礼拝宣教 ゼカリヤ9:1-12
先週はミカ書5章から「いと小さき者の中から」と題し御言葉を聞いていきましたが。それはまさに、救い主・待望のメシヤが小さなベツレヘムの町に弱い赤ん坊の姿をとってお生まれになったイエス・キリストである、ということを確認いたしました。主はまた同様に、小さな群に過ぎない私たちを通してこの地に主の救いの福音をもたらせることを切に願っておられる。そういうメッセージを受け取ってまいりました。
そして本日はゼカリヤ書9章のところから、キリストがどのようなお姿で神の平和を実現しようとなさったのか、ということを心に留めながら聖書のメッセージを聞き取っていきたいと思います。
まず、この預言者ゼカリヤについては、1章1節冒頭に「ダレイオスの第二年八月に、イドの孫でベレクヤの子である預言者ゼカリヤに主が臨んだ」とあるだけですが。彼はバビロンにおける70年の捕囚の後、預言者ハガイと共に一時ストップしていた神殿再建の業を再開させた人物であります。初めにエルサレムに帰還した人たちによって神殿の再建がなされたものの、外敵による度重なる攻撃や社会情勢の影響で、人びとの関心事は生活の不安や目先の問題にあったのです。そうして自分たちの生活に日々追われ、神殿の再建は後回しにされていきました。しかし主なる神さまは彼らのことを決してお忘れになりません。 ゼカリヤという名前は「神は覚えておられる」という意味です。彼らが再び神殿を建て直すことは、すなわち神の民である彼ら一人ひとりが神さまとの関係を立て直していくことを意味していたのです。
ハガイ、さらにゼカリヤは、そのような状況にあった民に向けて、神に立ち返って生きるようにと呼びかけ、神殿の再建を成し遂げるように叱咤激励したのです。
現代に生きる私たちも又、彼らからすれば比べものにならないほど物質面で豊かで恵まれているとはいえ、日々生活に追われ目先の問題が常にあります。そのような中でこうして思いを導かれ、教会堂建築の業に参与させて戴く中において、実に豊かな祝福に与ってきたのではないでしょうか。
新約聖書マタイ福音書6章には次のように書かれています。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。
主は私たち一人ひとりの生活においても必ず必要を満たしてくださると信じます。
このゼカリヤ書でありますが。1章~8章までの前半部と9章から14章までの後半部とに分ける事ができますが。全体をよく読みますと、その預言の幾つかは新約聖書において引用され、事実その通りに実現していきました。
前半部は主にゼカリヤが活動していた時の預言であり、彼が見た7つの幻、すなわちエルサレムの復興と救い主・メシヤについて書かれています。
後半部の9章以下は、ゼカリヤの活動した時代からずっと後のことについて言及がなされていますので、ゼカリヤの影響を受けた後代の複数の預言者や記者たちの手が加えられたと言われています。
9章の時代については、アレクサンドロス大王によって当時世界を治めていたペルシャが破れ、その後、エジプト、地中海沿岸都市、シリアなど次々と破っていき、一大マケドニア帝国(ギリシャ)を打ち立てます。しかし不思議な事にエルサレムだけは守られたのです。
ところが、さらに時代が経過すると、このマケドニア帝国(ギリシャ)もまた混乱期を迎え、シリアが台頭して統治するようになり、エルサレムのユダヤ人たちは想像し難い迫害に遭い苦難の時代を迎えることになるのです。
そう言う中、9節から10節で「救い主(キリスト)の到来」が預言されているのです。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。」
先ごろアメリカのケネディ新大使が来日され精力的に表敬訪問をなさっていらっしゃるようですが。皇居には馬車で入られたそうであります。その折は車か馬車でという日本のしきたりがあって選択できるそうです。まあ権威の象徴として用いられるのが馬という動物なんですね。古今東西そうでありますから、このユダヤの人びとも王、メシヤ・救い主ともあろうお方であれば、当然勇ましく軍馬にまたがってやって来て、民を守り、救い出してくれる、とそういうイメージを持って期待したのではないでしょうか。
