日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

敵意の壁を越えて

2016-06-26 15:36:01 | メッセージ
礼拝宣教  サムエル上24・1~23 

本日の聖書ですが。先週読みましたダビデを妬んだサウル王はダビデを殺すために、選りすぐりの兵士3千人を率いて「山羊の岩」と呼ばれる付近に着きます。サウルは用を足すためにそのそばにある洞窟に入っていくのですが。ところが、その同じ洞窟の奥にはダビデとその兵たちが身を潜めていたのです。何も知らないサウルが無防備にも上着を脱いで用を足しているのを目にしたダビデは、兵たちの「神さまがあなたにサウルを引き渡され、思いどおりにするがよい約束されたのは、この時のことです」という言葉を聞き、サウルに忍び寄ります。しかし王に手をかけることなく、その上着の端をひそかに切り取って戻るのです。ダビデはその時まさに千載一遇のチャンスが訪れたわけで、サウルさえ亡きものにすれば、いわれなき悪意からも、長期に亘る逃亡生活からも解放され、遂に王位につくこともできたのです。

ところが、彼はそうしませんでした。それどころかサウル王の上着のほんの端の方を切ったことさえを後悔したのです。どうしてでしょう。
ダビデは7節で、「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ」と言って、意気まく兵士たちを説得し、サウルを襲うことを許しませんでした。ダビデは今日の箇所で3度も「主が油を注がれた方なのだから」と口にします。
それは、神さまが自分に油を注がれたように、サウロもまたその神さまに油を注がれた人である。そのサウルに直接手を「主は決して許されない」と、ダビデの主体は何時も神さまでした。主を畏れ敬うその思いが、「彼は主に油注がれた者なのだから」と言わしめているのです。

わたしたち主の御救いに与ったクリスチャン同士であっても、性格が合う合わないということはありましょう。感情のもつれや衝突によって人間関係が崩れそうになることが起こり得ます。イエスさまの弟子たちも例外はありませんでした。「主よ何度までゆるすべきでしょうか、7度まででしょうか」と主イエスに尋ね、「いや7の70倍までもゆるしなさい」と諭されたというエピソードがございます。まあ、そのような自分自身の愛の足りなさを突きつけられる時、そこでやはり思いだしたいのは、自分の前にいるこの人も、彼も、又彼女も、主が油を注がれた人なのだから、ということです。罪に滅びる外ないようなこの私が救われて聖霊の油に与かっているように、この人も又主が愛して救われ、同じ教会の油注ぎの中で、主の家族として共に生きるように立てられている人なのだと気づき直す。そういう主にあって関係性を受け取り直すことが必要なのです。
それはたとえ私にとって人間的にそりが合わなかったり、性格が合わないといった人にも同様に神さまは最高の愛を注ぎ込み、その存在を引き受け、生かしてくださっているという事を知る大切さを、今日のダビデの言葉から示されているように思います。
 
話は変わりますが、先日12日はここ大阪教会でルワンダミッションボランティアとして尊いお働きを継続的になさっておられる佐々木和之さんの帰国報告集会が持たれましたが。その折、佐々木さんが川崎桜本でヘイトデモを止めた市民たちのことを伝えるTV番組を紹介されたのですが。
それは心ない人たちの言葉に胸痛めていた母親を見る見かねて、息子の少年がデモの人たちに訴えるのでありますが。その際母親がその息子とともに、デモを強行しようとしたTさんにこういう手紙を書いて送ったというのです。
「Tさん、私たちの出会いは悲しい出会いでした。Tさん、私たち出会い直しませんか。加害、被害の関係から、今この時を共に生きる一人の人間同士として出会い直しませんか。加害、被害のステージから共に降りませんか。」
佐々木さんはルワンダでの被害者と加害者の平和と和解のプロジェクトのうちに生きているものとそれは非常に重なっているように思う、とわたしたちにお話くださったことが、大変心に残っています。

佐々木さんは、「命を奪い奪われた隣人同士が、再び共に命をはぐくみ、またそれが明日の自らの命をつなぐ糧となる。ルワンダで今、彼らが取り組んでいる養豚プロジェクトを引き合いにだしながら、「和解は命を紡ぎ、共に歩みなおすプロセスなのだ」とおっしゃいました。
今、世界は以前にはなかったような紛争やテロの脅威にさらされています。そこには政治的なものも働いているでしょうが、報復や憎しみの連鎖が人の命と尊厳を蔑ろにする悪循環に陥っているといえます。

ダビデが14節で、「古いことわざに、『悪は悪人から出る』。わたしは手を下しません」と言っていますが。ダビデがもしサウルに直接手をくだして殺していたら、悪は悪人から出るとのことわざのとおり、ダビデも悪人になっていたことでしょう。如何なる理由があるにせよ、「神に油注がれた方」に手をかけてしまった。そのような思いに責め苛まれ、返って恐れや不安が増大し、サウルと同じように心が病んでいったのではないでしょうか。
ダビデは、サウロ王が主に油注がれた存在であるということを重んじ、和解の道を主にあって求めることを選びます。12節では、ダビデが自分の命を狙うサウロに対して、「わが父よ」と呼びかけていますね。これはほんとうに驚きです。又、このダビデの呼びかけと言葉にサウル王も又、一度も口にしたことのない「わが子ダビデよ」という呼びかけで応答しているのです。それはサウルとダビデの凍りついていた思いや関係性がまさに氷がとけていくように和らぎ、心通うようになるのです。

