日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神の国と神の義を求めよ

2013-01-27 17:38:44 | メッセージ
宣教 マタイ6:25-34

本日は先程読んで戴いたマタイ6章25節~34節より「神の国と神の義を求めよ」と題し、御言葉を聞いていきます。この箇所は何度もお読みになられた方もおられることでしょう。又それだけよく知られている箇所でもあります。けれども不思議なことに今回読んでみて、また新たな気づきを与えられ、今必要な霊の糧として戴くことができました。
神の言葉は単なる書物でなく、私たちの人生や日常に生きて働く力なのです。

イエスさまはこの所で私たちの日常の必要について触れておられます。私たちが生きるうえで衣食住は大切なことがらであります。
多分、イエスさまの周りには弟子たちだけでなく、ユダヤの大勢の民衆もおり、どちらかというと日々生活するのに精いっぱいという状況にあった人たちがそこには集っていたようです。又、それは神の言葉によらないでは満たされることのない人々でもありました。
イエスさまは、そのような人たちに慰めと励ましとなる御言葉を語られます。

まず食物の問題についてでありますが。
「空の鳥を見なさい。種を蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」と言われます。ここでイエスさまは「単に鳥を見てみなさい」と言うのではなく、「天の父が鳥を養ってくださるその様子をよく見なさい」と言われています。「鳥」は人間のように余計な分まで蓄えなくても、その日その日に必要な食物を得ている。その鳥の養われる様子を「よく見てごらん」と言われた上で、「まして、あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」とおっしゃるのです。
この「価値」というのは、世の中の評価や数量などで計られるものとは違います。人の世は、何か才能があるかとか、社会で如何に業績や実績をあげたかで人の価値までも決めてしまうものです。小さな子どもまでもが学力で選別されていく世の中です。
しかし神さまは、そのような世の基準で人を偏り見ることはなさいません。その人がその人として本来のいのちの輝きを得て生きるように、と十字架の苦難と死の大きな犠牲を払って下さった。それ程までに神さまはすべての人を価値ある者として愛しておられるのです。
イザヤ43章4節には、神さまが「わたしの目にあなたは価高く、貴い」と語られていますが。そのように価値あるものとして愛してやまない神さまであるのだから、「あなたを毎日養ってくださる」と、イエスさまは言われるのです。

さらにイエスさまは衣服の問題について話されていますが。
「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ」と言われます。
イエスさまはここでも、単に野の花を見ろと言われるのではなく、「野の花がどのように育ち、野の花でさえ神がどのように装ってくださるその様子を注意してみなさい」と言われているのです。
人の生涯も又、野の花のように限りある時間の中で育ち、土に帰ってゆくはかない存在に思えます。が、しかし、働くことも紡ぐこともしない野の花のいのちさえ神さまは美しく装ってくださる、「まして、あなたがたになおさら良いようにして下さらないことがあろうか。信仰の薄い者たちよ」とおっしゃるのです。
イエスさまはここで弟子たちや民衆に対して、「信仰が無い者たちよ」とバッサリ切るようにはおっしゃらず、信仰の薄い(小さい)者たちよ、と呼びかけます。そこには、食べる物、着る物といったいわば現実の生活を今日、また明日どうしてゆこうかと心配し、思い悩む私たちに寄り添い、慈しまれるイエスさまの思いが伝わってくるようです。

そしてイエスさまは、「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それらは異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」とおっしゃいます。
 この「だから」が大事ですね。先程も申しあげたこととも重なりますが、「神さまはそれ程までにあなたのことを気にかけておられるのだから」ということです。
又、ここでの「異邦人」というのは単に外国人のことではなく、自我の思いのまま、その欲望の赴くまま神さまに背を向けている人たちを象徴的に「異邦人」と言っているのです。
そうではなく、あなた方は神さまに信頼をおいて生きるなら、必要なものはすべて与えられるので思い悩むことはない、とイエスさまはおっしゃっているのです。この「あなたに必要なことをすべてご存じである天の父なる神に信頼して生きる」。これこそ信仰なのであります。父なる神は、私どもが地上において生きるうえで必要なものを軽視したりなさいません。私どもに必要なことをすべてご存じであられるのです。

続けてイエスさまは言われます。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。
「神の国」とは、神の支配ということもできます。イエスさまが十字架による罪の贖い、さらに死に打ち勝ちよみがえられたことによって地上にもたらされた「神の国・神のご支配」であります。イエスさまはこの神の国について、それが何かはっきり見えるようなかたちで来るのではなく、又どこか遠い出来事として来るのでもなく、実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20-21)と、おっしゃっています。それは人と人のただ中に神の国が来ている、と言っておられるのですね。神の国を求めるというと大そうな事に思えますが、実はそれは私たちが祈り合ったり、執り成し合ったり、主のご愛を携えて仕え、つながるすべての人々の間に開かれ、築かれるものなのです。それを何よりもまず求めて生きなさい、とイエスさまはおっしゃるのです。

