2023/12/3 主日礼拝式(アドベント)
礼拝宣教 イザヤ52章13節~53章8節 世界祈祷週間
先日は大阪ブロックの牧師・配偶者会が和歌山バプテスト教会で行われ、参加しました。隣接するひかり幼稚園の園庭には元気な子ども達の声が響きわたっていました。今回は幼稚園の見学もでき、クリスマスを前に降誕劇(ページェント)の練習をしている様子やクラスごとに粘土あそびや絵を描いたりしているところや、給食を食べているところにもお邪魔させていただきました。
園児は1歳から5歳まで100名余りいらっしゃるそうで、1,2歳ぐらいの嬰児クラスを除いて、3歳、4歳、5歳児は年少、年中、年長といったクラス割りではなく、異年齢混合の縦割りクラスでの活動が基本だそうです。そのことで、年上のこどもたちは年下のこどもへの思いやりや自信を身につけ、年下のこどもたちは年上のお兄さん、お姉さんへの憧れや向上心を持ち、自分たちが年上になると年下を思いやる心をもって接するように、社会性や協調性が育まれ、共感や共鳴する心も育っていくということでした。「ひかり幼稚園」は保育の目的として、「神さまからいただいた命を互いに大切にします。自分が大切な存在であることに気づいたときに安定した心の育ちが始まります。自分が大切にされているように周りにあるものや人の存在に気づき、同じように思いやる心、愛するという大切な人間形成の土台を築くであること」を掲げておられます。
本日の聖書箇所の「主の僕」は、イザヤ書42章の「主の僕」の箇所と共に、イザヤ書の中で最も新約聖書的だと言われております。どちらもクリスマス礼拝やキャンドルライトサービスで朗読されるので、暗唱されている方もいらっしゃることでしょう。
それは、ここに主イエス・キリストの苦難と死が指し示されていると、読めるからであります。
前の52章には、「あなたの神は『王』となられた、その主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわされた。地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ」(7-10)と、偉大な神を賛美しています。
わたしたちも又、全世界に向けられたこの喜びの知らせ、「福音」によって神の御救いを仰いでいるわけでありますが。そのような神の栄光を顕された主は、僕の姿で世に現れ、苦難と死をもって人間をあがなわれるのです。
「神の僕」は、いわゆる世の「王」や「支配者」のように、権力によって世を統治しようとはいたしません。11月5日の礼拝で週読んだ42章にあるとおり、「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。かえって傷ついた人、望みもうせ、力をなくしている人のために、神の正しさを世に知らしめて、神の御前に取り戻す。罪の囚われから人を解放し、闇に住む人を滅びの牢獄から救い出す」。そのような召命(使命)を身におびているのです。そのビジョンが実現されるため、神は人が思いもよらないご計画を、その「主の僕」を通してあらわされます。それは僕の苦難と死です。
この53章に示される「主の僕」の姿は、見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もありません」。有ったとしてもそれがもはやはぎ取られ、彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知り」、世の人びとは「彼を軽蔑し、無視している」と、言うのです。
「主の僕」は身体的な病からくる傷み、軽蔑や無視といった精神的な痛みや傷を身に負います。
以前あるホスピスの医師からお話を伺う機会がありました時、患者さんには4つの出現する「苦痛」があり、それが重なり合う層となって想像もし難い苦痛がのしかかっている、という事でした。
1つは「身体的・肉体的な苦痛」。2つ目は、不安やいらだちといった「精神的苦痛」。
3つ目は経済的な問題、仕事上の問題、家族内の問題といった「社会的苦痛」。その上にさらに、生きる意味や目的への懐疑、死への恐怖、自責の念に苛まれるといった「魂の霊的苦痛」がのしかかってくるという事です。
特に末期のがんの患者さんが抱える魂の苦痛は深刻です。医療にも見捨てられたように思え、「こんなになって生きてもしょうがない。わたしの人生は一体何だったのだろうか。どうせ死ぬんだから、頑張ってもしかたがない。わたしだけがなぜこんなに苦しまなければならないのか。わたしが悪いことをしたから、こんな病気になったのか」との思い。さらに、「家族ともう2度と会えなくなるのか。周りに迷惑をかけたくない。死んだら私はどうなるのか」といった恐れから生じるさまざまな苦痛を背負われている、ということです。
自分が存在している意味や価値の喪失。生きている目的や意味の喪失。家族や隣人との別れという喪失感からくる魂の苦痛。そのような患者さんの身心の苦痛をできるだけ緩和し、ご自分のいのちと死を見つめ、魂の平安を得てやすらかにその時を迎えられる援助をするのがホスピスの働きであります。このような苦痛は他にも難病の方、心身に障がいを抱える方、又いわゆる後期高齢者で介護が必要となられた方にも及んでいます。突き詰めれば、これらの苦痛はわたしたち1人ひとりに多かれ少なかれ常に潜在している苦痛だといえます。
この「主の僕」は、人のそういったあらゆる苦痛や苦悩を自ら体験なさるのです。
聖書はさらに、「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに。わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と」。
そのように人は自らの罪になかなか気づくことができないものであり、神の救いを理解することが困難であることを示します。
しかし5節、「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった」。
