日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

一つの民、一つの言葉の危険

2017-08-27 16:16:26 | メッセージ
礼拝宣教 創世記11章1~9節 

8月は平和を覚えて礼拝を捧げていますが。本日は、バベルの塔の物語から「一つの民、一つの言葉の危険」と題し、御言葉から聞いていきたいと思います。

考古学による発掘調査と同時代の文書によれば、バベルの塔は古代バビロニア・今のイラクのあたりに実在したようでありますが。
ジグラトと呼ばれる巨大な宗教的建造物だとされ、7階建てで高さが90メートル。
1階が長さ90メートル、幅90メートル。2階以降はその容積が下の階よりも小さくなっていたそうです。
ナニワの通天閣の高さが108メートルありますので、だいたいそれより少し低いくらいの建物であったということでしょうか。しかしこの当時としては多大な動員と、ものすごい労働力と最新技術を駆使しての建築であったといえるでしょう。
冒頭の1節に、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」とあります。
この世界中とは、全世界という意味ではなく、この時代のバビロニア(シンアル)一帯に住む人々のことを指しています。しかし学校等で「世界の発祥はバビロニア」などと習いましたように、ある意味において世界の中心的な地であったということです。
又、かなりの広範囲であったのですが、そこに住む大勢の人々が、「同じ言葉を使って、同じように話していた」ということです。皆が同じ方向に進んで、力を結集して町はものすごい発展を遂げていったのでありましょう。

そして3節にあるように、彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代りにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた」とあり、ここにも文明の発展、技術革新の面を見るのでありますが。
まあそうした技術を高めていった彼らは、ある計画、一大プロジェクトを思い立ちます。4節にあるように「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」。
こうして彼らは「一切主なる神に問い、尋ねる」ことなしに、神不在の中で自分たちの欲求や野望を満たすために、天にまで届くべく塔のある町を建てようと事を運んでいくのです。それは「名をあげ、全地に散らされないため」でありました。裏を返せば、彼らの思いの根底に、「このままではいつ何時何者かが襲って来て、全地に散らされてしまうようなことが起こるかわからない」。そういう不安があったということであります。

現代社会もそのような面がないでしょうか。都心のまるで背比べして競い合っているかのうようにそびえる高層マンションが、いくつもございますけれども。
しかし、そんな全てを見下ろすような建物の最上階に住んだからといって、幸せになれるか。恐れや不安がなくなるのか。そうとは限りません。

このエピソードが創世記に記されていることからも察せられるように、私たち人間はどんな文明や繁栄の中にあったとしても、創り主なる神を忘れては、決して確かな平安と幸を得ることはできないのです。
シンアルの地に住む人々が、いくら天まで届く塔の町を建てたとしても、繁栄を享受したとしても、さらに高い壁を作り、強力な軍隊や兵器を装備したとしても、そこに主なる神さまとの関係、つながりがないのであれば、人の魂、又社会全体にも常に不安が襲う。虚しい限りなのです
人が過剰な不安や恐れから解放され、真の安らぎを得るのに高い塔は必要ありません。
創造主であり、命の源であられる真の神の存在を知り、主を敬ってあゆんでいくところに、真の魂の平安を得ることができるのです。
主の御心を求め、御心を思い、行い努めていくとき、仕事にしろ、生きがいにしろ、人は本来の人生の意味と目的を見出して生きることができるのです。

シンアルの人々のうちにあった根源的な不安は、神不在の社会にあったといえます。
日々築かれてゆく一大文明・文化。力強い国家の一員であるという誇りと自負。
彼らはそれをより確かなものとしなければ散らされてしまっては大変だというふうになっていったのでしょう。
そうして人びとはその不安を解消するために、「一つの民」として強く団結し、「一つの言葉」を話して一丸となり、誇り高き名誉をより確かなものとすべく、天に届く塔を建て始めるのであります。

すると5節、主は降って来て、人の子らが建てた、塔のある町を御覧になるわけです。興味深いのは、人が最高の技術や労力を使って建てた塔の遙か上空から、主が降って来られたという描写であります。ここには人が英知を極めても、なお決して到達することのできない「主の威光」が物語られているようであります。

