日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神が人と共に住む望み

2014-02-23 17:14:28 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ黙示録21章1~4 

先週の月・火曜と大阪教会の古い会員であられたM姉のお葬儀が当教会で行われました。新会堂で最初のお葬式となりました。M姉のご親族という方々がそれぞれ3回も教会に訪ねて来られ、「M姉が亡くなったので教会でお葬式を行ってください」というお話があったのです。姉は生前より、ご親族の方々に「日頃からもし何か自分に起こった時は、大阪教会で葬儀は行ってもらえるようにすべてお願いしているから」ということを話しておられたようで、それぞれのご親族からそのことを伺い、私はあまりに突然のことで大変驚きました。
この姉については、大阪教会ではCS教師と生徒という間柄であったY兄、さらに当時牧師であられたN先生夫妻がご存じであられたので、前夜式で「故人を偲ぶお話」をして戴き、大変感謝でした。姉妹は大阪教会の初期の時代に教会に来られるようになり、イエス・キリストを救い主と信じる信仰告白をなさり、初代牧師のギレスピー牧師から洗礼(バプテスマ)を受けられてクリスチャンとなられ、その後西南学院大学神学部でも学ばれたということですが。それから十数年間は大阪教会の活会員として活躍なさったのですが、その後他行会員となられて今日に至ったということです。そのような姉妹でしたが、先程も触れましたが、自分の最期については生前から親族の方々に「大阪教会」でということをしっかり伝えておられたのですね。それは近親者の中で、自分一人がクリスチャンであるという事情も大きかったと察することができます。
 教会の礼拝に出席することはなかったのですが、「最期はキリスト教のお葬儀を」との願いは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰とともに、「天の国」をご親族にも知って欲しいというメッセージであったのではないでしょうか。私は今回のお葬儀に関わらせて戴く中で、そのことは、実は天の神さまがすべて導いておられたのだと、そのように思えました。お葬儀のお話しが来た時、献堂感謝式の準備や諸々の開合や仕事に追われっぱなしのパンパンの状態で、できれば逃げたいという思いも正直あったのですが。しかし断る理由もなく、お受けしました。その後疲れから風邪をひきかけたり、腰を痛めたりしましたが、献堂式を前にしているという緊張感と皆さまのお祈りのお支えによって、感謝なことに守られております。個人的にはそのような状況でありましたが、今回のお葬儀を通して神さまのくすしき御業をいくつも見せて戴きました。M姉は1952年2月に主イエスを信じてバプテスマを受けられ、主イエスの死とよみがえりの信仰に与るのでありますが。それが初代大阪教会の新会堂の献堂式から1カ月後の2月であったのです。そして姉妹を天に送るお葬儀もクリスチャンとなられて62年目の2月となり、それも3代目新会堂で執り行われたというのもきっと神さまの導きのもとでの事であったと思うのです。
又、お葬儀でご親族とのお交わりが与えられ、教会やキリスト教について感心を持っていただけたことも、幸いでした。昨日は礼拝のために明るい色のお花もどうぞ加えてください、きれいな花束をもってくださいました。
先程、本日の聖書としてヨハネの黙示録21章1~4節までが読まれました。
ここには、終末の時にやがて到来する「新しい天と新しい地」について、ヨハネが見た幻が書き記されております。それは、「最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」とありますように、今の天と地が造り直されるということではなく、それらは去っていく、つまり終わりが訪れるということであります。そして全く新しい天と新しい地が現れるというのです。
ここに「もはや海もなくなった」と敢えて海がなくなることが強調されておりますが。
先週礼拝で読みました13章に二匹の獣のうちの一匹は海の中から上って来た、とあったように昔から海には魔ものが住んでいるとも言われ、人間にとって何か魔界にでも通じるかのような恐れを起こさせるものでもあったわけです。先日バリ島の海でも遭難事故が起こりましたけれども。流刑で孤島パトモス島にあったヨハネにとっても、海は諸教会との自由な信仰の霊的往来を隔てるもの、妨げるものでした。しかしヨハネは、新しい世界にはもうそのような海、すなわち不安や恐怖、脅かす存在、信仰の自由なつながりを阻んでいたものがもはやなくなった、と言っているのです。
 さらに、ヨハネは「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下ってくるのを見た」と言います。この新しいエルサレムについては今日読みませんでしたが、9節以降に詳しく述べられています。
そこでは一人の天使が、「新しいエルサレムとは『小羊の妻である花嫁』」とヨハネに語っているのです。11節以降には、新しいエルサレムの光景とその外観について述べられていますが、本日は詳しくは触れる事はいたしません。

