日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

2015年・感謝

2015-12-31 09:25:23 | お知らせ
今年もこのブログに多くの方にご訪問していただき、ありがとうございました。

日本バプテスト大阪教会の礼拝メッセージを中心に、できる限り開示させていただきました。

いろいろな方々に読んでいただき、うれしく思います。

主の年・新しい2016年のみなさまの上に、神さまの祝福をお祈り申し上げます。


「わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。
 わたしはあなたを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」イザヤ書46章4節


2015年 大晦日



年初は元旦礼拝

2016年1月1日 午前11時より
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主イエスを証しする恵み

2015-12-27 21:32:04 | メッセージ
歳晩礼拝宣教 ヨハネ1章43節-51節 

今年も残すところあと5日、2015年最後の主日礼拝となりました。主にあってこの1年日照りの日、嵐の日も欠かさずに主日礼拝が導かれ、守られてきました。又、私たちもそれぞれの1年のあゆみが主に守られ導かれたことを、この一年の終わりにおぼえ、賛美と感謝を主にお捧げしていきたいと思います。

「道先案内人」
先程、ヨハネ1章43-51節のところが読まれました。
この前の箇所には、当時人々に悔改めのバプテスマを授けていたヨハネとその2人の弟子が出てまいります。バプテスマのヨハネが、イエスさまを見て、2人の弟子に「見よ、神の小羊」と言うと、2人はイエスさまに従っていきます。そうして最初の弟子となったその一人はアンデレで、もう一人については名前が記されていませんが、恐らく彼はゼベタイの子ヨハネだとされています。さらにアンデレはその兄弟のシモン・ペトロに会って「わたしたちはメシアに会った」と伝え、シモンをイエスさまのところに連れていきます。そうしてシモンはイエスさまとお会いし、イエスさまからケファと呼ばれる弟子とされたというエピソードが記されています。また、ここにはありませんが、ゼべタイの子ヨハネも兄ヤコブに恐らくは同様イエスさまを紹介したのではないでしょうか。彼らはみな何か難しい言葉や説明によったのではなく、誘われるまま直接イエス・キリストに出会うことによって、従うようになるのですね。

本日の箇所に登場するフィリポも又、イエスさまと直接出会って「わたしに従いなさい」との招きに応え、イエスさまの弟子になるのでありますが、そこには先に弟子となったアンデレやシモンの存在があったようです。彼らも同じベトサイダ出身であり、もともとは漁師の仲間であったようですし、イエスさまのことについて伝え聞いていたと想像できます。
このフィリポが、今度はナタナエルという人物と出会い、「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と自らの体験を語ります。フィリポはナタナエルがしばしばいちじくの木の下で旧約聖書を読み黙想している姿を見て、彼がユダヤ人としてモーセの律法や旧約の預言者たちが語った言葉に精通し、来るべきメシアを待望していた人物と見たのでしょう。

ところが、ナタナエルはそのフィリポの言葉に対して、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と答えます。そこには旧約の預言者たちが預言したメシアは偉大なお方で、ナザレなどという小さく力のないような村から出るはずない、という思い込みがあったかも知れません。それは差別的というよりは、預言書に照らし合わせた彼なりのメシア像に対する思い入れが強かったのでしょう。
それでもフィリポはそのナタナエルの言葉に引きさがりません。まあ「来て、見なさい」と、彼をイエスさまのもとに連れて行くんですよね。それは、ナタナエルがイエスさまに直接出会ったなら、イエスさまがメシアであることが彼にわかるだろうという確信があったからでしょう。このフィリポの存在を通してナタナエルは主イエスと出会い、従う者となっていくのです。
如何でしょう。私たちそれぞれが主イエスと出会うきっかけとなったあの人、この人が思い浮かんでくるのではないでしょうか。教会にお誘いくださった方。聖書の言葉をおくられた方もおられるでしょう。クリスチャンホームであればその家族であるかも知れません。救いに与り主に従う者となった今も、教会と主イエスにある兄弟姉妹を通して、救い主イエス・キリストにその都度出会いを与えられている幸いを覚えます。

「主イエスとの出会い」
さて、47節以降の後半にはナタナエルとイエスさまの出会いが記されています。
イエスさまは、ナタナエルが自分の方へ来るのをご覧になって、一緒にいた弟子たちに「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人に偽りはない」と言われます。ナタナエルが「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスさまは、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」とお答えになります。
暑いユダヤの地では、よく茂るいちじくの木の下は安らぎの場所でした。ラビをはじめ律法を学ぶ人たちは、よくその木陰で祈ったり黙想したそうです。ナタナエルもそのうちの一人でした。けれどイエスさまは、彼が単に律法や預言書を学ぶことにとどまらず、偽りなくイスラエルの救いを待ち望んでいたことを知っておられたのです。彼がメシア、救い主を待望して祈っていたことをご覧になっていたのですね。

自分を知っておられるイエスさまとの出会いは衝撃的でした。ナタナエルはためらうことなく、「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王(油注がれたメシア)です」と確信し、それを口にします。こういう体験は時に私たちにも与えられるものではないでしょうか。礼拝や祈祷会において読まれた御言葉、メッセージ、聖句の一言が、「自分のために語られた」「神さまが私に用意して下さった」「主は私を知っておられる」。そういう瞬間。こうした生きた主との出会いが日々起こされる者でありたいですね。

