日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

和解の祈り

2017-10-29 17:56:46 | メッセージ
宣教 ヨブ記42章1-17節 

先週は台風21号の影響で雨脚の強まる中、いつものように礼拝が守られ、午後のコンサートにもお残り戴いて、恵み豊かな時が与えられました。木下先生の福音メッセージとフルートの調べと、本当に感謝でありましたが。伴奏者のお二人も本当にありがとうございました。

本日も台風22号の影響もある中、青年会主催の讃美&証の礼拝が開かれ感謝です。私も先日は台湾の台北市へ訪問させて戴いたので、その中から得た恵みをお分かちできたらと思い証だけでもと考えておりましたが、青年会長から丁寧に「宣教をお願いします」とご依頼がありましたので、宣教の準備をさせて戴きました。

今日はヨブ記42章の最終章のところから、御言葉に聞いて行きたいと思いますが。その前に、その台湾旅行での恵みを少しお分かちしたいと思います。

今回の私は初の台湾旅行の実現に際し、大阪中華長老教会のメンバーで、教会のすぐそばの堀越町にお住まいになられている台湾の王原さんとの出会いがあった。丁度大阪教会の新会堂が建ったばっかりの頃だったと記憶しています。それから4年目にしてこの台湾旅行が実現したのです。
台北では王原さんの古くからのお友だちでクリスチャンの銭さんご夫妻のゲストルームに泊めて戴き、台湾の歴史に関する学びとして、大変立派な「蒋介石記念館」、民主化を刻む「2.28平和記念館」、言論の自由を刻む「鄭南榕記念館」などを巡り、観光では、500メートル級の高さを誇る「101タワー」、観光ナンバー1スポット「九份」などを巡り、さらに飲茶、海鮮料理のグルメツアーと、本当に勿体ないくらいの歓待を受けました。最終日に大きな通り沿いには幾つも教会が建ち並んでいるのですが。その中のバプテスト教会を見学しましたが、入ってみると1000人はゆうに入る、コンサートホールのようで、その規模に驚かされました。

台湾での時を過ごす中で、私は銭姉から多くのことを教えられました。
台湾の人口が二千数百万人で、その4パーセントがクリスチャンだそうです。日本の人口は1億数千万人で、そのうちの1パーセントがクリスチャンと言われていますが。国民性や性格、慣習や文化、歴史の違いなど台湾と日本はありますが。台湾のキリスト教会の中で最も大きい教派は長老教会だそうです。カトリックは少数派だそうです。現在銭さんはキリスト教を基盤にNPO法人を立ち上げてその理事長をなさっておられます。姉妹は福音が社会や生活につながっていなければという強い信念をもっておられます。そういうお仕事の中で、教会の伝道師として、毎日信徒の方からの相談を一日中受けては、喫茶店やレストランなどの場所でお話の時をもたれています。私の滞在中も、携帯電話やラインの音がひっきりなしにかかってきては、その対応を丁寧になさっておられたのが印象的でした。そういうことを通じて、一人ひとりとイエスさまの橋渡しをなし、ご相談された方が元気になったら、今度は相談を受ける側として育っていくことを願いながら、このお働きをなさっているということでした。一人のひとが初めて教会に来られて信仰の訓練をうけてバプテスマを受け、今度次の人を育てていくリーダーに育つまでに要する時間は最低3年はかかるとおっしゃっていたのが心に残りました。
そうして一人のひとが新生し、今度は、一人が新生し育つための伴走者になっていけたら、どんなにか日本の教会も変わっていくんだろう、と思わされ帰国の途に着きました。

もう一つ、これはすごい神さまの導きと思えたことがありました。
帰りに桃園国際空港で搭乗手続きの折、私の前に並んでいた日本人らしき方に声をかけて話をしますと、現在、某医薬品メーカのお仕事を退職なさり、西宮にお住まいだということを知りました。それで、何と私が台北の2.28平和記念館に行った同じ日に、この方もそこに足を運ばれていたといわれるのです。それで私が今回台湾に来た一つの目的について、大阪教会で今度台湾の音楽劇があることと、蔡焜霖さんという台湾の方がゲストで来日されるので、それに関係する記念館や資料館に足を運んだんですよ、と話ますと。何とこの方は7年間台北市にお仕事で住んでおられたということ。さらに台湾の歴史についてご興味が在り、その翻訳のお手伝いをなさっておられ、今度音楽劇のゲストで来られる蔡焜霖さんのお兄様を知っておられ、実際に亡くなられる前にお会いされたということを伺い、これまた驚いたのです。
今回の台湾に来られたのはご友人のルポライターが台湾の歴史や民主化について今回本を書かれたそうで、その出版記念会が台中であったので、2.28平和記念館にも足を運ばれたということでした。4日土曜日の音楽劇の公演にはぜひ来たい、とおっしゃり、関空で別れました。やあ、これはすごい確率ではないのかと、ほんとうに神が引き合わせてくださった出会い、まさに「ピンポイント」の神業であったと思いましたね。
いよいよ、11月3日(金)4日(土)と台湾の音楽劇と蔡焜霖さんをゲストに迎えます。ぜひご参加いただければと願っております。

さて、今月からヨブ記を礼拝で読み始めて、先週は特別礼拝でしたので、正味今日で4回目のヨブ記になり、今日は42章の終わりの箇所となりました。
今日の箇所に至るまでヨブは、主なる神さまに自分の主義主張、正しさをひたすら「何も裁きに価するようなことはしていないのに、なぜこんな目に遭わなければいけないのか」と訴えを繰り返していたんですが。
しかしそれでは一向に状況は変わらず、益々その胸の内には苦しみあえぐほかなかったのです。ところが38章から流れが変わっていくのですね。主は遂に沈黙を破って、嵐の中からヨブに答えられ、今度はヨブが逆に主から問われていくのです。

主はヨブに「これは何者か。知識もないのに 神の経綸を暗くするとは」とおっしゃいます。この「経綸」とは、神さまの御旨による統治や支配の御計画のことです。
それをヨブは暗くしている。その主の言葉の前に自分の無知を思い知らされます。
その一方で、ヨブは主が天地万物をお造りになり、そのご経綸のもとに一切は導かれている、そのことを知らされていくのですね。