主の僕の負われた苦難は、彼自身が犯した罪や咎の結果ではありません。
それは6節にあるように、「羊の群れのように道を誤り」、神の愛から離れて、思いのままに「それぞれの方角へ向って行った」人びとの、その罪のためであったのです。
聖書は神と相対することから離れ、的外れな方向へ向かうことを「罪」と言うのです。神に背を向け、正しき神の教えと戒めをないがしろにし、思いのままに生きる民。
驚くべきことに、神はそんな人の罪をすべて、「主の僕に負わせられた」と言うのです。
この主の僕は、先に読みましたように、身体的な苦痛を負っていました。そればかりでなく、軽蔑され、見捨てられ、無視されるというといった精神的苦痛、さらに民の間で呪われた者のようになるという魂の苦痛・霊的苦痛を負ったのです。
「主の僕」がそのような何重もの苦痛を負われたのは、すべて神の御前からさまよい出た人びとの罪を贖(あがな)うためであったのです。
神の救いの御業は、罪に滅びゆく人間のために主の僕は幾重もの苦難をその身に負わせられることによって果たされていくのです。
神は全きお方です。人間の罪と不義は神の御前で明らかであり、きちんと裁かれ、清算されなければなりません。それが「主の僕の苦難と死」であったのです。こうして主なる神が「聖」であり、「義」なるお方であることが立てられ、罪のあがないを得た人びとは解放されていくのです。
5節に「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とありますように、主の僕が負われた苦難と死によってわたしたちも又、神の「平和」と「いやし」に与っているのです。
この神の「平和」と「いやし」をもたらすため主の僕は、7-8節「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物をいわない羊のように、彼は口を開かなかった。捕えられ、裁きを受けて、命を取られた」のです。
「彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり命ある者の地から断たれたことを」。
それは驚くような神の御計画でありました。
「主の僕」はその断末魔の叫びの中で、11節「自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」のです。
この主の僕の姿の中に、わたしたちは「神の愛」を見るのです。
羊のようにさまよい出ていたわたしたちが、神のもとに取り戻されるというビジョンをご覧になり、ご自身のその苦しみによってそれが実ってゆくことを知り、満足なさるのです。この「神の愛」。わたしたちは今日もこの愛に与っているのです。
この第二イザヤの時代からおおよそ2500年以上経ちますが。今も人は神に対して的外れの方角にさまよい出るような歩みを繰り返しています。
主イエス・キリストは、そのような救い難い罪の世に生きるわたしたちのために苦難を身に負われ、人の苦しみ痛みと死さえも知り、体験されました。それはどこまでも神の救いがわたしたちと共にあることを身をもって顕されるためでした。
苦難の僕である主イエスは人の痛みと苦しみをご存じであるからこそ、わたしたちを真にとりなすことがおできになるのです。
次週からクリスマスを待ち望むアドベント(待降節)を迎えます。平和の君、イエス・キリストがこの世界に苦難の僕となって現れ、神の平和といやしをもたらして下さいました。わたしたちも又、主の平和といやしの福音を伝え、とりなす者とされてまいりましょう。
礼拝宣教 イザヤ50・4-11
先週の礼拝後、近隣の田辺バプテスト教会の草刈りワークと交流会に、私たちの教会から7名が参加しました。現地に向うと小雨が降っていたにも拘わらず、すでに田辺教会と平野教会の常連メンバーによって草刈りと枝選定が始まっており、私どももそこに加わりました。
ワーク作業後は各教会から20名以上はおられたかと思いますが、お手製の中華ちまきはじめ、おかしやジュースの差入れを食べながら楽しい交流の時が持たれました。この草刈りワークは田辺教会の呼びかけによって10年くらい前から始まったのですが、なかなか他の教会に出かけて行き奉仕を通して交流することは少ないので、とてもいい機会になっています。
もう一つ嬉しかったのは、この草抜きをしていると、草花や木の葉や幹、又土から自然の匂いがしてきて私は心が安らぐのです。地面に落ちていた「むかご」を片手に収まるくらい拾い集めていると、その近くからはハーブの花の香りがしてきます。人間とは違い、創造主に身をゆだね切って生きる自然の草花や木々から不思議な安らぎやエネルギーを受けているということに改めて気づきました。同時に近年の温暖化など気候変動による自然のうめきも聞こえてくるように感じます。
ローマの信徒への手紙にあるように、自然も又、神の創造の業をたたえつつ、うめきをもって警告する舌が与えられているのかも知れません。
今日は、イザヤ書50章4-11節の御言葉が読まれました。
エルサレムが崩壊しバビロニアの捕囚として連れていかれた南ユダの民。第二イザヤの頃には捕囚生活も随分長くなっていました。彼らの中には、こんなことになったのは神に救い出す力がなかったからだとか、神は自分たちを愛しておられないのだと、神をみくびり、恨むものさえいました。
主なる神は、彼らが真心から立ち返って生きることを願われ、だからこそ「主の僕」を起し、遣わされるのです。しかし彼らのその語りかけに耳をかさず、その心はかたくななので、主の僕はさげすまれ、迫害を受けます。
もう到底帰ること、復興するなどできないという失望感が多くの人をそのような思いに陥れていったのです。
「幻のない民は滅びる」と聖書にあるように、彼らの心はすさんでゆき、神のお心、御言葉を伝える「主の僕」を暴力的に排除しようとするのです。
主イエスもそうでした。ローマ帝国の支配が長引き、ユダの民にあきらめの思いがまん延する中、現れたイエスこそ、ローマの圧政から解放してくれることを民は期待するのです。しかしイエスが捕えられた力無い姿を見たユダの人びとは、神に対する不満をぶつけるように、「十字架につけろ」と口々に叫び、とうとうイエスは磔にされるのです。
