宣教 列王記下23章1~10節
み言葉の発見によって主との正しい関係を見出したヨシヤ王が次になしたこと、それはユダの民全体に与えられた「主なる神との契約の更新」であります。そして、その具体的表明としての「礼拝の改革」であったのです。
1節「そこで王は人を遣わして、ユダとエルサレムのすべての長老を自分のもとに集めた」。
この長老は地方にそれぞれいた首長のような働きを担っていた役人でもあったようで、重要な事態の折、王に召集されたということです。
2節「王は、ユダのすべての人々、エルサレムのすべての住民、祭司と預言者、下の者から上の者まで、すべての民と共に主の神殿に上り、主の神殿で見つかった契約の書のすべての言葉を彼らに読み聞かせた」。
「王がすべての民と共に主の神殿に上った」。ここに「すべての」人々、住民、民にという言葉が出てきます。ヨシヤ王は「発見したみ言葉」(契約の書)が自分一人だけのもの、又特別な一部の祭司や預言者だけのものとせず、ユダの民全体に与えられたものとして、そのみ言葉をユダのすべての人々に伝えるべく、読み聞かせました。
ここにヨシヤ王の礼拝改革の要がありました。
このところを読んだ時に、あのマルチン・ルターの宗教改革が思い浮かんできました。
彼の宗教改革はよく知られておりますが。その大きな功績の一つは、一部の人しか手にして読むことができなかった聖書、神の言葉を万民が読めるようになしたということです。「すべての人が知るべきみ言葉」。その重要性をヨシヤ王はルターよりもずっと昔の時代に見出したのです。彼は単なる政治的王ではなく、霊的な指導者でもあったのです。
プロテスタント教会は御言、宣教を重んじます。主の言葉にこそ、人を生かす命の言、真理の道であると知り、大事にしているからです。又、すべての人々に命のみ言葉を知らせること。証しを立てていくことを託された使命として捉え、努めています。たとえ小さな私たちでも、ヨシヤ王のようにみ言葉を受け、伝える者として召されているのです。このヨシヤ王の時代もそうでしたが、不安と動揺の広がる時だからこそ、ここに私どもも立ち続けなければなりません。主イエスの内にとどまり続けなければなりません。
さて、そのようにすべての民を呼び集めてどのようなことがなされたのかと言いますと、3節「それから王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った。民も皆、この契約に加わった」とあります。
ここに契約という言葉が出てまいります。そもそも旧新約の聖書は、神と人との間に結ばれた、契りを交わした契約の書なのです。旧約において元々、イスラエルの民と主なる神の間にはシナイ山の契約があり、すべての民は律法を守ることを誓いました。ところが民はその契約を破って主を裏切り続けてきたのです。ヨシヤ王はみ言葉の発見によって、如何にこれまでイスラエルの民が主に逆らい続け、主を悲しませ、怒らせてきたかを知ったのであります。ヨシヤ王だけでなく、又祭司や預言者だけでなく、ユダとエルサレムのすべての人々が、主の御前に立って、今一度、主との契約を確認し、更新する必要がありました。この事はとても大事なメッセージであります。
話は変わりますが。今回の震災を天罰だとか、神罰だとか言われた某都知事や某牧師がいますが。それを言った方は一体どこに立っているのか正に問われています。天や神のせいにしてはならないのです。この震災は私たち一人ひとりに問いかけられたものであり、警告でもあるからです。
ユダのすべての民が契約を更新していく柱となったのが、申命記6:4,5の次のみ言葉です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の神である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
私どもは今新約つまり新しい契約に生きています。それは主イエス・キリストによる救いの契約であります。この主イエスによる契約を日々更新しつつ、恵みに応えて、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主を愛する」生涯へと招かれているのです。
3節をもう一度読みますが。「王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った」とあります。
み言葉を単に知っているだけでは意味がないということであります。
「主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、・・・み言葉を実行する」。歩み、守り、実行するという言葉に表されますように、歩むこと。み言葉を守り、実行して生きてゆくところに実りある信仰生活がもたらされるということです。
ここが本日の礼拝改革の重要なポイントであります。ヨシヤ王は、ユダとエルサレムのすべての人々がみ言葉を知ることができるように努めましたが。それだけで終わらず、み言葉を守り、実行することを主の前で、そのすべての人々と共に誓い、行動に移していった。礼拝においても、み言葉をすべての人に伝え、知らせる働きがあります。
しかしそれだけでなく、私ども礼拝する者自らが、み言葉をただ聞くだけで終わらせるのではなく、心を尽くし、魂を尽くしてみ言葉を守り、実行して生きていくところに礼拝の真の意義がありますい。それこそが証しとなっていくのであります。
4節以降を読みますと、まず手始めにバアルやアシュラへの偶像礼拝の禁止とエルサレムからの偶像撤去、焼却がなされました。又、ユダの町々から祭司のすべてをエルサレムに呼び寄せたとあります。これを今日的にどのように受けとっていけばよいのでしょうか。世の中にはたとえば拝金主義という偶像が満ちています。文明や科学技術の進歩、経済発展を遂げて来た日本でありますが、その恩恵を確かに受けているのでありますが。一方でそれらの影の部分として、自然破壊、CO2の排出、温暖化を引き起こし、異常気象、大地震、大津波、ハリケーンとつながっていると言われています。今回の大震災や原発事故(安全神話)から、私たちの立ち処やライフスタイルが本当に問われている事は確かな事であります。まず礼拝から、各々の立ち位置を整えられていく必要があります。