さて、本日の箇所で、私の心に強く響いてきたのが、新しいエルサレムが天から下ってくるのを見た時、玉座から語りかけられた「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる」というお言葉であります。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(3、4節)
今日はそのところから宣教題を「神が人と共に住む望み」とつけさせて頂きました。
この3節のところには、神が人と共にいるという言葉の「共に」というギリシャ語原語のメタが何と3回も使われているのです。日本語訳では2回「共に」を見つけることができますが、実は「神の幕屋が人の間にあって」という言葉の「間にあって」というのも原語はメタ、「共に」なのであります。この「神の幕屋が人の間にあって」というお言葉から思い起こされますのは、ヨハネ1章9節の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とのお言葉であります。
この「言」は冠詞であり、それは「神ご自身」を指しています。つまりそれは単なる言葉ではなく、神ご自身の顕現ともいえる御子イエス・キリストを表しているのです。救いの主イエス・キリストは私たち人間の肉をとって、「私たちの間」に宿ってくださったのです。そして興味深いことにこの「宿られた」という原語はスケネー「幕屋を張られた」という意味であります。つまりイエス・キリストは人間となられ、「幕屋を張って共に住んでくださる」ということであります。それは本日の3節の言葉と共通しています。
 幕屋(天幕)といえば旧約聖書によく出てきますが。イスラエルが荒れ野を通ってカナンに向かう旅路において、その都度主の臨在の幕屋(天幕)を張り主に礼拝をささげていきました。それがカナン定着後は建造物としての神殿となります。幕屋と神殿は旧約聖書時代から神が臨在される所とされてきたのです。
しかし、新約聖書は違います。先程読みましたヨハネ1章9節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」、又、本日の3節「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み」というのは、イエス・キリストご自身が直接幕屋を張って人と共に住んでくださっている、ということなのですね。
21章22節で、ヨハネは「エルサレムの都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊(イエス・キリスト)が都の神殿だからである」と言っています。
黙示録の書かれた時代、エルサレムの神殿はすでにローマ帝国によって破壊され、なくなっていたのです。多くのユダヤ人たちは悲嘆にくれていたことは想像できます。しかしそういう中にあって、ヨハネは、神殿という建物がなくても、全能者である神、主と小羊(イエス・キリスト)が新しい都の神殿であると語ります。「神の幕屋が人の間にあって、神が人と住」んでいてくださるのです。それは、私たち人の側からではなく、神の側から人の方に近づいて来てくださることによって訪れたのです。

先週お葬儀を行いましたM姉は、生前から「葬儀は大阪教会にお任せしているから」と、ご親族に幾度も伝えていたことによって、ご本人の遺志が叶い、ご親族にもイエス・キリストの救いの福音に触れる機会が与えられたのです。ご親族の方々は初めて教会に来られた方ばかりでした。喪主の甥子さん夫妻は、教会のお葬儀は「とても心がこもって暖かくていいですね」。そして、「おばさんが神さまのもとに召された、召天したということの意味が分かりました」という言葉を戴きました。神さまの側から私たちの方に近づいて、人の思いを超えた恵みの御業が起こされていったことに、後で気づくことばかりでありました。
ご親族の寂しさはぬぐえていませんけれども、私はヨハネが「神が彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去った」と語る究極の終末の完成のそのしるしの一部を垣間見せて頂いた思いで、感謝です。
いよいよ来週の3月2日は、大阪教会の献堂感謝式を迎えます。
私たちの新会堂は立派に建てられましたが、大川ビルの仮会堂を経験して教えられたことを忘れてはなりません。どんなに小さい所、又不便な所にあっても、そこで主を賛美し、心から祈り、礼拝を捧げている活ける主の交わりがあるところに、主の霊、聖霊は豊かに働かれ、思いを超えた御業を起こしてくだったのであります。そのような経験を私たちは幾度となくさせて戴きました。主は生きておられますから、新会堂をお献げして新しい心をもって歩みを始める私たちを豊かに祝福し、この今日のヨハネの幻のように、私たちの間に共に住み、慰めと励ましを与え、天の命の書に与る道を豊かに備えていてくださることと信じます。
来週に備え、まず祈りを結集し、主イエスの十字架と復活による贖いによる救いの幕屋で、共に住んで下さる主に向かい、心から感謝と喜びを捧げていきましょう。
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信仰と忍耐と知恵

2014-02-16 18:07:56 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネの黙示録13章 

先週は2・11信教の自由を守る日の集会が守り行われました。「子どものとき戦争があった」~にもかかわらず、教会を信じる、というテーマで講演がありました。講師はご自身、戦前戦時中の学校で皇国史観に基づく軍国教育を受け、「戦前戦中の、国を愛する(愛国心)教育は『国のために死ぬ』ことを教えていたが、それは人間を分裂させていく『死ぬための教育』であった。又、長崎での被爆と敗戦を経験した時には、聖書の『この世の終わり』が重なった。」そのような経験をなさったそうです。さらに戦前戦中の教会については、礼拝参加者の減少が進み、治安維持法の監視の下、宮城遥拝と君が代の斉唱によって礼拝が始まり、聖書や讃美歌の自己抑制がなされたといいます。憲兵や公安(特別警察)などの国家の圧力によって、語れること語れないこと、歌えること歌えないことが定まっていったのです。信教の自由の有難さと共に、これを守ることの大切さを改めて思わされる者ですが。さらに戦前戦中の時代は国家による宗教支配の象徴として、「日本基督」の成立や教団代表者の伊勢神宮参拝等がなされていった事を例にあげられ、戦前戦中の教会はご自身のことを踏まえつつ「キリスト告白のたたかいと挫折」の時代であったと言われました。
それから焼け野原の敗戦を迎えると、学校では「民主主義」が教えられるようになりますが。戦後の教育は戦前の「死ぬことを教える教育」とは好対照に「生きることを教えられた」、と証言された言葉が印象に残りました。その後のキリスト教会はかつての教会の戦争協力に対する自覚と反省がなされ、「改めてキリスト告白に立つ」その連続と非連続の時代を辿ってきたとのお話しを伺いながら、今日の日本の状況について改めて考えさせられました。果たして先の教訓が活かされた時代の歩み、教会の歩みとなっているでしょうか。

