではどうにもならない、今までのように自分の力や知恵と努力では解決することが出来ないことを彼は痛いほど分かっていました。結局神様の助けが絶対的に必要でありました。
ここで私たちは神様に明確に示された道なのに、今のヤコブみたいに危険と障害がある場合があります。確かに神様の御心のはずなのに上手くいかないことも多々あることを覚えたいと思います。
それが神様の知恵かも知れません。私たちの人生とは神様側でしてくださることがあれば、私たちがしなければならないことがあるのです。

それではヤコブが兄エサウと和解のために取った行動、先週の箇所ですが、前の32章を少し読んでみたいと思います。ヤコブはセイルノ地、エドムの野にいる兄のエサウに、前もって使者をおくった。
「あなたのしもべヤコブはこう申しました。私はラバンのもとに寄留し、いままでとどまっていました。私は牛、ろば、羊、男女の奴隷をもっています。
それでご主人にお知らせして、あなたの好意を得ようと使いを送ったのです。」
ヤコブは兄をご主人といい自分をしもべといい、身を低くしてエサウに近寄ろうとします。兄がヤコブを迎えるために400人を引き連れて来られるという使者から聞いたヤコブは、非常に恐れ心配をして人も家畜も全部失われることを避けるために二つの宿営に分けます。
そうして神様に切実な祈りをささげます。(32:9-12)「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつてわたしに『あなたの生まれ故郷に帰れ。あなたを幸せにする』と仰せられた主よ。私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけをもってこのヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営をもつようになりました。どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。あなたはかつて『わたしは必ずあなたを幸せにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする』と仰せられました。」
このように彼は約束の御ことばを握って神様の助けを求めて祈りました。
私たちも祈るときには約束の御ことばを握って祈るとき確信が与えられ、力ある祈りを捧げることが出来ます。
そのためには、日頃聖書を読み御ことばを心に蓄える必要があるでしょう。

さて、ヤコブは祈った後、彼は兄エサウのために贈り物を選び、その贈り物によって兄をなだめ、彼を快く受け入れてくれることを期待します。また人と家畜の群れの進み方にも細かい配慮と真心を込めて整えます。兄エサウは自分を赦してくれるだろうか、20年前のことだがお父さんがなくなったら弟ヤコブを殺してやろうと言っていた兄が果たして自分を赦してくれるだろうか、あるいは自分と家族を打ちはしないかと復讐して来たらどうしょう。恐れと緊張感が高まる一方で、ある人が夜明けまで彼と格闘するような不思議な出来事がありました。ここで彼の名前が変わります。彼の人生の大きな転機になります。神様の使いなのか神様なのか、ある人との格闘とは必死な祈りとも言えるでしょう。「私を祝福してくださらなければ、私はあなたを去らせません。」
その人は「あなたの名前は何か、ヤゴブです。もうヤゴブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
ヤコブが、「あなたの名前を教えてください。」尋ねるとその人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名前を尋ねるか」その場で彼を祝福した。
このように、ヤゴブの積極的に祝福を求めて一晩中神の人と闘って必ずや祝福を手に入れてしまう姿勢は、かつて20年前兄エサウから長男が受ける祝福の権利を奪い取る時と重なります。

(マタイの福音書11:12)にイエス様は、「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は、激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」御ことばを思い出します。この御ことばは信仰とは決して生ぬるいものではなく、積極的なことであることを言い表しているのではないでしょうか。

ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウが400人の者を引いてやって来ていた。ヤコブは子どもたちをそれぞれ二人の妻レアとラケルと二人の女奴隷とに分け女奴隷たちとその子どもたちを先頭に、レアとその子どもたちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた。この置き方にも彼の偏愛が見られ、家族の中でも大事にされる者を少しでも安全な一番後ろに置くという生の人間の姿が見られます。そして、ヤコブ自身は、彼らの先に立って進み兄に近づくまで、7回も地に伏しておじきをします。エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいたき、首に抱きついてくちづけし、二人は泣きました。感動的な場面です。

