歳晩礼拝宣教 ヨハネ1章43節-51節
今年も残すところあと5日、2015年最後の主日礼拝となりました。主にあってこの1年日照りの日、嵐の日も欠かさずに主日礼拝が導かれ、守られてきました。又、私たちもそれぞれの1年のあゆみが主に守られ導かれたことを、この一年の終わりにおぼえ、賛美と感謝を主にお捧げしていきたいと思います。
「道先案内人」
先程、ヨハネ1章43-51節のところが読まれました。
この前の箇所には、当時人々に悔改めのバプテスマを授けていたヨハネとその2人の弟子が出てまいります。バプテスマのヨハネが、イエスさまを見て、2人の弟子に「見よ、神の小羊」と言うと、2人はイエスさまに従っていきます。そうして最初の弟子となったその一人はアンデレで、もう一人については名前が記されていませんが、恐らく彼はゼベタイの子ヨハネだとされています。さらにアンデレはその兄弟のシモン・ペトロに会って「わたしたちはメシアに会った」と伝え、シモンをイエスさまのところに連れていきます。そうしてシモンはイエスさまとお会いし、イエスさまからケファと呼ばれる弟子とされたというエピソードが記されています。また、ここにはありませんが、ゼべタイの子ヨハネも兄ヤコブに恐らくは同様イエスさまを紹介したのではないでしょうか。彼らはみな何か難しい言葉や説明によったのではなく、誘われるまま直接イエス・キリストに出会うことによって、従うようになるのですね。
本日の箇所に登場するフィリポも又、イエスさまと直接出会って「わたしに従いなさい」との招きに応え、イエスさまの弟子になるのでありますが、そこには先に弟子となったアンデレやシモンの存在があったようです。彼らも同じベトサイダ出身であり、もともとは漁師の仲間であったようですし、イエスさまのことについて伝え聞いていたと想像できます。
このフィリポが、今度はナタナエルという人物と出会い、「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と自らの体験を語ります。フィリポはナタナエルがしばしばいちじくの木の下で旧約聖書を読み黙想している姿を見て、彼がユダヤ人としてモーセの律法や旧約の預言者たちが語った言葉に精通し、来るべきメシアを待望していた人物と見たのでしょう。
ところが、ナタナエルはそのフィリポの言葉に対して、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と答えます。そこには旧約の預言者たちが預言したメシアは偉大なお方で、ナザレなどという小さく力のないような村から出るはずない、という思い込みがあったかも知れません。それは差別的というよりは、預言書に照らし合わせた彼なりのメシア像に対する思い入れが強かったのでしょう。
それでもフィリポはそのナタナエルの言葉に引きさがりません。まあ「来て、見なさい」と、彼をイエスさまのもとに連れて行くんですよね。それは、ナタナエルがイエスさまに直接出会ったなら、イエスさまがメシアであることが彼にわかるだろうという確信があったからでしょう。このフィリポの存在を通してナタナエルは主イエスと出会い、従う者となっていくのです。
如何でしょう。私たちそれぞれが主イエスと出会うきっかけとなったあの人、この人が思い浮かんでくるのではないでしょうか。教会にお誘いくださった方。聖書の言葉をおくられた方もおられるでしょう。クリスチャンホームであればその家族であるかも知れません。救いに与り主に従う者となった今も、教会と主イエスにある兄弟姉妹を通して、救い主イエス・キリストにその都度出会いを与えられている幸いを覚えます。
「主イエスとの出会い」
さて、47節以降の後半にはナタナエルとイエスさまの出会いが記されています。
イエスさまは、ナタナエルが自分の方へ来るのをご覧になって、一緒にいた弟子たちに「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人に偽りはない」と言われます。ナタナエルが「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスさまは、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」とお答えになります。
暑いユダヤの地では、よく茂るいちじくの木の下は安らぎの場所でした。ラビをはじめ律法を学ぶ人たちは、よくその木陰で祈ったり黙想したそうです。ナタナエルもそのうちの一人でした。けれどイエスさまは、彼が単に律法や預言書を学ぶことにとどまらず、偽りなくイスラエルの救いを待ち望んでいたことを知っておられたのです。彼がメシア、救い主を待望して祈っていたことをご覧になっていたのですね。
自分を知っておられるイエスさまとの出会いは衝撃的でした。ナタナエルはためらうことなく、「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王(油注がれたメシア)です」と確信し、それを口にします。こういう体験は時に私たちにも与えられるものではないでしょうか。礼拝や祈祷会において読まれた御言葉、メッセージ、聖句の一言が、「自分のために語られた」「神さまが私に用意して下さった」「主は私を知っておられる」。そういう瞬間。こうした生きた主との出会いが日々起こされる者でありたいですね。
