日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

必要なことは唯一つ

2019-02-24 17:36:00 | メッセージ

礼拝宣教 ルカ103842節 

 

先週は「善きサマリア人」のたとえ話を読みました。

律法の専門家の「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」との質問に、イエスさまはユダヤの誰もが知っている「主なる神を愛する」ことと「隣人を自分自身のように愛する」ことの実践、それを実行することの大切さを説かれました。

そうは言われても、私が実際隣人を愛することの難しさがあります。そこにまずなりよりも、主イエスご自身が異邦人や罪人や世から忘れられ、見捨てられたような人、又敵対するような者さえその隣人となられ、最期は十字架の苦難と死によって贖いの業を成し遂げて、すべての人に永遠の命への道を拓いて下さった。究極的愛の実践をなして下さった。このイエスさまのお姿を思い、神の愛に満たされる時、私たちは「主なる神を愛し、隣人を自分のように愛する」者とされていくのです。主の招きに応えて生きていくものでありたいと願います。

 

「はじめに」

さて、本日の箇所は「マルタとマリアという2人の姉妹」のエピソードから、「必要なことは唯一つ」と題し、御言葉に聞いていきます。

始めに、「マルタという女性(姉の方)がイエスを家に迎え入れた」とあります。

そして、マルタはイエスさまを尊敬の思いをもって、とても大事な客人として、もてなしていこうとするのです。

このエピソードの前のルカ9章には、「イエスさまが5000人に食べ物を与える」記事がございますが。そこでは、イエスさまが、どこまでも後を追ってくる「人々を迎えて、食べ物を分かち合い、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」とあります。そのようなイエスさまの人々を「迎える」というお姿の中に、神と人とに仕える尊さを教えられるものでありますが。

このマルタもまた、心からイエスさまを迎え入れ、もてなしをなしていこうとするのです。

それは本当に尊い主への奉仕であり、働きであったといえるでしょう。

何よりもマルタ自身、唯主に心を向け、唯イエスさまのために奉仕するということに喜びを感じていたのです。そしてイエスさまご自身も彼女のその思いともてなしを快くお受けになるのです。

ところがです。マルタは自分がせわしなく立ち働いているにも拘わらず、「妹のマリアがイエスさまの足もとに座って、その話に聞き入っていた」事に憤慨するのであります。

「聞き入っていた」というのですから、もうマリアはイエスさまのお話に集中していて、周りの事など気にも留めていなかったのでしょう。

その間、「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」ということですが。おそらくマルタは、男弟子たちに紛れて座り込み、聞き入っているマリアを横目に見ながら心の中で、「マリアそろそろ手伝ってよ」「ほら、こんなに忙しいのよ」「いい加減こっちに来てよ」と、思いながらバタバタとしているうちに心を乱し、遂に堪忍袋の緒が切れてしまったのではないでしょうか。

マルタは「忙しい」と思った時に、そっとマリアのところに行って、「ちょっと一人じゃぁ無理だから手をかしてくれない」と一言いって、意思疎通することもできたかもしれません。まあ彼女はマリアの様子を伺いながら、じっと我慢して奉仕していたのでしょうか。

しかしもはや平静を保てなくなったマルタは、マリアのもとではなく、つかつかとイエスさまのそばに近寄って行き、「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか?手伝ってくれるようにおっしゃってください」と不平をいうのであります。

マルタは、自分から直接マリアにではなく、どうしてイエスさまにこのように言ったのでしょう。皆さんはなぜだと思われますか。(なぜでしょう?)

 

まあ、イエスさまの方からマリアに言ってもらえれば、彼女もきっと聞き入れるだろうと考えたのかも知れません。

自分が言えば、マリアから「いや今は話が聞きたいんだから」と返ってくるかも知れない。ややこしい。そんな考えもよぎったかも知れません。しかしそれは、マルタが自分で問題と思っているマリアの行動と直接向き合おうとせず、問題をイエスさまに丸投げしているようなものです。

マルタは始め、大切なお方としてイエスさまを迎え入れ、唯イエスさまのために奉仕する喜びの気持ちでいっぱいでした。ところが、じっとして何も手伝おうともしないマリアの態度が許せなくなり爆発したのです。そしてその矛先が大切なお客様であるはずのイエスさまに向かい、「わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」と、さらに「手伝ってくれるようにおっしゃってください」と、指図するのであります。喜びあふれて主を迎え入れ、奉仕していたマリアの姿は一体どこへいってしまったのでしょう。

 

「必要なことは唯一つ」

さて、イエスさまはそんなマルタにお答えになります。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

さすがイエスさまだなと思うのですが。感情的になっているマルタに、「マルタよ、マルタよ」と、実に彼女に対して優しく丁寧に呼びかけ、彼女自身に自分の陥っている状態に気づくように声をおかけになるのです。

