日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

飼い葉桶の中の御子

2011-12-28 09:20:51 | メッセージ
クリスマス礼拝宣教 ルカ2章1~20節 

メリークリスマス、救い主イエス・キリストのご降誕を心よりお祝い申しあげます。
今年は11月末からアドヴェントに入り、5回目の礼拝でクリスマスとなりました。アドヴェントを過ごす中で私たちは、待ち望んでいくことの大切さを学びました。先週は天使がおとめマリアにイエスさまの誕生を告げる記事から「変えられる時」というみ言葉を聴きました。主のみ言葉を思い巡らす時、天の御心に信頼して従っていく時、私たちは変えられます。そして、今日はいよいよ主イエスのご降誕をお祝いするクリスマスを迎えました。

本日は聖書ルカ2章1~20節より「飼い葉桶の中の御子」と題し、み言葉を聴いていきたいと思います。 

ヨセフと身重となったマリアはベツレヘムに住民登録をするために出立するのですが、それは大変なことでありました。ガリラヤのナザレからベツレヘムまで120キロもあり、それは険しい道のりであったのです。先週もご紹介した映画「マリア」には、その旅路の中で二人の信頼関係が主のみ言葉を支えに強められ、揺るぎないものへと変えられていく様が見事に描き出されていました。
私たちも時に望んだわけでもないのに険しい道のりを強いられ、歩まされているように思える時があるかも知れません。しかし、そこでみ言葉を杖とし、支えとして人生の旅路を歩みゆくことで、神にある平安と信頼を学ぶことになるでしょう。又、祈り支え合う兄弟姉妹を得ることとなっていくでしょう。これらは何ものにもかえがたい人生の宝となるものです。

さて、聖書は「マリアは月満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶の中に寝かせた」と簡潔に記します。この当時、ローマの支配下にあったユダヤの地の人々は、様々な束縛や制限を受けた生活を強いられていました。そのような中でイスラエルの人々は、預言者たちによって告げられたメシアがやがて出現し、ユダヤの人々に解放をもたらしてくれると信じていたのです。彼らが祈り待ち望んでいたのは、救世主メシアの華々しい出現でありました。確かにそのメシアは確かにユダヤの地にお生まれになりました、だがしかし、それは権力のある王宮や神殿にではなく、みすぼらしく薄暗い家畜小屋にお生まれになったのであります。これは人の思いを遥かに超えた出来事であります。

聖書はその理由の一つを「宿屋には彼らの泊る場所がなかったからである」と記します。
確かに住民登録のためにベツレヘムの町に多くの人々が来て宿も取れなかったということはあるでしょう。けれどベツレヘムはヨセフのお里であります。親戚や知り合いも住んでいたはずです。それは恐らく結婚前のマリアが身重になったということが何らかのかたちで親戚や知人の耳にも入り、それは当時としては大変なゴシップ、親族の恥、というようなことで誰も彼らを家に迎え入れる者がなかったということもありえたことでしょう。いずれにしても身重のマリアとヨセフは客間には入れず、家畜小屋でマリアは御子イエスを産むのです。
「宿屋には彼らの泊る場所がなかった。」それは人の世が神の御子イエスさまをお迎えするにはあまりに乏しいものであったということもできます。その一方で、天からの視座、神さまのご計画は、世から疎外され、軽んじられ、顧みられないようなところに、自らお降りになられ、その低みから全人類の贖いの業が始められていくという、真に驚くべき神のみ業が象徴されているのであります。

そのようにユダヤの町の人々が神の御子を受け入れる余地のなかった中、この神の御子、救い主の誕生の知らせが最初にもたらされたのは、「野宿をしながら夜通し羊の群の番をしていた羊飼いたち」でありました。王宮や神殿に仕えていた宗教家たちや律法や預言に詳しかった学者たちではなく、貧しく名も無い無学な羊飼いたちであったのです。
旧約聖書の時代はダビデ王が羊飼いであったように、羊飼いは名誉ある職業とされ人々から尊敬されていました。しかし新約聖書の時代になりますと、羊飼いの仕事は、貧しく身分の低い者たちが負うようになりました。彼らは年中羊と共に生活していたため、町で豊かに暮らす人たちからすれば体裁が汚らしく、悪臭にみち、定住する場所もないということでさげすまれ、公の裁判の証人にもなることができませんでした。羊飼いたちは自分たちの仲間とだけ、特別な言葉を使って語り合い、過ごしていたというのです。そのように彼らは社会にあって様々な差別や偏見を受け、孤立した生活をせざるを得なかったのです。

その羊飼いたちのもとに天使が現れ、神の御子・救い主がお生まれになった知らせが真っ先に届けられるのですね。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

救い主、主メシアは、まずユダヤの社会にあって差別や偏見を受け、疎外されて生きざるを得ない羊飼いたちの前にその姿を現してくださったのです。もし、救い主、主メシアが王宮や神殿の中でお生まれになったとしたなら、彼らはそのお姿を見る事も拝する事もなかったでしょう。彼らは隔ての壁の外におかれ、希望の知らせを知ることなく生きていくしかなかったでしょう。しかし、神はそうなさいませんでした。救いの知らせは彼ら羊飼いにこそ、真先にもたらされたのであります。

羊飼いたちはこの天使の出現とみ告げに対して「非常に驚いた」とあります。それはただビックリしたというだけでなく、心の底から畏れの念が生じたということでしょう。というのは、彼らは社会にある自分たちの立場や身分をわきまえていたからです。
「あなたがたのために救い主がお生まれになった」。