また「神の義」とは、人の正しさではなく神のただしさです。そこに裁きが当然伴うものです。今やイエス・キリストの十字架のみ業によって救いを指し示すものとなりましたが。人間が抱えるすべての罪を神の御独り子イエスさまが自ら背負い、尊い命をもって贖い取って下さったのです。主イエスさまは人間が当然受けなければならなかった罪の裁きを自ら引き受けになって死なれました。私たちの罪はこのイエスさまによって清算されたのです。それが「神の義」であるのです。
ローマ書3章21節にこう記されています。
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」。
その救いの福音を追い求めて、あらゆる人々の間で神の愛と平和が分かち合われるように努めてゆく。この「求めなさい」とは「追い求めなさい」というのが本意であります。
そのように、主は「神の国と神の義を追い求め続けなさい」と招いておられるのです。
そうやって、何よりもまず、神の国と神の義を求めていくとき、私たちに必要な食べ物、飲み物、着る物はみな加えて与えられる、と主は約束してくださいました。
現実に生身の人間である私たちは、日々「思い悩み」や「心配」は尽きません。が、しかしそれら人生の課題に対する最善策は、私どものすべての必要をご存じであられる神さまにどこまでも信頼することです。私たちはこの神さまに信頼し、御言葉に聞き従う中で、すべての必要が満たされていく体験をすることができるのです。

私は献身したときから神学校での生活について、やはり大きかったのは経済的な面での不安でありました。けれども神さまは不思議なかたちでこの私の経済面をサポートしてくださいました。それは神学校、教会の支援、アルバイトも与えられ、さらに多く兄弟姉妹の祈りと支援を戴きました。又牧師とされて22年になりますが。これまで経済的な面において神さまは本当にその時その時に必要なものを備え、送ってくださり、支えられております。「まず神の国と神の義を求めよ、そうすれば必要なものはすべて与えられる」という御言葉は本当であることを経験させて戴きました。今もそうであります。

イエスさまは言われます。「だから、明日のことまで思いわずらうな。明日のことは明日自らが思いわずらう。その日の苦労は、その日だけで十分である」。
このみ言葉は、明日のこと、将来のことまでも思い患ってしまうような私たちに大きな励ましを与えます。それは「考えたってしかたがない」「どうにかなるさ」などの楽観主義とは違います。私たちを価値ある存在として愛し、神の国と神の義を追い求めるとき、すべての必要を満たすと約束して下さるとの根拠のもと、「だから、、、思いわずらうな」と言われているのです。

主は、「その日の苦労は、その日だけで十分である」と言われます。
それは明日のことや先のことを思いわずらうのではなく、今を生きる。今なすべきことと向き合い、悔いの無いように生きることの尊さに気づかせてくれます。
どこまでも天の神に信頼して、今日という一日一日を主のこれらのお言葉に信頼して従ってまいりましょう。
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主の祈り

2013-01-20 19:35:54 | メッセージ
礼拝宣教  マタイ6:5~15

先週はイエスさまが弟子たちに語られた山上の説教から「地の塩、世の光としての使命」と題し、御言葉を聞きましたが。今日もその山上においてイエスさまが弟子たちに「祈り」について教えられたものです。本日はその「主の祈り」から御言葉を聞いていきたいと思います。

まずこの6章には、「施し」「祈り」「断食」についての記述があります。これらは旧約時代のユダヤ教において律法として重視されてきたものでした。けれども、その律法の精神が失われ、単なる形式だけのものとなり、それを行うことが一種の徳目のように、又宗教者としてのステータスのようにもなっていたのです。一部のユダヤ教徒たちは、神にではなく人からの評価や称賛を得るため、又自らを誇るためにわざわざ人々の目につくように断食や施し、又祈りをしていたのです。イエスさまは、「彼らはすでに報いを受けている。むしろ人目につかないところで行なうことで、隠れたことを見ておられるあなたの父なる神が報いてくださる」と教えられます。天の神さまはいつも、私たちの行いと心をすべて見ておられるのです。
イエスさまは「祈り」について、他の「施し」や「断食」の教えに比べ大変詳しく丁寧に教えておられます。それだけ「祈ること」を大切にしておられたのです。
イエスさまは、「父なる神さまが願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」とおっしゃっていますが、この「必要」と訳された原語 Χρεία;クレイアは、単に必要ということだけでなく、欠乏や不足、さらに事情や状況、理由とも訳されるそうです。
それは「父なる神さまが、私たちの欠乏や不足しているもの、その事情や状況をもすべてご存じであられる」ということですね。祈りは、まず神さまが私たちの人生、又生活の最善と必要とをすべてご存じであり、私たちもその神さまへの信頼をもって祈りと願いとを捧げていくものであることをお示しになるのです。まさにこのことが「主の祈り」の大きな土台としてあるのですね。この大前提のもとで、「だから、こう祈りなさい」と、イエスさまは「主の祈り」を教えられているのです。

