礼拝宣教 イザヤ49章1~6節
本日の箇所には「母」についての記述がいくつも出てまいります。
主なる神は、主の僕を「「母」の胎から呼び、「母」の腹にある僕の名を呼ばれ、「母」の胎にあったその人を御自分の僕として形づくられるのです。
母といえば、私の母親は私が小2の時に父の大病と入院が度重なり、経済的な事情で止む無く離婚の道を選びました。母はそれから家族を養うために働きに出るようになり、私は妹と二人で一日の多くは家で過ごすようになりました。幼いながらに動揺が大きかった私は近所の悪そう少年グループに誘われ、いわれるままに近所のお店のお菓子やガムを集団で盗む犯行に加わったりもしました。しまいには店のおじさんに見つかり、こっぴどく叱られながらも許してもらったという事もありました。この頃の自分の心は幼いながらにすさんでいました。そんな折に思議ですが、先週お話しました友人と草野球でかけをして、負けてしまい教会に行くはめになった。この思ってもみないようなタイミングでの出会いがなかったら、自分はどうなっていたのだろう、と思わずにいられません。
その頃母に、「ボク教会に行くからね」と言うと、母は「反対はしないが、信者にはなりなさんなよ。あれは自分を犠牲にしなければならないからね。そこまでなることはないよ」と、そう答えが返ってきました。
その後も私は教会に行き続け、少年少女会の友たちとの出会い、さらに教会の方々の祈りに押し出されるように、主イエスを自分の救い主と信じ、バプテスマを受けたいとの思いが与えられました。母には初め反対されましたが、自分の思いを手紙にして書いて母に渡すと、「としやが選んだ道なんだから、そうしなさい」といってバプテスマを受けることを許してくれたのです。そうして高校1年生の時にクリスチャンとなりました。
その後就職すると、それまでとは違い、日曜日が出勤で教会に行けなくなったりすることも起こりました。学生時代日曜日は考えなくても教会に行く日、礼拝の日というのが当然のようになっていたからです。しかし社会人になるとそれが当たり前にはゆかなくなり、悩む日々が生じていきます。
今思いますと、この信仰の闘いが起こることによって、自分と神さまとの関係、自分の信仰についてあらためて考え、見つめ直すことができたのです。
その事があって、私はもっと聖書を学びたいという思いが与えられました。そこでふっと目に留まったのが大阪キリスト教の短期大学の神学科だったのです。勤めていた会社に退職届を提出し受理され、受験の準備をしました。
入学するためには2つの関所を越えなければいけません。
1つはむろん入試ですが、その前に一番の難関は「母」です。どう自分の思いを伝えたらいいか。バプテスマを受ける時は何とか理解してくれたけれど、今度は仕事を辞めるだけでなく、母を残して家を出て行くことになるので、さすがに母のことで相当悩みました。でも自分の思いはきちんと伝えようという決意をもって母にそのことを打ち明けました。最初の母の反応は、当然ですが大声で泣かれ、叱りとばされました。まあ、当然のことです。しかしそれでも最後には、母は「としや、お前の道だから」と、絞り出すようにそう言ってくれたのです。こんな親不幸者がいるかと思います。母の腕一本で育ててくれたあげくに、親をおいて家を出て行くという親不幸。
21歳の春、大阪キリスト教短大神学科に入学させていただきました。初めての大阪で学生生活が始まり、
こどもの頃からの母教会の牧師の勧めで、この大阪教会に在籍しました。2年間母のもとから離れて改め
て思い知らされたのは、母がそれまで私を育ててくれた愛と支えの尊さでした。
聖書を読みますと、「母」という言葉は元来「土地」のことを指すと言われます。「母なる大地」という言葉を聞かれた方もおられるでしょう。出エジプトしたイスラエルの民の目的地として、「乳と蜜の流れる地」がその母なる地として与えられていくのですが。エイリッヒ・フロムという社会心理学者は、そこに母親の2つの愛が表されている、と言っているのです。
1つは、母親が乳飲み子にお乳を与えるという面。1人の命が世に誕生した時に、赤ん坊は1番最初にオギャーオギャーと泣き叫びます。それは母親に愛情とお乳を一心に求める声であります。その切なる求めに応えることができるのが「母」であります。自らのお腹を痛め、身体の一部から産まれ出たという本能から愛情を注ぎ、お乳を与えることができるのです。主である神はまさに御自身の民として導き出したその民を愛され必要を満たされます。また、フロムは、母にはお乳を与えるだけでなく、さらに蜜を与える面があるというのです。そこに本来の母のいわば証(あかし)があるというのです。
私のことで恐縮ですが。母が私を神学校に送り出す時、愛情込めて育ててきたわが子を手元から手放していくことはどんなに辛く寂しかっただろうかと思います。それでも精いっぱいひとり立ちしていこうとする私に与えてくれた愛情は、フロムの言う「蜜」を与えるという母親としての一面であったのでしょう。
母は3年前に地上の生涯を終えましたが、その愛情は今なお私を育んでいてくれます。
