宣教 ヨブ記42章1-17節
先週は台風21号の影響で雨脚の強まる中、いつものように礼拝が守られ、午後のコンサートにもお残り戴いて、恵み豊かな時が与えられました。木下先生の福音メッセージとフルートの調べと、本当に感謝でありましたが。伴奏者のお二人も本当にありがとうございました。
本日も台風22号の影響もある中、青年会主催の讃美&証の礼拝が開かれ感謝です。私も先日は台湾の台北市へ訪問させて戴いたので、その中から得た恵みをお分かちできたらと思い証だけでもと考えておりましたが、青年会長から丁寧に「宣教をお願いします」とご依頼がありましたので、宣教の準備をさせて戴きました。
今日はヨブ記42章の最終章のところから、御言葉に聞いて行きたいと思いますが。その前に、その台湾旅行での恵みを少しお分かちしたいと思います。
今回の私は初の台湾旅行の実現に際し、大阪中華長老教会のメンバーで、教会のすぐそばの堀越町にお住まいになられている台湾の王原さんとの出会いがあった。丁度大阪教会の新会堂が建ったばっかりの頃だったと記憶しています。それから4年目にしてこの台湾旅行が実現したのです。
台北では王原さんの古くからのお友だちでクリスチャンの銭さんご夫妻のゲストルームに泊めて戴き、台湾の歴史に関する学びとして、大変立派な「蒋介石記念館」、民主化を刻む「2.28平和記念館」、言論の自由を刻む「鄭南榕記念館」などを巡り、観光では、500メートル級の高さを誇る「101タワー」、観光ナンバー1スポット「九份」などを巡り、さらに飲茶、海鮮料理のグルメツアーと、本当に勿体ないくらいの歓待を受けました。最終日に大きな通り沿いには幾つも教会が建ち並んでいるのですが。その中のバプテスト教会を見学しましたが、入ってみると1000人はゆうに入る、コンサートホールのようで、その規模に驚かされました。
台湾での時を過ごす中で、私は銭姉から多くのことを教えられました。
台湾の人口が二千数百万人で、その4パーセントがクリスチャンだそうです。日本の人口は1億数千万人で、そのうちの1パーセントがクリスチャンと言われていますが。国民性や性格、慣習や文化、歴史の違いなど台湾と日本はありますが。台湾のキリスト教会の中で最も大きい教派は長老教会だそうです。カトリックは少数派だそうです。現在銭さんはキリスト教を基盤にNPO法人を立ち上げてその理事長をなさっておられます。姉妹は福音が社会や生活につながっていなければという強い信念をもっておられます。そういうお仕事の中で、教会の伝道師として、毎日信徒の方からの相談を一日中受けては、喫茶店やレストランなどの場所でお話の時をもたれています。私の滞在中も、携帯電話やラインの音がひっきりなしにかかってきては、その対応を丁寧になさっておられたのが印象的でした。そういうことを通じて、一人ひとりとイエスさまの橋渡しをなし、ご相談された方が元気になったら、今度は相談を受ける側として育っていくことを願いながら、このお働きをなさっているということでした。一人のひとが初めて教会に来られて信仰の訓練をうけてバプテスマを受け、今度次の人を育てていくリーダーに育つまでに要する時間は最低3年はかかるとおっしゃっていたのが心に残りました。
そうして一人のひとが新生し、今度は、一人が新生し育つための伴走者になっていけたら、どんなにか日本の教会も変わっていくんだろう、と思わされ帰国の途に着きました。
もう一つ、これはすごい神さまの導きと思えたことがありました。
帰りに桃園国際空港で搭乗手続きの折、私の前に並んでいた日本人らしき方に声をかけて話をしますと、現在、某医薬品メーカのお仕事を退職なさり、西宮にお住まいだということを知りました。それで、何と私が台北の2.28平和記念館に行った同じ日に、この方もそこに足を運ばれていたといわれるのです。それで私が今回台湾に来た一つの目的について、大阪教会で今度台湾の音楽劇があることと、蔡焜霖さんという台湾の方がゲストで来日されるので、それに関係する記念館や資料館に足を運んだんですよ、と話ますと。何とこの方は7年間台北市にお仕事で住んでおられたということ。さらに台湾の歴史についてご興味が在り、その翻訳のお手伝いをなさっておられ、今度音楽劇のゲストで来られる蔡焜霖さんのお兄様を知っておられ、実際に亡くなられる前にお会いされたということを伺い、これまた驚いたのです。