さて、本日の4節-11節には、「主の僕」の歌が記されております。新共同訳には「主の僕の忍耐」と小見出しが付けられていますが、「忍耐」という言葉はこのところはありません。重要なのは、主の僕がどこに希望を見出していたかです。
主の僕はうたいます。4節「主なる神は、弟子としての舌を与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる」。
主の僕は主なる方に倣う者、弟子としての舌を与えられます。そして、その言葉をもって「疲れた人を励ます」のです。
ここには「言葉を呼び覚ます」「耳を呼び覚ます」という表現が出てまいります。「呼び覚ます」。覚醒ですよね。
先ほど、草抜きをしていたとき、自然を五感で感じとりながら、神の創造の御業を覚えたということをお話しましたが。それも一つの覚醒と言えるかも知れません。
主の僕はここで、自分の考えや力によってではなく、「主が」わたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる、というのです。これは強いられてではなく、目覚めを与えられ、自ら進んで従う者とされるのです。そこには、苦難の中にもなお、主に愛され、生かされているという平安と感謝があります。
私どもも聖霊のお働きにより、主に倣うもの、弟子とされました。それは誰かから強いられからではなく、唯、恵みのうちにそのように生きる者へと変えられたのです。
苦しい時も、闇の中にいるように思える時にも、主が共におられる。ここに平安と感謝があります。
5-6節では、「主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」と、その人は言います。
主なる神に耳を開かれ、それをかたくななユダの民に告げよと言われた時も、彼は逆らわず退きません。ただ神の御心をまっすぐに伝えてゆきます。
その事で返って主に逆らう者たちは彼に身体的、精神的な暴力と恥辱を加えます。しかし彼は顔を隠しませんでした。これらの苦難を身に受けながらも、なおあずかった神の御言葉を語り伝え続けるのです。
彼はそのような不当に苦しめる者に対して、復讐しようとはしません。
それは7-9節に、「主なる神が助けてくださる」「わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている。わたしが辱められることはない、と。わたしの正しさを認める方は近くにいます・・・見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めよう」とありますように、「主なる神がわたしの正しさを認めていてくださる」「そばにいてくださる」「助けてくださる」「誰もわたしを罪に定めることなどできない」。そのような確信が彼に与えられていたのです。
それゆえに、彼は嘲りを恥と感じることはない、と自分の心を守ることができたのです。人の評価は変わりゆき、不確実です。良く言ったかと思えば悪く言われる。気にすまいと思っても気になってしまうものです。大切なのは、どこに自分という存在の根拠をおくからです。
主の僕は、人の評価にではなく、又自分の主張にでもなく、主なる神に、それも共におられるお方としての主なる神に、自分の立ちどころ、拠りどころをおいていたのです。
「顔を硬い石のようにする」というのは、主なる神が彼の顔を火打石やダイヤモンドのように最高度に硬くなさるので、神をも恐れない者がたとえ不当な暴力を加えるなら、返って加えて殴ったりしても、かえってその者が痛い思いをする、危害を受けることになる、と言っているのです。
このように、何よりこの主の僕にとっての大きな望みは、8節にあるように、「わたしの正しさを認める方は近くにいます」と言う確信であり、「共にいたもう神」への信仰なのです。
神が正しさを認める者に対して、だれが争い、訴えることができるか。訴え争うというのなら共に神の判決の御前に立とう。まことの裁判官であられる神がすべてを裁かれる。誰がわたしを罪に定めることができようか、と主の僕は語ります。
訴え争う者たちの不義がやがて明らかにされ、彼らは衣が虫に喰い尽くされてしまうようになるだろうと。主なる神こそ、それらすべてを司っておられるお方なのです。
さて、このような苦難における主の僕の歌に続き、聖書はここで、「あなた」はどのように生きてゆくのか、と問いかけます。
10節「お前たちのうちにいるであろうか、主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼し、その神を支えとする者が」と。
理不尽と思える出来事、苦痛をともなう状況、周囲からの批難、誰にも理解してもらえない。そういった中で、なおも「主を畏れ、主の御名に信頼し、主を支えとして生き得るか、と。聖書は時代を超えて、今も同様に私たちに問いかけています。
このところにおける主の僕は、第二イザヤであったでしょう。
そして今、私たちにとりましてこの主の僕とは、主イエス・キリストであります。
又、キリストに聞き従う、キリスト者も「主の僕」であります。
主は言われました。「聞く耳のあるものは聞きなさい」。
主は今日も私たちに、「闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼し、主を支えとする」よう導かれます。
これはまさに今日の混沌とした世界の只中にあって語りかけられているメッセージではないでしょうか。11節にありますように、虚しい滅び行く者にではなく、生ける「主に信頼し、主を支えとする人」の幸いへと、聖書は今日も私たちを招くのです。
本日の「主の僕の歌」は、主の僕が単にガマン強かったと言っているのではありません。大切なのは、「主なる神が疲れた人を励ます舌を与え、言葉と耳を呼び覚まし、主に聞き従うようにしてくださる」(4節)「主なる神は耳を開かれた」(5節)「主なる神が助けてくださる」(7節)「見よ、主なる神が助けてくださる」(9節)と、幾度も繰り返されるように、「主なる神が」すべてを先立ち導かれる主、又、共にあゆんでくださる主、助けと支えの源である、ということです。