本日の42章のところで、ヨブは主にこう言います。
「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。「これは何者か。知識もないのに 神の経綸を隠そうとするとは」と口にしているとおり、ヨブは神がどのようなお方であるかをわきまえ知ったのです。
神にできない事はなく、すべてはその御心によって計画され、主はなしとげられる。
ヨブは自分がその神の御計画について何と無知であることかを、思い知らされたのです。ヨブは全能なるお方の前に白旗をあげるのですね。

「なぜ」と主に問い、神は間違っている、わたしは不当に扱われていると訴えていたヨブが、今度は主から自分の存在の根底にところまでも問われていくことになるのです。それはまさに主との格闘の祈りのときでもあったのでしょう。

大阪教会は「祈りの教会」を今年の年間標語に掲げておりますが。
私たちはそこまで主と格闘するような祈りの時をもっているでしょうか。ヨブもまっまっすぐに、率直に主に訴えていくことから、主と祈りの格闘が始まりました。
主はそのようなヨブを決して退けたりいたしません。
主に訴え、格闘するように主に相対していくヨブに、神さまは答えそのものではなく、神の経綸すなわち、神の御旨による全被造物の統治と御計画があることをお示しになるのです。

今やヨブは主について、人伝えに聞いていた知識や自分の考えに基づいた理解ではなく。生ける主のみ言葉の迫り、そうしてヨブは主の臨在をヨブは実体験するのですね。それでヨブは「今、この目であなたを見ました」と言っているんですね。

生ける神は、自分の頭だけの認識や知識、又自分の感情や思考による理解で捉えられるものではありません。
真に主と向き合い、相対するように願い、求め、祈り続ける。イエスさまは「探しなさい、そうすれば見つかる。門を叩きなさい、そうすれば開かれる。求める者は受け、探すものは見つけ、門を叩く者は開かれるからである」とおっしゃいましたが。
そうした者が真に主の御言葉による促しや御手の業とその働きを体験として与えられていくのです。それが信仰の力と恵みなのです。そうして彼は、「自分を退け、悔い改めた」とございます。この悔い改め(ヘブライ語のナハム)は、過去のことを悔やむだけの懺悔ではございません。
それは「思いを変える」。「人生の方向転換」と非常に具体的なことを指します。
ですからそれはその後のヨブの行動にも表れていくのであります。

まず、ここで大事なのは、ヨブが主と格闘し、主との関係を築き直された、ということです。そしてその主との関係性の回復はヨブだけに留まらず、3人の友人たちにも波及いたします。
主は7節以降において、「わたしの僕ヨブ」と4度に亘りそう呼んでおられますが。主は3人の友人たちよりもヨブが正しく語ったと、おっしゃっていますが。この違いはどこにあったのでしょう。
彼らはヨブに対して罪を悔い改め、懺悔するよう説得したのでありますが。しかしそれは彼らがヨブの負っている苦しみや痛みを分かってもいないのに、分かったふうな口をきき、神について何も知らないのに知った者のように神の言葉を代弁するかのごとく語った。そのことに対して主は怒られたのではないでしょうか。

彼らはヨブに「あなたは罪を認め悔い改めるべきだ」と主張しました。が、神さまから御覧になれば、むしろ彼らの方が的外れであり、高慢であったということでありましょう。

昨日、ここ大阪教会でクリスチャンの自死遺族や親しい方を亡くされた方々の集いと礼拝がもたれました。そこで御言葉から取り次ぎのメッセージをして下さったO牧師、クリスチャンホームのお母様を自死で亡くされた時、泣き崩れる自分を抱きかかえるように慰めてくれた、その牧師も自死遺族の方であったということです。O牧師はヨハネ福音書9章から、目の見えない人に向けられた「それはあなたや親の罪のせいでしょう」というような言葉によって、益々当事者は傷つき、苦しみ、痛み。傷口に塩をぬられたようにうずく。世の人は冷ややかに責め立て、冷静にこうしたらいいいと言う。しかしイエスさまだけは違っていた。それは「神の業が現れるために」と言われた。そして「わたしもあなたを罪に定めない」とおっしゃた。イエスさまは人を傷つけ、苦しめる因果応報と向き合い、闘っておられる。そこに縛りからの解放がある。それによって変えられた人は、この主の恵みの業を証する。人は自死を同じ死であっても分け隔てし、差別化する。遺族はその家族の死が差別化されることにうめき苦しむ。しかしその死はイエスさまによって捉え直すことができる。ただイエスさまだけが、恐れ苦しむ人を解放してくださった。だから自分は自死であっても、その死にも意味があると捉え直せたのです。とおっしゃっていました。
災難や苦難を因果応報的に、あなたの罪が事態を招いたというのであれば、それこそ主の経綸、御旨に従った救済の御計画をゆがめていくことになるでしょう。ヨブの物語もO牧師の証のメッセージも、そのことを私に教えてくれました。

さて、主なる神さまはこの3人の友人たちへの怒りを解くために、ヨブを祭司として立て、彼らに全焼のいけにえをささげさせます。3人が主の言われたことを実行すると、ヨブもこの3人が神の怒りから解かれ赦されるように、主に執り成し祈ったというのですね。

自分を罪におとしめようとした3人のためにヨブが主に執り成し祈ることができたのはどうしてかと普通だったら思います。しかし、それはヨブ自身がまず神との和解を得たからではないでしょうか。
神と自分との縦の関係を築き直したヨブは、その主の赦しのゆえに、和解への思いを興こされたのではないでしょうか。たとえ自分を苦しめてきた者であっても、主は滅ぶことを望んでおられない。そのような信仰の確信のゆえに、彼は3人の赦しのために主に執り成し祈れたのでありましょう。それはまさに、主との和解を得たものに与えられている恵みの賜物ではないでしょうか。
10節で「ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。兄弟姉妹、かつての知人たちがこぞって彼のもとを訪れ、食事を共にし、主の下されたすべての災いについていたわり慰め、それぞれ銀一ケシタと金の環一つを贈った」とあります。
このヨブの和解の祈りによって神は友人たちに対する怒りを解かれ、ヨブに祝福の扉を開かれました。

