クリスマス礼拝宣教 ルカ2章1~20節
メリークリスマス、救い主イエス・キリストのご降誕を心よりお祝い申しあげます。
今年は11月末からアドヴェントに入り、5回目の礼拝でクリスマスとなりました。アドヴェントを過ごす中で私たちは、待ち望んでいくことの大切さを学びました。先週は天使がおとめマリアにイエスさまの誕生を告げる記事から「変えられる時」というみ言葉を聴きました。主のみ言葉を思い巡らす時、天の御心に信頼して従っていく時、私たちは変えられます。そして、今日はいよいよ主イエスのご降誕をお祝いするクリスマスを迎えました。
本日は聖書ルカ2章1~20節より「飼い葉桶の中の御子」と題し、み言葉を聴いていきたいと思います。
ヨセフと身重となったマリアはベツレヘムに住民登録をするために出立するのですが、それは大変なことでありました。ガリラヤのナザレからベツレヘムまで120キロもあり、それは険しい道のりであったのです。先週もご紹介した映画「マリア」には、その旅路の中で二人の信頼関係が主のみ言葉を支えに強められ、揺るぎないものへと変えられていく様が見事に描き出されていました。
私たちも時に望んだわけでもないのに険しい道のりを強いられ、歩まされているように思える時があるかも知れません。しかし、そこでみ言葉を杖とし、支えとして人生の旅路を歩みゆくことで、神にある平安と信頼を学ぶことになるでしょう。又、祈り支え合う兄弟姉妹を得ることとなっていくでしょう。これらは何ものにもかえがたい人生の宝となるものです。
さて、聖書は「マリアは月満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶の中に寝かせた」と簡潔に記します。この当時、ローマの支配下にあったユダヤの地の人々は、様々な束縛や制限を受けた生活を強いられていました。そのような中でイスラエルの人々は、預言者たちによって告げられたメシアがやがて出現し、ユダヤの人々に解放をもたらしてくれると信じていたのです。彼らが祈り待ち望んでいたのは、救世主メシアの華々しい出現でありました。確かにそのメシアは確かにユダヤの地にお生まれになりました、だがしかし、それは権力のある王宮や神殿にではなく、みすぼらしく薄暗い家畜小屋にお生まれになったのであります。これは人の思いを遥かに超えた出来事であります。
聖書はその理由の一つを「宿屋には彼らの泊る場所がなかったからである」と記します。
確かに住民登録のためにベツレヘムの町に多くの人々が来て宿も取れなかったということはあるでしょう。けれどベツレヘムはヨセフのお里であります。親戚や知り合いも住んでいたはずです。それは恐らく結婚前のマリアが身重になったということが何らかのかたちで親戚や知人の耳にも入り、それは当時としては大変なゴシップ、親族の恥、というようなことで誰も彼らを家に迎え入れる者がなかったということもありえたことでしょう。いずれにしても身重のマリアとヨセフは客間には入れず、家畜小屋でマリアは御子イエスを産むのです。
「宿屋には彼らの泊る場所がなかった。」それは人の世が神の御子イエスさまをお迎えするにはあまりに乏しいものであったということもできます。その一方で、天からの視座、神さまのご計画は、世から疎外され、軽んじられ、顧みられないようなところに、自らお降りになられ、その低みから全人類の贖いの業が始められていくという、真に驚くべき神のみ業が象徴されているのであります。
そのようにユダヤの町の人々が神の御子を受け入れる余地のなかった中、この神の御子、救い主の誕生の知らせが最初にもたらされたのは、「野宿をしながら夜通し羊の群の番をしていた羊飼いたち」でありました。王宮や神殿に仕えていた宗教家たちや律法や預言に詳しかった学者たちではなく、貧しく名も無い無学な羊飼いたちであったのです。
旧約聖書の時代はダビデ王が羊飼いであったように、羊飼いは名誉ある職業とされ人々から尊敬されていました。しかし新約聖書の時代になりますと、羊飼いの仕事は、貧しく身分の低い者たちが負うようになりました。彼らは年中羊と共に生活していたため、町で豊かに暮らす人たちからすれば体裁が汚らしく、悪臭にみち、定住する場所もないということでさげすまれ、公の裁判の証人にもなることができませんでした。羊飼いたちは自分たちの仲間とだけ、特別な言葉を使って語り合い、過ごしていたというのです。そのように彼らは社会にあって様々な差別や偏見を受け、孤立した生活をせざるを得なかったのです。
その羊飼いたちのもとに天使が現れ、神の御子・救い主がお生まれになった知らせが真っ先に届けられるのですね。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
