日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

今年も天使のバラ開花!

2021-04-26 08:38:04 | 教会案内

 

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罪ゆるされた群

2021-04-25 11:20:49 | メッセージ

主日礼拝宣教 マタイ18章15―20節

本日より三度目の緊急事態宣言発出となりました。礼拝と祈祷会は休会とされることになりました。再開の目処はたっておりません。その間教会に集まっての礼拝や祈祷会を持つことはできませんが、それぞれの場にあって心を合せ、主に礼拝の日々を捧げてまいりたいと願います。これ以上の感染拡大と医療崩壊を招くことがないように祈りに覚えつつ、私たちにできうることを努めてまいりたいと願います。

 

さて、本日は先に読まれましたマタイ18章15~20節には、「兄弟の忠告」という小見出しがつけられておりますが。18章全体を読みますと、これは「罪ゆるされた群(教会)」に託されたメッセージであることに気がつかされました。

主イエスは15節以降で、「兄弟があなたに対して罪を犯したら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と言われました。

これは、同信の兄弟があなたに対して心無いふるまいや態度をとったとき、みんなの前で叱責したり、あるいは本人のいないところで噂話をしてうやむやなまま忌み嫌うのではなく、まずは「二人だけのところで、その態度やふるまいを問い、忠告しなさい」といわれます。そして、相手がその事を受け入れたなら「兄弟を得たことになる」とも言われます。

しかし「聞き入れなければ、ほかの一人か二人を一緒に連れて行きなさい」と言われます。その兄弟の罪が、客観的に明確に証明されていくためにそうしなさいとおっしゃるのです。

さらに「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」と、兄弟の罪を真剣に問い続けます。なぜ兄弟の罪をうやむやにせず、そこまで問い続けなければならないとおっしゃっているのでしょうか。

それは前段のこの話の前に「迷い出た羊のたとえ」のところにあるように、「小さい者(罪深い者であったとしても、神の救いのもとにある人)が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と、主イエスがお考えになっておられるからです。まさに、主イエスは、さまよい滅びゆく外なかった者をどこまでも探し出し、救ってくださるお方なのです。だからこうして問いかけて、罪の滅びから立ち返るようにしなさい、とおっしゃるのです。

主イエスは、あなたに対して罪を犯した兄弟がその罪に気づかなかったり、同じ過ちを繰り返してしまって神の御前で罪に滅びることがないよう、その兄弟と向き合い続けることをあきらめてはならない、と語られるのです。

忠告を聞き入れて悔い改める(方向転換する)なら、迷い出た羊であったその人は神の前に連れ戻され、忠告をした人たちは兄弟を得たことになる、と主はおっしゃるのです。

ところで、祈祷会の聖書の学びの時にも疑問として出されたのは、「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と語られていることです。

罪を犯した兄弟に対して、そういった段階を踏んできちんと話をしても聞き入れないのなら、もう教会から締め出しなさい、と言っておられるのでしょうか。

確かに、人間には限界があります。話し合っても頑なになった心が開かれなければどうすることも出来ません。しかし主イエスは、その罪を犯した人が滅びるに任せよ、ということを言っておられるのではありません。なぜなら、主イエスは99匹の羊をおいてまで迷い出た羊をあきらめず、どこまでも探し続ける羊飼いなる主であるからです。

この「異邦人か徴税人と同様」の異邦人とは、生ける神を知らない人、神の律法と戒めを知らない人の代名詞です。又、徴税人は罪と知りながら慢性的に同胞からお金をかすめ取る者も多かったようです。

主イエスがおっしゃる神の救いの選びに囲われたユダヤ人とは対照的なこの異邦人や徴税人は、ただ主の御憐みによってのみ救われる外ない存在であるということです。

「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われる主御自身が、実は誰よりもその罪深い人が滅びることなく、悔い改めをもって神に受け容れられるようにと日夜お働きになられるのです。福音書にあるとおりです。神の戒めをなかなか悟り得ない異邦人のような者、又徴税人のような嫌われ者であっても主イエスはあきらめておられないのです。なぜならそのような人こそ、自らの罪に気づいた時、資格がないのに神に受け容れられた救いの喜びをほんとうに知る者となるからです。

 

もはや教会の手に負えない時、教会はその主イエスの愛と誠実にゆだねる外ありません。その上で、主イエスは大事なことをいくつか述べておられます。

一つは、「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くとは、天上でも解かれる。」

この「つなぐ」と「解く」はユダヤの法廷用語で、罪に「つなぐ」と言えば、罪が明確にされることを示し、罪を「解く」と言えば、罪のゆるしを表わすものなのです。その「罪を明確」にし、その上で「罪をゆるす」権能が教会に与えられている、と主はおっしゃるのです。ほんとうに主の御前に罪に価することがあるのか明確にされるべき。