今回の台湾に来られたのはご友人のルポライターが台湾の歴史や民主化について今回本を書かれたそうで、その出版記念会が台中であったので、2.28平和記念館にも足を運ばれたということでした。4日土曜日の音楽劇の公演にはぜひ来たい、とおっしゃり、関空で別れました。やあ、これはすごい確率ではないのかと、ほんとうに神が引き合わせてくださった出会い、まさに「ピンポイント」の神業であったと思いましたね。
いよいよ、11月3日(金)4日(土)と台湾の音楽劇と蔡焜霖さんをゲストに迎えます。ぜひご参加いただければと願っております。
さて、今月からヨブ記を礼拝で読み始めて、先週は特別礼拝でしたので、正味今日で4回目のヨブ記になり、今日は42章の終わりの箇所となりました。
今日の箇所に至るまでヨブは、主なる神さまに自分の主義主張、正しさをひたすら「何も裁きに価するようなことはしていないのに、なぜこんな目に遭わなければいけないのか」と訴えを繰り返していたんですが。
しかしそれでは一向に状況は変わらず、益々その胸の内には苦しみあえぐほかなかったのです。ところが38章から流れが変わっていくのですね。主は遂に沈黙を破って、嵐の中からヨブに答えられ、今度はヨブが逆に主から問われていくのです。
主はヨブに「これは何者か。知識もないのに 神の経綸を暗くするとは」とおっしゃいます。この「経綸」とは、神さまの御旨による統治や支配の御計画のことです。
それをヨブは暗くしている。その主の言葉の前に自分の無知を思い知らされます。
その一方で、ヨブは主が天地万物をお造りになり、そのご経綸のもとに一切は導かれている、そのことを知らされていくのですね。
本日の42章のところで、ヨブは主にこう言います。
「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。「これは何者か。知識もないのに 神の経綸を隠そうとするとは」と口にしているとおり、ヨブは神がどのようなお方であるかをわきまえ知ったのです。
神にできない事はなく、すべてはその御心によって計画され、主はなしとげられる。
ヨブは自分がその神の御計画について何と無知であることかを、思い知らされたのです。ヨブは全能なるお方の前に白旗をあげるのですね。
「なぜ」と主に問い、神は間違っている、わたしは不当に扱われていると訴えていたヨブが、今度は主から自分の存在の根底にところまでも問われていくことになるのです。それはまさに主との格闘の祈りのときでもあったのでしょう。
大阪教会は「祈りの教会」を今年の年間標語に掲げておりますが。
私たちはそこまで主と格闘するような祈りの時をもっているでしょうか。ヨブもまっまっすぐに、率直に主に訴えていくことから、主と祈りの格闘が始まりました。
主はそのようなヨブを決して退けたりいたしません。
主に訴え、格闘するように主に相対していくヨブに、神さまは答えそのものではなく、神の経綸すなわち、神の御旨による全被造物の統治と御計画があることをお示しになるのです。
今やヨブは主について、人伝えに聞いていた知識や自分の考えに基づいた理解ではなく。生ける主のみ言葉の迫り、そうしてヨブは主の臨在をヨブは実体験するのですね。それでヨブは「今、この目であなたを見ました」と言っているんですね。
生ける神は、自分の頭だけの認識や知識、又自分の感情や思考による理解で捉えられるものではありません。
真に主と向き合い、相対するように願い、求め、祈り続ける。イエスさまは「探しなさい、そうすれば見つかる。門を叩きなさい、そうすれば開かれる。求める者は受け、探すものは見つけ、門を叩く者は開かれるからである」とおっしゃいましたが。
そうした者が真に主の御言葉による促しや御手の業とその働きを体験として与えられていくのです。それが信仰の力と恵みなのです。そうして彼は、「自分を退け、悔い改めた」とございます。この悔い改め(ヘブライ語のナハム)は、過去のことを悔やむだけの懺悔ではございません。
それは「思いを変える」。「人生の方向転換」と非常に具体的なことを指します。
ですからそれはその後のヨブの行動にも表れていくのであります。