この思い悩み、心を乱すという単語は、ギリシャ語原語で「メリムナオ」:いくつもに思いが分かれる、割れている」という状態をさします。イエスさまはそういう状態に陥っていたマルタに、「必要なことは唯一つだけである」と、諭されます。

「必要なことは唯一つだけ。」これは深いお言葉です。

 

現代に生きる私たちは何かと多くのことに心や思いが分かれてしまいがちな環境にいるのだろうかと思います。スマホ、ネット、テレビ、ほしい物、やるべきこと、心配事、もう様々な情報や状況でイライラしたり、ヘトヘトになったりしているようなことが時にないでしょうか。心がいろんなことに割れている状態です。そういう時代に生きる私たちにイエスさまは、「必要なことは唯一つだけだよ」と、きっとおっしゃっているんですよね。

 

さて、それにしても気になるのは、ここでイエスさまがおっしゃっているマリアは良い方を選んだ」というお言葉です。良い方、悪い方があるなら、私は良い方のマリアのようにしよう、とお思いになる方もいらっしゃるかも知れません。

先週の祈祷会の聖書の学びの時にある方が、「礼拝の前後はマルタで、礼拝はマリア」と面白ことをおっしゃいました。なるほど、礼拝後の愛さん会の奉仕者のお姿が浮かびます。

また、ある方は、「若くて体が動いて奉仕ができていた時はマルタで、年老いて奉仕ができなくなるとマリアかなとも思える。マルタとマリアの両面をもっている自分がいる」と、おっしゃっていました。それも、なるほどなあと、お聞きしていたのですが。まあイエスさまは、いずれにしてもそのどちらかの優先順位をつけて色分けをしてはおられないのです。

ただマリアは彼女自身にとって最も必要であった「主イエスにある福音の言葉に聞く」との、その「良い方を選んだ」のです。

「良い方を選んだ。」英訳では「良い部分を選び取った。」その時、マリアにとってそれは「主のいのちの御言葉に聞くこと」でした。それこそ、その時の彼女にとって必要不可欠のことであり、彼女はそれを選び取ったのです。

先にも申しましたように、私たちも又日々の忙しさや沢山の情報、又人間関係で心が割れてしまうようなことが時に起こるときに、その中から何を選び取っていくのか、ということが真に重要であります。

 

さて、イエスさまはさらにマルタに、マリアが選んだ「それを取り上げてはならない」と言われます。

岩波訳には、「これは、彼女から取り去られることはないだろう」と、原語の直訳に近いかたちで訳されています。

つまり、何をもってしても神が与えておられる恵みは、彼女から取り去られることはまいだろう、と読んでいいかと思います。

使徒パウロは、主イエスの救いと神の愛を次のように書き留めています。ローマの信徒への手紙831節以降ですが。「だれがキリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か、云々、しかしこれらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛して下さるお方によって勝利をおさめています。」

このように、私たちもまた、人が何をもってしても取り上げることのできない唯一つのこと、その神の愛にある喜びを頂いていることに唯々感謝であります。

 

さて、再びマルタのことですが。

まあ、多くのことに思い悩み、心を乱しているマルタに対して主は、「マルタよ、あなたも主の御言葉をまず聞くことが必要です」と、主がおっしゃったかと言えば、そうではありません。イエスさまはそのような事は一言もおっしゃらないで、「必要なことは唯一つだけ」だとおっしゃるのです。

始めにも触れましたが、今日の箇所の最初のところに「マルタが、イエスさまを迎え入れた」とある通り、それは本当に心から喜びをもって迎え入れ、主イエスのために喜んで奉仕していくその姿勢でありした。それがマルタなりに選んだ最高の主に仕える方法だったのです。

クリスマスに「キャンドルサービス;燭火礼拝」をいたしますが。このサービスという言葉は元々「奉仕」という意味で、「礼拝」を示すものです。

そのように、マルタもまた、喜びと感謝をもって主を迎え入れてもてなすという「奉仕」する者であり、「礼拝」する者であったのです。

 

マルタは「主をもてなして迎える」というマルタのあり方で、「必要な唯一つのこと」。又、マリアは「今ここで主のいのちのお言葉に耳を傾ける」というあり方で、それぞれが「本当に必要な唯一つのこと」を選び取っていく。又、互いにそのあり方を尊重していく。そこに共に神を賛美する喜びの出来事が広がっていくのでしょう。

主のために仕えていたマルタ。しかし彼女の心はいつしか、いろいろな事で乱れ、せっかくの大切な唯一つのことを見失い、主に不平不満を漏らし、マリアを裁いてしまうのです。

 

私たちは、主とその御救いをおぼえ、喜びと感謝にあふれる時、主の御そば近く生きていきたい、又、この思いを持って仕えていきたい、との思いがおのずと湧いてまいります。その思いをどのように表していくのか。それはそれぞれ異なることでしょう。

日々の生活の中で、また教会やそれぞれの関係性の中で「必要なことは唯一つ。」この主イエスの御言葉に留まりながら、主の恵みに生かされつつ、今週もここから遣わされてまいりましょう。

 

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夕べの礼拝ご案内

2019-02-23 10:19:11 | 教会案内

月24日(日)午後6時ー7時半  

これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金の時はあります。
 

 お車でお越しの方は、ご一報ください。


みなさまのご来会を楽しみにお待ちしております!



