礼拝宣教 Ⅰコリント8:1-13
今日も先週に引き続き「自由とされた者」と題し、お話をさせていただきます。
本日の8章は見出しがつけられているように、「偶像に供えられた肉」をめぐる問題について述べられています。
私たちの教会でももう10年前くらい前の事でしたでしょうか。近隣のある宗教施設からご厚意で「お赤飯」を頂いた折に、私たちの教会もその時はイースターエッグを持ってそちらの方へお届けしていたという経緯があったわけですけれど。
しかしそのまあいわば他の神仏にお供えした後の赤飯、ということに対してある教会員から信仰的に抵抗を感じるというご意見があり、その赤飯をどのように扱えばよいか。教会で食べるか食べないかをめぐる論争といえば少々大袈裟ですが、そういったことがありました。
私の記憶では、教会では食べないこととして、感謝して受け取られる方がご自宅に持ち帰って、頂くことになったようです。
今日の箇所で、「偶像に供えられた肉」といいますのは、コリントの町に多くある神殿で偶像に対して献げられた犠牲の動物の肉が、市場に卸され売り出されたものであったようです。
そういう背景の中で、クリスチャンであるコリントの信徒たちが、日々の生活において、クリスチャンでない知人からの会食や地域などの食事会に招かれたときに、そのような肉を食べるか食べないかということで、コリントの教会の中で論議が沸き起ったということであります。
私たちも又、この日本という文化の中でキリストを信じて生活していくことの困難や悩みが起ってきますが。日常的にも知人の家に行って仏壇のお饅頭を出され食べようか迷った。葬儀に出て数珠はどうするか、お焼香はどうしたらよいか戸惑った。さらに家の仏壇や供養、御祓いはどうしたらよいのか。神社仏閣やお祭に行ってもよいのか、等々ございます。
使徒パウロはそのことに対して白黒をつけて明言いたしません。どこまでも個人の信仰の選択を尊重しているように思えます。
自分と神との関係において何を選び取るかは各々にゆだねられているんですね。
コリントの教会には当時、大きく二つの立場の人たちがいました。
一方は、ユダヤ人(ユダヤ教徒)から改宗してクリスチャンになった人たち。もう一方は、ユダヤ人以外で異教社会からクリスチャンになった人たちです。
前者はユダヤの十戒にはじまる、神に従い生きるにふさわしいとされる規定というものをずっと小さい頃から教えられ、叩き込まれてきた人たちです。彼らは偶像礼拝に対しては殊更厳しく戒められていました。
ですから、他の神々を祀る神殿に係る、たとえば供えられた肉を食べることなど、クリスチャンとなっても、偶像礼拝の罪を犯すことになると考え、その肉を一切食べなかったということです。
時に彼らの一部は律法主義的に陥り、自他ともに厳しい態度をもっていたゆえに、律法を守らない自由奔放に過ごす異教的背景をもつクリスチャンたちの態度が受け入れられず、裁いたり、非難したりすることもあったようです。
一方、ユダヤ人以外の異邦人、コリントやギリシャ、ローマに生まれ育ち、クリスチャンになった人びとは、主イエスが異教の偶像の縛りからすべて解き放って自由とされたのだから、「何を食べても大丈夫」という信仰的な理解を持っていたのであります。
たとえ、それが偶像の神殿に供えられた肉であったとしても、主が清めて下さるのだから、汚れたり罪を犯すものにはならないということで、彼らはその良心にも責めを負うことなく何でも食べていたのです。
ところが、彼らの中には、その自分たちに与えられた恵みの信仰による自由を、もう何をしたって許されている、許しのなかにあるのだからと考えて、食事に限らず自分たちの欲望や満足を満たすことに、良心を責められることがなくなり放縦な生活に陥ってしまう者もいたのです。
パウロ自身はユダヤ人でしたが、4節「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」という立場でした。
さらに彼は10章25節以降で、「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。『地とそこに満ちているものは、主のもの』だからです。あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出される者は、良心の問題としていちいち詮索せず何でも食べなさい」という信仰の理解を語っています。
実に彼は主にあってたいへん自由な考え方をしていたことがわかります。
それはある意味において、こと食事に関して先程の異邦人からクリスチャンとなった人のもつ自由な態度と共通していたということですね。
このようにユダヤ人であり熱心に神の律法を守っていた彼が、食べ物自体に清い清くないなどない、何でも自由に食べてよい、という信仰理解を得たのは、主イエスと出会い、自分の罪を徹底的に思い知らされて回心し、キリストにあって自由な者とされたからであります。
熱心に正しくあろうと自分の正しさの基準に合わない者は悪と色分けし、排除し、切り捨てていった若い日に主イエスと出会い、如何に自分という者が、そういった自意識にがんじがらめに縛られていたか。その事でどれ程の人を傷つけてきたのか。それこそ主イエスを十字架にはりつけにして死に追いやったのは自分であり、キリストはそういうどうしようもない自分を罪の性質から解放するために十字架の贖いを成し遂げて下さったのだ、ということを彼は身をもって知るわけです。
ここに彼の自由の原点があるのです。ヨハネ福音書に「真理はあなたがたを自由にする」との御言葉がありますが。キリストという真理と出会うとき、人は真に自由とされるのです。
そのパウロは今日の9節以降でこう言っています。
「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。知識をもっているあなたがたが偶像の神殿で食事の席についているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。」(9-11a)
すべては清い、何でも自由であり、すべてのことが許されているという信仰理解を知識として誇り高ぶる人が、偶像に献げた食物のことで迷い悩んでいる人に、「何でも清いものだから、食べてよい、すべてが許されている」と如何にも自信たっぷりに言えば、迷い悩んでいる人は、神との関係において確信がもてないまま、ただその人の声に押し流されるように肉を食べて、良心が痛んだり、クリスチャンなんていい加減なもんだと、救いから離れていってしまうかもしれない、とパウロはそのことを憂い、警告しているんですね。
その上でパウロはこう言います。
13節「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。」
今日の招詞にも読まれましたが、パウロはガラテヤの信徒への手紙5章13節でこのように言っています。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」
この今日の個所とパウロの言葉から思いますのは、主イエス・キリストによって罪と滅びとあらゆる囚われから自由とされたその恵みの大きさを知る人は、自我の欲望やむさぼりからも自由である、囚われないということです。そしてその自由とされた者の喜びは感謝、平安、隣人愛となって光を放ちます。
パウロはここで、自由に食べることはできるけれども、「だれかをそれでつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」とまで言いました。
知識よりも愛によって仕えることを選び取る自由があるということです。まさに他者を大事にするために食べることを断念する自由です。
これもガラテヤの信徒への手紙5章6節で「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と彼がいっているとおりです。
それは、彼がイエス・キリストがこの地上のご生涯でお示しになられた愛を知ったからです。
それは又、はからずも罪を犯し続けるような私たちのために、自ら私たちの身代わりとなって十字架にはりつけになってくださったその最高の愛を、キリスト者はいただいているからです。
その尊い愛によって「自由とされた私たち」です。
主イエスは言われました。「もし子(主イエス)があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」(ヨハネ8章36節)
今週のひと日ひと日も、この尊い主の愛に応えつつ、実りゆたかに歩んでまいりましょう。