サウル王はダビデの態度とその言葉に、声をあげて泣きながらこう言います。
17節、「わが子ダビデよ、お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。お前はわたしに善意を尽くしてくれたことを今日示してくれた。主がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった。中略。今わたしは悟った」と。

サウロは、洞窟で起こったすべての出来事が、神のご計画の中で起こったことを認めます。サウルも又、真に畏れる対象はダビデではなく、すべてを治め、生きてお働きになられる主なる神さまの存在であったのです。

しかし、そのサウルとダビデはそれぞれ別の場所に帰っていった、とあるようにこの和解は一時的な事で、再びサウルはダビデの命を狙うようになるのです。
 人間の感情は複雑です。ひと時相手を受け入れ、許すということができたように思えても、また事あるごとに善からぬ思いと知りながら、ふつふつと湧きあがってくる怒りや憎しみ妬み。
かつて佐々木さんがルワンダの和解の出来事において、被害者は「もう相手を許した」という決意の後でも、加害者への抑え難い感情が湧きあがってくる。そういう葛藤を繰り返しているとおっしゃっていました。逆に加害者も罪を認めると本当に相手は許してくれるのか、復讐されるのではないかといった不安に揺れ動いている、とおっしゃていました。
私はそれでも平和と和解のプロジェクトが今日まで続いてきたのは、両者の間に主イエスが共に血を流す者の姿で、人と人、神と人とを執り成し続けていてくださるからだと信じます。同時に、主の御声、聖書の言葉の迫りに叱咤激励されながら、祈り応えようとする信仰の戦いが続けられているからだと信じます。

最後に、コリント二5章17節-18節を開いてみたいと思います。(新約聖書331頁)
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」

敵意の壁を越えていくところに神の国は実現していきます。その「神の国はあなたがたの間にある」と主イエスはおっしゃいました。祈りつつ、神の国、平和と和解の道を追い求めて生きる者とされてまいりましょう。

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沖縄「命どぅ宝」の日をおぼえて

2016-06-23 09:52:39 | メッセージ
あかし M・I

「命どぅ宝」とは日本語で「命こそ宝」という意味になります。
この命どぅ宝の日というのは、6月23日の、沖縄戦が終わった日にあたります。
沖縄では慰霊の日と呼ばれ、学校等はお休みになります。これは沖縄戦において日本軍が組織的な戦闘をやめた日のことで、毎年この時期に梅雨明けを迎える沖縄では、よく晴れた美しい日になる事が多いです。
でも県民にとっては、多くの命を失った71年前の沖縄に思いを馳せる、とても悲しい日でもあります。


この慰霊の日が近づくと、沖縄の学校では「平和記念週間」と題し、戦時中の沢山の写真や資料の展示、沖縄戦を題材にした絵本の読み聞かせ、平和記念資料館の見学など、様々な形での平和学習が企画されます。
沖縄戦を直接経験していない私が、自分のとても深いところで戦争の恐ろしさや、二度と繰り返されてはならないという思いを持っているのは、小中高を通してこの平和学習が徹底されていたからだと、大人になって強く感じています。
地上戦の記録ですので、小学生だった自分には平和学習の内容はとてもショッキングなものが多く、学校帰りに米軍の飛行機の音が聞こえると「今から戦争が始まるんじゃないか」と恐ろしかったのを覚えています。
しかし学習を通して、戦後50年経って生まれた子供たちが、「今の平和は戦争で亡くなった人たちの犠牲の上に成り立っているんだ」ということを感じる事ができたのです。

ですので、この日を「命どぅ宝」の日として覚えましょう、という女性連合の方達の呼びかけを知って大変嬉しく思いました。
この日のテーマは沖縄県民に限られたものではなく、平和を守るためには、「平和でなかったときのこと」を今の私達が知ろうとし続ける他にないと思うからです。

また、1県民としてこの日に覚えて頂きたいのは、戦後70年の今も米軍基地を始めとした戦争の負の遺産に悩まされる現在の沖縄のことです。
覚えて祈る、ということは、宗教を持たない人からすると一見何のアクションにもなっていないかもしれません。
しかし一朝一夕では変わらない、一人の力ではどうにもならない事だからこそ、一人でも多くのひとが、自分のこととして関心を寄せることで、何かが変わってゆくのではないかと思っています。

実際に沖縄は変わりつつあります。
辺野古を始めとする基地問題に対して無力感を感じていた県民ひとりひとりが、党の派閥を超えて翁長県知事を誕生させ、厳しい風当たりの中がんばる翁長さんの姿を見てまた勇気をもらい、様々な県民のバックアップのもと、沖縄県の声を国連に届けるなどして、「自分たちにも何か動かせる」という気持ちが県民に広がってきているのを感じます。