日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865

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隣人となられる主イエス

2019-02-17 13:36:56 | メッセージ

礼拝宣教 ルカ10章25~37節 

 

先週は働きを終えて喜びのうちに報告する72人の弟子たちに、イエスさまはそれとは比べることのできない喜び、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」とおっしゃたこと。さらに、父なる神さまを賛美して「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」ともいわれたそのところから主のメッセージを聞きました。

本日は、そういった主イエスのお言葉に、ある律法の専門家が反応して立ち上がり、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるのでしょうか」と、「イエスさまを試そうとして言った」というそのところから聖書に聞いていきたいと思います。

 

「試す」というのは、モノに使われるのはいいんですが。人に対して使われると、何だか嫌なもんですね。ちょっとあの人を試してみようとか、ドキッとします。それはどこか上から目線の悪意のようなものさえ感じられる気がしますが。

聖書の中には、神を試みてはならない、と書かれていますように、それは人の高慢を戒める教えであろうかと思います。

 

この律法の専門家は、神の戒めとその律法をよくよく学んできた人でした。永遠の命を受けるために律法を学び、その戒律を守るよう心掛けている、ユダヤ社会において自他共に認めるいわゆる立派な人であったのです。

だからこそイエスさまの、「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになった」とのお言葉がひっかかったのです。

 

すると、イエスさまは、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるのか」と反対に問い直します。

それに対して、律法の専門家は待っていましたとばかりに、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、思いを尽くして、あなたの神を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えます。

 

それは、イエスさまも「正しい答えだ」とおっしゃっているように、模範解答でした。

しかし、イエスさまはさらに「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とおっしゃるのです。

そこでこの律法の専門家は「はい」そのようにいたします、と答えたかといいますと、そうではありません。

イエスさまに、「では、わたしの隣人とはだれですか」と聞き返すんですね。

ここには「彼は自分を正当化しようとして」と記されていますが。正当化とは、「ある物事や自分の言動などを正しく道理に適っているように見せたり、理論づけたりすること」、と辞書に解説がありましたが。

彼がイエスさまに、そのように自分を正当化しようと尋ねたのにはわけがあったのです。

この「隣人愛」については、レビ記19章18節に記されています。開けてみましょう。旧約聖書新共同訳p.192。 「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」。前の16節から18節まで読んでみましょうか。(読む)

ここに民の間でとか、同胞とか、民の人々に、とあります。この隣人の原語:プレシオンは「すぐそばの人、自分の身近に感じる人、兄弟姉妹、同じ民族、同信の友など」を表しています。すなわち、彼にとって隣人といえば同胞のユダヤ人のことでした。

同胞に親切にするなどということは、普段から心がけているし、ユダヤ人として正しい生き方をしている。彼にはそういう自信があったのです。

一方イエスさまは、福音書にも記されているように、人を分け隔てせず、罪人と言われるような人や異邦人と食事を共にし、神の国をお語りになるお方です。

 

この律法の専門家は、イエスさまが普段からユダヤ人以外の異邦人やこのあとの譬え話に登場するサマリア人とも交流をもっていたことを知っていました。

彼はなぜ、ユダヤ人であるイエスさまが、「堕落した罪深いこのような者たちと関わるのか」との強い疑念にかられていたのでしょう。

まあ、そういうことがあって彼は、知恵ある者であり、賢い者でした。そしてそのことを自負していた。

まあ彼のそのような囚われの状態をイエスさまはつぶさに見抜かれ、その彼の問いかけに答える形で、「サマリア人のたとえ話」をなさるのですね。

 

サマリア人とその町は、かつてイスラエルが北王国と南王国とに分かれていた時代、北王国の主要都市でした。

しかしその崩壊後、他民族がそこに侵入し、偶像礼拝や倫理的堕落などが生じます。

それ以来、ユダヤ人たちは、サマリア人を神の名を汚した堕落の民、異教徒などと呼んで、罪人のように見なし、見下し、彼らとの交わりを絶ってきました。

もともとはイスラエルという一つの民、同胞の民であったにも拘わらず、強い確執が1000年もの間続いていたのです。

 

今日のこの律法の専門家もまた、そういう歴史を教えられて育ったことで、敵意と差別という見えない壁が彼の内に出来てしまっていたのでしょう。そうしたことから、彼にとってサマリア人は、「隣人」とは決して言い難いものであり、その対象とは成り得なかったのであります。