けれども、明確にされることとゆるしが与えられていることは実はつながっている。それが地上におけるキリストの教会の姿として示されるのです。その教会のつなぐこと、解くことの表明が天上でもつながれ、天上でも解かれる。すなわち天の神の御前にキリストの名のもとに罪のゆるしが与えられる、というのです。

バプテスマに先立つ信仰の告白や救いの証しにおいて、罪の告白がなされることがあります。教会は神の前になされるその告白に厳粛な思いで立ち会わせていただくわけですが。主イエス・キリストの御名によって新しい人とされるとき、まさに天上における罪のゆるしが宣言されるのです。

とはいえ、自分が直接不正な仕打ちを受けた時、罪をゆるすということはなかなかできないことです。これは自分の頭でどう考えてもできるものではありません。

それができるとするなら、自らも罪のゆるしを必要とする者であり、主イエスの罪のゆるしと贖いに与っている救いの恵みを信じればこそです。私の罪のために主イエスが十字架にかけられ、からだを裂かれ、血を流されて罪の代償を支払われた事。そうして滅びの縄目を解かれた事を覚えるとき初めて、主のおっしゃる「ゆるし」を知る者となるのです。

主イエス・キリストなる御神によってほんとうにゆるされていることを知る人が、人をゆるす賜物を頂くことができるのです。その恵みの深さを私共は礼拝において毎回確認していくわけですね。

二つ目、「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」

これはどんなに大きな慰めであり、素晴らしい主の約束ではないでしょうか。

ここに「どんな願い事であれ」とありますが。しかしこれは好き勝手な自分の願いという事ではありません。よくこの部分だけが一人歩きしてしまいますが。それは前の文脈から来ている「罪を犯した兄弟」の罪が明確にされ、神のもとに回復されていくという教会の課題があまりに大きなことであるので、もはや教会は神に祈る外ない。そういう時、教会みんなで祈るとよいのでしょうが、問題によってはそうはいきません。そういう場合でも主は、「二人、三人が地上で心を一つにして求める(祈る)なら、叶えられる」とおっしゃるのです。

教会というとおおよそ10人以上とか、建物に集まるイメージがあるかも知れません。しかし人数や建物や組織以前に、その本質は主のゆるしを心から知り、感謝している人、主の兄弟姉妹とつながり、交わりをあきらめずに求め祈る人たちのことです。その兄弟姉妹が二人であれ三人であれ、心を一つにして求めて祈るところから神の助けは必ず来る、と主は明言なさるのです。

 

主イエスは最後にこう言われます。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

今日私の心に新鮮に響いてきたのが、この「わたしの名によって集まる」というお言葉でありました。

これまでは「二人または三人でも主がその中におられる」というところに思いが向いていたのですが。今日改めて「主イエス・キリストの御名によって集まる」というそのお言葉に特別な恵みを覚えました。

「罪ゆるされた群」として、足を洗い合うように互いが罪に滅びることなく、救いを歩みとおせるように語り合い、祈り合い、ゆるし合うその手本を自ら示して下さったキリストに導かれた群。それが教会です。

 

今、コロナ禍のために、主の名によって共に集う礼拝ができないという状況であります。

人流を止め、人と人の距離をとっていくことが、感染拡大と医療崩壊を防ぎ、いのちを守ることにつながるということであります。主の名によって共に集い礼拝を捧げたいという願いはありますが。今日もこういう形で、メールや音声データを介して、私たちは主イエスの御名のもと共に礼拝を捧げています。それもほんとうの恵みに立ち戻る時として備えられたことなのかも知れません。待ち望む私共にとって教会での再会の期待と喜びも新鮮な出来事となっていくことでしょう。

主イエスは約束してくださいました。「二人または三人がわたしの名によって集まるころには、わたしもその中にいるのである。」

岩波訳聖書は「私の名のもとに二人あるいは三人が集まっているところでは、彼らのただ中に私がいるからである。」「彼らのただ中に私がいる。」私たちの間、そのただ中にお出で下さる生ける救いの神、主イエス・キリストの御名を讃美します。

本日は「罪ゆるされた群」と題し、御言葉に聞いてきました。

「罪を犯した兄弟に罪の勧告」を行うのは、神に成り代わって裁くためではなく、その兄弟が罪に滅びることがないためです。そして、「その兄弟が神のもとに回復されていくために心を合せて二、三人が主の名によって祈る」ことの尊さについて、御言葉を聞きました。

そこにはゆるしが必要です。そのゆるしは自らの救いの体験から学んだ神の深い憐み(いつくしみ)から流れ出る愛です。

主の御名によってとりなし、祈り合う人たち、そのただ中に主がお出でくださる。この大いなる助けと慰めを私たちもしっかりと頂いて、今週それぞれの祈りの務めを果たして歩んでまいりましょう。

礼拝宣教音声→https://drive.google.com/file/d/1PbQY7Tl2efIh4th2duJSnYawpaO-YK8M/view?usp=drivesdk

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4月25日以降の休会のお知らせ

2021-04-23 10:25:29 | 教会案内

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何が幸い

2021-04-18 18:16:15 | メッセージ

主日礼拝宣教 マタイ5:1~12

 