ここで、水野源三さんの「キリストのみ愛に触れたその時に」という詩をご紹介したいと思いますが。水野さんについてはすでにご存じの方もいらっしゃることでしょうが。
長野県に生まれる。9歳の時赤痢に罹りその高熱によって脳性麻痺を起こし、やがて目と耳の機能以外のすべてを失いました。話すことも書くことも出来なくなったけれども、母親が何とか彼と意思の疎通をしようと五十音順を指で指し示したところ、目の動きで応答できるようになられました。これが47歳で天に召されるまでの彼の唯一のコミュニケーション能力となるのです。「瞬きの詩人」と呼ばれるようになったのはそのゆえです。12歳の時母親がおいた聖書を読み、やがてクリスチャンとなるのです。18歳の時からは詩作を開始し多くの作品を生み出します。その詩風は「神への喜びを表す純粋な詩」であったのです。彼のその姿はクリスチャンはもとより多くの人々の感動を呼んだのです。(ウィキペディア参照)

その水野さんが描かれた一つの詩をお読みします。
「キリストのみ愛に触れたその時に、キリストのみ愛に触れたその時に、
私の心は変わりました。憎しみも恨みも、霧のように消えさりました。
キリストのみ愛に触れたその時に、キリストのみ愛に触れたその時に、
私の心は変わりました。悲しみも不安も、霧のように消え去りました。
キリストのみ愛に触れたその時に、キリストのみ愛に触れたその時に、
私の心は変わりました。喜びと希望の朝の光がさして来ました。」

この水野源三さんが詠まれたように、主キリストと私個人との信頼の関係が築かれ、神さまの愛でいっぱいに満たされたその時に、私たちの心は変えられます。

イエスさまはここで、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言っておられますが。このように私たちを子として、願う前からわたしの必要も、欠乏も不足も、事情も状況までもすべてご存じであられるのだから、このように祈りなさい、と「主の祈り」を教えて下さったのであります。

この主の祈りのですが。公の礼拝でも大事にされているように、それは「わたし」という個人の祈りにとどまらず、「私たちという共同体の祈り」、さらに「あらゆる関係性においての祈り」という拡がりをもっています。

まあこの日本で「一般的に祈り」といえば、家内安全、入試合格、縁結びや安産などの祈願を指す事が多いのではないでしょうか。個々人が心の願いを神仏に求める。無論それも祈りであります。
しかし、教会では個々人や家族という枠を超えた人たち、血縁関係のない人たちも一同に会し、礼拝の中で「主の祈り」を共に祈るのであります。又、祈祷会では個人個人の祈りの課題を出して、それを共有し祈り合います。その祈りはある時には海を越え、又ある時は世に忘れ去られたような処にまで及びます。
以前にもお話しましたが。私が青年の時に、当時通っていた教会の祈祷会に初めていらっしゃった方が、「キリスト教会の祈りって、自分のことばかりでなく、こんなにも真剣に、人のことを祈り合われるのですね」と、その祈祷会の感想を述べてくださったことが新鮮な思い出として残っています。自分の願いだけでなく、「私たち」という関係性の中で主をあがめ、主にあって共に祈りをささげられるというのは、何とも豊かで尊い事ではないでしょうか。そこに愛なるご聖霊が深く働いて下さることが実感できるのです。
私たちが神に呼びかける「私たちの父よという言葉」。それはどこか遠い存在としではなく、「わが子よ」と呼びかけて下さる絶対的愛に応える呼びかけから、主の祈りは始まります。主の祈りは「私たちの父よ」、御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が行なわれますようにと、まず父なる神の栄光を讃美し、神の国の到来と御心が行なわれることへの期待を祈ります。ここはいわば、私たちと神さまとの関係、交わりによる祈りがあります。

その後には、私たち人と人との関係における祈りが続きます。
その始めは、「私たちに必要な糧を今日与えてください」との祈りであります。
この祈りは、食前の時などにも祈られますね。例えばそれは大地の実りや、海の産物への感謝の祈祷でもあるでしょうし、文字通り私の日々の食事の必要に対して、生物の命を戴いていることへ感謝の祈りでもあるでしょう。又、それは肉の飢え渇きに限らず、魂の糧という霊的な糧をも含んでいます。「人はパンだけで生きるものでなく神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる」からです。そしてこの祈りは、それら「今日の糧が今私に与えられていますように、この同じ時に、世界中に飢え渇いて肉の糧、霊の糧を必要としているすべての人たちが、私に必要な糧が与えられたように、そのお一人おひとりにも必要な糧をお与えください」と、主に執り成す祈りでもあるのです。これが「私たち人と人との関係における祈り」でありますね。
 8節に「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」とおっしゃったように、父なる神さまは私だけの必要をご存じであられるだけでなく、今飢えと渇き、欠乏と不足の中で苦しむすべての人の必要もすべてご存じであられるのです。
「わたしに」ではなく、「私たちにお与え下さいと祈る」。これが主の祈りの豊かさであります。