被害者が加害者を無条件で赦し受け入れられるとはまさしく神様の愛ではありませんか。ヤコブは言います。「私はあなたの顔を神の御顔を見るように見ています。あなたが私を快く受け入れてくださいましたから。」
ここで私たちは考えてみたいと思います。自分の過ちが赦されることは幸いですが、自分を傷付けた人を赦すことのできることは最も幸いではないでしょうか。赦しとは本来愛である神様の性質の一つだからです。それで赦す側が神様のように見えるのではないでしようか。自分を傷つけた人を赦すとは簡単なことではありません。しかし、神様に赦されたものであれば赦すことができます。
続いて考えてみましょう。ヤコブとエサウの和解はいったいどのように成立したのでしょうか。ヤゴブの知恵と懸命な努力によるものでしょうか、あるいはエサウが優しい人だからでしょうか。そうではないでしよう。この和解は神様の業です。神様がなさったことです。ヤコブは神様に祝福を受けました。生まれ故郷に帰りなさいと命じられた神様ご自身が兄との問題解決をしてくださったのです。神様とヤコブの関係がエサウとの和解を生み出さられたのです。(箴言21:1)「王の心は主の御手の中にあって、水の流れるようだ。御心のままに向きを変えられる。」人が人の心を動かし、変えるのは難しいですが、神様は敵をも味方に変えるほどいとも簡単に人の心を変えられます。ここで長年の間、ヤコブの良心の呵責、兄を欺いたことによる罪の意識から解放され、新たに前に進むことが出来るように神様が道を開いてくださいました。神様は真実な方です。
結論になりますが、この世の人間社会はヤコブとエサウのように兄弟の争いがあれば、親子の争いもある。人と人の関わりがあるところには何かしら厄介なことがある。それでひとりがいい。面倒なことも避けられる。そうやってひとりで生きる道を選ぶ人達も少なくない今の時代であります。
しかし、(創世記2:18)神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手をつくろう。」
やはり人間はひとりでは生きられない存在であるということ、お互いに助けあってそれも平和に生きるように造られていました。
しかし、罪の性質をもつようになった人間には争いと分裂が常に付き惑うようになりました。アダムの神様に対する反逆という傲慢の罪から始めて、カインが弟アベルを殺したねたみの罪など、すべでの罪は神様と人間を分裂させます。
人と人の間も分裂させます。

平和は四つあるといいます。神様との平和(調和、バランス)、自分との平和、隣人との平和、自然との平和であります。
この中で神様との平和があれば、(神様との関係回復)後三つの平和は自然的に平和になります。こういうわけで、罪の問題が解決されない限り人間社会では本当の意味で平和はありません。
(ヨハネの福音書1:29)その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」神様はこのように私たちの罪を取り除くために十字架につけられ、よみがえられた主イエスキリストにより、信じるすべての人たちに神様と和解され、神様との平和の道を備えてくだしました。そして、神様を愛すること、自分自身のように隣人を愛することによって、本当の意味での平和と幸福を与えてくださいました。この恵みを忘れずに平和のために祈り、平和をつくる神様の子どもとよばれたいと思います。
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2024/8/18 主日礼拝式 (平和月間)

2024-08-15 11:15:48 | 教会案内
2024/8/18 主日礼拝式 創世記33章1-20節
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「あなたの隣人とは誰か~ペヌエルでの格闘から」

2024-08-11 18:06:29 | 巻頭言
宣教アウトライン Y・M

「芋(いも)づる伝道」日本の教育に「国を愛する」精神を打ち出そうとする意見があるのに対し、もう一つ他方では「国を大切にする」精神でよい、とする意見がある。この両者の問いには「愛」の言葉を抱えてきた過去の歴史が反映している。その理由として、国を愛する愛国心をどうしても自国のみへの愛のように狭くなりがちである。そう言った中で新渡戸稲造(キリスト教教育者)は「愛国」を説いても「愛国」を叫ばなかった、という話を聞いたことがある。
 
さて、本日の聖書の箇所で、ヤコブが20年間マハナイム(32:3)での亡命先からカナンに帰って来たとき、彼は叔父ラバンとの格闘からうまく脱走に成功したものの不安に満ちていたと思われ悪い予感から脱し切れていなかった。                          
マハナイムはヨルダン川の真東の方で隊商が通る「天幕に住む人々の道」と命名されている。ヤコブはマハナイムに接近したときかれは「天使の一団」「万軍の主」を思い浮かべていたであろう。  そこで遭った天使の一団は彼には「主の軍の将軍」の幻とも思われるベテルの天使のメッセージでもあった。
ヤコブがその土地に戻ったときでも、一難去って、また、一難の危うい時であった。神が近くに来られ、前途に迫った危急の最中においても彼独特の策略「肉を切らせて、骨を切る」思いが彼を捉えたのかもしれない。

