日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

弱さの中でこそ完全に働く力

2024-06-30 13:26:02 | メッセージ
礼拝宣教    Ⅱコリント12章1-10節 神学校週間 

本日より当教会では来週まで「神学校週間」を覚えます。バプテストの連盟、関西地方教会連合のつながりの中で、西南学院大学神学部、東京バプテスト神学校、九州バプテスト神学校と、そこに学ぶ献身者を覚え、福音宣教が豊かに今後も続けられていくよう祈り、支援するものであります。
39年前になりますが、私はこの日本バプテスト大阪教会の推薦を受けて西南学院大学神学部に入学が許されました。4年間の西南学院大学神学部での学び、又諸教会での貴重な研修等を経て、卒業。初任地の粕屋バプテスト教会篠栗伝道所に赴任し、4年後教会組織を経た篠栗キリスト教会の牧師として併せて14年間務めさせて頂きました。そして2005年4月、当大阪教会からの牧師招聘にお応えしてからもうすぐ20年になろうとしています。
あらためて思いますのは、主の深い憐みによって今日がある、ということです。そこには神学校の教師、諸先輩や仲間たち、寮母さん、又私を神学校に送り出してくださった教会と主にある兄弟姉妹、さらにバプテストの連盟諸教会のお祈りとご支援があったことを忘れることはできません
神学校卒業してから34年目になりますが、未だに私は自分の至らなさや弱さを感じることがあります。そのような自分を神さまはいつも助け支えてくださいました。又、多くの主にある同信の仲間たちにも助けられ、支えられて来ました。神学校週間が来る度にそのことを思わされ、心新たにされています。

先ほどⅡコリント12章1-10節の御言葉が読まれました。
今日の箇所は、10章から始まるの文脈で、パウロはコリントの教会の一部の人たちと対立することとなった主な理由について述べています。それは11章にありますように、パウロが皮肉を込めて「あの大使徒」と呼ぶ者たちのことでした。
彼らの目的は自分を売り込むためであり、「我こそは神の使い、キリストの正しい理解を語ることが出来るものだ」ということを、人に認めて貰おうとコリントの教会にやって来たのです。
彼らはパウロを出来の悪い指導者だとしきりに悪口を言ったり、誹謗中傷していました。パウロの同労者も同様に非難されていました。それだけではなく、その悪口を言う者たちの口調に惑わされた人と一緒になって、自分たちに同調しない信徒に酷い嫌がらせを行っていたのです。
パウロが言うように、彼らは「肉に従って自分たちのことを誇っていた」のです。

本日の12章1-10節の中には、ざっと見ただけで「誇り」という言葉が7回も出てきます。
ここで大事なのは、パウロが何を誇りとしているか、という事です。この12章は前の11章30節「誇る必要があるなら、わたしは弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と言っているその事に注目しながら読む必要があるのです。
その11章では、コリントの教会の中でパウロを非難中傷し、おごり高ぶっていた反対者たちに対してパウロはあえて、自分は生粋の「ヘブライ人」「イスラエル人」「アブラハムの子孫」(11:22)であると言います。
又、実際パウロはコリント教会の開拓者で、創始者のような実績をもった人でもあったわけです。
パウロは自分を誇ろうとしてそう言ったのではなく、反対者たちによって自らの信頼と、伝えてきた福音までもがないがしろにされる中で、そうした事を口にしないわけにはいかなかったのです。
彼は「愚か者になったつもりで言いますが」と前置きしながら、加えてキリストの福音を伝え、証していく中で受けた数々の苦難と人としても弱さを列挙します。
このように反対者たちが自己主張し、自分を誇る態度とパウロの態度には大きな違いがありました。

さらに、28節で、パウロは日々起こってくる様々なトラブルの対応、コリントの教会だけでなくあらゆる教会についての心配ごとが日々あると言います。
29節「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」。その心はいつも彼らを思うがゆえに、弱さを覚えるほどでした。

はじめにのところで、「パウロの誇り」というものがどのようなものであるかを知るには、この「弱さ」ということがキーワードとしてあることを申しましたが。パウロが30節で言う「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と、この弱さに関わる事柄。それはまさに、パウロがコリントの教会と信徒たちのことをいつも思いやり、心配するがゆえにその身に負った弱さであったということです。その愛するがゆえの弱さを誇ろうと、パウロは言うのです。

この弱さとは単に消極的な弱さではありません。
確かにパウロは、キリストの僕として福音を伝える中で起る苦難の数々に、自分の弱さを痛感したでしょう。しかしそれだけでなく、主の御救いに与る者となった教会の信徒たちの心配事で心を痛め、平静でいられなくなってしまう自分の状態を、「弱さ」と表現したのですね。それは愛すればこその弱さです。
パウロが言うように、数えきれないほどの困難と苦難の中でもたらされていった福音の実りが、決して損なわれてはならないというその思い。それをたとえるとするなら、農夫が長いこと大変な苦労をしてやっと結実した実を台風の季節に案じるような弱さと言えるでしょう。あるいは、こどもを案じる親の弱さに近いのかも知れません。
パウロの弱さとは、そのように共に福音に与るために生じる、いわば積極的な弱さとでもいうことができるかと思います。
まあそのように言いますと、何かパウロが元々大変情が厚く、責任感があって面倒みのよい私たちとはかけ離れた存在だと思う人もいるかもしれませんが、そういう事ではありません。何度も言いましたように、パウロはキリストと出会う前は、自らの知識や律法を遵守する生き方を誇り、我こそは、と教会とクリスチャンを激しく迫害して回るような人物だったのです。
それが、キリスト、生ける救い主との出会いによって徹底的に打ち砕かれてしまうのです。
そうして自分の弱さと罪を徹底的に思い知った彼は、そこで神の弱さ、すなわち十字架につけられたキリストだけが自分の滅びの根底まで来られて、救うことがおできになる唯一のお方であることをさとるのであります。
パウロの教会と信徒への愛。その源泉は、キリストの十字架の救いにあるのです。
それは罪に滅ぶ以外ない私たち一人ひとりのため、主が肉をとってこの地上に来られ、共に生き、十字架の苦難と死に至るまで、私たち罪深い者を愛し通してくださったその神の愛です。
主イエスの十字架の苦難と死の有様は、世の人々の目からすれば自分を救うこともできない弱い敗北者でありましょう。しかし、主イエスが負われたその弱さは、まさに私たちの弱さと共にあって、共に泣き、痛みと絶望さえ共にする神の愛なのです。この愛は、神のいつくしみであり、自らも痛む合い、人の苦しみを我が身に負う愛であります。
この弱さをまとったキリストのお姿によってパウロは救いを見出し、神の愛に生きる者とされたのです。人の正義感や同情は偏りと偏見がつきまといます。弱さの中で救いを与えられた私たちだからこそ、神のいつくしみの愛に生きる者とされていきたいと、切に願うものです。