先週は復活された主イエスのお言葉からメッセージを聞きましたが、その具体的教えの多くが、先に読まれたマタイ福音書5章から7章までに語られております。

ここには主イエスが山に登られてお話をされたということで山上の説教とか垂訓と言われていますが。本日はその始めの「幸いな人たち」について語られているところから御言葉を聞いていきたいと思います。

ところで皆さんはどのような時に幸せ、幸福だなとお感じになるでしょうか。おいしいものを食べている時。ひいきの選手やチームが勝った時。家族が変わりなく健やかであることなど、様々おありでしょう。また、どのような人を「幸せな人」とお思いになるでしょう。社会的に成功している人。お金に不自由のない人。世の中から賞賛されている人でしょうか。

先ほど主イエスの「幸い」についてのお言葉が読まれましたが。どうして、心の貧しい人、悲しむ人が幸いなどと言うことができるでしょうか。「何が幸いなのか」と、それは私たちが考え、求める幸福や幸いと思う価値観を覆すようなものであります。

 

①先行する「幸い」

ここをちょっと文語訳聖書で読んでみたいと思います。

「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。幸福(さいはひ)なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。幸福(さいはひ)なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣(つ)がん。幸福(さいはひ)なるかな、義に飢え渇く者。その人は飽くことを得ん。幸福(さいはひ)なるかな、憐憫(あはれみ)ある者。その人は憐憫を得ん。幸福(さいはひ)なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。幸福(さいはひ)なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と称(とな)へられん。幸福(さいはひ)なるかな、義のために責められたる者。天国はその人のものなり。」

ギリシャ語の原文に則して訳すと、実はこの文語訳のようになるのです。つまり、すべての文頭に「幸いなるかな」と、主の一方的な「幸いの宣言」が心の貧しい人びと、悲しむ人びと、柔和な人々、義に飢え渇く人びと、憐れみ深い人びと、心の清い人びと、平和を実現する人びと、義のために迫害される人びとに、語りかけられているということであります。

②「心の貧しい人々は、幸いである」

ルカ福音書では「貧しい人びと」は幸いである、と記されていますが。このマタイ福音書は「心の貧しい人々」は幸いである、記されております。

「心の」ということが入ることで、単に物質的貧しさだけでなく精神的な貧しさをそこに含んでいるということであります。たとえば財産や富、地位や名誉をもち、世で成功をおさめていた人が、そういったものが人の世で通用しなくなる時に心にぽっかりと大きな穴があいて、うつろな空しい思いを経験するかも知れません。

価値ある人と自他共に認められてきた人が、その価値観を失われていく時。自分の存在の意味さえ見出せなくなるような心の貧しさ、飢え渇きを覚えるかも知れません。  けれども、この「心の貧しい人」の「心」は、単に思いや考えが貧しいというのではなく、「霊」の飢え渇きを意味しています。つまりそれは、すべてを司っておられるお方に嘆願せざるを得なくなった人のことなのです。その魂、霊の飢え渇きによって神の救いを切に欲している人、待ち望んでいる人。そのような人が神の前でほんとうに「幸いな人」だと主イエスは宣言なさるのです。

 

③「悲しむ人々は、幸いである」

悲しむ人々がなぜ幸いなのでしょうか。人は誰しも悲しまなくてすむように生きたいし、悲しい目には遭いたくないと願います。悲しむ人を見て、だれがあの人は幸せだなどといえるでしょう。

人生には喜びと共に悲しみが必ずあります。人の出会いの喜びと共に、地上での別れは辛く、悲しい経験です。けれどもその悲しみというものは生きていることのあかしでもあります。

大事なことは、世にあって様々な苦難や悲劇ともいえるような経験をする時にこそ、神は共におられ、慰めを与えてくださることを真に知ることであり、主イエスはそのような人は幸いとおっしゃるのです。

ところで、この「慰められる」の「慰め」はパラクレイトス、聖霊(慰め主)を表す言葉の語源となっているのです。わたしが悲しむ時、聖霊なる慰め主は十字架と復活のお姿を通して、その悲しんでいるわたしと共にいてくださる。だから幸いだと、主イエスはおっしゃるのです。

 

④「柔和な人々は、幸いである」

「柔和」と聞くと。普通、人間の心の寛容さや優しさを思い浮かべますが。この当時のユダヤにおいて「柔和な人びと」とは、実は「貧しい人々」と同様の意味をもっていたのです。それは「何も持たない」「とるに足りない」人びとという響きをもった言葉でありました。

この世界、社会にあってその存在すら忘れられ、軽んじられているような人びとのことであります。又、柔和な人とは「権力のない人」と訳すこともできます。

主イエスが「柔和なロバの子に乗って」エルサレムを入城なさったその様子を連想いたしますが。神の福音とその栄光を背に乗せお運びするのは、まさにそういう柔和な人びとだとおっしゃるのです。世は力ある人、能力や肩書のある軍馬のような人を期待します。けれども、主はやがて訪れる天の国、その地を受け継ぐ者となるのは柔和な人、神の御救いに頼る以外なく、たえず主を呼び求めるそのような人たちは幸いだ、と宣言なさるのです。

