礼拝宣教 マタイ10章16節~31節
今日は「主を畏れて生きる」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
イエスさまは、12人弟子達を選ばれます。それは「天の国は近づいた」ことを宣べ伝え、救いの業を証しし、行なわせるためでした。イエスさまは弟子達を派遣するにあたり、行くべきところ、なすべきことなどを幾つかお示しになります。それを聞いていた彼らは、弟子として選ばれた高揚感とともに、「よし、主の弟子としてここはひとつがんばろう」とこぶしを握りしめていたのではないでしょうか。
ところが主イエスは思いがけず、あなたがたは迫害と苦難を受けることになる、そのように予告なさるのです。
イエスさまは、まず「わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と語られます。「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言って具体的にどのようにあるべきかをお教えになります。
福音宣教の為に遣わされる弟子達が人々から憎まれ中傷されるだけでなく、「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれ、総督や王の前に引き渡されることになる」というのです。
弟子達はそれをどんな思いで聞いたでしょう。「この方こそ神の救い」と信じ、従う決心をした。唯それだけなのに、迫害されるとか苦難を受けると言われても」。弟子達の中には戸惑う者もいたのではないでしょうか。
みなさまはどうでしょう。主とその救いが自分にとってなくてはならないものになったとき。思いがけず身近な人から迫害を受けた。憎まれ、中傷された。そういう方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
私たちが本気で主に従っていこうとするとき、そこには多かれ少なかれ、神の救いから引き離そうとする力が働きます。「何も悪いことをしていないのに、そんな理不尽な」と思うわけですが。それが試みる者、サタンの働きです。
しかし、主イエスはそれに抵抗して戦えとはおっしゃいません。18節。「総督や王、さらに異邦人に証しをすることになる」。つまり証しの機会となるとおっしゃるんですね。
そして、「引き渡されたときは、何をどう言おうか心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」と言っておられます。
捕えられ権力者の前に引き渡された時、ただ怯え怖れるしかないときに、イエスさまは「心配してはならない。あなたたちのうちに住んでおられる御父の霊、聖霊が語るべきことをお語りくださるので、ただ聖霊に委ねるがいい。そして26節以降でも、イエスさまは迫害と苦難に際して、「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」とお語りになります。
それは、人間の内面に秘められている事柄は、なにがしかその人となりに現されてくるものだし、いざという時にはその本質が現されるものだ、とそういう風にも読めます。あるいは又、神の真理は、どんなに抑圧され封じ込められようとも、必ずいつかは明らかにされる時が来る。真理は決して滅びない。
余談ですが、黙示録はギリシャ語の原語で「アポカリュフォィス」。それは「覆いを取り除く」という意味です。イエス・キリストが救いを成し遂げられたことで、秘められていた神の真理とご計画の覆いが取り除かれ、明らかにされたということです。黙示録も厳しい迫害の最中に記された書物ですが。そのような時代の中で信徒達は、すでに覆いが取り除かれた神のご計画と成就、さらにキリストの来臨によってすべてが明らかにされるその時を待ち望みつつ、苦難の中でなお証が立てられていったということであります。
本日の28節には「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」との主イエスのお言葉がありますが。
むろん体が傷つけられたり、殺されたりなんて考えたくもないことです。けれど主イエスは、そのように危害を加える者に魂まで殺す力はない、むしろ「魂までも滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とおっしゃるのです。
この地獄と訳された「ゲヘナ」。それは架空のものではなく、実はエルサレム東方郊外にそういう名の谷があり、そこにはいわゆる廃棄物焼却場のような場であったんですね。まあそんな塵芥のように体も魂も焼き尽くされるなど想像するのもおぞましいことですが。
しかし、興味深いのは、その体も魂も地獄で滅ぼすことのできる方のことを、イエスさまは次のようにおっしゃるのです。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがた父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。
1アサリオンとは当時のユダヤの最小貨幣です。日本では1円です。その二羽の雀の一羽といえばもうその半分なわけですから貨幣としては成り立たないいくらい値打ちがないようなもの。しかし、みなさんここが肝心なんです。「あなたがたの父」はそのように価値無きものに思えるような小さく弱い存在をも決して見逃されないと言われるのですね。その命は御手のうちにあるのです。そのように主イエスは、あなたがた一人ひとりはおぼえられているんだよ、とおっしゃるのです。しかも「あなたがたの父」、天の父である方が子であるあなたがたを知らないわけがない。あなたがたの髪の毛一本までも残らず数えられている。(私はここを読むときちょっと複雑な思いがするのですが)。それほどまで知っていてくださる。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」ではないか、とそう主イエスはおっしゃるのであります。
