日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

ヨシヤ王の礼拝改革

2011-03-30 18:42:20 | メッセージ
宣教 列王記下23章1~10節 

み言葉の発見によって主との正しい関係を見出したヨシヤ王が次になしたこと、それはユダの民全体に与えられた「主なる神との契約の更新」であります。そして、その具体的表明としての「礼拝の改革」であったのです。

1節「そこで王は人を遣わして、ユダとエルサレムのすべての長老を自分のもとに集めた」。
この長老は地方にそれぞれいた首長のような働きを担っていた役人でもあったようで、重要な事態の折、王に召集されたということです。

2節「王は、ユダのすべての人々、エルサレムのすべての住民、祭司と預言者、下の者から上の者まで、すべての民と共に主の神殿に上り、主の神殿で見つかった契約の書のすべての言葉を彼らに読み聞かせた」。

「王がすべての民と共に主の神殿に上った」。ここに「すべての」人々、住民、民にという言葉が出てきます。ヨシヤ王は「発見したみ言葉」(契約の書)が自分一人だけのもの、又特別な一部の祭司や預言者だけのものとせず、ユダの民全体に与えられたものとして、そのみ言葉をユダのすべての人々に伝えるべく、読み聞かせました。
ここにヨシヤ王の礼拝改革の要がありました。

このところを読んだ時に、あのマルチン・ルターの宗教改革が思い浮かんできました。
彼の宗教改革はよく知られておりますが。その大きな功績の一つは、一部の人しか手にして読むことができなかった聖書、神の言葉を万民が読めるようになしたということです。「すべての人が知るべきみ言葉」。その重要性をヨシヤ王はルターよりもずっと昔の時代に見出したのです。彼は単なる政治的王ではなく、霊的な指導者でもあったのです。

プロテスタント教会は御言、宣教を重んじます。主の言葉にこそ、人を生かす命の言、真理の道であると知り、大事にしているからです。又、すべての人々に命のみ言葉を知らせること。証しを立てていくことを託された使命として捉え、努めています。たとえ小さな私たちでも、ヨシヤ王のようにみ言葉を受け、伝える者として召されているのです。このヨシヤ王の時代もそうでしたが、不安と動揺の広がる時だからこそ、ここに私どもも立ち続けなければなりません。主イエスの内にとどまり続けなければなりません。

さて、そのようにすべての民を呼び集めてどのようなことがなされたのかと言いますと、3節「それから王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った。民も皆、この契約に加わった」とあります。
ここに契約という言葉が出てまいります。そもそも旧新約の聖書は、神と人との間に結ばれた、契りを交わした契約の書なのです。旧約において元々、イスラエルの民と主なる神の間にはシナイ山の契約があり、すべての民は律法を守ることを誓いました。ところが民はその契約を破って主を裏切り続けてきたのです。ヨシヤ王はみ言葉の発見によって、如何にこれまでイスラエルの民が主に逆らい続け、主を悲しませ、怒らせてきたかを知ったのであります。ヨシヤ王だけでなく、又祭司や預言者だけでなく、ユダとエルサレムのすべての人々が、主の御前に立って、今一度、主との契約を確認し、更新する必要がありました。この事はとても大事なメッセージであります。
話は変わりますが。今回の震災を天罰だとか、神罰だとか言われた某都知事や某牧師がいますが。それを言った方は一体どこに立っているのか正に問われています。天や神のせいにしてはならないのです。この震災は私たち一人ひとりに問いかけられたものであり、警告でもあるからです。

ユダのすべての民が契約を更新していく柱となったのが、申命記6:4,5の次のみ言葉です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の神である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
私どもは今新約つまり新しい契約に生きています。それは主イエス・キリストによる救いの契約であります。この主イエスによる契約を日々更新しつつ、恵みに応えて、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主を愛する」生涯へと招かれているのです。
3節をもう一度読みますが。「王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った」とあります。

