礼拝宣教 サムエル上24・1~23
本日の聖書ですが。先週読みましたダビデを妬んだサウル王はダビデを殺すために、選りすぐりの兵士3千人を率いて「山羊の岩」と呼ばれる付近に着きます。サウルは用を足すためにそのそばにある洞窟に入っていくのですが。ところが、その同じ洞窟の奥にはダビデとその兵たちが身を潜めていたのです。何も知らないサウルが無防備にも上着を脱いで用を足しているのを目にしたダビデは、兵たちの「神さまがあなたにサウルを引き渡され、思いどおりにするがよい約束されたのは、この時のことです」という言葉を聞き、サウルに忍び寄ります。しかし王に手をかけることなく、その上着の端をひそかに切り取って戻るのです。ダビデはその時まさに千載一遇のチャンスが訪れたわけで、サウルさえ亡きものにすれば、いわれなき悪意からも、長期に亘る逃亡生活からも解放され、遂に王位につくこともできたのです。
ところが、彼はそうしませんでした。それどころかサウル王の上着のほんの端の方を切ったことさえを後悔したのです。どうしてでしょう。
ダビデは7節で、「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ」と言って、意気まく兵士たちを説得し、サウルを襲うことを許しませんでした。ダビデは今日の箇所で3度も「主が油を注がれた方なのだから」と口にします。
それは、神さまが自分に油を注がれたように、サウロもまたその神さまに油を注がれた人である。そのサウルに直接手を「主は決して許されない」と、ダビデの主体は何時も神さまでした。主を畏れ敬うその思いが、「彼は主に油注がれた者なのだから」と言わしめているのです。
わたしたち主の御救いに与ったクリスチャン同士であっても、性格が合う合わないということはありましょう。感情のもつれや衝突によって人間関係が崩れそうになることが起こり得ます。イエスさまの弟子たちも例外はありませんでした。「主よ何度までゆるすべきでしょうか、7度まででしょうか」と主イエスに尋ね、「いや7の70倍までもゆるしなさい」と諭されたというエピソードがございます。まあ、そのような自分自身の愛の足りなさを突きつけられる時、そこでやはり思いだしたいのは、自分の前にいるこの人も、彼も、又彼女も、主が油を注がれた人なのだから、ということです。罪に滅びる外ないようなこの私が救われて聖霊の油に与かっているように、この人も又主が愛して救われ、同じ教会の油注ぎの中で、主の家族として共に生きるように立てられている人なのだと気づき直す。そういう主にあって関係性を受け取り直すことが必要なのです。
それはたとえ私にとって人間的にそりが合わなかったり、性格が合わないといった人にも同様に神さまは最高の愛を注ぎ込み、その存在を引き受け、生かしてくださっているという事を知る大切さを、今日のダビデの言葉から示されているように思います。
話は変わりますが、先日12日はここ大阪教会でルワンダミッションボランティアとして尊いお働きを継続的になさっておられる佐々木和之さんの帰国報告集会が持たれましたが。その折、佐々木さんが川崎桜本でヘイトデモを止めた市民たちのことを伝えるTV番組を紹介されたのですが。
それは心ない人たちの言葉に胸痛めていた母親を見る見かねて、息子の少年がデモの人たちに訴えるのでありますが。その際母親がその息子とともに、デモを強行しようとしたTさんにこういう手紙を書いて送ったというのです。
「Tさん、私たちの出会いは悲しい出会いでした。Tさん、私たち出会い直しませんか。加害、被害の関係から、今この時を共に生きる一人の人間同士として出会い直しませんか。加害、被害のステージから共に降りませんか。」
佐々木さんはルワンダでの被害者と加害者の平和と和解のプロジェクトのうちに生きているものとそれは非常に重なっているように思う、とわたしたちにお話くださったことが、大変心に残っています。
佐々木さんは、「命を奪い奪われた隣人同士が、再び共に命をはぐくみ、またそれが明日の自らの命をつなぐ糧となる。ルワンダで今、彼らが取り組んでいる養豚プロジェクトを引き合いにだしながら、「和解は命を紡ぎ、共に歩みなおすプロセスなのだ」とおっしゃいました。
今、世界は以前にはなかったような紛争やテロの脅威にさらされています。そこには政治的なものも働いているでしょうが、報復や憎しみの連鎖が人の命と尊厳を蔑ろにする悪循環に陥っているといえます。
ダビデが14節で、「古いことわざに、『悪は悪人から出る』。わたしは手を下しません」と言っていますが。ダビデがもしサウルに直接手をくだして殺していたら、悪は悪人から出るとのことわざのとおり、ダビデも悪人になっていたことでしょう。如何なる理由があるにせよ、「神に油注がれた方」に手をかけてしまった。そのような思いに責め苛まれ、返って恐れや不安が増大し、サウルと同じように心が病んでいったのではないでしょうか。