まあ、そのような人の有様を御覧になった主はこう言われます。
「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ」。
主はここで何を指摘しておられるのでしょうか。
そこで問題なのは、神に造られた人が、神に成り代わっていくことの大罪についてであります。それは「一つの民、一つの言葉」のもつ危険といえます。

かつて日本が、大東亜共栄圏建設のための戦争に突き進んでいったとき、スローガンとなった「八紘一宇」という言葉があります。それは「天下全世界を一つの家にする」ということでした。一見、善いことのようにも思えるこの言葉が国内外にどのような状況を引き起こしていったか。
その時代を通らされて来た人たちの証言によれば、すべての国民が皇民化教育のもと一つの思想を強要されていき、又、それに抵抗する人たちは非国民扱いにされ、弾圧を受け、投獄された。子どもたちも、アジア諸国が日本と一つの国家を築くことがすばらしい未来につながると教育され、侵略戦争が正当化されていったのです。

本日の聖書のシンアルの地に住む人々は、皆が「一つの民」「一つの言葉を話す」ような中で人々の思想統制が敷かれていき、「さらなる繁栄、国家樹立」と、自分たちは天に迄も昇り詰めることができる、神のようになれるといった考えが蔓延していったのかも知れません。
主なる神さまは、そのようなシンアルの地の人々を御覧になって、「これでは彼らが何を企てても妨げることはできない」と、言われました。
神さまでさえ、妨げることが出来ないかも知れないとおっしゃるほどの人間の罪の暴走。この世界は歴史を見れば明らかなとおり、それを幾度となく繰り返してきているわけですけれども。
 先週帰宅して宣教題を教会堂の表の看板に貼ったのですが。それを手伝ってもらったYさんが丁度着いたばかりの「世の光」を読んでいて、私の宣教題を見てピンときたのか、これ見てと「世の光」9月号 BookCafeのコラムを持ってきました。それは、元大阪教会員のTさんがフランスの作家:フランク・パヴロフさんの「茶色の朝」という短い寓話作品の紹介をなさっておられるものでした。実はその本は私も随分前に購入して持っているのですが。ちょっと読ませていただきます。

『主人公の「俺」と友人「シャリルー」は、今日もビストロでコーヒーを飲みながら心地よい時間をゆったりと過ごしています。最近「俺」は猫を、「シャリルー」は犬を安楽死させました。それは茶色のペット以外は禁止という「ペット法」ができたからです。はじめ「俺」は違和感を持ちますが、それも仕方ない、と自分に言い聞かせます。しばらくして、「ペット法」に批判的だった新聞が廃刊になり、系列会社の本が次々に強制撤去され、言葉や単語に「茶色」を付けなければ危険を感じる社会になって行きます。初めに感じた違和感や反発も徐々に薄れて行き、茶色社会に適応しようと「シャルリー」は茶色の犬を、「俺」は茶色の猫を飼い、「茶色に守られた安心、それも悪くない」と考えます。ある朝「茶色いラジオ」が「最近、茶色い動物を購入したからと云って、考え方が変わったことにはならない。過去、茶色以外のペットを飼ったことがあるなら国家反逆罪に問われる」と報じます。そして二人に「茶色の朝」が・・・。』

Tさんは、「読み終わった時、言いようのない恐怖に襲われるのは何故なのでしょうか?「シャルリー」と「俺」は「わたし自身?」と気づかされるからかも知れません」とコメントなさっている言葉にドキッとしました。一つの言葉、一つの民の中に引きずり込まれ、自分を見失っていく社会の不気味さと怖さ。

この本の紹介を読みながら、平和を造り出していくための「教育」、又、それを維持し、構築していくという忍耐ってほんとうに大事だ、ということを改めて知らされました。
ただ、私たちにとっての生きた教科書は「聖書」であります。この聖書から如何に聞き、主なる神の御心がどこにあるのか、主イエス・キリストがどのような平和を造り出すため世に来られたのか。又、それをどのように造り出そうとなさったのか。その事を尋ね求めていく。私たちにとってそのことが何よりも大事なことであります。