さて、続く本日の12章のところを読みますと、パウロ自ら、第三の天、楽園にまで引き上げられたという体験をあたかも他人ごとのように語り、「このような人のことをわたしは誇りましょう」と述べます。
パウロがあえてそう言ったのは、肉を誇りとする反対者たちの中には与えられた神秘的体験を誇り、売りものにするような人々もいたからです。
けれどもパウロ自身はこのような鮮烈な体験をしたにも拘わらず、「しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」と述べます。
ここでも「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇る」というのですね。
パウロはその「第三の天、楽園にまで引き上げられた体験」が自分を誇ることとなって、思い上がるようなことがないために、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは思い上がらないようにと、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」(8節)と述べます。
この「とげ」とは、人につまずきを与えるのではと思われるほど目立つものであったとか、パウロの体に耐え難い痛みを与えるような病気のことだと言われておりますが。ガラテヤ書2章からは、ある種の眼病発作を抱えていたと推測されています。
いずれにせよ、パウロはそのとげを何とか取り去って下さるようにと主に3度願ったとあります。
この3度とは、単に3回という事ではなく、再三にわたって徹底的にという意味です。それほどまでにパウロは主に祈ったのです。
けれどパウロの祈りに対する主のお答えは意外なものでした。
9節「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」十分は英語で訳せばGreatest。以前使用していた口語訳聖書には「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と訳されていますが。この完全、Perfectの方がインパクトは強いですね。いずれしましても、その力は私のうちにあるのではなく、主の力であり、主から来るその力はまさに、私のその弱さの中でこそ完全に発揮されるのだということであります。

「弱さの中でこそ完全に発揮される」この神の力の力は、ギリシャ語でデュナミス、英語でダイナマイトの意味です。それは無から有を生じさせる、そんな爆発的な力なのです。また原語の「弱さ」は「無力」という意味があります。私の無力の中に完全に発揮される神の爆発的な力。
パウロは、とげが自分の身から取り去られる事を徹底的に祈ったにも拘わらず、その思い通りになりませんでした。
これさえなければ。これさえなおればもっとよい生き方ができるのに。もっと働けるのに。さらに認められて用いられるはずなのに。人はそう考えますけれども。主はそうはおっしゃいません。
むしろ、主はパウロに、そのとげがあるという弱さの中でこそ、人の力ではなく、神の力が完全に発揮される、とおっしゃるのです。

パウロは遂にこの主のお言葉によって、「それだから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と、宣言するに至ります。
キリストの十字架の苦難と死、その神の弱さを通してもたらされた完全な救いのみ業の体験。
それは、今まさに弱っている教会とその兄弟姉妹への力強い励ましとなりました。
自らの苦しみ、弱さの中から、同じように弱さに悩み、泣く者を叱咤激励し、コリントの教会は神の前にしっかりと立ち返ります。その後大きな福音の実りがコリントの街、さらにヨーロッパ全土に結実してゆくことになるのです。
まさしく、パウロのとげ、その弱さの中で働かれる神の力によって、人知を超えた救いの御業が爆発的な力をもって起こされていくのです。

今日のところをパウロはこう結びます。
10節「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
自分は弱くて力がなくて何もできないと無力さを感じる時、十字架にかけられる無力さによってすべての人に救いをもたらされたキリストが共におられます。十字架のキリストからあふれ出る神の救いの愛は、私たちの弱さや無力さを完全に補い、充たします。さらにその弱さにこそ働いて神の栄光は顕わされされるのです。
「弱さの中でこそ完全に発揮される力」を信じ、「私たちは弱い時にこそ強い」と宣言しつつ、今週もここからそれぞれの場へ遣わされていきましょう。
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桜人企画&ZaChoo&YuKari 音楽劇・LIVE 2024.6.22

2024-06-29 08:29:41 | イベント
「世界最大の人道危機」が起こった、民族も宗教も原語も多用で複雑だけど豊かな文化のある国スーダンをテーマにお届けしました。
(桜人企画代表:馬場さくら)
ゆかり☆ゴスペル&のZaChoo(beatbox) ;One.Crossover コンサートを
お届けしました。

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2024/6/30 主日礼拝式(神学校週間)

2024-06-27 06:13:01 | お知らせ

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神の恵みによって

2024-06-23 18:26:27 | メッセージ
礼拝宣教 Ⅱコリント8章1-9節、9章6-8節 

本日の6月23日は「沖縄慰霊の日」、私たちはこの日を「命どぅ宝の日」として覚えております。その主旨については週報の巻頭言に書いております。
沖縄戦の惨禍を心に刻みつつ、今の現状のことを心に留め、沖縄をはじめ、世界各地で起こっている戦争と紛争の即時停戦のために続けてお祈りください。
さて、私たちの日本バプテスト大阪教会は日本バプテスト連盟に加盟しています。全国には315のバプテスト連盟の諸教会と伝道所があります。その中で関西地方には36の関西地方教会連合に連なる教会と伝道所が協力関係をもっています。この関係は何か教団教派から指示を受けるというトップダウン方式ではなく、それぞれの教会がバプテスト連盟とつながりながら、互いに覚え合い、祈り合う関係を大切にしているのです。それは教会が風通しよく健全な信仰が保たれるため、また課題や問題が生じた時の助けともなります。また1つの教会では世界伝道や献身者を世に送りだす働きは難しいことですし、災害等に対応した慈善の活動も大きなことはできません。それが連盟や連合のつながり、ネットワークを活かして実現され、継続されていることも、うれしいことです。

本日は久しぶりにスティブン・クンケルさんが来会されました。現在は正式に宣教師となって日本の地に再び遣わされて、東京を中心にそのお働きなさっておられます。今日は何とご両親と共にこの礼拝にご出席くださいました。心から歓迎いたします。お父様は南部バプテスト宣教団の派遣宣教師として40年間以上南米の3カ国において尊いお働きをなしてこられました。私たちのこの大阪教会は、1950年、今から74年前、アメリカ南部バプテスト宣教連盟のギレスピー宣教師はじめ、貴連盟の諸教会からの尊い献げものによってこの天王寺の地における伝道が開始されました。そうしてこの地に初代の教会堂が献堂されたのです。ました。まさに、その南部バプテスト連盟の方々によると祈り、その尊いご支援と献金によって、今があるということを感謝しています。