J.カルウ`ァンは詩編34編の中に、このテキストの主題が収束していると注目している。
 わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、
  すべての恐れからわたしを助け出された。
  この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、
  すべての悩みから救い出された。
  主の使いは主を恐れる者のまわりに
  陣をしいて彼らを助けられる。
  主の恵み深きことを味わい知れ、
  主に寄り頼む人はさいわいである。(口語訳聖書)

本日の旧約聖書の箇所を新約聖書の光に照らして読んでみましよう。
今日、与えられている創世記32:23~33箇所はイスラエルの歴史が書かれたずっと前に、古今東西同類の神話伝説があった、と研究者は言う。
ひとりの男が一つの川を夜中に渡る話である。渡っていると悪者、悪霊に遭うと人間を襲ったらしい。その男(以後、彼)はその話が本当かどうか試しに挑戦心が起ってきた。   
イサクに双子の男が居た。兄エサウと弟イサクであった。そして弟イサクは父イサクをだまし、父イサクから祝福を得た。その後、兄エサウに妬み恨まれたヤコブは逃亡せざるを得なくなります。さいわい叔父ラバンの厚意によって彼のところに逃れることができた。              
荒れ野の逃亡の折、ヤコブは「夢」を見ました。それは、神御自身がヤコブと共におられ、寄り添い近づき給うお方であることが示されています。 本日の「ペヌエルでの格闘」の記事は、何をわたしたちに示しているのでしょうか。 格闘:いわゆ相撲はその内、神さまと人間との関係が濃くなっていくことを映し出す。ここに出てくるヤコブは相撲相手の名前を聞き出す場面でどんな技(わざ)を仕掛けてくるのか? 興味津々であります。政策的に<相撲:すもう(=角力)は精神性と運動能力との関係から鍛錬、忍耐力、規律現代社会=古代社会との比較の対象とすることはできないでしょう。
                
現在、フランスのパリーにてオリンピック競技の最中でありますが、運動選手の奮闘ぶりに喝采を送りたいものです。金、銀、銅メダルが優秀選手に授与されている風景が世界中に知れ渡り興奮の嵐に活気づけています。わたしたちは現在、テレビ桟敷を通してオリンピック競技に手に汗を搔いていますが。今日の。ヤコブのペヌエルの格闘は何をわたしたちに示しているのでしょうか。
ヤコブとエサウの祝福をめぐる格闘、そして今日の「祝福してくださらなければはなしません」と訴えたヤコブ。それはやがては朽ちてしまう賞、冠ではなく、朽ちることのない「神さまからの約束」(み言葉)こそが重要であることを教えています。                         
わたしたちは現在、テレビ桟敷を通してオリンピック競技に手に汗を搔いて楽しんでいますが。わたしたちは聖書から神の約束、祝福とは何かを読み取り、朽ちない賞、朽ちることの冠を得るために如何に生きるかが重要であります。

本日は「あなたの隣人とは誰か」という題をつけさせて頂きました。
神さまの祝福ということを考えるときに、新約聖書のヤコブの手紙4章12節に「しかし、立法者であり審判者であるかたは、ただひとりであって、救うことも滅ぼすこともできるのである。しかるに、隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか。」(口語訳聖書)ここに「隣人」という言葉がある。
あなたの隣人とは誰か。あなたは、だれを隣人として生きるのか。しかも隣人をさばくあなたは、いったい何者かと、筆者は書き残している。それはわたしたちを含む現代社会における強烈なバッシング、ヘイト、訴え裁く非難のことばを問い、どうわたしたちがそれを聞いていくかが指摘されています。この神さまが造られた世界、社会が共に生きる喜びを、希望を相互に分け合っていく社会でありたい、と切に願います。
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2024/8/11 主日礼拝式 