本日は、ヨハネの黙示録13章から「信仰と忍耐と知恵」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
ここのところは小見出に「二匹の獣」とあり、非常にグロテスクな印象がありますが。ヨハネの黙示録が書かれた背景には、ローマ帝国支配下のもと、「教会とキリスト教徒」に対する厳しい弾圧と迫害がありました。そのような力、権力がこのような獣にたとえられているのです。
第一の獣はローマ帝国を、第二の獣は偽預言者をそれぞれ象徴していると考えられますが。弾圧と迫害を加えるその獣にどう教会と信徒たちは向き合い、対していったらよいのか。ヨハネは神の霊によって示されたことを書き記し、諸教会と信徒らに送ります。そう申しますと「それではもう黙示録とは過去のことでしかないのか」と思われかも知れませんが。しかしそれは単に過去の時代に限定されるものではなく、世界の歴史上においてこの黙示録の時代と類似するような出来事が残念ながら幾度となく繰り返されています。今の時代の流れの中でキリストを信じる私どもに対しても、この書はキリストの教会として立つ信仰を伝え、又人の世にあっての警鐘を促すものとして生きているのです。
さて、第一の獣とありますが。それは12章7節~9節にあります、高慢になって神に逆らい「天での戦いに破れて地に落ちた竜(悪魔とかサタンとか呼ばれるもの)の」地上での働きを代行するもの、それが獣なのであります。3節で「竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威を与える」のでありますが。獣には「10本の角と7つの頭」があったということで、それは黙示録が記される時代までの初代ローマの皇帝アウグストから始まる7人の皇帝を表していると考えられています。
3節には又、「この獣の頭の1つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった」とありますが。これは何の事なのかと思いますけれど、一説には7人の皇帝の一人であったネロが自殺して帝国は打撃を受けるのですが、ローマ帝国の勢力は後の皇帝と共に勢いづき、繁栄するのであります。そのことを象徴的に示すものともとれますが、定かなことは分かりません。死んだとも思われ致命的な傷を負った獣の頭の一つが再生したことに、「全地が驚いてこの獣(ローマ帝国)に服従」し、人々はこの獣を拝んだというのです。このところを読みますと、皇帝礼拝というものは単に皇帝が権力を笠に上から強制的にそれを強いたのではなく、ローマ帝国の再生の出来事に魅かれた人々、いわば世間一般大衆からの絶大な賛辞や指示のうえに成り立っていったという事が考えられるのです。
5節に「この獣はまた、大言と冒涜の言葉を吐く力が与えられた」とありますが。そこにもきっとローマ一般大衆の支持を得ていたという背景があったから、獣はいともたやすく大言や冒涜の言葉を吐くことができたのですね。
 6節以降、この第一の獣の勢いは衰えを知りません。「獣は口を開いて神を冒涜し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒涜した。獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた」とあります。こうして第一の獣であるローマ帝国は、自らを神とし、地上でサタンの働きを代行しながら国民の心をつかみ、支配するのであります。このように第一の獣は国民を巧妙にマインドコントロールして、支持を受けと賛辞を得ながら礼拝の対象として神格化されていきます。その中で、皇帝を崇拝せず、神としないキリスト信徒たちを捕え、剣でもって殺め、迫害していくのであります。これは冒頭ご紹介した講師の証言に語られた、戦時中の日本の状況とも重なる面が多いでしょう。
10節において主の霊はヨハネを通して、その迫害と弾圧の下におかれている教会と信徒たちに言われます。「ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。」
けれどもこの忍耐の日々とその先には希望が備えられています。どういうことかと申しますと、実はサタンである竜の働きを代行とした獣が活動できる期間は42カ月迄と定められてる、ということであります。この絶対的に見える獣の支配も、実は天地万物を造り、統べ治めておられる御神のもとにあり、その悪しき世も必ず終わりが来るということであります。だからその真の神を知っている信徒たちに、やがて歴史に対する主なる神の介入と審判がなされて、忠実な信徒は祝福に与ることができる、それゆえに「忍耐と信仰」が必要である、と訴えているのであります。