ところが、ゼカリヤはそのお方がろばに乗ってやって来る、というのですね。権威や戦には到底向かないろばに乗って来られる方というのは、力を求める人びとにとってはきっと頼りない気さえしたに違いありません。
ろばは通常荷物を運んだり農耕では役に立っても、戦う道具にはなりません。第一格好がつきませんよね。しかし、救い主なる王・メシヤは「ろばに乗ってやって来る」のです。さらにそのお方は「高ぶることがない」とあります。高圧的に王として君臨するのではなく、ろばに乗ったお姿がどこか笑みをさそうようなそんな柔和なお方としてお出でになるというのです。
使徒パウロはフィリピ信徒への手紙2章6節以降で、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって死に至るまで従順でした」と述べています。
イエス・キリストは栄光や誉れを受ける者としてではなく、神と人とに仕える者としてお働きになられ、その最期に至るまで高ぶることなく、神に従い続けたご生涯であられました。そのように、救い主はろばに乗って来る、とのゼカリヤ書の預言は、そのようなイエスさまのあのエルサレム入城の際に現実のものとなったのです。
10節に続きますが。
「わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を断つ。戦いの弓は断たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ」とあります。
エフライムとは北イスラエルのことです。主はまず選びの民である全イスラエルに向けてあらゆる武力と戦力を断つ、と告げます。注目すべきは、主はいわゆる交戦力だけではなく防衛力ともなるあらゆる武力、武器、兵器などを取り除くことによって平和をもたらす、と宣言なさいます。
まあこれを読むときに、今のイスラエルの状況とかけ離れているじゃないか、とお思いになる方もおられるでしょう。そういう意味ではこの預言はいまだ実現されているとはいえないのかも知れません。けれども柔和なろばに乗って来られた救い主・メシヤは、今も信じる私たちの王としてそのご生涯と救いの御業を通して平和を教え、その実現へと促し続けておられます。ほんとうに柔和な平和の道を祈るものでありますが。
私たちの日本は敗戦後、一度も戦争をしていません。それはほんとうに幸いなことです。そこには憲法による縛りがあるからです。が、しかし今後、憲法が変えられ、にわかに国民の耳と口を封じる特定機密保護法の制定、集団的自衛権の行使、国家安全保障会議の創設、などなどの戦争が出来る国となる体制が整いつつあります。この流れこそ国民主権という民主主義が崩れ、またたく間に先の戦争の悲劇が繰り返されることになるのではないと危惧します。「私には関係のないこと」では決してない今日の状況であります。
さて、この10節の「諸国の民に平和が告げられる」との預言でありますが。この預言のすごいのは、それはイスラエルを取り巻く周辺諸国にも平和が告げられ、それがさらには海を越えて地の果てにまで及ぶ、と世界規模の預言として語られていることです。 来週からアドヴェント(待降節)を迎えますが、まさにその預言はゼカリヤの時代から約500年の長い年月を経て、ユダヤの小さな町ベツレヘムから始められ、救い主、イエス・キリストの平和が今や全世界に告げ広められている、ということであります。私たちも又、小さな者ではありますが。その平和を主と共に告げ広めてゆく者としてそれぞれが召されていることを覚えたいと思います。
ついで11節でありますが。
「またあなたについては/あなたと結んだ契約の血のゆえに/わたしはあなたの捕らわれ人を/水のない穴から解き放つ。希望を抱く捕らわれ人よ、砦に帰れ。今日もまた、わたしは告げる。わたしは二倍にしてあなたに報いる」とあります。