2024-08-09 13:33:03 | 教会案内

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平和月間に寄せて

2024-08-04 13:43:00 | お知らせ
平和月間に寄せて

私は子どもの時から、ずっと平和を願っていました。それは、8月15日の平和授業や戦争体験者の話しを見聞きしてきたからです。
クリスチャンになって願いは祈りとなりました。
平和集会や平和を脅かす働きに対してのデモにも参加していましたが。中には偏った見方で過激な批判に同調させようとする人たちがいることに気づき、出れなくなりました。
人の正義感は、自分が見えていると思う世界の、ほんの一粒ほどです。本当の正義と正しさは罪の思惑がうごめく世では築きがたいのだと知りました。
そして神さまだけが全てを知り、正義の正しい計りをもっておられること。また、人が不義から立ち返り、御心とその教えに聞いて生きるところに、初めて本当の平和が築かれて行くことを知らされました。
私の祈りは単に平和を祈ることから「今日も多くの人が神さまに立ち返り、神の子とされてシャローム本物の平和が実現されますように」との祈りに変えられました。

イエスさまは今日も十字架の上から神と人、人と人との和解にある平和を執り成し続けて下さいます。人は神さまに立ち返って生き、まことの平和(シャローム)が実現されますように。
文責 Y・S
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神様のご計画

2024-08-04 13:40:30 | メッセージ
聖書 創世記31章1-13節   宣教 C・H

信仰とは何でしょう。何から始まるのでしょうか。
神様は存在するのか、存在しないのか、問いかけるところから始まるのではないでしょうか。
存在するのであればいったい神様がとういう方なのかを知ること、信じることが大事だと思います。
しかし、多くの人々は神様の存在は認めるが知ろうとはしません。信じようともしません。その中には神様の存在をしるために探し求めている人達もいます。

最初に読まれた(ヘブル人への手紙 11章3節)によると、信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、従って、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。このように私たちが信じている神様は万物を造り、支配し始めておられる全能の神様であります。ことばと人格をもっておられます。特にご計画をもっておられる神様です。 その神様のご計画とは人類を救うためのご計画です。
そのために神様は最初にアブラハムという一人の人を選びました。(マタイの福音書 1章1~2)アブラハムの子孫、 ダビデの子孫、 イエスキリストの系図。アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟が生まれ、延々と続きまして42代目に救い主イエスキリストが生まれます。
この歴史の流れの中で今日の宣教箇所、ヤコブの物語が出ます。このヤコブを通して、神様はご自分のご計画をどのように、実現して行かれるのかを確認していきたいと思います。それと同時に神様は私たちの人生の中でもご計画をもって生きて働かれる方であることを覚えて、励まされたら幸いなことだと思います。

さて、ヤコブはイサクとリベカの間で双子の弟でありますが、ヤコブは男が受ける長子の権利を、それもお父さんを騙してまでして、 祝福の権利を横取りにしました。当然ながら兄エサウは恨みます。「父の死ぬときも近づいている。そのとき弟ヤコブを殺してやろう」というのを聞いた母リベカは、ハランへ自分の兄ラバンのところに逃げるようにします。
そこで住み始めて20年の歳月が経ったところで、ラバン息子たちもラバンも、態度が以前のようではなく居心地が悪く、そこを去る潮時になったのでしょう。そのとき神様もあなたの生まれ故郷に帰りなさいと声をかけられました。
ヤコブは、自分の家族と財産を引き上げる前に、二人の妻たちに一緒に帰るため説得に当たって、自分の20年間の生活を振り返って話しをします。(31:5~7) そして、ラバンに何も言わず逃げるように旅に出ますが、追いかけてきたラバンにもこれまで我慢して尽くして来たことをいいます。(31:38~42) これが 31 章の内容です。
それでは、ヤコブがイサクから受けた祝福のことば (27:28~29)と、ベテルで主からうけた祝福のことば(28:13~15)も読んでみましょう。ここでヤコブの苦労話と祝福のことばを両方横に並べて見れば、人間的には矛盾を感じます。ヤコブの 20 年間の人生にある暗い部分というか、その陰は、そこに光があっての陰であると言えるのではないでしょうか。祝福の中にある苦難と言えるでしょう。
神様はあのベテルでの約束 「見よ。 わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、 あなたをこの地に連れ戻そう。 あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」という、その約束を守られておられました。それによって、神様は着々とご計画を実現されていきます。
実は、ヤコブは叔父ラバンの家で非常に苦労をしたかもしれません。しかし、主がともにおられました。決して御捨てになりませんでした。そこで二人の妻とそばめたちによって、 11 名の子どもが与えられます。 後からもう1人が生まれます。これがやがてイスラエルの12部族になり、イスラエル民族形成、つまり、国家建設のための基礎になります。そういうわけで、ヤコブの叔父ラバンのところでの20年間の生活は意味深く、神様からすればとても重要な計画の中の一段階でした。
もう少し進むと、ヤコブとその子どもたちは飢饉があって、エジプトにいって住むことになります。行くときは70人でありましたが、 エジプトを出るときには、徒歩の壮年の男子だけで60万人でありました。アブラハムに約束したように彼の子孫はそれからも増え続けられていきます。
エジプトから出たイスラエル民族は、荒野で40年間徹底的に神様の選民として、作り上げられます。律法が与えられ、礼拝を教え、聖なる国民、選ばれた種族、王なる祭司になるように訓練されます。神様は結局、ご自分の民に何を教えようとしたか。それは神様を信じること、従うことでした。
今日、私たちはヤコブの人生の節目と言えるところで、20 年間の人生を振り返って二人の妻たちとラバンに語った話しを聞きました。しかし、そこには神様が共におられ、祝福の約束のご計画を実現するために働かれたことを覚えることができます。その祝福は、イエスキリストにあって、今日の私たちにも及んでいます。どんな人生にも意味がある、無駄がないと聞きますが、その通りだと思います。

