礼拝宣教 Ⅱコリント12章1-10節 神学校週間
本日より当教会では来週まで「神学校週間」を覚えます。バプテストの連盟、関西地方教会連合のつながりの中で、西南学院大学神学部、東京バプテスト神学校、九州バプテスト神学校と、そこに学ぶ献身者を覚え、福音宣教が豊かに今後も続けられていくよう祈り、支援するものであります。
39年前になりますが、私はこの日本バプテスト大阪教会の推薦を受けて西南学院大学神学部に入学が許されました。4年間の西南学院大学神学部での学び、又諸教会での貴重な研修等を経て、卒業。初任地の粕屋バプテスト教会篠栗伝道所に赴任し、4年後教会組織を経た篠栗キリスト教会の牧師として併せて14年間務めさせて頂きました。そして2005年4月、当大阪教会からの牧師招聘にお応えしてからもうすぐ20年になろうとしています。
あらためて思いますのは、主の深い憐みによって今日がある、ということです。そこには神学校の教師、諸先輩や仲間たち、寮母さん、又私を神学校に送り出してくださった教会と主にある兄弟姉妹、さらにバプテストの連盟諸教会のお祈りとご支援があったことを忘れることはできません
神学校卒業してから34年目になりますが、未だに私は自分の至らなさや弱さを感じることがあります。そのような自分を神さまはいつも助け支えてくださいました。又、多くの主にある同信の仲間たちにも助けられ、支えられて来ました。神学校週間が来る度にそのことを思わされ、心新たにされています。
先ほどⅡコリント12章1-10節の御言葉が読まれました。
今日の箇所は、10章から始まるの文脈で、パウロはコリントの教会の一部の人たちと対立することとなった主な理由について述べています。それは11章にありますように、パウロが皮肉を込めて「あの大使徒」と呼ぶ者たちのことでした。
彼らの目的は自分を売り込むためであり、「我こそは神の使い、キリストの正しい理解を語ることが出来るものだ」ということを、人に認めて貰おうとコリントの教会にやって来たのです。
彼らはパウロを出来の悪い指導者だとしきりに悪口を言ったり、誹謗中傷していました。パウロの同労者も同様に非難されていました。それだけではなく、その悪口を言う者たちの口調に惑わされた人と一緒になって、自分たちに同調しない信徒に酷い嫌がらせを行っていたのです。
パウロが言うように、彼らは「肉に従って自分たちのことを誇っていた」のです。
本日の12章1-10節の中には、ざっと見ただけで「誇り」という言葉が7回も出てきます。
ここで大事なのは、パウロが何を誇りとしているか、という事です。この12章は前の11章30節「誇る必要があるなら、わたしは弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と言っているその事に注目しながら読む必要があるのです。
その11章では、コリントの教会の中でパウロを非難中傷し、おごり高ぶっていた反対者たちに対してパウロはあえて、自分は生粋の「ヘブライ人」「イスラエル人」「アブラハムの子孫」(11:22)であると言います。
又、実際パウロはコリント教会の開拓者で、創始者のような実績をもった人でもあったわけです。
パウロは自分を誇ろうとしてそう言ったのではなく、反対者たちによって自らの信頼と、伝えてきた福音までもがないがしろにされる中で、そうした事を口にしないわけにはいかなかったのです。
彼は「愚か者になったつもりで言いますが」と前置きしながら、加えてキリストの福音を伝え、証していく中で受けた数々の苦難と人としても弱さを列挙します。
このように反対者たちが自己主張し、自分を誇る態度とパウロの態度には大きな違いがありました。
さらに、28節で、パウロは日々起こってくる様々なトラブルの対応、コリントの教会だけでなくあらゆる教会についての心配ごとが日々あると言います。
29節「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」。その心はいつも彼らを思うがゆえに、弱さを覚えるほどでした。
はじめにのところで、「パウロの誇り」というものがどのようなものであるかを知るには、この「弱さ」ということがキーワードとしてあることを申しましたが。パウロが30節で言う「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と、この弱さに関わる事柄。それはまさに、パウロがコリントの教会と信徒たちのことをいつも思いやり、心配するがゆえにその身に負った弱さであったということです。その愛するがゆえの弱さを誇ろうと、パウロは言うのです。
この弱さとは単に消極的な弱さではありません。
確かにパウロは、キリストの僕として福音を伝える中で起る苦難の数々に、自分の弱さを痛感したでしょう。しかしそれだけでなく、主の御救いに与る者となった教会の信徒たちの心配事で心を痛め、平静でいられなくなってしまう自分の状態を、「弱さ」と表現したのですね。それは愛すればこその弱さです。
パウロが言うように、数えきれないほどの困難と苦難の中でもたらされていった福音の実りが、決して損なわれてはならないというその思い。それをたとえるとするなら、農夫が長いこと大変な苦労をしてやっと結実した実を台風の季節に案じるような弱さと言えるでしょう。あるいは、こどもを案じる親の弱さに近いのかも知れません。
パウロの弱さとは、そのように共に福音に与るために生じる、いわば積極的な弱さとでもいうことができるかと思います。
まあそのように言いますと、何かパウロが元々大変情が厚く、責任感があって面倒みのよい私たちとはかけ離れた存在だと思う人もいるかもしれませんが、そういう事ではありません。何度も言いましたように、パウロはキリストと出会う前は、自らの知識や律法を遵守する生き方を誇り、我こそは、と教会とクリスチャンを激しく迫害して回るような人物だったのです。