まさに、今の世にあって、闇の中を歩くときも、光のないときも、人生を確かなものとして助けを与えてくださる主に信頼し今日もここから福音を携えて、それぞれの持ち場へと遣わされてまいりましょう。
礼拝宣教 イザヤ49章1~6節
本日の箇所には「母」についての記述がいくつも出てまいります。
主なる神は、主の僕を「「母」の胎から呼び、「母」の腹にある僕の名を呼ばれ、「母」の胎にあったその人を御自分の僕として形づくられるのです。
母といえば、私の母親は私が小2の時に父の大病と入院が度重なり、経済的な事情で止む無く離婚の道を選びました。母はそれから家族を養うために働きに出るようになり、私は妹と二人で一日の多くは家で過ごすようになりました。幼いながらに動揺が大きかった私は近所の悪そう少年グループに誘われ、いわれるままに近所のお店のお菓子やガムを集団で盗む犯行に加わったりもしました。しまいには店のおじさんに見つかり、こっぴどく叱られながらも許してもらったという事もありました。この頃の自分の心は幼いながらにすさんでいました。そんな折に思議ですが、先週お話しました友人と草野球でかけをして、負けてしまい教会に行くはめになった。この思ってもみないようなタイミングでの出会いがなかったら、自分はどうなっていたのだろう、と思わずにいられません。
その頃母に、「ボク教会に行くからね」と言うと、母は「反対はしないが、信者にはなりなさんなよ。あれは自分を犠牲にしなければならないからね。そこまでなることはないよ」と、そう答えが返ってきました。
その後も私は教会に行き続け、少年少女会の友たちとの出会い、さらに教会の方々の祈りに押し出されるように、主イエスを自分の救い主と信じ、バプテスマを受けたいとの思いが与えられました。母には初め反対されましたが、自分の思いを手紙にして書いて母に渡すと、「としやが選んだ道なんだから、そうしなさい」といってバプテスマを受けることを許してくれたのです。そうして高校1年生の時にクリスチャンとなりました。
その後就職すると、それまでとは違い、日曜日が出勤で教会に行けなくなったりすることも起こりました。学生時代日曜日は考えなくても教会に行く日、礼拝の日というのが当然のようになっていたからです。しかし社会人になるとそれが当たり前にはゆかなくなり、悩む日々が生じていきます。
今思いますと、この信仰の闘いが起こることによって、自分と神さまとの関係、自分の信仰についてあらためて考え、見つめ直すことができたのです。
その事があって、私はもっと聖書を学びたいという思いが与えられました。そこでふっと目に留まったのが大阪キリスト教の短期大学の神学科だったのです。勤めていた会社に退職届を提出し受理され、受験の準備をしました。
入学するためには2つの関所を越えなければいけません。
1つはむろん入試ですが、その前に一番の難関は「母」です。どう自分の思いを伝えたらいいか。バプテスマを受ける時は何とか理解してくれたけれど、今度は仕事を辞めるだけでなく、母を残して家を出て行くことになるので、さすがに母のことで相当悩みました。でも自分の思いはきちんと伝えようという決意をもって母にそのことを打ち明けました。最初の母の反応は、当然ですが大声で泣かれ、叱りとばされました。まあ、当然のことです。しかしそれでも最後には、母は「としや、お前の道だから」と、絞り出すようにそう言ってくれたのです。こんな親不幸者がいるかと思います。母の腕一本で育ててくれたあげくに、親をおいて家を出て行くという親不幸。
21歳の春、大阪キリスト教短大神学科に入学させていただきました。初めての大阪で学生生活が始まり、
こどもの頃からの母教会の牧師の勧めで、この大阪教会に在籍しました。2年間母のもとから離れて改め
て思い知らされたのは、母がそれまで私を育ててくれた愛と支えの尊さでした。
聖書を読みますと、「母」という言葉は元来「土地」のことを指すと言われます。「母なる大地」という言葉を聞かれた方もおられるでしょう。出エジプトしたイスラエルの民の目的地として、「乳と蜜の流れる地」がその母なる地として与えられていくのですが。エイリッヒ・フロムという社会心理学者は、そこに母親の2つの愛が表されている、と言っているのです。
1つは、母親が乳飲み子にお乳を与えるという面。1人の命が世に誕生した時に、赤ん坊は1番最初にオギャーオギャーと泣き叫びます。それは母親に愛情とお乳を一心に求める声であります。その切なる求めに応えることができるのが「母」であります。自らのお腹を痛め、身体の一部から産まれ出たという本能から愛情を注ぎ、お乳を与えることができるのです。主である神はまさに御自身の民として導き出したその民を愛され必要を満たされます。また、フロムは、母にはお乳を与えるだけでなく、さらに蜜を与える面があるというのです。そこに本来の母のいわば証(あかし)があるというのです。
私のことで恐縮ですが。母が私を神学校に送り出す時、愛情込めて育ててきたわが子を手元から手放していくことはどんなに辛く寂しかっただろうかと思います。それでも精いっぱいひとり立ちしていこうとする私に与えてくれた愛情は、フロムの言う「蜜」を与えるという母親としての一面であったのでしょう。
母は3年前に地上の生涯を終えましたが、その愛情は今なお私を育んでいてくれます。
このイザヤ書49章14-15節には、自らの罪のゆえ滅ぼされたユダの民がその乳と蜜の満ちる都エルサレムの崩壊を嘆き、「主にわたしは見捨てられた」「わたしの主はわたしを忘れられた」というのですが。それに対して主である神は、「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしあなたがたを忘れることは決してない」と、母親に優る神の偉大な愛が語られます。
