礼拝宣教 ヨハネ黙示録21章1~4
先週の月・火曜と大阪教会の古い会員であられたM姉のお葬儀が当教会で行われました。新会堂で最初のお葬式となりました。M姉のご親族という方々がそれぞれ3回も教会に訪ねて来られ、「M姉が亡くなったので教会でお葬式を行ってください」というお話があったのです。姉は生前より、ご親族の方々に「日頃からもし何か自分に起こった時は、大阪教会で葬儀は行ってもらえるようにすべてお願いしているから」ということを話しておられたようで、それぞれのご親族からそのことを伺い、私はあまりに突然のことで大変驚きました。
この姉については、大阪教会ではCS教師と生徒という間柄であったY兄、さらに当時牧師であられたN先生夫妻がご存じであられたので、前夜式で「故人を偲ぶお話」をして戴き、大変感謝でした。姉妹は大阪教会の初期の時代に教会に来られるようになり、イエス・キリストを救い主と信じる信仰告白をなさり、初代牧師のギレスピー牧師から洗礼(バプテスマ)を受けられてクリスチャンとなられ、その後西南学院大学神学部でも学ばれたということですが。それから十数年間は大阪教会の活会員として活躍なさったのですが、その後他行会員となられて今日に至ったということです。そのような姉妹でしたが、先程も触れましたが、自分の最期については生前から親族の方々に「大阪教会」でということをしっかり伝えておられたのですね。それは近親者の中で、自分一人がクリスチャンであるという事情も大きかったと察することができます。
教会の礼拝に出席することはなかったのですが、「最期はキリスト教のお葬儀を」との願いは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰とともに、「天の国」をご親族にも知って欲しいというメッセージであったのではないでしょうか。私は今回のお葬儀に関わらせて戴く中で、そのことは、実は天の神さまがすべて導いておられたのだと、そのように思えました。お葬儀のお話しが来た時、献堂感謝式の準備や諸々の開合や仕事に追われっぱなしのパンパンの状態で、できれば逃げたいという思いも正直あったのですが。しかし断る理由もなく、お受けしました。その後疲れから風邪をひきかけたり、腰を痛めたりしましたが、献堂式を前にしているという緊張感と皆さまのお祈りのお支えによって、感謝なことに守られております。個人的にはそのような状況でありましたが、今回のお葬儀を通して神さまのくすしき御業をいくつも見せて戴きました。M姉は1952年2月に主イエスを信じてバプテスマを受けられ、主イエスの死とよみがえりの信仰に与るのでありますが。それが初代大阪教会の新会堂の献堂式から1カ月後の2月であったのです。そして姉妹を天に送るお葬儀もクリスチャンとなられて62年目の2月となり、それも3代目新会堂で執り行われたというのもきっと神さまの導きのもとでの事であったと思うのです。
又、お葬儀でご親族とのお交わりが与えられ、教会やキリスト教について感心を持っていただけたことも、幸いでした。昨日は礼拝のために明るい色のお花もどうぞ加えてください、きれいな花束をもってくださいました。
先程、本日の聖書としてヨハネの黙示録21章1~4節までが読まれました。
ここには、終末の時にやがて到来する「新しい天と新しい地」について、ヨハネが見た幻が書き記されております。それは、「最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」とありますように、今の天と地が造り直されるということではなく、それらは去っていく、つまり終わりが訪れるということであります。そして全く新しい天と新しい地が現れるというのです。
ここに「もはや海もなくなった」と敢えて海がなくなることが強調されておりますが。
先週礼拝で読みました13章に二匹の獣のうちの一匹は海の中から上って来た、とあったように昔から海には魔ものが住んでいるとも言われ、人間にとって何か魔界にでも通じるかのような恐れを起こさせるものでもあったわけです。先日バリ島の海でも遭難事故が起こりましたけれども。流刑で孤島パトモス島にあったヨハネにとっても、海は諸教会との自由な信仰の霊的往来を隔てるもの、妨げるものでした。しかしヨハネは、新しい世界にはもうそのような海、すなわち不安や恐怖、脅かす存在、信仰の自由なつながりを阻んでいたものがもはやなくなった、と言っているのです。
さらに、ヨハネは「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下ってくるのを見た」と言います。この新しいエルサレムについては今日読みませんでしたが、9節以降に詳しく述べられています。
そこでは一人の天使が、「新しいエルサレムとは『小羊の妻である花嫁』」とヨハネに語っているのです。11節以降には、新しいエルサレムの光景とその外観について述べられていますが、本日は詳しくは触れる事はいたしません。
