礼拝宣教 創世記11章1~9節
8月は平和を覚えて礼拝を捧げていますが。本日は、バベルの塔の物語から「一つの民、一つの言葉の危険」と題し、御言葉から聞いていきたいと思います。
考古学による発掘調査と同時代の文書によれば、バベルの塔は古代バビロニア・今のイラクのあたりに実在したようでありますが。
ジグラトと呼ばれる巨大な宗教的建造物だとされ、7階建てで高さが90メートル。
1階が長さ90メートル、幅90メートル。2階以降はその容積が下の階よりも小さくなっていたそうです。
ナニワの通天閣の高さが108メートルありますので、だいたいそれより少し低いくらいの建物であったということでしょうか。しかしこの当時としては多大な動員と、ものすごい労働力と最新技術を駆使しての建築であったといえるでしょう。
冒頭の1節に、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」とあります。
この世界中とは、全世界という意味ではなく、この時代のバビロニア(シンアル)一帯に住む人々のことを指しています。しかし学校等で「世界の発祥はバビロニア」などと習いましたように、ある意味において世界の中心的な地であったということです。
又、かなりの広範囲であったのですが、そこに住む大勢の人々が、「同じ言葉を使って、同じように話していた」ということです。皆が同じ方向に進んで、力を結集して町はものすごい発展を遂げていったのでありましょう。
そして3節にあるように、彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代りにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた」とあり、ここにも文明の発展、技術革新の面を見るのでありますが。
まあそうした技術を高めていった彼らは、ある計画、一大プロジェクトを思い立ちます。4節にあるように「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」。
こうして彼らは「一切主なる神に問い、尋ねる」ことなしに、神不在の中で自分たちの欲求や野望を満たすために、天にまで届くべく塔のある町を建てようと事を運んでいくのです。それは「名をあげ、全地に散らされないため」でありました。裏を返せば、彼らの思いの根底に、「このままではいつ何時何者かが襲って来て、全地に散らされてしまうようなことが起こるかわからない」。そういう不安があったということであります。
現代社会もそのような面がないでしょうか。都心のまるで背比べして競い合っているかのうようにそびえる高層マンションが、いくつもございますけれども。
しかし、そんな全てを見下ろすような建物の最上階に住んだからといって、幸せになれるか。恐れや不安がなくなるのか。そうとは限りません。
このエピソードが創世記に記されていることからも察せられるように、私たち人間はどんな文明や繁栄の中にあったとしても、創り主なる神を忘れては、決して確かな平安と幸を得ることはできないのです。
シンアルの地に住む人々が、いくら天まで届く塔の町を建てたとしても、繁栄を享受したとしても、さらに高い壁を作り、強力な軍隊や兵器を装備したとしても、そこに主なる神さまとの関係、つながりがないのであれば、人の魂、又社会全体にも常に不安が襲う。虚しい限りなのです
人が過剰な不安や恐れから解放され、真の安らぎを得るのに高い塔は必要ありません。
創造主であり、命の源であられる真の神の存在を知り、主を敬ってあゆんでいくところに、真の魂の平安を得ることができるのです。
主の御心を求め、御心を思い、行い努めていくとき、仕事にしろ、生きがいにしろ、人は本来の人生の意味と目的を見出して生きることができるのです。
シンアルの人々のうちにあった根源的な不安は、神不在の社会にあったといえます。
日々築かれてゆく一大文明・文化。力強い国家の一員であるという誇りと自負。
彼らはそれをより確かなものとしなければ散らされてしまっては大変だというふうになっていったのでしょう。
そうして人びとはその不安を解消するために、「一つの民」として強く団結し、「一つの言葉」を話して一丸となり、誇り高き名誉をより確かなものとすべく、天に届く塔を建て始めるのであります。
すると5節、主は降って来て、人の子らが建てた、塔のある町を御覧になるわけです。興味深いのは、人が最高の技術や労力を使って建てた塔の遙か上空から、主が降って来られたという描写であります。ここには人が英知を極めても、なお決して到達することのできない「主の威光」が物語られているようであります。
まあ、そのような人の有様を御覧になった主はこう言われます。