み言葉を単に知っているだけでは意味がないということであります。
「主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、・・・み言葉を実行する」。歩み、守り、実行するという言葉に表されますように、歩むこと。み言葉を守り、実行して生きてゆくところに実りある信仰生活がもたらされるということです。
ここが本日の礼拝改革の重要なポイントであります。ヨシヤ王は、ユダとエルサレムのすべての人々がみ言葉を知ることができるように努めましたが。それだけで終わらず、み言葉を守り、実行することを主の前で、そのすべての人々と共に誓い、行動に移していった。礼拝においても、み言葉をすべての人に伝え、知らせる働きがあります。
しかしそれだけでなく、私ども礼拝する者自らが、み言葉をただ聞くだけで終わらせるのではなく、心を尽くし、魂を尽くしてみ言葉を守り、実行して生きていくところに礼拝の真の意義がありますい。それこそが証しとなっていくのであります。

4節以降を読みますと、まず手始めにバアルやアシュラへの偶像礼拝の禁止とエルサレムからの偶像撤去、焼却がなされました。又、ユダの町々から祭司のすべてをエルサレムに呼び寄せたとあります。これを今日的にどのように受けとっていけばよいのでしょうか。世の中にはたとえば拝金主義という偶像が満ちています。文明や科学技術の進歩、経済発展を遂げて来た日本でありますが、その恩恵を確かに受けているのでありますが。一方でそれらの影の部分として、自然破壊、CO2の排出、温暖化を引き起こし、異常気象、大地震、大津波、ハリケーンとつながっていると言われています。今回の大震災や原発事故(安全神話)から、私たちの立ち処やライフスタイルが本当に問われている事は確かな事であります。まず礼拝から、各々の立ち位置を整えられていく必要があります。
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祈りの課題②

2011-03-27 09:37:02 | 巻頭言
東日本大震災(東北地方太平洋沖大地震)から二週間が経過しました。
この大震災・大津波によってお亡くなりなられた方、行方不明となられている方々が2万7千人以上にものぼることが明らかになりました。今現在も被災された方々の不安や恐れ、悲しみや悩みは尽きません。必要な援助や支援の手がまず届き、一時的にではあるかもしれませんが、避難生活を余儀なくされている方々には生活と衣食住がいき渡り、整えられていきますように祈らずにおれません。また居住地から離れて町村ごと移動を強いられ苦渋の選択をせざるを得ない多くの被災者がおられることを知らされ心が痛みます。更に原発事故による放射性物質が大気、雨を通して野菜や水道水にまで混入し、被災地をはじめ関東地方の人々にもその恐れと不安が広がっています。派遣作業員3名が原発内で1万倍の高濃度放射性物質に被ばくしたというショッキングなニュースが流れました。
これは元教会員の姉からの情報ですが、以前住んでいた宮城県石巻市はこの大震災で壊滅的な被害が出ており、被災地の方々が今緊急に現地では買う事の出来ない生活物資を必要としているというSOSが教会員の姉に入ってきたという連絡がありました。礼拝後にアピールして頂きます。被災された方々の思いは想像しがたいものがありますが、まず心を合わせて主に祈り続け、私たちにできることをなしてまいりましょう。
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発見された生きた神の言

2011-03-25 16:33:27 | メッセージ
宣教 列王記下22章14~20節 

先日ある方から聖書の時代に女性祭司はいたのですか?という質問を受けました。又、祈祷会でも女性預言者について身分保障があったのですかというような質問がありましたので、少し調べましたところ。旧約の古い時代より女性祭司は確かに存在していました。
それが後期ユダヤ教時代、さらに新約聖書時代になりますと祭司は男性に限定されるようになっていきました。一方、預言者はどうかといいますと、このフルダよりも前の時代デボラ(士師4・4)という女性預言者がいました。女性祭司は旧約時代に限定されていますが、新約聖書ルカ2章で「女性預言者アンナ」が登場していますように、女性預言者は女性祭司とは異なり旧新約時代を通じて存在し活動していたということがわかります。
又、祭司の職はその立場や身分が保障されるものですが、預言者は神の一方的な選びによって立てられたゆえに社会的地位などは祭司を兼ねた預言者やいわゆる宮廷お抱えの預言者でない限り特別な保障はなかったのでしょう。それどころか逆に真実に主の言葉を伝える預言者はイエスさまもおっしゃっていますように、その民から迫害され排斥される場合も多かったのです。