さて7節で、主は「降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉を聞き分けられぬようにしてしまおう」となさいます。
さらに8節には、「主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた」ともあります。

主なる神は、人々が建てた塔のある町を破壊されたのではなく、人々の言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにされて、そこから全地に人々を散らされたということであります。

建設の中止を余儀なくされ、全地に散らされた彼ら。しかしそれは、審きによる断罪ではありません。主なる神が私たち人間に多様性をもって生きることの意義と幸いを託して、地に散らされた、ということです。
もちろん言葉が通じなければ混乱も起こります、あゆみ寄る努力が必要となります。
粘り強い話し合いがその都度行なわれなければなりません。しかし、自分と大きく違いを感じる人と接するのに、勇気や忍耐も相当要することがあるかも知れません。
けれどもそういった理解し合っていくための様々なプロセスを通して、新しい発見や気づきが与えられることがあるのではないでしょうか。
ただ、どうでしょう。人間関係というのはなかなかそうはいかないですね。

冒頭でシンアルの地の人たちがバベルの塔を築こうとしたのは、主なる神さまの御心を尋ね求めることなく、ただ、自分たちのおごり高ぶりのため、又散らされる不安を解消するためであった、と申しましたが。
今の時代も同様に、創造主なる神を知らないで、又その御心を思わないのなら、どんなに立派な高い塔を築いたとしても、分断と混乱がやがては私たち人間の生活や関係性の崩壊に至るのではないでしょうか。
「創造主なる神に立ち返って生きよ」。これが創世記の初めからの聖書の語るメッセージであります。

主は旧約聖書の時代から新約の時代に至って、あらゆる民族、あらゆる言語、文化の違いをもつ人々がエルサレムに集められて主の救い、和解の福音をそれぞれの国の言葉で聞くことになる、と預言者らを通してお語りになりました。
そして時至ったペンテコステ・聖霊降臨の日、使徒言行録にありますように、
「一同(イエスの弟子達)が聖霊に満たされ、霊が語るままに、ほかの国の言葉で話し出し」「あらゆる国々からエルサレムに来ていた人びとは自国の言葉で主イエスの救いの福音を聞いて大変驚く」ことになるのです。

このペンテコステによってキリストの教会は誕生し、文字通り「すべての人に神の救いと和解の福音」が開かれました。世界中には言語も文化も異なる人々がいますが、ペンテコステは同じ言語や一つの民に強制的に統一するものではなく、イエス・キリストの御救い、十字架の愛と贖いによって世に散らされた人々が聖霊によって互いに平安を祈り合い、キリストにある平和を築いていく者として招かれているということであります。
「平和を造り出す人たちは幸いである、彼らは神の子と呼ばれる」と、主イエスはおっしゃいました。
私たちも主イエス・キリストにある平和の使者として、またここから今週も遣わされてまいりましょう。祈ります。
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夕べの礼拝(主の食卓を囲む)ご案内

2017-08-25 10:32:43 | 教会案内
8月27日(日)午後6時ー7時半  


これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865
メール obcs@nifty.com
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ノアの箱舟(後篇)

2017-08-13 15:04:01 | メッセージ
礼拝宣教 創世記8章1-22節

8月は平和月間を覚えての礼拝を捧げております。今週は8月15日の終戦から72年目を迎え、新聞やテレビで様々な特集が組まれていますが。一方で日本の平和や世界の秩序を脅かす一触即発ともいえる報道が、物騒な兵器とともに目に飛び込んできます。本当に心痛むものでありますが。キリストの非暴力と和解の福音を知らされた私たちは、この荒波の時代にあっても不戦の思いをまたしっかりと胸に刻んで祈り、歩んでまいりたいと願います。

先週の6章の「ノアの箱舟」の記事では、「主は地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」ことを知りました。それは創造主であるお方、父の神の愛です。