さて、11節以降にはもう一つの獣が登場します。その容姿、又役割については、「小羊の角に似た二本の角があって」「第一の獣を拝ませた」「大きなしるしと行いよって、地上に住む人々を惑わせ、第一の獣の像を造るように、地上の人々に命じた」などとあることから、第二の獣は、第一の獣、ローマ帝国を拝むように促す、すなわち皇帝礼拝を先導する「偽預言者」と解することができます。なぜ偽預言者かと言いますと、小羊はイエス・キリストを象徴しますので、小羊の角に似た2本の角を持っていたというのですから、あたかも自分が救世主であるかのように、しかしよくよく聞けば竜のようにものを言ったということです。そして第一の獣の像を拝もうとしない者への迫害と弾圧を断行します。
皇帝礼拝を拒むことは、拒否する人にとって信仰上の問題であったとしても、他の人、国民の眼からすればそれは皇帝やローマ帝国への忠誠に対する反逆罪とみなされたのであります。イエス・キリストの十字架刑も神への冒涜罪ではなく、ローマ法に基づく反逆罪として裁かれたということが思い起こされます。こう言う事は、戦時中の治安維持法の監視下で宗教者や思想信条に立って戦争に反対した個人や団体に対し政治権力が政治犯として厳しい弾圧を加えていったこととも重なります。これは又、国旗国歌法に対して思想信条上、それに従うことができない者を処分する今の身近なところで起こっている現状とも相通じます。
偽預言者の巧妙な働きは、人々の手か額に「獣の刻印」を押させ、それが押されている者と押されていない者の差別化を計り、「この刻印が押されている者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった」というのであります。思想信条のために生活、命をも脅かされされる状況に立たされる。それはどれほどの苦悩を人にもたらすでしょうか。過去の教会の選択に過ちがあったとしても、決してそれを非難することなどできない厳しい実情があったと思うのです。先のご講演後の質疑応答で、どなたかの質問に対して講師は、「隠れキリシタンが踏み絵を前にした時に踏まないことがキリストに忠実であることであったとしても、私であったら苦しみ悩んだ末に踏んでいたかも知れない。しかし、苦しみ悩んだ末に踏んでしまう外なかった者に対して、イエスさまは『踏んでもいいんだよ』といってくださっているのではないだろうか。私はそこで本当に救われた」というようなことをおっしゃられたんですね。それはそういった状況に立たねばならなかった者の家族、当事者としての重たい言葉でありますが。人間と言うのはそんなに単純なものではありません。白と黒の間を行き来しながらそのどちらでもない、思いはあってもそこで悩み苦しみ揺れ動く自分がいるのではないでしょうか。その中で幾多の葛藤を繰り返しながらも、やはり私たちは今イエスさまがここにおられたらどのようになさるのだろうか、どう対処なさるだろうか、ということ考えながら祈り求めていく、そこに私たちなりの正直で誠実な主と向き合って立っていく姿勢があると思うのです。それができる、できないではなく、むしろ実はそういうもはや祈る外ない私たちに、主は寄り添い、伴ってあゆむべき道を備えてくださるのではないでしょうか。信仰の道とは、実はそういう白か黒かということでは決して括ることのできない、人間の弱さや足りなさの上になお恵みとして与えられる救いの路を信じ続けることではないでしょうか。

最後に、ヨハネは獣の刻印についてこう述べます。「この刻印とは獣の名、あるいはその名の数字である。ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるのか考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。」

この666という数字を様々な人たちがクロスワードパズルや暗号のようなものとして読み解こうとして、怪しげな解釈を加え、おどろおどろしくあげつらって人々の不安をかきたてようとしていますが。しかし、それは的外れな事であります。ヨハネはここに知恵が必要であると言っています。この666は皇帝ネロの名前をへブル語で数字化されたものという説が有力であるそうですが。肝心なのはそれが「人間を指している」と明記されていることです。「獣の刻印」、それは神ではなく、神の御前に高慢になった人間とその権力が造り上げたものに過ぎないものです。神ならざるもの神のように崇めまつり、偶像化していく勢力はやがてすべてが明らかにされ、神の審判が下るときが訪れるのであります。
この天来の知恵に基づき、私たちは信仰の眼でこの時代の、今おかれているそのところから見つめ、「信仰と忍耐と知恵」をもって真の主なるお方に従ってまいりたいと切に願います。
この書物はヨハネの黙示録の時代に限定されたものであるにも拘わらず、しかし、歴史は繰り返されると申しますが、本当に同様な歴史が世界中で幾度となく繰り返されてきました。大衆の支持を得ながら「世界平和」のためだと称して戦いが繰り広げられ、私たちの日本もその一つであります。そういう中、今私たちは二度と同じ過ちを繰り返すことのないよに祈り求め、何よりも真の平和の主、イエス・キリストの言動とその福音に聴いていく者とされてまいりましょう。

フィリピの信徒のために使徒パウロが祈った言葉を引用して宣教を閉じます。
「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」(1:9-11)
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イエス・キリストの黙示