また、イエスさまは、12節「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と、赦しについての祈りを教えられます。
この祈りの強調ポイントは、「まず、わたしたちの負い目を赦してください」と祈る点にあります。しかしこの祈りは、私たちにはなかなか祈れない祈りでもあるのではないでしょうか。 
皆さんは誰かに対して貸し借りがおありでしょうか。物やお金の貸し借りがあり、それが何かの事情や理由で返って来なかった経験や、逆に借りた物が返済できなかったというような経験はないでしょうか。

ユダヤ教の教典タルムードの中にこういう小話があります。
ある男が知人に「鎌を貸してくれ」と言うと、知人は「嫌だ」と拒絶した。しばらくしてその知人が「鎌を貸してくれ」と言って来た男に、「馬を貸してくれと」と言うと、その男は「お前は鎌を貸してくれなかったから、俺は馬を貸さない」と断って来た。これは復讐である。
また同じように、ある男が知人に「鎌を貸してくれ」と言うと、知人は「嫌だ」と拒絶した。しばらくしてその知人が「鎌を貸してくれ」と言って来た男に、「馬を貸してくれ」と言うと、その男は馬を貸したが、貸す時に「あなたは鎌を貸してくれなかったが、わたしはあなたに貸してやる」と言った。これは憎悪である。そういう話です。まあ馬を貸しても、嫌みを言いながら貸すということは、本当には赦していない憎悪の心の表れというのです。
つまり、人間には何の見返りも報いもない赦しというのはなかなか考えられない。そこで本心から人はどうすれば人を赦すことが出来るのかを考えさせる、タルムードの教えであります。そうですよね、実際私たちは人から被害に遭ったことや人から非難中傷されたことについては、ずっと憶えており、忘れることができません。が、一方で私が人に危害を与え、人を傷つけていることについては何と鈍感な者でしょうか。
しかし、聖書はそんな私たち人間の抱える膨大な罪の代価を、御独り子イエスさまの尊い命と引き換えに贖ってくださった。いわば神の独り子イエスさまがその罪の代価を肩代わりしてくださったのです。その尊い犠牲によって、私たちの罪は赦されたのであります。

主の祈りを祈る毎に、「わたしたちの負い目を赦してください」とその十字架の救いを覚えつつ、主に立ち帰っていくことがまず大事なことです。そのことを通して、主は地上における人と人の間における和解の業を始めてくださいます。
父なる神さまから戴いた尊い赦しの恵み、御救いへの感謝の応答として、私たちも又、「わたしに負い目のある人を赦します」と、祈ってまいりましょう。
「主の祈り」をして、主は「私たち」という祈り合う真ん中に居まし、働かれます。わたちは「主の祈り」を祈るとき、実はわたしも又、主にある兄弟姉妹の間にあって執り成され、祈られているのです。これからも父なる神、救い主キリストの御業を讃美し、期待して祈る主の祈りをご一緒に捧げてまいりましょう。
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地の塩、世の光

2013-01-13 11:47:10 | メッセージ
礼拝宣教  マタイ5:13~16

本日の宣教はマタイ福音書5章の「山上の説教」としてよく知られている箇所であります。大勢の群衆の前で語られた印象が強いのですが、実はそうではなくイエスさまと共に山の上まで登り、近くに寄って来た弟子たちに向けて、イエスさまが御教えを説かれたのであります。
イエスさまは、神の前に幸いな人とはどのような人であるかを述べられた後、弟子たちに向かって「あなたがたは地の塩である」、さらに「あなたがたは世の光である」と、言われました。この「地の塩」の地とは「地上」のことであり、弟子たちが遣わされるその所を指します。私たちにとってはこの大阪、そして住んでいる町ですね。「世の光」の世とは、この「世の中」のことであります。
イエスさまは、弟子たちがこの地上、そして世の中において、神の国の味わい深い出来事を、又真の希望をあかししていくように願われたのです。今日は、イエスさまが弟子たちに語られた御言葉を、私たちに向けられたメッセージとして聞いていきましょう。

まず、始めの「あなたがたは地の塩です」との御言葉でありますが。
塩はユダヤ、パレスチナ社会において塩は大変貴重なものであり、日常欠かすことのできないものです。昼夜の寒暖の差が激しく日中は大変な暑さです。今のように冷蔵庫などないわけですから、塩は食物を腐らせないためにも用いられていたそうです。また、旧約聖書には、ささげものに塩をふって献げるというような「塩の律法」が記されており、清めを表すものでありました。
私たちの身近な生活においても塩は欠かす事のできない命に係る大切なものです。人間の体内の血液にほんの僅かな塩分が含まれていることで、生命が保たれています。もしその塩分が必要量に満たなければ命の危険にさらされるということです。例えばハードな運動をするスポーツ選手やアスリートたちが、その競技中に塩をなめたり、塩分の入ったスポーツドリンクを携帯し、定期的に補給したりしています。皆さんも熱が出た時や暑さの厳しい時は気をつけて摂るようになさっていることでしょう。又、私どもの食生活を見渡しましても、いろんな料理がありますが、料理に塩気がなかったらほんとに味気なく、気抜けしたものになってしまいます。私はおぜんざいが大好きなんですが、甘いものって結構塩が入っています。塩気が甘味を引き出しているから、うまいんですよね。まあ、このように塩そのものは決して美味しいものとは言えませんが、ほんの僅か、微量を他の物に加えたり、含ませることで、命が守られたり、保たれたり、料理がきりっとインパクトのある仕上がりになったり、素材の本来持っているよいものを引き出したり、といった様々な働きや役割をなすもので、これは人間の営みに欠かせない存在、それが塩なのです。