 

ここで、このたとえ話を少し丁寧に見ていきます。

ここに出てくるエリコは、イエスさまの時代は殺伐とした荒れ地で、そこを往来する旅人にとっては危険な道のりであり、時に追いはぎに襲われるような事もあったようです。

このたとえに出てくる追いはぎにあった人は、エルサレムからエリコに下っていたとありますことから、ユダヤ人としてイエスさまは語られています。

被害に遭い半殺しの状態で路上に倒れているユダヤ人を前に、同胞の祭司、さらにレビ人が通りかかります。

しかし、彼らはそれぞれ道の向こう側を通って行きました。彼らは共に神に仕える身でした。当然律法を知っているわけで、助けを必要とする同胞に手を差し伸べることは、とりわけ律法に適う行動のはずでした。

ところが無情にも向こう側を通り過ぎて行くのです。

 

彼らがそうした原因は2つ考えられます。

まず単純に怖かった。それは、追いはぎが行き倒れの旅人を装って、人を襲うようなことが実際起こっていたからです。その恐れから近づけなかった。

もう一つは、仮に追いはぎにあった人が亡くなっていて、もし死体にでも触れたとなれば、これも律法によって祭司はある期間神のみ前に立てないということで、神殿での務めを行えず、その責任を果たす事が出来なるということからです。

つまり関わろうとした彼ら自身の身の危険や厄介に巻き込まれるかも知れなかったのです。

まあそういう己の身を守るための知恵や賢さが先に働いてしまったんですね。

確かに、人のことを非難や評価することは容易いですが。けれども実際、私がそういった現場に居合わせることになったら、善を行う思いがあったとしても、果たしてリスクを冒してまで関わることができるだろうか?そう考えた時、簡単に彼らを責めることはできないことに気づかされます。

この祭司やレビ人から見えてくるのは、それがたとえ同胞であったとしても、隣人を愛するということが如何に難しいか、ということです。

どんなに口で愛だのなんだの言って、知識や理屈で語っても、本当にそれができるかどうか、行動に顕れるかは別のことなんですね。

 

譬え話に戻りますが。

さて、そこに3人目の通行人、サマリア人が現れます。

サマリア人については先に触れましたように、彼らはユダヤ人たちからは汚れた者として忌み嫌われ、見下されていたのです。

イエスさまはこのたとえ話にその「サマリア人」を登場させるのです。そして事もあろうに瀕死の状態にある「ユダヤ人」を介抱し、助けたのはこのユ「サマリア人」であったと語られるのです。

彼はそばに来て、その様子を見て憐れに思った。この憐れとは、礼拝で何度も話していますが。「断腸の思い、腸がちぎれるような思いで、相手の痛みを感受する」ということです。単に「可哀そう」とか「気のどく」というようなものではなく、先ほどもいましたが、

「もう自分の腸がちぎれるように痛むような思いで近寄り、介抱するんですね。もう、そこには敵、味方、積年の民族間の確執なんか彼にはどうでもいいことであったのでしょう。

しかも、この介抱の仕方は徹底しています。半殺しにされた傷だらけの体に消毒のための油とぶどう酒を注ぎ、丁寧に包帯をして、そうして自分の乗っていたろばに乗せ、自分はそれを引いて宿屋まで連れていくのです。

まあじつに大変なことですが、彼は憐れに思うその気持ちで、そうせずにはいられなかったのです。

また、宿屋についたとしても、歓迎されるはずもありません。彼は宿屋でも一晩かけて介抱します。またその翌日、宿屋の主人に銀貨2枚を渡して、「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」と言うのです。何という徹底ぶりでしょう。

このサマリア人は、いってみれば自分の精いっぱいの心と精神と力、そして思いを尽くして、傷つき倒れていた人を介抱したのです。そうして、この人は傷つき倒れている人の隣人となったのですね。

 

聖書教育の小学科の頁に、「あなたの隣人とはだれか」ということについて大変わかりやす書かれていましたので、少しお読みしたいと思います。

「隣人とは誰でしょうか?私の隣にいる人のことではありません。では、隣の家に住んでいる人のことでしょうか?いつも遊んでいる友だちのことでしょうか?まだ会ったことのない、知らない人は隣人といえるでしょうか?(中略)サマリア人は、倒れていた人の知り合いではありませんでした。知らない人でしたが、倒れて苦しんでいる人を放っておけなく助けたのです。サマリア人は、この倒れた人の隣人となったのです。

隣人とは、この人と、決まっている人のことではありません。」

 

この解説のように、イエスさまはこの譬えをとおして、「隣人を枠づけるような消極的な世界観」と「自分が隣人となる積極的な世界観」との違いをお示しになられます。

 

