「よかよか」はキリストのメッセージ S・I
私の故郷、九州北部には「よかよか」(いいよ、いいよ、という意味)という言葉がある。私はこの言葉が大好きだ。物事を繰り返し肯定し、受け入れる人の温かさがそこにある。
親が子を慰めるとき、他人が失敗したとき、友人と喧嘩したときに、この「よかよか」という一言を確かに言ってもらえるだけで、又は自分が呟くだけで、何も現状は変わらないけれども、明るく平安になれる。なんてすごい言葉なんだろう。
ところが、現在の社会では、ニュースで流される言葉の八割以上が、不安になることのオンパレード。他者を「よかよか」と肯定的に捉える話はほとんどない。学校でも「みんな仲良くしましょうね。」と口では言いながら、大人たちは責め合う関係を子どもたちに教えてしまっている。昔の「よかよか」というおおらかさはどこにいってしまったのか。
しかし、先日あるお母様から「よかよか」の心温まるお手紙をいただいた。二年生の算数の時間でのことだった。子どもとの会話が丁寧な文字で書かれてあった。
「お母さん、先生がね、算数の時間に ゛5゛って手を広げるの。そしたら、先生の手のひらがチョークですごく汚れているの。でも、私それを見るのがすきなの。だってどうしてか分からないけど、とっても幸せな気分になれるの。」
その子は、チョークまみれの手を「汚い」と言うのではなく、「幸せな気分になるの」と言ったのである。私は、自分のつたない授業や下手な板書まで受け入れられたようで嬉しくなった。たった八歳の子どもの心の中にも、他人を肯定的に捉えるおおらかな感性があり、母親や私をほのぼのとさせてくれたように、心の平安を周囲の人たちに分け与えることができるのだ。
どうしたら、この子のように、相手を肯定的に捉えることができるだろうか・・・。
思えばキリストは十字架を通して私たちに「よかよか。全部わたしが背負っているのだから」と言ってくれているのではないか。このキリストの「よかよか」に出会って初めて、自分にも他人にも心から「よかよか」(いいよ、いいよ)と言えるのではないだろうか。
私の故郷、九州北部には「よかよか」(いいよ、いいよ、という意味)という言葉がある。私はこの言葉が大好きだ。物事を繰り返し肯定し、受け入れる人の温かさがそこにある。
親が子を慰めるとき、他人が失敗したとき、友人と喧嘩したときに、この「よかよか」という一言を確かに言ってもらえるだけで、又は自分が呟くだけで、何も現状は変わらないけれども、明るく平安になれる。なんてすごい言葉なんだろう。
ところが、現在の社会では、ニュースで流される言葉の八割以上が、不安になることのオンパレード。他者を「よかよか」と肯定的に捉える話はほとんどない。学校でも「みんな仲良くしましょうね。」と口では言いながら、大人たちは責め合う関係を子どもたちに教えてしまっている。昔の「よかよか」というおおらかさはどこにいってしまったのか。
しかし、先日あるお母様から「よかよか」の心温まるお手紙をいただいた。二年生の算数の時間でのことだった。子どもとの会話が丁寧な文字で書かれてあった。
「お母さん、先生がね、算数の時間に ゛5゛って手を広げるの。そしたら、先生の手のひらがチョークですごく汚れているの。でも、私それを見るのがすきなの。だってどうしてか分からないけど、とっても幸せな気分になれるの。」
その子は、チョークまみれの手を「汚い」と言うのではなく、「幸せな気分になるの」と言ったのである。私は、自分のつたない授業や下手な板書まで受け入れられたようで嬉しくなった。たった八歳の子どもの心の中にも、他人を肯定的に捉えるおおらかな感性があり、母親や私をほのぼのとさせてくれたように、心の平安を周囲の人たちに分け与えることができるのだ。
どうしたら、この子のように、相手を肯定的に捉えることができるだろうか・・・。
思えばキリストは十字架を通して私たちに「よかよか。全部わたしが背負っているのだから」と言ってくれているのではないか。このキリストの「よかよか」に出会って初めて、自分にも他人にも心から「よかよか」(いいよ、いいよ)と言えるのではないだろうか。