神様は、2人以上のものが祈る時、その祈りは聞き届けられるとおっしゃっています。

私も県外に出てからは、日々の忙しさにかまけて、沖縄にいたときと同じように情報を追いかけるのは難しくなってしまいましたが、23日には子供のころからやってきたように、正午に1分間の黙祷を捧げ、沖縄について祈る時間を持とうと思っています。

みなさん、どうか一年に一度のこの命どぅ宝の日に、一緒に心を合わせて祈り、71年前のすべての戦没者の方々の鎮魂を願うとともに、現在の沖縄にも思いを巡らせる時間を取って頂けたら嬉しく思います。




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逃れの道

2016-06-19 14:52:20 | メッセージ
礼拝宣教  サムエル上21・1~16 命どぅ宝の日をおぼえて

先週はルワンダミッションボランティアの佐々木和之さんの帰国報告会が連盟主催・連合協力・企画により当教会で行われ80名近い方々が集われ、佐々木さんの平和と和解のミッションのお働きやご体験についてご講演をお聴きすることができました。私たちの教会としてもこの佐々木さんの尊いお働きを祈りに覚えていくことができたら、とそう思いました。

さて、今週23日は沖縄慰霊の日、バプテスト女性連合では「命どぅ宝の日」として、沖縄の平和を覚え祈る一週間となるように願っています。先程女性連合作成のDVDを通しての現状と課題、又沖縄で生まれ育ったIさんの証しと祈りが捧げられました。戦後71年目を迎えましたが、その間日本は戦争をすることなく平和が保たれてきましたけれども、沖縄だけは憲法9条が適用されていないともいえる現状があります。中東での戦争の折には、沖縄から米軍の戦闘機が出撃して戦闘行為を繰り広げ、沖縄は出撃基地として報復の脅威にもさらされました。日米安保体制のもと日米地位協定という不平等条約が未だに沖縄の方々の人権を蔑ろにし、生存権を脅かしているということを、私たちはなかなか自分のこととして感じとれません。それは沖縄の抱えている危機が自分たちのうちに迫ってきていないということでもあるでしょう。平和に対する思い一つとっても、沖縄と本土には温度差があるように思えます。沖縄の方々が日々負っておられる不安や恐れを少しでも自分たちのこととして感じ取り、思いを寄せ続けていくということがやはり大事だと思います。それが日本全体、ひいては地球規模の平和への願いと実現につながって行くと信じます。私たちはそのことをキリストの福音から聞き、祈り、行動するように招かれています。

さて、本日はサムエル記上21章より御言葉を聞いていきます。この箇所にはダビデの逃亡についてのエピソードが記されています。

「命を生かす憐れみ」
さて、先週は少年ダビデと巨人のゴリアトの対決から、ダビデの「お前は剣や槍や投げ槍にわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう」「主は救いを賜わるのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう」という言葉を聞きました。ダビデがそうであったように、主なる神さまへの畏れと信頼をもって立ち向かったところに、本物の勝利は与えられるのだ、ということをそこから知ることができました。
その後、ダビデの名声はサウル王を凌ぐようになっていき、サウル王はダビデに対して激しい妬みを抱くようになります。それがダビデが命を狙われるまでエスカレートした時、ダビデのことを「自分自身のことのように愛していた」(20:17)サウル王の息子ヨナタンは、ダビデを父の激しい怒りと殺意から遠ざけるために命がけで逃亡させます。そうして、ダビデが一人向かったのはノブの地にいた祭司アヒレメクのもとでした。
このノブの地には神の幕屋、礼拝場があったのです。ダビデがそこに逃れたのは、神に望みをおき、御前に出で、祈り、自分の立ち位置を確認するためであったのでしょう。さらに彼は逃亡の中でお腹がすき食糧を求めていたのです。祭司アヒレメクなら何とかしてくれるに違いないと考えたのかも知れません。
そのダビデを祭司アヒレメクは不安げに迎えた、と記されています。彼が不安げにというのは、あの巨人ゴリアトを倒した勇者、千人隊長のダビデともあろう人がみすぼらしい姿で警備隊の供を一人も連れずに来ることなどありえなかったからです。「もしや、君主サウルに対してむほんを働いたのでないか。」そのような憶測が彼を不安にさせたのでしょうか。そこで祭司アヒメレクは、「なぜ、一人なのですか、供はいないのですか」とダビデに尋ねます。

それに対してダビデは、「サウル王からだれにも気づかれるな」と命じられていることがあり、従者たちには、ある場所で落ち合うように言いつけている。だから一人だ」と、偽りを言うんですね。

ダビデはなぜこのような嘘をついたのでしょう。祭司のアヒメレクに自分がサウル王のもとから逃げて来たと言えば、彼が自分を受け入れてくれない、そいれどころかサウル王に自分の居場所を伝えるかも知れない。そういう恐れから、このような嘘をついたのでしょう。