救い主、主メシアは、まずユダヤの社会にあって差別や偏見を受け、疎外されて生きざるを得ない羊飼いたちの前にその姿を現してくださったのです。もし、救い主、主メシアが王宮や神殿の中でお生まれになったとしたなら、彼らはそのお姿を見る事も拝する事もなかったでしょう。彼らは隔ての壁の外におかれ、希望の知らせを知ることなく生きていくしかなかったでしょう。しかし、神はそうなさいませんでした。救いの知らせは彼ら羊飼いにこそ、真先にもたらされたのであります。
羊飼いたちはこの天使の出現とみ告げに対して「非常に驚いた」とあります。それはただビックリしたというだけでなく、心の底から畏れの念が生じたということでしょう。というのは、彼らは社会にある自分たちの立場や身分をわきまえていたからです。
「あなたがたのために救い主がお生まれになった」。
「このような自分たちのために救い主がお生まれくださった。何と畏れ多いことか。もったいないことか。」アメージンググレースの一節に「おどろくばかりの恵みなり、この身のけがれを知れる我に」との歌詞がありますように、羊飼いたちはその貧しさゆえに、主の驚くべき恵みの大きさに気づく人たちであったのです。主イエスはおっしゃいました。「心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである。」救いの恵みはいつも、それを最も必要とする人に真先に与えられるのです。
さらに天使のお告げに天の大軍が加わり神を賛美します。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
この賛美の歌声が羊飼いらに祝福のシャワーとなって降り注ぎます。羊飼いたちは大きな喜びに満ちあふれました。彼らは「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださった出来事を見ようではないか」と話し合った後、聖書にあるとおり「急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」というのです。一刻も早く救い主にお会いしたいという期待に胸ふくらませた羊飼いたちの思いが伝わってくるようです。
彼らは「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」とあります。しかしそこで終っていません。羊飼いたちは「幼子(救い主)について天使が話してくれたことを人々に知らせた」というのです。彼らは自分たちに与えられた良き知らせを、次にどうしたらよいか知っていました。それは「民全体に与えられるべき大きな喜び」なのです。
彼ら羊飼いは町の人々から日頃は差別や偏見を受け、疎外されてきたのです。けれども彼らはその町の中に入り、その人々に「大きな喜び」を知らせたのです。
実に神さまはその救いの恵みによって、人を隔てる壁を突き崩し、すべての人に救いの平和をもたらそうとされるのです。むろんその平和が真実となってゆくには主の十字架のみ業と復活を経て、聖霊の降臨が与えられてからでありましょう。
その救いの業は、この神の御子の誕生というクリスマスから始まり、今も、キリストの福音を心から喜び受けとった人々を通して伝播され、救いと平和(和解)をもたらし続けているのです。
羊飼いたちに現れた天使は言いました。「民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」
そうです、救い主イエスの誕生は、全世界のすべての人々のための大きな喜びの知らせ・福音であります。
しかし、それがまず、真先にもたらされたのは、世にあって差別と偏見を受け、疎外され、弱い立場におかれ、小さくされていた貧しい人たちでありました。主は彼らの間からそれをお始めになられるのです。
「飼い葉桶の中の御子」に象徴されますように、この地上において小さくされている人、弱い立場におかれている人のお一人おひとりが受け入れられ、やさしく包まれてゆくところから、すべての人たちの救いが実現していく。それが聖書の真髄ともいえるメッセージなのであります。
「いと高きところに栄光、神にあれ、地に平和、御心に適う人にあれ。」
この主から与えられた御約束が私どもの生きる世界にあって実現していくために、心から祈り、労していきたいと願うものであります。私たちの教会も、小さくされている人、弱い立場におかれている人のお一人おひとりが受け入れられ、やさしく包まれてゆく、そういう教会であり続けたいと願うものであります。そこにすべての人々の喜びとなる主の救いの福音の豊かさがあるのです。
メリークリスマス、御子キリストが私たちの救い主となって来てくださったことに、心から喜び、この良き知らせ・福音を羊飼いたちのように一人でも多くの方と共に分かち合う者とされてまいりましょう。