ところで、フィリポが「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」とナタナエルに説明する時、「それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と言ったのをナタナエルが聞き、「ナザレから何の良いものがでるだろうか」といいました。結局イエスさまと直接会った時、それは全くの偏見でしかなかったことに気づくのですが。先程も触れましたけれど、もしここでフィリポがその事でナタナエルと議論していたなら、おそらくナタナエルはイエスさまと出会うことはなかったでしょう。かえって心を頑なにし、閉ざしたかも知れません。フィリポはいろいろ議論するより、ナタナエルがナザレのイエスさまと直接お会いすることが一番、それに勝るものはないと、判断したのでしょう。それを第一に、「来て、見なさい」といって、彼をイエスさまのところへお連れしたのです。まさに、そうしてナタナエルがそのナザレのイエスさまと直接出会うことで、心の目が開かれ、救い主メシアだと言い表すのです。フィリポは自分の役割を十分に周知していました。彼はイエスさまのもとに伴う人に徹したのですね。あとは主がなさることなのです。このことは私たちがイエスさまの福音を証ししたり、伝えていくうえでも大切なことだと思います。牧師も同様ですが、相手と議論して説得しようとすると、なかなかその思いは伝わるものではありません。肝心なことは、その人が直接主イエスと、その福音に出会われることこそ意味があるのですね。

さて、ナタナエルはこうして、イエスさまを知り、「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と口にするのでありますが。しかしこの時、ナタナルにまだイエスさまがどのようなかたちで、メシアとしてのお働きをなさるのかということを、本当は分かってはいなかったといえます。イエスさまがナタナエルに、「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」とおっしゃったとき、ナタナルの考えとイエスさまの御心には大きなひらきがあったといえます。
イエスさまは続けて、「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と言われました。
それは後に訪れるイエスさまの十字架の苦難と死を通してもたらされる救いを暗示していました。イエスさまはナタナエルが思い描いていた世の権力者や支配者としてではなく、神と人の交わりを回復する仲介者、天と地をつなぐ救い主となられるのです。その神の子としての栄光をナタナエルは見ることになる、とイエスさまはおっしゃったのですね。
今や、イエス・キリストの御業は成し遂げられ、御救いの時代にいるわけですけれども、しかし私たちも又、今日のナタナエルのようにイエスさまを信じ、信仰の告白をしたからといって、すべてが分かったわけではありません。すべて神さまのことが分かったか、聖書が理解できたというのではありません。けれどもその分からないながらも、信仰を言い表してバプテスマを受け、主イエスに従っていく一歩を踏み出すところから、神さまの大いなる御業を見、深く知らされていくあゆみが始っていくんですね。そういう意味で、神さまと私の信仰はたえず応答の関係のなかで育まれていくものなのです。 

最後に、私ども大阪教会の1年のあゆみを振り返りますと、ほんとうにいろんな出来事があり、その度ごとに祈らされ、主の御業を見せて頂いた、そんな体験の連続であたった1年でした。特に、YさんとHさんのご召天は、寂しさの中にも格別な主の救いの出来事を仰がせていただきました。それは、Yさんが天に召される10日前に、一時意識を回復され、「主イエスを信じことにいたしました」とはっきりと告白をされて、主の御救いに与かり、教会の兄弟姉妹と喜びを共にする時間が与えられたこと。そしてご本人の遺志のとおり大阪教会で告別式を執り行い、先日は召天記念会と納骨を行うことができたこと。それは又、御親族にとっては慰めと証しの出来事となり、お連れ合いの民子さんも先週のクリスマス礼拝に足のご不自由な中何と御自分で歩いて教会まで来られたそのお姿に主の福音の力を改めてみせられた思いです。
又、Hさんが病のために急死された出来事は、私たちにとって大変ショックでしたが、彼が生前、日頃から訪問介護の方々に「自分は大阪教会に通っていて」というあかしをなさっていたことによって、その方が教会に彼の訃報を届けにかけつけてくださり、彼のお母様ともお会いして、結果的に告別式をHさんの信仰に沿ったキリスト教で行うことができたのですね。さらに、Hさんが天に召される4日前に夜の祈祷会があり、兵頭兄もいつもと変わりなく出席された時に、約2年ぶりにSさんがその祈祷会にお見えになったのです。Sさんは「何か不思議な力に引張られるように足が向いた」ということです。その祈祷会後、バザーのお食事をみんなで頂き、Sさん夫妻はHさんと夕食を一緒になさったそうですが、まさかそれが最後の晩餐になるとは、ということでした。
教会からしばらく離れておられたSさんは、Hさんが常々教会においでと誘われていたことを思い出し、彼が自分を教会に再び引き戻してくださったように思う、と私に話してくださいました。聖書に「一粒の種が地に落ちれば、多くの実を結ぶ」とございますように、ほんとうにこの二人のご召天の出来事をとおして、神さまの御業、栄光の出来事をそこに見た思いでした。それはまさに天が開け、人の子、私たちのために十字架によって救いの御業を成し遂げられた救い主イエス・キリストの上に、神の天使たちが昇り降りするのを見せて頂いたようであります。

新しい年も様々なかたちで、神さまが私たちに見せようとしておられる「偉大なこと」を見逃すことなく、益々主の栄光の証し人とされていくそういった1年を迎えていきたいと心から願うものであります。
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クリスマスプレゼント

2015-12-25 10:43:36 | メッセージ
キャンドルライトサービス宣教 ルカ2章6-7節 

メリークリスマス。救い主イエス・キリストのご降誕を心より讃美いたします。
この時期は街並みがきらびやかなイルミネーションで彩られ、到るところでクリスマスカロルやゴスペルが流れておりますが。この前京都の教会のある牧師から伺って驚いたのは、この方の町で一番きらびやかなクリスマスイルミネーションは、どこと思われますか?教会でも、又、百貨店でもなく、近くにある何と神社だそうです。ここまできたのかと思わされましたが。
それはさておき、クリスマスは、クライストとマス、マスはミサのことですが。それを合わせた造語でキリストの祝祭という意味になります。つい先日、このラテン語のミサは「派遣」という語源からなっていることを知り、キリストが世のすべての人々を救うためこの地上に派遣されたということが、このクリスマスという言葉に込められているのだ、と気づき新鮮な思いにされました。そのように今日、救い主イエスさまが私たちのもとにお出で下さったその素晴らしい出来事を共に祝い、喜びを分かち合う時となりますよう、願っております。