2014-02-09 16:24:35 | メッセージ
礼拝宣教  ヨハネの黙示録1章 

先週は日本のベートーベンと称され大賛辞が寄せられていた方の作品が、全く別人のものということが明らかにされ、これまでコンサートを開催してきた被爆地広島や東日本の被災地の方々や作品を愛して来られた方々をはじめ、多くに人たちにとって衝撃と憤りを与えました。ご本人も、偽り続けることに耐えられなくなられたのでしょうか。
聖書に「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならない
ものはない。マルコ4章22節」と記されているとおりです。

さて、本日はヨハネの黙示録1章から、「キリストの黙示」と題し、御言葉を聞いていきたい
と思います。
「黙示録」というと何とかの大預言とか、そこに記されている言葉や数字を殊さらとりたて、怪しげなミステリーとして扱われたりして、何かと得体の知れない不気味なものと世間では思われがちですが。決してそうではありません。

新約聖書のこの黙示録は、1章の冒頭に記されていますように、「イエス・キリストの黙示」
であり、本来救いの主イエスにある信徒らを励まし、希望を与える書物なのであります。
この「黙示」と訳されたギリシャ語原語「アポカリュプシス」は、アポという「取り除く」という動詞と「カリュプシス」;「覆っているもの」という名詞の合成語で、「覆っているものを取り除く」という意味があり、旧約聖書の時代預言者を通して啓示されてきたその覆いが取り除かれて、今やイエス・キリストを通して人類の救いが露わにされたのです。ですからこの書は単なる黙示ではなく、キリストの黙示とありますように、イエス・キリストが世の罪を取り除く神の小羊として来られ、十字架の苦難と死を通って人の罪を贖い、復活なさった主であること。又、その信仰を守り、忠実に生きる者にとっては、今もおられ、やがて来られるお方であることが、証言されているということであります。
さてこの黙示録の書かれた時代は、ローマ帝国の支配とその影響が強く、世の権力の只中にあってキリスト信仰を保って生きることは厳しく、困難極まりない状況でありました。
ヨハネは当時パトモス島におりましたが、それは彼がパトモスに伝道するために行ったのではなく、「神の言葉とイエスの証し」をなすゆえに、迫害に遭って流刑されていたのであります。
2節のところに、「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が霊を受けて見たことすべてを、証し(証言)した」とありますが。ヨハネはその地で神の霊に導かれ、示されたすべてのことを記録し、7つの小アジアの教会に送ったのであります。
3節には「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちは幸いである。時が迫っているからである」とありますが。ここには様々な世の妨げの中で、信仰を保ち、守っていくために有効な事柄が記されているのです。
一つは、「預言の言葉を朗読する」という、これは公の礼拝の場で御言葉が読まれることの大切さが示されています。当時は今私たちが一人ひとり聖書が持てるような時代ではありませんでしたから、個々人で聖書を読むことはできません。会堂に集い、御言葉が朗読されることでそれを知ることができたのです。
二つ目は、「預言の言葉を聞く」ということです。これも当時は主イエスを信じる者たちが集う会堂において御言葉を聞くことができたのです。それは今の時代、個々人で聖書が読めるようになった今日も同様でありましょう。キリストにある信徒らの集い、教会において御言葉が読まれ共に聞かれることは、とても大事なことですね。礼拝や又聖書の学び会において、自分の独断や先入観で聞いていた御言葉が、礼拝や聖書の学び会を通して、正しく、又時に適った新しい響きをもって与えられるということが体験されるわけです。
そして三つ目が、読み、聞いたことを「守る」、ということであります。主イエスは御言葉を聞いて、それを守り行うことの大切さをお教えになりましたが。そのように御言葉によって生きることが、様々の世の妨げから信仰を保ち、守っていくことになるのです。それは又、来るべき神の時に備えることになるということであります。