先にも申しましたが。あと2ヶ月あまりとなりましたが、今年の大阪教会の年間標語は週報の表に書かれいる「祈りの教会」です。
私たち一人ひとりが、今日の御言葉に背中を押されつつ、益々互いを主に執り成し、祈り合っていくように努めていきたいと願います。そこに主の豊かな祝福が賜物として伴うことを信じて、今週もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。


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ナインの会@大阪 ご案内

2017-10-24 11:46:02 | お知らせ
  
第9回クリスチャン自死遺族の分ち合い

ナインの会@大阪~聖書の教えを共にしながら、亡き人への想いを語り合います。

「ナイン」はルカ福音書7章で、イエスさまが、ひとり息子を亡くした
 ナインの町のやもめを慰められた故事に由来します。
 ナインの会の分ち合いは、年に3回、東京、愛知、大阪で開かれています。



【主催】ナインの会

【対象】クリスチャンの自死遺族、または自死で親しい方を亡くした方。

【申込み】ご参加希望者は下記のナインの会事務局へお申込みください。

【参加費】 無料(自由献金あり)

【開催日程】 2017年10月28日(土)午前11時~午後4時

【会場】  会場:日本バプテスト大阪教会 大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1-17 
 大阪市営鉄道、JR天王寺駅下車、谷町筋を北(四天王寺・一心寺方面)へ徒歩6分。


(進行)

Ⅰ部:自死遺族の分ち合い 午前11時~午後1時
   (昼食休憩・フリータイム 午後1時~2時)*昼食は各自持参他

Ⅱ部:追悼礼拝 午後2時~3時
   説教者:大浜 英樹さん(ナインの会世話人、那覇バプテスト教会牧師)
   なお、追悼礼拝は自死遺族以外の方も参加できます。*自由献金あり。

   フリータイム、自由な語らいの時間:午後3時~4時



☆お申込み、問い合わせ先/ナインの会事務局 http://ninecom.amsstudio.jp/infomation.html

メール:maejima.tsuneo@gmail.com 電話:090-1179-1224(大浜)



































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台湾音楽劇&トークライブ&歌

2017-10-23 11:15:54 | イベント
七十一日的台湾白百合 〜明けぬ夜に咲く白い花〜

第一章:音楽劇「七十一日的台湾白百合」

第二章:トークライブ ゲスト:蔡焜霖(サイコンリン)
 日本人が選ぶ海外旅行先で上位にランキングする台湾の明るく陽気な瞳の奥に深く潜む語られなかった想い…。台湾の民主化への歴史を紐解く、桜人企画初のミステリー。

2017年11月3日(金)14:00 / 17:30
2017年11月3日(金)14:00 / 17:30
11月4日(土)11:00 / 14:30
(親子観覧日 11月3日(金)11:00)
     *未就学児のお子様をお連れして観覧できます。そのため、静かな観覧ができないことがある旨
     ご了承ください。なお、公開リハーサルとしての扱いとなるため、トークライブはございません。
主催:桜人企画(さくらきかく)
協賛:匠工房
後援:鄭南榕基金会・記念会 
 
 
チケット:
    前売 2,000 円 / 当日 2,500 円(学生500円引・小学生無料)
    *親子観覧日のみ、親子で500円
    *バプテスト大阪教会にチケットございます
 
ご予約について:
    ①ご予約フォームに必要事項をご入力ください。
     http://my.formman.com/t/A6D2/
    ②桜人企画へのEメールもしくは電話でも予約可能です。
     info@sakura-presents.com
               080-5763-3900  
  
会場:
    日本バプテスト大阪教会 ( 大阪市天王寺区茶臼山町 1-17)
    天王寺駅 ( 天王寺駅あべちか6番出口 ) より徒歩 7 分 


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特別集会のご案内

2017-10-20 12:59:22 | イベント
あなたに伝えたいフルート&ピアノが奏でる安らぎのしらべ


日時:10月22日(日) 講師:木下春樹先生  会場:日本バプテスト大阪教会


Ⅰ部:朝の特別礼拝 

 お話「宝をもつ喜び」 10:30- *席上自由献金がございます。

「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」聖書 コリント二4章7節

フルート演奏 エルガ・愛のあいさつ バッハ・シシリアーノ



Ⅱ部:昼下がりのコンサート  開場13:30 開演:14:00 *入場は無料ですが、被災地支援のための自由献金はございます。

 フォーレ・シシリアーノ、山田耕筰・この道、岡野貞一・故郷、ロプレス・コンドルは飛んで行く、グリンスリーブス etc


 【木下春樹先生のプロフィール】
 
 国立音楽大学フルート科卒。網干キリスト教会牧師。中学生から吹奏楽で音楽に親しみ、音大でも合唱団やN響に参加。
 神学校では教会音楽を岳藤豪希カントルより学ぶ。受難曲やカンタータの合唱、オーケストラ担当。 
 現在、フルート&リコーダー演奏者として活躍。音楽教室を開いている。
 又、児童養護施設「ファミリーホーム木下」施設長を務め、児童福祉部門兵庫県知事表彰を受ける。
 
 
 関心のある方はどなたでもいらしてください。
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全能者の息吹によって

2017-10-15 12:52:38 | メッセージ
礼拝宣教 ヨブ32章~33章

先週は19章からヨブの嘆きと祈りの言葉に聞いてきました。その後も3人の友人たちはたたみかけるように因果応報律による論法、つまり「あなたが何か悪いことをしたから、こういう事が起こってきたんじゃないか?」と、ヨブの罪責を問い詰めます。
それに対してヨブも必死で彼らに自分の正当性を主張していくのであります。
殊に29章においてヨブは、神に対して、かつての神に守られた「繁栄の日々」を返してくれ、と訴え嘆くのですが。けれど、そこを読んで浮き彫りになってくるのは、ヨブが「何をもって自分を正しいとしているのか」ということです。