キャンドルサービスの中で、救い主に関する預言が旧約聖書から朗読され、又、その成就である救い主イエス・キリスト降誕の記事を、新約聖書のマタイとルカの福音書から聞きました。この救いは、ユダヤから始まって全世界のもたらされるものであることが、神によってご計画されていたのです。そうして遂に、救い主イエスさまがお生まれになろうとしていた時の状況ついて、聖書は「宿屋には彼らの泊る場所がなかった」と記しています。  
まあ住民登録のため各地方からエルサレムに上って来る人たちで町はごったがえしていて、どこの宿屋も満室でいっぱいであったのでしょう。ごったがえして満室といえば、首都圏やここ大阪でもホテルを取るのが大変難しいほど海外から来日される方がとっても多くなっています。この天王寺の街も、大きなキャリーバックを引いて歩く方が多く見うけられ、様々な言語が飛び交って活気づいていますが。聖書には、まあ、そのように人々のごったがえす中で彼らの泊る場所はなかったというのです。しかし、これは単に宿泊所が不足しているという問題ではありません。神の救い、主イエス・キリストが世に来てくださったというのに、世の人々に受け入れる余地がなかったということです。それは現代における経済や効率性を第一に優先させていくような社会の中で、大人からこどもまでもが能力主義や競争に追いたてられ、ともすれば我を失うほどになっている状況と重なるように思えてなりません。
一方、神の救いである主イエスさまが、そのような世の人びとの慌ただしさ、生活のただ中に、あえてお出でになったという事実は、まことに感慨深いものがあります。
クリスマスはまさにそのような私たちに向けて贈られた神からのプレゼントであるのです。このクリスマスの時に、より多くの方が、慌ただしさの中にも立ち止まり、神の救いを見出す機会を得ますよう願っています。

さて、クリスマスの良き知らせが最初に届けられたのが、当時の社会から律法を守ることすらできない者、とさげすまされていた羊飼たちでした。住む家はなく、羊を預り昼夜を問わず野宿生活であった彼らも又、泊るところ、宿るところを持つことのできない人たちでありました。又、救い主に尊い贈物を携えて来たのは神の救いから除外されていた外国の人たちでした。いわば彼らもそこに居場所を持たなかったのであります。
居場所があるというのは単に立派な建物や家があるということではありません。いくら立派な建物や家があっても居心地が悪く、居場所がないという人は実は多いのではないでしょうか。不思議な事に羊飼いも、異国の学者らも、神の救いが薄暗い家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かされた赤ちゃんによって実現されることを信じることができました。敏感に察知できた彼らは、まことの居場所を必要とする人であり、同時にその居場所を飼い葉桶に寝る赤ん坊の中に見出せる人であったということです。

さて、私はみなさん方と多分同じかと思いますが。小さい頃クリスマスの日って、サンタクロースからプレゼントがもらえる日だと思っていました。でも、なぜその日にプレゼントがもらえるのかと考えたことはありませんでした。
私は小学4年生の頃に、学校の友達に誘われて教会学校に通うようになりました。その時代、取り巻く環境から自分の心は結構すさみ、荒れていて、どこか自分の居場所を探し求めていました。そこで12月に行われたクリスマス聖誕劇(ページェント)で、クリスマスは救い主イエス・キリストがお生まれになられた事を記念する日であることを知ったのです。しかしそれはまだ自分とは関係のないことのように思えました。それからも教会学校に毎週のように出席するようになり、中学生になると少年少女会に入り、同級の友だけでなく高校生のお兄さんやお姉さんたちとも交流する機会があり、教会のこと、信仰のこと、学校や友達のことなど語り合えたことが、徐々に私にとってほんとう有意義なものとなっていきました。そういう中、私は高校1年のイースターの日にイエス・キリストを自分の救い主として信じる告白をし、バプテスマ(洗礼)を受けたのです。その時、私は神さまから本物のクリスマスプレゼントを受けとることができたんですね。暖かく自分を迎え受け入れてくださった教会の方々を通して、私は自分にとってかけがえのない居場所を見出すことができました。どんなに高価なプレゼントをもらっても、それはいつか朽ち廃れるものです。けれども、神さまからのプレゼントは決して朽ち廃れるものではありません。それどころか神さまの永遠の命につながる喜びを与えてくれるものです。ほんとうに神さまのお導きによって今日がありますことの感謝と喜びは尽きません。

最初のクリスマスのとき、東方の学者たちはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬という彼らの最も大切な宝を世界の救い主に「ささげた」とあります。彼らは御子イエス・キリストに自分たちにできる最もよいものをささげたのです。
 喜びあふれる中で、最高のものをプレゼントした東方の学者たち。しかし、それよりも遥かに優るプレゼント御子イエス・キリストを、私たちに神さまは与えてくださいました。私たちは今、信仰によってその救いを見、世では得ることのできない恵みと喜びに満たされているのであります。
私たちも東方の学者たちのように、その祝福に預った者として神さまに最高の感謝、最高の讃美、そして分ち合う喜び、又、献身という名の最高のささげものをそれぞれお捧げしてまいりましょう。

