礼拝宣教 ルカ10章38~42節
先週は「善きサマリア人」のたとえ話を読みました。
律法の専門家の「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」との質問に、イエスさまはユダヤの誰もが知っている「主なる神を愛する」ことと「隣人を自分自身のように愛する」ことの実践、それを実行することの大切さを説かれました。
そうは言われても、私が実際隣人を愛することの難しさがあります。そこにまずなりよりも、主イエスご自身が異邦人や罪人や世から忘れられ、見捨てられたような人、又敵対するような者さえその隣人となられ、最期は十字架の苦難と死によって贖いの業を成し遂げて、すべての人に永遠の命への道を拓いて下さった。究極的愛の実践をなして下さった。このイエスさまのお姿を思い、神の愛に満たされる時、私たちは「主なる神を愛し、隣人を自分のように愛する」者とされていくのです。主の招きに応えて生きていくものでありたいと願います。
「はじめに」
さて、本日の箇所は「マルタとマリアという2人の姉妹」のエピソードから、「必要なことは唯一つ」と題し、御言葉に聞いていきます。
始めに、「マルタという女性(姉の方)がイエスを家に迎え入れた」とあります。
そして、マルタはイエスさまを尊敬の思いをもって、とても大事な客人として、もてなしていこうとするのです。
このエピソードの前のルカ9章には、「イエスさまが5000人に食べ物を与える」記事がございますが。そこでは、イエスさまが、どこまでも後を追ってくる「人々を迎えて、食べ物を分かち合い、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」とあります。そのようなイエスさまの人々を「迎える」というお姿の中に、神と人とに仕える尊さを教えられるものでありますが。
このマルタもまた、心からイエスさまを迎え入れ、もてなしをなしていこうとするのです。
それは本当に尊い主への奉仕であり、働きであったといえるでしょう。
何よりもマルタ自身、唯主に心を向け、唯イエスさまのために奉仕するということに喜びを感じていたのです。そしてイエスさまご自身も彼女のその思いともてなしを快くお受けになるのです。
ところがです。マルタは自分がせわしなく立ち働いているにも拘わらず、「妹のマリアがイエスさまの足もとに座って、その話に聞き入っていた」事に憤慨するのであります。
「聞き入っていた」というのですから、もうマリアはイエスさまのお話に集中していて、周りの事など気にも留めていなかったのでしょう。
その間、「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」ということですが。おそらくマルタは、男弟子たちに紛れて座り込み、聞き入っているマリアを横目に見ながら心の中で、「マリアそろそろ手伝ってよ」「ほら、こんなに忙しいのよ」「いい加減こっちに来てよ」と、思いながらバタバタとしているうちに心を乱し、遂に堪忍袋の緒が切れてしまったのではないでしょうか。
マルタは「忙しい」と思った時に、そっとマリアのところに行って、「ちょっと一人じゃぁ無理だから手をかしてくれない」と一言いって、意思疎通することもできたかもしれません。まあ彼女はマリアの様子を伺いながら、じっと我慢して奉仕していたのでしょうか。
しかしもはや平静を保てなくなったマルタは、マリアのもとではなく、つかつかとイエスさまのそばに近寄って行き、「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか?手伝ってくれるようにおっしゃってください」と不平をいうのであります。
マルタは、自分から直接マリアにではなく、どうしてイエスさまにこのように言ったのでしょう。皆さんはなぜだと思われますか。(なぜでしょう?)
まあ、イエスさまの方からマリアに言ってもらえれば、彼女もきっと聞き入れるだろうと考えたのかも知れません。
自分が言えば、マリアから「いや今は話が聞きたいんだから」と返ってくるかも知れない。ややこしい。そんな考えもよぎったかも知れません。しかしそれは、マルタが自分で問題と思っているマリアの行動と直接向き合おうとせず、問題をイエスさまに丸投げしているようなものです。
マルタは始め、大切なお方としてイエスさまを迎え入れ、唯イエスさまのために奉仕する喜びの気持ちでいっぱいでした。ところが、じっとして何も手伝おうともしないマリアの態度が許せなくなり爆発したのです。そしてその矛先が大切なお客様であるはずのイエスさまに向かい、「わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」と、さらに「手伝ってくれるようにおっしゃってください」と、指図するのであります。喜びあふれて主を迎え入れ、奉仕していたマリアの姿は一体どこへいってしまったのでしょう。
「必要なことは唯一つ」
さて、イエスさまはそんなマルタにお答えになります。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
さすがイエスさまだなと思うのですが。感情的になっているマルタに、「マルタよ、マルタよ」と、実に彼女に対して優しく丁寧に呼びかけ、彼女自身に自分の陥っている状態に気づくように声をおかけになるのです。