ダビデは、サウロ王が主に油注がれた存在であるということを重んじ、和解の道を主にあって求めることを選びます。12節では、ダビデが自分の命を狙うサウロに対して、「わが父よ」と呼びかけていますね。これはほんとうに驚きです。又、このダビデの呼びかけと言葉にサウル王も又、一度も口にしたことのない「わが子ダビデよ」という呼びかけで応答しているのです。それはサウルとダビデの凍りついていた思いや関係性がまさに氷がとけていくように和らぎ、心通うようになるのです。
サウル王はダビデの態度とその言葉に、声をあげて泣きながらこう言います。
17節、「わが子ダビデよ、お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。お前はわたしに善意を尽くしてくれたことを今日示してくれた。主がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった。中略。今わたしは悟った」と。
サウロは、洞窟で起こったすべての出来事が、神のご計画の中で起こったことを認めます。サウルも又、真に畏れる対象はダビデではなく、すべてを治め、生きてお働きになられる主なる神さまの存在であったのです。
しかし、そのサウルとダビデはそれぞれ別の場所に帰っていった、とあるようにこの和解は一時的な事で、再びサウルはダビデの命を狙うようになるのです。
人間の感情は複雑です。ひと時相手を受け入れ、許すということができたように思えても、また事あるごとに善からぬ思いと知りながら、ふつふつと湧きあがってくる怒りや憎しみ妬み。
かつて佐々木さんがルワンダの和解の出来事において、被害者は「もう相手を許した」という決意の後でも、加害者への抑え難い感情が湧きあがってくる。そういう葛藤を繰り返しているとおっしゃっていました。逆に加害者も罪を認めると本当に相手は許してくれるのか、復讐されるのではないかといった不安に揺れ動いている、とおっしゃていました。
私はそれでも平和と和解のプロジェクトが今日まで続いてきたのは、両者の間に主イエスが共に血を流す者の姿で、人と人、神と人とを執り成し続けていてくださるからだと信じます。同時に、主の御声、聖書の言葉の迫りに叱咤激励されながら、祈り応えようとする信仰の戦いが続けられているからだと信じます。
最後に、コリント二5章17節-18節を開いてみたいと思います。(新約聖書331頁)
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」
敵意の壁を越えていくところに神の国は実現していきます。その「神の国はあなたがたの間にある」と主イエスはおっしゃいました。祈りつつ、神の国、平和と和解の道を追い求めて生きる者とされてまいりましょう。
本日の聖書ですが。先週読みましたダビデを妬んだサウル王はダビデを殺すために、選りすぐりの兵士3千人を率いて「山羊の岩」と呼ばれる付近に着きます。サウルは用を足すためにそのそばにある洞窟に入っていくのですが。ところが、その同じ洞窟の奥にはダビデとその兵たちが身を潜めていたのです。何も知らないサウルが無防備にも上着を脱いで用を足しているのを目にしたダビデは、兵たちの「神さまがあなたにサウルを引き渡され、思いどおりにするがよい約束されたのは、この時のことです」という言葉を聞き、サウルに忍び寄ります。しかし王に手をかけることなく、その上着の端をひそかに切り取って戻るのです。ダビデはその時まさに千載一遇のチャンスが訪れたわけで、サウルさえ亡きものにすれば、いわれなき悪意からも、長期に亘る逃亡生活からも解放され、遂に王位につくこともできたのです。
ところが、彼はそうしませんでした。それどころかサウル王の上着のほんの端の方を切ったことさえを後悔したのです。どうしてでしょう。
ダビデは7節で、「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ」と言って、意気まく兵士たちを説得し、サウルを襲うことを許しませんでした。ダビデは今日の箇所で3度も「主が油を注がれた方なのだから」と口にします。
それは、神さまが自分に油を注がれたように、サウロもまたその神さまに油を注がれた人である。そのサウルに直接手を「主は決して許されない」と、ダビデの主体は何時も神さまでした。主を畏れ敬うその思いが、「彼は主に油注がれた者なのだから」と言わしめているのです。
わたしたち主の御救いに与ったクリスチャン同士であっても、性格が合う合わないということはありましょう。感情のもつれや衝突によって人間関係が崩れそうになることが起こり得ます。イエスさまの弟子たちも例外はありませんでした。「主よ何度までゆるすべきでしょうか、7度まででしょうか」と主イエスに尋ね、「いや7の70倍までもゆるしなさい」と諭されたというエピソードがございます。まあ、そのような自分自身の愛の足りなさを突きつけられる時、そこでやはり思いだしたいのは、自分の前にいるこの人も、彼も、又彼女も、主が油を注がれた人なのだから、ということです。罪に滅びる外ないようなこの私が救われて聖霊の油に与かっているように、この人も又主が愛して救われ、同じ教会の油注ぎの中で、主の家族として共に生きるように立てられている人なのだと気づき直す。そういう主にあって関係性を受け取り直すことが必要なのです。