本日読まれました箇所は、当時貧しかったエルサレム教会のことを覚えて、異邦人の諸教会が自主的に献げ物を募り、支援して来たその報告と、その献げものについてのお勧めの記事です。
こうした教会相互の支援は、申しましたように私たちの教会が受けて来たものであり、私たち教会の信仰の先達はじめ、私たちも献げてきたものであります。福音の恵みはこのように多くの人の祈りと献身、奉仕や献げものを通して受け継がれてきたのです。
パウロはまず、コリント教会の信徒たちに対して、この働きをどのように励むべきかを示すために、マケドニア地方のフィリピやテサロニケの諸教会がエルサレム教会に行っていた支援を紹介します。
その8章1-6節で、パウロはその働きを「神の恵み」「神の業」なのだと言っています。慈善の業と訳されているのは、正しくは恵みの業です。
2節には、「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです」とありますが。
この「貧しさがあふれ出る」とはどういうことでしょう。
このマケドニアの地方は、肥沃な土地に豊かな天然資源に恵まれた地域であったのですが。当時ローマ帝国の支配下にあったため、人々はすべての資源を採取する権利が奪われるなど搾取され、貧しい生活を余儀なくされていました。又、政治的な迫害を受け、過大に税をかけられていました。さらに、キリスト教会の信者たちはそれらに加えてユダヤ教徒たちからの迫害を受けていたのです。
それにも拘わらず、彼らは「満ち満ちた喜び」が「あふれ出て」、「惜しまず施す豊かさとなった」。そこには、試練や極度の貧しさの只中でこそ、共におられるキリストを見出した人たち、「神の国」に属する人たちがいたということです。
豊かな中から溢れ出てというのは、誰でもわかります。けれども、困難や貧しさを知るからこそ、、あふれ出る。これが「神の恵みによる」豊かさであります。
その豊かさによって、同じく激しい苦しみと貧しさの中にあったエルサレムの教会と神の恵みを分かち合おうとするマケドニアの諸教会。常識的に考えますと、貧しく困難もあれば他者のために、何ができるとは思えません。けれども彼らは神の恵みによる福音の力に満たされて、同胞の痛みや苦しみにも思を寄せることが出来た。彼らは真の豊かさを見出す者となったのです。
彼らの豊かさについてパウロはこう述べます。
9節「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」
イエス・キリスト御自身が私のために貧しくなられた。この恵みを覚えるたびに、私たちは豊かな者とされていることを思い起します。

ここに、マケドニアの諸教会の献げものは、「人に惜しまず施す豊かさとなった」とありますが。
この「豊かさ」も献金の額が大きいとか、多額であったということを意味するものではありません。
マルコ福音書12章で、レプタ2枚を献げた貧しい女性に対して、イエスさまは「他の誰よりもたくさん献げた」と言われました。それは、自らを献げるその心をご覧になったからです。
フィリピ2章には、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と記されています。
キリストは、しもべ(僕)となって神と人とに仕え、最期は人の罪をすべてその身に背負い十字架で死なれたのです。主が自らを献げ尽くされたので、神の前にすべての人間の罪は赦され、贖われたのです。
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。
この神の御子、イエス・キリストのお姿こそ、本物の尊い献げもののであり、大いなる恵みの豊かさそのものです。
マケドニアの諸教会の献げもの、その豊かさはまさにこのキリストが十字架を通して与えて下さったはかりがたい大きな愛から溢れ出たものであったのです。感謝と喜びは尽きることなくあふれ、欠乏している兄弟姉妹や諸教会に分かち合われていきます。

また、マケドニアの諸教会の信徒たちは3節にありますように、「自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願った」と、パウロは述べます。
それは強いられてそうしたのではなく、むしろ自ら進んで、願い出たのです。
そこで重要なことは、5節にあるとおり、「彼らはまず主に、献げた」ということです。
ローマ12章でパウロは「自分の体を神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として献げなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」と述べたように、その基盤となるのは、主なる神を礼拝するということです。旧約聖書のネヘミヤ記8章には「主を喜び祝うことこと、あなたたちの力の源である」と記されてありますが。
まず、神への礼拝から、マケドニアの信徒たちは、「神の御心にそって」、苦しみと貧しさの中にあったエルサレム教会と同信の友のために自分自身を献げたのであります。

さて、パウロはそのマケドニアの諸教会の献げものを例にして、コリント教会の信徒たちに勧めしました。
実はコリントの教会も貧しいエルサレム教会を支えるための献げものについては、8章10節にあるように、願いつつも、どうもそれが途中で頓挫していたようです。
そこで、パウロはコリントの教会に、同労者であったテトスを派遣し、それを「やり遂げるように」と勧めをなしたのです。
それは先に読まれました9章にまで続きます。
パウロはコリント教会の信徒たちに次のように語ります。
9章6-8節「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」。
この刈り入れとは福音の実りであり、救いの収穫です。キリストは神の国の収穫のため、1粒の種として地に落ち、死なれました。
「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆるよい業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」。アーメン。
この「わずか」とか「豊か」というのは、分量の多い少ないかを言っているのではありません。
献げものが少ないのはいけないとか、それが多いから良いということではありません。ここで戒められているのは、額の事ではなく、物惜しみする心です。
「豊かに」というのは、多額の献げものを勧めているのではなく、物惜しみしないで神が喜ばれる出来事につながるようにと、心から献げる勧めです。
8章4節によれば、具体的には福音の拡がりとそのための働き、人の支援や活動のためであることが4節に記されています。その献げものは慈善の業や奉仕でもあります。バプテスト連盟、またバプテスト女性連合、バプテスト壮年会連合、そして関西地方教会連合ではそのような協力伝道や献身者の支援、また海外への宣教師の支援、また震災支援の活動などもそうした働きであります。
それらすべては、「受けるよりは与える方が幸いである」との御言葉の豊かさに、私たちが共に与る喜びを見出しているからにほかなりません。
マタイ6章21節には、「あなたの富みのあるところに、あなたの心もある」ともイエスさまは語られています。私たちの心と富はどこにあるのでしょうか。主が語られた豊かさ、祝福に与る者とされたいと願います。
今日の9章8節に、「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」
神さまは、私たちに必要なものをご存じであり、その必要を備え与えてくださいます。私たちを豊かに祝福し、あらゆる善い業に満ちあふれさせて下さる方を賛美します。