本日のところで第二イザヤは、神がこの母親の愛をも遙かに超える無条件の愛によって、自らの救い導き出した者、またその民を御自身の手のひらに刻みつけるようにおぼえておられ、又、主が「わたしとあなた」という一対一の関係で臨まれるお方であることを何度も伝えているのです。
ここでイザヤはそのように、主が「わたしとあなた」という関係で呼びかけられているのを知って、5節で「主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力」と、主を賛美しています。
私どもも長い3年余りのコロナ危機が続きましたが。そこで静まって知らされたのは「わたしと主」との関係を見つめ直し、主がわたしを、わたしたちをこのコロナ危機の間においてもずっと呼びかけ続け、ひとり一人の名を呼び、「わたしの目にあなたは尊い」と重んじていてくださっておられるということでした。私どもにとりましても、「わたしとあなた」という関係で臨まれる主こそ、生きる力なのであります。
本日は、「主の僕の使命」という宣教題をつけさせて頂きました。
呼び出された「主の僕」は、6節にありますように「ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる」という使命がありました。けれども、それにもました大きなミッション、それは「あなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」と言われる、神の御心を成し遂げることでした。
それはこの49章に続く50章にあるように、正しさのゆえに受ける屈辱とその忍耐、そして53章に記されたように、軽蔑され、人びとに見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知り、無視され、打たれ苦しみ刺し貫かれるという、その僕の苦難によって、神の御心、その救いが地の果てにまでもたらされていくというのです。
この第二イザヤはその一人であったのでありましょうが。さらに他にも、「だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」と言われています。
旧約聖書の中には、この「主の僕」と呼ばれる人物の一人に、ヨブがいます。ヨブ記1章で、主はヨブのことを「わたしの僕」(8節)とおっしゃっているとおりでありますが。
そのヨブは無垢な正しい人、神を畏れて悪を避け生きていました。妻と7人の息子、3人の娘を持って家族にも恵まれ、さらに羊7千、らくだ3千、牛5百、雌ろば5百頭もの財産と多くの使用人を有しておりました。誰が見てもヨブは神から祝福された人だと思われるような生活を送っていたわけです。しかしヨブはその祝福に溺れず、神を畏れ敬いつつ御心に生きる毎日であったのです。
そのようなヨブを主は、「わたしの僕ヨブ。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と、お認になられていました。
ところが、その信仰、その信頼の麗しい関係を妬むサタンが、主とある賭けをするのです。
サタンとはギリシャ語訳によれば、「告発人」「訴える者」という意味をもっています。サタンは地上を巡回しながら、主に告発する者を調べ、見張っているのです。サタンは主のご支配の下にあり、勝手に手を出すことはできません。
そこでサタンは主に問いかけます。「あなたはヨブのことを『わたしの僕』と言っておられますが、ヨブは、利益もないのに神を敬うでしょうか。今はあなたがヨブを祝福し、彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさり、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」と、主なる神を挑発するのです。
ヨブは家族や財産すべてに恵まれ東の国一番の富豪になったわけですが、そのように与えられた恵みがことごとく失われるようなことになれば、いくら無垢で正しいヨブであっても神を恨み、呪うようになるだろう。所詮人は、悪い事や不幸が起これば信仰なんかもろくも崩れ去るものだ、というのがサタンの言い分でした。
すると主はサタンに、「ヨブの命には手を出さず、彼のものを一切、お前のものにして見るがよい」と、ヨブが利益のために神を礼拝してきたのかどうか、試みることを許されたのです。
ここを読みます時、「主の祈り」の「我らを試みに会わせず悪より救い出したまえ」と、思わず祈らないではおれないわけですが。私どもの日常の生活の中にも、実に様々な試みがあります。豊かさや楽しみの中で、主の恵みを忘れそうになることがないでしょうか。あるいは又、生活の諸問題、人間関係でのつまずきや不満で主なる神の愛を疑い、主に背を向けることはないでしょうか。
このヨブには4つの災難が次々と起こっていきます。
最初の災難は襲撃に遭い、略奪され、家畜の世話をする牧童たちが殺されます。続いて落雷で羊も羊飼いも焼け死んでしまいます。さらに、らくだの群れが襲われ、牧童たちが殺されます。挙げ句の果てには、ヨブの息子と娘たちが集まった宴会の場に激しい砂嵐が吹きつけ、家は倒れ、息子娘たちはみな死んでしまうのです。ヨブは彼の人生を豊かにしていた一切の財産、子どもたちを一挙にことごとく失ってしまうのです。もう、神に見捨てられたとしか言いようのないこの状況。しかしながら驚くべきことに、この時「ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して、『わたしは裸で母の胎から出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、奪う。主の御名はほめたたえられよ』」と言って主を礼拝するのであります。