それはたとえ私にとって人間的にそりが合わなかったり、性格が合わないといった人にも同様に神さまは最高の愛を注ぎ込み、その存在を引き受け、生かしてくださっているという事を知る大切さを、今日のダビデの言葉から示されているように思います。
話は変わりますが、先日12日はここ大阪教会でルワンダミッションボランティアとして尊いお働きを継続的になさっておられる佐々木和之さんの帰国報告集会が持たれましたが。その折、佐々木さんが川崎桜本でヘイトデモを止めた市民たちのことを伝えるTV番組を紹介されたのですが。
それは心ない人たちの言葉に胸痛めていた母親を見る見かねて、息子の少年がデモの人たちに訴えるのでありますが。その際母親がその息子とともに、デモを強行しようとしたTさんにこういう手紙を書いて送ったというのです。
「Tさん、私たちの出会いは悲しい出会いでした。Tさん、私たち出会い直しませんか。加害、被害の関係から、今この時を共に生きる一人の人間同士として出会い直しませんか。加害、被害のステージから共に降りませんか。」
佐々木さんはルワンダでの被害者と加害者の平和と和解のプロジェクトのうちに生きているものとそれは非常に重なっているように思う、とわたしたちにお話くださったことが、大変心に残っています。
佐々木さんは、「命を奪い奪われた隣人同士が、再び共に命をはぐくみ、またそれが明日の自らの命をつなぐ糧となる。ルワンダで今、彼らが取り組んでいる養豚プロジェクトを引き合いにだしながら、「和解は命を紡ぎ、共に歩みなおすプロセスなのだ」とおっしゃいました。
今、世界は以前にはなかったような紛争やテロの脅威にさらされています。そこには政治的なものも働いているでしょうが、報復や憎しみの連鎖が人の命と尊厳を蔑ろにする悪循環に陥っているといえます。
ダビデが14節で、「古いことわざに、『悪は悪人から出る』。わたしは手を下しません」と言っていますが。ダビデがもしサウルに直接手をくだして殺していたら、悪は悪人から出るとのことわざのとおり、ダビデも悪人になっていたことでしょう。如何なる理由があるにせよ、「神に油注がれた方」に手をかけてしまった。そのような思いに責め苛まれ、返って恐れや不安が増大し、サウルと同じように心が病んでいったのではないでしょうか。
ダビデは、サウロ王が主に油注がれた存在であるということを重んじ、和解の道を主にあって求めることを選びます。12節では、ダビデが自分の命を狙うサウロに対して、「わが父よ」と呼びかけていますね。これはほんとうに驚きです。又、このダビデの呼びかけと言葉にサウル王も又、一度も口にしたことのない「わが子ダビデよ」という呼びかけで応答しているのです。それはサウルとダビデの凍りついていた思いや関係性がまさに氷がとけていくように和らぎ、心通うようになるのです。
サウル王はダビデの態度とその言葉に、声をあげて泣きながらこう言います。
17節、「わが子ダビデよ、お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。お前はわたしに善意を尽くしてくれたことを今日示してくれた。主がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった。中略。今わたしは悟った」と。
サウロは、洞窟で起こったすべての出来事が、神のご計画の中で起こったことを認めます。サウルも又、真に畏れる対象はダビデではなく、すべてを治め、生きてお働きになられる主なる神さまの存在であったのです。
しかし、そのサウルとダビデはそれぞれ別の場所に帰っていった、とあるようにこの和解は一時的な事で、再びサウルはダビデの命を狙うようになるのです。
人間の感情は複雑です。ひと時相手を受け入れ、許すということができたように思えても、また事あるごとに善からぬ思いと知りながら、ふつふつと湧きあがってくる怒りや憎しみ妬み。
かつて佐々木さんがルワンダの和解の出来事において、被害者は「もう相手を許した」という決意の後でも、加害者への抑え難い感情が湧きあがってくる。そういう葛藤を繰り返しているとおっしゃっていました。逆に加害者も罪を認めると本当に相手は許してくれるのか、復讐されるのではないかといった不安に揺れ動いている、とおっしゃていました。
私はそれでも平和と和解のプロジェクトが今日まで続いてきたのは、両者の間に主イエスが共に血を流す者の姿で、人と人、神と人とを執り成し続けていてくださるからだと信じます。同時に、主の御声、聖書の言葉の迫りに叱咤激励されながら、祈り応えようとする信仰の戦いが続けられているからだと信じます。
最後に、コリント二5章17節-18節を開いてみたいと思います。(新約聖書331頁)
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」
敵意の壁を越えていくところに神の国は実現していきます。その「神の国はあなたがたの間にある」と主イエスはおっしゃいました。祈りつつ、神の国、平和と和解の道を追い求めて生きる者とされてまいりましょう。