さて、ヨシヤ王が「この見つかった書の言葉について・・・・主の御旨を尋ねに行け」と祭司ヒルキヤらに命じたとき、彼らが宮廷のお抱え預言者や男性預言者にではなく、女性預言者フルダのもとにわざわざ行ったというのですね。これには恐らく、そこまで国内にいた宮廷のお抱えの預言者(神殿付属の職業的預言者)たちへの不信感があったのではないかと思われます。この当時、神の教えではなく、自らの保身のために教を説くようないわゆる偽預言者が多くいたようであります。それに対して今回登場する女性預言者のフルダは宮廷のお抱え預言者ではなく、何からも束縛されていなかったゆえに、彼女は神から受けた言葉をまっすぐに語る務めを忠実になしていたと思われます。彼女も又、「国の民」の一人ではないか、とも言われています。祭司ヒルキヤや「国の民」たちが、彼女のもとに「見つかった書の言葉について主の御旨を尋ねに行った」のはそういう理由からであったのでしょう。

神殿で見つかったみ言葉について、旧約の申命記の原型とも言われ、神とイスラエルの民との契約について記された律法の骨格となるものでした。そこには神の律法を守る者に与えられる祝福とともに、律法の教えを捨てる者への恐ろしい神の怒りも記されていたのです。ヨシヤは幼少の頃から「国の民」らによって宗教教育を受けてきました。が、それを文字をとった言葉、み言葉として目の当たりにし、読み聞かされた時、彼は胸を突かれたのです。「主への強い畏れ」の念に打ち砕かれたのであります。

ヨシヤは、み言葉をまっすぐに受けとめました。み言葉に捕えられた彼は、主に立ち帰る機会・時を逃しませんでした。この後23章以降、彼は王として出来る最大限の力を発揮して民全体を悔い改めへと導くのです。これが、後に語り伝えられる「ヨシヤ王の宗教改革」となるのであります。それはすべて、「み言葉の発見」が彼のうちに起こったことによります。彼がもし、見つかった書の言葉について、ああこれは先祖が犯したことなんだから先祖が悪い、自分には関係ないといって済ませていたとしたなら、又畏敬の念をもって主の御旨を尋ね求めることをしなかったなら、歴史上この重大な「み言葉の発見」も単なる形式的なものに終っていたことでしょう。彼の最大の務めは、主の御旨が何であるのかを把握することにあったのです。

主はそのようなヨシヤ王に、預言者フルダを通して次のように語られました。
18節「主の心を尋ねるためにあなたたちを遣わしたユダの王にこう言いなさい。あなたが聞いた言葉について、イスラエルの神、主はこう言われる。19節「わたしがこの所とその住民につき、それが荒れ果て呪われたものとなると言ったのを聞いて、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしはあなたの願いを聞き入れた、と主は言われる」。
主は、ヨシヤが主に対して罪を犯したことに心を痛め、主の前にへりくだり、衣を裂き、主の前で泣いたことごとすべてを知っておられたということです。

今日のテーマは「み言葉の発見」です。
この神殿で見つかったみ言葉には神の怒りと呪いが含まれていました。が、そのみ言葉の根本は「神は民を知っておられる」というメッセージが込められていたのです。ヨシヤはこの神の御心をみ言葉から発見したのです。このことによってヨシヤ王と南ユダは再び主の御旨を知り、主に立ち返って生きることが赦されるのです。

この「み言葉の発見」は何もヨシヤ王や南ユダに限られたことではありません。
実は今や私たちもイエス・キリストによってヨシヤのように「み言葉の発見」を日々の生活の中で、又礼拝や祈祷会の中ですることができるのです。たとえば、独自に聖書に関する知識や聖書研究をすることは、み言葉を知り、学ぶために有効な助けになるでしょう。しかし、それがそのまま「み言葉の発見」になるものではありません。礼拝や祈祷会で分かち合い、祈られつつ、自分のこと、私たちのこととして聞いていく時に初めてそれが生きたみ言葉として響いてくるのです。ヨシヤ王がよいお手本です。彼は律法の書を単なる学習のため、あるいは評論的なものや、第三者的なものとして読んだのではなく、それを主が自分に語られたみ言葉として受けとったのです。それが「み言葉の発見」です。そこには広がりと豊かさがあります。主の言葉に真摯に向き合っていた人物として女預言者フルダもまた同様であったと言えましょう。彼女は、王や役人を怖れることなく、又自分の保身のためにでもなく、ただ主から預ったみ言葉をまっすぐに伝えたのです。その点で女預言者フルダもヨシヤ王も共に、本当に畏れ敬うべき方が、どなたであるのかをよくわきまえていた。彼らはその騒がしい罪の世の時代にあって、主をのみ畏れ敬いつつ、主を仰ぎ見て生きたのです。私どももそのようにみ言葉に誠実に生きる者でありたいものです。
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ヨシヤ王の礼拝改革