 

⑤「義に飢え渇く人々は、幸いである」

この「義」とは何でしょうか。それは「救い」とか「神のみがもつ正しさのこと」です。義の前で人は誰もその神の義に飢え渇く貧しい者でしかありません。そのことを本当に痛感し、自分の貧しさを思い知らされて歩む人は、真の義、神の救いに満たされる。だから幸いである、と主はおっしゃるのです。

 

⑥「憐れみ深い人々は、幸いである」

この「憐れみ」は主イエスの宣教の中心をなしています。私たちは神の憐みによって救われているのです。主は私たちが罪に滅んでしまうことがないように、十字架の苦しみと死をもって憐れんで下さったのです。

本田哲郎訳では、「人の痛みが分かる人は、神からの力がある。その人は自分の痛みを分かってもらえる」と記されてあります。「憐れみ」とは人の「痛み」を自らのものとする。痛みが伴う。その力は神から来る。この訳は実に新鮮ですね。

 

⑦「心の清い人々は、幸いである」

普通の会話でも、あの人は心が澄んでいるね、心が清らかやね、とか言いますが。

その多くの場合は、自分の損得なしに正しい行いや心がけを持っている人をそう呼ぶのではないでしょうか。けれどもここで言う「心の清い人びと」とは、真直ぐに神へと向かう心のことです。何につけひたすら神を仰ぎ見る人は、自分の内の清さがどんなにもろく、曇りやすいかに気づかされます。そこで、神の清さ、神の御救いを乞い求める人は「神が生きておられる」という信仰の体験に与る者とされるのです。それが神の御前に幸いなのであります。

 

⑧「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」

これはまさにピースメーカーですよね。何より神の平和、神の平安を分かち合う者とされたいものです。

 

⑨さらに「義のために迫害される人々は、幸いである」との主のお言葉が続きます。

主の教えを実践して生きる者には、時に無理解や反発、迫害までも起こります。後にマタイ福音書を書いたマタイの教会にも、聖徒たちへの弾圧や迫害が起こって来たようです。主の救いと和解の福音を伝え、証しして愛の実践を行っている聖徒たちが、いわれのない不当な扱いにさらされていたのです。

今日ここを読みながら頭に浮かんで消えないのは、香港、ロシア、さらに昨今緊迫化しているミャンマーの情勢であります。民主的な生き方を獲得し、人権意識や個々人の良心や思想信条の自由を尊重していくことを学び育った世代の人たちが、主体となって権力の暴走と横暴に否を突きつけ、非暴力で訴えています。それに対して暴力と銃弾によって多くの罪のない市民の血が流されていることにやるせなく、いたたまれない思いです。対岸の火事ではすまされません。こうした人の命と尊厳を脅かし、軽んじる世界にどうすれば正義と平和が実現されていくのでしょうか。この世界が造り主なる神の全き義と愛を拒み続けるなら、罪とそこに働く世の力は働き続けるでしょう。

エフェソ2章には「実に、キリストはわたしたちの平和であります。十字架を通して神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れたあなたがたにも、又、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らされました」とあります。キリストによってもたらされた平和を実現する者として、祈りと力を合わせて主のお用いに与りたいと願うものです。

 

⑩ここまで、主イエスの山上の説教を読んできましたが。

この最後の11節で主は「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」とおっしゃっています。

それまでの「~人々」と言うのが、「あなたがたは幸いである」と。それは、わたしとあなたという関係で、主が身近に語りかけておられることに気づきます。この主イエスの教えは、初めの1節にあるように近寄って来た弟子たちを前に話されたものです。弟子たちはじめ、迫害下にあったマタイの教会の聖徒たち、そして2000年の歳月、世界中に福音が伝えられ、拡がっていく中で主の御救いに与るすべてのキリスト者たち。様々な困難の中でもキリストの福音に生きる者に主は、「あなたがたは幸いある」と、天の御国の祝福を宣言なさるのです。天の御座から溢れるこの大いなる励ましを受けつつ、主の弟子たちは今日も真理のもとにある確かな幸いを分かち合う者として世に遣わされているのです。

本日は、「何が幸い」という問いかけをもって主イエスのお言葉から聞いてまいりました。世に幸いと呼ばれることは如何に多くても、生ける神とその救いを知らないのでは、天の御国における真の幸いを受けることはできません。

今コロナ禍ではありますが。今でなければ得ることのできない幸いなる歩みがきっとあるはずです。そのために主に祈りつつ、今日の主イエスの祝福と励ましを魂いっぱい戴いて、今週もここから遣わされてまいりましょう。

 