29章11節から読んでみましょう。
「わたしのことを聞いた耳は皆、祝福し、わたしを見た目は皆、称讃してくれた。わたしが身寄りのない子らを助け、助けを求める貧しい人々を守ったからだ。わたしは正義を衣としてまとい、公平はわたしの上着、また冠となった。わたしは見えない人の目となり、歩けない人の足となった。貧しい人々の父となり、わたしにかかわりのない訴訟にも尽力した。不正を行なう者の牙を砕き、その歯にかかった人々を奪い返した」。
ヨブはこのように述べ、自分の正しさを証明しようとするのです。
こんな風に自分は正しい人として生きてきた。人に対しても何も憎まれ恨みをかわれるようなことは一切していない。人も自分を祝福し称讃してくれた。
それにもかかわらず、なぜこのような災難に自分や家族が遭わなければならないのかと、ヨブは切々と神に訴え嘆きます。
このような、ヨブの自らの正しさを主張する言葉は延々と続きますが。それは31章の終わりに「遂にヨブは語り尽くした」とあるように、ヨブの胸中にあった思いを、その隠れていた部分まで言葉に出す、取り出すことをしたんですね。

これは私たちが「神さまなぜですか?」というような状況に陥ったときの、ある意味大切な作業なのかとも思えます。感情や思いにフタをして、ただぐっと忍耐し、やり過ごそうとしても、人はそんなに強くはできません。どこかで違った方でそれが噴き出してくるかも知れません。そんなときに気持ちを出し尽くすまで書き留めてみたり、信頼のおける友に聞いてもらうのもよいことかも知れません。しかし、まあここまでヨブが自分の無罪性、正当性を主張し続けたため、3人の友人らはこれ以上、ヨブと議論して、説得しても無理だとあきらめたのか。ヨブと友人らの間は膠着状態に陥った、もう行き詰まってしまたんですね。
そのように人はそれがどんなに立派なことを言う人であっても、すべてを理解してもらえるような存在ではないということでしょう。

さて、そうして本日の32章に、エリフという人が突然登場するのであります。
彼は神と人の間に立つような、いわば「橋渡し」となるような不思議な存在感をもった人物でありますが。そんな彼はヨブとその3人が議論し合っていたのをずっと見聞きしていたようであります。彼は3人のヨブの友だちの知り合いなのでしょうか。彼がヨブの友人であったかどうかは何も書かれていないのでわかりません。
このエリフはこれまでのヨブと3人の年長者たちの議論を見聞きしながらずっと黙っていたようですが、遂に堪忍袋の緒が切れたのか?いやそうではなく8節以降にあるように、自分の腹の内で霊が駆り立て、その腹は、新しいぶどう酒の酸味の強さで、それを入れた革の袋が張り裂けんばかりのような状態になったので、ヨブと3人の年長者に対して怒りをあらわに語り出した、ということであります。いわば聖霊が強く働かれて口を開かないわけにはいかなくなった、ということでありましょう。

「エリフがヨブに語ったこと」
エリフはヨブが、「自分が正しい」と確信し、「神よりも自分の方が正しいと主張した」。それを怒ります。又、ヨブの3人の友人に対しても怒るのでありますが。それは単なる怒りというより、義憤;神の前における正しさがそこには無いじゃないかという激しい憤りだったのです。
33章8節以降でエリフはヨブが『わたしは潔白で、罪を犯していない。わたしは清く、とがめられる理由はない。それでも神はわたしに対する不満を見いだし、わたしを敵視される。わたしに足枷をはめ、行く道を見張っておられる』と言った言葉に対して、その12節でヨブはこう言うのです。
「ここにあなたの過ちがある」と。「ヨブが神より自分の方が正しい」と自分を正当化してあたかも神さまが間違っていると神と争おうとするかもように語った、そのことにエリフは怒ったのです。

ヨブは自分が一般的な意味で間違ったことをしてない点については、信念をもっていたのでしょう。そういう自分の力で義を、正しさを立てて来た、というところに彼はどこか神の愛と憐れみを無益にするようなおごりがあったのかも知れません。
そして彼は「正しい生き方をしている自分に災難や苦難が起こるのはおかしい」、神は間違っていると、神に恨み節を吐くほかなかったんですね。
自分はこれこれの正しい事をしてきたのだから、又自分はこれだけ善行を積み、人々に仕え助けてきたのだから、それに見合った見返りと祝福をもらえて当然。この「そうなって当然」という考えも又、因果応報と同じですね。それは物事が順風満帆に進んでいるときは表に出ませんが。何か苦難や災難に遭えば、そういう思いが噴き出すかのよに
あらわになっていく。それが正しい生き方をしてきたヨブでさえそうであったわけですから、私たちも決して「自分は大丈夫」なんて言えませんね。
「自分はこんなに礼拝を大事にし、奉仕も心がけてきたのに」となりますと、このときのヨブのように、自己正当化して神の愛と憐れみではなく、自分の義に生きようとするかも知れません。そうなるともはや十字架の救いの恵みはいらないと言っているのと同じことです。ともあれエリフは、「神よりも自分が正しいと主張する」人間の傲慢さをここで暴いているのです。

イエスさまは福音書の中で、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とおっしゃいました。人の正しさと神の正しさ、どこに私たちは救いを見出していくのか、深く考えさせられます。

「エリフが3人の年長者に語ったこと」
さて、エリフはヨブだけでなく、3人の年長者に対しても怒りを露わに非難しました。その理由は、彼らが因果応報律でヨブを説得しても、一向にヨブが悔い改めることなく、手をこまねいてしまい、膠着状態になっていたことにいらだちを感じていたからです。
エリフがこれまでヨブに話しかけるのを控えていた理由について、「3人が皆、年長者だったので」と書かれていますが。エリフ自身6節で「わたしは若くあなたたちは年をとっておられる。だからわたしは遠慮し、わたしの意見をあえて言わなかった。日数がものを言い、年数が知恵を授けると思っていた」と言っているとおりです。彼は、若者は心が高ぶりやすいこと。忍耐して待つのもできないこと。自分をより多く示したいということを、重々自覚していました。そこで様々な思いをもちながらもあえて年長者3人の議論を聞き続けていたのです。
けれど、遂に焜着状態になってそれが中断すると、エリフは「人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。日を重ねれば賢くなるというのではなく、老人になればふさわしい分別ができるものではない」(8-9節)と口火を切って語り出すのです。
ここで、エリフが主張したことは、神がお造りになった人間、誰の中にも「霊」がある。
人間は霊的存在なんだ、ということです。その霊的存在の私たちに悟りを与えるのは年月や学問や知識ではなく、それらを遙かに超越される「全能者の息吹」だということであります。単に年長だということが、必ずしも真理に近い訳ではないのです。
私たちは時に唯泣いたり笑ったりしている赤ちゃんの中に神の英知を感じる時がないでしょうか。又よく子どもがいう何気ない一言が真理を突くような鋭いことばだったりするということがあると思うんですね。大切なのは、すべての人間の中におられる神の霊の、そのようなお働きを認めることです。たとえ自分が年若くても、又どんなに小さい存在であるように思われたとしても、神の霊が自分の中にあるのだということ。それは又他者も同様に全能者の息吹に生かされていることを知らされる時、人を高ぶらせる世の知恵、知識を超えた神の英知、神の摂理を認めて生きることができるのではないかということを、エリフは訴えているのです。