主はノアに、「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」といわれ、箱舟を作るようお命じになりました。そして、「主はノアと契約を立てることを約束され、ノアは、すべて神が命じられるとおりに果たした」とありました。
ノアは主のまなざしの中に恵みを見つける人であったので、そのような先の見えない計画に従っていくことができたのです。

次の7章には、ノアが神のいわれるとおりに成した後に、「大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれ、洪水が地上に起こる」様が記されています。こうして地上で動いていた肉なるものはすべて、鳥も家畜も獣も地に群がり這うものも人も、ことごとくぬぐい去られ、「ノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った」。なおも、「水は150日の間、地上で勢いを失わなかった」とございます。

そのように、想像し難いものすごい豪雨が40日40夜降り続き、大地を覆い尽くし、命あるものは、全て大水に呑み尽くされてしまいました。
その雨が止んだあと、そこに見えるものは、見渡す限り水、水、四方八方、どこまで行っても、水です。その荒涼たる大海原の上に、実に小さな箱舟が、たった一つ、見捨てられたように漂っていました。箱舟の中には、ノアと、ノアの家族たち、そして、多くの動物たちが、ぎゅうぎゅうに押し込められてひしめき合っていました。
しかも一年間という長きに亘って漂流するわけです。

そういう過酷な状況の中で今日の8章はじめのところの「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留めておられた」という一文に、私たちは希望を見出すことができるのではないでしょうか。
一方ノアは、箱舟の中に閉じ込められていたほぼ一年の間、その神に信頼することによって希望を失うことがなかったのです。

そのことを今日の箇所でよく象徴しているのが、鳩であります。
ノアは、このところで3度に亘り鳩を放ちました。鳩といえば、ヒロシマとナガサキの原爆投下の日をおぼえて行なわれる平和記念式典の場においても平和と希望の祈りととも大空に放たれます。
ノアが放ったこの鳩もまた、神への希望と祈りを象徴しているように思えます。
そうして放たれた鳩は、大地が乾き、再び芽吹いてきた生命の証しとして、くちばしにオリーブの葉をくわえ戻ってきます。それはノアの神の救いに対する忍耐が決して無駄ではなかったことを、示しています。

この洪水は、私どもの住んでいるこの地球が、絶えず大きな危機におびやかされていることを物語っています。先週触れました地球温暖化の問題もそうですが、それだけではありませんよね。生態系が壊れていく現状も。生物の種が脅かされていることも。戦争や殺戮に対する心配もすべてそれは、人間が地球に住み始めたときから、いつもあったことです。聖書はその大本に人間の罪という問題があることを明らかにします。

6章5節のとおり「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になっていた」、又8章21節のとおり「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と主はおっしゃったのです。
人は誰も自分は最善のことを願い行動していると主張するかも知れません。しかしその自分の理想や願望のため何であれ、利用し、やがては隣人の幸福や命までも奪い、犠牲にしてきたのです。
それは、人が神に背を向けて生きているからです。
創世記には、そのはじめから人が恨み、ねたみ、憎しみ、殺し、復讐するものであることが記されています。人は最善のものを望みながらも、依然とその滅びの性質から抜け出すことができない存在であることは歴史が示しているとおりです。

ノアの洪水は、普通の意味での、河川の氾濫によって起こる「洪水」ではありません。そうではなく、被造世界の崩壊を意味します。
それは7章1節に記されているように「大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた」出来事なのです。
見渡す限り、水面の遥か下にはかつて人が住んでいた町や村があり、建物があり、人の営みがあった。その日が来るまで人は飲み、歌い、騒ぎ、その思いの計るままに生きていた。そういう中である日突如としてその時が臨むのです。これはまさに今の私たちの現実の世界を物語っているかのようです。