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2021年4月18日 主日礼拝

2021-04-15 09:01:28 | 教会案内

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共に歩み出そう

2021-04-11 17:13:16 | メッセージ

礼拝宣教  聖書 マタイ28章16-20節

 

この箇所は復活の主イエスが弟子たちを世にお遣わしになるに当り語られた「大宣教命令」として知られているところです。

主イエスの復活後、弟子たちは「ガリラヤへ行きなさい」とのみ声に聞き従い、主イエスが指示された山に登りました。この山がどこの山か明記されていませんが、かつて主イエスが弟子たちを集めて「山の上で説教」をなさった山とも言われております。

その時弟子たちは主イエスを「自分たちの師・先生」としてお話を聞いたのでありますが。しかし今日のこの場面で復活された主イエスと再会した弟子たちは、主イエスのお姿に神の栄光を仰ぎ見て、御前に平伏したのです。この山は主イエスが最初に礼拝された場所となったのです。

興味深いのは、その11人の弟子の中に「疑う者もいた」と記されていることです。

弟子たちは皆イエスさまを見捨て逃げました。その十字架刑と死に対するあまりに深い失望感が復活の主イエスをその目で見ても、なお疑いと戸惑いを引き起こさせていたのではないでしょうか。

マルコ福音書の主の復活に関する記事では、弟子の「11人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。彼らが復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」と記されております。

しかしこのマタイの福音書では、主イエスは疑う弟子たちのことを「ご存じのうえで」、その彼らに自ら近寄って来ておられるのです。しかも主イエスは弟子たちをそのあるがままの状態で受け入れ、福音宣教の働きへと招かれるのであります。

 

「教会の使命」

さて、今日のところで主イエスは次のように弟子たちにお命じになります。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」

ここにはまず、復活の主イエスが「天と地の一切の権能を授かっている」お方であることが宣言されています。それは、主イエスがこの地上の歩みにおいて御父である神のご計画、すなわち十字架の死に至るまで完全に従い通された、そのことによってもたらされた権能であります。

ヨハネ福音書5章21節以降には次にようにあります。

「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も与えたいと思う者に命を与える。・・・はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」

そして、「父なる神は裁かず、一切の裁きの権能を子である主イエスに任せられた」と記されています。

主イエスがこの権能を受けられたのは、まさに十字架と復活を通してであります。この復活の主の権能によって弟子たちは神の新しい民とされ、主の霊・聖霊を受けて、救いの福音の使者として遣わされていくのです。

この神の新しい民とされた弟子たちに対し、復活の主イエスは3つのことを命じます。一つ目は「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」というものです。

それまではイスラエルこそが神の選びの民であり、神の救いと神の国はそのユダヤの人々に向けて語られたのでした。けれども復活の主イエスが、「天と地の一切の権能を授かった」と宣言された時から、神の救いはイスラエルのみならず、あらゆる国の人々に開かれたのです。そして復活の主イエスのこの宣教命令によって、古いユダヤ時代の偏見や差別といった隔ての壁が突き崩され、世界のあらゆる地に神の救いの福音が届けられるようになったのですね。

世界中の人々がこの驚くような祝福に与るために主イエスは、弟子たちを、主の救いに与った私たちもそうです、世に遣わし、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子となさい」と命じられるのです。

今、私たちが主の救いの福音に与っているのは、まさにこうした初代教会の弟子たちから始まった福音宣教の尊い働きがあり、それが2000年もの時代も途切れることなく、世界中の多くの主の弟子たちによって継承され、そしてそれが私たちのもとにも届いているのです。私たちも又、主の救いの福音を人々と分かち合う使命を、主から受けているのです。

ところで、この主イエスの「あなたがたは行って、すべての民を」というお言葉ですが。マルコ16章では「全世界に行って、すべての造られたものに」となっています。それを聞きますと、何か今の場所を離れて遠い地に行かなければならないのか?又、弟子として生きるとは宣教師や牧師となって直接的な伝道の働きをすることなのか?と、そう思われる方もいるかも知れません。

確かにそのような学びと知識を持つ召命を受けたフルタイムの働き人は必要です。しかしここで、「あなたがたは行って、すべての民を」というのは必ずしもどこか遠い地や異国ということではなく、それはたとえば、私たちの日常における身近な関わりの中で主は私たちをお用いくださるのです。家族や友人・知人、学びの場や職場、地域等、私たちはこのキリストの教会を基に、国内外の様々な福音の働きにつながり、祈り、ささげて、その福音が実を結び、拡がりゆく主の豊かな御業に参与すべく招かれているのです。主イエスのすべての民への福音宣教が具体的な形で表され、キリストの救い、命の御言葉に生かされる人々が起こされていく。それこそ大事な、主の御心なのですね。

 

二つ目は「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けなさい」ということです。

律法の行いによって救われるのはヨハネのバプテスマ迄でした。今やだれもが、すべての源であられる父なる神の愛、御子イエス・キリストの尊き恵み、聖霊のゆたかな交わりによって「神の民」とされるのです。その表明としるしが、「父と子と聖霊のバプテスマ」であります。