ダビデは話題をそらすかのように、「それよりも、何か、パン5個で手もとにありませんか。ほかに何かあるなら、いただけますか」とアヒメレクに尋ねます。
けれど祭司アヒメレクの手元には普通のパンがなく、唯主のために供える聖別されたパンしかありませんでした。それは祭司以外食べることが律法で許されていなかったパンでありました。彼ら祭司にとって律法を守ることは信仰生命をかけるといっても過言ではない大切なことなのです。
それをこの祭司アヒメレクはダビデとその従者たちのために、聖別されたパンを与えた、というのであります。アヒメレクは空腹で打ちひしがれている状態にあったダビデを「自分自身のように」憐れんだのです。先程のヨナタンもダビデを「自分自身のように愛した」ということと共通しますが。
ところで祭司アヒメレクのとった行為は律法に反することのようにも考えられますけれども、彼は杓子定規に律法を守ることが大切ではなく、目の前に飢え、打ちひしがれているダビデに聖別されたパンを与えることは、「命を生かし憐れむ」律法の精神を行うことと判断して、最優先したのです。
イエスさまも、空腹で苦しんでいた弟子たちが安息日に麦畑で穂を摘んで食べたことを律法違反だと非難する律法学者たちに対して、このアヒメレクの行ったことを例に出して、「律法は人間のためのものであって、人間が律法のためにあるのではない」と教えられました。
又、祭司アヒレメクは、ダビデの「槍か剣がありますか」という要望に対して、「あなたが討ち取ったペリシテ人ゴリアトの剣ならある、それを持って行きたけば持って行ってください」と与えます。ダビデは「それをください」と言って持っていくのでありますが。

まあここまで読みますと、祭司アヒメレクはダビデがサウロ王から何らかの理由で逃亡してここに来たということを確信していたように思えますね。けれども彼は「主がダビデと共におられる」ということを悟ったのではないでしょうか。それはもしかしたらサムエルを通して何らかのかたちで伝えられていたのかも知れません。いずれにしろ、主が共におられるダビデだからこそ、祭司の以外食べることが許されていなかったパンを与えたと考えることもできます。イエスさまも単に弟子たちがお腹をすかせているから、律法よりそちらを優先させるべきとおっしゃったのではなく、「イエスさまご自身が、安息日の主である、その主が共にいるのだから」ということを実はおっしゃっているんですね。

話を戻しますが。
祭司アヒメレクがダビデに剣を与えたことも、普通なら王に追われているような人に剣を与えるということは、アヒメレク自身王に逆らうことになりかねませんでしたから、大変なリスクを負ったということでした。

後の22章を読みますと、実際これら一連の出来事を目撃していたサウル王の家臣ドエグによって、サウル王にことの次第が伝わり、祭司アヒメレクをはじめ、ノブの町の85人の祭司と人々は剣で命を奪われてしまうのです。祭司アヒメレクの息子アビアタルだけが生き残り、ダビデのもとに身を寄せることになるのです。そこでダビデは彼に、「あの日、わたしはあの場所に居合わせたエドム人ドエグが必ずサウルに報告するだろう、と気づいていた。わたしがあなたの父上の家の者のすべての命を奪わせてしまった」(22:22以降)と、ざんきに耐えない想いを告白しているんですね。
 とにかく祭司アヒメレクがそんな危険を承知の上で聖めのパンと権威を象徴する剣をダビデに渡したのは、彼が「主はダビデと共におられる。」そのことにこそ、畏れをもっていたからではないでしょうか。

「真の平安と救いの道」
さて、ダビデはサウル王の追手がどこまでも迫り来るのを知り、恐れます。
そこでサウル王と政治的に敵対関係にあったペリシテのガトの王アキシュのところに逃げたのは、生き残るための賢い選択だったのかも知れません。ところがアキシュ王の家臣がダビデについて知っており、王にそのことを知らせたので、ダビデは安全を得るどこか窮地に陥ることとなります。
何かに対する恐れから一見安全に見えるものを求め、頼っていく。それは私たちにもあるのではないでしょうか。

今日は沖縄の「命どぅ宝」の日を覚える礼拝として主に捧げていますが。私たちを取り巻く社会や経済の国際的状況がここ数年の間に大きく変化したことによって、多くの人が不安や恐れを抱いています。国家の生き残りをかけての安直な手段が返って人の命という宝を損なうようなことになってはなりません。

ガトの王アキシュを大変恐れたダビデは、狂気の人を装って、王から追放されることで命の危機から逃れました。あの巨人ゴリアトを倒した勇者ダビデの姿はそこに微塵も見ることはできません。力を誇示する者の目には、たとえ稚拙に見えたとしても、たとえ愚かに映ったとしても、本当に守るべきもの、それは「命の尊厳」ではないでしょうか。

最後にダビデがアキシュの前を追放された時に読んだ詩編34編をご一緒に見ましょう。(旧約聖書p,864)
冒頭に「ダビデがアビレメクの前で狂気の人を装い、追放されたとき」とありますが、アビメレクとはアキシュ王の称号です。その6節にダビデは「主を仰ぎ見る人は辱めに顔を伏せることはない。この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった」と歌っています。
その体験はダビデを打ち砕きました。9節「味わい、見よ、主の恵み深さを。如何に幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」。次の10節「主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない」は宝のような言葉でありますが。この主を真に畏れ敬う人のうえにほんとうの命の平安と救いがあるのです。どのような危機に直面していようとも、主に信頼し15節のように「平和を尋ね求め、追い求める」人には、「逃れの道が与えられ」るのです。
19節以降を読んで宣教を閉じます。(読む)
「主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる。主に従う人には災いが重なるが 主はそのすべてから救い出し 骨の一本も損なわれることのないように 彼を守ってくださる。主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は 罪に定められることがない。」