2011-03-25 15:57:23 | メッセージ
み言葉の発見によって主との正しい関係を見出したヨシヤ王が次になしたこと、それはユダの民全体に与えられた「主なる神との契約の更新」であります。そして、その具体的表明としての「礼拝の改革」であったのです。

1節「そこで王は人を遣わして、ユダとエルサレムのすべての長老を自分のもとに集めた」。
この長老は地方にそれぞれいた首長のような働きを担っていた役人でもあったようで、重要な事態の折、王に召集されたということです。

2節「王は、ユダのすべての人々、エルサレムのすべての住民、祭司と預言者、下の者から上の者まで、すべての民と共に主の神殿に上り、主の神殿で見つかった契約の書のすべての言葉を彼らに読み聞かせた」。

「王がすべての民と共に主の神殿に上った」。ここに「すべての」人々、住民、民にという言葉が出てきます。ヨシヤ王は「発見したみ言葉」(契約の書)が自分一人だけのもの、又特別な一部の祭司や預言者だけのものとせず、ユダの民全体に与えられたものとして、そのみ言葉をユダのすべての人々に伝えるべく、読み聞かせました。
ここにヨシヤ王の礼拝改革の要がありました。

このところを読んだ時に、あのマルチン・ルターの宗教改革が思い浮かんできました。
彼の宗教改革はよく知られておりますが。その大きな功績の一つは、一部の人しか手にして読むことができなかった聖書、神の言葉を万民が読めるようになしたということです。
「すべての人が知るべきみ言葉」。その重要性をヨシヤ王はルターよりもずっと昔の時代に見出したのです。彼は単なる政治的王ではなく、霊的な指導者でもあったのです。
私どものプロテスタント教会は御言、宣教を重んじます。主の言葉にこそ、人を生かす命の言、真理の道であると知り、大事にしているからです。又、すべての人々に命のみ言葉を知らせること。証しを立てていくことを託された使命として捉え、努めています。
たとえ小さな者でも、ヨシヤ王のようにみ言葉を受け、伝える者として召されているのです。このヨシヤ王の時代もそうでしたが、不安と動揺の広がる時だからこそ、ここに私どもも立ち続けなければなりません。主イエスの内にとどまり続けなければなりません。

さて、そのようにすべての民を呼び集めてどのようなことがなされたのかと言いますと、
3節「それから王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った。民も皆、この契約に加わった」とあります。ここに契約という言葉が出てまいります。そもそも旧新約の聖書は、神と人との間に結ばれた、契りを交わした契約の書なのです。旧約において元々、イスラエルの民と主なる神の間にはシナイ山の契約があり、すべての民は律法を守ることを誓いました。ところが民はその契約を破って主を裏切り続けてきたのです。ヨシヤ王はみ言葉の発見によって、如何にこれまでイスラエルの民が主に逆らい続け、主を悲しませ、怒らせてきたかを知ったのであります。ヨシヤ王だけでなく、又祭司や預言者だけでなく、ユダとエルサレムのすべての人々が、主の御前に立って、今一度、主との契約を確認し、更新する必要がありました。この事はとても大事なメッセージであります。話は変わりますが。今回の震災を天罰だとか、神罰だとか言われた某都長や某牧師がいますが。それを言った方は一体どこに立っているのか正に問われています。天や神のせいにしてはならないのです。この震災は私たち一人ひとりに問いかけられたものであり、警告でもあります。

ユダのすべての民が契約を更新していく柱となったのが、申命記6:4,5の次のみ言葉です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の神である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
私どもは今新約つまり新しい契約に生きています。それは主イエス・キリストによる救いの契約であります。この主イエスによる契約を日々更新しつつ、恵みに応えて、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主を愛する」生涯へと招かれているのです。3節をもう一度読みます。「王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った」とあります。