イエスさまが譬えを終えられると、この律法の専門家に言われます。

「だれが追はぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」

彼は「その人を助けた人です」と答えます。けれども彼は、「サマリア人」ですとは言わなかったのですね。

そこに彼の頑なさが読み取れますが。

イエスさまはそんな彼にさらに言われます。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

このイエスさまの譬えは、「隣人になる」ことが、どういうことであるかを教え、そのことを実践するようにとの促しを与えています。

けれど、どうでしょう。それだけでしょうか。

この話を聞いて、じゃあ私も聖書に書かれているからそうしなければならないというように、サマリア人を模範として生きることが命じられているだけとして読むなら、それはこのお話が、もう一つの律法にならないでしょうか。

 

しかし、この今日の聖書のメッセージが私どもの心に深く、確かなものとして強響いてきますのは、この譬え話を語られたイエスさまによって、他ならないこの私が助けられているのだという救いの事実にあります。

 

険しい人生の道のり、予期せぬ出来事、傷つき、倒れ、孤独のうちに息も絶え絶えであったような私。近しい存在、友人知人にも見捨てられ、置去りにされたように思えていたあの時。私に近寄り、腸がちぎれんばかりの慈愛をもって起こし、聖霊の油とご自身の血汐の清めをもって徹底的に介抱して下さったイエスさま。この神の御独り子イエスさまが私の隣人となってくださった。その大いなる福音の喜びと感謝。実はここから、私たちも又、隣人となる力を頂くことがでるんですね。

この主なる神の愛に生かされて今週も、ここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

 

祈ります。

主なる神さま。私たち自身、主と出会う前迄は、息も絶え絶えの望みなく傷ついた者でした。主はそのような私を、ご自分までも腸がちぎれるような思いをもって、痛まれ、憐れまれ、近寄って助け起こし、その十字架の愛によっていやしと救いを与えて下さいました。今もそうです。主よ、あなたに感謝します。
「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めて下さるので、わたしたちも神から頂くこの慰めによってあらゆる苦難の中にある人々を慰めることが出来ます。」アーメン。
この主の愛を携えて福音に生きるゆたかな日々を、今週もそれぞれに導いてください。

主の御名で祈ります。アーメン。

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天の国への招き

2019-02-10 20:00:52 | 教会案内

礼拝宣教 ルカ10・17-24 

 

今週は、明日の2・11信教を守る日の集会、水曜日のこども食堂、金曜日には連合女性会一日修養会が開かれます。主の恵みのもとでそれぞれの諸集会が祝されたものとなりますよう、お祈り下さい。

 

本日の聖書の箇所は、10章のはじめにイエスさまが多くの従って来た人たちの中から72人を任命なさって、町々に派遣されたとありますが。それは御自分が行くつもりのすべての町や村に、彼らを先に遣わし、平和と祈り、病をいやし、悪霊を追い出して、「神の国が近づいた」という福音の訪れを告げ知らせるためでした。その弟子たちがそれぞれの働きを終えてイエスさまのもとに帰って来て、その報告をする場面からとなります。

 

  72人の弟子たちの喜び」

はじめに、「72人は喜んで帰って来て、『主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します』と、言うのでありますが。彼らの高揚した様子が伝わって来る気がしますけれども。

そんな彼らの喜びの大きなウエイトを占めていたのは、「主のお名前を使うと、悪霊さえも自分たちに屈服した」ということでした。

前の940節には、12人の弟子たちが「悪霊を追い出すことができなかったので」、イエスさまが「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と嘆かれて、イエスさまご自身が悪霊を叱り、子どもがいやされたということがあったわけですが。

これに対して72人の彼らは、「悪霊も屈服するような働きの成果を得た」ということで、「このことをイエスさまに報告をすれば、きっとイエスさまもお喜びになり、お褒めに与れるにちがいない」との思いもあったのかも知れません。

 

そのような72人の弟子たちの報告をお聞きになったイエスさまは、次のように言われます。

18節「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。」

あなたに害を加えるものは何一つない。

何という力強いお言葉でしょう。

ただここを注意して読みますとそれは、弟子たちの業や能力によるのではありません。イエスさまから来る権威によるものだということがわかります。この、あらゆる悪しき力に打ち勝つイエスさまの権威によって、主の弟子たちは守りを得、働きに用いられるのです。

それは17節で弟子たちも言っているように、「主のお名前によって」という祈りと行動でありますが。

私たち一人ひとりも又、主イエスに救われ、その弟子とされた者として、この確かなる主イエスの権威とその御名をたたえつつ、信仰の証人として行きたいと願うものです。

 

②「あなたがたの名が天に書き記されている」

さらにイエスさまはその弟子たちに次のように言われます。

「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

 