旧約聖書で「契約の血」といえば、かつてシナイ山でモーセを介して神と民が契約を結んだ折に、犠牲の動物の血が注がれたそのことを指しますが。ここではそのシナイの契約ではなく、エルサレムでなされる新しい契約のことを意味しているのです。
実はそれこそ、イエス・キリストが十字架上で肉を裂かれ流された血を表しています。それは主イエスが罪深い人間の罪の代償をかぶり、審きを自ら負い、その救いとともに神の義を全うしてくださった、その罪を完全に贖いとってくださったその尊い血しおを表しているのです。
ここに「捕らわれ人」という言葉が二度出てまいりますけれども、特に12節には「希望を抱く捕らわれ人」と書かれていますね。捕えられて何もかも奪われ失ってしまう経験をしたシオン、エルサレムの人々。彼らはハガイ、ゼカリヤの叱咤激励によって神殿を再建しますが、しばらく平和の後に再び苦難の時代がやって来ます。そこで彼らを支え続けたのは他でもない「神との契約」、救いの約束の御言葉です。
「夜と霧」という著名な作品を残されたユダヤ人のビクトール・フランクルは、自らの体験を通して捕虜収容所という過酷な中でも生き延びることができたのは、「希望」を失わなかったからだと言っています。
「主は、エルサレム、シオンの民を捨ておかない、砦に帰りなさい。主のもとに立ち帰りなさい、わたしは二倍にして報いる」。倍返しの祝福が必ずある、というのです。その希望によって今もイスラエルは存続していると言えるでしょう。それは又、救いの契約の血を、キリストの十字架の御業に見る私たちにも語られている希望の約束であります。全世界の救い主キリストもまた、私たちに向けて、主に立ち帰って生きることの報いを約束され、私たちはそれを希望として戴いて生きているのです。
最後に、前の教会にいた時に毎週夕方の祈祷会に出席されていた女性の青年が、重篤な病になったけれども願っていたホスピスでの入院生活ができるようになり、大変感謝されていた、そのお証しを紹介させて戴きましたが。その後も気になっていましたで、先週は丁度西南大神学部のミッションデーのシンポジウムも同じ日にあるということで、思いきって福岡の入院しているホスピスに姉妹をお訪ねしました。「先生無理をなさらないでください」と言われたものの、とにかくご様子を伺いたくてシンポジウム後すぐに、向かいました。お部屋に入りますとベットを少し起こして待っていてくださったのですが。思っていた以上に身体はおやせになられて、元気な頃を知る私には少しショックでしたが。お会いした瞬間満面の笑顔で迎えてくださいました。約1時間そこで姉妹のお話し、こちらの状況などいろんなことを話せましたが。
一つ強く心に留まったのは、彼女の口から「先生ガンは憎めないですね」という言葉です。どんなにそのせい苦しみ痛みを感じて日々療養生活を送っておられるかと思うのですが、その姉妹はこのようにも話されたのです。「私がガンになったことで、今まで全く疎遠であった兄、時には自分に対して攻撃的であった兄が、ほんとうに変わった、いや変えられたのですよ。実はこのホスピスに入れるようにがんばり、手配してくれたのも兄だったのです。それが本当に不思議で、また嬉しくて、今も兄は自分のことを大事にしてくれ、ほんとうに夢のようです。だからガンは憎めないのです。」そう彼女は言うのです。そしてこうも言っておられました。「神さまはマイナスといえるようなものを通して、何倍ものプラス、兄との和解のプレゼントを与えてくださった。そのことが何よりも感謝です。」私は励ますために彼女を訪問したのですが、その私の方が逆に励まされ、福岡を後に大阪に帰ってきました。主は生きておられます。その主にある希望が私に、人と人の間に豊かに起こり、働いておられます。
生きたイエス・キリストと共に歩み行く一日一日には希望があります。今日は世界バプテスト祈祷週間です。世界の救い主、キリストの平和の到来を祈り、喜びをもって共に仕えてまいりましょう。
最後にゼカリヤ9章16節をお読みして宣教を閉じます。
「彼らの神なる主は、その日、彼らを救い/その民を羊のように養われる。」