み言葉を単に知っているだけでは意味がないということであります。「主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、・・・み言葉を実行する」。歩み、守り、実行するという言葉に表されますように、歩むこと。み言葉を守り、実行して生きてゆくところに実りある信仰生活がもたらされるということです。ここが本日の礼拝改革の重要なポイントであります。ヨシヤ王は、ユダとエルサレムのすべての人々がみ言葉を知ることができるように努めましたが。それだけで終わらず、み言葉を守り、実行することを主の前で、そのすべての人々と共に誓い、行動に移していった。礼拝においても、み言葉をすべての人に伝え、知らせる働きがあります。しかしそれだけでなく、礼拝する者自らが、み言葉をただ聞くだけで終わらせるのではなく、心を尽くし、魂を尽くしてみ言葉を守り、実行して生きていくところに礼拝の真の意義があります。それこそが証しとなっていくのです。

4節以降を読みますと、まず手始めにバアルやアシュラへの偶像礼拝の禁止とエルサレムからの偶像撤去、焼却がなされました。又、ユダの町々から祭司のすべてをエルサレムに呼び寄せたとあります。これを今日的にどのように受けとっていけばよいのでしょうか。世の中にはたとえば拝金主義という偶像が満ちています。文明や科学技術の進歩、経済発展を遂げて来た日本でありますが、その恩恵を私どもは確かに受けているのでありますが。一方でそれらの影の部分として、自然破壊、CO2の排出、温暖化を引き起こし、異常気象、大地震、大津波、ハリケーンとつながっていると言われています。今回の大震災や原発事故(安全神話)から、私たちの立ち処やライフスタイルが本当に問われている事は確かな事であります。まず礼拝から、各々の立ち位置を整えられていく必要があります。
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祈りに覚えて

2011-03-20 07:52:49 | 巻頭言
東日本大震災(東北地方太平洋沖大地震)から10日が経過しました。
この大震災・大津波によってお亡くなりになられた方々、行方不明となられている方々が現時点で2万人に迫るということが明らかになってきています。日本人以外の滞日外国人の方々の安否情報は全く伝えられていないという事であります。今現在も多くの被災された方々が難民状態におられます。更に原発の放射能漏れ事故によるは被ばくの被害が広がり、悲しみと不安が日本列島を覆い、もどかしさが募るばかりですが。そういう中被災された方々はもとより、がれきの山と洪水状態の危険な場所において救出活動されている消防隊員、警察官、自衛隊員や医療関係の方々。危機的な原子力発電所において不眠不休、命がけで務めておられる方々、給水活動をされている自衛隊、消防隊員の方々がおられます。又、被災地において炊き出しや夜回りの支援活動がNGOや教会を中心に始まっているという知らせも届いています。
被災地東北・北関東地方の連盟諸教会伝道所の現況報告が連盟のホームページより日々更新され伝えられておりますが。今のところ教会堂が倒壊したというような大きな被害は伝えられていません。が、被災した教会でまだ教会員やそのご家族の安否確認ができていないところもありますので詳細については把握できていないのが現状です。
このような大震災が起こったにも拘わらず、被災地の殆どの教会・伝道所では13日・主の日の礼拝が守られたということであります。中には普段の三分の一の礼拝出席であったという教会もあり心配はつきませんが、震災のただ中で礼拝を守り抜かれたその姿勢に心打たれます。連盟としては災害対策本部を設置し、今後も被災地の教会に関する情報収集と発信、募金活動、支援活動、祈りの要請など行っていくこととなりました。教会としても募金封筒を作成しました。引き続きお祈りとご協力をお願いいたします。
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祈りの課題。

2011-03-16 17:37:28 | 巻頭言
3月11日に発生しました未曾有の東日本大震災、及び大津波のために犠牲となられた方々に対し、心から哀悼の意を表します。いまだ、安否のわからない多くの行方不明者がおられることに対し、誠に心が痛みます。
目下、家族を亡くされ、家を失われた被災者の方々が行く場をなくして、避難所で、又孤立した場所において、いのちを必死につないで、保たれておられる方々に対し、心よりお見舞い申し上げますと共に、一刻も速い救助と必要な支援と物資が避難されている方々の隅々にまで行き渡りますよう、お祈りいたします。