聖書は、私たち人間は皆、創造の初めの過程にあるように、「神の息吹」によって造られた霊的存在だと語ります。それは年長者とか若年者とかの年齢、又性別、身分や地位などとは一切関係なく、全能者の息吹によって真理と神の摂理を悟って生きる霊的存在として造られているということです。
人間が持っている知恵や能力には限界がございます。それは時と状況によって移り変わるような不確定なものなのです。だからこそ、私たちは日々「神の御言葉の前に謙虚に学んでいく」必要がございます。日常の生活において、その真価が問われることが起こって来た時、このエリフのように全能者の息吹によって立ち得る者とされたいと切に願うものです。

さて、エリフはヨブと話す前に、まず年長者の3人がヨブに語ったことをよく聞いてから、ヨブと年長者たちに語り出しました。そういう中で彼が13節で3人の年長者たちに向けて次のように語っている言葉は印象的です。
「いい知恵がある。彼を負かすのは神であって人ではないと言おう」などと考えるべきではない。ヨブがわたしに対して議論したのではないが、わたしはあなたたちのような論法で答えようとは思わない。」

ここには2つのことが語られているように思えますが。
その1つ目は「あとは神が彼を諭されるから、もう自分は黙っておこう」などと考えるべきでない。ちゃんと議論することを放棄すべきではないと言っているんです。
日本人は、とかく議論するより、自分が我慢すれば場が収まるからとか、相手を不快にさせてはと遠慮をし、余計な争いになっては面倒などと、顔と顔とを合わせての意見を言って議論を避ける傾向が強いんではないでしょうか。
確かに人の話に耳を傾けるのは大変なことでもあるでしょう。又、口を開き自分の意見を語るというのは勇気も気力もいります。けれども語るべき時に語らないことは、決して謙虚とはいえないのです。語らなければならないときに、率直に語るのは神の前に誠実な態度であることをエリフはここで伝えているのですね。しかしそれは、自分の主義主張を相手に押し付けることとは違います。

そしてさらにエリフは2つ目のこととして、「わたしはあなたたちの論法で答えようとは思わない」と言っています。
それは、3人の友人が語った因果応報というような世の知恵や知識によるものでない、「神の知恵」。エリフはこの「全能者の息吹によって与えられる知恵」によって語ったのです。

最後にそのエリフの言葉をご一緒に読んで、本日の宣教を閉じたいと思います。
33章23節「千人に一人でもこの人のために執り成し その正しさを示すために 遣わされる御使いがあり 彼を憐れんで『この人を免除し、滅亡に落とさないでください。代償を見つけて来ました』といってくれるなら 彼の肉は新しくされ 若者よりも健やかになり 再び若いときのようになるであろう。彼は神に祈って受け入れられ 歓びの叫びの内に御顔を仰ぎ 再び神はこの人を正しい人と認められるであろう。彼は人々の前でたたえて歌うであろう。『わたしは罪を犯し 正しいことを曲げた。それはわたしのなすべきことではなかった。しかし神はわたしの魂を滅亡から救い出された。わたしは命を得て光を仰ぐ』と。まことに神はこのようになさる。人間のために、二度でも三度でも。その魂を滅亡から呼び戻し 命の光に輝かせてくださる。」

アーメンです。「全能者の息吹によって」与えられる神の知恵。それは私どもにとりまして神の救いイエス・キリスト。私たちの罪の贖いの代償となってくださったこのお方である。そう信じるものであります。

私たちも日々、御言葉の養いを得ながら、蓄えつつ、試練の折が来た折には神の霊とその息吹によって、救いの御言葉が命の光として輝かせてくださる。その望みをもって歩んでまいりたいと願います。
今週も主の先立ちのもと、ここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
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正しい者がなぜ?

2017-10-08 16:25:09 | メッセージ
礼拝宣教 ヨブ記19章 

今月は、来週が「SOUND CLOSERVOL.10」コンサート、再来週が木下春樹先生(網干キリスト教会牧師・国立音大卒フルート演奏者、児童養護施設長)をお迎えしての特別礼拝&昼下がりのコンサート、第五週が賛美&あかしの礼拝(青年主催)と行事が盛り沢山です。祈りつつ、主に期待しております。

さて、本日はヨブ記19章より「正しい者がなぜ?」と題し、御言葉に聞いていきます。
それまでの流れを少しおさらいしますと。最愛の息子娘と財産を失うという苦難に見舞われたヨブでしたが。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と神を賛美します。
ところが2章ではさらなる試練に遭い、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病に罹り、素焼きのかけらで体中をかきむしって自分自身の体に大変な苦痛を受けるのであります。
そういう中でヨブは妻から「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」といわれるのですが、それでもヨブは「わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言って「神を非難せず、罪を犯さなかった」と記されています。
主がサタンに「ヨブは無垢で正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」とおっしゃったことがここでもまた証明されることになるのでありますが。

さて一方で、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞いて見舞い、慰めようとそれぞれの国からやって来た3人の友は、ヨブの激しい苦痛を見ると、嘆きの声をあげ、塵をかぶって七日七晩、ヨブと共に地面に座って、話しかけることもできなかったのですが。
しかしヨブは、どんな言葉よりも唯黙って側に居て、自分の痛みを思いやってくれる友の存在にどんなに慰めを得ていたことでしょうか。