まず、ここで大事なのは、ヨブが主と格闘し、主との関係を築き直された、ということです。そしてその主との関係性の回復はヨブだけに留まらず、3人の友人たちにも波及いたします。
主は7節以降において、「わたしの僕ヨブ」と4度に亘りそう呼んでおられますが。主は3人の友人たちよりもヨブが正しく語ったと、おっしゃっていますが。この違いはどこにあったのでしょう。
彼らはヨブに対して罪を悔い改め、懺悔するよう説得したのでありますが。しかしそれは彼らがヨブの負っている苦しみや痛みを分かってもいないのに、分かったふうな口をきき、神について何も知らないのに知った者のように神の言葉を代弁するかのごとく語った。そのことに対して主は怒られたのではないでしょうか。
彼らはヨブに「あなたは罪を認め悔い改めるべきだ」と主張しました。が、神さまから御覧になれば、むしろ彼らの方が的外れであり、高慢であったということでありましょう。
昨日、ここ大阪教会でクリスチャンの自死遺族や親しい方を亡くされた方々の集いと礼拝がもたれました。そこで御言葉から取り次ぎのメッセージをして下さったO牧師、クリスチャンホームのお母様を自死で亡くされた時、泣き崩れる自分を抱きかかえるように慰めてくれた、その牧師も自死遺族の方であったということです。O牧師はヨハネ福音書9章から、目の見えない人に向けられた「それはあなたや親の罪のせいでしょう」というような言葉によって、益々当事者は傷つき、苦しみ、痛み。傷口に塩をぬられたようにうずく。世の人は冷ややかに責め立て、冷静にこうしたらいいいと言う。しかしイエスさまだけは違っていた。それは「神の業が現れるために」と言われた。そして「わたしもあなたを罪に定めない」とおっしゃた。イエスさまは人を傷つけ、苦しめる因果応報と向き合い、闘っておられる。そこに縛りからの解放がある。それによって変えられた人は、この主の恵みの業を証する。人は自死を同じ死であっても分け隔てし、差別化する。遺族はその家族の死が差別化されることにうめき苦しむ。しかしその死はイエスさまによって捉え直すことができる。ただイエスさまだけが、恐れ苦しむ人を解放してくださった。だから自分は自死であっても、その死にも意味があると捉え直せたのです。とおっしゃっていました。
災難や苦難を因果応報的に、あなたの罪が事態を招いたというのであれば、それこそ主の経綸、御旨に従った救済の御計画をゆがめていくことになるでしょう。ヨブの物語もO牧師の証のメッセージも、そのことを私に教えてくれました。
さて、主なる神さまはこの3人の友人たちへの怒りを解くために、ヨブを祭司として立て、彼らに全焼のいけにえをささげさせます。3人が主の言われたことを実行すると、ヨブもこの3人が神の怒りから解かれ赦されるように、主に執り成し祈ったというのですね。
自分を罪におとしめようとした3人のためにヨブが主に執り成し祈ることができたのはどうしてかと普通だったら思います。しかし、それはヨブ自身がまず神との和解を得たからではないでしょうか。
神と自分との縦の関係を築き直したヨブは、その主の赦しのゆえに、和解への思いを興こされたのではないでしょうか。たとえ自分を苦しめてきた者であっても、主は滅ぶことを望んでおられない。そのような信仰の確信のゆえに、彼は3人の赦しのために主に執り成し祈れたのでありましょう。それはまさに、主との和解を得たものに与えられている恵みの賜物ではないでしょうか。
10節で「ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。兄弟姉妹、かつての知人たちがこぞって彼のもとを訪れ、食事を共にし、主の下されたすべての災いについていたわり慰め、それぞれ銀一ケシタと金の環一つを贈った」とあります。
このヨブの和解の祈りによって神は友人たちに対する怒りを解かれ、ヨブに祝福の扉を開かれました。
先にも申しましたが。あと2ヶ月あまりとなりましたが、今年の大阪教会の年間標語は週報の表に書かれいる「祈りの教会」です。
私たち一人ひとりが、今日の御言葉に背中を押されつつ、益々互いを主に執り成し、祈り合っていくように努めていきたいと願います。そこに主の豊かな祝福が賜物として伴うことを信じて、今週もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