先週、Oさんのバプテスマ式が行われました。バプテスマは主の尊い恵みに与り、救われた者が最初にこの世に示す、主の救いの業の証しでありますね。すべての人が共にこの神の救いの御業を再確認し、証しされていくための聖礼典、それがバプテスマなのです。そのバプテスマを授ける働きが主の弟子たち、すなわち教会に託されているのです。バプテスマを受け、主の救いに与る者は皆、主の弟子とされた者として歩みゆく使命を主から託されているのです。先週の信仰告白とバプテスマは、先に主の救いに与っている私たちの信仰を呼び覚まし、初めの主の愛に立ち返る貴重な時となり、感謝でした。

 

そして、主は三つ目に「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と言われます。

この主イエスの教えは、マタイ5章~7章かけての「山上の説教」で語られたすべてのことを指しています。そこには具体的な事が様々語られていますが。それを要約しますと「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。又「隣人を自分のように愛しなさい」のいわゆる黄金律といわれる二つの戒めにすべてがかかっているのです。実は、この二つの教えが如何に大事なものであるかは旧約の時代からユダヤの民全体に戒められてきた事であり、周知されている事で何ら目新しいものではなかったのです。

しかし、律法を儀礼的に守り行おうとすれば、かえって人を裁き、高慢やおごりが生じてしまうのが人の弱さであります。道徳的な考えが時にお仕着せになり、排他的傾向に陥ってしまい、「主なる神を愛する」こと、「隣人を自分のように愛する」こととかけ離れたことになってしまう。そこには人の罪があるからです。

主イエスの教えは石の板の上に書かれたものではなく、まさに肉をとった教えであります。十字架の贖いを通してお示しになった救いの御業がそれなのです。主イエスは神の最も大切な黄金律を完成なさるために肉をとってこの世界に来てくださったのです。

 

弟子たちはガリラヤからイエスさまを慕って死をもじさない覚悟でしたが、しかしイエスさまが捕えられますと皆逃げ去りました。今日のところでは、目の前に復活された主が現れなさったのに疑う者もいたというのです。如何に弟子たちが主イエスにつまずきやすかったということが包み隠さず記されているわけです。

しかし何よりも大きな慰めは、そのような躓きやすい弟子たち、信仰の弱い弟子たち、疑い迷う弟子たちに主イエス自ら近寄って来てくださるのです。どこまでもその弟子たちを愛し、受け入れ、彼らが立ち直ることを信じて共にいてくださるのです。

主イエスが天に昇られ、その50日後の五旬節、約束された聖霊がその弟子たちのうえに降臨されます。その時初めて、彼らは神の偉大な愛とゆるしを主の贖いの十字架に見出すことになるのです。聖霊は主イエスの教えをことごとく思い起こさせます。それは神への愛、隣人愛の源泉です。

「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と主はいわれました。

そこには主の愛とゆるしの恵みを日々教えて下さる聖霊に満たされつつ、主を愛し、隣人を自分のように愛する姿が示されているのですね。

 

「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる希望」

最後に主イエスは弟子たち、教会が行なうべき使命を語られた後、「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されます。

これは主イエスの弟子たち、又教会に与えられた大いなる恵みであります。岩波訳聖書には「見よ、このわたしが、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と、「わたしが」と、原語に忠実に訳されています。「見よ、このわたしが」。救いの業を成し遂げ復活なさった主の、何と力強い宣言ともいえるお言葉であります。

 

ここで、主イエスは「世の終わりまで」とお約束して下さっていますが、まあ「世の終わ」といえば、何か滅びや最後という希望のない響きがあるように思えるかも知れません。それは昨今の世界情勢や私たちをとりまいている社会が如何にも疲弊し、先行きが見えない不安と混沌とした現状でありますから、殊更そのように感じられるかも知れません。又、世の終わりまでと聞くと、何か遠い将来の事や死後の事のように感じられるかも知れませんが、そうではないのです。

聖書のいう「世の終わりまで」とは、私たちが今を生き、歩んでいるこの一瞬一瞬、この時から終わりまでということであります。今が大事なのです。今この時を如何に生きるか、今与えられている命を、時を主と向き合い、如何に生きるかというその連続の日々、その終わりの時まで主が私たちと共にいて下さる、ということです。どんな時もどこにいようとも共にいて下さる。この主の約束は私たちにとってどんなに大きな慰め、何にもかえることのできない希望ではないでしょうか。

その日、その時まで主と共に歩む貴重な一日一日を立てられたその所で、キリストにあって歩み通してゆきたいですね。

本日は、「共に歩みだそう」という宣教題をつけさせていただきました。この「共に」は、主が私たちと共にいてくださるという大いなる希望です。それは又、同時に主の愛とゆるしによって救われ、生かされている私たちが、この世界によき訪れ、福音がもたらされるために共に相働くように立てられているという事です。主は今日も私たちと共におられます。主にあって共に、今週もここから歩み出してまいりましょう。