本日は、神の恵みに与った人たちの自発的献げもについて聖書から聞いてきました。
私たちのこの尊い命をはじめ、からだ、持てるもの、すべては創造主なる神さまから与っているものです。何よりも罪に死んで与えられた新しいいのち、ニューライフは、救い主なるイエス・キリストから賜ったものです。それは私たちが自我のため、私利私欲のために生きることから、自分たちのために死んで復活して下さった方の御心に生きる人生です。
神を愛し、他者を自分のように大事にするために戴いている「神の恵み」に感謝しつつ、日々励んでまいりましょう。
お祈りします。
「天の父よ、今日もこうして主を礼拝できます幸いを感謝します。私たちバプテストの群れは協力伝道とそのつながりを通して起される相互の主にある交わりを大切にしてきました。本日は沖縄の人々がうめきをもって願う、命と平和の祈りを共にしています。差別や偏見、誹謗中傷がどれほど命と社会をむしばんでいるでしょうか。かつては琉球王国であった沖縄の歴史から、それを顕著に知らされます。それは沖縄にのみならず、天地創造の神であられるあなたがお造りになった世界、そのすべての人の大きな課題です。すべてを統治しておられる主であるあなたを畏れ、あなたに立ち返り、その教えと戒めに聞き、従い、命と平和、和解に努める世界となりますように祈り願います。
また、聖書から「神の恵みによて」共に生きる豊かさを覚えました。今在る恵みは、あなたの救いとともに、その救いに与る方々の祈りと献身、奉仕や献げものを通して与えられていることを忘れることなく、不平や不満を退け、感謝をもって自らも分かち合う喜びで満たしてください。
救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン




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2024/6/23 主日礼拝式

2024-06-22 07:54:34 | お知らせ

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新しく創られた者として生きる

2024-06-16 19:11:17 | メッセージ
礼拝宣教  Ⅱコリントの信徒への手紙5:16-21 
                                                    高田ゆかり(平野バプテスト教会派遣伝道者)

私は平野区にあります、平野バプテスト教会の会員で高田ゆかりといいます。私の夫は3月まで平野教会の牧師でありましたが、体の不調の理由から3月いっぱいで牧師を引退しました。私は38年間牧師の連れ合いとして過ごしてきましたが、この4月から派遣伝道者として用いていただいています。派遣伝道者って何?と思われると思いますが、今日のように牧師がご用で不在だったり、ご病気だったり、休暇だったり、また無牧師の教会などに派遣されメッセージを語るという働きです。まだなりたての新米のほやほやです。今から約40年前に神学校を卒業し、長い長いブランクを経ての働きになりますので、いろいろ不十分な点はあるかとは思いますが精一杯務めたいと思います。
新しい年度が始まって2か月と少し経ちました。私の在籍する平野教会では先月やっと総会も終わり、もうすぐ新しく赴任される牧師を迎えようとしています。そして今年は創立50周年を迎える年なのです。50周年というだけで何かソワソワするようですし、新しく牧師先生をお迎えするという事も重なって、周囲の全てが新しくなったような気もします。が、しかしそういう気がするだけで、実は昨日と今日とでは何も違ってはいないのです。私たちが生きる現実はあまり変わることはありません。私たちが日ごろ背負っている重荷、苦しみ、悲しみは無くなる事もなく日常は続いているのです。
「古いものが過ぎ去り新しいものが生じた」今日の聖書の個所のように、こんな風に声高らかに言えたらどんなにいいでしょうか。しかし、パウロがこのように言っているのは、彼を取り巻く周囲の状況がすべて順調だったからではないのです。何かが一新されて変わったからでもありません。それどころか、パウロを取り巻く状況はとても厳しいものでした。パウロに大変批判的だった人もいましたし、陰口をいう人もいましたし、散々な目にあうことも多く大変に苦労したようです。

今日の聖書の個所、16節前半をお読みします。「それで私たちは今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」
それで、とありますように16節は、前の文章を受けて記されています。16節の前、14-15節で、パウロはこう記しています。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」とあります。私たちは自分自身のためだけではなく、私たちに代わって死んで復活された方のために生きるものとされた、このように考えると、今後は誰をも肉に従って知ろうとはしない、このようにパウロは記しているのです。自分のためではなく、自分に代わって死んで復活された方のために生きるキリスト者は、人を評価する基準も変わってくるということです。肉に従ってとは、人間的な基準によってということです。パウロは今後だれをも肉に従って知ろうとはしないと記しましたが、これは積極的に言えば今後はだれをも霊に従って知ろうということであります。このことは、パウロがコリントの信徒たちをどのような者として知っていたかを考えるとわかります。肉に従ってコリントの信徒たちを判断するならば、彼らは決して聖なる者たちとは言えませんでした。
コリントの信徒への手紙の第一を読むとよくわかるのですが、イエス様が世を去ってから20年以上もの月日が経った頃の教会は様々な主張が入り乱れ、派閥ができ優劣を競いあっていました。パウロを中傷する者もおりましたし、信仰の弱い人につまずきを与えるような人たちもおりました。十字架の言葉ではなく人間の能力や知恵を誇り、そして崇拝するようになっていったのです。そのような問題だらけのコリントの信徒たちに、パウロはなんと言ったでしょうか。「あなたたちはそれでもキリスト者か、キリスト者失格だ」などとはいいませんでした。パウロはコリントの教会にこのように書き記したのです。
コリントの信徒への手紙第一1章4節-9節まで少し長いですがお読みします。
「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証があなたがたの間で確かなものとなったので、その結果あなたがたは賜物に何一つ欠けることころがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招きいれられたのです。」とあります。
なぜ、パウロは問題だらけのコリントの信徒たちにこのような言葉を書き送ったのでしょうか。それは、パウロがコリントの信徒たちを肉によってではなく霊によって知ったからなのです。パウロはイエス・キリストを信じない人たちを肉に従ってではなく、霊に従って知ろうとしていたからです。パウロはイエス・キリストを信じない人たちの行き着くところは滅びであることを知っていました。ですからパウロはだれよりも熱心に福音を宣べ伝えたのです。