この東日本大震災、及び大津波、原子力発電所事故に伴う放射能漏れに対し、一日も早い解決の道が示されていくように、礼拝、祈祷会においてみ言葉に聞き、祈り続け、日々出来ることをなしていきたいと願います。平安

「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力を身につけて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」フィリピ1章9~10節

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ヨシヤ王の神殿修復

2011-03-13 07:41:38 | メッセージ
宣教 列王記下22章1~13節より  

先週30代という若さで死の病を患ったヒゼキヤ王が主に切なる祈りをささげて、その寿命を15年延ばされたという記事を読みましたが。そのヒゼキヤ王も亡くなり南ユダ王国は彼の息子マナセが55年間王位を継承します。しかし21章に記されていますように、マナセが王位につくと、2-3「彼は主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣い、主の目に悪とされることを行った。彼はヒゼキヤが廃した聖なる高台を再建し、イスラエルの王アハブが行ったようにバアルの祭壇を築き、アシュラ像を造った。更に彼は天の万象の前にひれ伏し、これに仕えた」と記されています。又、そのマナセの後に息子アモンが2年間南ユダ王国の王位を継承しますが、20-22「彼は父マナセが行ったように、主の目に悪とされることを行った。父の歩んだ道をそのまま歩み、父が仕えた偶像に彼も仕え、その前にひれ伏し、先祖の神、主を捨て、主の道に歩まなかった」というのです。せっかくヒゼキヤ王を通して信仰の回復が起こされたのに、次の世代もその次の世代もと永きに亘り不信仰な時代が続くのであります。
しかし、そのような歴史の中においてもモーセの教えに忠実に生き、唯一の主なる神を礼拝しようという運動をずっと担ってきた政治的な指導者たちがいました。それが21章24節に出てくる「国の民」という集団であります。
結局、アモン王は家臣の謀反によって殺されるのでありますが、その謀反を起こした家臣を国の民が討って実権を握り、アモンに代えてその子ヨシヤをわずか8歳で王位に立てたのです。
ヨシヤは8歳から31年間ですから39才まで南ユダの王位にあったということでありますが、再来週読みます「宗教改革」を行った「偉大な善王」としてよく知られております。
本日の2節に「彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった」と述べられているとおりです。

けれども実は、この彼の宗教改革はヨシヤ独りの力によるものではなかったのであります。その陰には先ほどの「国の民」らの働きがあったのです。彼らは8歳で王となったヨシヤにモーセの教え・律法などの宗教的な教育を懇切丁寧に施してきたのです。この「国の民」の存在が王にとって如何に大きかったかということであります。家庭での親から子への信仰の継承や聖書の教育、礼拝の教育は本当に大事であります。しかしヨシヤの場合、父も祖父も「主の目に悪とされることを行った」とありますから、そうはいきませんでした。そのまま行けば「右にも左にもそれるような悪王」となっていたかもしれません。感性豊かな若き日にヨシヤが「国の民」と出会い、信実なる神への宗教的な教育を受けることがなかったなら、祖父や父のように彼もまた「主の目に悪とされることを行った」と聖書に記されるような生涯を送ったかも知れません。彼と関る人々の篤い信仰心こそが彼をそこまで育てたのだと知らされるとき、私たちも又、子どもたちや、若い感性に関る者としての務めが託されているということを思わされます。次世代への信仰の継承。それは神の民、教会に託された働きであるということです。今度の19日(土)連合教育委員会主催による「教会と青少年・若い人をどう生み育てるか」というテーマで一日研修会が大阪教会において開催されます。皆さまこぞってご参加くださり、この課題にみなで祈り取り組んでいきたいと願っております。