今回、ヤコブの20年間の人生を振り返っての物語を考えながら、私自身の40年間、日本での人生を振り返ってみました。「(箴言20:24) 人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。」「(イザヤ書55:9)天が地よりも高いように、 わたしの道は高く、わたしの思いは、あなたがたの思いより高い。」
私は、神様のくすしい摂理と計り知れない神様の御心によって歩んできました。40年間という歳月は決して短くありません。しかし、あっという間に過ぎ去りました。キリスト信仰一筋で教会が私の生活の重心でした。神様が最優先順位、イエス様が一番!何よりも勝る何にも代られない宝でした。使徒パウロの告白の御ことばのように。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストがわたしのうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」この御ことばが心に刻まれて、ひたすら神様を慕いながら生きてきました。
3人の子どもを育てながら仕事もして、毎日のように何かしら教会に走っていました。今考えれば、私の意志ではありませんでした。主イエスキリストに捕らわれて、握られて、神様は私を一瞬も御手を離しませんでした。
だからと言って、私が平坦な道を歩いて来たかと言えば決してそうではありませんでした。山あり谷あり、雨の日もあれば曇りの日もあり、太陽が燦燦たる日もあり、嵐の日もありました。それで花は咲き、実は結ばれる。これが神様の営みではないでしょうか。また、そのすべての事柄が神様の祝福という一つの箱の中に入っていると私は解釈しています。ときに喜ばしくない望ましくないことに直面したそのときにはしんどいことであっても、過ぎてみたら、すべてが恵みでありました。そこには善であられる慈しみ深い神様の御計らいがあって、恵みが備えられていたことを体験してきました。神様は真実な方です。 その恵みはとこしえまで、命ある限り力ある限り主をほめたたえます。

最後にまとめますが、ヤコブは晩年にエジプトの王パロの前に立ったときに (創世記47:9)
ヤコブはパロに答えました。 「私のたどった年月は130年です。 私の齢の年月はわずかで、不幸せで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」
ヤコブは不幸せだったと言っています。 ラバンの家から出てからもどれほど苦労の連続であったか、今日は31 章を続けて読んでいくと分かるようになります。ここで祝福とはなんであるか考えざるを得ません。どんな困難なところでも、キリストがともにおられるのであれば、キリストの支配があれば、どんな悩ましい人の心にも永遠の命があれば、祝福されたと言えないでしょうか。
アブラハムに約束された祝福は、土地や子孫などですが、結局それはイエスキリストのことです。どんな状況の中にあっても、キリストがともにおられるのであれば、支配があるなら、悩ましい心、弱い体があっても、そこにキリストの命があれば祝福と言えないでしょうか。

私たちキリストの信仰者たちは、物事を霊的な目で、信仰の目で、解釈をすることがとても大事だと思います。どんな出来事でも、神様の御計画の中にあること、御心があることを信じることではありませんか。神様に信頼し御心が叶えられますように祈りゆだねることができれば幸いでしょう。
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2024/8/4 主日礼拝式

2024-08-03 08:46:13 | 教会案内

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