宣教音声→https://drive.google.com/file/d/1-JopIPfSTixA-buOlODbymCKqx949_R_/view?usp=drivesdk

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2021年4月11日 主日礼拝式

2021-04-09 08:39:14 | 教会案内

 

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イースター礼拝 宣教「復活の主はどこに」

2021-04-04 14:19:06 | メッセージ

聖書 マタイ28章1-10節

宣教音声

https://drive.google.com/file/d/1IfOfqRypnjLZAC0Gjwy3ihSouB4Zdl7F/view?usp=drivesdk

 

死を打ち破り甦られた救い主イエス・キリストを讃美します。

この素晴らしい時に、お証をして頂いたKさん、そして主イエスを信じる信仰の告白をなさってバプテスマを受けられたOさん、おめでとうございます。

Kさんは私たちの教会に来られて毎週の礼拝にほぼ休まれることなく出席されてもう2年近くなりますが。主が時を備えて姉妹を導かれ、こうしてさらに近しき神の家族とされて共に歩めますことを大変うれしく思います。また、Oさんですが。姉妹とバプテスマ式の打合せをした折、私が真水は冷たいのでお湯を入れますよ。そして、転倒防止もあり、従来のように横に倒すのではなく立たれたまま沈める仕方もできます、とお話したのですが。けれど姉妹はそのことでよくよくお考えになったうえで、後日「自分はほんとに深い罪を犯してきた者ですから、バプテスマは真水で、私を底まで沈めていただきたい」という思いがあるということを伺いました。主イエス・キリストにある新生の命、新しい人としての第一日目を、今日この日迎えられたことに感謝です。お二人の新しい歩みを覚えて信仰の歩みを共にし、祈り合ってまいりましょう。

 

さて、先週は受難週として主イエスの十字架の苦難と死を偲びつつ、一日一日共に早天の祈りから始めて過ごしてまいりました。朝一番に聖書を開き、主に祈ることから一日を始める。そんな瞬間を引き続き形づくっていきたいですね。

主イエスは受難の金曜日、十字架にかかって死なれ、墓に葬られ、3日目の日曜日、週の初めの早朝に、アーメン・まことに主イエスは封印された墓を打ち破られて、復活なさいました。

キリスト教の信仰には、神の独り子イエス・キリストが、私たち人の姿となって誕生してくださった大いなる恵み。そして、そのイエス・キリストが十字架上で世のすべての人の罪を取り除く神の小羊として、贖いの御業を成し遂げて下さった大いなる愛と救い。さらに、そのイエス・キリストが人の罪によって生じた死と滅びを打ち破って、復活されたという大いなる生きる希望があります

本日のマタイ28章1~10節は、その「主イエスの復活」の記事から御言葉に聞いていきます。

ユダヤでは安息日が金曜夕方から始まり土曜夕方に終わりますので、その期間は安息日の規定のため動くことができず、マグダラのマリアともう一人のマリアは翌日曜日の明け方にイエスさまが埋葬されていた墓を見に行くのです。彼女たちはイエスさまが十字架で処刑される折も、ずっとその最期を見守っていた女性たちでした。

目の前でイエスさまが傷つき、いたるところから血を流して衰弱していかれるのを、どれほど辛く傷ましい思いで寄り添ったことでしょう。彼女らはイエスさまが墓に納められ他の者たちが立ち去った後も墓の方を向いて座っていたとあります。その墓は横穴式の洞窟のような岩をくりぬいた造りになっていて、墓の入り口には大きな円盤状の石が置かれて封印されていました。

前章62節以降には、祭司長とファリサイ派の人たちがローマ総督のピラトに申し出て、「あの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』(マタイ16章22節)と言っていたので、弟子たちが来て死体を盗み出して『イエスは死者の中から復活した』と言いふらすかもしれません。三日目まで墓を見守るように命令してください」と言うと、ピラトは「番兵にしっかりと見張らせるがよい」と彼らに伝え、墓の石に封印し、番兵をおいたと記されています。

そうして安息日が明けた週の初めの早朝、二人のマリアがイエスさまの埋葬された墓を見に行きますと、大きな地震が起こったというのです。先週の27章もイエスさまが十字架上で息を引き取られた後に「地震が起こった」とありました。神の子によって完全な贖いの御業が成し遂げられた重大な出来事の折に地が震えた。ここを読みますとき、この地球上の全被造物が共にうめきつつ神の子の出現を待ち望んでいる、というローマの信徒への手紙8章19節が思い浮ぶのであります。

そうしてそこに現れたのが主の天使でした。「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」とあります。他の福音書などによりますと、長い衣を着た若者とか、二人の天使とか、それぞれの表現がありますけれども。いずれも、神のご意志を伝えるために遣わされた存在であることは間違いありません。

