宣教 マタイ6:25-34
本日は先程読んで戴いたマタイ6章25節~34節より「神の国と神の義を求めよ」と題し、御言葉を聞いていきます。この箇所は何度もお読みになられた方もおられることでしょう。又それだけよく知られている箇所でもあります。けれども不思議なことに今回読んでみて、また新たな気づきを与えられ、今必要な霊の糧として戴くことができました。
神の言葉は単なる書物でなく、私たちの人生や日常に生きて働く力なのです。
イエスさまはこの所で私たちの日常の必要について触れておられます。私たちが生きるうえで衣食住は大切なことがらであります。
多分、イエスさまの周りには弟子たちだけでなく、ユダヤの大勢の民衆もおり、どちらかというと日々生活するのに精いっぱいという状況にあった人たちがそこには集っていたようです。又、それは神の言葉によらないでは満たされることのない人々でもありました。
イエスさまは、そのような人たちに慰めと励ましとなる御言葉を語られます。
まず食物の問題についてでありますが。
「空の鳥を見なさい。種を蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」と言われます。ここでイエスさまは「単に鳥を見てみなさい」と言うのではなく、「天の父が鳥を養ってくださるその様子をよく見なさい」と言われています。「鳥」は人間のように余計な分まで蓄えなくても、その日その日に必要な食物を得ている。その鳥の養われる様子を「よく見てごらん」と言われた上で、「まして、あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」とおっしゃるのです。
この「価値」というのは、世の中の評価や数量などで計られるものとは違います。人の世は、何か才能があるかとか、社会で如何に業績や実績をあげたかで人の価値までも決めてしまうものです。小さな子どもまでもが学力で選別されていく世の中です。
しかし神さまは、そのような世の基準で人を偏り見ることはなさいません。その人がその人として本来のいのちの輝きを得て生きるように、と十字架の苦難と死の大きな犠牲を払って下さった。それ程までに神さまはすべての人を価値ある者として愛しておられるのです。
イザヤ43章4節には、神さまが「わたしの目にあなたは価高く、貴い」と語られていますが。そのように価値あるものとして愛してやまない神さまであるのだから、「あなたを毎日養ってくださる」と、イエスさまは言われるのです。
さらにイエスさまは衣服の問題について話されていますが。
「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ」と言われます。
イエスさまはここでも、単に野の花を見ろと言われるのではなく、「野の花がどのように育ち、野の花でさえ神がどのように装ってくださるその様子を注意してみなさい」と言われているのです。
人の生涯も又、野の花のように限りある時間の中で育ち、土に帰ってゆくはかない存在に思えます。が、しかし、働くことも紡ぐこともしない野の花のいのちさえ神さまは美しく装ってくださる、「まして、あなたがたになおさら良いようにして下さらないことがあろうか。信仰の薄い者たちよ」とおっしゃるのです。
イエスさまはここで弟子たちや民衆に対して、「信仰が無い者たちよ」とバッサリ切るようにはおっしゃらず、信仰の薄い(小さい)者たちよ、と呼びかけます。そこには、食べる物、着る物といったいわば現実の生活を今日、また明日どうしてゆこうかと心配し、思い悩む私たちに寄り添い、慈しまれるイエスさまの思いが伝わってくるようです。
そしてイエスさまは、「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それらは異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」とおっしゃいます。
この「だから」が大事ですね。先程も申しあげたこととも重なりますが、「神さまはそれ程までにあなたのことを気にかけておられるのだから」ということです。
又、ここでの「異邦人」というのは単に外国人のことではなく、自我の思いのまま、その欲望の赴くまま神さまに背を向けている人たちを象徴的に「異邦人」と言っているのです。
そうではなく、あなた方は神さまに信頼をおいて生きるなら、必要なものはすべて与えられるので思い悩むことはない、とイエスさまはおっしゃっているのです。この「あなたに必要なことをすべてご存じである天の父なる神に信頼して生きる」。これこそ信仰なのであります。父なる神は、私どもが地上において生きるうえで必要なものを軽視したりなさいません。私どもに必要なことをすべてご存じであられるのです。
続けてイエスさまは言われます。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。
「神の国」とは、神の支配ということもできます。イエスさまが十字架による罪の贖い、さらに死に打ち勝ちよみがえられたことによって地上にもたらされた「神の国・神のご支配」であります。イエスさまはこの神の国について、それが何かはっきり見えるようなかたちで来るのではなく、又どこか遠い出来事として来るのでもなく、実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20-21)と、おっしゃっています。それは人と人のただ中に神の国が来ている、と言っておられるのですね。神の国を求めるというと大そうな事に思えますが、実はそれは私たちが祈り合ったり、執り成し合ったり、主のご愛を携えて仕え、つながるすべての人々の間に開かれ、築かれるものなのです。それを何よりもまず求めて生きなさい、とイエスさまはおっしゃるのです。