「しかし」と、イエスさまの語調が変わります。

主の権威ある御業が顕されたことに、弟子たちがその経験を証しし合って、その場は大いに喜びに包まれ盛り上がったかに思えますが。

しかし、主イエスは、「いや、それ以上の測り知れない素晴らしい喜びがあるのだ」と、弟子たちにさとされるのです。

それは、「あなたがたの名が天に書き記されていること」。むしろ、「その比べものにならない恵みを喜びなさい」と、いわれているのです。

「名が天に書き記されている。」この事はすぐにはピンとこないかも知れません。まあ一般的な世の感覚としては、名をあげるとか、名を遺すとか、地上で自分がどうその名を認知されるかということを大事に考えます。けれども聖書はそうではないんですね。

 

この「天に名が書き記されている」というのは、旧約聖書ではすでに出エジプト記に出てきます。それは神のもとにあることを示す「命の書」であり、「神の民」として登録されていることを表しています。そういった命の書、そこに名を記されているか否か。記されているか、消されているか。それは、唯、主なる神さまのみ、なしえることなのです。

まあ、教会でも礼拝をはじめ伝道集会などを企画して行いますと、出席者や信仰決心者がどれだけ与えられたのか、ということばかり目がいってしまいがちであったり、そういった見方による評価によって喜んだり、逆に落胆してしまうようなことも確かにあります。

けれども、その目に見えることだけでは計り知れない恵みがあるのですね。

目に見えるところ、特別なことが起こらなくても、一人の人が、そこに集った一人ひとりが、「私は主におぼえられている」「私の名は天に記されている」と、主の愛と恵みを知ることができるなら、それはどんなに価値ある時となるでしょうか。そういったかけがえのない時、機会を主は備えていてくださるのですね。

ここでイエスさまが、「あなたがたの名」と、言っておられますけれども。

それは不特定多数の人たちということではなく、名前というのは一人ひとりの人格、存在をあらわすものです。神さまは天に書き記されている、その名をもつ一人ひとりをかけがえのない「いのち」として覚え、愛しておられるということですね。

 

聖書教育のコラムに、老人ホームに入所されている方々のエピソードが載っていましたが。名前でなく一様に、職員さんから「あばあちゃん」「おじいちゃん」と呼ばれていた方々は、みんな下を向いて何となく元気がなかったそうです。それで牧師が訪問の度に、その方々のお名前を呼んで接するようにすると、その呼ばれたお一人おひとりの顔が上を向いて、表情も明るくなったのだそうです。

 

イエスさまは、働きや成果を喜び合う弟子たちに対して、もっと大いなる喜び、すなわち、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」とおっしゃるのです。

業そのものより、まず、そのいのち、存在がイエスさまを通してかけがえのないものとして神に受け入れられている、天に名が書き記されている、先行する主の恵みのもとにあるということを、今日私たちも喜びとし、主に感謝しましょう。

 

  「主イエスの喜び」

さて、21節「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて」とあります。

このイエスさまの喜びは、72人の弟子たちの自分自身の達成感から来る喜びと全く異なったものでした。

ここにあるとおり、イエスさまは「聖霊にあふれ喜ばれた」のです。

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」とイエスさまが、父なる神さまを賛美します。聖霊があふれた時、何が起こるでしょうか。神への賛美です。ペンテコステに聖霊が臨まれた時も、弟子たちは各国の言葉で神さまを賛美しました。聖書のどこを呼んでも、皆、聖霊が臨まれた時、声高らかに神をほめたたえます。

主イエスはさらにこう言われます。

「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」

 

主イエスの喜びは、父なる神の御心が実現することです

イエスさまは十字架の死を前になさったとき、「この杯をわたしから取り除けて下さい」と祈られましたが。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」とおっしゃいます。

イエスさまはどこまでも父なる神を信じ、御心が行われることを願われます。

聖霊にあふれた喜び。そこには、神さまへの感謝と賛美、そして神さまの御心を信頼してやまない喜びがあふれてくるのですね。

 

さて、この「これらのこと」とは、何を指しているのか記されておりませんが。

今日の聖書を読みますと、それは、主とその権威に対する絶対的信頼のように思えます。

ここでいう「幼子」とは、乳児・嬰児のことを指しております。そのような幼子は自分で何ができるなど思いもつきません。唯、自分を愛し、助け、必要を与えてくれる存在、たとえば父親、母親、又同等の人がどんなに必要かを本能的にわかっています。それに唯、依り頼んで生きる存在です。

一方、知恵ある者、賢い者とは、どういう者でしょうか。

伝統的なユダヤ教では、神の秘儀、奥義をさとる者。それこそ、賢者や知者とされていたのです。

律法や戒めを学ぶ。それは立派なこと違いないことでありましょう。しかし、もしそこで様々な知識や知恵をたとえもっていたとしても、それがそのまま神の国へのパスポートのようになると思うのなら、それは本当に大切な神さまの愛と救い、神さまの権威がわからなくなり、見失ってしまうことになるのです。

 

イエスさまは、天地の主であり、権能者であられる父の神が、霊の乳を慕い求める乳児や嬰児のような存在こそ天の国とその御救に与る者として招かれていることを確信し、喜びにあふれたのです。