最後に、この後、献金の時を持ちます。この献金は対外の支援を必要としているところにプレゼントさせていただくものです。今年も昨年と同じく、日本聖書協会の目のご不自由な方のための点字聖書作製に、又、滋賀県にあります重い知的障がいを抱える方々の施設・止揚学園に、そしてホームレス支援の活動母体である釜ヶ崎キリスト教協友会へ贈らせて頂きますが。その協友会が12月号に発行した会報の中で、釜ヶ崎にある児童館「こどもの里」で30年前から、毎年、冬の時期、大阪の路上で寝る野宿者をたずね、体調をうかがい、おにぎりや日用品などをわたす「こども夜まわり」を続けておられるのですが。ある小学生の女子生徒が「夜まわりで教わったことを伝えていきたい」との作文が掲載されていた一部をご紹介して、本日のお話を閉じます。
「私のクラスは、ほとんどが野宿している人をばかにしていました。その中でも一人の男の子は、大きくなって襲撃をしてしまうのではないかと思うぐらい差別がひどく、他の子もその子に合わせて、悪口をいったりしていました。何度注意しても、その場しのぎで変りませんでした。それでも負けずに私はいいました。「おっちゃんたちだって同じ人間やで。おっちゃんたちは、私たちが生活する上でとっても大切な仕事だってしてくれる。なんで家がなくて、お金が少ないだけで話したことも無いようなあんたらからもんくいえるん?」、と私は夜まわりで学んだことをそのまま伝えました。今までここまで怒っていったのも初めてだったし、緊張しました。でも、その数日後、その男の子が授業で自分にできることの質問にこう答えたのです。「ぼくは、家が無い人たちにご飯や自分が使わなくなったものをくばりたい」、と勇気をふりしぼってみんなの前でいってくれたのです。このとき私は泣きそうになりました。こんな私でも人を、心を変えることができるんだと思ってびっくりしました。

祈ります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。それは独り子を信じるものが一人も滅びずに永遠の命を得るためである。」
天の父なる神さま。新会堂が与えられて3回目のクリスマス・キャンドルライトサービスをお捧げました。私たちはこんなに立派な会堂で礼拝をお捧げしていますが。イエスさまは「その貧しさによって私たちが豊かになるため」に家畜小屋の飼い葉桶に寝かされ、それが世界の最初のクリスマスであったことを忘れません。
イエスさまが居場所のない者の居場所となってくださることを身をもって示しくださいました。感謝します。どうか、この地上の隅々にまで訪れたクリスマスの喜びと、私たちをひとつにしてください。どうか、苦闘している隣人のために留まり、寄り添う優しさを持つ私たちとしてください。救い主・イエス・キリストのご降誕を心から感謝してお祈りします。ア―メン。
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クリスマスキャンドルライト・サービス(燭火礼拝)のご案内

2015-12-22 09:49:20 | お知らせ
日時:12月24日(木)午後7時-8時

内容:クリスマスカロル(讃美歌)、聖書、メッセージ、祈り

クリスマスの意味を考え、平安・平和を祈ります。

教会がはじめてという方、お気軽においでください。

なお、チャリチィーの自由献金があります。

アクセス:JR/市営地下鉄天王寺駅より北へ5分。
駐車場はございませんので、公共の交通機関でお越しください。



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共におられる神

2015-12-20 17:14:37 | メッセージ
クリスマス礼拝宣教 ヨハネ1章14節 

メリークリスマス。救い主イエス・キリストのご降誕を心からお祝い申し上げます。
キリスト教会にとって1年で最も大きな祝祭の一つでありますクリスマスを共にお祝いができほんとうにうれしく思います。

2015年もあと残すところとなり、新聞テレビなどでは今年一年のニュースや出来事を振り返る記事や番組が多くなりました。今年も世界中で、又、この日本でも傷ましいテロや事件が起こりました。
今年は特に政治のことを代議士まかせにせず、自分のことがらとして関わっていく新しい動きが若い人たちから起こった年になりましたね。私もいてもたってもいられず国会前に足を運びましたが。先日清水寺の住職が恒例の今年の一文字を筆で書いて披露したのが「安」でした。「安全保障関連法案」における与野党の対立や国会での強行採決等一体何を信じればよいのかという国民の「不安」がそこに表されているとのことでした。又、テロや異常気象、大手企業の不正、警察官や教師の不祥事等、生活上の「安」全が揺らいだこともあったようです。私はもっとストレートに「危」険や「危」機の「危」と書かれた方がよいとも思ったのですが、しかしこの「安」には首相の安が良くも悪くも読み取れて、何ともよく考えられた一文字ですよね。
クリスマスは毎年12月のこの時期に世界中でお祝いされるようになっています。呼び名をホーリーディ聖なる日として宗教を超えての祝日となっているようですが。今日はそのクリスマスの本来の意味をヨハネ1章14節「言は肉となってわたしたちの間に宿られた。」という御言葉を軸に、聞きとっていきたいと思います。
 
まず、このヨハネ1章1-18節はヨハネ福音書のメッセージが凝縮された大変重要な箇所であります。それは旧約以来預言者らに臨み語り継がれてきた、神の救いの約束の言葉が御子イエス・キリストによって実現された、その事がここに表されているからです。以前に申しましたように、この1節から本日の14節迄に何度も「言」という一文字が出てまいりますが、その「言」を「イエス・キリスト」と置き換えて読まれると、そのことが随分理解できると思います。
この14節の「言」をイエス・キリストと置き換えますと、「イエス・キリストは肉となって、わたしたちの間に宿られた」というように、神の言、神のご意志であるイエス・キリストが人間の身をまとわれ、わたしたち人の営みの間に住われることによって、御神の恵みと真理が世に現わされた。それがクリスマスなのです。

先程歌いました讃美の歌詞にこうありました。
「み栄えとみ座を去り世に来られたみ子 宿るべき部屋もなく祝う人もなし。住みたまえイエスよわたしの心に」
主イエス・キリストは私たちが世にあって人間としての弱さや貧しさ、又、苦しみや悩み、痛みや悲しみを自ら共になさり、私たちのうちに宿るるために、この地上に来てくださったのですね。その事実が主イエスのご降誕から十字架の苦難と死、そして復活に至るまで証しされている、それが福音書であります。