さて、5節から6節にかけ、イエス・キリストについて、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」「死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者」「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」と記されています。
先程も申しましたが、それはつまり、イエス・キリストが世の罪を取り除く神の小羊として来られ、十字架の苦難と死を通り罪を贖い、復活なさった主であられるということです。それは、今も生きておられるお方でありますが、やがて来るべきお方であられるのです。この主イエスの再臨の約束を信じることができる。それこそが大きな希望であり、幸いなのであります。
黙示録には「幸い」という言葉が、7つの教会や7つの星と同じように、7度使われていおります。まあ俗にラッキーセブンなどと申しますが。それではこの黙示録の中でどういう時に「幸い」という用語が使われているのかと申しますと、多くの場合、「やがて来られる主の再臨に備えて、日々主と結ばれて生きる者は幸いである」という趣旨が書かれているのでありますね。
それではその幸いな者、日々主と結ばれて生きる者とはどういう者なのでしょうか。
9節~11節のヨハネの言葉を見ますと、強く響いてまいりました。
そこを読みますと、「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスに結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである」と読者に語りかけています。
ここでヨハネが読者に向け、あなたがたは「兄弟」であると言う時、それは信徒と自分との関係を兄弟と呼んでいるのですが。黙示録の中で「兄弟」と記されている箇所には、「イエスさまの証し(証言)を持つ」、又、「この書物に記された事を守る」ことが、兄弟であるというのです。
つまり、兄弟とは「信仰に忠実に生きる者のこと」を指しているのであります。そしてそれは、「イエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっている」ことによって証しされるのです。そう申しますと、何か人間的にガンバリがきく人、忍耐できる人だけが主の兄弟と認められられるのか、と思われるかもしれませんが、そういうことではありません。そこで大事なのは、まずイエスさまが私たちに先立って兄弟が辿る苦難と忍耐を受けられ、死から命への道を拓いてくださった、ということであります。私たちは主に結ばれた兄弟として、そのイエスさまが通られた命の光の下で、イエスさまの御跡を踏みつつ、聴き従いゆくのであります。
この地上にあってイエスさまの御跡を歩み、聴き従いゆくにはいくつもの苦難や忍耐を経験いたします。反対や迫害に遭うばかりでなく、予想もしていないかたちで襲ってくる病、人間関係でのほつれや行き違い、あるいは災害や突発的な事故に対して、なぜなのか理由が分からないような事どもは起こりますし、遭遇もいたします。そういった場面でも私たちは耐える外ない状況が生じるわけですけれども。しかし、この黙示録が取り上げている「苦難と忍耐」とは、私たちがイエスさまに結ばれた者として信仰に生きようとする時に襲ってくる苦難や葛藤と、そこで持つ忍耐のことを指しているのであります。主イエスご自身人として生まれて受けられた苦難とその忍耐。それらを通して勝ち取って下さった救いの勝利を想い、御足のあとを踏みつつあゆむ。その中で、兄弟として主が支配される御国にあずかる。そういう信仰の確信を戴くことができる、とヨハネをして語っているのであります。
ここで2つの聖書の言葉を引いてみましょう。
使徒言行録14章22節で使徒パウロは次のように述べています。「わたしは弟子たちを力づけ、『わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない』と言って、信仰に踏みとどまるように励ました」。又、Ⅱテサロニケ1章5節で使徒パウロは、「あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。」そのように言っているのですね。
 何度も言いますが、まず私たちに先立つイエスさまの苦難、ご支配としての御国、そして忍耐があるからこそ、私たちもまたイエスさまに結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかりつつ、その信仰を保ち、守っていくことができるのであります。

さて、ヨハネは流刑地のパトモス島で「霊」(神ご自身)に満たされる体験をし、そこで見た事を伝えよとの委託が与えられた次第を語っていますが。その際の体験は彼の個人的なものではなく、信仰に生きる群れの兄弟の一人としてそれを体験したのであり、彼自身その霊が示す事柄を読者と共に分ち合うことを願っています。
ヨハネは、霊に満たされのは「主の日」であったと言います。恐らく彼は礼拝を守っていた教会の群れから引き離されていた状況にあったのでしょう。主の日はキリスト者がみな会堂に集まって礼拝を守ります。その兄弟が集まって礼拝を捧げているその同じ時に、霊に満たされた。それは何を言わんとしているかと申しますと、ヨハネはたとえパトモス島という場所や空間は隔てられていたとしても、主に結ばれている兄弟たちと一緒に礼拝を捧げているという思いを込めてながら、この書物を書いているのであります。そこに霊の豊かな介在と導きが伴っていたのであります。
私たちは主の日を守りますが、病や仕事、地域の奉仕などの事情から、覚えつつも礼拝に集うことが叶わない事もあるでしょう。たとえそのような中でも、主を礼拝する思いがある限り、そこに主は共におられ、キリストの共同体のつながりは聖霊によって保たれているのです。ヨハネが教会の群れから隔てられた地にあっても、この主の日に霊に満たされたように、日夜キリストのの教会とそこに集う兄弟を案じ、執り成し祈る者を主は覚えておられるのであります。

12節から20節のところを今日は詳しく読んでいくことはいたしませんが。そのように常に身近に教会の兄弟を感じていたヨハネは、そこで7つの教会を象徴する7つの燭台を見るのですが。それらの教会を背後に「人の子のようなお方」を見ています。
ヨハネは、その「人の子のようなお方を見たとき」、恐れのあまりその足もとに倒れて、死んだようになるのでありますが。しかし、そのお方は右手をヨハネの手に置いて「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生き、死とよみの鍵を持っている。さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書きとめよ」とお命じになります。
 一度は死んだが、世々限りなく生きている。それは主イエスのご復活のお姿であり、死とよみの鍵とは、先週礼拝で読みました「わたしを信じる者は決して死なない、たとえ死んでも生きる」というヨハネ福音書11章の御言葉を想起させます。
注目すべきは、この「人の子のようなお方」は右手に7つの教会の天使を持って、「教会を守っておられる」というのです。右の手は神の力を象徴します。神に忠実なものを守り、神に背くものを罰するのです。人の子であるお方は、7つの星、つまり7つの教会を守る天使を加護の下におき、その教会を励まし助けるのです。しかしその教会がご自分から離れようとするとき、警告を発するのです。
人の子のようなお方の口からは鋭い両刃の剣が出ている、という描写がなされていますが。両刃の剣ですから、その口から出た言葉が、信じ従う者には幸いをもたらし、背く者にとっては滅びをもたらす厳しい裁きを表しているのです。それは単にキリスト教徒以外の者が敵とは言い得ません。キリスト教徒と自称しつつも、主の教えや御言葉に反する者にも主の裁きは臨むのであります。そういう意味から、私たち信仰をもつ者は、いつも主に御前にあって「はじめの愛」に立ち返るべく自分の信仰を吟味してあゆみゆくことが必要なのであります。