聖書はこのように、「ヨブは神を非難することなく罪を犯さなかった」と記します。2章に至りましては、さらなる試練に遭い、ヨブは頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病に罹り、素焼きの欠片で体内をかきむしって、友人も見分けられないほどの姿になったとあります。そんな有様に妻は、「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って死ぬ方がましでしょう」と嘆きます。しかしヨブは「『わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか』と、そのようになっても彼は、唇をもって罪を犯すことがなかった」と、記されています。
ここまできますと、ヨブはすごい人だ、私など到底及ばない、と思われるかもしれませんが。完全ともいえるヨブも苦痛が長引くと、かつての幸せな日々、子どもたちへの愛が心に甦って来て、「自分の生れた日を呪った」「生れてこなければよかった」「死んだ方がどれほどよいことか」と嘆きを口にします。ヨブもまた人の子、血の通った人間なのです。しかしそれは、主である神を信じればこその嘆きであり苦悩であります。
このヨブ記の扱っている問題は、正しい人になぜ災いが及ぶのか?という神の正義を問う「神義論」にあるということを昔神学校で学びましたが。しかしその「なぜ」という問いに対する答えは人間の側からは出せない、わからないというのが正直な答えです。問題はヨブのよう、に「なおそこで主と相対して生きるか」ということが問われていることのように思うのです。
願いや希望を主に祈り求めていくことや、試みに遭わせず悪より救い出してください、災いに遭う事がないように守ってください、と主に祈り求めていくことは、主を畏れ、主を信頼して生きる者の姿でありましょう。けれども人として生きる限り、無垢で正しい人であったとしても、様々な問題や苦難に直面することがあるでしょう。そこで、しかしなおも、主である神は共におられる。この救いの事実を示すために、ヨブは「主の僕」としてその名を呼ばれたのです。
「正しい人がなぜ苦しまなければならないのか」という問いに対して、答えを見いだすことは困難かも知れません。しかし明かなことは、主なる神がそのような「主の僕」の姿のうちに、神は共におられる、という事実を指し示しておられるということです。
主イエスご自身もまた、ヨブのように全く正しいお方であられたのに、理解し難い苦難と死を身に負われたのです。
それは私たちが人生において起こる、なぜといった様々な苦しみ、不条理で理解し難い出来事の中にも神の救いをもたらすためであります。
今日のイザヤ書49章6節には、「ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる」とありましたが。それは歴史的にユダの民を捕囚としていたバビロニアがペルシャのキュロス王によって統治され、捕われていたユダの民が解放されていくという出来事によって実現していていきました。
注目すべきは、「だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光として、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」と、神が言われているその人であります。
この「主の僕」は、ユダやイスラエルのみならず、諸国の光として、主の救いを地の果てにまで、もたらす者とする」と、予告されているのです。
その「主の僕」こそ、主イエス・キリストです。
この第二イザヤの時代からキリストの降誕まで500年あります。その間も主はユダと民を守り導かれました。小さなユダの民は様々な迫害や苦難を経験しますが、先のヨブや又第二イザヤといった主の僕に倣い、主と向き合い、主に信頼してその時代を生き、神の救いを待ち望んでいったのです。
そして、時至って、主なる神は「主の僕」、国々を照らすまことの光、主の御救いを地の果てにまでもたらす者として、イエス・キリストをこの地上に遣わしくださったのです。
今の世界、社会において様々な問題があり、世界に嘆きと叫び、苦悩があふれていますけれども。しかしなお、どんな時も、主に信頼して歩んでいくことが出来ますようにと祈り願うものです。私たちも又、主のお姿に倣い、それぞれが主から受けた使命に生きてまいりましょう。
礼拝宣教 イザヤ42章1~9節
今月は来週12日が「バプテスト福祉デ-」、26日からは「世界バプテスト祈祷週間」、更に12月3日から主イエス・キリストのご降誕を待ち望むアドヴェント:待降節を迎えます。
ところで、主の救いの福音を信じておられるみなさまは、神さまとの出会いの時、救いの日をきっと思い起こすことができるでしょう。その時から今に至ります道のりを思い起こすと、そこには不思議な主の先立ち、導かれているというほかない出来事が多くあったのではないでしょうか。
ヨハネ15章16節に、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」又、ヨハネの第1の手紙4章10節には、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださった。そうして「わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに神の愛があります」と、述べられています。
救い主であるキリストと出会い、今もキリスト者としてあり続けることができている恵みは、まさにこの「神さまの先立つ選びと愛」があるからです。
以前にもお話しましたが、わたしが初めて教会に行くことになったのは小学校4年生の時でした。その頃近所の同年代の仲間たちと家の近くにある中学校の空き地で草野球をしていました。その仲間の一人に学校では秀才と言われていた男がいまして、彼と草野球の対戦をしたとき、ひょんなことからあるかけをしたのです。彼は、「俺のチームが勝てば俺のいうことを聞いてほしい。ただしお前のチームが勝てば、何でもいうことを聞く」と言ってきたのです。どういう意味かは深く考えず、よしゃ受けてやろうということになりましたが、結果は私のチームが負けてしまい、結局彼のいうことを飲むはめになったのです。約束は約束、その彼の要求というのが、「次の日曜日に教会に来いよ」というものだったのです。