それが、キリスト、生ける救い主との出会いによって徹底的に打ち砕かれてしまうのです。
そうして自分の弱さと罪を徹底的に思い知った彼は、そこで神の弱さ、すなわち十字架につけられたキリストだけが自分の滅びの根底まで来られて、救うことがおできになる唯一のお方であることをさとるのであります。
パウロの教会と信徒への愛。その源泉は、キリストの十字架の救いにあるのです。
それは罪に滅ぶ以外ない私たち一人ひとりのため、主が肉をとってこの地上に来られ、共に生き、十字架の苦難と死に至るまで、私たち罪深い者を愛し通してくださったその神の愛です。
主イエスの十字架の苦難と死の有様は、世の人々の目からすれば自分を救うこともできない弱い敗北者でありましょう。しかし、主イエスが負われたその弱さは、まさに私たちの弱さと共にあって、共に泣き、痛みと絶望さえ共にする神の愛なのです。この愛は、神のいつくしみであり、自らも痛む合い、人の苦しみを我が身に負う愛であります。
この弱さをまとったキリストのお姿によってパウロは救いを見出し、神の愛に生きる者とされたのです。人の正義感や同情は偏りと偏見がつきまといます。弱さの中で救いを与えられた私たちだからこそ、神のいつくしみの愛に生きる者とされていきたいと、切に願うものです。
さて、続く本日の12章のところを読みますと、パウロ自ら、第三の天、楽園にまで引き上げられたという体験をあたかも他人ごとのように語り、「このような人のことをわたしは誇りましょう」と述べます。
パウロがあえてそう言ったのは、肉を誇りとする反対者たちの中には与えられた神秘的体験を誇り、売りものにするような人々もいたからです。
けれどもパウロ自身はこのような鮮烈な体験をしたにも拘わらず、「しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」と述べます。
ここでも「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇る」というのですね。
パウロはその「第三の天、楽園にまで引き上げられた体験」が自分を誇ることとなって、思い上がるようなことがないために、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは思い上がらないようにと、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」(8節)と述べます。
この「とげ」とは、人につまずきを与えるのではと思われるほど目立つものであったとか、パウロの体に耐え難い痛みを与えるような病気のことだと言われておりますが。ガラテヤ書2章からは、ある種の眼病発作を抱えていたと推測されています。
いずれにせよ、パウロはそのとげを何とか取り去って下さるようにと主に3度願ったとあります。
この3度とは、単に3回という事ではなく、再三にわたって徹底的にという意味です。それほどまでにパウロは主に祈ったのです。
けれどパウロの祈りに対する主のお答えは意外なものでした。
9節「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」十分は英語で訳せばGreatest。以前使用していた口語訳聖書には「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と訳されていますが。この完全、Perfectの方がインパクトは強いですね。いずれしましても、その力は私のうちにあるのではなく、主の力であり、主から来るその力はまさに、私のその弱さの中でこそ完全に発揮されるのだということであります。
「弱さの中でこそ完全に発揮される」この神の力の力は、ギリシャ語でデュナミス、英語でダイナマイトの意味です。それは無から有を生じさせる、そんな爆発的な力なのです。また原語の「弱さ」は「無力」という意味があります。私の無力の中に完全に発揮される神の爆発的な力。
パウロは、とげが自分の身から取り去られる事を徹底的に祈ったにも拘わらず、その思い通りになりませんでした。
これさえなければ。これさえなおればもっとよい生き方ができるのに。もっと働けるのに。さらに認められて用いられるはずなのに。人はそう考えますけれども。主はそうはおっしゃいません。
むしろ、主はパウロに、そのとげがあるという弱さの中でこそ、人の力ではなく、神の力が完全に発揮される、とおっしゃるのです。
パウロは遂にこの主のお言葉によって、「それだから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と、宣言するに至ります。
キリストの十字架の苦難と死、その神の弱さを通してもたらされた完全な救いのみ業の体験。
それは、今まさに弱っている教会とその兄弟姉妹への力強い励ましとなりました。
自らの苦しみ、弱さの中から、同じように弱さに悩み、泣く者を叱咤激励し、コリントの教会は神の前にしっかりと立ち返ります。その後大きな福音の実りがコリントの街、さらにヨーロッパ全土に結実してゆくことになるのです。
まさしく、パウロのとげ、その弱さの中で働かれる神の力によって、人知を超えた救いの御業が爆発的な力をもって起こされていくのです。
今日のところをパウロはこう結びます。
10節「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
自分は弱くて力がなくて何もできないと無力さを感じる時、十字架にかけられる無力さによってすべての人に救いをもたらされたキリストが共におられます。十字架のキリストからあふれ出る神の救いの愛は、私たちの弱さや無力さを完全に補い、充たします。さらにその弱さにこそ働いて神の栄光は顕わされされるのです。
「弱さの中でこそ完全に発揮される力」を信じ、「私たちは弱い時にこそ強い」と宣言しつつ、今週もここからそれぞれの場へ遣わされていきましょう。