最後に20節を読んで本日の宣教を閉じます。
「あなたは、わたしの右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、それらの秘めらえれた意味はこうだ。七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。」
この「秘められた意味」はギリシャ語でミステリーオン;奥義とも訳されます。それは、将来がどのようになるかはこの世においては隠されており、私たち人間にとって今現在見通しがつかないような事態でありましても、しかし天の領域においては、すでに神さまの出来事は決定され、現実のものとなっている、ということです。それは具体的にどういうことかと申しますと、人の子として世に来られたイエス・キリストは世の終わりの再臨の時に備え、諸教会を守り導かれ、又ある時には正して、神の国を主に結ばれる信徒たちのうえに完全な形で実現なさろうとしておられる、ということであります。この希望がイエス・キリストの黙示として記され、苦難の中にもなお立ち続ける教会と兄弟姉妹に語られているのであります。
キリスト教会を象徴する燭台は闇を照らし出すために灯され用いられるものです。マタイ25章の「10人のおとめのたとえ」のように、どんな時にもその灯の油である霊の油を絶やさず主の来臨に備え、主の福音を掲げてあゆんでまいりましょう。
マラナタ、主よ、来たりませ。祈りましょう。
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この病気は死で終わるものではない

2014-02-02 14:20:28 | メッセージ
礼拝宣教  ヨハネ11・1~44 

本日はヨハネ福音書の中でも重きをおかれるラザロの死と復活に関する11章の記事から御言葉に聴いていきたいと思います。
まずここを読んで、私は牧師として心にひっかかったのは、亡くしたラザロの姉妹マルタ、そしてマリアがそれぞれ同じようにイエスさま、「主よ、もしあなたがここにいてくださいましたなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」といったその言葉であります。
これは牧師の働きをする中で経験することですが。教会員やそのご家族が天に召されていく折に共にさせて頂く機会もありますが、すべてのケースでそこに居合わせ、看取ることができたわけではありませんで、そういう時に、もう少し早くお訪ねしていたら、もっと早い時期に見舞っていたら、という悔いの残るケースもあります。執り成しと祈りの中で召されることを望まれていたのではなかろうか。ご家族にとっても微力ながらお力になれることがあったのではなかろうか、特に連絡が来た時には既に仏式で葬儀が済まされていた時などは、ご本人の遺志を思えば本当に残念な思いがいたします。
けでども牧師である私がたとえそこに居合わせることが叶わなかったとしても、主なる神さま、イエスさまは、その方と共にいてくださった。そのように私は信じております。

さて、11章の初めのところで、マルタとマリアの姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたが愛しておられる者が病気なのです」と言わせたとありますように、彼女らはイエスにすぐに来て下さるように頼んでいたのです。イエスさまなラザロの病をおいやしくださるに違いないと考えたからです。
ところがイエスさまはその知らせを聞いて、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われます。
そして愛する「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」のです。その間にラザロは死にました。
マルタとマリアはイエスさまが来てくれるならどんな病気もいやしてくれると信頼を寄せていましたから、それだけに彼女らは落胆の念を隠しきれず、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、このようにイエスさまにその悔やむ思いをぶつけるのであります。

しかしどうでしょう、彼女らが言うようなイエスさまのいやしは、必ずしもイエスさまが病人のそばにおいでになられた時に起こされたとは限らないのであります。
たとえば4章のイエスさまが役人の瀕死の息子をいやされた時には、「あなたの息子は生きる」とのお言葉を父親が信じて息子のところに持ち帰る途中に瀕死の息子がいやされます。
又、イエスさまがローマの百人隊長の中風の僕をいやされたケースでも、その百人隊長がイエスさまに「唯お言葉を下されば僕はいやされます」と慕い求めた同じ時刻に、その僕はいやされた、とあります。
さらにルカ24章にはエマオ途上の弟子たちが復活の主イエスと出会う記事が記されていますが。その弟子たちは自分たちと一緒に歩いてくださっていたお方が、復活の主イエスだと分かった時、「そのイエスのお姿は見えなくなった」とありますけれども。そこで語られている事は、復活のイエスさまはもはや人の眼に見える範囲や条件に限定されるお方ではなく、主を信じる者たちのあらゆる場所や距離をも超えたところにお働きになられ、そこにおいでになられる、という事実であります。