さて、ヨシヤがまず手がけたのは、神殿の修復でありました。ヨシヤ王26歳の時でした。それは国の民から教えられた、「唯一真の神を礼拝するため」になされたものです。
当時エルサレムの神殿には「聖なる高台」と称されるバアルの祭壇やアシュラの偶像がいくつも残存していたのです。まず、それらを取り除かねばなりませんでした。
この神殿の修復には、「取り除くことと、建て直すこと」の両面が必要であったのです。
ヨシヤ王は偶像や祭壇を取り除く一方、神殿をさらに強固にしました。それは、主の前に悪とされるものを捨て去ることによって、主の恵みの豊かさを確かなものとして築き直していく作業でした。このことは私たちの信仰生活においても大切な作業であります。
その神殿修復の真只中、大祭司ヒルキヤが「主の神殿で律法の書を見つけた」とシャハンにそれを託します。書記官シャハンからその書が読み上げられると、ヨシヤ王はそれを聞いて「衣を裂いた」というのです。それは強い悔い改めの思いを表す行為でした。ヨシヤ王は神とイスラエルの民との間に交わされた契約を思い起こし、その慈愛と恵みからあまりにもかけ離れてしまっているイスラエル・ユダの現実を思い、強く心を痛め、衣を裂いたのです。
ヨシヤ王は、大祭司ヒルキヤ、そして国の民であった、シャハン、アヒカム、アクボル、アサヤらに次のように命じます。13節「この見つかった書の言葉について、わたしのため、民のため、ユダ全体のために、主の御旨を尋ねに行け。我々の先祖がこの書の言葉に耳を傾けず、我々についてそこに記されたとおりにすべての事を行わなかったために、我々に向って燃え上がった主の怒りは激しいからだ」。(申命記29:24f)

ヨシヤ王の神殿の修復は、単なる建物の修復工事ではありませんでした。
ヨシヤ王は律法の書の発見を通して、まずイスラエルの先祖の犯した罪を自分自身のこととして主の御前に悔い改め、立ち返るべき者であることを心痛の思いで知らされます。
その中でこれまで主の契約をないがしろにしてきたユダの民の罪を告白し、主に立ち帰って新たに生きる決意を表します。それは過去のあゆみの検証と主に立ち帰って罪の過ちを二度と繰り返さないという表明であります。

ヒゼキヤ王の改革は聖なる高き所を取り除き、異教の祭壇や偶像を取り除く改革を行いましたが、しかしそれは後の時代に継承されず、エルサレムに再び偶像と祭壇が置かれ南ユダ王国は遂に荒廃してしまいますが、真の改革がそのヒゼキヤの曾孫に当たるヨシヤから起こります。それは「国の民」という、いつの時代にあっても唯一真の神への愛と信仰を貫く伴走者・サポーターたちよって改革がなされていったのです。それは、これまでの歩みを悔い改め、主に立ち帰って、唯一真の神を礼拝することこそ重要だという信仰復興運動であったのです。極めてシンプルなことではありますが、そこが私どものライフワークの要であることを再確認してまいりましょう。
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ヒゼキヤ王の死

2011-03-06 07:10:28 | メッセージ
宣教 列王記下20章1~20節  

本日の聖書の使信・メッセージは、実は主の恵みによって死の病から回復を与えられたヒゼキヤの生き方、つまり寿命を延ばされた15年の「生き方」についての話であります。言い換えますなら、主から頂いた恩恵とその与えられた時を如何に活かし、用いて生きるか否かという話であります。      

20章冒頭で、神の人・預言者イザヤは死の病にかかったヒゼキヤ王に、主の言葉として「あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい」と伝えました。まさにこのみ言葉は寿命を15年延ばされたヒゼキヤ王がその15年間絶えず求められていたことであったのです。

遺言といえば、一般的に財産や遺産相続などのために重要なものです。もちろん南ユダ王国の王としての財産の管理、王位継承問題とさまざま考えられることがあったでありましょう。しかしその根本に求められていますのは、「主の恵みに与った者として、何を伝え残していくか」ということであります。今を生きるキリスト者にとっても家族や又教会の兄弟姉妹、友人や知人らに何を伝え残してゆくのか、と考えることはとても大事なことであります。そしてそのことはひいては、自分に与えられている時、限りある命を、どのような姿勢で生きてゆくのかということに反映されていくわけであります。今年はそのような「生と死」の問題についての具体的な学び会を大阪教会で予定しています。