この山上の説教で、イエスさまは「幸いなるかな、心の貧しい人々」から始まる御言葉を語られました。神に依らなければ霊的に満たされないことを知っている心の貧しい人々。神の慰めを知る人。神の平安、救いの義を得た人。神の憐れみを知り、御言葉による清めに生きる人。神の国の平和の実現に参与する人。神の義、福音のために困難や迫害をもいとわず努める人。そのような主の御目に幸いな人々。実はこのような人々こそ「地の塩」である、と宣言いたします。それはキリストの弟子であり、地上にあってほんの僅かの、一握りの「地の塩なる人びと」です。

イエスさまが、今日のところで「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう」とおっしゃいましたが。塩の塩気がなくなったりするのだろうか、と思ったりもしますが。今日の精製された塩とは違い天然のものは時間の経過と共に不味く、使いものにならなくなったそうです。そうなると役に立たず、捨てられるだけでした。
現代の技術で化学添加物を使えば確かに塩味をつけることはできるでしょうが、それは本当の塩とは別物でしょう。本当に塩としての存在感、存在意義をもつキリストの弟子とはどのような者であるのか考えさせられます。
イエスさまは、弟子たちは「地の塩」だと語られました。私たちもまたイエスさまに救われ、イエスさまに従って生きるものとされました。その役割を果たしていくためには、塩気を失ってはならないのです。この地上にあって、神にどこまでも訴え求めていくハングリーな心と義への渇きを絶えず持ち、キリストの平和を追い求めて生きる、そこに主の弟子としての地の塩たる役割、働きがあります。どんなに小さき群れであっても、私たち一人ひとりであっても、地の塩クリスチャンとしての務めを、地道になし続けていきたいものです。

さて、イエスさまはまた、弟子たちに「あなたがたは世の光である」と言われました。
光、これも人が生き、生活していくうえで欠かすことのできないものであります。ここでは「ともし火」とあるように、それは暗いところ、闇路を明るく照らし出す光のことです。
都会では体験できませんが、ひとりで夜道を歩く時に街灯があると本当にホッとします。このイエスさまの時代も、電気など勿論ありませんでしたから、真っ暗な家の中で燭台
の上に照らし出されるともし火はどれだけ心に安らぎを得させるものであったでしょう。
たとえ小さなともし火であっても暗闇の中で最大の効力を発揮するものです。

イエスさまはここで、「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」と言われました。それは弟子たちに、「あなたの光は自分だけのために使うものではなく、暗い世を照らし出すために用いられるものである、と言っておられるのです。

けれども、「あなたの光を人々の前に照らし出せ」などと言われても困る、私は輝かしいものなど何も持っていない、と思われるかも知れません。
確かに、自分のうちに光を捜そうとするなら、引け目を感じることもありましょうし、ましてや輝かせるなどとプレッシャーを覚える方もいらっしゃるでしょう。当時の弟子たちの中にもそういう人がいた事でしょう。
その一方で、それとは真逆の人もいました。当時のユダヤ社会において、「自分たちこそ神に選ばれた清き者」と、排他的になりキリストの福音を退けた人たちです。かの使徒パウロもクリスチャンになる前迄はそういった人間でありました。彼は熱心なユダヤ教徒としてキリスト教会とクリスチャンたちを激しく迫害していました。ところが、彼はシリアのダマスコ途上で主と出会い、回心するのであります。キリストの大きな愛の光に照らし出されたその時、彼はまさに「自分のうちには光がない」ことを思い知らされたのでした。そうです、自分の中に光をいくら探そうとしても見つけ出せるものではありません。いや、私は正しく間違ったことをしない、そんなに弱くはないと思っていても、いざ暗闇が襲って来た時、人の心の内にある自信や誇りはもろく崩れてしまうのであります。
しかし、そのように「自分の内には光がない」と打ち砕かれた心に真の光であられる主が臨み、その闇すべてを照らしてくださる。これが、イエス・キリストによる救いであるのです。
使徒パウロはこの救いの体験を、「土の器に納めた宝」にたとえました。自分は土くれからできたもろく、弱い土の器でしかないが、その中に神さまは救い主を送り、真の命の光となっておいでくださった、と彼はあかしするのです。私たちもまた土の器であります。しかしその中に神さまは命の光を宿して下さった。だから、主イエスはこう命じるのです。
「そのあなたの内に灯された光を人々の前に輝かせなさい。」
この光は私自身のものというより、弱く罪深い私に臨み、その存在すべてを照らし出す「真の光」。イエス・キリストであります。主イエスによって救われている人はだれでも、その人の内に暗闇を照らし出す光が与えられています。その「あなたに与えられた光を、人々の前に輝かせなさい」と、主はお命じになります。