「命どぅ宝」。今週も私たちの避けどころ主にあって、命と平和を追い求めてまいりましょう。


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剣や槍によらず

2016-06-13 11:54:14 | メッセージ
 礼拝宣教  サムエル記上17・41~54
 
先週は元プロボクシング世界王者であったムハメド・アリさんが亡くなられたというニユースがありました。彼はイスラム教徒として米国のベトナム戦争への参戦には協力できず、兵役を拒否し非暴力を貫かれた人でした。そのため世の人々から心ないバッシングや差別を受けますが、それにひるむことなく、プロボクシングの世界王者に輝きます。引退後難病を患いますが、様々な慈善活動や平和的な奉仕をされてきた人です。

本日は少年ダビデと巨人ゴリアトの対決についてのエピソードです。小学生の頃教会学校で、お話や紙芝居を通してよく聞いたり見たりしたという方もおられるでしょう。今日はここからメッセージを聞いていきたいと思います。

本来は17章冒頭から読みますと、より理解しやすいかと思うのでありますが、その部分は割愛させて頂きました。

「経緯」
まずゴリアトとダビデとが対決することになった経緯についてですが。
10節で、ペリシテ軍の大男ゴリアトが、「今日、わたしはイスラエルの戦列に挑戦する。相手を一人出せ。一騎打ちだ」と言い放ったとあります。このゴリアトは、ガド(パレスチナの由来の地)の出自で、背丈が3メートルもあり、60キロ近くある鎧を身に着け、7キロある槍を背負うまさに大男、巨人であったのです。40日間、朝な夕なそのゴリアトがやって来てイスラエル兵の戦列に「相手を一人出せ」と叫ぶのを見ては、サウル王もイスラエルの兵らも恐れおののいていたということです。
そのイスラエル兵の戦列の中に、先週も出てまいりましたエッサイの子、ダビデの兄の3人がおりました。ダビデは父エッサイの遣いとして3人の兄たちの安否を確かめるために送られて来るのですが、そこでゴリアトのいつもの言葉を聞くことになります。
すると1人のイスラエル兵が他の兵士らにこう言うのです。「あの出て来た男を見たか。彼が出て来るのはイスラエルに挑戦するためだ。彼を討ち取る者があれば、王様は大金を賜わるそうだ。しかも王女をくださり、更にその父の家にはイスラエルにおいて特典を与えてくださるということだ。」
それを聞いたダビデは周りの兵士に「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは。あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか。」そばにいた兄のエリアブは、ダビデに腹を立て「何をしにここに来たのか。お前の思い上がりと野心はわたしが知っている」とたしなめます。
きっと兄からすれば、ダビデのとった態度は、何て偉そうで、生意気なのかと思えたことでしょう。確かにダビデは少年でありながらも自分の将来や父のことなど考えていたのかも知れません。ダビデは再度同じことを兵に聞き、その答えが同じであることを確認するのです。この辺に何ともダビデの人間臭さというものが出ているようにも思えるのですが。

そのダビデのことをサウル王に告げるものがいました。私の想像ですが、その兵士はダビデが「生ける神の戦列に挑戦するとは」と言った時の少年ダビデの言葉と意思の強さに感銘を受けたのではないでしょうか。この兵士からダビデのことを聞いたサウル王はダビデを召し寄せます。ダビデはサウル王に対しても、堂々と「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が言って、あのペリシテ人と戦いましょう」というのですね。ダビデの言葉の端々に神への畏れの思いが読み取れます。
しかしサウル王は「お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。戦うことなどできはしまい」と答えます。まあ当然といえば当然です。それでもダビデは思いを曲げることなくサウル王にこのように言うのです。
36‐37節「彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」 
実はここにダビデのダビデたる所以、神を神として畏れ敬い、その神に寄り頼んで勝利を得ていった体験があり、それが確信となっていたのです。それは又、父のいうことを忠実に聞き、託された羊を命がけで守る日常のあゆみから培われた資質でもあったのでしょう。いずれにしろ、ダビデの根底にあるのは「神への畏れ」と「神が共におられる」ことへの信頼です。彼は若くして生ける神にこそ、事の一切を統べ治めるお方であることを知っており、ゴリアトのように神を畏れることなく自分の力を神のように誇示する者の行く末が、滅びであることを確信していたのです。

サウル王はこの少年ダビデの言葉と気迫に押しきられるようい、「行くがよい。主がお前と共におられるように」と、ゴリアトと1対1で戦うことを認めるのです。唯しかし、何しろまだ少年ですからダビデのその身を察し、彼に王の装束を着せ、その頭には青銅の兜をのせ、身に鎧を着けさせ」、武装させます。
 ところが当のダビデは「こんなもの着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから」と断ります。何ともユーモラスな場面に思えますけれども。ここでも少年ながらダビデははっきりと自分の身の丈にあった戦い方を心得ていたんですね。
「ダビデはそれらを脱ぎ去り、自分の杖を手に取り、川岸から滑らかな石を5つ選んで、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れて、石投げ紐を手にして、あのペリシテ人に向かって行った」のです。