「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ」。
主はここで何を指摘しておられるのでしょうか。
そこで問題なのは、神に造られた人が、神に成り代わっていくことの大罪についてであります。それは「一つの民、一つの言葉」のもつ危険といえます。
かつて日本が、大東亜共栄圏建設のための戦争に突き進んでいったとき、スローガンとなった「八紘一宇」という言葉があります。それは「天下全世界を一つの家にする」ということでした。一見、善いことのようにも思えるこの言葉が国内外にどのような状況を引き起こしていったか。
その時代を通らされて来た人たちの証言によれば、すべての国民が皇民化教育のもと一つの思想を強要されていき、又、それに抵抗する人たちは非国民扱いにされ、弾圧を受け、投獄された。子どもたちも、アジア諸国が日本と一つの国家を築くことがすばらしい未来につながると教育され、侵略戦争が正当化されていったのです。
本日の聖書のシンアルの地に住む人々は、皆が「一つの民」「一つの言葉を話す」ような中で人々の思想統制が敷かれていき、「さらなる繁栄、国家樹立」と、自分たちは天に迄も昇り詰めることができる、神のようになれるといった考えが蔓延していったのかも知れません。
主なる神さまは、そのようなシンアルの地の人々を御覧になって、「これでは彼らが何を企てても妨げることはできない」と、言われました。
神さまでさえ、妨げることが出来ないかも知れないとおっしゃるほどの人間の罪の暴走。この世界は歴史を見れば明らかなとおり、それを幾度となく繰り返してきているわけですけれども。
先週帰宅して宣教題を教会堂の表の看板に貼ったのですが。それを手伝ってもらったYさんが丁度着いたばかりの「世の光」を読んでいて、私の宣教題を見てピンときたのか、これ見てと「世の光」9月号 BookCafeのコラムを持ってきました。それは、元大阪教会員のTさんがフランスの作家:フランク・パヴロフさんの「茶色の朝」という短い寓話作品の紹介をなさっておられるものでした。実はその本は私も随分前に購入して持っているのですが。ちょっと読ませていただきます。
『主人公の「俺」と友人「シャリルー」は、今日もビストロでコーヒーを飲みながら心地よい時間をゆったりと過ごしています。最近「俺」は猫を、「シャリルー」は犬を安楽死させました。それは茶色のペット以外は禁止という「ペット法」ができたからです。はじめ「俺」は違和感を持ちますが、それも仕方ない、と自分に言い聞かせます。しばらくして、「ペット法」に批判的だった新聞が廃刊になり、系列会社の本が次々に強制撤去され、言葉や単語に「茶色」を付けなければ危険を感じる社会になって行きます。初めに感じた違和感や反発も徐々に薄れて行き、茶色社会に適応しようと「シャルリー」は茶色の犬を、「俺」は茶色の猫を飼い、「茶色に守られた安心、それも悪くない」と考えます。ある朝「茶色いラジオ」が「最近、茶色い動物を購入したからと云って、考え方が変わったことにはならない。過去、茶色以外のペットを飼ったことがあるなら国家反逆罪に問われる」と報じます。そして二人に「茶色の朝」が・・・。』
Tさんは、「読み終わった時、言いようのない恐怖に襲われるのは何故なのでしょうか?「シャルリー」と「俺」は「わたし自身?」と気づかされるからかも知れません」とコメントなさっている言葉にドキッとしました。一つの言葉、一つの民の中に引きずり込まれ、自分を見失っていく社会の不気味さと怖さ。
この本の紹介を読みながら、平和を造り出していくための「教育」、又、それを維持し、構築していくという忍耐ってほんとうに大事だ、ということを改めて知らされました。
ただ、私たちにとっての生きた教科書は「聖書」であります。この聖書から如何に聞き、主なる神の御心がどこにあるのか、主イエス・キリストがどのような平和を造り出すため世に来られたのか。又、それをどのように造り出そうとなさったのか。その事を尋ね求めていく。私たちにとってそのことが何よりも大事なことであります。
さて7節で、主は「降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉を聞き分けられぬようにしてしまおう」となさいます。
さらに8節には、「主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた」ともあります。
主なる神は、人々が建てた塔のある町を破壊されたのではなく、人々の言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにされて、そこから全地に人々を散らされたということであります。
建設の中止を余儀なくされ、全地に散らされた彼ら。しかしそれは、審きによる断罪ではありません。主なる神が私たち人間に多様性をもって生きることの意義と幸いを託して、地に散らされた、ということです。