先週は台風21号の影響で雨脚の強まる中、いつものように礼拝が守られ、午後のコンサートにもお残り戴いて、恵み豊かな時が与えられました。木下先生の福音メッセージとフルートの調べと、本当に感謝でありましたが。伴奏者のお二人も本当にありがとうございました。
本日も台風22号の影響もある中、青年会主催の讃美&証の礼拝が開かれ感謝です。私も先日は台湾の台北市へ訪問させて戴いたので、その中から得た恵みをお分かちできたらと思い証だけでもと考えておりましたが、青年会長から丁寧に「宣教をお願いします」とご依頼がありましたので、宣教の準備をさせて戴きました。
今日はヨブ記42章の最終章のところから、御言葉に聞いて行きたいと思いますが。その前に、その台湾旅行での恵みを少しお分かちしたいと思います。
今回の私は初の台湾旅行の実現に際し、大阪中華長老教会のメンバーで、教会のすぐそばの堀越町にお住まいになられている台湾の王原さんとの出会いがあった。丁度大阪教会の新会堂が建ったばっかりの頃だったと記憶しています。それから4年目にしてこの台湾旅行が実現したのです。
台北では王原さんの古くからのお友だちでクリスチャンの銭さんご夫妻のゲストルームに泊めて戴き、台湾の歴史に関する学びとして、大変立派な「蒋介石記念館」、民主化を刻む「2.28平和記念館」、言論の自由を刻む「鄭南榕記念館」などを巡り、観光では、500メートル級の高さを誇る「101タワー」、観光ナンバー1スポット「九份」などを巡り、さらに飲茶、海鮮料理のグルメツアーと、本当に勿体ないくらいの歓待を受けました。最終日に大きな通り沿いには幾つも教会が建ち並んでいるのですが。その中のバプテスト教会を見学しましたが、入ってみると1000人はゆうに入る、コンサートホールのようで、その規模に驚かされました。
台湾での時を過ごす中で、私は銭姉から多くのことを教えられました。
台湾の人口が二千数百万人で、その4パーセントがクリスチャンだそうです。日本の人口は1億数千万人で、そのうちの1パーセントがクリスチャンと言われていますが。国民性や性格、慣習や文化、歴史の違いなど台湾と日本はありますが。台湾のキリスト教会の中で最も大きい教派は長老教会だそうです。カトリックは少数派だそうです。現在銭さんはキリスト教を基盤にNPO法人を立ち上げてその理事長をなさっておられます。姉妹は福音が社会や生活につながっていなければという強い信念をもっておられます。そういうお仕事の中で、教会の伝道師として、毎日信徒の方からの相談を一日中受けては、喫茶店やレストランなどの場所でお話の時をもたれています。私の滞在中も、携帯電話やラインの音がひっきりなしにかかってきては、その対応を丁寧になさっておられたのが印象的でした。そういうことを通じて、一人ひとりとイエスさまの橋渡しをなし、ご相談された方が元気になったら、今度は相談を受ける側として育っていくことを願いながら、このお働きをなさっているということでした。一人のひとが初めて教会に来られて信仰の訓練をうけてバプテスマを受け、今度次の人を育てていくリーダーに育つまでに要する時間は最低3年はかかるとおっしゃっていたのが心に残りました。
そうして一人のひとが新生し、今度は、一人が新生し育つための伴走者になっていけたら、どんなにか日本の教会も変わっていくんだろう、と思わされ帰国の途に着きました。
もう一つ、これはすごい神さまの導きと思えたことがありました。
帰りに桃園国際空港で搭乗手続きの折、私の前に並んでいた日本人らしき方に声をかけて話をしますと、現在、某医薬品メーカのお仕事を退職なさり、西宮にお住まいだということを知りました。それで、何と私が台北の2.28平和記念館に行った同じ日に、この方もそこに足を運ばれていたといわれるのです。それで私が今回台湾に来た一つの目的について、大阪教会で今度台湾の音楽劇があることと、蔡焜霖さんという台湾の方がゲストで来日されるので、それに関係する記念館や資料館に足を運んだんですよ、と話ますと。何とこの方は7年間台北市にお仕事で住んでおられたということ。さらに台湾の歴史についてご興味が在り、その翻訳のお手伝いをなさっておられ、今度音楽劇のゲストで来られる蔡焜霖さんのお兄様を知っておられ、実際に亡くなられる前にお会いされたということを伺い、これまた驚いたのです。