先週はミカ書5章から「いと小さき者の中から」と題し御言葉を聞いていきましたが。それはまさに、救い主・待望のメシヤが小さなベツレヘムの町に弱い赤ん坊の姿をとってお生まれになったイエス・キリストである、ということを確認いたしました。主はまた同様に、小さな群に過ぎない私たちを通してこの地に主の救いの福音をもたらせることを切に願っておられる。そういうメッセージを受け取ってまいりました。
そして本日はゼカリヤ書9章のところから、キリストがどのようなお姿で神の平和を実現しようとなさったのか、ということを心に留めながら聖書のメッセージを聞き取っていきたいと思います。
まず、この預言者ゼカリヤについては、1章1節冒頭に「ダレイオスの第二年八月に、イドの孫でベレクヤの子である預言者ゼカリヤに主が臨んだ」とあるだけですが。彼はバビロンにおける70年の捕囚の後、預言者ハガイと共に一時ストップしていた神殿再建の業を再開させた人物であります。初めにエルサレムに帰還した人たちによって神殿の再建がなされたものの、外敵による度重なる攻撃や社会情勢の影響で、人びとの関心事は生活の不安や目先の問題にあったのです。そうして自分たちの生活に日々追われ、神殿の再建は後回しにされていきました。しかし主なる神さまは彼らのことを決してお忘れになりません。 ゼカリヤという名前は「神は覚えておられる」という意味です。彼らが再び神殿を建て直すことは、すなわち神の民である彼ら一人ひとりが神さまとの関係を立て直していくことを意味していたのです。
ハガイ、さらにゼカリヤは、そのような状況にあった民に向けて、神に立ち返って生きるようにと呼びかけ、神殿の再建を成し遂げるように叱咤激励したのです。
現代に生きる私たちも又、彼らからすれば比べものにならないほど物質面で豊かで恵まれているとはいえ、日々生活に追われ目先の問題が常にあります。そのような中でこうして思いを導かれ、教会堂建築の業に参与させて戴く中において、実に豊かな祝福に与ってきたのではないでしょうか。
新約聖書マタイ福音書6章には次のように書かれています。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。
主は私たち一人ひとりの生活においても必ず必要を満たしてくださると信じます。
このゼカリヤ書でありますが。1章~8章までの前半部と9章から14章までの後半部とに分ける事ができますが。全体をよく読みますと、その預言の幾つかは新約聖書において引用され、事実その通りに実現していきました。
前半部は主にゼカリヤが活動していた時の預言であり、彼が見た7つの幻、すなわちエルサレムの復興と救い主・メシヤについて書かれています。
後半部の9章以下は、ゼカリヤの活動した時代からずっと後のことについて言及がなされていますので、ゼカリヤの影響を受けた後代の複数の預言者や記者たちの手が加えられたと言われています。
9章の時代については、アレクサンドロス大王によって当時世界を治めていたペルシャが破れ、その後、エジプト、地中海沿岸都市、シリアなど次々と破っていき、一大マケドニア帝国(ギリシャ)を打ち立てます。しかし不思議な事にエルサレムだけは守られたのです。
ところが、さらに時代が経過すると、このマケドニア帝国(ギリシャ)もまた混乱期を迎え、シリアが台頭して統治するようになり、エルサレムのユダヤ人たちは想像し難い迫害に遭い苦難の時代を迎えることになるのです。
そう言う中、9節から10節で「救い主(キリスト)の到来」が預言されているのです。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。」
先ごろアメリカのケネディ新大使が来日され精力的に表敬訪問をなさっていらっしゃるようですが。皇居には馬車で入られたそうであります。その折は車か馬車でという日本のしきたりがあって選択できるそうです。まあ権威の象徴として用いられるのが馬という動物なんですね。古今東西そうでありますから、このユダヤの人びとも王、メシヤ・救い主ともあろうお方であれば、当然勇ましく軍馬にまたがってやって来て、民を守り、救い出してくれる、とそういうイメージを持って期待したのではないでしょうか。