また「神の義」とは、人の正しさではなく神のただしさです。そこに裁きが当然伴うものです。今やイエス・キリストの十字架のみ業によって救いを指し示すものとなりましたが。人間が抱えるすべての罪を神の御独り子イエスさまが自ら背負い、尊い命をもって贖い取って下さったのです。主イエスさまは人間が当然受けなければならなかった罪の裁きを自ら引き受けになって死なれました。私たちの罪はこのイエスさまによって清算されたのです。それが「神の義」であるのです。
ローマ書3章21節にこう記されています。
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」。
その救いの福音を追い求めて、あらゆる人々の間で神の愛と平和が分かち合われるように努めてゆく。この「求めなさい」とは「追い求めなさい」というのが本意であります。
そのように、主は「神の国と神の義を追い求め続けなさい」と招いておられるのです。
そうやって、何よりもまず、神の国と神の義を求めていくとき、私たちに必要な食べ物、飲み物、着る物はみな加えて与えられる、と主は約束してくださいました。
現実に生身の人間である私たちは、日々「思い悩み」や「心配」は尽きません。が、しかしそれら人生の課題に対する最善策は、私どものすべての必要をご存じであられる神さまにどこまでも信頼することです。私たちはこの神さまに信頼し、御言葉に聞き従う中で、すべての必要が満たされていく体験をすることができるのです。
私は献身したときから神学校での生活について、やはり大きかったのは経済的な面での不安でありました。けれども神さまは不思議なかたちでこの私の経済面をサポートしてくださいました。それは神学校、教会の支援、アルバイトも与えられ、さらに多く兄弟姉妹の祈りと支援を戴きました。又牧師とされて22年になりますが。これまで経済的な面において神さまは本当にその時その時に必要なものを備え、送ってくださり、支えられております。「まず神の国と神の義を求めよ、そうすれば必要なものはすべて与えられる」という御言葉は本当であることを経験させて戴きました。今もそうであります。
イエスさまは言われます。「だから、明日のことまで思いわずらうな。明日のことは明日自らが思いわずらう。その日の苦労は、その日だけで十分である」。
このみ言葉は、明日のこと、将来のことまでも思い患ってしまうような私たちに大きな励ましを与えます。それは「考えたってしかたがない」「どうにかなるさ」などの楽観主義とは違います。私たちを価値ある存在として愛し、神の国と神の義を追い求めるとき、すべての必要を満たすと約束して下さるとの根拠のもと、「だから、、、思いわずらうな」と言われているのです。
主は、「その日の苦労は、その日だけで十分である」と言われます。
それは明日のことや先のことを思いわずらうのではなく、今を生きる。今なすべきことと向き合い、悔いの無いように生きることの尊さに気づかせてくれます。
どこまでも天の神に信頼して、今日という一日一日を主のこれらのお言葉に信頼して従ってまいりましょう。
本日は先程読んで戴いたマタイ6章25節~34節より「神の国と神の義を求めよ」と題し、御言葉を聞いていきます。この箇所は何度もお読みになられた方もおられることでしょう。又それだけよく知られている箇所でもあります。けれども不思議なことに今回読んでみて、また新たな気づきを与えられ、今必要な霊の糧として戴くことができました。
神の言葉は単なる書物でなく、私たちの人生や日常に生きて働く力なのです。
イエスさまはこの所で私たちの日常の必要について触れておられます。私たちが生きるうえで衣食住は大切なことがらであります。
多分、イエスさまの周りには弟子たちだけでなく、ユダヤの大勢の民衆もおり、どちらかというと日々生活するのに精いっぱいという状況にあった人たちがそこには集っていたようです。又、それは神の言葉によらないでは満たされることのない人々でもありました。
イエスさまは、そのような人たちに慰めと励ましとなる御言葉を語られます。
まず食物の問題についてでありますが。
「空の鳥を見なさい。種を蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」と言われます。ここでイエスさまは「単に鳥を見てみなさい」と言うのではなく、「天の父が鳥を養ってくださるその様子をよく見なさい」と言われています。「鳥」は人間のように余計な分まで蓄えなくても、その日その日に必要な食物を得ている。その鳥の養われる様子を「よく見てごらん」と言われた上で、「まして、あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」とおっしゃるのです。
この「価値」というのは、世の中の評価や数量などで計られるものとは違います。人の世は、何か才能があるかとか、社会で如何に業績や実績をあげたかで人の価値までも決めてしまうものです。小さな子どもまでもが学力で選別されていく世の中です。
しかし神さまは、そのような世の基準で人を偏り見ることはなさいません。その人がその人として本来のいのちの輝きを得て生きるように、と十字架の苦難と死の大きな犠牲を払って下さった。それ程までに神さまはすべての人を価値ある者として愛しておられるのです。
イザヤ43章4節には、神さまが「わたしの目にあなたは価高く、貴い」と語られていますが。そのように価値あるものとして愛してやまない神さまであるのだから、「あなたを毎日養ってくださる」と、イエスさまは言われるのです。
さらにイエスさまは衣服の問題について話されていますが。
「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ」と言われます。
イエスさまはここでも、単に野の花を見ろと言われるのではなく、「野の花がどのように育ち、野の花でさえ神がどのように装ってくださるその様子を注意してみなさい」と言われているのです。