この思い悩み、心を乱すという単語は、ギリシャ語原語で「メリムナオ」:いくつもに思いが分かれる、割れている」という状態をさします。イエスさまはそういう状態に陥っていたマルタに、「必要なことは唯一つだけである」と、諭されます。
「必要なことは唯一つだけ。」これは深いお言葉です。
現代に生きる私たちは何かと多くのことに心や思いが分かれてしまいがちな環境にいるのだろうかと思います。スマホ、ネット、テレビ、ほしい物、やるべきこと、心配事、もう様々な情報や状況でイライラしたり、ヘトヘトになったりしているようなことが時にないでしょうか。心がいろんなことに割れている状態です。そういう時代に生きる私たちにイエスさまは、「必要なことは唯一つだけだよ」と、きっとおっしゃっているんですよね。
さて、それにしても気になるのは、ここでイエスさまがおっしゃっている「マリアは良い方を選んだ」というお言葉です。良い方、悪い方があるなら、私は良い方のマリアのようにしよう、とお思いになる方もいらっしゃるかも知れません。
先週の祈祷会の聖書の学びの時にある方が、「礼拝の前後はマルタで、礼拝はマリア」と面白ことをおっしゃいました。なるほど、礼拝後の愛さん会の奉仕者のお姿が浮かびます。
また、ある方は、「若くて体が動いて奉仕ができていた時はマルタで、年老いて奉仕ができなくなるとマリアかなとも思える。マルタとマリアの両面をもっている自分がいる」と、おっしゃっていました。それも、なるほどなあと、お聞きしていたのですが。まあイエスさまは、いずれにしてもそのどちらかの優先順位をつけて色分けをしてはおられないのです。
ただマリアは彼女自身にとって最も必要であった「主イエスにある福音の言葉に聞く」との、その「良い方を選んだ」のです。
「良い方を選んだ。」英訳では「良い部分を選び取った。」その時、マリアにとってそれは「主のいのちの御言葉に聞くこと」でした。それこそ、その時の彼女にとって必要不可欠のことであり、彼女はそれを選び取ったのです。
先にも申しましたように、私たちも又日々の忙しさや沢山の情報、又人間関係で心が割れてしまうようなことが時に起こるときに、その中から何を選び取っていくのか、ということが真に重要であります。
さて、イエスさまはさらにマルタに、マリアが選んだ「それを取り上げてはならない」と言われます。
岩波訳には、「これは、彼女から取り去られることはないだろう」と、原語の直訳に近いかたちで訳されています。
つまり、何をもってしても神が与えておられる恵みは、彼女から取り去られることはまいだろう、と読んでいいかと思います。
使徒パウロは、主イエスの救いと神の愛を次のように書き留めています。ローマの信徒への手紙8章31節以降ですが。「だれがキリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か、云々、しかしこれらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛して下さるお方によって勝利をおさめています。」
このように、私たちもまた、人が何をもってしても取り上げることのできない唯一つのこと、その神の愛にある喜びを頂いていることに唯々感謝であります。
さて、再びマルタのことですが。
まあ、多くのことに思い悩み、心を乱しているマルタに対して主は、「マルタよ、あなたも主の御言葉をまず聞くことが必要です」と、主がおっしゃったかと言えば、そうではありません。イエスさまはそのような事は一言もおっしゃらないで、「必要なことは唯一つだけ」だとおっしゃるのです。
始めにも触れましたが、今日の箇所の最初のところに「マルタが、イエスさまを迎え入れた」とある通り、それは本当に心から喜びをもって迎え入れ、主イエスのために喜んで奉仕していくその姿勢でありした。それがマルタなりに選んだ最高の主に仕える方法だったのです。
クリスマスに「キャンドルサービス;燭火礼拝」をいたしますが。このサービスという言葉は元々「奉仕」という意味で、「礼拝」を示すものです。
そのように、マルタもまた、喜びと感謝をもって主を迎え入れてもてなすという「奉仕」する者であり、「礼拝」する者であったのです。
マルタは「主をもてなして迎える」というマルタのあり方で、「必要な唯一つのこと」。又、マリアは「今ここで主のいのちのお言葉に耳を傾ける」というあり方で、それぞれが「本当に必要な唯一つのこと」を選び取っていく。又、互いにそのあり方を尊重していく。そこに共に神を賛美する喜びの出来事が広がっていくのでしょう。
主のために仕えていたマルタ。しかし彼女の心はいつしか、いろいろな事で乱れ、せっかくの大切な唯一つのことを見失い、主に不平不満を漏らし、マリアを裁いてしまうのです。
私たちは、主とその御救いをおぼえ、喜びと感謝にあふれる時、主の御そば近く生きていきたい、又、この思いを持って仕えていきたい、との思いがおのずと湧いてまいります。その思いをどのように表していくのか。それはそれぞれ異なることでしょう。
日々の生活の中で、また教会やそれぞれの関係性の中で「必要なことは唯一つ。」この主イエスの御言葉に留まりながら、主の恵みに生かされつつ、今週もここから遣わされてまいりましょう。