わたしはいさぎよく次の日曜日から、朝9時より始まる教会学校に行くようになったというのがそもそもの始まりだったのです。さらにキリストと教会とのつながりが密になったのは、中学生になってからの少年少女の活動を通してでした。そうしてわたしは「神さまと出会う」きっかけをもらい、中3の時に参加した伊豆の天城山荘で開かれた全国少年少女大会でイエス・キリストをわたしの救い主として信じる決心をし、高1のイースターに信仰告白してバプテスマを受けたのです。これも、わたしが神を選んだということではなく、神さまがわたしを選んでくださった。わたしが神さまを愛したのではなく神さまがわたしを愛し、わたしのためにキリストを救い主として遣わしてくださった、という出来事でありました。
「バプテスマ」は、その語の人生においてもわたしの救いの原点であり、神さまの先立つ選びと愛の確信にわたしを連れ戻してくれます。
わたしはバプテスマを受けた後に高校生時代いじめに遭ったりもしました。社会人になってからも上司とうまが合わず日々顔を合わすのがしんどかったり、企業のやり方にもやるせなさを感じたりと、挫折も経験しました。特に社会人になってから日曜出勤が時々あって、それがほんとうに精神的にしんどかったです。というのも学生時代の日曜日は考えなくても教会に行く日、礼拝の日というのがあたりまえのようになっていたからです。しかし社会人になるとそれが当たり前にはゆかなくなり、礼拝にあずかれない日は魂の渇きを覚えました。そうして悩む日々が生じていったのです。
けれどそうした闘い、葛藤が起こり、自分の信仰について揺さぶられることによって、神さまと自分との関係を改めて考え、見つめ直す機会ができたのです。それで日曜礼拝の他にも水曜祈祷会に極力出るようにしました。仕事帰り体は確かに疲れていましたが、水曜祈祷会は出て、共に御言葉を聞き、共に讃美して祈り合う中で、心が元気にされていきました。次の日曜日たとえ出勤で礼拝に出れなくなっても、水曜祈祷会で信仰の給油をしていたら、また次の水曜日までの1週間あゆんでいく霊の油を蓄えることができました。この信仰の油を切らさないようにする。神と私との関係をしっかり築いていくことの大切さを、社会人になってからほんとうに知らされました。少年少女の学生時代は教会の友や仲間がいたこともあって楽しく、又、自然に教会や礼拝にゆくことができていた。まあそれを妨げるような闘いや葛藤がほとんどなかった、まあそれは確かに良かったともいえます。しかし、そのまま順調に信仰の戦いや葛藤のないまま、ただみんなが教会に行っているから自分も行っているというような気持だけでいたなら、多分自分はその後教会を離れていたかも知れません。ある意味日曜出勤で礼拝が守れない、残業で祈祷会に出れない、そういう妨げや障害が生じることで、神さまと自分との関係を再び見つめ直す機会ができたと、それは今考えると、神さまがわたしにこういう時を備え、信仰を鍛え、育んで下さったのだと、思えるのです。
主の招きと育みは人それぞれです。けれど、その救いは神のご計画による召しである事に変わりありません。
本日読まれましたイザヤ書42章1節に、「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」と、神さまの選びが語られています。さらに6節では、「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った」と、主が直接呼びかけ、手を取って僕を立てられます。
先にお読みしました、主イエスの「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ。それは行ってあなたがたが実を結ぶようになるためである」との神さまの先立つ選びについてのお言葉。又「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださった」という一方な神さまの愛によって、私たちひとり一人はキリスト者とされているのです。
さて、今回の箇所で言われている「主の僕」についてですが。
主なる神は、都エルサレムの陥落により捕われてわれていた主の民の中からご自身の僕を選び、霊を注いでお立てになられます。その人は、イスラエル・ユダだけでなく島々の国々、つまり世界のすべての人に、「解放の告知」をなすために立てられるというのです。それはここでは第2イザヤ、預言者イザヤのいわば2代目となる人物であったでしょう。
この神さまが選び、お用いになられる「主の僕」は、まずどういう人かと申しますと。
2節「国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」とありますように、王や世の力をもつ指導者たちがするように権勢をもって「叫び、呼ばわり、巷に声を響かせ」るようには振舞う事をしません。
その主の僕は、3節、柔和に「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく裁きを導き出し、確かなものとする」のです。
この「傷ついた葦」、あるいは「暗くなってゆく灯心」とは、ここでユダ、イスラエルの人びとの心の状態を示していました。それは罪のゆえに捕囚の身となり、神に対する信頼が薄れ、信仰が瀕していく彼らの姿です。神に見捨てられたと嘆く彼らの心は暗くなり、消え入りそうでした。傷ついた葦も同様です。滅ぼされがれきと化した中に取り残された弱く傷ついた人びと。しかし、主の選びと愛は変わることがありません。主は僕を選び、立てて民に遣わされたのです。
世の王や指導者達は国益や繁栄など世の事柄に関心を寄せます。そういう中で「傷ついた葦」は折り取られ、「消えそうな灯心」は吹き消されそうです。
しかし、主がお選びになった「主の僕」は、傷ついた魂、消え入りそうな魂に寄り添い、いやしを与えようとします。折れそうな心に伴われ、今にも消えてしまいそうな灯を優しく両手で包みこみ、再び光を取り戻すようにと働かれるのです