ところで私たち人間は、とかく目に見えるつながり、関わりをもちたがるものです。そうやって安心を得ようとします。そして孤独な思いを埋めるために人の多い場所にいったり、人とのつながりを求めようとします。そのような様々な関わり合いの中で生き、生かされているのであります。
しかし人がいる、物がある、あるいは何かを楽しむということで一時的に孤独感を埋め合わせることができたとしても、それだけでは本質的なところ孤独感が解決されるということはないでしょう。けれども、そこで人が自分をお造りになられた創造主、救いの神と出会い、その生けるお方が「いつも共におられる」その事を覚えて生きることができるなら、その人の魂には世にはない平安が与えられ、わびしさや孤独感といった感情から解放されるでしょう。さらにご聖霊の働きは信仰の兄弟姉妹という霊的なつながりを築かせ、人が孤独のうちに滅びることがないように執り成し仕え合う霊的交わりをお与えになります。
この大きな恵みに感謝し、主にあって共に生きる者として努めていきたいと願うものです。

さて、そのように絶望的孤独感から解放を受けた者でありましても、どうにもしがたい孤独というものがなお立ちはだかっています。それは「死」であります。人は一人で生まれて来て、一人で死んでいくよう定められているのです。それは又、残される者にとっても同様に恐れと喪失感をもたらします。マルタとマリアもまさにそうでした。

そこでイエスさまはマルタに、「あなたの兄弟(ラザロ)は復活する」とおっしゃるのですが。マルタは「終わりの日に復活することは存じております」と答えます。これは当時のユダヤ人たちの一般的な復活観をうのみにした返答でした。
それに対してイエスさまは言われます。「わたしが復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
ここでイエスさまがおっしゃるのは、ユダヤの一般的な復活理解ではなく、「あなたはどうなのか。イエスさまそのものが復活であり、命であると信じるのか」と問われるのであります。
マルタはそこで、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じます」と答えます。しかしマルタはこの後、イエスさまから「ラザロが葬られた墓をふさぐ石を取りのけなさい」と言われたとき。「主よ、4日もたっていますから、もうにおいます」と答えます。そのマルタに対してイエスさまは「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」とおっしゃるのです。これはどれほど力に満ちたお言葉でしょうか。遠い遠いいつ来くるか分からない将来、終わりの時なら、また会えるかもしれない、というような実体のないおぼろげな信心を根底からくつがえすようなお言葉であります。
私たちは、このイエスさまのお言葉を事あるごとに思い出すべきでしょう。「もし信じるなら、神の栄光が見られる、と言っておいたではないか。」どんな時も、どこにいても、このお言葉に信頼して歩んでまいりたいと願います。

イエスさまはラザロの病気を伝え聞いた時、「この病気は死で終わるものではない」(4節)とおっしゃいました。これはラザロの病気は「死のためのものではない」という意味です。
このことが起こったのは、死のためじゃない。滅びのためじゃない。主はそうおっしゃるのです。では何のためにラザロと姉妹たちはこのような状況に陥れねばならなかったのでしょうか。それはここにありますとおり、「神の栄光のため」であります。さらに15節で弟子たちに語られたように、「あなたがたが信じるようになるため」であります。イエスを信じる者たちが復活の命を受け、それを受けるためである、ということです。
イエスさまは、「わたしが復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と問いかけます。
聖書は全人類の一人ひとりに向け問いかけています。「あなたは、あなたの命を贖うためにイエスが十字架におかかりになって死なれたことを信じますか。」そしてイエスさまはその死より復活なさったのであります。さらに聖書は今日も語りかけています。「あなたは、そのイエスが復活であり、命であることを信じますか。」
イエスの復活は、死後の世界のことだけではありません。今私たちが生かされているこの時、この一瞬一瞬にも、実に神は霊なるお方として目には主ご自身のお姿が見えなくても、主を信じる者の間に確かにお働きになっておられるのであります。

さて、今日の聖書の中でもう一つ、心に留まったことがあります。
それは、33節「イエスは、彼女(マリア)が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、イエスは涙を流された」ということです。
このイエスの「心に起こった憤りと興奮」とは何でしょうか? 
それは「死」が悲痛な嘆きと悲惨の中に人間を閉じ込めていることを目の当たりにされた。罪のために世に入ってきた死の破壊的な勢力(サタンの働き)に対する強い霊的な憤り、憤慨であります。
その一方でイエスさまは、人の嘆きと悲しみに共感し、共に涙を流されたのであります。
イエスさまは人の悲しみや嘆きを不信仰だと裁いたりなさいません。すべては主の御手とご計画の中にあります。けれどもそこで人が感じる様々な感情に共感し、ある時は共に喜び、ある時は共に涙して下さる。この人の肉をとって私たちの間に来てくださったイエスさまを通して、神のご愛が示されているのです。そしてイエスを信じる者は日々の歩みにおいてこの神のご愛を体感することができるのであります。

最後にヘブライ4章14節以降の言葉をお読みして今日の宣教を閉じます。
「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さを同情できない方ではなく、罪を犯さなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐みを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

私たちも又、主を信じ、イエスさまの復活と命を受けたものとして、信頼と感謝をもって主の恵みの座に近づいていく今週の一日一日でありたいと願います。
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