先週の8日早朝、闘病中の愛する主にあるK姉が58年の地上のご生涯を終えられ天に召されました。私たち大阪教会と姉妹とは9年間のお交わりが与えられました。姉妹は本当に教会の祈祷会に出られては、兄弟姉妹をはじめ、ご家族ご親族、友人知人、仕事仲間のお名前をあげられて、それぞれのその救いのために、その抱えている課題のために、共に多くのお祈りをする機会が与えられたことでした。ほんとうにクリスチャンとして執り成しのお祈りを熱心になさっておられたことが、心に残っております。
そして、姉妹は毎週の礼拝の献金において、よくご家族ご親族の誕生記念やバプテスマ記念、入試合格感謝、入学卒業感謝、病の快復、仕事の感謝などなど、ほんとうに様々な出来事を覚えて数々のささげものをなさる方でした。これも姉妹の神さまとの親しいつながりをあかししていたといえるでしょう。
姉妹が13歳の時にバプテスマを受けられてから45年という信仰生活、私はその一部分、牧師として兄弟姉妹としてお交わりを戴きましたが、姉妹の地上での生活は、金太郎飴のように、どこをきってもイエスさまが出てくる、そのような「主のあかし」と「天に宝を積んでいく」生活であったといえます。地上における姉妹との出会い、お交わりを感謝します。また、やがて私たちが地上の生涯を終え、天の御国に帰って行く時、姉妹と再会できる日が来ることを信じ、楽しみにしています。

今日、イエスさまは「あなたがたは地の塩、世の光である」と、宣言なさり、「あなたがたの光を人々に輝かせなさい」と、お命じになります。
神の御独り子を通して与えられた救いと永遠の命の光を、自分だけのもとに置いているのではなく、私たちのまだ救われていない家族、友人知人、地域や職場の人々を照らしていく光となるよう、それぞれのあり方でキリストの福音をかかげてまいりましょう。
地上における限られた人生です。だからこそ主をあかしする者、天に宝を積んでいく者となっていきましょう、「地の塩、世の光」として、ご一緒に主を讃美しつつ、進んでまいりましょう。
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試みの中で共におられる主

2013-01-06 20:35:01 | メッセージ
新年宣教 「試みの中で共におられる主」 マタイ4章1~11節

今日は2013年最初の主日礼拝となります。

イエスさまは「神の国」(天の国)を宣べ伝える働きを開始するにあたり、「霊に導かれて荒れ野へ行かれた」と記されています。興味深いことに、イエスさまを荒れ野に導いたのは悪魔(サタン)ではなく、「霊」であったのです。この霊とはご聖霊であり、神さまご自身でありました。
申命記8章を見ますと、イスラエルの民が同様に主のご意志によって荒れ野に導かれた記述が出てまいります。少し長いですが読んでみます。
「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」
そこには「主が導かれたこの40年の荒れ野の旅」とあります。神の導きによって出エジプトした民は葦の海を渡り荒れ野に着きました。その荒れ野の40年において、彼らは神の民とされるべく主から試みを受けたのです。
しかし民は主に不平不満をぶつけ、偶像礼拝を行い、罪を繰り返しました。それにも拘らず主は、その罪深い民に天からのマナを降らせて与え、彼らの旅路に先立って進み、昼は雲の柱をもって照らし、夜は火の柱をもって彼らを照らし、民は昼も夜も行進することができました。(出エジプト13:21以降)そのように彼らは神の民とされるための試みを荒れ野で受けたのです。
 
本日のイエスさまが試みに会われるために着いた荒れ野もまた、主の導きのもと、御手のうちにおかれている事柄であったのです。そしてイエスさまは、「神の子」であるため、すなわち神のご意志にのみ従って生きるための試みを受けられたのであります。
最初の試みは、試みる者(サタン)がイエスさまに石でパンを作れというもの、「物質的な試み」でありました。
この問題は極めて日常的なことと関わっています。パンは象徴的なもので、地上で生活するためのすべての必要物を表しています。それはまた、人が生きるための肉的な糧ということができましょう。
ここでサタンはパンを「神に求めよ」とは言っておりませんで、「イエス自身の力」で石に命じて変えてみせろ、と言うのです。それは、神に願い求めることなく、神の子であるなら「あなた自身の力でそれがなせるだろう」という挑発です。
それに対してイエスさまは答えて、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と、先程の申命記8章の御言葉をもってお答えになられたのです。
イエスさまだって空腹であられたに違いありません。けれどもイエスさまは「神の御言葉への信頼を糧として生きるということ」をお示しになられたのです。神の子であられるイエスさまは、「神」を信じ、「神」の栄光のために、「神」の言葉に従われます。