今回の台湾に来られたのはご友人のルポライターが台湾の歴史や民主化について今回本を書かれたそうで、その出版記念会が台中であったので、2.28平和記念館にも足を運ばれたということでした。4日土曜日の音楽劇の公演にはぜひ来たい、とおっしゃり、関空で別れました。やあ、これはすごい確率ではないのかと、ほんとうに神が引き合わせてくださった出会い、まさに「ピンポイント」の神業であったと思いましたね。
いよいよ、11月3日(金)4日(土)と台湾の音楽劇と蔡焜霖さんをゲストに迎えます。ぜひご参加いただければと願っております。
さて、今月からヨブ記を礼拝で読み始めて、先週は特別礼拝でしたので、正味今日で4回目のヨブ記になり、今日は42章の終わりの箇所となりました。
今日の箇所に至るまでヨブは、主なる神さまに自分の主義主張、正しさをひたすら「何も裁きに価するようなことはしていないのに、なぜこんな目に遭わなければいけないのか」と訴えを繰り返していたんですが。
しかしそれでは一向に状況は変わらず、益々その胸の内には苦しみあえぐほかなかったのです。ところが38章から流れが変わっていくのですね。主は遂に沈黙を破って、嵐の中からヨブに答えられ、今度はヨブが逆に主から問われていくのです。
主はヨブに「これは何者か。知識もないのに 神の経綸を暗くするとは」とおっしゃいます。この「経綸」とは、神さまの御旨による統治や支配の御計画のことです。
それをヨブは暗くしている。その主の言葉の前に自分の無知を思い知らされます。
その一方で、ヨブは主が天地万物をお造りになり、そのご経綸のもとに一切は導かれている、そのことを知らされていくのですね。
本日の42章のところで、ヨブは主にこう言います。
「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。「これは何者か。知識もないのに 神の経綸を隠そうとするとは」と口にしているとおり、ヨブは神がどのようなお方であるかをわきまえ知ったのです。
神にできない事はなく、すべてはその御心によって計画され、主はなしとげられる。
ヨブは自分がその神の御計画について何と無知であることかを、思い知らされたのです。ヨブは全能なるお方の前に白旗をあげるのですね。
「なぜ」と主に問い、神は間違っている、わたしは不当に扱われていると訴えていたヨブが、今度は主から自分の存在の根底にところまでも問われていくことになるのです。それはまさに主との格闘の祈りのときでもあったのでしょう。
大阪教会は「祈りの教会」を今年の年間標語に掲げておりますが。
私たちはそこまで主と格闘するような祈りの時をもっているでしょうか。ヨブもまっまっすぐに、率直に主に訴えていくことから、主と祈りの格闘が始まりました。
主はそのようなヨブを決して退けたりいたしません。
主に訴え、格闘するように主に相対していくヨブに、神さまは答えそのものではなく、神の経綸すなわち、神の御旨による全被造物の統治と御計画があることをお示しになるのです。
今やヨブは主について、人伝えに聞いていた知識や自分の考えに基づいた理解ではなく。生ける主のみ言葉の迫り、そうしてヨブは主の臨在をヨブは実体験するのですね。それでヨブは「今、この目であなたを見ました」と言っているんですね。
生ける神は、自分の頭だけの認識や知識、又自分の感情や思考による理解で捉えられるものではありません。
真に主と向き合い、相対するように願い、求め、祈り続ける。イエスさまは「探しなさい、そうすれば見つかる。門を叩きなさい、そうすれば開かれる。求める者は受け、探すものは見つけ、門を叩く者は開かれるからである」とおっしゃいましたが。
そうした者が真に主の御言葉による促しや御手の業とその働きを体験として与えられていくのです。それが信仰の力と恵みなのです。そうして彼は、「自分を退け、悔い改めた」とございます。この悔い改め(ヘブライ語のナハム)は、過去のことを悔やむだけの懺悔ではございません。
それは「思いを変える」。「人生の方向転換」と非常に具体的なことを指します。
ですからそれはその後のヨブの行動にも表れていくのであります。