私たちはこの「家族に遺言をしなさい」という意味を一般的な遺言とは違う霊的観点から受けとらねばなりません。それは単に今ある財産や富を後世に残してあげるという事ではないでしょう。いくら財産や富を残しても、後世の人達がその残した人の遺志を受けとり、又それを相応しい形で活かし用いないのであれば、遺言の意味はないでありましょう。
ここで「家族に遺言しなさい」とは、単に遺産や財産を残すということではなく、主の恵みに与って生かされている者として、今与えられているものを最大限主のために捧げ、用いて生きるその姿勢を表しているのだと、そのように思いました。
又、この「家族」とはヒゼキヤ王にとって王位継承の家族のことでしょうが、普遍的な意味合いで読めば「神の家族」のことをも意味しているのでありましょう。主に導かれ、解放されて救われて来た神の民、神の家族への遺言であります。神は、「あなたが生かされている今この時を生かし用い、その信仰の姿勢を後に続く神の家族に示しなさい」と伝えているのであります。

12節以降に目を向けますと、バビロンの使者たちはヒゼキヤ王のお見舞いと称して、ユダ・エルサレムを偵察に来ます。13節「ヒゼキヤは使者たちを歓迎し、銀、金、香料、上等の油など宝物庫のすべて、武器庫、また、倉庫にある一切のものを彼らに見せた。ヒゼキヤが彼らに見せなかったものは、宮中はもとより国中に一つもなかった」とあります。ヒゼキヤはバビロンの使者たちの前で「私はこのように偉大な王だ、これだけのことを成し遂げた」ということを自慢して見せたのでしょう。そこに大きな罪の罠があったのです。
歴代誌下32章31節には実にこのようなことが記されています。「バビロンの諸侯が、この地に起こった奇跡について調べさせるため、使節を遣わしたとき、神はヒゼキヤを試み、その心にある事を知り尽くすために、彼を捨て置かれた」。
如何でしょう。ヒゼキヤ王は偶像を倒し、祈りの人であり、その業績によって人々からも仰ぎ見られるようになったのです。しかし主は残る15年の恵みの内に彼のその心を知り尽くしたいと願われ、試みられたのであります。そのことを読みます時に、主の恵みに与る私どもにとっても背筋が正される思いがいたします。

そこで、神の人・預言者イザヤは主の言葉をヒゼキヤに次のように伝えます。
17.18節「王宮にあるもの、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものが、ことごとくバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来る」。「あなたから生まれた息子の中には、バビロン王の宮殿に連れて行かれ、宦官にされる者もある」。

この主の言葉に対してヒゼキヤ王はイザヤに、19節「あなたの告げる言葉はありがたいものです」と答えたと記されています。そして、「彼は、自分の在世中は平和と安定が続くのではないかと思っていた」と記されています。

そこには、ヒゼキヤ王にとってはもはや自分の生きている時代のことしか考えが及んでいなかったということが明らかにされています。ここで問題なのは、その主の言葉を受けた時に、そこで自ら悔い改めることなく、今は大丈夫なのだ「ありがたいことです」と答えたということであります。若き日、イスラエル・ユダの王の誰も着手できなかった宗教改革をなし遂げ、困難な事あるごとに主の前に出て、祈り願って救われてきたヒゼキヤ王の姿はもはやここにはありません。もしここでヒゼキヤ王が、「主に、悔い改めの祈りをなし、主に立ち返って」15年の時を生きていたなら、これは分かりませんが、主は御心を変えられることも起こり得たかも知れません。
が、いずれにしろ、先にも触れましたように、20章冒頭で、主がヒゼキヤ王に対し「あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい」とのみ言葉に、ヒゼキヤ王は、15年間応えて生きることがなかったということではないでしょうか。
主が寿命を15年延ばしてくださったその恵みの時を、如何に生きるか否か、後の世代の人々や神の家族にその姿勢を示し続けるか否か、そのことを主は問い続けておられたのです。
私どもキリスト者は主の恵みのバプテスマにおいて、主と共に死に、主の新しい命に生かされている者であります。残されというよりも、与えられたこの地上の歩みの機会・チャンスを主の命に与る者として如何に生きてゆくか、何を伝え残してゆくかが問われている。そのことを今日のみ言葉から受け取っていきたいと願っています。
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