今日の聖書の個所に戻ります。「古いものは過ぎ去り新しいものが生じた」パウロのこの言葉は先ほどもお話したようにパウロの取り巻く状態が改善されたので言ったわけではありません。17節に「だからキリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」とあります。キリストと結ばれる、そのことによってわたしたちは新しく創造された者となる、そこにパウロのいう新しさがあるのです。キリストと結ばれる、以前の口語訳聖書では「だれでもキリストにあるならば」となっていました。キリストにある、キリストに結ばれる、これはどういうことでしょうか。キリストにある、これは英語で言うと、「イン クライスト」キリストの中にあるという言葉です。キリストの中に包まれる、すっぽり入ってしまう、こんな感じでしょうか。パウロは今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。パウロはキリストの中にあって、中からキリストを知るというのです。反対に外から知るというのは、それが「肉に従って知る」ということです。人間としての、目に見える外面的なところにおいてのみキリストを知ることです。パウロ自身も以前はそのように肉に従って外からキリストを知っていたのです。それは、ダマスコへ向かう途中で復活された主イエスとの出会いがある前のことです。それまでパウロは救い主メシアとは、昔のダビデ王のようなイメージ、イスラエルの民のために勇敢で異邦人である敵を打ち破る、イスラエルに繁栄をもたらす英雄としてのキリストのイメージでしょうか。
そして人間の基準でキリストを評価し、その弟子たちを迫害していたのです。そして、それはまたイエス・キリストを信じない多くのユダヤ人たちもそうでありました。イエス様は最高法院によって神を冒涜する者と判断され、ポンテオ・ピラトの手に引き渡され十字架にかかり死なれました。十字架につけられた者は神に呪われた者と考えられていました。旧約聖書の申命記21章22節にこう記されています。
「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない」とあります。パウロは、神様に呪われて死んだ者が、約束のメシア・救い主であるはずがないと判断して、十字架につけられたイエスは、救い主メシア、キリストであると主張する人たちを、パウロはそんなことは救い主キリストの栄光を汚し、神様を冒涜する教えで許しがたいと思い、そのように信じて宣べ伝えている教会やキリスト者たちを迫害していたのです。つまり、パウロはサウロと言われていた当時、キリストのことを自分は知っていると思っていた、キリストはこんな方だというイメージを抱いていたのです。少なくても木の十字架にかかって死んだ、こんな方ではあり得ないという確信を持っていたのです。しかし、その知り方がまさに、肉に従っての、外からの知り方だったのです。しかし、そのパウロが肉に従ってではなく、霊に従ってイエス・キリストを知ることになるのです。
そのことが使徒言行録の9章に記されています。1節-9節までをお読みします。「さてサウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら男女問わず縛り上げエルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいた時、突然天からの光が彼の周辺を照らした。サウロは地に倒れ「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」呼ばれる声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。」「わたしはあなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。 このように彼は、ダマスコの途上において、復活された主イエスと出会いました。そしてその後パウロは肉に従ってではなく、霊に従ってキリストを知るものとされ、そしてキリストを宣べ伝える使徒として召されていくのです。キリスト者を迫害していた者が一転してキリストの伝道者となったのです。十字架にかけられた主イエスこそまことのキリスト、救い主であられる事を示していったのです。その時彼は、キリストについて、救い主について、全く新しい知り方を与えられました。自分の思いによって、自分の考えや、期待や、望みによってキリストを理解し、判断し、知るのではなく、むしろ神様ご自身の思いによって、そのみ心を内側からキリストを知るようになったのです。その時パウロに何が見えてきたでしょうか。それをパウロは14、15節で語っているのです。「わたしたちはこう考えます。一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んで下さった。その目的は生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」
「一人の方がすべての人のために死んで下さった」主イエスは私たちすべての者のために死んで下さった救い主であられる。そのことが見えてきたのです。そして、主イエスが私たちのために死んで下さったことによって、私たちも死んだ、それは、私たちももう生きられないのだということではなくて、古い自分が死んで、主イエスが復活されたその復活の命にあずかる新しい自分を生きるということです。そのために主イエスは死んで下さったのです。この主イエスの十字架と復活によって、私たちは「もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」者とされている。それが新しい自分です。つまり、私たちは、私たちのために死んで下さったキリストによって新しく生きる者とされたのです。このキリストを知ること、それが肉に従ってではなく、キリストと結ばれる者として、キリストの中にある者としてキリストを知ることです。それによって、私たちは新しく創造された者となる。古いものは過ぎ去り新しいものが生じたというのは、このことを言っているのです。このことにおいて働いているのはキリストの私たちへの愛であり、キリストを遣わして下さった神様の愛であります。
私たちは、この神様の愛に包まれていて、その中で生かされている、それがキリストと結ばれる、キリストの中にあるということです。このキリストの愛に包まれることによって私たちは、新しくなるのです。自分のために死んで復活して下さった方のために生きる者となるのです。それは具体的にどういうことか、それが18節にこのように語られています。
「これらはすべて神から出ることであって」これら、とは私たちが霊に従ってキリストを知る者とされたこと、また私たちがキリストに結ばれて新しく創造されたことをさしています。これらはすべて神様がして下さったことであるのです。その神様がキリストを通して私たちをご自分と和解させ、和解のために奉仕する任務を私たちに授けられたのです。
神様が示してくださった和解は、神様の側からの一方的な行為、十字架の死という形でなされました。私たちの罪のために破れてしまっていた関係を回復して下さったのです。神様が和解の手を差し伸べて下さっているので、私たちはそれを感謝して受け取ることができるのです。和解という言葉でここで大切なのは、先ほども言いましたように、神様が人間の罪を何ら問うことなく示されているものであるということです。お互いに争いやもめごとがあった時に、歩み寄ったとか、譲り合ったとか、妥協しあったとかいうものではありません。神様と人間がお互いに非を認めて歩みよるこういうことではありません。全くの神様からの一方的な行いなのです。パウロは「神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられた」と記しています。私たちはイエス・キリストによって新しくされ、神様との和解を与えられたことによって、その和解の言葉を携えてそれぞれの生活へと、そこで出会う人々のもとへと遣わされていくのです。「古いものは過ぎ去り新しいものが生じた」とはこのことです。新しいものが生じたといっても、最初にも少し申し上げたように、私たちが生きている現実は大きく何か変わるわけではありません。負っている苦しみはなかなか無くなるわけではないし、急に豊かにされる訳でもありません。しかし、その中でも私たちは確実に新しくされていくのです。和解の使者として遣わされる私たちができることは、一所懸命に良い行いをするように努力するとか、勉強して資格を得るとか、そういうことではありません。ただ、主イエス・キリストが私のために死んで復活して下さったことを信じて、この方のために生きる、そのことです。和解の言葉を委ねられて、和解の使者として生きるなんて難しそうに聞こえるかもしれませんが、キリストの中にあるものとして、その愛に生かされている事を知るものとして、他の人々のことを見つめていくこと、キリストがこの人のためにも死んで下さった、そしてこの人のためにも復活して新しい命に生かそうとしておられる、そのことを常に覚えて人と接していく、そのことです。そして、それが誰をも肉に従って知ろうとしないということです。
そして和解のために奉仕するとは、この和解の言葉が公に語られるこの礼拝こそが和解のための最もたると言えるのではないでしょうか。ですから、今日こうして礼拝をご一緒しているみなさん、またここに来ることは出来なかったかもしれませんが、礼拝を覚えて祈り支えて下さる方々、お一人お一人が和解の言葉を委ねられたキリストの使者として、それぞれの生活の場に派遣されていくのです。
どうぞ、この新しい一週間が主によって愛されていることを実感する時がありますように。誰かとの出会いの中でその方を思う時、この方のためにもイエス様の十字架の出来事があったことを思い出せますように。何も良いことはなかった、体や心の不調があった、その時にその苦しみの中であなたのその苦しみを一緒に味わって下さった主の存在を知る時がありますようにと心から願います。
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2024/6/16 主日礼拝式 宣教 高田ゆかり(平野バプテスト教会派遣伝道者)