ここで、ノアについて見ていきますが。
ノアはこの壮絶な大洪水が始まり、完全に地がすっかり乾く一年もの間、どうしていたのでしょうか。申すまでもなく、彼はこの時を、非常に心細く、不安な気持ちで耐えていたに違いありません。何しろ、この一年の間、完全に狭苦しい箱舟の中に閉じ込められていたのです。そのうえ猛獣までも一緒です。
ノアはそんな中で、家族や動物たちが起こすあらゆるトラブルにも見舞われ、それらを解決しなければなりません。それだけでも大変な心労の毎日です。
しかし、何よりも大きな不安は、この災いがいつ迄続くのか、それが彼には知らされていなかったことです。

私どもが災いや試錬に遭うときの最大の苦しみも、やはり、それがいつ終わるのか、又、解決するのか私どもには分からないということです。ひょっとしたら、いつまでも終わらないのかも知れない、という不安と焦りが私たちを一層苦しめます。

ノアはそのような中で、なおも忍耐をもって苦難を忍び希望する力を、一体どこから得たのでしょうか。何を、彼は頼りにしていたのでしょうか。
彼がそこで頼りにしたもの、それは、6章18節に「わたしはあなたと契約を立てる」と語られた、神の御言葉であります。その神の希望の言葉、契約によって、どのような目に見える厳しい現実をも乗り越えていく力を彼は得たということでありましょう。その神の言葉によって、ノアは望みを抱いたのですね。

私たちはそのようなノアの背後にあって、神さまが生きてお働きになられることを知ることが出来ます。今日の8章冒頭にあるように「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた」。
神は箱舟の中の者たちすべてを御心に留められた。この「御心に留める」という言葉は、相手のことを、深い慈しみの情をもって思い起こし、顧みる、という意味であります。そこには、歴史の中で生きて働いておられる神さまの御姿が、くっきりと描かれています。神は御意志をもってご自身の約束に生きる者を守り抜かれるのです。ノアはこの神がおられるゆえに、希望を持ち続けることができたのです。
今私どもは何よりも、神の新しい約束、すなわち神の御子イエス・キリストの贖いの御血汐によって救われ、神の民、神の子の一人として生きるという新しい契約(新約の福音)に与ることがゆるされているのです。
私どもも又、どのような試錬の中にあっても、この「慈しみ深い神」に望みを見出し続けていくものでありたいと願うものです。

さて、ノアは箱舟から鳩を放ちました。この鳩は祈りを表しているということを始めに申しましたが。実はノアは鳩を放つ前にカラスを放つのですが、要領を得なかったようで、次いで鳩を二度、三度と放つわけです。祈りもそうだと思いますね。祈りがきかれていないと言ってポィと放り出すのではなくて、ノアが希望を託して鳩を放ったように一度ならず二度、三度と主に信頼し、祈り続ける。それが大事なんですね。

一度目に放った鳩は止まる場所を見付けることが出来ず、疲れ切った様子で帰ってきました。「ノアは手を差し伸べてその鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した」とあります。ここを読むと、帰って来た鳩を、ノアがその手でそっと包み込む様子が目に浮かんでくるようですが。ノアは更に7日後に、もう一度鳩を放ちました。すると鳩は寒くなった夕方に、くちばしにオリーブの葉をくわえて、戻って来たのです。
オリーブの葉は水の中でも芽を出すと言われます。柔らかい新芽の葉です。それはこの地上のどこかで、既に神の新しい創造の業が始まっている証です。
オリーブの葉をくわえた鳩は、まさに希望のしるしです。
窓から放たれた鳩がノアの祈りであるとするなら、帰ってきた鳩は神からのお答えです。創造者なる神の慈愛がまさに、人間の罪や死の力に勝利した。鳩は、神と人間の間の永遠の平和と希望を象徴しています。
ノアは更に七日待って、三度目に鳩を放ちました。すると、鳩はもう帰ってこなかった、とあります。このようにして、ノアは一年間の苦しい箱舟の生活からついに解放されました。そして、神のお言葉どおりに従い、箱舟から出て地上に降り立った時、そこでノアが真っ先にしたこと、それが「救いの神さまを礼拝すること」であったのですね。
神さまはそのノアの捧げ物のかおりをかいで、こう御心に言われます。
「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」