パンの問題は私たちにとってもリアルに日常的な事柄であります。
私どもは「人はパンだけで生きるものではない」と思いながらも、その一方で生身の人間であるがゆえに、「人が、パンなしで生きられない」現実を知っています。
しかし重要なのは、「神さまの祝福なしには、すべて物質的なもの、パンも、パンによって支えられる身体も虚しいものである」ということです。
神の口から出るその時々における、一つひとつの言葉。この霊の糧によって人はその魂が健やかに、平安に、いのちを得て生きることができるのです。その霊的な糧が欠乏した社会がいくら物質的に豊かであっても、実に貧弱で乏しい世界といえるのではないでしょうか。どんなに多くの物を持って満ち足りているように見えても、魂の飢え渇いている人々が世の中に沢山いるのではないでしょうか。主は今日も私たちに霊的命の糧、天からのマナをあらゆる人たちと分ち合うようにと、願っておられます。

サタンの次なる誘惑は、「イエスさまが神殿の屋根の上から飛び降りて、神が救いにくるかどうかを試してみたらどうか」という挑戦的なものでした。
この試みはまさに「神を試す」という高慢の罪へといざなう誘惑であります。サタンは実に巧妙に誘ってきます。それは旧約聖書の詩編91編の御言葉です。「主の使いがあなたの足が石に当らぬように守ってくださる」と書いてあるじゃないかと言うんですね。実にこのような御言葉を使ってうまく誘惑しようとするのですね。
使徒パウロがⅡコリント11章14節で、「サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません」と述べているように、サタンは如何にも信仰的に思える表現で巧みに誘惑してきます。
「あなたが神の子であるのなら、、、そのしるしを見せて欲しい」と。

イエスさまはサタンに答えます。「あなたの神である主を試みてはならない」。
イエスさまは神に信頼し最後まで従い続けていくことで、神の子の姿をお示しになられました。イエスさまは十字架刑に引き渡されていく最期の場面で、いろんな人たちから「あなたは神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。そうすれば信じてやろう」(マタイ27:40f)などと罵声を浴びせられていくのであります。しかし、イエスさまは神の子として「目にみえるしるし」によらず、神に信頼し、従い続けていく道を最期まで貫かれたのであります。その神への信頼によってもたらされた尊い救いのご計画が、今私たち信じるすべての者の救いとなって実現しているのであります。この主イエスのお姿に倣いつつ、「神」の御心を求め、「神」に信頼してまいりたいと願います。

最後のサタンの誘惑は、「サタンがイエスさまを非常に高い所に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った」というものであります。これは「神の国」に関する問題であります。

私たちの世界において国々が繁栄することや文明社会や経済産業が栄え豊かになることのみを追求し、その繁栄や富を極一部の人たちだけが独占所有している一方、極度の貧しい人たち、その日の糧に事欠くような人たちがどれだけいることでしょうか。拝金主義という偶像がのさばりあるき、貧富の差は益々拡大するばかりです。そういう繁栄とは一体何でありましょうか。サタンは人の欲望、願望を巧みに利用し、神の国の実現を妨げようとするのであります。

サタンはイエスさまに、わたしを拝めば世のすべての国々と繁栄をあなたにあげよう」といって誘います。それはイエスさまに、「十字架の道を経ずに、この世の栄誉と支配を得させよう」との誘惑であり、又「神でないものを神とする」偶像礼拝の罪を犯させようとするものです。かつてイスラエルの民は、シナイ山の下で金の子牛を拝み、偶像礼拝をもって神に背反しましたが。もしここでイエスさまが、誘惑にのり権力者となって莫大な富を蓄えたとしたなら、それは素晴らしい政治、素晴らしい統治がなされ、一時はよい時代が訪れたかもしれません。が、しかし神の国の到来という全世界に及ぶ霊的変革は、永遠に失われてしまう事になったでしょう。
イエスさまはそのサタンの魂胆を見抜いて言われました。
「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」そのように誘惑を退けられたのです。イエスさまは真の神の子として生きる道を選び取られました。それは唯、「神のみを神として拝し、自分の腹にではなく神のご意志に仕える」ことを通して、「神の国」を勝ち取って下さったのです。
私たちもまた、唯御神を拝し、心から神に仕え、「神の国」の拡大のために用いられるひとり一人、又教会となっていけるよう本年も共に努めてまいりましょう。

最後に、本日のイエスさまが荒れ野で試みに遭われた場面ですが。
その2節に「40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」とあります。ここを読む時に何か40日という断食の期間の最中に誘惑が来たのかと思ってしまいますが、実はそうではないのです。よく読むと、イエスさまが試みに遭われたのは40日という断食中でなく、ある意味断食という一つの目的を果たした後に、空腹を覚えられた、その時に誘惑を受けられたということですね。
誘惑というのは、信仰をもって主に向き合い、祈りの戦いをもっている最中にはやって来ないものです。実はそういうものを経た後にやって来るのです。やり遂げたという達成感と身体的疲労で気が緩みやすくなった時。このような時に神の御心から引き離そうとさせる誘惑、又高慢にさせようとする誘惑、さらに神の国の実現を台無しにさせようとする誘惑がやってくるのです。そこから逃れる道を今日主は私たちに示して下さいました。