このイザヤ書49章14-15節には、自らの罪のゆえ滅ぼされたユダの民がその乳と蜜の満ちる都エルサレムの崩壊を嘆き、「主にわたしは見捨てられた」「わたしの主はわたしを忘れられた」というのですが。それに対して主である神は、「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしあなたがたを忘れることは決してない」と、母親に優る神の偉大な愛が語られます。
本日のところで第二イザヤは、神がこの母親の愛をも遙かに超える無条件の愛によって、自らの救い導き出した者、またその民を御自身の手のひらに刻みつけるようにおぼえておられ、又、主が「わたしとあなた」という一対一の関係で臨まれるお方であることを何度も伝えているのです。
ここでイザヤはそのように、主が「わたしとあなた」という関係で呼びかけられているのを知って、5節で「主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力」と、主を賛美しています。
私どもも長い3年余りのコロナ危機が続きましたが。そこで静まって知らされたのは「わたしと主」との関係を見つめ直し、主がわたしを、わたしたちをこのコロナ危機の間においてもずっと呼びかけ続け、ひとり一人の名を呼び、「わたしの目にあなたは尊い」と重んじていてくださっておられるということでした。私どもにとりましても、「わたしとあなた」という関係で臨まれる主こそ、生きる力なのであります。
本日は、「主の僕の使命」という宣教題をつけさせて頂きました。
呼び出された「主の僕」は、6節にありますように「ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる」という使命がありました。けれども、それにもました大きなミッション、それは「あなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」と言われる、神の御心を成し遂げることでした。
それはこの49章に続く50章にあるように、正しさのゆえに受ける屈辱とその忍耐、そして53章に記されたように、軽蔑され、人びとに見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知り、無視され、打たれ苦しみ刺し貫かれるという、その僕の苦難によって、神の御心、その救いが地の果てにまでもたらされていくというのです。
この第二イザヤはその一人であったのでありましょうが。さらに他にも、「だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」と言われています。
旧約聖書の中には、この「主の僕」と呼ばれる人物の一人に、ヨブがいます。ヨブ記1章で、主はヨブのことを「わたしの僕」(8節)とおっしゃっているとおりでありますが。
そのヨブは無垢な正しい人、神を畏れて悪を避け生きていました。妻と7人の息子、3人の娘を持って家族にも恵まれ、さらに羊7千、らくだ3千、牛5百、雌ろば5百頭もの財産と多くの使用人を有しておりました。誰が見てもヨブは神から祝福された人だと思われるような生活を送っていたわけです。しかしヨブはその祝福に溺れず、神を畏れ敬いつつ御心に生きる毎日であったのです。
そのようなヨブを主は、「わたしの僕ヨブ。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と、お認になられていました。
ところが、その信仰、その信頼の麗しい関係を妬むサタンが、主とある賭けをするのです。
サタンとはギリシャ語訳によれば、「告発人」「訴える者」という意味をもっています。サタンは地上を巡回しながら、主に告発する者を調べ、見張っているのです。サタンは主のご支配の下にあり、勝手に手を出すことはできません。
そこでサタンは主に問いかけます。「あなたはヨブのことを『わたしの僕』と言っておられますが、ヨブは、利益もないのに神を敬うでしょうか。今はあなたがヨブを祝福し、彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさり、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」と、主なる神を挑発するのです。
ヨブは家族や財産すべてに恵まれ東の国一番の富豪になったわけですが、そのように与えられた恵みがことごとく失われるようなことになれば、いくら無垢で正しいヨブであっても神を恨み、呪うようになるだろう。所詮人は、悪い事や不幸が起これば信仰なんかもろくも崩れ去るものだ、というのがサタンの言い分でした。
すると主はサタンに、「ヨブの命には手を出さず、彼のものを一切、お前のものにして見るがよい」と、ヨブが利益のために神を礼拝してきたのかどうか、試みることを許されたのです。
ここを読みます時、「主の祈り」の「我らを試みに会わせず悪より救い出したまえ」と、思わず祈らないではおれないわけですが。私どもの日常の生活の中にも、実に様々な試みがあります。豊かさや楽しみの中で、主の恵みを忘れそうになることがないでしょうか。あるいは又、生活の諸問題、人間関係でのつまずきや不満で主なる神の愛を疑い、主に背を向けることはないでしょうか。
このヨブには4つの災難が次々と起こっていきます。