もちろん言葉が通じなければ混乱も起こります、あゆみ寄る努力が必要となります。
粘り強い話し合いがその都度行なわれなければなりません。しかし、自分と大きく違いを感じる人と接するのに、勇気や忍耐も相当要することがあるかも知れません。
けれどもそういった理解し合っていくための様々なプロセスを通して、新しい発見や気づきが与えられることがあるのではないでしょうか。
ただ、どうでしょう。人間関係というのはなかなかそうはいかないですね。
冒頭でシンアルの地の人たちがバベルの塔を築こうとしたのは、主なる神さまの御心を尋ね求めることなく、ただ、自分たちのおごり高ぶりのため、又散らされる不安を解消するためであった、と申しましたが。
今の時代も同様に、創造主なる神を知らないで、又その御心を思わないのなら、どんなに立派な高い塔を築いたとしても、分断と混乱がやがては私たち人間の生活や関係性の崩壊に至るのではないでしょうか。
「創造主なる神に立ち返って生きよ」。これが創世記の初めからの聖書の語るメッセージであります。
主は旧約聖書の時代から新約の時代に至って、あらゆる民族、あらゆる言語、文化の違いをもつ人々がエルサレムに集められて主の救い、和解の福音をそれぞれの国の言葉で聞くことになる、と預言者らを通してお語りになりました。
そして時至ったペンテコステ・聖霊降臨の日、使徒言行録にありますように、
「一同(イエスの弟子達)が聖霊に満たされ、霊が語るままに、ほかの国の言葉で話し出し」「あらゆる国々からエルサレムに来ていた人びとは自国の言葉で主イエスの救いの福音を聞いて大変驚く」ことになるのです。
このペンテコステによってキリストの教会は誕生し、文字通り「すべての人に神の救いと和解の福音」が開かれました。世界中には言語も文化も異なる人々がいますが、ペンテコステは同じ言語や一つの民に強制的に統一するものではなく、イエス・キリストの御救い、十字架の愛と贖いによって世に散らされた人々が聖霊によって互いに平安を祈り合い、キリストにある平和を築いていく者として招かれているということであります。
「平和を造り出す人たちは幸いである、彼らは神の子と呼ばれる」と、主イエスはおっしゃいました。
私たちも主イエス・キリストにある平和の使者として、またここから今週も遣わされてまいりましょう。祈ります。
8月は平和を覚えて礼拝を捧げていますが。本日は、バベルの塔の物語から「一つの民、一つの言葉の危険」と題し、御言葉から聞いていきたいと思います。
考古学による発掘調査と同時代の文書によれば、バベルの塔は古代バビロニア・今のイラクのあたりに実在したようでありますが。
ジグラトと呼ばれる巨大な宗教的建造物だとされ、7階建てで高さが90メートル。
1階が長さ90メートル、幅90メートル。2階以降はその容積が下の階よりも小さくなっていたそうです。
ナニワの通天閣の高さが108メートルありますので、だいたいそれより少し低いくらいの建物であったということでしょうか。しかしこの当時としては多大な動員と、ものすごい労働力と最新技術を駆使しての建築であったといえるでしょう。
冒頭の1節に、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」とあります。
この世界中とは、全世界という意味ではなく、この時代のバビロニア(シンアル)一帯に住む人々のことを指しています。しかし学校等で「世界の発祥はバビロニア」などと習いましたように、ある意味において世界の中心的な地であったということです。
又、かなりの広範囲であったのですが、そこに住む大勢の人々が、「同じ言葉を使って、同じように話していた」ということです。皆が同じ方向に進んで、力を結集して町はものすごい発展を遂げていったのでありましょう。
そして3節にあるように、彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代りにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた」とあり、ここにも文明の発展、技術革新の面を見るのでありますが。
まあそうした技術を高めていった彼らは、ある計画、一大プロジェクトを思い立ちます。4節にあるように「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」。
こうして彼らは「一切主なる神に問い、尋ねる」ことなしに、神不在の中で自分たちの欲求や野望を満たすために、天にまで届くべく塔のある町を建てようと事を運んでいくのです。それは「名をあげ、全地に散らされないため」でありました。裏を返せば、彼らの思いの根底に、「このままではいつ何時何者かが襲って来て、全地に散らされてしまうようなことが起こるかわからない」。そういう不安があったということであります。