「神になり代わる友」
ところが、そのヨブも苦痛が長引くと、遂に口を開いて「自分の生れた日を呪い」、神のみ前に自分のうちにあるあらゆる思いをさらけ出します。

するとそれまで、ただ激しい苦痛に見まわれるヨブの傍らに無言で座っていたエリファズ、ビルダド、ツォファルの3人の友らは、まるで何かのスイッチが入ったかのように、ヨブに対して議論を吹きかけ始めるのです。
それはあたかも自分たちが神に成り代わったかのような口調でした。少なくともヨブにはそう聞こえたのです。口では立派なことをいいながらヨブを断罪し、責め立てるように彼らは熱弁をふるいました。
たとえば、「神の懲らしめを受ける人は幸いだ」とか。「あなたの子らが神に対して過ちを犯したから、そういう事態になったのだ」とか。さらには「あなたが悔い改め不正を正していくなら、もう晴れ晴れと顔を上げ恐怖にとらわれないで平安になるだろう」とか。一見信仰的に聞こえるこれらの言葉ですが、しかしそれがヨブの魂を苦しめ、痛みを与えていくことになるのです。
本日の19章は、友人ビルダドが投げかけた議論にヨブが答えているのですが。
まずヨブは、3人の友らがその言葉をもって、自分の魂を苦しめ、侮辱し虐げていることを訴えます。
この3人の友が共通して主張しているのは、「ヨブの災難はヨブに原因があり、ヨブが犯した罪がその罰として及んでいる」と言うものでした。

それに対してヨブは、「断じて罪を犯していない」「苦痛に価するようなことはしていない」と友らに反論していくのでありますが。
ここで彼は100歩譲って、いやそれ以上に譲ってこう言うのです。
「わたしが過ちを犯したのが事実だとしても、その過ちはわたし個人にとどまるのみだ。ところが、あなたたちは、わたしの受けている辱めを誇張して論難しようとする」と。
つまりヨブの過ちはヨブの問題であり、友人たちは口出しをしたり、ヨブを非難し、断罪する権利はない、ということですね。

このヨブの場合はっきりしていることは、神がヨブを悪人と呼ばれたことは一度もないということです。ヨブに咎や恥ずべき行いはありません。それどころか、ヨブは「正しい人として生きている」と主はおっしゃっているんですね。
神がそうであられるのに人である3人の友らは、ヨブが正しい人として生きているならこのような災いがふりかかることなどない。きっと彼に問題の種があるから起こっているに違いないというんです。まあ言ってみれば、因果応報律によって災難の原因を探し出し、ヨブを責めているのですね。

因果応報とは、「人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある」ということです。
確かにそういったことはあるでしょうが。しかし、それは神の領域です。人がそれを解釈しあてはめようとするなら矛盾が起こるでしょう。
ヨブのように「正しい者になぜ災いがふりかかるのか」ということについてのそれは回答になり得ないからです。
私たちの現実の世界においても、無垢で正しい者に災難や災いがふりかかるようなことがあります。そのことをたとえ身近な人であれ、因果応報によって説明づけようとすればどうなるでしょうか。それはその災いや災難を被っている人の心を苛み、苦しめ、深い傷と禍根を残していくことになるでしょう。
ヨブがここで言っているのは、たとえ自分に過ちが(それが無意識のうちにも)あったとしても、その問題は自分の問題であり、友たちが因果応報による説明でもって「おまえのうちに罪があるからこうなったんだ。悔い改めろ」と言われる筋合いのものではないということなのです。

こういう事は私たちの人間関係の中にも実際に起こり得ることではないでしょうか。
その人自身の問題、当事者同士の問題であるのに、他者が思いやりや配慮の欠いた介入をしてしまうことによって、心痛み、その問題がかえってこじれて人間関係が崩れてしまうことがございます。
ヨブの場合、信仰の友でもあった3人の友らの言葉は、ヨブの心にさらに深い苦痛を与えるものだけであったのです。

「傾聴」
では、苦難の状況下にあったヨブが必要としていたことは何だったのでしょう。
それは、今日のこのやりとりの後の21章冒頭のところで、3人の友らに向けてヨブがこう答えているんですね。
「どうか、わたしの言葉を聞いてくれ。聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。我慢して、わたしに話させてくれ。わたしが話してから、嘲笑うがいい」と。
ここには、私たちの日常における人と人との関係における問題について示唆に富むことが記されています。
ヨブにとって何よりも必要だったのは、自分の思いを聞いてくれる友だったんですね。ただ側にいて聞いてくれることがどんなにヨブにとって慰めと平安となったかということです。
たとえばヨブのようにどん底に落ち込んでしまった友人や知人を前にすると、何か慰めになるような言葉を見つけて語らないと、という思いに駆られるようなことはないでしょうか。けれどそれが、祈りもなく、唯口先だけのものになってしまうのなら虚しいだけです。さらにそこに思いやりに欠いた強い自己主張が入ったなら、その相手をさらに傷つけてしまうことも十分あり得るのです。
たとえば、もうこれ以上頑張りようのないほど頑張っている人に対して、「頑張れ」ということばは酷ですよね。ヨブが「どうか、わたしの言葉を聞いてくれ、聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。我慢して、わたしに話をさせてくれ」と言った言葉を心に留めたいと思います。まずはじっくりと話を聞くことの大切さ。また聞いてくれる友をもつことの慰め。そういった関係性を対話の中に祈り求めたいものです。

「ヨブの孤独」
さて、そのヨブ自身のことですが。彼がもし何か悪事を行なっていたのなら、自らを責め、神の前に悔い改めたことでしょう。しかし彼は日々神を畏れ、敬い、罪から遠ざかって歩んでいた。何ら心責められられることは思い当たりません。次々と凄まじい災難がふりかかって来ることに対して、ヨブは当然「正しい者がなぜ?」という問いと深い嘆きに苦悩し続けるほかなかったのです。