そうして、「そうです、父よ、これは御心に適うことでした」と、賛美されるんです。

 

イエスさまは福音書の中で、大人が子どもたちを追い払おうとした時、彼らをいさめて、子どもを真ん中に立たせ、「はっきり言っておく。だれでも子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と、そのようにおっしゃいました。

私たちも幼子のように父なる神さまの権威と救いに信頼して歩んでまいりましょう。

 

最後に、23節「イエスは弟子たちの方を振り向いて、弟子である彼らだけに言われます。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。

それは、父なる神の御心にどこまでも聞き従ったイエスさまに倣う弟子たちのようにように、幼子のように神を見上げ、神に信頼して生きる者です。

「言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

今日、私はこの個所から、「天の国への招き」という宣教題をつけさせて頂きました。

真に幸いなのは、天地の主、全能の神が、御独り子イエス・キリストにおいてなしてくださった救いの実現に堅く信頼し、幼子のように依り頼む者であり、唯、そのことによって、その名が天に書き記されている、その喜びあります。

今週もこの主イエスの「いのちの言葉」によって新たにされ、またこの礼拝からそれぞれの場へ、本日の主イエスの弟子たちのように遣わされてまいりましょう。

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主イエスの憐れみ

2019-02-03 18:16:50 | メッセージ

礼拝宣教 ルカ7・11―17 

 

本日は主イエスが夫のない母親の息子を生き返らせた記事から、「主イエスの憐れみ」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

 

「死の現実」

弟子たちや大勢の群衆と共にイエスさまが、ナインという町に近づかれると、12節にありますように、「ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人々が大勢そばに付き添っていた」と記されています。

夫に先立たれ、さらに今一人の息子を失った女性。この女性の辛さは計り知れません。

悲しみで泣き崩れるその女性に町の人が大勢付き添っている光景は、死のもたらす破壊的な力とその現実を物語っています。

もう三年前からでしょうか。この大阪教会を会場に、沖縄バプテスト連盟の那覇バプテスト教会の大浜牧師らが中心となって毎年秋に「キリスト者自死遺族の会」がもたれています。神さまを信じて来たのになぜ?といった周囲の声にさらされながら、信仰者であるがゆえに、教会にも周囲にも公に出来ない苦しみと孤独にあるキリスト者である自死遺族。

そのような痛みを抱える方々が共にその思いを開示し合い、御言葉に聞き、執り成し祈り合う会がもたれておりますが。今日の聖書の箇所から「ナインの会」と名付けられたということです。どのような形であれ、死は信仰をもっている者であっても悲しく苦しいものに違いはありません。

なぜ、この世に死があるのか。なぜこのナインの女性が経験したような死による悲しみと苦しみがあるのでしょうか。

天地創造の神は、人間があらゆる幸いや楽しみを享受する存在としてお造りになられました。しかし人間に罪が入り込み、創造主である神の愛から離れてしまうとき、神との関係が断絶されることとなるのです。

ローマ623節にはこう記されています。

「罪が支払う報酬は死です。」すべての人は罪によって死のもとにおかれているのです。

又、ローマ書323節では、人は皆、その罪のゆえに「神の栄光を受けられなくなっている」とこう記されています。

神との関係が断たれていることそのものが罪の状態であり、死に捕えられているという、人間にとってそれがほんとうの恐ろしさなのでありますが。

ローマ623節の「罪の支払う報酬は死です」の後にはこう記されています。

「しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

今日はこの御言葉の深みについて読み取っていきたいと思っております。

 

「主イエスの憐れみ」

さて、13節、「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくてもよい』と言われた。」14節、「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。」このようにあります。

このイエスさまの「もう泣かなくてよい」というお言葉に対して、私たちがたとえば友人知人といった親しい人の葬儀に臨んだ時に、その大切な存在を失った遺族に対して、「もう泣かなくてよい」などという言葉をかけることなどできませんよね。

遺族の感情や思いを最大限重んじ、その悲しみにせいぜい寄り添うことが精いっぱいです。だれも残された者の悲しみや寂しいという自然の感情を抑えることはできません。それを「もう泣かなくてもよい」、なんてイエスさまは非礼、非常識なお方なのでしょうか。

否、いやそうでは決してありません。

ここにある「憐れに思い」というのは、単に可哀そうに思うとか同情するという私たち人間的な次元とは違います。

「憐れみ」原語:スプランクナは「内臓」を指す言葉で、腸が痛むほどの激しい心の動きを表すものです。

私たちもどうでしょうか。ほんとうに苦しく辛いことが突然わが身にふりかかってくると、おなかの調子が悪くなって痛くなったりしますよね。イエスさまはこの母親の悲しみを目にされたとき、まさに断腸の思というほどご自身が痛まれたのです。