今日私たちはこうして自由に礼拝を捧げ、どんなに大声でも讃美できます。信仰の自由が認められているのです。2月11日を私たちは「信教の自由を守る日」とし、集会を守っていますけれども。この幸い。どれほどありがたいことでしょうか。一方海を隔ててそれがままならない状況にある国々の主にある兄弟姉妹を思うわけですが。しかしこの日本でもかつて激しい弾圧や迫害の時代があったのですね。
本日の聖書の箇所を黙想していた折、これもお導きなんでしょうか。今「沈黙~サイレンス」が上映されています。みなさんの中で、すでに御覧になった方もおられるようですが。私も先週鑑賞しました。
この映画は遠藤周作さんの「沈黙」の原作をマーティン・スコセッシュ監督が見事に映像化した作品です。その構成のすごさに圧倒されましたが。江戸時代1638年以降の長崎の島原や五島で起った悲惨なキリシタンへの弾圧と迫害の場面が続き、何度も目を伏せては、ため息と涙がこぼれました。わたしの座席近くに十字を切りながら御覧になられている方も数人みかけました
本日の聖書の26節の御言葉が、わたしの胸に強く迫ってきました。
「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」。
映画では、ある司祭が先に長崎に布教のために来日にして消息が絶たれてた大先輩の司祭のあとを追って長崎に辿りつくのです。そこで村の隠れていたクリスチャンたちから聖礼典などを求められてそれに応えていくことになるのです。ところがこの司祭はその自分の信仰を貫くことによって同胞のクリスチャンたちが過酷な弾圧と処刑に遭うことに、これ以上耐え難くなり、遂には自ら踏み絵の前に近づいていったその時。踏み絵の銅板の主イエスがこうお語りになる声を彼は聞くのです。
「踏むがいい。わたしはお前とともに苦しんだ。わたしはこのおまえの痛さを一番よく知っている。踏むがいい。わたしはおまえたちの痛みを分かち合うためにこの世に生まれた」。
そうして痛みをもって踏み絵をふむのです。その後棄教したとされるこの司祭は日本名を名乗り、キリシタンご禁令の調査員として奉行所で御用され、最期は仏教の読経のもと葬られるのですが。最後に映し出されたその棺に納められた彼の手に「十字架(クロス)」が握られていたのですね。外見や目に見える形は棄教していてもその魂までは変わることなく、主の御手のうちにあることが、そこに証されていたんです。わたしはそこに希望を見た思いがいたしました。
人には神が沈黙しておられたように思われるその時代から380年、いやもっと古くの、豊臣秀吉がキリスト教を迫害するようになり、長崎で26人の司祭と信徒達が焚刑(ふんけい)にされた1587年以来から数えますと430年余、十字架の主と共にある殉教者の尊い証しと祈りのもと、この地にキリストの真理と福音は確かに息づいています。その時と比べることはできませんが、今に生きる私たちにも現代社会の抱える特有な困難があります。一人ひとりのうちにも課題があるでしょう。主はそのすべてをご存じです。
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」。
今週もここから主のいのちの言葉に信頼し、それぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
今日は「主を畏れて生きる」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
イエスさまは、12人弟子達を選ばれます。それは「天の国は近づいた」ことを宣べ伝え、救いの業を証しし、行なわせるためでした。イエスさまは弟子達を派遣するにあたり、行くべきところ、なすべきことなどを幾つかお示しになります。それを聞いていた彼らは、弟子として選ばれた高揚感とともに、「よし、主の弟子としてここはひとつがんばろう」とこぶしを握りしめていたのではないでしょうか。
ところが主イエスは思いがけず、あなたがたは迫害と苦難を受けることになる、そのように予告なさるのです。
イエスさまは、まず「わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と語られます。「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言って具体的にどのようにあるべきかをお教えになります。
福音宣教の為に遣わされる弟子達が人々から憎まれ中傷されるだけでなく、「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれ、総督や王の前に引き渡されることになる」というのです。
弟子達はそれをどんな思いで聞いたでしょう。「この方こそ神の救い」と信じ、従う決心をした。唯それだけなのに、迫害されるとか苦難を受けると言われても」。弟子達の中には戸惑う者もいたのではないでしょうか。
みなさまはどうでしょう。主とその救いが自分にとってなくてはならないものになったとき。思いがけず身近な人から迫害を受けた。憎まれ、中傷された。そういう方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
私たちが本気で主に従っていこうとするとき、そこには多かれ少なかれ、神の救いから引き離そうとする力が働きます。「何も悪いことをしていないのに、そんな理不尽な」と思うわけですが。それが試みる者、サタンの働きです。
しかし、主イエスはそれに抵抗して戦えとはおっしゃいません。18節。「総督や王、さらに異邦人に証しをすることになる」。つまり証しの機会となるとおっしゃるんですね。
そして、「引き渡されたときは、何をどう言おうか心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」と言っておられます。
捕えられ権力者の前に引き渡された時、ただ怯え怖れるしかないときに、イエスさまは「心配してはならない。あなたたちのうちに住んでおられる御父の霊、聖霊が語るべきことをお語りくださるので、ただ聖霊に委ねるがいい。そして26節以降でも、イエスさまは迫害と苦難に際して、「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」とお語りになります。