ところが、ゼカリヤはそのお方がろばに乗ってやって来る、というのですね。権威や戦には到底向かないろばに乗って来られる方というのは、力を求める人びとにとってはきっと頼りない気さえしたに違いありません。
ろばは通常荷物を運んだり農耕では役に立っても、戦う道具にはなりません。第一格好がつきませんよね。しかし、救い主なる王・メシヤは「ろばに乗ってやって来る」のです。さらにそのお方は「高ぶることがない」とあります。高圧的に王として君臨するのではなく、ろばに乗ったお姿がどこか笑みをさそうようなそんな柔和なお方としてお出でになるというのです。
使徒パウロはフィリピ信徒への手紙2章6節以降で、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって死に至るまで従順でした」と述べています。
イエス・キリストは栄光や誉れを受ける者としてではなく、神と人とに仕える者としてお働きになられ、その最期に至るまで高ぶることなく、神に従い続けたご生涯であられました。そのように、救い主はろばに乗って来る、とのゼカリヤ書の預言は、そのようなイエスさまのあのエルサレム入城の際に現実のものとなったのです。
10節に続きますが。
「わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を断つ。戦いの弓は断たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ」とあります。
エフライムとは北イスラエルのことです。主はまず選びの民である全イスラエルに向けてあらゆる武力と戦力を断つ、と告げます。注目すべきは、主はいわゆる交戦力だけではなく防衛力ともなるあらゆる武力、武器、兵器などを取り除くことによって平和をもたらす、と宣言なさいます。
まあこれを読むときに、今のイスラエルの状況とかけ離れているじゃないか、とお思いになる方もおられるでしょう。そういう意味ではこの預言はいまだ実現されているとはいえないのかも知れません。けれども柔和なろばに乗って来られた救い主・メシヤは、今も信じる私たちの王としてそのご生涯と救いの御業を通して平和を教え、その実現へと促し続けておられます。ほんとうに柔和な平和の道を祈るものでありますが。
私たちの日本は敗戦後、一度も戦争をしていません。それはほんとうに幸いなことです。そこには憲法による縛りがあるからです。が、しかし今後、憲法が変えられ、にわかに国民の耳と口を封じる特定機密保護法の制定、集団的自衛権の行使、国家安全保障会議の創設、などなどの戦争が出来る国となる体制が整いつつあります。この流れこそ国民主権という民主主義が崩れ、またたく間に先の戦争の悲劇が繰り返されることになるのではないと危惧します。「私には関係のないこと」では決してない今日の状況であります。
さて、この10節の「諸国の民に平和が告げられる」との預言でありますが。この預言のすごいのは、それはイスラエルを取り巻く周辺諸国にも平和が告げられ、それがさらには海を越えて地の果てにまで及ぶ、と世界規模の預言として語られていることです。 来週からアドヴェント(待降節)を迎えますが、まさにその預言はゼカリヤの時代から約500年の長い年月を経て、ユダヤの小さな町ベツレヘムから始められ、救い主、イエス・キリストの平和が今や全世界に告げ広められている、ということであります。私たちも又、小さな者ではありますが。その平和を主と共に告げ広めてゆく者としてそれぞれが召されていることを覚えたいと思います。
ついで11節でありますが。
「またあなたについては/あなたと結んだ契約の血のゆえに/わたしはあなたの捕らわれ人を/水のない穴から解き放つ。希望を抱く捕らわれ人よ、砦に帰れ。今日もまた、わたしは告げる。わたしは二倍にしてあなたに報いる」とあります。