本日の6節から22節には、その思いを直接神御自身にぶつけていくヨブの姿があります。「神がわたしに対して非道な振舞をしている」「怒りを燃やし、苦しめ、敵とされている」「神が兄弟を遠ざけ、知人を引き離した、親族もわたしを見捨て、友だちもわたしを忘れた」「わたしの家に身を寄せている男や女すらわたしをよそ者とし、敵視する」「妻に嫌われ、子供にも憎まれ、幼子もわたしを拒み、親友のすべてに忌み嫌われ、愛していた人々にも背かれてしまった」などと、切々と神への訴えと嘆きが続くのであります。

ここを読みますと、地上におけるありとあらゆる関係性が断ち切られしまったことへの嘆き。さらに22節にあるように、友である3人に「なぜ、あなたたちまで神と一緒になってわたしを追い詰めるのか」と訴えているように、ヨブの深い孤独の極みともいえる心情が語られいます。
彼は自分の正しさ、無罪の主張を弁護し、助けてくれる存在がいないという絶望に陥るのですね。

「主に祈れる望み」
そういう中、彼は23節で無罪について確信に基づき、「どうかわたしの言葉が書留められるように、それがいつまでも残る碑文として刻まれるように」と神に祈るように訴えるのであります。
25節「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついに塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。」

ヨブは後の日には、それは彼の生きている間か、その生涯を終えた後なのかはわかりませんが。必ずや、きっと、「贖う方」が自分の「正しさ」「無罪」を立証してくださるであろう、という望みを堅く握っていたということを、この訴えは示しています。
さらに言えば、「贖う方」つまり、たとえヨブに非があったとしても最終的には、すべてを受けて解放をもたらして下さるであろう主に、ヨブは望みをかけていたんですね。「神はすべてをご存じである」。これこそがヨブの唯一つの、しかし確かな希望であったのです。
まさにそれはヘブライ人への手紙11章1節の「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」との御言葉そのもののような信仰の祈りであったといえるでしょう。
ヨブは自分の痛み、苦しさを神にぶつけながらも、「神を仰ぎ見る」「神を自分の目で見る」と、3度も繰り返して口にしてそのように祈るんですね。
その祈りに対する神からのお答えについては、今月の第五週42章の御言葉から聴いていくことになるのでありますが。

本日は「正しい者がなぜ?」という宣教題のもと御言葉を聞いてきましたが。その正しい者がなぜ災いに遭うのか?という問いに対して聖書は即答していません。
ただこの19章から読み取れますのは、最悪ともいえるような状況に至ってもなおヨブに「わたしは神を仰ぎ見る」と、祈る希望が残されていた、ということであります。
翻って、私たちも日々の生活の中で「なぜ?」と思うような、まあヨブに比べれば小さななぜ、なぜ、なぜが、又人生、時には大きな「なぜ」という出来事があるかも知れません。
そんな時、このヨブが主なる神に全身全霊をかけて訴え、祈った祈りが自分の祈りとなり、神への信頼が生きる力となりますようにと願うものです。

神の御子イエスさま御自身が、十字架上で「なぜ」と絶叫しながら執り成し、贖ってくださったその救いの御業に信頼し、今日もここから遣わされてまいりましょう。

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夕べの礼拝(主の食卓を囲む)ご案内

2017-10-04 16:55:18 | 教会案内
10月8日(日)午後6時ー7時半  


これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865
メール obcs@nifty.com
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襲いかかる苦難の時に

2017-10-01 14:44:42 | メッセージ
礼拝宣教 ヨブ記2章

10月に入りました。15日の「SOUND CLOSER VOL.10」ゴスペルコンサート、22日には網干キリスト教会の木下牧師を迎えての特別集会と音楽集会が予定されております。はじめて福音を耳にする方、改めて神の愛にふれる方がおこされますようにと願、祈っております。

礼拝では今月はヨブ記から御言葉を聞いていきます。このヨブ記が記されたのはいつ頃かはっきりとしたことは分かっていませんが、おおまかに紀元前6世紀~3世紀の間であることは確かなようです。それは、ユダの崩壊とバビロニアの捕囚の時代でありますが。このヨブ記は、そういった苦難の道を経てきたユダヤの人々の歴史と重なっていると解して読むことができます。

今日はそのヨブ記の2章から御言葉を聞いていきますが。
まず、主人公ヨブの人となりがその1章に紹介されておりまして。彼は無垢な正しい人。そして神を畏れて悪を避けて生きていた、とあります。
妻と7人の息子、3人の娘を持って家族にも恵まれ、さらに羊7千匹、らくだ3千頭、牛5百くびき、雌ろば5百頭の財産もあり、使用人も多く、東の国一番の富豪であったということで。まあ、誰が見てもヨブは神から祝福された人だと思われる生活を送っていたわけです。しかしヨブは決してその幸せに溺れず、あぐらをかくことがなかった。そこに彼の正しさがあった、ということです。

たとえば、ヨブは7人の息子たちがそれぞれ順番に、自分の家で宴会を開き、三人の姉妹たちも招いて食事を催すのですが、その宴会が一巡りする毎に、息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた、とあります。
それは「愛する子どもたちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と心配した。だから主に罪の赦しを執り成し祈るためにそうしたというのです。そこに、ヨブが如何に神を畏れ、悪を避けて生きていたかということを伺い知ることができます。
主はそのようなヨブを「わたしの僕ヨブ」「無垢な正しい人」「神を畏れ、悪を避けて生きている」と、お認になられるのであります。まさに非の打ち所のないような人、それがこのヨブという人物であったということです。

ところが、そこにヨブの主への信仰、信頼関係を妬み、快く思わなかったサタンが登場します。サタンは「ヨブに苦しみや災いが襲うなら、必ず主を呪い主に背を向けることになる、と主に論争をしかけるのです。
サタンは「ヨブが利益も無いのに神を敬うでしょうか」と言って、彼の信仰、信頼は、家族や財産すべてに恵まれるという利益のうえに成り立ち、支えられている。それらの利益が失われるようなことになれば、いくら無垢で正しいヨブであっても神を恨み、呪うようになるに違いないと主張します。
所詮人は悪い事や不幸が起これば、神への信仰、信頼は脆くも崩れ去り、神に背を向ける者だ。ヨブだってきっとそうだ。ひとつこの辺で彼を試してみてはどうか、とけしかけるんですね。