ここを読みますと、人間は昔も今も何ら変わっていない事をつくづく思うものです。どんなに文明や科学技術が進んでも、ちょっと油断すると罪の性質がむくむくと頭をもたげてくるのが私たち人間の存在。神に背を向けて身勝手に生きていこうとするのが、私たち人間ではないでしょうか。
しかしそれでもなお創造主なる神さまは、慈愛をもって「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と言いつつも、このように「二度とわたしはこの度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」と決意をなさるのですね。その神さまの慈愛を知ってか知らでか、今、非常に危険な方向にいきかねない社会情勢であります。この世界に戦争がなくならない一つの理由は、「悪なら滅ぼせ」という排他的暴力を正当化する人間の高慢にあると思います。神は人が悪いものであることを知りながらも、命と平和の道をその人に備えてくださったのです。それにも拘わらず人は何が悪かを見極めないまま「滅び」を口にするんですね。
この、二度と打つことをしないとおっしゃった神さまのお姿に、平和への思いと願いを見出し祈る者でありたいです。
ノアたちは箱舟から地を受け継ぐ人として地上に遣わされていきました。私たちは、罪深い者がイエス・キリストを通して神との平和、神との和解に与らせていただいたものであります。

使徒パウロはこう述べています。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(Ⅱコリント5:18-19)
今週も今日の御言葉に押し出され、それぞれ和解の福音の働きに仕えていけるよう、ここから遣わされてまいりましょう。
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夕べの礼拝のご案内

2017-08-10 08:17:59 | 教会案内
8月13日(日)&27日(日)午後6時ー7時半  


これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865
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ノアの箱舟

2017-08-06 15:02:04 | メッセージ
礼拝宣教 創世記6章5-22節(平和月間)

今日はヒロシマに原爆が投下された8月6日から72年目となります。この8月は平和月間として礼拝ごとに平和といのちの尊さを心に留め、主に祈りつつ礼拝を捧げてまいります。先週のことですが、事務室の書類棚を整理していた折にその中からこの一冊の資料が見つかりました。目を通すとそれは、大阪教会でおおよそ2年間信仰生活を共になさったMさんが直筆で書かれた「原爆許すまじ~ああ惜春」と題する手記であったということです。これは貴重な資料であることを考え、広島原爆記念館に問い合わせたところ幾つかのことがわかったのですが。ともかく、これだけしっかりとした形での証言がご本人の直筆と写真と共に遺されているのは貴重なものだそうです。
18歳のときにヒロシマで被爆され、その後原爆症骨髄性悪性貧血白血病を発病されました。その後大阪市内に転居・療養され、大阪教会の教会員原簿によれば、52歳の時に入信されてクリスチャンとなられたとあります。その後69歳で天に召されたということですが。皆さまのなかには親交のあった方もおられることでしょう。
いずれにしても、姉妹の被爆者としての生々しい手記が書棚から発見されたのがこの8月の平和月間のタイミングでありましたものですから、これは主が教会で分かち合うべき事としてお示しになったのだという思いで、コピーしたものをロビーに置いておきますので、みなさんそれぞれ手にとって読んでいただければと思います。
人類が過去の教訓に耳を傾ける事をやめるとき。それは再び過ちが繰り返されるときかも知れません。決しておぞましい殺戮兵器が乱用される時代となりませんように、世界の一人一人と心を合わせて祈りたいと願っております。

さて、本日は創世記6章の「ノアの箱舟」の箇所からみ言葉を聞いていきます。
水曜日の聖書の学びの時でしたが。ノアの時代のその洪水の原出来事は、「5千年前に実際に起こった歴史的事実であった」と力説されている方の文書をSさんから見せていただきました。
何でも五千年前にメソポタミヤ地方が気候の大変動に見舞われ、ユーフラテス川上流の高原の気候が一気に寒冷化し、積雪量が増大し山々に大変な雪が降り積もったそうです。そういう異常気象による寒冷化によってユーフラテス川上流の高原に降り積もった膨大な雪が春先に一気に溶けて、その雪解け水が当時この大洪水を引き起こしたと、ということであります。
まあ、聖書には四十日四十夜雨が降り続いたとありますし、実際どうだったのか、様々な状況が重なってのことなのか、わかりませんが。少なくとも近年のこの異常気象と、それに伴う今まで私たちが経験したこともない事態が次々と起こってくる中で、何かノアの時代の洪水の出来事が、単なる絵空事ではなく、むしろ非常にリアルに思えてくるのは私だけではないでしょう。