さて、本日の箇所で、私の心に強く響いてきたのが、新しいエルサレムが天から下ってくるのを見た時、玉座から語りかけられた「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる」というお言葉であります。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(3、4節)
今日はそのところから宣教題を「神が人と共に住む望み」とつけさせて頂きました。
この3節のところには、神が人と共にいるという言葉の「共に」というギリシャ語原語のメタが何と3回も使われているのです。日本語訳では2回「共に」を見つけることができますが、実は「神の幕屋が人の間にあって」という言葉の「間にあって」というのも原語はメタ、「共に」なのであります。この「神の幕屋が人の間にあって」というお言葉から思い起こされますのは、ヨハネ1章9節の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とのお言葉であります。
この「言」は冠詞であり、それは「神ご自身」を指しています。つまりそれは単なる言葉ではなく、神ご自身の顕現ともいえる御子イエス・キリストを表しているのです。救いの主イエス・キリストは私たち人間の肉をとって、「私たちの間」に宿ってくださったのです。そして興味深いことにこの「宿られた」という原語はスケネー「幕屋を張られた」という意味であります。つまりイエス・キリストは人間となられ、「幕屋を張って共に住んでくださる」ということであります。それは本日の3節の言葉と共通しています。
幕屋(天幕)といえば旧約聖書によく出てきますが。イスラエルが荒れ野を通ってカナンに向かう旅路において、その都度主の臨在の幕屋(天幕)を張り主に礼拝をささげていきました。それがカナン定着後は建造物としての神殿となります。幕屋と神殿は旧約聖書時代から神が臨在される所とされてきたのです。
しかし、新約聖書は違います。先程読みましたヨハネ1章9節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」、又、本日の3節「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み」というのは、イエス・キリストご自身が直接幕屋を張って人と共に住んでくださっている、ということなのですね。
21章22節で、ヨハネは「エルサレムの都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊(イエス・キリスト)が都の神殿だからである」と言っています。
黙示録の書かれた時代、エルサレムの神殿はすでにローマ帝国によって破壊され、なくなっていたのです。多くのユダヤ人たちは悲嘆にくれていたことは想像できます。しかしそういう中にあって、ヨハネは、神殿という建物がなくても、全能者である神、主と小羊(イエス・キリスト)が新しい都の神殿であると語ります。「神の幕屋が人の間にあって、神が人と住」んでいてくださるのです。それは、私たち人の側からではなく、神の側から人の方に近づいて来てくださることによって訪れたのです。
先週お葬儀を行いましたM姉は、生前から「葬儀は大阪教会にお任せしているから」と、ご親族に幾度も伝えていたことによって、ご本人の遺志が叶い、ご親族にもイエス・キリストの救いの福音に触れる機会が与えられたのです。ご親族の方々は初めて教会に来られた方ばかりでした。喪主の甥子さん夫妻は、教会のお葬儀は「とても心がこもって暖かくていいですね」。そして、「おばさんが神さまのもとに召された、召天したということの意味が分かりました」という言葉を戴きました。神さまの側から私たちの方に近づいて、人の思いを超えた恵みの御業が起こされていったことに、後で気づくことばかりでありました。
ご親族の寂しさはぬぐえていませんけれども、私はヨハネが「神が彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去った」と語る究極の終末の完成のそのしるしの一部を垣間見せて頂いた思いで、感謝です。
いよいよ来週の3月2日は、大阪教会の献堂感謝式を迎えます。
私たちの新会堂は立派に建てられましたが、大川ビルの仮会堂を経験して教えられたことを忘れてはなりません。どんなに小さい所、又不便な所にあっても、そこで主を賛美し、心から祈り、礼拝を捧げている活ける主の交わりがあるところに、主の霊、聖霊は豊かに働かれ、思いを超えた御業を起こしてくだったのであります。そのような経験を私たちは幾度となくさせて戴きました。主は生きておられますから、新会堂をお献げして新しい心をもって歩みを始める私たちを豊かに祝福し、この今日のヨハネの幻のように、私たちの間に共に住み、慰めと励ましを与え、天の命の書に与る道を豊かに備えていてくださることと信じます。
来週に備え、まず祈りを結集し、主イエスの十字架と復活による贖いによる救いの幕屋で、共に住んで下さる主に向かい、心から感謝と喜びを捧げていきましょう。