最初の災難は襲撃に遭い、略奪され、家畜の世話をする牧童たちが殺されます。続いて落雷で羊も羊飼いも焼け死んでしまいます。さらに、らくだの群れが襲われ、牧童たちが殺されます。挙げ句の果てには、ヨブの息子と娘たちが集まった宴会の場に激しい砂嵐が吹きつけ、家は倒れ、息子娘たちはみな死んでしまうのです。ヨブは彼の人生を豊かにしていた一切の財産、子どもたちを一挙にことごとく失ってしまうのです。もう、神に見捨てられたとしか言いようのないこの状況。しかしながら驚くべきことに、この時「ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して、『わたしは裸で母の胎から出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、奪う。主の御名はほめたたえられよ』」と言って主を礼拝するのであります。
聖書はこのように、「ヨブは神を非難することなく罪を犯さなかった」と記します。2章に至りましては、さらなる試練に遭い、ヨブは頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病に罹り、素焼きの欠片で体内をかきむしって、友人も見分けられないほどの姿になったとあります。そんな有様に妻は、「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って死ぬ方がましでしょう」と嘆きます。しかしヨブは「『わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか』と、そのようになっても彼は、唇をもって罪を犯すことがなかった」と、記されています。
ここまできますと、ヨブはすごい人だ、私など到底及ばない、と思われるかもしれませんが。完全ともいえるヨブも苦痛が長引くと、かつての幸せな日々、子どもたちへの愛が心に甦って来て、「自分の生れた日を呪った」「生れてこなければよかった」「死んだ方がどれほどよいことか」と嘆きを口にします。ヨブもまた人の子、血の通った人間なのです。しかしそれは、主である神を信じればこその嘆きであり苦悩であります。
このヨブ記の扱っている問題は、正しい人になぜ災いが及ぶのか?という神の正義を問う「神義論」にあるということを昔神学校で学びましたが。しかしその「なぜ」という問いに対する答えは人間の側からは出せない、わからないというのが正直な答えです。問題はヨブのよう、に「なおそこで主と相対して生きるか」ということが問われていることのように思うのです。
願いや希望を主に祈り求めていくことや、試みに遭わせず悪より救い出してください、災いに遭う事がないように守ってください、と主に祈り求めていくことは、主を畏れ、主を信頼して生きる者の姿でありましょう。けれども人として生きる限り、無垢で正しい人であったとしても、様々な問題や苦難に直面することがあるでしょう。そこで、しかしなおも、主である神は共におられる。この救いの事実を示すために、ヨブは「主の僕」としてその名を呼ばれたのです。
「正しい人がなぜ苦しまなければならないのか」という問いに対して、答えを見いだすことは困難かも知れません。しかし明かなことは、主なる神がそのような「主の僕」の姿のうちに、神は共におられる、という事実を指し示しておられるということです。
主イエスご自身もまた、ヨブのように全く正しいお方であられたのに、理解し難い苦難と死を身に負われたのです。
それは私たちが人生において起こる、なぜといった様々な苦しみ、不条理で理解し難い出来事の中にも神の救いをもたらすためであります。
今日のイザヤ書49章6節には、「ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる」とありましたが。それは歴史的にユダの民を捕囚としていたバビロニアがペルシャのキュロス王によって統治され、捕われていたユダの民が解放されていくという出来事によって実現していていきました。
注目すべきは、「だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光として、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」と、神が言われているその人であります。
この「主の僕」は、ユダやイスラエルのみならず、諸国の光として、主の救いを地の果てにまで、もたらす者とする」と、予告されているのです。
その「主の僕」こそ、主イエス・キリストです。
この第二イザヤの時代からキリストの降誕まで500年あります。その間も主はユダと民を守り導かれました。小さなユダの民は様々な迫害や苦難を経験しますが、先のヨブや又第二イザヤといった主の僕に倣い、主と向き合い、主に信頼してその時代を生き、神の救いを待ち望んでいったのです。
そして、時至って、主なる神は「主の僕」、国々を照らすまことの光、主の御救いを地の果てにまでもたらす者として、イエス・キリストをこの地上に遣わしくださったのです。
今の世界、社会において様々な問題があり、世界に嘆きと叫び、苦悩があふれていますけれども。しかしなお、どんな時も、主に信頼して歩んでいくことが出来ますようにと祈り願うものです。私たちも又、主のお姿に倣い、それぞれが主から受けた使命に生きてまいりましょう。