メリークリスマス、救い主イエス・キリストのご降誕を心よりお祝い申しあげます。
今年は11月末からアドヴェントに入り、5回目の礼拝でクリスマスとなりました。アドヴェントを過ごす中で私たちは、待ち望んでいくことの大切さを学びました。先週は天使がおとめマリアにイエスさまの誕生を告げる記事から「変えられる時」というみ言葉を聴きました。主のみ言葉を思い巡らす時、天の御心に信頼して従っていく時、私たちは変えられます。そして、今日はいよいよ主イエスのご降誕をお祝いするクリスマスを迎えました。
本日は聖書ルカ2章1~20節より「飼い葉桶の中の御子」と題し、み言葉を聴いていきたいと思います。
ヨセフと身重となったマリアはベツレヘムに住民登録をするために出立するのですが、それは大変なことでありました。ガリラヤのナザレからベツレヘムまで120キロもあり、それは険しい道のりであったのです。先週もご紹介した映画「マリア」には、その旅路の中で二人の信頼関係が主のみ言葉を支えに強められ、揺るぎないものへと変えられていく様が見事に描き出されていました。
私たちも時に望んだわけでもないのに険しい道のりを強いられ、歩まされているように思える時があるかも知れません。しかし、そこでみ言葉を杖とし、支えとして人生の旅路を歩みゆくことで、神にある平安と信頼を学ぶことになるでしょう。又、祈り支え合う兄弟姉妹を得ることとなっていくでしょう。これらは何ものにもかえがたい人生の宝となるものです。
さて、聖書は「マリアは月満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶の中に寝かせた」と簡潔に記します。この当時、ローマの支配下にあったユダヤの地の人々は、様々な束縛や制限を受けた生活を強いられていました。そのような中でイスラエルの人々は、預言者たちによって告げられたメシアがやがて出現し、ユダヤの人々に解放をもたらしてくれると信じていたのです。彼らが祈り待ち望んでいたのは、救世主メシアの華々しい出現でありました。確かにそのメシアは確かにユダヤの地にお生まれになりました、だがしかし、それは権力のある王宮や神殿にではなく、みすぼらしく薄暗い家畜小屋にお生まれになったのであります。これは人の思いを遥かに超えた出来事であります。
聖書はその理由の一つを「宿屋には彼らの泊る場所がなかったからである」と記します。
確かに住民登録のためにベツレヘムの町に多くの人々が来て宿も取れなかったということはあるでしょう。けれどベツレヘムはヨセフのお里であります。親戚や知り合いも住んでいたはずです。それは恐らく結婚前のマリアが身重になったということが何らかのかたちで親戚や知人の耳にも入り、それは当時としては大変なゴシップ、親族の恥、というようなことで誰も彼らを家に迎え入れる者がなかったということもありえたことでしょう。いずれにしても身重のマリアとヨセフは客間には入れず、家畜小屋でマリアは御子イエスを産むのです。
「宿屋には彼らの泊る場所がなかった。」それは人の世が神の御子イエスさまをお迎えするにはあまりに乏しいものであったということもできます。その一方で、天からの視座、神さまのご計画は、世から疎外され、軽んじられ、顧みられないようなところに、自らお降りになられ、その低みから全人類の贖いの業が始められていくという、真に驚くべき神のみ業が象徴されているのであります。
そのようにユダヤの町の人々が神の御子を受け入れる余地のなかった中、この神の御子、救い主の誕生の知らせが最初にもたらされたのは、「野宿をしながら夜通し羊の群の番をしていた羊飼いたち」でありました。王宮や神殿に仕えていた宗教家たちや律法や預言に詳しかった学者たちではなく、貧しく名も無い無学な羊飼いたちであったのです。
旧約聖書の時代はダビデ王が羊飼いであったように、羊飼いは名誉ある職業とされ人々から尊敬されていました。しかし新約聖書の時代になりますと、羊飼いの仕事は、貧しく身分の低い者たちが負うようになりました。彼らは年中羊と共に生活していたため、町で豊かに暮らす人たちからすれば体裁が汚らしく、悪臭にみち、定住する場所もないということでさげすまれ、公の裁判の証人にもなることができませんでした。羊飼いたちは自分たちの仲間とだけ、特別な言葉を使って語り合い、過ごしていたというのです。そのように彼らは社会にあって様々な差別や偏見を受け、孤立した生活をせざるを得なかったのです。
その羊飼いたちのもとに天使が現れ、神の御子・救い主がお生まれになった知らせが真っ先に届けられるのですね。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