世界の諸国において45度を超す熱波や-50度を下回る寒波、想像を絶するようなハリケーン、ゲリラ豪雨 等々、 世界は今至るところで記録的な異常気象に見舞われています。そんな中で、北極海では海氷がかってないほど減少し、厚い氷で覆われたグリーンランドでも島の全域で氷の溶解が観測されているそうです。さらには、世界の90%の氷が集中しているといわれる南極は、これまでは、たとえ温暖化が進んでも、氷が大きく溶け減少することはないと考えられてきたのですが。しかし多くの研究者たちの調査によって、単に氷解が進むというだけでなく、今後南極大陸を覆っている実に60%の氷床が溶ける可能性があり、その結果、世界の海面上昇は9メートルにも達するという可能性があることがわかってきたそうです。当然、周辺の小さな島は沈んでしまいますし、日本の海岸沿いにある原発もみな海に浸かってしまう計算になるそうです。

先の、ノアの大洪水は歴史的事実だったと記事を書かれた方は、その小論のテーマを「地球温暖化にノアの箱船は何を告げるのか」とつけておられたのが、大変示唆的だと思いました。本日のこの箇所を実に私たちの事柄ととし真摯に受け取ってまいりたいと願っております。

さて、先に読みましたアダムとエバが楽園から出ていかざるを得なくなった記事に続き、4章にはカインとアベルに描かれます兄弟殺しの記事が記されておりますが。これらは、神と人との関係崩壊が人と人との関係崩壊へ結びついているということであります。そしてそれが今日の6章に至っては、全被造物の崩壊へつながっていくのです。
注目すべきは、人が心に思い計ってなした悪、堕落、不法によって神との関係崩壊が起こり、さらに人と人との関係崩壊、それはさらに被造物すべての崩壊、すなわち神の創造の秩序の崩壊に至るということがここに語られているのです。

5節以降で、「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」という記載がなされています。そうして遂に、主は「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」とおっしゃるのであります。本当に重たい造り主なる神さまのお言葉であります。
さらに11節以降には、「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた」と記され、神は、ノアに「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」と宣言されているのです。

ここに至っては、神に立ち返ることなく悪を繰り返し、どこまでも堕落していく人間と、不法に満ちる人の世に対する神の妥協なき審判が読み取れます。
重ねて申しあげますが、神を拒み、神から造られたという謙虚さと畏れを無くして心の思い計るままに振舞う人間を、神は地上からぬぐい去るだけでなく、家畜も這うものも空の鳥ももろともに地上からぬぐい去ろう、とおっしゃるのです。
私たち人間の神への背信が、私たち人間を取り巻く生きものの命さえも消滅させてしまうことがここに示されております。

今日の時代はかつてないスピードで多くの動植物の絶滅危惧種が増えているということで、すでにこの地上から姿を消した生物は860種あると言われているそうです。
さらにその存在が危惧されてものの中には、身近な生き物と思っていたゲンゴロウやミズスマシなどの昆虫からライオン、ゴリラ、シロクマなどもあげられるそうですが。

天地創造の1章の箇所で、お造りになったすべてのものを御覧になり「見よ、それは極めて良かった」と絶賛なさった神が、この6章で「地上からぬぐい去ろう」とおっしゃらずにはいられなかった。その人類の罪深さ。いまだ地上の良き管理人とはなれない現代の私たちは、神さまの御目にどのように映っているでしょうか。「わたしはこれらを造ったことを後悔する」とおっしゃる主のお言葉は大変重いものであります。