現代社会もそのような面がないでしょうか。都心のまるで背比べして競い合っているかのうようにそびえる高層マンションが、いくつもございますけれども。
しかし、そんな全てを見下ろすような建物の最上階に住んだからといって、幸せになれるか。恐れや不安がなくなるのか。そうとは限りません。
このエピソードが創世記に記されていることからも察せられるように、私たち人間はどんな文明や繁栄の中にあったとしても、創り主なる神を忘れては、決して確かな平安と幸を得ることはできないのです。
シンアルの地に住む人々が、いくら天まで届く塔の町を建てたとしても、繁栄を享受したとしても、さらに高い壁を作り、強力な軍隊や兵器を装備したとしても、そこに主なる神さまとの関係、つながりがないのであれば、人の魂、又社会全体にも常に不安が襲う。虚しい限りなのです
人が過剰な不安や恐れから解放され、真の安らぎを得るのに高い塔は必要ありません。
創造主であり、命の源であられる真の神の存在を知り、主を敬ってあゆんでいくところに、真の魂の平安を得ることができるのです。
主の御心を求め、御心を思い、行い努めていくとき、仕事にしろ、生きがいにしろ、人は本来の人生の意味と目的を見出して生きることができるのです。
シンアルの人々のうちにあった根源的な不安は、神不在の社会にあったといえます。
日々築かれてゆく一大文明・文化。力強い国家の一員であるという誇りと自負。
彼らはそれをより確かなものとしなければ散らされてしまっては大変だというふうになっていったのでしょう。
そうして人びとはその不安を解消するために、「一つの民」として強く団結し、「一つの言葉」を話して一丸となり、誇り高き名誉をより確かなものとすべく、天に届く塔を建て始めるのであります。
すると5節、主は降って来て、人の子らが建てた、塔のある町を御覧になるわけです。興味深いのは、人が最高の技術や労力を使って建てた塔の遙か上空から、主が降って来られたという描写であります。ここには人が英知を極めても、なお決して到達することのできない「主の威光」が物語られているようであります。
まあ、そのような人の有様を御覧になった主はこう言われます。
「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ」。
主はここで何を指摘しておられるのでしょうか。
そこで問題なのは、神に造られた人が、神に成り代わっていくことの大罪についてであります。それは「一つの民、一つの言葉」のもつ危険といえます。
かつて日本が、大東亜共栄圏建設のための戦争に突き進んでいったとき、スローガンとなった「八紘一宇」という言葉があります。それは「天下全世界を一つの家にする」ということでした。一見、善いことのようにも思えるこの言葉が国内外にどのような状況を引き起こしていったか。
その時代を通らされて来た人たちの証言によれば、すべての国民が皇民化教育のもと一つの思想を強要されていき、又、それに抵抗する人たちは非国民扱いにされ、弾圧を受け、投獄された。子どもたちも、アジア諸国が日本と一つの国家を築くことがすばらしい未来につながると教育され、侵略戦争が正当化されていったのです。
本日の聖書のシンアルの地に住む人々は、皆が「一つの民」「一つの言葉を話す」ような中で人々の思想統制が敷かれていき、「さらなる繁栄、国家樹立」と、自分たちは天に迄も昇り詰めることができる、神のようになれるといった考えが蔓延していったのかも知れません。
主なる神さまは、そのようなシンアルの地の人々を御覧になって、「これでは彼らが何を企てても妨げることはできない」と、言われました。
神さまでさえ、妨げることが出来ないかも知れないとおっしゃるほどの人間の罪の暴走。この世界は歴史を見れば明らかなとおり、それを幾度となく繰り返してきているわけですけれども。
先週帰宅して宣教題を教会堂の表の看板に貼ったのですが。それを手伝ってもらったYさんが丁度着いたばかりの「世の光」を読んでいて、私の宣教題を見てピンときたのか、これ見てと「世の光」9月号 BookCafeのコラムを持ってきました。それは、元大阪教会員のTさんがフランスの作家:フランク・パヴロフさんの「茶色の朝」という短い寓話作品の紹介をなさっておられるものでした。実はその本は私も随分前に購入して持っているのですが。ちょっと読ませていただきます。