「剣や槍によらず」
ここからが本日の箇所になりますが、巨人のゴリアトがダビデに近づいて来て、彼を認めるや「ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったので、侮った」とあります。ゴリアトはダビデに向かって「わたしは犬か。杖をもって向かって来るのか」「自分の神々によってダビデを呪い、お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」と豪語します。サウル王が神々と言っているのは、様々の神ならざる偶像のことです。

そのような挑発にダビデはひるむことなく、巨人のゴリアトに対して確信をもってこう語ります。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。」主の名によってお前に立ち向かう、ここが本日のメッセージの肝心要のところです。
 ゴリアトは自分の力や武力によって戦いを挑んで来るのでありますが、ダビデは主の名によってその大きな力に立ち向かっていくのです。
47節「主は救いを賜わるのに剣や槍を必要とされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは、主のものだ。主がお前たちをわたしの手に渡される。」
どうでしょう。私たちは時に対決をしなければならない何がしか、あるいは対峙しなければならない諸問題が起こってきます。
その時、鎧や兜で身を固め、剣や槍をもって武装して戦闘態勢に入っても、決して神の栄光を顕わすことはできません。48節以降には、その戦いの様子が描かれています。
「ペリシテ人は身構え、ダビデに近づいて来た。ダビデも急ぎ、ペリシテ人に立ち向かうための戦いの場に走った。ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。ダビデは石投げ紐と石一つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した、ダビデの手には剣もなかった。」

ここで強調されているのは、ダビデが剣や槍によってではなく、生ける神への信頼と「主の戦いなのだから主が守ってくださる」との信仰的な確信をもって、非常に厳しい戦いをひるむことなく挑んでいった。そこに生ける神の守りと勝利がもたらされた、ということであります。
私たちそれぞれにも信仰の戦いはあるでしょう。それはやがて表わされる神の勝利に向けての戦いであります。やがていつか証しに変えられる日が訪れる。そのために必要なのは「剣や槍ではなく、神への信頼と主の御名によって立ち向かう信仰」です。

さて、今日の箇所を最後まで読みますと。ダビデが「ペリシテ人の剣を取って、とどめを刺し、首を落とした」「ペリシテ人は刺し殺され、遺体は道に続くように倒れていた」などと、ほんとうに戦争のむごたらしい状況がそのまま伝えられています。
日本の戦国時代や、まさに大坂冬の陣、そしてこの茶臼山の夏の陣もそうですが、真田丸という大河ドラマもやっていますけれども、所詮戦争は殺すか殺されるかのむごたらしい殺し合い、略奪行為であり、美談で語られるものではありません。
旧約聖書は人間のそのような赤裸々な姿を隠さずそのまま描写しています。それは人の世にあって権勢や権力によるせめぎ合いが常に起こって来ます。また、一度そのような状況になれば、たとえ神を畏れる者であっても、手を血で汚すような状況が直接ないにせよ、生じ得るということです。神の戒(10戒)ははじめから「殺すな」「奪うな」です。神を神として拝し、敬い、自分のように隣人を愛する。これが神の戒めの黄金律であります。
私たちの主イエス・キリストは、まさにその黄金律を完全なかたちで示すためにこの世においでくださいました。その究極的顕れが、あの十字架の非暴力、無抵抗のお姿であります。主イエスこそ父の神への畏れと真実に人が生きる命を勝ち取るために戦われたお方であります。ニ度と私たちとこの国が血で手を汚す歴史を繰り返さなくてよいように、こどもや孫たちの世代に命の尊さを伝え、主の平和の福音の拡がりと命の尊厳を求め祈り、執り成す。そのことが益々求められている昨今ではないでしょうか。

先週の水曜日、安全保障法制は違憲とする提訴が大阪地裁になされました。一昨年7月に首相が憲法解釈によって集団的自衛権を認めるという閣議決定をなし、さらに昨年9月19日に弩号が飛び交い騒然とする中、現政権は議事録も残されない異常な状態で「安全保障法制」を強行採決しました。あのような議事録も残されていない採決は議会制民主主義としてはあり得ないことで、無効だと言わざるを得ません。この「安全保障法制」は平和憲法を骨抜きにし、短絡的に武力に依存していくことにつながる危惧を強く感じております。この訴訟が今の時代の中で、冷静な議論を呼び覚ます一助となればと願っています。

又、先日の火・水・木と「9条世界宗教者会議」が中央区の御堂筋沿いにある真宗大谷派難波別院(通称 南御堂)で開催されました。この会議には日本、韓国、香港、中国、タイ、インド、ドイツ、アイルランド、カナダ、アメリカから約120名の宗教者が参集したのでありますが、日本国憲法、とりわけその憲法9条は世界に誇るべき、共有されるべき素晴らしい宝だと改めて思った次第です。武力によって平和は築けません。報復に報復、憎悪に憎悪が増し加わり無益な血が流されるばかりです。それが今も世界の脅威となっています。