しかしながら、その6節に、主は「心を痛められた」とある、その一語に私たちは主の深い慈しみを知ることができます。それはたとえば、我が子が迷い出たことに心痛め困惑する親の姿とも重なります。イエスさまが語られた放蕩息子の帰りを待ち続ける父親の姿もそうでしょう。神は、人が心に思い計ることが常に悪いものであることをご存じでありながら、御心から離れ暴走の果てに滅びへ向かう私たち人間の行く末について心を痛められるのであります。それは単なる怒りや分断の思いではなく、我が子が滅びゆく危機に対するいたたまれない思い、悲嘆に暮れる、そのようなみ思いであるといえるでしょう。

では、神さまも人ももはや希望を見出し得なかったのか?
そこに聖書は一人の、「主の好意を得た」ノアを登場させるのです。
彼については5章29節に「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の労苦を、この子は慰めてくれるであろう」と言って、ノア(慰め)と名付けられた、と記されていますが、それ以外の詳しいことは何も記されていません。ただ注目すべきは、すべての被造物が滅びの危機に向かう中にあって、ノアが主の好意を得たという希望であります。それはたとえ一人であろうとも希望なのです。
では、ノアはどうして主の好意を得たのだろうと当然お考えになるところだと思いますが。実は、このノアが「主の好意を得た」と訳されている原語を直訳すると「ノアは主の御目の中に恵みを見つけた」という意味で、それは彼自身が主なる神さまの慈愛のまなざしを見出す人であった、ということなんですね。だから何かノア自身が人一倍
立派であったとか優れていたとかいう事ではなく、何よりも「主の恵みに生かされていることを知る人」であったということであります。

先ほど主が心を痛められたというその記述は、我が子が迷い出たことに心痛め困惑する親の姿、又、放蕩息子の帰りを待ち続ける父親の姿であることについて触れましたが。
まさに主は慈愛の神であられることをノアは「主の御目のうちに見ていた」人なのです。そこに神と人との心と心を通わす命の交わりがあったのですね。

ノアについてこうも記されています。
「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」と。
こうして無垢であると言いますとピュアな人、純粋な人というイメージで読んでしまいますが。実はそう読むよりも口語訳では「正しい」と訳されていて、それはつまり「神に従う正しさ」が備わった人であったと読んだ方がよいかと思います。
ですから、先の説明のとおり、「神の恵みを知る人」としてノアは、「神に対してまっすぐに、実直に従う人」であったということですね。

今日の聖書のメッセージの中心は、神は罪深い私たち人間の滅びゆく危機にあって、なおもその慈しみの愛をもって私たちが立ち返って生きることを絶えず願っておられるのであります。
さらに、生ける主は、今日の時代に生きる私たちに向けて、ノアのように世の風潮に流されことなく、主の御目のうちに恵みを見つけて生きる者を探し求めておられるということです。

14節から、神はノアに「ゴフェルの木の箱舟を造りなさい」と命じ、その箱舟の大きさから詳しい構造や間取り、アスファルトでピッチをして水漏れを防ぐことにまで言及されます。さらに箱舟に入るものについても指示をなさるのですが。興味深いのは、同じ記述の7章2節以降には、主はノアに「あなたは清い動物すべてを7つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい」とある点です。ここでは、清い清くないものをそれぞれ取って箱舟に入れたということが強調されています。そこには、主の御手により、すべては秩序をもって造られたものであり、排除しないという主の御意志が示されていることが読み取れます。まさに世界は多様性をもってゆたかに織りなされるものであるということでありましょう。

そうして、「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」とあります。
ノアはまさに神に信頼するという正しさをもって箱舟を造り、後世に命をつなげる役割を果たしていくのであります。

私たちも、主イエスの贖いによって滅びから免れる者とされています。この主の救いの恵みを伝え、分かち、証しするという主の召しに従い行き、共にその救いに与っていく人が一人でも起こされていくように用いられたいものです。たとえどのような時代であったとしても、「神の御目のうちに慈愛と恵みを見ていた」ノアのように今週もこのところから遣わされてまいりましょう。

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