『主人公の「俺」と友人「シャリルー」は、今日もビストロでコーヒーを飲みながら心地よい時間をゆったりと過ごしています。最近「俺」は猫を、「シャリルー」は犬を安楽死させました。それは茶色のペット以外は禁止という「ペット法」ができたからです。はじめ「俺」は違和感を持ちますが、それも仕方ない、と自分に言い聞かせます。しばらくして、「ペット法」に批判的だった新聞が廃刊になり、系列会社の本が次々に強制撤去され、言葉や単語に「茶色」を付けなければ危険を感じる社会になって行きます。初めに感じた違和感や反発も徐々に薄れて行き、茶色社会に適応しようと「シャルリー」は茶色の犬を、「俺」は茶色の猫を飼い、「茶色に守られた安心、それも悪くない」と考えます。ある朝「茶色いラジオ」が「最近、茶色い動物を購入したからと云って、考え方が変わったことにはならない。過去、茶色以外のペットを飼ったことがあるなら国家反逆罪に問われる」と報じます。そして二人に「茶色の朝」が・・・。』
Tさんは、「読み終わった時、言いようのない恐怖に襲われるのは何故なのでしょうか?「シャルリー」と「俺」は「わたし自身?」と気づかされるからかも知れません」とコメントなさっている言葉にドキッとしました。一つの言葉、一つの民の中に引きずり込まれ、自分を見失っていく社会の不気味さと怖さ。
この本の紹介を読みながら、平和を造り出していくための「教育」、又、それを維持し、構築していくという忍耐ってほんとうに大事だ、ということを改めて知らされました。
ただ、私たちにとっての生きた教科書は「聖書」であります。この聖書から如何に聞き、主なる神の御心がどこにあるのか、主イエス・キリストがどのような平和を造り出すため世に来られたのか。又、それをどのように造り出そうとなさったのか。その事を尋ね求めていく。私たちにとってそのことが何よりも大事なことであります。
さて7節で、主は「降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉を聞き分けられぬようにしてしまおう」となさいます。
さらに8節には、「主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた」ともあります。
主なる神は、人々が建てた塔のある町を破壊されたのではなく、人々の言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにされて、そこから全地に人々を散らされたということであります。
建設の中止を余儀なくされ、全地に散らされた彼ら。しかしそれは、審きによる断罪ではありません。主なる神が私たち人間に多様性をもって生きることの意義と幸いを託して、地に散らされた、ということです。
もちろん言葉が通じなければ混乱も起こります、あゆみ寄る努力が必要となります。
粘り強い話し合いがその都度行なわれなければなりません。しかし、自分と大きく違いを感じる人と接するのに、勇気や忍耐も相当要することがあるかも知れません。
けれどもそういった理解し合っていくための様々なプロセスを通して、新しい発見や気づきが与えられることがあるのではないでしょうか。
ただ、どうでしょう。人間関係というのはなかなかそうはいかないですね。
冒頭でシンアルの地の人たちがバベルの塔を築こうとしたのは、主なる神さまの御心を尋ね求めることなく、ただ、自分たちのおごり高ぶりのため、又散らされる不安を解消するためであった、と申しましたが。
今の時代も同様に、創造主なる神を知らないで、又その御心を思わないのなら、どんなに立派な高い塔を築いたとしても、分断と混乱がやがては私たち人間の生活や関係性の崩壊に至るのではないでしょうか。
「創造主なる神に立ち返って生きよ」。これが創世記の初めからの聖書の語るメッセージであります。
主は旧約聖書の時代から新約の時代に至って、あらゆる民族、あらゆる言語、文化の違いをもつ人々がエルサレムに集められて主の救い、和解の福音をそれぞれの国の言葉で聞くことになる、と預言者らを通してお語りになりました。
そして時至ったペンテコステ・聖霊降臨の日、使徒言行録にありますように、
「一同(イエスの弟子達)が聖霊に満たされ、霊が語るままに、ほかの国の言葉で話し出し」「あらゆる国々からエルサレムに来ていた人びとは自国の言葉で主イエスの救いの福音を聞いて大変驚く」ことになるのです。
このペンテコステによってキリストの教会は誕生し、文字通り「すべての人に神の救いと和解の福音」が開かれました。世界中には言語も文化も異なる人々がいますが、ペンテコステは同じ言語や一つの民に強制的に統一するものではなく、イエス・キリストの御救い、十字架の愛と贖いによって世に散らされた人々が聖霊によって互いに平安を祈り合い、キリストにある平和を築いていく者として招かれているということであります。
「平和を造り出す人たちは幸いである、彼らは神の子と呼ばれる」と、主イエスはおっしゃいました。
私たちも主イエス・キリストにある平和の使者として、またここから今週も遣わされてまいりましょう。祈ります。