ところで、フィリポが「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」とナタナエルに説明する時、「それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と言ったのをナタナエルが聞き、「ナザレから何の良いものがでるだろうか」といいました。結局イエスさまと直接会った時、それは全くの偏見でしかなかったことに気づくのですが。先程も触れましたけれど、もしここでフィリポがその事でナタナエルと議論していたなら、おそらくナタナエルはイエスさまと出会うことはなかったでしょう。かえって心を頑なにし、閉ざしたかも知れません。フィリポはいろいろ議論するより、ナタナエルがナザレのイエスさまと直接お会いすることが一番、それに勝るものはないと、判断したのでしょう。それを第一に、「来て、見なさい」といって、彼をイエスさまのところへお連れしたのです。まさに、そうしてナタナエルがそのナザレのイエスさまと直接出会うことで、心の目が開かれ、救い主メシアだと言い表すのです。フィリポは自分の役割を十分に周知していました。彼はイエスさまのもとに伴う人に徹したのですね。あとは主がなさることなのです。このことは私たちがイエスさまの福音を証ししたり、伝えていくうえでも大切なことだと思います。牧師も同様ですが、相手と議論して説得しようとすると、なかなかその思いは伝わるものではありません。肝心なことは、その人が直接主イエスと、その福音に出会われることこそ意味があるのですね。
さて、ナタナエルはこうして、イエスさまを知り、「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と口にするのでありますが。しかしこの時、ナタナルにまだイエスさまがどのようなかたちで、メシアとしてのお働きをなさるのかということを、本当は分かってはいなかったといえます。イエスさまがナタナエルに、「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」とおっしゃったとき、ナタナルの考えとイエスさまの御心には大きなひらきがあったといえます。
イエスさまは続けて、「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と言われました。
それは後に訪れるイエスさまの十字架の苦難と死を通してもたらされる救いを暗示していました。イエスさまはナタナエルが思い描いていた世の権力者や支配者としてではなく、神と人の交わりを回復する仲介者、天と地をつなぐ救い主となられるのです。その神の子としての栄光をナタナエルは見ることになる、とイエスさまはおっしゃったのですね。
今や、イエス・キリストの御業は成し遂げられ、御救いの時代にいるわけですけれども、しかし私たちも又、今日のナタナエルのようにイエスさまを信じ、信仰の告白をしたからといって、すべてが分かったわけではありません。すべて神さまのことが分かったか、聖書が理解できたというのではありません。けれどもその分からないながらも、信仰を言い表してバプテスマを受け、主イエスに従っていく一歩を踏み出すところから、神さまの大いなる御業を見、深く知らされていくあゆみが始っていくんですね。そういう意味で、神さまと私の信仰はたえず応答の関係のなかで育まれていくものなのです。
最後に、私ども大阪教会の1年のあゆみを振り返りますと、ほんとうにいろんな出来事があり、その度ごとに祈らされ、主の御業を見せて頂いた、そんな体験の連続であたった1年でした。特に、YさんとHさんのご召天は、寂しさの中にも格別な主の救いの出来事を仰がせていただきました。それは、Yさんが天に召される10日前に、一時意識を回復され、「主イエスを信じことにいたしました」とはっきりと告白をされて、主の御救いに与かり、教会の兄弟姉妹と喜びを共にする時間が与えられたこと。そしてご本人の遺志のとおり大阪教会で告別式を執り行い、先日は召天記念会と納骨を行うことができたこと。それは又、御親族にとっては慰めと証しの出来事となり、お連れ合いの民子さんも先週のクリスマス礼拝に足のご不自由な中何と御自分で歩いて教会まで来られたそのお姿に主の福音の力を改めてみせられた思いです。
又、Hさんが病のために急死された出来事は、私たちにとって大変ショックでしたが、彼が生前、日頃から訪問介護の方々に「自分は大阪教会に通っていて」というあかしをなさっていたことによって、その方が教会に彼の訃報を届けにかけつけてくださり、彼のお母様ともお会いして、結果的に告別式をHさんの信仰に沿ったキリスト教で行うことができたのですね。さらに、Hさんが天に召される4日前に夜の祈祷会があり、兵頭兄もいつもと変わりなく出席された時に、約2年ぶりにSさんがその祈祷会にお見えになったのです。Sさんは「何か不思議な力に引張られるように足が向いた」ということです。その祈祷会後、バザーのお食事をみんなで頂き、Sさん夫妻はHさんと夕食を一緒になさったそうですが、まさかそれが最後の晩餐になるとは、ということでした。
教会からしばらく離れておられたSさんは、Hさんが常々教会においでと誘われていたことを思い出し、彼が自分を教会に再び引き戻してくださったように思う、と私に話してくださいました。聖書に「一粒の種が地に落ちれば、多くの実を結ぶ」とございますように、ほんとうにこの二人のご召天の出来事をとおして、神さまの御業、栄光の出来事をそこに見た思いでした。それはまさに天が開け、人の子、私たちのために十字架によって救いの御業を成し遂げられた救い主イエス・キリストの上に、神の天使たちが昇り降りするのを見せて頂いたようであります。
新しい年も様々なかたちで、神さまが私たちに見せようとしておられる「偉大なこと」を見逃すことなく、益々主の栄光の証し人とされていくそういった1年を迎えていきたいと心から願うものであります。