人の生涯も又、野の花のように限りある時間の中で育ち、土に帰ってゆくはかない存在に思えます。が、しかし、働くことも紡ぐこともしない野の花のいのちさえ神さまは美しく装ってくださる、「まして、あなたがたになおさら良いようにして下さらないことがあろうか。信仰の薄い者たちよ」とおっしゃるのです。
イエスさまはここで弟子たちや民衆に対して、「信仰が無い者たちよ」とバッサリ切るようにはおっしゃらず、信仰の薄い(小さい)者たちよ、と呼びかけます。そこには、食べる物、着る物といったいわば現実の生活を今日、また明日どうしてゆこうかと心配し、思い悩む私たちに寄り添い、慈しまれるイエスさまの思いが伝わってくるようです。
そしてイエスさまは、「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それらは異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」とおっしゃいます。
この「だから」が大事ですね。先程も申しあげたこととも重なりますが、「神さまはそれ程までにあなたのことを気にかけておられるのだから」ということです。
又、ここでの「異邦人」というのは単に外国人のことではなく、自我の思いのまま、その欲望の赴くまま神さまに背を向けている人たちを象徴的に「異邦人」と言っているのです。
そうではなく、あなた方は神さまに信頼をおいて生きるなら、必要なものはすべて与えられるので思い悩むことはない、とイエスさまはおっしゃっているのです。この「あなたに必要なことをすべてご存じである天の父なる神に信頼して生きる」。これこそ信仰なのであります。父なる神は、私どもが地上において生きるうえで必要なものを軽視したりなさいません。私どもに必要なことをすべてご存じであられるのです。
続けてイエスさまは言われます。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。
「神の国」とは、神の支配ということもできます。イエスさまが十字架による罪の贖い、さらに死に打ち勝ちよみがえられたことによって地上にもたらされた「神の国・神のご支配」であります。イエスさまはこの神の国について、それが何かはっきり見えるようなかたちで来るのではなく、又どこか遠い出来事として来るのでもなく、実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20-21)と、おっしゃっています。それは人と人のただ中に神の国が来ている、と言っておられるのですね。神の国を求めるというと大そうな事に思えますが、実はそれは私たちが祈り合ったり、執り成し合ったり、主のご愛を携えて仕え、つながるすべての人々の間に開かれ、築かれるものなのです。それを何よりもまず求めて生きなさい、とイエスさまはおっしゃるのです。
また「神の義」とは、人の正しさではなく神のただしさです。そこに裁きが当然伴うものです。今やイエス・キリストの十字架のみ業によって救いを指し示すものとなりましたが。人間が抱えるすべての罪を神の御独り子イエスさまが自ら背負い、尊い命をもって贖い取って下さったのです。主イエスさまは人間が当然受けなければならなかった罪の裁きを自ら引き受けになって死なれました。私たちの罪はこのイエスさまによって清算されたのです。それが「神の義」であるのです。
ローマ書3章21節にこう記されています。
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」。
その救いの福音を追い求めて、あらゆる人々の間で神の愛と平和が分かち合われるように努めてゆく。この「求めなさい」とは「追い求めなさい」というのが本意であります。
そのように、主は「神の国と神の義を追い求め続けなさい」と招いておられるのです。
そうやって、何よりもまず、神の国と神の義を求めていくとき、私たちに必要な食べ物、飲み物、着る物はみな加えて与えられる、と主は約束してくださいました。
現実に生身の人間である私たちは、日々「思い悩み」や「心配」は尽きません。が、しかしそれら人生の課題に対する最善策は、私どものすべての必要をご存じであられる神さまにどこまでも信頼することです。私たちはこの神さまに信頼し、御言葉に聞き従う中で、すべての必要が満たされていく体験をすることができるのです。
私は献身したときから神学校での生活について、やはり大きかったのは経済的な面での不安でありました。けれども神さまは不思議なかたちでこの私の経済面をサポートしてくださいました。それは神学校、教会の支援、アルバイトも与えられ、さらに多く兄弟姉妹の祈りと支援を戴きました。又牧師とされて22年になりますが。これまで経済的な面において神さまは本当にその時その時に必要なものを備え、送ってくださり、支えられております。「まず神の国と神の義を求めよ、そうすれば必要なものはすべて与えられる」という御言葉は本当であることを経験させて戴きました。今もそうであります。
イエスさまは言われます。「だから、明日のことまで思いわずらうな。明日のことは明日自らが思いわずらう。その日の苦労は、その日だけで十分である」。
このみ言葉は、明日のこと、将来のことまでも思い患ってしまうような私たちに大きな励ましを与えます。それは「考えたってしかたがない」「どうにかなるさ」などの楽観主義とは違います。私たちを価値ある存在として愛し、神の国と神の義を追い求めるとき、すべての必要を満たすと約束して下さるとの根拠のもと、「だから、、、思いわずらうな」と言われているのです。
主は、「その日の苦労は、その日だけで十分である」と言われます。
それは明日のことや先のことを思いわずらうのではなく、今を生きる。今なすべきことと向き合い、悔いの無いように生きることの尊さに気づかせてくれます。
どこまでも天の神に信頼して、今日という一日一日を主のこれらのお言葉に信頼して従ってまいりましょう。