また、この「イエス・キリストがわたしたちの間に宿られた」の「宿る」という言葉には、幕屋(テント)を張るという意味があります。旧約聖書の出エジプトの時代、イスラエルの民はシナイの荒れ野の道を辿ることになります。その荒れ野における寄留の旅の途上、彼らは「幕屋を張って」主を礼拝したのです。それは聖所と呼ばれるものでした。彼らは荒れ野を行く先々で、主が自分たちのうちに住んでくださることを幕屋を張って確認しつつ旅を続けたのです。
話は変りますが、「テント」を張るということで今日まず思い浮かびますのは、難民の人たちのことであります。今年は特にシリアの情勢が悪化し、数百万単位の難民とならざるを得ない人たちが出ております。陸路海路とあらゆる手段を尽くしてシリアを逃れてきた人たちがヨーロッパ、アジア、世界へと、ほんとうに生死を賭けた旅路を続けておられます。自分の住んでいた場所を奪われて行き場のない人たちのその思いは想像を絶します。パリのテロの事件以後、残念なことにそうした難民の人たちの状況はさらに厳しいものとなり、受け入れを積極的に表明していた国々は、その間口を閉ざすようになっています。さらに追い打ちをかけるように報復としての対テロの空爆がシリアでは激化し、その結果、家族や家生活のすべてを失った新たな難民が出てしまうという悲劇が繰り返されているのです。報道も規制されているのか、現地の情勢があまり伝えられなくなってきました。世界がこの事に沈黙しているその間にも、飢えと寒さ、不安と絶望の暗闇の中に放り出され棄ておかれたままの人たちがおられます。これが私たちの世界の現状であります。その場限りの小さなテントだけでなく、彼らを迎え入れる幕屋が日本も含め世界の至るところに張られ受け入れられるように願うばかりです。

さて、「イエス・キリストが肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
それは、具体的に主が世界の歴史の中で、人の苦しみを体験され、病を知って、自分から人の弱さ、無力さを経験されたということです。そればかりか、人に憎まれ、疎んじられ、蔑まれ、遂には裏切られて、嘲りの中、神に見捨てられた者のように十字架に死なれた、その生涯を指しています。
そのイエス・キリストのご生涯をして、この福音書の筆者は「その栄光を見た」と、イエス・キリストの苦難と死の中に「栄光を見た」と言うんですね。14節に、「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とありますが、それは何か華々しい功績や働きの中に栄光を見たというのではなく、私たち人間の罪と弱さのただ中に、共におられるそのお方の中に、確かな神の栄光を見たということであります。
このようにヨハネ福音書の記者をはじめ、イエスの御救いを信じる者には、私の人生、私たちの生きる生のただ中に、幕屋を張り、臨在される神を確認することができるのです。

救い主イエスさまの誕生に関して、マタイ福音書には次のように記されています。
1章23節「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む、その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
それは、ヨハネ福音書の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と、いう言いかたとは違いますが、どちらも救い主イエス・キリストは「わたしたちと共におられる神」であるということですね。
 先程、難民の方々のことを申しましたけれども、幕屋が張られることを必要とするのは何も彼らだけに限られません。人、みな誰もがそれを必要としているのではないでしょうか。私たち人間はみな何がしかの弱さを抱えているものです。けれどもそれを意識し、表面的に見せるたりすると、社会で生きるのは大変ですから、心の奥底に抑え込み、外には隠して普段は仕事や生活しているんですよね。しかし、何か大きく揺さぶらされるような出来事や経験をしますと、たとえば大病になるとか、あるいは身近な人との別れや死とか、大きな試練や挫折に遭いますと、「自分ってほんとうに無力で弱い者だ」、と改めて気づかされるのです。
9節に「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」とありますように、すべての人の間に主イエス・キリストは幕屋を張るため、共に住まわれるためにお生まれになったのです。
私たち一人ひとりの弱さをイエス・キリストが共に担い、私たちの間に幕屋を張り、共に住んでくださっている、この大いなる恵みを喜び感謝します。
 先に紹介しました讃美歌の5節にこうあります。
「勝利の日来るとき語りませイエスよ 『わがそばに居場所あり来り休めと』と 喜びて迎えん主イエスの来るを」

クリスマス礼拝の宣教を閉じるあたりヘブライ2章17‐18節をお読みいたします。
「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」 
クリスマスの恵みを心から感謝し、共に分かち合ってまいりましょう。
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イエス・キリストの証人

2015-12-13 14:35:17 | メッセージ
宣教 ヨハネ1章19-34節 待降節Ⅲ 

先週はチャペルコンサートが盛会のうちに行われ、ほんとうに感謝でした。プログラムもハンドベルだけでなく、コールシュパースの透きとるようなコーラス、また栗谷さんとカンちゃんの絶妙な腹話術と盛りだくさんの内容で、集われた方々それぞれに「よかった」と反応も上々であったようです。新来者はじめチラシを通してここにキリストの教会があることを知った方々が福音とお出会いになりますよう、どうか引き続きお祈り下さい。
また、昨日はY兄の召天50日記念会が行われました。地上での歩みを終えようとされたまさにその時、この記念室の改装中の覆いが取り除かれ、それを写真とビデオにとってお見せして、まもなく兄弟は天に召されたわけですが。昨日もそこにご親族と有志の教会員の和やかな見守りの中で守られ感謝でした。