まず、ここで大事なのは、ヨブが主と格闘し、主との関係を築き直された、ということです。そしてその主との関係性の回復はヨブだけに留まらず、3人の友人たちにも波及いたします。
主は7節以降において、「わたしの僕ヨブ」と4度に亘りそう呼んでおられますが。主は3人の友人たちよりもヨブが正しく語ったと、おっしゃっていますが。この違いはどこにあったのでしょう。
彼らはヨブに対して罪を悔い改め、懺悔するよう説得したのでありますが。しかしそれは彼らがヨブの負っている苦しみや痛みを分かってもいないのに、分かったふうな口をきき、神について何も知らないのに知った者のように神の言葉を代弁するかのごとく語った。そのことに対して主は怒られたのではないでしょうか。
彼らはヨブに「あなたは罪を認め悔い改めるべきだ」と主張しました。が、神さまから御覧になれば、むしろ彼らの方が的外れであり、高慢であったということでありましょう。
昨日、ここ大阪教会でクリスチャンの自死遺族や親しい方を亡くされた方々の集いと礼拝がもたれました。そこで御言葉から取り次ぎのメッセージをして下さったO牧師、クリスチャンホームのお母様を自死で亡くされた時、泣き崩れる自分を抱きかかえるように慰めてくれた、その牧師も自死遺族の方であったということです。O牧師はヨハネ福音書9章から、目の見えない人に向けられた「それはあなたや親の罪のせいでしょう」というような言葉によって、益々当事者は傷つき、苦しみ、痛み。傷口に塩をぬられたようにうずく。世の人は冷ややかに責め立て、冷静にこうしたらいいいと言う。しかしイエスさまだけは違っていた。それは「神の業が現れるために」と言われた。そして「わたしもあなたを罪に定めない」とおっしゃた。イエスさまは人を傷つけ、苦しめる因果応報と向き合い、闘っておられる。そこに縛りからの解放がある。それによって変えられた人は、この主の恵みの業を証する。人は自死を同じ死であっても分け隔てし、差別化する。遺族はその家族の死が差別化されることにうめき苦しむ。しかしその死はイエスさまによって捉え直すことができる。ただイエスさまだけが、恐れ苦しむ人を解放してくださった。だから自分は自死であっても、その死にも意味があると捉え直せたのです。とおっしゃっていました。
災難や苦難を因果応報的に、あなたの罪が事態を招いたというのであれば、それこそ主の経綸、御旨に従った救済の御計画をゆがめていくことになるでしょう。ヨブの物語もO牧師の証のメッセージも、そのことを私に教えてくれました。
さて、主なる神さまはこの3人の友人たちへの怒りを解くために、ヨブを祭司として立て、彼らに全焼のいけにえをささげさせます。3人が主の言われたことを実行すると、ヨブもこの3人が神の怒りから解かれ赦されるように、主に執り成し祈ったというのですね。
自分を罪におとしめようとした3人のためにヨブが主に執り成し祈ることができたのはどうしてかと普通だったら思います。しかし、それはヨブ自身がまず神との和解を得たからではないでしょうか。
神と自分との縦の関係を築き直したヨブは、その主の赦しのゆえに、和解への思いを興こされたのではないでしょうか。たとえ自分を苦しめてきた者であっても、主は滅ぶことを望んでおられない。そのような信仰の確信のゆえに、彼は3人の赦しのために主に執り成し祈れたのでありましょう。それはまさに、主との和解を得たものに与えられている恵みの賜物ではないでしょうか。
10節で「ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。兄弟姉妹、かつての知人たちがこぞって彼のもとを訪れ、食事を共にし、主の下されたすべての災いについていたわり慰め、それぞれ銀一ケシタと金の環一つを贈った」とあります。
このヨブの和解の祈りによって神は友人たちに対する怒りを解かれ、ヨブに祝福の扉を開かれました。
先にも申しましたが。あと2ヶ月あまりとなりましたが、今年の大阪教会の年間標語は週報の表に書かれいる「祈りの教会」です。
私たち一人ひとりが、今日の御言葉に背中を押されつつ、益々互いを主に執り成し、祈り合っていくように努めていきたいと願います。そこに主の豊かな祝福が賜物として伴うことを信じて、今週もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。