最後になりますが 9条世界宗教者会議の冒頭挨拶に立たれたNCC議長さんの言葉を紹介して、本日の宣教を閉じます。「世界の平和は正に危機に瀕していると思わざるを得ない。イエスは「民は民に、国は国に対立して立ち上がり、方々に地震が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」(マタイ13・8)と言われた。この産みの苦しみは始まり、それは世界のあり方が真に正されるための苦しみと聖書は語る。その産みの苦しみを引き受け、担い合うのは宗教者だと信じます。その平和を築く覚悟を持てるのが宗教者ではないか。」

今日の47節にあるダビデの言葉のように、「主は救いを賜わるのに剣や槍を必要とはされない」ことを世に示していくのは、少年であったダビデが神を畏れぬ巨人のゴリアトに立ち向かってゆくようなものではないでしょうか。しかし私たちにも武器はあります。
それは主イエス・キリストなる神の愛という石投げ紐と命の言葉という小石です。私たちもそれぞれに身近な隣人から世界へとキリストの平和を祈り求めていく者でありますよう、祈ります。

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主の選びの不思議

2016-06-05 15:17:12 | メッセージ
礼拝宣教 サムエル上16・1~13

そもそもイスラエルの民は出エジプト以来12部族のそれぞれの部族長はじめ、主に立てられた祭司や預言者、士師と呼ばれるさばき司をリーダーとして立てられていたのです。しかし民は「他の国々のように王が必要だ」と預言者サムエルに訴えたのです。それは、主のご意志に反することでありましたが、イスラエルの民はなおも王を求め、主は初代の王サウルをお立てになります、しかしサウルは主に過ちをおかし退けられることになります。この16章はそのサウルに替わり「主が新しい王を選ばれる」という箇所であります。
1節で主は預言者サムエルに、「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした」とおっしゃいます。

サウル王は、イスラエルの12部族の中で最も小さかったべニアミン族の出身でした。彼は主の選びによってイスラエルの最初の王位につきました。9章~10章に、サウルが主に選ばれて油注がれ、イスラエルの王となっていく様子が記されていますが。そこには、彼が美しい若者で「彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった」と、その容姿は美しく、また身体もがっちりと体格もよかった。いわば人間的に良い条件を備えていた人であった事が分かります。サウルが王となった当初は主に聞き従い、その道は守られ祝されるのであります。しかし彼が世の権威や力を身に着けていく度に、いつの間にか主が自分を王として立てられたことを忘れ、主への畏れをなくしていきます。主がお命じになったことよりも自分の価値基準や判断を優先させるようになっていくのです。
15章に、「主の御声に聞き従うことより、目に見える戦利品を得ようと飛びかかり、主の目に悪とされることを行った」(19節)、主は戦利品を持ち帰ることをお認にならなかったにも拘らず、サウルは優れた良いものをお捧げしさえすればよいと考えたのです。23節以降に「主の御言葉を退けたあなたは 王位から退けられる」「あなたが主の言葉を退けたから、主はあなたをイスラエルの王位から退けたのだ」と記されているとおりです。

そんなサウルのことを悲しみ、不安を抱いていた預言者サムエルは、新しい王の選び出しのため「出かけなさい」と主がおっしゃったとき、「どうしてわたしが行けましょうか」とためらいます。サウル王がそのことを聞きつけ、自分を殺すかもしれなかったからです。しかしそれでもサムエルは、主の「なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい」と、お命じになられたお言葉に聞き従います。サムエルも自分の思いというものはあったわけですけれども、このサムエル記全体を通してサムエルは何時如何なる時にも、主の御声に聞き従ったことが分かります。それはサウルとは対照的です。
15章22節に主の御言葉がこう記されています。「主が喜ばれのは焼き尽くす献げものやいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにもまさり 耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」
どんな捧げものにもまさって、主の御声に聞き従って生きることこそが重要なのです。

さて、サムエルは主に命じられたとおり「エッサイとその息子たちに身を清めて、いけにえの会食に来るように」と招きます。主は先にサムエルに「わたしはそのエッサイの息子たちの中に、王となるべき者を見出した」「あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい」と命じていました。

彼らがやって来ると、まずサムエルは長子であったエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だと思いました。ところが、主はサムエルに、7節「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間を見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と言われます。
続く、アビナダブ、シャンマと年長から7番目の息子までエッサイはサムエルの前を通らせますが、そのだれも主が選ばれることはなかったのです。
 そこでサムエルはエッサイに、「あなたの息子はこれだけですか」と尋ねます。エッサイは「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」と答え、彼にそこに呼ばれていなかった8番目の息子がいたことが判明します。
さて、エッサイはどうしてその末っ子をサムエルのもとに呼ばなかったのでしょうか?想像するに、末の息子はまだそのような場に連れて来るほどのものではない。まだ他の兄弟たちに比べると彼は如何にも未熟な者だから、というような人間的な思いが働いたからではないでしょうか。しかし、主のご計画は人の思い及ぶものではありません。5節にあるように「サムエルはエッサイとすべての息子たちをいけにえの会食に招いた」はずでした。末っ子は残しておけなどと主は一言もおっしゃっていないのに、エッサイは人間的な判断で末っ子のダビデを残して来たのであります。
主は「容姿や背の高さに目を向けるな」と言われます。「わたしは人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」ここの「人は目に映ることを見る」を新改訳聖書では「人はうわべを見る」と訳しています。それはエッサイだけでなく私たちも自分の経験や知識で人を判断したり、うわべでしか見ていない、見えていない、そういうことが往々にしてあるのではないでしょうか。
7節にあるように当初預言者サムエルでさえも、エッサイの長子「エリアブに目をとめ、彼こそ主の前に油を注がれた者だと、思った」とあるように、世の常識や慣習、人の目に見える判断基準に従って決めようとしていたということです。
そういった人をうわべで見、評価してしまうようなある種の捕われから私たちを解放してくれるのは、主の御言葉です。主に聞き従って生きる。それが如何に大事かということです。サムエルは主の言われた事を思い起こすことで、過った自己判断から免れました。