本日はヨハネ福音書1章19‐34節から御言葉を聞いていきたいと思います。
今日の箇所は、「バプテスマのヨハネの証し」について記述されています。
ヨハネは自分のもとに調査に来たユダヤ教のファリサイ派の祭司やレビ人たちに「わたしは荒野で叫ぶ声である」とそう証言しました。
この頃、ヨハネはヨルダン川の東、ベタニヤでバプテスマを授けていましたが。まあ彼のその働きは、ユダヤ全土からぞくぞくと人々がやって来るほど劇的なものでした。その動きに対してユダヤの指導者たちは警戒し、その運動を調査するために、その道に詳しいファリサイ派の祭司やレビ人たちをヨハネのもとに送るのです。
このファリサイ派の人たちは当時民衆に対する影響力があり、特に彼らは「救世主」「メシヤ」について深い関心を持っていた点から、ヨハネを取り調べる者としてはうってつけであったようです。
当時のローマに抑圧されたユダヤ社会においては、あのダビデ王を彷彿とさせる政治的指導力を持ったメシヤが待望されていたのであります。そういう中、彼らももしかするとヨハネこそ待望の「メシヤではないか」とそう思っていたのかも知れません。
ヨハネは、その人々から「あなたは、どなたですか」と聞かれると、「わたしはメシヤではない」と言います。彼は隠さず公言して、まあきっぱりとそれを否定したのです。次に彼らが「では何ですか?あなたはエリヤですか」とそう聞きますと、これにも「違う」と言い、さらに「預言者なのですか」と聞かれると、「そうではない」と重ねて否定します。
そこでファリサイ派の使者たちは、ヨハネに「自分たちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか」と問いますと、ヨハネは「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」、預言者イザヤの言葉を用いて答えたというのですね。つまり、自分は主の道をまっすぐにする使命をもつ者であり、「声」にすぎない、と言うのです。
多くの民衆から注目され、支持を受け、ぞくぞくと押し寄せる人々にバプテスマを授けていたヨハネでした。彼は自分を誇示すれば、名誉やステータスを得ることもできたし、まあ言って見ればヒーローになるチャンスが十分あったわけです。けれども、自分は人々の心を真のメシヤであるイエス・キリストに向けさせるための「声」に過ぎない、とヨハネは公言するのです。
それを聞いたファリサイ派の使者たちはこのヨハネの回答に到納得できず、「それではなぜ、バプテスマを授けるのですか」と尋ねます。それは、メシヤでも、預言者でも、指導的な立場でもないただの人が、人々にバプテスマを授けている事自体考えられないことであったからです。
 ヨハネはその質問には直接答えずこう言います。「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」
ヨハネは、自分とは比べようのないほど偉大な方が自分の後から来られ、自分はそのお方の前では主人の履物のひもを解く奴隷よりも低い者だ、と言うのです。
このようにヨハネの証言を辿っていきますと、彼は主イエスの道備えをなす「声」であるという自覚をもっており、その役割に徹して働きをなしていたということです。自分の後から来られるイエス・キリストこそ、彼の主、世界の主であり、世に顕わされるべきお方であったのです。
もしこのヨハネが世の人々を魅了する独特の力や賜物を、私欲のために用い誇示していたとしたなら、どうなっていたでしょう。ヨハネのカリスマや能力が称賛され、確かにユダヤ全土で大きな影響力をもって何がしかの革命的なことが起こったかも知れません。しかしそれでは真のメシヤ、イエス・キリストの道を備えることには決してならなかったでしょうし、神の救いのご計画が台無しになったのではないでしょうか。
ところで、私はおしるこやぜんざいが大好物なのですが。あれが美味しいのはその中にわずかな「塩」が入っているからですね。今日登場するヨハネは、ある意味独特な個性の持ち主であったとも言われていますが、彼はそんな「塩」のような存在のように私には思えるのです。その隠し味の塩というものが全面に出ると、せっかくのいぜんざいが台無しになるように、主イエスの証しをする者が、自分の存在感を全面に強く打ち出そうとしますと、肝心の神の栄光を表すことができなくなっていまうんですね。この事は私たちの実生活においてもややもすると起こり得ることであります。
たとえば、いくら聖書のことについて知っていたとしても、律法主義的になって人を裁き出すと、人を躓かせてしまいます。教会も人の能力主義で経営、通用するようになると聖霊の働きを妨げることが起こり得るのです。世の人がそんな教会の姿を見るなら、せっかくの主の救いの恵み、イエス・キリストのよい香りは人の高慢によって悪臭になっていきかねません。
マタイ11章11節で、イエスさまはこのヨハネについて次のように言っています。
「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れなかった」と。主の前に己を低く、謙虚に生きる者を主は高めてくださるのです。

さて、ヨハネが自分のことを「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と証言した翌日のことです。ヨハネは自分の方へイエスさまが来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言います。
 罪を取り除く小羊、それは古来イスラエルにおいて人の罪の贖いのため代償としてほふられる犠牲の小羊のことです。そして、この神の小羊とはまさにイエスさまのことを表しているのです。この「世の罪を取り除く神の小羊」とは、旧約聖書の預言者イザヤ書53章の「苦難のしもべ」に重ねられているのですね。つまりイエス・キリストは全人類の罪を背負い贖う小羊として十字架上にほふられ、私たちの罪を取り除かれるお方であるのです。
神の御子、ヨハネが履き物のひもを解く値打ちさえ私にはないといったそのお方が、私たちの罪、私の罪の贖いのため十字架にほふられる神の小羊としてお出で下さった。これこそ謙遜の極みではないでしょうか。

ところで、ヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」と2度も言っています。
彼はイエスさまの母マリアの親類のエリサベトの子であり、マリアはエリサベトの家を訪問したりしているわけですし、そう広くはないユダヤの町にあって2人は親類同士、幼少の時代より互いを知っていたと思います。それにも拘らず、ここでヨハネが知らなかったと言っているのは、その「イエスが世の罪を取り除く神の小羊である」ということについてであります。興味深いことに、ルカ福音書にはマリアの訪問に際して、エリサベトの胎内の子は躍った、エリサべトは聖霊に満たされて「わたすに主のお母様がわたしのところに来て下さるとはどういうわけでしょう」と感嘆の声をあげたとあります。
ヨハネはイエスさまについて知っていたのです。けれどもそれを実体として捉えたのは、まさしくヨハネがイエスさまにバプテスマを授けた際に、聖霊が鳩のようにイエスの上に降って、イエスの上にとどまるのを見たその時であったのです。ヨハネはその聖霊のお働きを介して初めてイエスさまが「世の罪を取り除く神の小羊である」ことを知ったのであります。