旧約聖書で「契約の血」といえば、かつてシナイ山でモーセを介して神と民が契約を結んだ折に、犠牲の動物の血が注がれたそのことを指しますが。ここではそのシナイの契約ではなく、エルサレムでなされる新しい契約のことを意味しているのです。
実はそれこそ、イエス・キリストが十字架上で肉を裂かれ流された血を表しています。それは主イエスが罪深い人間の罪の代償をかぶり、審きを自ら負い、その救いとともに神の義を全うしてくださった、その罪を完全に贖いとってくださったその尊い血しおを表しているのです。
ここに「捕らわれ人」という言葉が二度出てまいりますけれども、特に12節には「希望を抱く捕らわれ人」と書かれていますね。捕えられて何もかも奪われ失ってしまう経験をしたシオン、エルサレムの人々。彼らはハガイ、ゼカリヤの叱咤激励によって神殿を再建しますが、しばらく平和の後に再び苦難の時代がやって来ます。そこで彼らを支え続けたのは他でもない「神との契約」、救いの約束の御言葉です。
「夜と霧」という著名な作品を残されたユダヤ人のビクトール・フランクルは、自らの体験を通して捕虜収容所という過酷な中でも生き延びることができたのは、「希望」を失わなかったからだと言っています。
「主は、エルサレム、シオンの民を捨ておかない、砦に帰りなさい。主のもとに立ち帰りなさい、わたしは二倍にして報いる」。倍返しの祝福が必ずある、というのです。その希望によって今もイスラエルは存続していると言えるでしょう。それは又、救いの契約の血を、キリストの十字架の御業に見る私たちにも語られている希望の約束であります。全世界の救い主キリストもまた、私たちに向けて、主に立ち帰って生きることの報いを約束され、私たちはそれを希望として戴いて生きているのです。
最後に、前の教会にいた時に毎週夕方の祈祷会に出席されていた女性の青年が、重篤な病になったけれども願っていたホスピスでの入院生活ができるようになり、大変感謝されていた、そのお証しを紹介させて戴きましたが。その後も気になっていましたで、先週は丁度西南大神学部のミッションデーのシンポジウムも同じ日にあるということで、思いきって福岡の入院しているホスピスに姉妹をお訪ねしました。「先生無理をなさらないでください」と言われたものの、とにかくご様子を伺いたくてシンポジウム後すぐに、向かいました。お部屋に入りますとベットを少し起こして待っていてくださったのですが。思っていた以上に身体はおやせになられて、元気な頃を知る私には少しショックでしたが。お会いした瞬間満面の笑顔で迎えてくださいました。約1時間そこで姉妹のお話し、こちらの状況などいろんなことを話せましたが。
一つ強く心に留まったのは、彼女の口から「先生ガンは憎めないですね」という言葉です。どんなにそのせい苦しみ痛みを感じて日々療養生活を送っておられるかと思うのですが、その姉妹はこのようにも話されたのです。「私がガンになったことで、今まで全く疎遠であった兄、時には自分に対して攻撃的であった兄が、ほんとうに変わった、いや変えられたのですよ。実はこのホスピスに入れるようにがんばり、手配してくれたのも兄だったのです。それが本当に不思議で、また嬉しくて、今も兄は自分のことを大事にしてくれ、ほんとうに夢のようです。だからガンは憎めないのです。」そう彼女は言うのです。そしてこうも言っておられました。「神さまはマイナスといえるようなものを通して、何倍ものプラス、兄との和解のプレゼントを与えてくださった。そのことが何よりも感謝です。」私は励ますために彼女を訪問したのですが、その私の方が逆に励まされ、福岡を後に大阪に帰ってきました。主は生きておられます。その主にある希望が私に、人と人の間に豊かに起こり、働いておられます。
生きたイエス・キリストと共に歩み行く一日一日には希望があります。今日は世界バプテスト祈祷週間です。世界の救い主、キリストの平和の到来を祈り、喜びをもって共に仕えてまいりましょう。
最後にゼカリヤ9章16節をお読みして宣教を閉じます。
「彼らの神なる主は、その日、彼らを救い/その民を羊のように養われる。」