ところで、本日の7節で「主は心によって見る」とおっしゃったその意味について、もう少し考えてみたいと思います。
不思議に思いますのは、7節で「容姿や背の高さに目を向けるな」と主が言われているのに、実際に選ばれたエッサイの末っ子は「血色が良く、目が美しく、姿も立派であった」と記されている点です。これって主が言われた事と一見矛盾しているようにも思えますが、そうではありません。主はおっしゃるように、その子の心を見られたのです。
 そこでよく言われるのは、末っ子のダビデの信仰が他の兄弟たちよりも厚かったということです。しかしそれについては何も記されていませんので、分かりません。まあその後、ダビデはサウル王に気に入られて王に仕える者となるのですが、彼はそのかたわらずっと続けてきた父エッサイの羊の世話を引き続き守っているのですね(17章16節)。そういうダビデの忠実さについて知る事はできますけれども、彼の心を主がどのように御覧になったか、ということについては分からないのです。
ただ想像してみますに、恐らくダビデ本人は、どうして自分が招かれたのか知るよしもなかったのでしょう。まあお兄さんたちは年齢や人生の経験があったから選ばれてもおかしくなかったでしょう。そういった意味では、ダビデには野心など何もなかったのです。これまで7人の兄の存在の陰に隠れて、その権利や利益のすべてが年長者から順に優先されて何でも後回しにされてきたわけです。そういう中で末っ子の彼は未熟者、半人前と見られ、見下されるような存在として扱われることも多かったのではないでしょうか。
「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」(ペトロ一5章5節)。高慢な者はサウル王がそうなってしまったように、主よりも自分の力や能力に頼り、自分の思いや考えを主の言葉より優先させてるようになっていきます。しかし、末っ子のダビデにはある意味そういうものは何も持っていませんでしたから、全てに対して自由であったように思えます。

さて、そうして主はエッサイの末っ子であったダビデを選び、預言者サムエルによって油注ぎが行われ、ダビデはサウル王の後継の王として立てられていくことになります。
その主の選びと油注ぎの後から、「主の霊が激しくダビデに降るようになった」と記されています。まさに、そこからダビデは「主によって」王として立てられていくのです。
今日のこの箇所から、私たちも主の御声、聖書の命の言葉に聞き従う者、また「主によって立てられていく者」とされてゆきたいと願います。

最後に申命記7章6節以降を読んで宣教を閉じます。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、主の力ある御手をもってあなたたちを導き出し、救い出されたのである。」
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佐々木和之氏 帰国報告会6・12

2016-06-01 17:18:55 | イベント
ルワンダの平和と和解のミッション
     ~暴力・恐れ・憎しみを越えて~

 主催:日本バプテスト連盟
 協力・企画:関西地方教会連合

講師 佐々木 和之氏プロフィール

日本バプテスト連盟国際ミッションボランティア。
大学で熱帯農業を学んだ後、1988年から8年半
飢餓が深刻なエチオピアで農村自立支援に従事。
2000年ルワンダを訪問し紛争の深い傷跡に衝撃を受ける。
同年10月からブラットフォード大学平和学部博士課程
に在籍し、ルワンダの紛争問題と平和構築について研究。
2005年から現在に至るまで現地NGOリーチ
(Reconciliation Evangelism and Christian Healing)
と協力し、大虐殺後の「癒しと和解」プロジェクトを展開。
2011年からプロテスタント人文・社会科学大学(PIASS)の
教員としてルワンダ初の平和・紛争研究学科の発展のために尽力。日本バプテスト連盟洋光台キリスト教会員。

 ジェノサイトから22年、加害者と被害者の和解と共生の取り組み

虐殺時に破壊した家を、加害者が立て直すことで被害者に謝罪し、
生活改善に奉仕する「償いの家づくり」は双方の共同作業の場となりました。
そして今、被害者と加害者が収入の確保の為共に働く「養豚プロジェクト」が開始されています。


日時 6月12日(日)午後3時~6時

会場 日本バプテスト大阪教会
   大阪市天王寺区茶臼山町1-17
   ℡06(6771)3865 HP:obcs.jimdo.com
 
駐車場のスペースがございませんので、最寄りの公共交通機関でお越しください。

ご興味のある方はどなたでもご参加いただけます。
入場は無料です。
佐々木さんのお働きのための自由献金はあります。
              
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