先週の月・火曜と大阪教会の古い会員であられたM姉のお葬儀が当教会で行われました。新会堂で最初のお葬式となりました。M姉のご親族という方々がそれぞれ3回も教会に訪ねて来られ、「M姉が亡くなったので教会でお葬式を行ってください」というお話があったのです。姉は生前より、ご親族の方々に「日頃からもし何か自分に起こった時は、大阪教会で葬儀は行ってもらえるようにすべてお願いしているから」ということを話しておられたようで、それぞれのご親族からそのことを伺い、私はあまりに突然のことで大変驚きました。
この姉については、大阪教会ではCS教師と生徒という間柄であったY兄、さらに当時牧師であられたN先生夫妻がご存じであられたので、前夜式で「故人を偲ぶお話」をして戴き、大変感謝でした。姉妹は大阪教会の初期の時代に教会に来られるようになり、イエス・キリストを救い主と信じる信仰告白をなさり、初代牧師のギレスピー牧師から洗礼(バプテスマ)を受けられてクリスチャンとなられ、その後西南学院大学神学部でも学ばれたということですが。それから十数年間は大阪教会の活会員として活躍なさったのですが、その後他行会員となられて今日に至ったということです。そのような姉妹でしたが、先程も触れましたが、自分の最期については生前から親族の方々に「大阪教会」でということをしっかり伝えておられたのですね。それは近親者の中で、自分一人がクリスチャンであるという事情も大きかったと察することができます。
教会の礼拝に出席することはなかったのですが、「最期はキリスト教のお葬儀を」との願いは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰とともに、「天の国」をご親族にも知って欲しいというメッセージであったのではないでしょうか。私は今回のお葬儀に関わらせて戴く中で、そのことは、実は天の神さまがすべて導いておられたのだと、そのように思えました。お葬儀のお話しが来た時、献堂感謝式の準備や諸々の開合や仕事に追われっぱなしのパンパンの状態で、できれば逃げたいという思いも正直あったのですが。しかし断る理由もなく、お受けしました。その後疲れから風邪をひきかけたり、腰を痛めたりしましたが、献堂式を前にしているという緊張感と皆さまのお祈りのお支えによって、感謝なことに守られております。個人的にはそのような状況でありましたが、今回のお葬儀を通して神さまのくすしき御業をいくつも見せて戴きました。M姉は1952年2月に主イエスを信じてバプテスマを受けられ、主イエスの死とよみがえりの信仰に与るのでありますが。それが初代大阪教会の新会堂の献堂式から1カ月後の2月であったのです。そして姉妹を天に送るお葬儀もクリスチャンとなられて62年目の2月となり、それも3代目新会堂で執り行われたというのもきっと神さまの導きのもとでの事であったと思うのです。
又、お葬儀でご親族とのお交わりが与えられ、教会やキリスト教について感心を持っていただけたことも、幸いでした。昨日は礼拝のために明るい色のお花もどうぞ加えてください、きれいな花束をもってくださいました。
先程、本日の聖書としてヨハネの黙示録21章1~4節までが読まれました。
ここには、終末の時にやがて到来する「新しい天と新しい地」について、ヨハネが見た幻が書き記されております。それは、「最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」とありますように、今の天と地が造り直されるということではなく、それらは去っていく、つまり終わりが訪れるということであります。そして全く新しい天と新しい地が現れるというのです。
ここに「もはや海もなくなった」と敢えて海がなくなることが強調されておりますが。
先週礼拝で読みました13章に二匹の獣のうちの一匹は海の中から上って来た、とあったように昔から海には魔ものが住んでいるとも言われ、人間にとって何か魔界にでも通じるかのような恐れを起こさせるものでもあったわけです。先日バリ島の海でも遭難事故が起こりましたけれども。流刑で孤島パトモス島にあったヨハネにとっても、海は諸教会との自由な信仰の霊的往来を隔てるもの、妨げるものでした。しかしヨハネは、新しい世界にはもうそのような海、すなわち不安や恐怖、脅かす存在、信仰の自由なつながりを阻んでいたものがもはやなくなった、と言っているのです。
さらに、ヨハネは「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下ってくるのを見た」と言います。この新しいエルサレムについては今日読みませんでしたが、9節以降に詳しく述べられています。
そこでは一人の天使が、「新しいエルサレムとは『小羊の妻である花嫁』」とヨハネに語っているのです。11節以降には、新しいエルサレムの光景とその外観について述べられていますが、本日は詳しくは触れる事はいたしません。