2024-06-15 07:48:11 | お知らせ

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不安な道から勝利の道へ

2024-06-09 13:12:10 | メッセージ
礼拝宣教   Ⅱコリント2・12-17 

先週も申しましたが、パウロはコリントの教会との間に様々な問題を抱えていました。その後もコリント教会の状況は改善されず、パウロ不在の中、さらに大きな問題をコリントの教会は抱え深刻な事態になっていました。パウロはコリント教会への訪問を願いました。しかし自分がそこに行くことによって、さらにコリントの教会との関係が悪化するかも知れないと悩んだ末、苦渋の選択として彼はコリント教会への訪問を控えます。その代わりに「涙ながらに」書いた手紙を同労者のテトスに託し、彼をコリントの教会へ遣わすのです。
7章8節によれば、パウロは「コリントの教会の信徒たちを苦しめた」と、自ら認識していました。
その手紙はコリントの信徒たちには大変厳しいものであったからです。
パウロはコリントの教会の信徒たちの反応、その状況が気がかりでならなかったのです。
パウロはこの頃エフェソにおりましたが、キリストの福音を伝えるためにトロアスに向かったとあります。そのトロアスで、コリントから帰って来るテトスに会えるのではないかと考えたようです。しかしそこではテトスに会うことができませんでした。パウロは不安な心を抱えながらトロアスを後にして、マケドニアに向かうのです。コリントに近いマケドニアであれば、もっと早くテトスに会えると期待したからです。まあ、それだけこの時のパウロの心はコリントの教会の信徒たちのことでいっぱいであったことがわかります。

ところが次の14節では、そのパウロがまるで長いトンネルから脱け出たかのように「神に感謝します」と、主をほめたたえているのです。
一体何があったのでしょうか?
その経緯について今日ところには書かれていませんが、パウロはマケドニアで悲願のテトスと再会し、コリントの教会に関する大変うれしい報告をテトスから受けたのです。
そのことを記した7章5-9節をお読みします。

そのようにコリントの教会の信徒たちの多くがパウロの心意を受け取り、「悔い改め」(7:9)、パウロを慕い、パウロのために嘆き悲しんでいた(7:7)。
この報告を受けたパウロは、慰めと喜びに溢れるのです。パウロはテトスと手をとり合って喜び、コリントの信徒たちのことを思い浮かべつつ、共に神に感謝をささげ、主をほめたたえました。そのパウロの気持ちは、この第二の手紙を通して、きっとコリントの教会の信徒たちに伝わったことでしょう。
ずっと不安があった、苦しみがあった、悩みがあったパウロ。しかし、それが喜びと平安に変えられるのです。
苦難の中で体験した「神の慰め」については先週の1章に書かれていましたが。パウロはこの2章で、これまでの不安に対する「キリストの勝利」をほめたたえ、神に感謝します。神は慰めの神であるだけでなく、不安からの勝利をもたらされるお方なのです。その「勝利の行進の列にわたしたちをいつも連ならせてくださる」(14節)というのです。
それは世の戦勝パレードとは全く異なります。パウロは争って勝つことを勧めているのではありません。戦争にせよ人間関係にせよ、争いは勝っても負けても、双方に深い傷跡を残します。又憎悪が憎悪を生んで数え切れない悲劇が起こって来たことを、私たちは知っています。

では、私たちはどのように戦い、どのように勝利を得るのでしょうか。キリストはどのように戦われたのでしょうか。それは神に信頼し、従うことによってです。
この「キリストの勝利」は、十字架を通して実現されました。
パウロが書き送った第一の手紙1章18節にはこうあります。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
パウロは人の言葉の知恵によらず、「神の力、神の知恵」であるキリストの十字架の救いを伝えました。イエス・キリストの十字架の死は失敗だと考える人たちもいたでしょう。それはローマ帝国が奴隷の反乱を防ぐために長時間十字架に架け、苦しみながら衰弱死するのを見せしめにする、そんな残酷な刑具であったのです。
それを知る者にとっては、十字架刑による無残な死を遂げた者が「神の子」だというのは到底ありえないことであり、それが「神の救い」と言うのは実に愚かとしか思えないことであったのです。
殊に律法や行いによる救いを願い、それを守ってきたユダヤ人にとっては、旧約聖書の「木に架けられた者は呪われる」という言葉そのもののイエス・キリスト、十字架の死でありました。
しかし、そのイエス・キリストの十字架の死は、すべての人間の罪の代償であったのです。
そのあがないのため主は人の呪いをその身に負われました。これこそ神の救いの御業であったのです。パウロは「十字架の言葉は・・・わたしたち救われる者には神の力です」と言うのですね。
まさに2000年を経た私共も、そのキリストの十字架を通して救われているわけであります。