このような深い慈愛によって、「もう泣かなくともよい」と言われたのです。

又、ここには「主は」言われたとありますが。福音書の中で、「主は」と記されているのは実に珍しいことであり、「彼は」とか、「イエスは」というのがほとんどなのですが。ここでは「イエスが主である」ことが強調されているのです。何よりもこの「主」とは、キュリオス;「救いの主」を意味するものです。

それは、私たちの罪の代償を払って死の滅びから贖い取って下さった主なのです。まさに、死を打ち破りよみがえられ、私たちに新しい復活の命をもたらして下さった、イエスこそ、罪と死を打ち破られた復活の主であられる。このことがここで言い表されているのです。

一人息子を亡くして悲しんでいた女性に対して、イエスさまだけが復活の主であられるからこそ、「もう悲しむことはない」と、そうおっしゃることがおできになるのです。

 

 

14節、「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった」とあります。

旧約聖書律法の書の一つ民数記1911節以降に「死者の体に触れるものは汚れる」とありますが。棺というと箱型のものをイメージしますが。当時は担架のようなものに直接遺体が載せられていたようです。棺を担いでいる人たちは、律法を知っていたのでこのイエスさまの行為を見て、驚き、立ち止まったのでしょう。

 

そんな皆の驚きをよそに、イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われます。そこには主なるお方としての権威が顕われています。

 

旧約時代の預言者エリヤやエリシャも死人をよみがえらせたという記事があります。

彼らの場合、神に祈り願ってそのような業を起こされたのですが。しかしイエスさまの場合は、神の権威をもって「起きなさい」とお命じになり、死者を生き返らされたのです。

 

まあ、この記事の他にもルカの「ヤイロの娘」の死んでしまった少女も同様に「娘よ、起きなさい」とお命じになり、少女が死の床から起き上がったエピソードがあります。又、ヨハネ福音書には、洞穴の墓に葬られた青年に、「ラザロよ、出てきなさい」とお命じになると、ラザロは息を吹き返し墓から出て来たというエピソードがあります。

主は今日も変わることなくすべての人に神の権威をもって、「起きよ、滅びの墓から出てきなさい」と呼びかけておられるのです。

まあ、今日の息子も、ヤイロの娘や青年ラザロも又、その後にはこの地上を去ることになったでしょう。しかし、キリストにおける命はそこで終わらないのです。

主イエスによって創造主なる神との和解を得る者は、主イエスにある復活の命が約束されているのです。

 

「近づきたもう神」

罪と死の滅びから私たちを解き放ってくださった復活の主イエスは、今も世の死に向かう行列に相対するかたちで、近づいて来られます。

そして「もう泣かなくてよい」と言って近づき、絶望しかないような私たちの現実に手を触れてくださるのです。

 

今日のこのやもめであり一人息子を失った母親は、主イエスに懇願したり、求めるというようなことすらありませんでした。

否、それさえできない深い淵におかれていたのです。けれども、神の方から、主イエスの方から近づいて来て下さった。ここに救いがあります。

主イエスの権威ある御業の後、「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った」。

遂に神の救いの恵みが到来したのです。

はじめに、「罪の支払う報酬は死である」とのローマ書の言葉を聞きました。罪と死の密接な力関係、それが人の滅びを招いているということであります。

どんなに罪と死から逃れようとしても人の力では決してそれをぬぐうことも逃れることもできません。

だからこそ、人には成しえない滅びと絶望からの脱却を、神が救いの恵みとして人類にお与え下さった。それこそ、神の御独り子・イエス・キリストです。十字架による罪の贖いの業と復活による永遠の命です。

主によって罪と死の縄目から解き放たれ、新しい命を得て、神との関係が回復されて生きる。ここにすでに永遠の命がございます。

もう泣かなくてよい」。死より「起きなさい」。これらのお言葉は、永遠の命の源であられる神にしかできない宣言です。

 

コリント一1554節以降には次のように記されています。

「死は勝利にのみ込まれた。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか・・・わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」

 

まず、私たちが、日々永遠のいのちに与って生きる喜びを確認し、日々新たな人とされて生きる。そしてその良き知らせ、福音を証し、伝え分かち合っていく者とされるべく、今週も今日の御言葉をもってここからそれぞれの場へ遣わされてまいりましょう。

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こども食堂「おいでや」ご案内

2019-02-01 09:15:45 | 教会案内

日時2月13日(水)午後4時~7時

 

会場:大阪教会2階ホールへおいでください。

今回のメニュー:温かいほくほくの「おでん」を用意いたします!

小学生50円 中学・高校生100円 おとな200円


みんなで食べていっしょにあそぼ。

宿題ももっておいでや

赤ちゃん連れのママ・パパも歓迎いたします。

ボランティアさん、ほぼ10人おります。

(食品衛生資格者・英語・中国語の話せるスタッフ常駐)

 

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