さて、本日の箇所で、私の心に強く響いてきたのが、新しいエルサレムが天から下ってくるのを見た時、玉座から語りかけられた「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる」というお言葉であります。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(3、4節)
今日はそのところから宣教題を「神が人と共に住む望み」とつけさせて頂きました。
この3節のところには、神が人と共にいるという言葉の「共に」というギリシャ語原語のメタが何と3回も使われているのです。日本語訳では2回「共に」を見つけることができますが、実は「神の幕屋が人の間にあって」という言葉の「間にあって」というのも原語はメタ、「共に」なのであります。この「神の幕屋が人の間にあって」というお言葉から思い起こされますのは、ヨハネ1章9節の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とのお言葉であります。
この「言」は冠詞であり、それは「神ご自身」を指しています。つまりそれは単なる言葉ではなく、神ご自身の顕現ともいえる御子イエス・キリストを表しているのです。救いの主イエス・キリストは私たち人間の肉をとって、「私たちの間」に宿ってくださったのです。そして興味深いことにこの「宿られた」という原語はスケネー「幕屋を張られた」という意味であります。つまりイエス・キリストは人間となられ、「幕屋を張って共に住んでくださる」ということであります。それは本日の3節の言葉と共通しています。
幕屋(天幕)といえば旧約聖書によく出てきますが。イスラエルが荒れ野を通ってカナンに向かう旅路において、その都度主の臨在の幕屋(天幕)を張り主に礼拝をささげていきました。それがカナン定着後は建造物としての神殿となります。幕屋と神殿は旧約聖書時代から神が臨在される所とされてきたのです。
しかし、新約聖書は違います。先程読みましたヨハネ1章9節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」、又、本日の3節「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み」というのは、イエス・キリストご自身が直接幕屋を張って人と共に住んでくださっている、ということなのですね。
21章22節で、ヨハネは「エルサレムの都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊(イエス・キリスト)が都の神殿だからである」と言っています。
黙示録の書かれた時代、エルサレムの神殿はすでにローマ帝国によって破壊され、なくなっていたのです。多くのユダヤ人たちは悲嘆にくれていたことは想像できます。しかしそういう中にあって、ヨハネは、神殿という建物がなくても、全能者である神、主と小羊(イエス・キリスト)が新しい都の神殿であると語ります。「神の幕屋が人の間にあって、神が人と住」んでいてくださるのです。それは、私たち人の側からではなく、神の側から人の方に近づいて来てくださることによって訪れたのです。
先週お葬儀を行いましたM姉は、生前から「葬儀は大阪教会にお任せしているから」と、ご親族に幾度も伝えていたことによって、ご本人の遺志が叶い、ご親族にもイエス・キリストの救いの福音に触れる機会が与えられたのです。ご親族の方々は初めて教会に来られた方ばかりでした。喪主の甥子さん夫妻は、教会のお葬儀は「とても心がこもって暖かくていいですね」。そして、「おばさんが神さまのもとに召された、召天したということの意味が分かりました」という言葉を戴きました。神さまの側から私たちの方に近づいて、人の思いを超えた恵みの御業が起こされていったことに、後で気づくことばかりでありました。
ご親族の寂しさはぬぐえていませんけれども、私はヨハネが「神が彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去った」と語る究極の終末の完成のそのしるしの一部を垣間見せて頂いた思いで、感謝です。
いよいよ来週の3月2日は、大阪教会の献堂感謝式を迎えます。
私たちの新会堂は立派に建てられましたが、大川ビルの仮会堂を経験して教えられたことを忘れてはなりません。どんなに小さい所、又不便な所にあっても、そこで主を賛美し、心から祈り、礼拝を捧げている活ける主の交わりがあるところに、主の霊、聖霊は豊かに働かれ、思いを超えた御業を起こしてくだったのであります。そのような経験を私たちは幾度となくさせて戴きました。主は生きておられますから、新会堂をお献げして新しい心をもって歩みを始める私たちを豊かに祝福し、この今日のヨハネの幻のように、私たちの間に共に住み、慰めと励ましを与え、天の命の書に与る道を豊かに備えていてくださることと信じます。
来週に備え、まず祈りを結集し、主イエスの十字架と復活による贖いによる救いの幕屋で、共に住んで下さる主に向かい、心から感謝と喜びを捧げていきましょう。