み言葉の発見によって主との正しい関係を見出したヨシヤ王が次になしたこと、それはユダの民全体に与えられた「主なる神との契約の更新」であります。そして、その具体的表明としての「礼拝の改革」であったのです。
1節「そこで王は人を遣わして、ユダとエルサレムのすべての長老を自分のもとに集めた」。
この長老は地方にそれぞれいた首長のような働きを担っていた役人でもあったようで、重要な事態の折、王に召集されたということです。
2節「王は、ユダのすべての人々、エルサレムのすべての住民、祭司と預言者、下の者から上の者まで、すべての民と共に主の神殿に上り、主の神殿で見つかった契約の書のすべての言葉を彼らに読み聞かせた」。
「王がすべての民と共に主の神殿に上った」。ここに「すべての」人々、住民、民にという言葉が出てきます。ヨシヤ王は「発見したみ言葉」(契約の書)が自分一人だけのもの、又特別な一部の祭司や預言者だけのものとせず、ユダの民全体に与えられたものとして、そのみ言葉をユダのすべての人々に伝えるべく、読み聞かせました。
ここにヨシヤ王の礼拝改革の要がありました。
このところを読んだ時に、あのマルチン・ルターの宗教改革が思い浮かんできました。
彼の宗教改革はよく知られておりますが。その大きな功績の一つは、一部の人しか手にして読むことができなかった聖書、神の言葉を万民が読めるようになしたということです。「すべての人が知るべきみ言葉」。その重要性をヨシヤ王はルターよりもずっと昔の時代に見出したのです。彼は単なる政治的王ではなく、霊的な指導者でもあったのです。
プロテスタント教会は御言、宣教を重んじます。主の言葉にこそ、人を生かす命の言、真理の道であると知り、大事にしているからです。又、すべての人々に命のみ言葉を知らせること。証しを立てていくことを託された使命として捉え、努めています。たとえ小さな私たちでも、ヨシヤ王のようにみ言葉を受け、伝える者として召されているのです。このヨシヤ王の時代もそうでしたが、不安と動揺の広がる時だからこそ、ここに私どもも立ち続けなければなりません。主イエスの内にとどまり続けなければなりません。
さて、そのようにすべての民を呼び集めてどのようなことがなされたのかと言いますと、3節「それから王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った。民も皆、この契約に加わった」とあります。
ここに契約という言葉が出てまいります。そもそも旧新約の聖書は、神と人との間に結ばれた、契りを交わした契約の書なのです。旧約において元々、イスラエルの民と主なる神の間にはシナイ山の契約があり、すべての民は律法を守ることを誓いました。ところが民はその契約を破って主を裏切り続けてきたのです。ヨシヤ王はみ言葉の発見によって、如何にこれまでイスラエルの民が主に逆らい続け、主を悲しませ、怒らせてきたかを知ったのであります。ヨシヤ王だけでなく、又祭司や預言者だけでなく、ユダとエルサレムのすべての人々が、主の御前に立って、今一度、主との契約を確認し、更新する必要がありました。この事はとても大事なメッセージであります。
話は変わりますが。今回の震災を天罰だとか、神罰だとか言われた某都知事や某牧師がいますが。それを言った方は一体どこに立っているのか正に問われています。天や神のせいにしてはならないのです。この震災は私たち一人ひとりに問いかけられたものであり、警告でもあるからです。
ユダのすべての民が契約を更新していく柱となったのが、申命記6:4,5の次のみ言葉です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の神である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
私どもは今新約つまり新しい契約に生きています。それは主イエス・キリストによる救いの契約であります。この主イエスによる契約を日々更新しつつ、恵みに応えて、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主を愛する」生涯へと招かれているのです。
3節をもう一度読みますが。「王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った」とあります。
み言葉を単に知っているだけでは意味がないということであります。
「主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、・・・み言葉を実行する」。歩み、守り、実行するという言葉に表されますように、歩むこと。み言葉を守り、実行して生きてゆくところに実りある信仰生活がもたらされるということです。
ここが本日の礼拝改革の重要なポイントであります。ヨシヤ王は、ユダとエルサレムのすべての人々がみ言葉を知ることができるように努めましたが。それだけで終わらず、み言葉を守り、実行することを主の前で、そのすべての人々と共に誓い、行動に移していった。礼拝においても、み言葉をすべての人に伝え、知らせる働きがあります。
しかしそれだけでなく、私ども礼拝する者自らが、み言葉をただ聞くだけで終わらせるのではなく、心を尽くし、魂を尽くしてみ言葉を守り、実行して生きていくところに礼拝の真の意義がありますい。それこそが証しとなっていくのであります。
4節以降を読みますと、まず手始めにバアルやアシュラへの偶像礼拝の禁止とエルサレムからの偶像撤去、焼却がなされました。又、ユダの町々から祭司のすべてをエルサレムに呼び寄せたとあります。これを今日的にどのように受けとっていけばよいのでしょうか。世の中にはたとえば拝金主義という偶像が満ちています。文明や科学技術の進歩、経済発展を遂げて来た日本でありますが、その恩恵を確かに受けているのでありますが。一方でそれらの影の部分として、自然破壊、CO2の排出、温暖化を引き起こし、異常気象、大地震、大津波、ハリケーンとつながっていると言われています。今回の大震災や原発事故(安全神話)から、私たちの立ち処やライフスタイルが本当に問われている事は確かな事であります。まず礼拝から、各々の立ち位置を整えられていく必要があります。