パウロは1章21節で「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」と書いていますが。それもキリストの十字架を語ることが、多くの人にとって愚かに見えたからです。知恵を探す異邦人には愚か、しるしを求めるユダヤ人にはつまずき以外の何ものでもなかったからです。                         
それにしても彼はどうしてそこまで「十字架のイエス・キリスト」の宣教にこだわったのでしょうか。パウロ自身キリストと出会う前はユダヤ人の宗教・学問におけるエリートとしての人生をひたすら歩んでいました。選民としての自意識とともに、神のために働くという誇りと自負を強く持っていたのです。
しかしその自分の知恵や能力、誇りというものが、キリストの信徒に対する排除と激しい迫害行為に向かわせるのです。そういう中、彼はダマスコの途上で「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか。わたしはあなたが迫害している主である」と、復活の主の御声を聞くのですね。
パウロは「神のため、神のために」と、その熱心さと強い誇りと使命感によってキリスト教会と信徒たちを激しく迫害してきたことが、実は彼が熱心に信じ従ってきた神の御子を迫害していたことを知る事になるのです。この自分こそが神の子イエス・キリストを十字架につけ、殺害した罪人なのだという認識にいたるのです。神の愛の前に彼は罪を深く悔い改め、回心し、180度方向転換したパウロは、この神の恵みに応えて生きるキリスト者となります。そしてユダヤ以外の異邦世界に福音を告げ広めていく使徒として、貴い働きをなしていくことになるのです。
実に、パウロは自らの罪とその救いを経験するのですが、その柱は「キリストの十字架」であり、この十字架を通して「神は勝利された」とパウロは証言するのです。

キリストの十字架は私たちの価値観や世界観に問いかけてきます。
人はどうしても目に見えるものばかりに重きをおいてしまいがちです。実績や富を築き、社会的成功を修めた者が勝利者だと考える人は多いでしょう。また、能力主義に陥って人の価値を決めていないでしょうか。
ところが、キリストは勇ましい軍馬にではなく、柔和なろばの子に乗って来られ、へりくだりと弱さによって勝利なさったのです。神の栄光は、イエス・キリストの苦しみと死を通して示されましたが、そのイエス・キリストに神は復活の勝利を与えられたのです、

ここでパウロは「神が、そのキリストの勝利の行進に、いつも私たちをも連ならせ、私たちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」と書いています。
「キリストを知るという知識」とはキリストの十字架とその救いです。神はそのキリストの香りを私たち通して至るところに、漂うよう用いてくださるのです。
それはキリストを信じ、キリストに従って神の愛といつくしみに生きようとする人たちです。そのような信徒たちを神は用いて、キリストの香りを放ってくださるのです。逆に、相手の気持ちを考えず、自分の考えを押しつけようとしたり、自分の先走った思いで人を従わせようと、いわば上からの目線で力み意気込むことで、かえってキリストの香りではなく、人工的な臭いがふりまかれる事になりかねません。
香りといいますと、香水や体臭を消すオードトワレは思い浮かべますが、これは化学物質によるマスキングで一時的によい香りがするかも知れません。その香りは人によって好みがあります。また嫌な臭いが消せても一時しのぎに過ぎません。しかし「キリストの香り」は神の愛といつくしみによって心砕かれ、謙虚にされた者の中から漂うように溢れいで、それは尽きることがありません。そこには聖霊の豊かなお働きが伴ってくださいます。

コリントの教会の信徒たちは、パウロの厳しい進言と勧告を、自らの事として吟味しました。一時的な悲しみや痛みを伴いましたが、謙虚に受け入れて神の前に謙虚に悔い改めました。この出来事を通して聖霊が教会の中にキリストの香りをもって臨まれます。
信徒たちは神の慰めといつくしみに包まれたことでしょう。
確認ですが。パウロはキリストの香りがこのようなものであると語ります。
それは第1に「キリストを知るという知識の香り」(14節)だということ。第2に「神にささげられる良い香り」(15節)であるということ。そして第3に「救われる者には命から命に至らせる香り」(16節)であるということです。
私たちも又、キリストの十字架による勝利の行進に連なりつつ、このような主の愛といつくしみの香りが漂う道を歩み通してゆきたいと願います。

今日の箇所の最後に、パウロはこう書き記しました。
「わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています」。
先ほど7章の一部を読みました。さらに8節-13節をお読みしいたします。
パウロには大きな不安がありましたが、率直にコリントの信徒たちの間違いや過ち、その罪をまっすぐに伝えました。そこには救いに通じる悔い改めを願う祈りがありました。その結果どうでしょう。そのパウロの熱い思いは伝わるのです。彼らが今一度、救いの主と向き合い、立ち返った時、キリストの香りがコリントの教会の信徒たちのうちに満ち溢れ、漂うようになったのです。こうしてパウロが抱えていた不安もキリストの勝利に与る平安に変えられるのです。
私たちひとり一人も、キリストの香りを放つ福音の証し人とされてゆきたいものです。
主にあって、この礼拝から今週もキリストの香り漂う者として歩み出してまいりましょう。
お祈りします。
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2024/6/9 主日礼拝式

2024-06-08 06:52:03 | お知らせ

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苦しみを共に、慰めを共に

2024-06-02 15:00:51 | メッセージ
礼拝宣教    Ⅱコリント1・1-11 

本日よりコリントの第二の手紙から御言葉に聞いていきます。
復活のキリストと出会い、救いに与ったパウロ。彼はユダヤ人以外のいわゆる異邦人に向けた福音の伝道者として神によってたてられ、キリストの使徒として働きます。聖書の後ろに付録として地図がいくつかありますが。その中に「パウロの宣教旅行の2、3」回目の旅程が記された地図がございます。パウロはその2回目の伝道旅行の際に、アテネを経由してコリントに着き、そこに約1年半滞在し、コリントの教会の基礎をつくりました。パウロはそこで教会が建てあげられていく上で重要な働きをなしたのです。
コリントは商業で栄え、種々な文化が入り混じり、繫栄しました。が同時に倫理的な心の荒廃を招き、諸々の問題を抱えていました。それはコリントの教会と信徒たちも決して例外ではなく、多くの問題を抱えていたのです。
先週まで第一の手紙を読みました。そこには教会の分派が生じ、分裂が起こっていたこと。偶像に供えた肉に対する論議で、弱い立場におかれていた人たちが痛んでいたこと。又、キリスト者として解放され自由になったことをはき違えて、放縦な生活をしていた人たちがいたこと。さらにそのような人たちは、パウロの教えに反発して言い逆らい、パウロを厳しく非難中傷しました。