私たちもそうではないでしょうか。聖書の言葉やキリスト教の教義を頭では知っていても、知識だけでは本当に知ったことにはならないのです。そこに聖霊の働きがあって、主イエスにある聖霊の交わりがあって、初めて聖書が「いのちの言葉」となり、「救い」となり、又「平安」をもたらすものとして見えてくるんですね。ですから、聖霊のバプテスマは水のバプテスマと違って1回受けて終わりということではなく、主イエスの御霊の交わりにあって日毎に受けるべきもの、それを頂き体験するものなんですね。私はよく、聖霊とはどのようなものですか?と質問を受けることがありますが。正直私もそれを形あるものとして目にしたことはございません。
 ヨハネはここで、それを見たと言っていますけれども、それはそもそも生ける神さまご自身であられますから、人が肉眼で見えるものではないので、ヨハネでさえ「鳩のように」と非常に抽象的表現で言い表していますよね。それは肉の目ではなく霊の目でもって確認しなければ見えないものなのです。先程述べましたように、彼が主の前で自分の役割をわきまえており、主の御心こそが成るようにと終始謙虚であったので、彼は主の信任を得ていたということです。自分ではなく、主とその御救いを指し示す者に主はそのご計画を示し、実現に至らせるための霊の業をお見せ下さるのです。私たちも又、ヨハネのように、主の御業の実現を仰ぐべく、いつも謙遜な者でありたいと願います。

さて、ヨハネは「わたしは水でバプテスマを授けるが」、イエス・キリストは「聖霊によってバプテスマを授ける人である」とこう主の言葉を聞き、それを見たというのです。ヨハネの水のバプテスマは、人々を罪の悔改めへと招き、救い主イエス・キリストの到来に際して人々を備えさせるためのものでありましたが。救い主イエス・キリストが授ける聖霊のバプテスマは、1章12節にあるように、「受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与える。」そのような神のダイナミックな力なのです。これはすごい恵みですよね。ヨハネ7章37-38節で、イエスさまは立ち上がり大声で聞く者にこのように呼びかけられます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」この生きた水こそ聖霊の溢れる恵みであります。
その7章39節で、「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている霊について言われたのである」とあるとおりです。

冒頭にお話した昨日のY兄の召天50日記念会に兄弟の全般に亘るお世話をしてくださっていた方が、記念室での納骨を見て、「私もここに入りたいです」とポツリと話されたのです。まあ現役でお仕事もされておられるよし、この先はまだどうなるか分かりませんが。この方がそのようにおっしゃったのは、記念室の建物もさることながら、きっとこの教会において、またそこに集われる方々のうちに、主イエスにある喜びが満ち溢れ、誠意や愛が湧き出るのをお感じになられたのではないかと思いました。ア―メン。これこそ聖霊のお働きですよね。
イエス・キリストは聖霊を通して今日まで、全世界において信じる者のうちに豊かに臨み、活き活きと働いておられます。今日の御言葉からバプテスマのヨハネが「主の道をまっすぐに備えるための、わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と、どこまで救い主イエス・キリストの証人に徹し続けたように、私たちも神さまから頂いた恵みや賜物をもって自分自身ではなく、イエス・キリストを証しする者とされてまいりましょう。

「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。」Ⅰヨハネ4章13-14節
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光は暗闇の中で輝いている

2015-12-06 13:17:55 | メッセージ
宣教  ヨハネ1章1-5節 待降節Ⅱ 

先週まで旧約聖書のエレミヤ書を2ヶ月間に亘り読み、そこから主のメッセージを聞いてまいりました。まさに暗闇のただ中といえるようなユダの亡国前夜から壊滅的状況に至ってからもなお、ユダの民に主のいのちの御言葉をまっすぐに語り続けていった預言者エレミヤの姿がそこにありました。彼は主のいのちの御言葉に踏みとどまり、依り頼んで聞き従う人のうちに、真の平安と救いが臨むことを指し示し続けたのです。
そして、そのエレミヤの時代から約600年の時を経たユダの地に、その長い沈黙を破るかのように、全世界の救い主御子イエス・キリストがお生まれになられます。それがクリスマスです。ここにおいて旧約聖書以来預言者らが語り続けて来た言葉がこの世界に肉をとって臨んだ、いわば受肉し、今なお神の御救の実現へと至らしめているのです。

今日の1章1-5節は短い箇所ですが、ヨハネ福音書のメッセージが凝縮されている大変重要な箇所であります。その書が書かれた目的については20章30節に、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と書かれてあります。

先に旧約以来預言者らに臨み、語り継がれてきたいのちの言葉が御子イエス・キリストによって実現されていくと申しましたが。1-13節迄には何度も「言」と出てまいりますけれども、その「言」を「イエス・キリスト」と置き換えて読まれると、そのことが理解できるように思います。
みなさんもよくご存じの天地創造の創世記1章の記事で、「初めに、神は天地を創造された」その時、神さまは、「光あれ」とお言葉を発すると、「光があった」とございます。そのように神の「言」は、単に語られるだけでなく、御旨を行い、実現へと至らせる実体を伴ったものであるのです。今日の箇所におけるその実体こそが、救い主イエス・キリストであるということですね。

3節には、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」とございます。
これは神の言による天地創造をベースにしながら、実にⅡコリント5章に「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と記されていますように、イエス・キリストによる新しい創造、神の御救いの実現がここに啓示されているのです。
この世界は神の言のダイナミックな力によって造られましたが。その神の言イエス・キリストによって今やすべての人に神の救いのご計画が明らかにされました。それは、イエス・キリストによらずに成ったものは何一つもないということです。
又、4節には、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」とあります。
言は肉体をもってこの地上に現れ、人間を照らす希望の光としての生涯を送られました。
ヨハネ福音書は先程も触れましたように、「救い主イエス・キリストを信じてイエスの名により命を受ける」ために書かれものです。
この地上においても、また来るべき世においても、神の言なるイエス・キリストのうちに「命」があります。だれでもイエス・キリストを救い主と信じ、受け入れることによって、それを無償で頂くことができるのです。そこには主イエスの十字架の苦難と死の代償が支払われたのであります。この後に主の晩餐が行われますが、主イエスの貴い愛と代償への感謝と悔改めを忘れてはならないでしょう。