救い主、主メシアは、まずユダヤの社会にあって差別や偏見を受け、疎外されて生きざるを得ない羊飼いたちの前にその姿を現してくださったのです。もし、救い主、主メシアが王宮や神殿の中でお生まれになったとしたなら、彼らはそのお姿を見る事も拝する事もなかったでしょう。彼らは隔ての壁の外におかれ、希望の知らせを知ることなく生きていくしかなかったでしょう。しかし、神はそうなさいませんでした。救いの知らせは彼ら羊飼いにこそ、真先にもたらされたのであります。
羊飼いたちはこの天使の出現とみ告げに対して「非常に驚いた」とあります。それはただビックリしたというだけでなく、心の底から畏れの念が生じたということでしょう。というのは、彼らは社会にある自分たちの立場や身分をわきまえていたからです。
「あなたがたのために救い主がお生まれになった」。
「このような自分たちのために救い主がお生まれくださった。何と畏れ多いことか。もったいないことか。」アメージンググレースの一節に「おどろくばかりの恵みなり、この身のけがれを知れる我に」との歌詞がありますように、羊飼いたちはその貧しさゆえに、主の驚くべき恵みの大きさに気づく人たちであったのです。主イエスはおっしゃいました。「心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである。」救いの恵みはいつも、それを最も必要とする人に真先に与えられるのです。
さらに天使のお告げに天の大軍が加わり神を賛美します。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
この賛美の歌声が羊飼いらに祝福のシャワーとなって降り注ぎます。羊飼いたちは大きな喜びに満ちあふれました。彼らは「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださった出来事を見ようではないか」と話し合った後、聖書にあるとおり「急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」というのです。一刻も早く救い主にお会いしたいという期待に胸ふくらませた羊飼いたちの思いが伝わってくるようです。
彼らは「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」とあります。しかしそこで終っていません。羊飼いたちは「幼子(救い主)について天使が話してくれたことを人々に知らせた」というのです。彼らは自分たちに与えられた良き知らせを、次にどうしたらよいか知っていました。それは「民全体に与えられるべき大きな喜び」なのです。
彼ら羊飼いは町の人々から日頃は差別や偏見を受け、疎外されてきたのです。けれども彼らはその町の中に入り、その人々に「大きな喜び」を知らせたのです。
実に神さまはその救いの恵みによって、人を隔てる壁を突き崩し、すべての人に救いの平和をもたらそうとされるのです。むろんその平和が真実となってゆくには主の十字架のみ業と復活を経て、聖霊の降臨が与えられてからでありましょう。
その救いの業は、この神の御子の誕生というクリスマスから始まり、今も、キリストの福音を心から喜び受けとった人々を通して伝播され、救いと平和(和解)をもたらし続けているのです。
羊飼いたちに現れた天使は言いました。「民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」
そうです、救い主イエスの誕生は、全世界のすべての人々のための大きな喜びの知らせ・福音であります。
しかし、それがまず、真先にもたらされたのは、世にあって差別と偏見を受け、疎外され、弱い立場におかれ、小さくされていた貧しい人たちでありました。主は彼らの間からそれをお始めになられるのです。
「飼い葉桶の中の御子」に象徴されますように、この地上において小さくされている人、弱い立場におかれている人のお一人おひとりが受け入れられ、やさしく包まれてゆくところから、すべての人たちの救いが実現していく。それが聖書の真髄ともいえるメッセージなのであります。
「いと高きところに栄光、神にあれ、地に平和、御心に適う人にあれ。」
この主から与えられた御約束が私どもの生きる世界にあって実現していくために、心から祈り、労していきたいと願うものであります。私たちの教会も、小さくされている人、弱い立場におかれている人のお一人おひとりが受け入れられ、やさしく包まれてゆく、そういう教会であり続けたいと願うものであります。そこにすべての人々の喜びとなる主の救いの福音の豊かさがあるのです。
メリークリスマス、御子キリストが私たちの救い主となって来てくださったことに、心から喜び、この良き知らせ・福音を羊飼いたちのように一人でも多くの方と共に分かち合う者とされてまいりましょう。