そのようにパウロとコリントの教会との関係が悪化する中で、最初に書き送られたのが先の第一の手紙です。その後もコリント教会の状況は改善されず、パウロ派コリント教会への訪問を願うのですが。自らが行ってさらに関係が悪化するかも知れないと、苦渋の中で訪問を控えました。
それは第2の手紙2章4節にあるように、「悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに書き」送ったと記されているおりです。
そうするうちにコリントの教会の信徒たちの多くは、パウロが書き送った手紙によって、自分たちがいかに傲慢であったかに気づき、神の前に深く悔い改めます。けれども、そこには痛みが伴っていました。何らかの処罰があったのです。
それらの出来事を伝え聞いたパウロは今日の第二の手紙をコリントの教会に書き送るのです。
その2章6-7節では、パウロとコリントの信徒との関係を損なわせた「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、許して、力づけるべきです。ぜひともその人を愛するようにしてください」と助言をしています。この言葉にはキリストの愛と赦しが溢れ出ている思いがいたします。パウロはコリントの信徒たちとの関係を愁いながらも、キリストの恵みと平和が満ち溢れるよう真心から願い祈っていたのです。
 本日は1章1-11節が読まれましたが。
パウロはここでまず、慈愛に満ちた神、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますようにと、「慈愛と慰めの神」を賛美しています。また2節では、「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と、とりなしの祈りが記されています。
人間同士の分裂や不和の最中でさえ、「平安と和解」を与えて下さる「憐みと慰め」の神。
それは教会のみならず、昨今の戦争や紛争の火種がつきないこの時代の中でも、4-5節「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」アーメン。
私たちはだれも、世にあって様々な苦難の時があります。そこで神の慰めにあずかることが出来るというのはまことに幸いなことです。

先日、ある方が「私は苦しい時、神こう、なぜか」と、つっかかるように暴言を吐いた。けれどそれは、神が決して私を見捨てたりなさらないということを心の底の方で信じていたからだった。そこに神から戴く慰めがあった。今はその神さまの慰めによって兄弟姉妹たちを慰める思いでいる」と証ししてくださいました。
キリストは苦しみを通して、この私の苦しみを知ってくださっている。その共にある慰めを覚えるたびごとに、私たちの慰めもキリストを通して満ち溢れていくのです。いつくしみ深い主を賛美します。

さて、8節「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました」。
彼は自分が受けたキリスト者であるが故の苦しみについて述べます。
使徒言行録の中には、パウロが経験した多くの試練が記されています。この第2の手紙の11章にも、それらが具体的に書かれております。それはパウロの信仰を圧迫し揺り動かすほどの経験であったことは確かです。
コリントの信徒も又、様々な苦しみがありました。しかし、それもキリストを信じ、キリストに望みをおいていたキリスト者であったからです。
新約聖書の他の箇所にも、初代教会のキリスト者が経験した苦しみについて、暴動による妨害(使徒17,19章)、法廷での偽証(Ⅰペトロ4章15-16)、投獄(ヘブライ13:3)、家庭の崩壊や仕事の妨害(ヘブライ10:32-24)等が書き記されています。
日本においてもキリスト教が伝えられるようになった16世紀以降、どれだけ多くのキリスト者が迫害に遭い、殉教を遂げてきたことでしょう。
神はすべてをご存じであり、歴史は証明します。そうしたキリスト者の苦難の中で、神は生きておられ、キリストの救い、その慰めと平安に満ちた福音が、聖霊の導きを通して私たちキリスト者を生み出していることを忘れてはなりません。
パウロが言ったように、キリスト者として苦しむ度に「神は慰めてくださる」。それは安っぽい口先だけのものではなく、「キリストの苦しみ」、その深い神の愛といつくしみによるのです。
この神の愛による慰めは先ほども申しましたように、私たちの内側から溢れ出て、5節「わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」。まことに、まことに、アーメンです。
それは何か人が立派だからというのではなく。私たちの内に働く神の愛と慰めによるのです。

最初にも触れましたが。パウロはコリントの信徒のことで悩み苦しんでいたところから、彼らに向けて手紙を書き始めたと思われます。しかし、パウロ自身そのキリスト者としての苦しみや悩みを通って、苦難は感謝へと変えられる経験をしてきたのです。パウロはコリントの信徒たちにもこの苦難は感謝に変えることのおできになる慰め主なる、神を知って貰いたかったのです。

パウロも8-10節で、「耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。死の宣告を受けた思いでした」と正直に心のうちをさらけ出します。使徒パウロほどの人物が、それほどまでの弱さや無力さに直面していたのです。
けれどパウロは記します。「それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださいましたし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」。
彼は自分を頼りにするのではなく、死者を復活させてくださる神を頼みとするように導かれ、変えられるのです。彼は自分の受けた慰めが「キリストの死から得た命」だと、言い表します。
キリストの死と復活が私と共にある。それを真実として受けとめることができたのは、元気で、問題もない時よりも、むしろ苦しみや行き詰まりを覚える時ではないでしょうか。

最後に、本日は7節の「あなたがたについてわたしが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです」という個所から、「苦しみを共に、慰めを共に」という題をつけさせて頂きました。苦しみは出来れば避けたものです。それは人として当然の思いです。
しかし、それは時に避けられないものとして起こってくることがあります。パウロと共に福音伝道に務め励んだ仲間たちも、そのような苦難の中にありました。しかし、パウロの痛みと苦しみを知って苦しみを共にしてくれたコリントの兄弟姉妹がいたのです。彼らもパウロと同様、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神に信頼し、神を頼りにして慰めを得る人たちでした。
苦難とその苦しみをすでにキリストが共に負い、共に苦しんでいて下さる。復活の命の希望によって生かして下さる。それはどんなに大きな慰めでしょうか。
そして、私たちも又、それぞれに苦難を経験する時、慰めを共にしてくださる主にある兄弟姉妹が与えられています。それはどれほど大きな恵みでしょうか。共に祈り、互いを祝福し、とりなし祈り合いましょう。共に神を礼拝し、2節「わたしたちに父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和」が、証しされていきますように。
祈ります。
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