私たちは世にあって悩みや苦しみが尽きません、様々な誘惑や試みを経験いたします。
けれども、主イエスもまた、それらの私たちが経験する誘惑や試みをお受けになり、十字架における勝利の道を打ち拓いて下さったのです。そのことを覚え、「試みの中にも、主が共におられる」という確信をもって、この1年、主の豊かなみ業に期待し、共々にあゆんでまいりましょう。
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信仰にある希望によって生きる

2013-01-02 18:51:56 | メッセージ
元旦礼拝 ヘブライ11章1~3節  

主の御名を讃美し、2013年新春を迎えられたことを心よりお喜び申しあげます。
人生には実に様々な事が起こってまいりますが、それでも主イエスの御救いに与っている者は、「信仰にある希望によって」世には与えられない喜びが与えられています。それはどんなに幸いなことでしょうか。

元旦礼拝に際してヘブライ11章1~3節の御言葉が与えられました。
その1節に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と述べられています。
この御言葉を2013年の聖句とさせていただき、併せて「祈り、支え合う教会」という年間テーマを掲げていきたいと願っております。

11章4節以降には、旧約時代、唯神の約束以外、何の保証も得られらなかったにも拘わらず、御心に信頼し従ったも多くの信仰の先達がいたことが丁寧に紹介されています。それらの人々は、神が将来に約束なさったことを、必ず実現して下さると確信し、その約束が既に今起こっていることとして行動したのでした。
彼らはそれぞれ神の約束が実現することを示す目に見える証拠を全く持っていませんでした。しかし神の約束だけを頼りにしながら、唯神に従い、生きたのであります。その信仰のゆえに彼らは神に称賛された、というのですね。
私たちもまた、その信仰の先達の姿に倣いつつあゆむように、との奨めであります。
かつてそれら旧約の時代に神の約束として示された大いなる御救いの業は、今やイエス・キリストによってすべての人に現わされました。主イエスを信じ、受け入れる人々が分け隔てなく御救いに与れる時が遂に訪れたのであります。
私たち主イエスの救いに与る者は、「信仰にある希望によって生きる」者とされたのです。
それはまた、永遠の命に至る道であることを私たちもまた、唯神の約束に信頼していくという「信仰の眼」によってそれを仰ぎ見、すでに始まっているその命の道をあゆんでいるのであります。
主にあって、望んでいる事、まだ手にしていないもの、将来の事柄は、信仰によって現実のもの、実質のものとなる。その体験へとすでに私たちは踏み出しているのです。

「信仰とは、見えない事実を確認することである」とありますように、私たちがまだそれを見ないうちから、それは主によって成っている事柄なのだと確信し、信頼する。それが信仰なのであります。
11章6節「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」信仰とは唯漠然と信じるじゃないんですね。それは盲信です。文字通り主を仰ぎ見つつ、信頼して生きる。これが信仰であります。では私たちは何に信頼をおいてあゆむことができるでしょう。それは神さまの愛と真実ではないでしょうか。その独り子、御子なるイエスさまを十字架に引き渡されてまで救いの約束を実現された父なる神さまの愛。また罪深きすべての人のために十字架にかけられつつ、執り成して下さった主イエスの愛。私たちはその愛のゆえに感謝と信頼をもってその信仰のあゆみを続けることが可能なのです。

私たちの世界は目に見えるものによる基準により、如何に効果があったか。結果が出たかどうかでその評価や価値がくだされますが。神さまの愛と恵みは、目に見える基準によってはじき出された人、排除された人にも等しく注がれているんですね。否むしろ聖書はそういう弱く、小さくされた人々とイエスさまは出会われ、神の国の福音を分かち合われたのです。

3月~11月まで私たちの教会は仮会堂住まいとなる予定であります。が、その与えられた10ヶ月の期間を、新会堂での新しい大阪教会のあゆみに備える時、この天王寺の地においてそのような計り知れない主の愛と恵みを、そのイエスさまの福音を伝え、分かち合うために、今後どのように導かれるのかを「祈り、支え合う」中で得ていきたいと願っております。

元旦は日本各地の神社に初詣に行く人たちも多いかと思います。私たちは、生ける神、救いの主イエス・キリスト、すべての人間の罪を贖い復活の命を与えてくださる主、世界をすべおさめたもう神さまを礼拝することが許されていることは、何よりありがたいことではないでしょうか。

皆さまお一人お一人、そしてご家族のうえに神さまからの祝福と平安が今年豊かに臨みますように、祈願申しあげます。

最後にコリントの信徒への手紙二、4章18節のみ言葉を奨励を閉じます。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
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