その僕は、1節に「彼は国々の裁きを導き出す」とあります。又3節にも「裁きを導き出して、確かなものとする。」さらに4節「この地に裁きを置くときまでは」と続きます。
「裁き」と言いますと、罪が有るか無いかを問い、それに従って厳罰に処するか否かハッキリとさせることが頭に浮かびますが。ここでの「裁き」と訳され原語は、「道」とも訳されるとのことです。
それに沿って口語訳聖書は3節を次のように訳しています。
「傷ついた葦を折ることなく、ほのくらい灯心を消すことなく、真実をもって『道』を示す。」
主の僕は、「傷ついた葦」「消えそうな灯心」である捕囚のユダの人びと、また都に遺されたユダの民が主の愛と真実に目覚め、主の御心に生きていくように、まことの道を示し、働きかけるのです。心の目が開かれ、主に心を向けていくようにたゆみなく働きかけ、促し道を示すのです。
4節も口語訳でお読みしますと、「彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。島々は彼の教えを待ち望む。」
主の僕はどのような時もその魂は衰えず、落胆することもありません。なぜなら彼は自分の考えや力によるのではなく、主から受けた「霊」によって主の僕として生かされていたからです。そうして主の召命、その使命の業を果たし、遂に示すべき道を確立するのです。
6-7節には、その主の僕に対して、主自らの特別な力強い語りかけがなされます。
「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き、捕われた人びとをその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために。」
その人は、「見ることのできない目」「捕われ人」を救い出すために立てられるのです。
この「見ることのできない目」「「捕われ人」とは、主である神のお心に聞き従うのではなく、この地上の神ならざるものに依り頼んで虚しく生きる人たち、世の力に捕われたかたくなな心で真理の道から外れ、暗闇に住む人のことです。それは又、このイザヤの時代のユダの民だけでなく、すべての国々、地上のあらゆる島々で主の真理の教え待ち望む人たちのことです。
主の僕はそれらすべての人に、解放をもたらすために主である神が特別に選び、霊を授けられます。
こうして主の僕はユダの人々のみならず、「諸国、世界の人びとの光」として立てられるのです。
新約聖書のルカによる福音書の4章を読みますと、主イエスがその公の活動をお始めになるにあたり、会堂で会衆を前にイザヤ書61章の言葉をお読みになられたということが記されています。
そこを読みますと、「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えるために。打ち砕かれた心を包み捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」と記されています。
主イエスはこのイザヤ書の言葉を会衆に読まれた後で次のように言われました。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。つまり、イザヤ書で主なる神さまが油と霊を注ぎ、良い知らせを伝えるために選び立てられたこの「主の僕」の出現は、実に新約聖書の時代に至って決定的な実現のときを迎えます。このイザヤ書で語られている全世界の解放の告知は、このイエス・キリストの到来と十字架と復活のみ業を通して、実現されていくのです。それは、この世の力や政治的業によってではなく、「主の僕」として義と愛であられる主なる神に仕えることを通して実現されていくのです
8節には、「わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず、わたしの栄誉を偶像に与えることはしない」とあります。
ここには活ける神さまの「栄光」と「栄誉」が宣言されております。世の権力や勢力といったものは活ける神の前では偶像に等しく、その支配下のもとで人は真の解放も救いも得ることができません。
9節「見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に。わたしがあなたたちにそれを聞かせよう。」
人間が根底から救われるために主の新しいご計画が告知されます。それは、世の権勢によらず、能力にもよらず、唯主の霊により仕える方が、それも僕となってこの世界にお出でくださるという驚くべき救いと解放の神のご計画であります。
フィリピ2章にこう記されています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、その十字架の死に至るまで従順でした。」
救い主であるキリストが人間と同じ者になる、ましてや僕のように仕える者の姿でお出でになるとは、人には考えも及ばないことです。しかし神の愛は、このキリストが人の痛みや苦悩を自らのものとして引き受け、痛み苦しむことを通して示されました。
神の愛のその究極のかたち、それは私たちの罪のために磔にされた十字架の苦難と死にほかなりません。私たちはその主の僕のお姿を通して、見ることのできなかった目を開かれ、罪の縄目やあらゆる捕らわれからの解放と共に、滅びの闇に住む絶望という名の牢獄から救い出されているのです。
イザヤ書41章9節~10節にこのようにあります。
「わたしはあなたを固くとらえ、地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」
地の果て、その隅々から呼び集められたキリスト者、クリスチャン。それは僕となられた神の子、イエス・キリストによって解放され、救い出された者であります。それは、私たちがキリストに倣い、主の僕として召し出されるためであります。
この神のご計画、そして、主が共におられ、助け支えてくださるとのお約束。この揺るぎない希望をもって、私たちも又、悩み多き世にあっても恐れ、たじろぐことなく、神と人とに仕え、福音を分かち合う者として今日もここから遣わされてまいりましょう。