この主の天使が、墓の石をその「わきへ転がし、その上に座った」。世の力が神の子を葬り去ろうとしても、すべての権能は神のものであり、神こそが全ての上に座しておられるのです。その「稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった主の天使の姿を目にした番兵たちは、「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」とあります。神の栄光が顕わされるそのとき、神の子を十字架にかけた世の力と神への反逆者は恐ろしさのあまり震え上がり、もはや死人のようにその力は打ち砕かれるのです。

一方、女性たちは主の天使から「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と告げられます。

そうして、彼女たちは空っぽの墓を見ることになるのです。この女性たちも、大きな地震と起こっている目の前の出来事に恐れを抱くのです。しかし、番兵たちと違っていたのは、彼女たちはイエスさまが前もって告げていた死の後「三日目に復活する」という言葉を心に留めていたのです。そして主の天使があの方は「復活なさったのだ」との神の御言葉を彼女たちは受取ったということです。

同じ出来事に遭遇して、片や不信の中で死人のようになった番兵たち。片や天からの御言葉に聞く希望をもっていた女性たち。大きな違いが生じます。大事なことは、神の言葉は、それが実現した時、信じる人、受入れる人には喜びと希望となる。それを拒み、不信をもつ人には恐れに囚われ、絶望となるのです。

さて、主の天使は彼女たちに、「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」と語りかけます。すると、それを聞いた女性たちは、「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」とあります。

「恐れながらも大いに喜んだ」。一見相反するようなその様相ですが。彼女たちはイエスさまの無残な死、大きな地震、主の天使の思いがけない言葉と、次々と想像もつかないような出来事に遭遇し、様々な感情の嵐のような状態になっていたに違いありません。

けれども、天使から「ガリラヤ」という言葉を聞いたとき、あの「ガリラヤの春」と呼ばれる、イエスさまが弟子たちと共に神の国の福音を顕わされたその懐かしい想い出が一瞬にして甦ってきたのではないでしょうか。さらに、主とそのガリラヤで、お目にかかれる、と聞いたとき、絶望の暗闇にまぶしい光が射しこんだような大きな喜びが湧き起こってきたのですね。そうして彼女たちはこの喜びを知らせるために、もはや急いで墓を立ち去って弟子たちのもとへ向かうのです。

9節「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われた」というのです。この「おはよう」はギリシャ語の原語で、「喜びなさい」という日常交わす挨拶のような言葉であります。以前礼拝の中で聖歌隊が「リジョイス」という讃美合唱をなさったのを思い出しますが。復活の主イエスは直接この二人の行く手に立ち、常日頃おっしゃたように「おはよう」「喜びなさい」とお声をかけられるのです。彼女たちは復活の「イエスに近寄り、その足を抱き、その前にひれ伏した」とあります。その喜びがいかばかりであったか、伝わってくるようです。

主はこの女性たちに伝えます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。復活の主はこのとき弟子たちのことを、「わたしの兄弟」と呼んでおられます。肝心な時に、イエスさまを見捨てて逃げ去っていった弟子たちを「わたしの兄弟」とお呼びになるのです。あの者たちでも、彼らでもなく、「わたしの兄弟」と。なんと寛大なまねきでしょうか。ここに私は主イエスのゆるしと愛を深く見る思いがいたします。人の弱さのゆえにつまずき、大きな取り返しのつかないような失態をさらした彼らを、復活の主はもはや師弟の関係を超え、「わたしの兄弟」と呼び、「ガリラヤ」、それはまさにあなたたちの生活の場、日常のフィールドで「わたしに会うことになる」と、約束してくださるのです。

本日は「復活の主イエスはどこに」と題し御言葉に聞いてきました。今日、Oさんの信仰告白とバプテスマを通して、主の救いの御業を私たちは仰ぎ見ることができました。これはまさに、復活の主イエスが私たちのうちに、私たちと共におられ、歩んでくださっているという証しです。復活の主は私たちの生きているこの人生の日々、日常の営みの中で私たちと出会って下さる。そこに大きな喜びがあるのです。

その延長線上に、やがて訪れる主と直接顔と顔を会わせるそのときが用意されている。再び主が来られる折には、死から復活のからだの甦り、永遠の命に至るという大いなる希望を与えられているのです。

さらに、Oさんの信仰告白とバプテスマを通して、主が私たちの救いの原点、初めの愛を思い起こさせて下さいました。罪深い私たちが主の憐みによって、如何に計り知ることのできない恵みを頂いているという、そのピュアーで新鮮な信仰を保ち続ける者でありたいと願うものです。

コロナ禍にあって先行き不透明に見える時代でありましても、復活の主イエスが共におられる私たちのガリラヤ、私たちの日常へと、今日の喜びと希望の御言葉をもって今週もここから遣わされてまいりましょう。祈ります。

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桜満開 天王寺にて

2021-04-01 07:14:22 | お知らせ

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2021年4月4日 イースター礼拝のお知らせ

2021-04-01 07:08:19 | 教会案内

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