それは、人間の内面に秘められている事柄は、なにがしかその人となりに現されてくるものだし、いざという時にはその本質が現されるものだ、とそういう風にも読めます。あるいは又、神の真理は、どんなに抑圧され封じ込められようとも、必ずいつかは明らかにされる時が来る。真理は決して滅びない。
余談ですが、黙示録はギリシャ語の原語で「アポカリュフォィス」。それは「覆いを取り除く」という意味です。イエス・キリストが救いを成し遂げられたことで、秘められていた神の真理とご計画の覆いが取り除かれ、明らかにされたということです。黙示録も厳しい迫害の最中に記された書物ですが。そのような時代の中で信徒達は、すでに覆いが取り除かれた神のご計画と成就、さらにキリストの来臨によってすべてが明らかにされるその時を待ち望みつつ、苦難の中でなお証が立てられていったということであります。
本日の28節には「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」との主イエスのお言葉がありますが。
むろん体が傷つけられたり、殺されたりなんて考えたくもないことです。けれど主イエスは、そのように危害を加える者に魂まで殺す力はない、むしろ「魂までも滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とおっしゃるのです。
この地獄と訳された「ゲヘナ」。それは架空のものではなく、実はエルサレム東方郊外にそういう名の谷があり、そこにはいわゆる廃棄物焼却場のような場であったんですね。まあそんな塵芥のように体も魂も焼き尽くされるなど想像するのもおぞましいことですが。
しかし、興味深いのは、その体も魂も地獄で滅ぼすことのできる方のことを、イエスさまは次のようにおっしゃるのです。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがた父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。
1アサリオンとは当時のユダヤの最小貨幣です。日本では1円です。その二羽の雀の一羽といえばもうその半分なわけですから貨幣としては成り立たないいくらい値打ちがないようなもの。しかし、みなさんここが肝心なんです。「あなたがたの父」はそのように価値無きものに思えるような小さく弱い存在をも決して見逃されないと言われるのですね。その命は御手のうちにあるのです。そのように主イエスは、あなたがた一人ひとりはおぼえられているんだよ、とおっしゃるのです。しかも「あなたがたの父」、天の父である方が子であるあなたがたを知らないわけがない。あなたがたの髪の毛一本までも残らず数えられている。(私はここを読むときちょっと複雑な思いがするのですが)。それほどまで知っていてくださる。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」ではないか、とそう主イエスはおっしゃるのであります。
今日私たちはこうして自由に礼拝を捧げ、どんなに大声でも讃美できます。信仰の自由が認められているのです。2月11日を私たちは「信教の自由を守る日」とし、集会を守っていますけれども。この幸い。どれほどありがたいことでしょうか。一方海を隔ててそれがままならない状況にある国々の主にある兄弟姉妹を思うわけですが。しかしこの日本でもかつて激しい弾圧や迫害の時代があったのですね。
本日の聖書の箇所を黙想していた折、これもお導きなんでしょうか。今「沈黙~サイレンス」が上映されています。みなさんの中で、すでに御覧になった方もおられるようですが。私も先週鑑賞しました。
この映画は遠藤周作さんの「沈黙」の原作をマーティン・スコセッシュ監督が見事に映像化した作品です。その構成のすごさに圧倒されましたが。江戸時代1638年以降の長崎の島原や五島で起った悲惨なキリシタンへの弾圧と迫害の場面が続き、何度も目を伏せては、ため息と涙がこぼれました。わたしの座席近くに十字を切りながら御覧になられている方も数人みかけました
本日の聖書の26節の御言葉が、わたしの胸に強く迫ってきました。
「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」。
映画では、ある司祭が先に長崎に布教のために来日にして消息が絶たれてた大先輩の司祭のあとを追って長崎に辿りつくのです。そこで村の隠れていたクリスチャンたちから聖礼典などを求められてそれに応えていくことになるのです。ところがこの司祭はその自分の信仰を貫くことによって同胞のクリスチャンたちが過酷な弾圧と処刑に遭うことに、これ以上耐え難くなり、遂には自ら踏み絵の前に近づいていったその時。踏み絵の銅板の主イエスがこうお語りになる声を彼は聞くのです。
「踏むがいい。わたしはお前とともに苦しんだ。わたしはこのおまえの痛さを一番よく知っている。踏むがいい。わたしはおまえたちの痛みを分かち合うためにこの世に生まれた」。
そうして痛みをもって踏み絵をふむのです。その後棄教したとされるこの司祭は日本名を名乗り、キリシタンご禁令の調査員として奉行所で御用され、最期は仏教の読経のもと葬られるのですが。最後に映し出されたその棺に納められた彼の手に「十字架(クロス)」が握られていたのですね。外見や目に見える形は棄教していてもその魂までは変わることなく、主の御手のうちにあることが、そこに証されていたんです。わたしはそこに希望を見た思いがいたしました。
人には神が沈黙しておられたように思われるその時代から380年、いやもっと古くの、豊臣秀吉がキリスト教を迫害するようになり、長崎で26人の司祭と信徒達が焚刑(ふんけい)にされた1587年以来から数えますと430年余、十字架の主と共にある殉教者の尊い証しと祈りのもと、この地にキリストの真理と福音は確かに息づいています。その時と比べることはできませんが、今に生きる私たちにも現代社会の抱える特有な困難があります。一人ひとりのうちにも課題があるでしょう。主はそのすべてをご存じです。
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」。
今週もここから主のいのちの言葉に信頼し、それぞれの場へと遣わされてまいりましょう。