こうして主はヨブを試みることを許されますが。ただ一つ条件をおつけになります。
それは、「ヨブの命には手を出すな」ということでした。それは万が一にもヨブが神の期待を裏切ったとしても、その命を惜しまれる。そんな父なる神の愛が示されているように思いますが。

さて、そうしてサタンによる4つの災いが次々とヨブに襲いかかります。
まず、ヨブの牛やろばがジャバ人;複数の南アラブ人たちの襲撃に遭い、略奪されてしまい、牧場で家畜の世話をする牧童たちが切り殺されたとの知らせが入ります。
続いて天からの火、つまり落雷によってヨブの羊も羊飼いも焼け死んでしまいます。
さらに、カルデア人;バビロンを建設した民ですが、その3部隊がヨブのらくだの群れを襲い、奪っていき、牧童たちが切り殺されます。そしてその話が終らないうちに、ヨブの息子たちと娘たちが長男の家で宴会を開いていると、そこに荒れ野の方から激しい熱風が四方から吹きつけ、家は倒れ、息子娘たちはみな死んでしまったとの悲しい知らせをヨブは聞くことになるのですね。
ヨブはこれまで自分の人生を豊かにしていた一切の財産、そして大切な子どもたちを一瞬にしてすべて失ってしまうのです。
彼は悲嘆のあまり衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して『わたしは裸で母の胎から出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ』と言ったとあります。
このような愛する息子娘、すべての財産を奪われた災いの時でさえも、ヨブは「神を非難することなく罪を犯さなかった」と聖書は伝えます。
主は、「地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」とお認めになります。
主はサタンに対して、「お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ、とヨブのことを誇らしげにそうおっしゃるのですね。

すると、主の御前に再び進み出たサタンが、今度はヨブの肉体に苦難を与えるなら彼は遂に面と向かって神を呪うに違いない、とふっかけます。
主はサタンに再度、「ヨブの命だけは奪わない」という約束で、そのサタンの試みを許可なさるのであります。

こうしてサタンは手を下し、ヨブは頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかかり苦しむことになります。かゆくてかゆくて痛いのだけれども、あまりのかゆさに耐えられず、素焼きのかけらで自らの体中をかきむしりボロボロになり、痛ましい状態になってしまうというその繰り返しの日々。

ヨブの妻はそんなヨブを見て、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言い放ちます。
彼女も息子や娘を失った悲しみ、又それだけの財産を失った喪失感や不安で大変な苦しみの中にあったことが想像できます。そういう中での、あまりに傷ましいヨブの姿を見るにつけ、「まじめに生きてきたのに何で?!に」というような当たり所のない、怒りのような感情が爆発したのではないでしょうか。

それにしてもこの妻の言葉は、ヨブの胸をどんなに締め付けたでしょうね。家族など身近な人の言葉は大きいです。けど、だからこそこの時のヨブにとって、それはサタンの思う壺にはまる、神との信頼が損なわれてしまう誘いであったのです。

それに対してヨブはこう答えます。『お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか』。
聖書は「彼は、唇をもって罪を犯すことがなかった」と述べます。
激しい苦しみの時の中でも、神との関係を損なう言葉に同調することなく、変わらず主への誠実を保ち続け、サタンに足をすくわれるようなことをしなかったヨブ。

この話を読んで、わたしはヨブのようには言えない、なれないとお思いになる方もいらっしゃるでしょうが。唯、大切なのは、彼はどんなに苦しい時でも、神から目をそらして生きることなど考えられなかった。主から離れて生きることなどあり得ない。まさにその点において彼は神の御前に無垢であったということです。
「主の御名はほむべきかな!主はほめたたえられよ!」ヨブの全存在を賭けたこの一言に胸熱くされる思いがいたします。

さて、今日の箇所には、ヨブの3人の友人が登場いたします。
彼らはヨブに降りかかった災いの知らせを聞き、ヨブを慰めるために見舞いに訪れるのであります。
ところが、彼らはヨブのもはや見分けがつかないほどの変わり果てたその姿を見て、嘆きの声をあげ、衣を裂いて、天に向かってちりをふりまき、それを頭にかぶって、
七日七晩、ヨブに話しかける言葉も思い浮かばず、ただ彼と共に地面に座っていた、というのです。
何もできない無力感もあったでしょうが。苦しみに瀕している人に対して的外れな忠告や気休めの言葉が、反ってその人を傷つけてしまうことがあります。
ヨブは、この3人が唯、黙ってそこに居てくれたことをありがたく思ったのではないでしょうか。
もつべきものは友ですね。殊に祈り合う友、御言葉に生きる主にある友を主が送ってくださるようにと、祈ります。

さて、今日の箇所を通して何よりも考えさせられますことは、ヨブのように「無垢で正しい人」「神を畏れ、悪を避けて生きている人」も災いや苦しみに遭うということがあるということです。

ヨブは大切な子どもたちと豊かな財産を失ってしまいました。さらに追い打ちをかけるようにして、今度は自分自身の身体に耐え難い苦痛を負って、ほんとうに苦しみのどん底に追いやられてしまいます。
彼はこの世的にも、そして神の前においてさえ非の打ち所のないような人であったのにです。
主を畏れ、無垢で正しい人であったとしても、突然に災いに遭うこと、大切なものを失うという悲劇に見舞われるようなことが、起こることもあります。

今日のヨブ記の「正しい人がなぜ苦しまなければならないのか」という問いに対して、聖書に明快な答えは出てまいりません。
けれども私たちは、今日のこの箇所を通して、その起こってくるどんなことも、一切は主なる神の御心のうちにある。苦難でさえも、まして命にかかわることならなおさらのこと、主の許しがなければ起こってこないのだ、ということを知らされます。
そうして私たちにはそのような苦難の中に、あの3人の友人に勝る十字架の苦難と死をもって共に痛み、共に呻きつつ、執り成し続けていて下さる主イエスがおられます。生も死もすべてを司り、御手のうちにおさめておられる父の神。私たちを愛のうちに立てあげ導いてくださる聖霊。三つにして一つなる主なる神の、世の何ものにもかえ難い真の幸いと恵みがどんな時も共にある確信を戴きましょう。
さあ、今週もここからそれぞれの場へと、遣わされてまいりましょう。
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