さて、イエス・キリストのうちに「命」があるということで、ヨハネ福音書には「永遠の生命」ということが何度も記されていますが。よく知られているのは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)との御言葉ではないでしょうか。それは単なる不老不死というものとは異なります。不死鳥のように永遠に続く生命ではありません。それは地上にあっても、又、来るべき世にあっても、永遠の命である神の言:イエス・キリストが私たちのうちに生きて働かれるその命を指すのであります。ですから永遠の命とはどこか遠いところにあるのではなく、主イエスを信じ受け入れた私たちのうちにすでに臨み、日々救いの完成の時へと導く生きた力なのですね。

また、その生ける命の「言」、すなわちイエス・キリストは「命」であると共に「光」であるということがここに記されています。それは「人間を照らす光」です。主イエスはご自身のことを世の「光」と2度呼ばれ、又、「光」として世に来たと言われました。

そのイエス・キリストの光の性質についてでありますが。
第1は、それが「真理の光」であるということです。
創世記1章に「光あれ」という言によって創造の御業が始められたごとく、主イエスの光は、混沌としたこの世界に臨み、その暗闇を照らし出します。それはまさに5節にありますように、「光は暗闇の中で輝いている」のです。この光は神さまの真理そのものであります。隠れた悪や行為すべてが光なるイエス・キリストの真理のもと露わにされます。
私は子どもの頃よく草むらの陰にあるレンガのような石をひっくりかえして虫を探したものですが。レンガをそっとひっくり返すと、途端にその暗いところに潜んでいた虫たちが一斉に光を避けるように暗い場所に逃げ込んでいくというその様子をいまだに憶えていますが。そのように、主イエスによってもたらされた光は、すべて隠れたものを明らかにする光なのです。
第2は、それは人に希望を与え生かす真理の光であるということです。
真理は、光が人のうちに臨み、内在しなければ暗闇の中にいるように分からないのです。同じヨハネ12章35節以降で主イエスはこのようにおっしゃっています。「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」。
それは、人のうちにイエス・キリストである真理の光が内在することによって、人は暗い闇世の道においても光の子として歩むことができるのです。

今私たちの教会において、岩崎さんと河さんが信仰決心へと導かれ、バプテスマへ向けての準備をともにさせていただいています。

Iさんは、1年前にお電話を戴いて大阪教会を訪ねてこられたのですが、日曜日もお仕事で礼拝に来られない日がずっと続きました。その間は水曜祈祷会には参加しておられたのですが。3ヶ月前の9月頃でしたか、仕事で教会に来ることができない日々が続くことによって自分の心が行き詰まってしまうような思いなられ、礼拝や祈祷会に出られるお仕事を探すためにこれまでのお仕事を思いきっておやめになられたのですね。そこによほどの思いがあった事かと想像いたしますが。何より感じ入りましたのは、彼が「神さまの前に降参して、主イエスにすべてを任せて行きたい」とおっしゃったことです。
まさに、主イエスの光が彼のうちに臨まれ、真理の道を照らしておられるその証を見せていただいた思いです。近々信仰告白とバプテスマが予定されています。どうか今後の祝福された生活のためにもお祈りください。

そしてもう一人のKさんは9月に初めて教会のHPを経由して教会を訪ねて来られた方ですが。神戸のクリスチャンの知り合いのおばちゃんから教会に行くとよいよ、と言われたのがきっかけで、ご自分の誕生日に合わせて教会に行こうと決めて来られたのですね。よく、彼は、「神さまのお導きを本当に感じて感謝しています」「自分の体調面も精神面も健やかになってきた」と、よくそう言われるのですね。そして現在新しいお仕事を立ちあげて始められるところまでお元気になられたということです。彼も又、御自分の中に主イエスの光が臨み、照らし出された真理を大切にされて日々を歩んでおられます。この大阪教会と出会い、イエスさまを信じて歩もうとの決心をされたKさんですが、新約聖書を全部読んでから信仰告白をなしてバプテスマを受けたいとおっしゃっていますので、祈りに覚えていきましょう。

今日の宣教題を「光は暗闇の中で輝いている」とつけました。
私たちの日常には時に辛く思うこと、又、不安や恐れが襲うことがございます。けれどもそれは決して真暗闇ではありません。真暗なお部屋にほんの小さなロウソクの灯りが一つあればどうでしょうか、それは有るか無いかでは大違いですよね。
闇が深ければ深いだけその小さなともし火は何十倍何百倍の威力をもって周囲を照らすでしょう。
イエス・キリストがもたらした「光」。その光を暗闇は阻止できないのです。
暗闇の中に希望の光の約束が与えられていることを共に喜びながら、アドベントの時を過ごしてまいりましょう。
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チャペルコンサート

2015-12-04 08:14:33 | イベント
日 時 12月6日(日)午後2時(1時半開場)

出 演 
   
   ベル・フィリア(ハンドベルクワイア)
   
   ハンドベルはハーモニーの音楽です。 
   愛を基盤として皆で心を合わせ神様を賛美し、人と人の和を作り出していく美しい
   ハーモニーを奏でたい。教会、老人施設、病院などで演奏活動をしています。
   今回の曲目は、Rejoyce Amazing Grace その他、クリスマスメロディーなど



   コール・シュパーズ(クワイア)

   神戸松蔭女学院大聖歌隊OGとして諸施設で聖歌隊奉仕。
   今回の曲目は、1.エルサレムの町の~ホルスト 2.惑星組曲「木星」より彼方の光~LIBERA
                


   栗谷加代子さん(腹話術)
  
   
   ロゴス腹話術協会・春風イチローに師事。かんちゃんを伴って福祉施設などでボランティ
   ア多数。ライリッシュオカリナ講師でもある。 


   入場無料(東日本大震災現地支援募金があります)。


   公共の交通機関でいらしてください。各天王寺駅より北へ(谷町筋)徒歩5分。
   どうぞ、お気軽におこしください。

   

   日本バプテスト大阪教会
    
   大阪市天王寺区茶臼山町1-17 
   電話 06(6771)3865
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