「このような自分たちのために救い主がお生まれくださった。何と畏れ多いことか。もったいないことか。」アメージンググレースの一節に「おどろくばかりの恵みなり、この身のけがれを知れる我に」との歌詞がありますように、羊飼いたちはその貧しさゆえに、主の驚くべき恵みの大きさに気づく人たちであったのです。主イエスはおっしゃいました。「心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである。」救いの恵みはいつも、それを最も必要とする人に真先に与えられるのです。

さらに天使のお告げに天の大軍が加わり神を賛美します。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
この賛美の歌声が羊飼いらに祝福のシャワーとなって降り注ぎます。羊飼いたちは大きな喜びに満ちあふれました。彼らは「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださった出来事を見ようではないか」と話し合った後、聖書にあるとおり「急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」というのです。一刻も早く救い主にお会いしたいという期待に胸ふくらませた羊飼いたちの思いが伝わってくるようです。
彼らは「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」とあります。しかしそこで終っていません。羊飼いたちは「幼子(救い主)について天使が話してくれたことを人々に知らせた」というのです。彼らは自分たちに与えられた良き知らせを、次にどうしたらよいか知っていました。それは「民全体に与えられるべき大きな喜び」なのです。
彼ら羊飼いは町の人々から日頃は差別や偏見を受け、疎外されてきたのです。けれども彼らはその町の中に入り、その人々に「大きな喜び」を知らせたのです。
実に神さまはその救いの恵みによって、人を隔てる壁を突き崩し、すべての人に救いの平和をもたらそうとされるのです。むろんその平和が真実となってゆくには主の十字架のみ業と復活を経て、聖霊の降臨が与えられてからでありましょう。
その救いの業は、この神の御子の誕生というクリスマスから始まり、今も、キリストの福音を心から喜び受けとった人々を通して伝播され、救いと平和(和解)をもたらし続けているのです。

羊飼いたちに現れた天使は言いました。「民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」
そうです、救い主イエスの誕生は、全世界のすべての人々のための大きな喜びの知らせ・福音であります。
しかし、それがまず、真先にもたらされたのは、世にあって差別と偏見を受け、疎外され、弱い立場におかれ、小さくされていた貧しい人たちでありました。主は彼らの間からそれをお始めになられるのです。
「飼い葉桶の中の御子」に象徴されますように、この地上において小さくされている人、弱い立場におかれている人のお一人おひとりが受け入れられ、やさしく包まれてゆくところから、すべての人たちの救いが実現していく。それが聖書の真髄ともいえるメッセージなのであります。

「いと高きところに栄光、神にあれ、地に平和、御心に適う人にあれ。」
この主から与えられた御約束が私どもの生きる世界にあって実現していくために、心から祈り、労していきたいと願うものであります。私たちの教会も、小さくされている人、弱い立場におかれている人のお一人おひとりが受け入れられ、やさしく包まれてゆく、そういう教会であり続けたいと願うものであります。そこにすべての人々の喜びとなる主の救いの福音の豊かさがあるのです。

メリークリスマス、御子キリストが私たちの救い主となって来てくださったことに、心から喜び、この良き知らせ・福音を羊飼いたちのように一人でも多くの方と共に分かち合う者とされてまいりましょう。
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光は闇の中に輝いている

2011-12-25 20:12:03 | メッセージ
キャンドルサービス宣教  ヨハネ1章4~5節 

ここに救い主イエス・キリストのご降誕を記念し、キャンドルライトサービス(燭火礼拝)を共に持つことができます幸いを感謝いたします。
先ほどより旧約聖書の救い主の預言、受胎告知、降誕、天使と羊飼い、占星術の学者たちの場面を朗読し、讃美をささげるキャンドルライトサービスが持たれています。毎年この同じ聖書の個所と賛美歌が歌われるのですが。年に一度、それも年の瀬にこうして改めて主の救いの始まりを聞いて賛美する時に、不思議と新鮮な感動が与えられます。

今年もクリスマスカードを多くの方々から戴きましたが。カードにはだいたい例年だと「今日ダビデの町にあなたがたのために救い主がお生まれになった」とか、あるいは「いと高きところには栄光、神にあれ、地に平和、御心に適う人にあれ」などクリスマスの聖書の言葉が書かれているものなのですが。今年多かったのは「光は闇の中に輝いている」というみ言葉でありました。ご承知のとおり今年はあの未曾有の3.11東日本大震災と原発事故が起こり、いまだに終結せず、多くの被災者の方々が不安と恐れ、先行きの見えない中で、ほんとうに私どもにはとても想像しがたい過酷な日々を過ごしておられますが。台風や水害もありました。
この世界の人々の救い主として来てくださった、まことの光であられるキリストは、闇のような中におかれている方々の思いに必ずや寄り添い、共にあゆんでいてくださる。そんな祈りと願いが、そこに込められているように思えます。

私は、今年を象徴する一文字について当初、震災で多くの方の命が失われたこと。又、その大きな出来事から被災地の方がたが懸命に「生きよう」されるお姿に感銘を受けたものですから、今年は「命」という言葉が選ばれるのではないかと考えておりました。しかし「絆」という言葉が選ばれたのですね。
核家族化や高齢化が進み、親族や近隣、地域社会といった人と人とのつながりが希薄となってゆく世相の中で起こった、あの震災。辛く悲しい出来事ではありますが、それは「人はひとりでは生きていけない」ということを思い起こさせ、つながって生きることの豊かさ、暖かさを教えてくれました。暗い出来事の只中にあって「決して独りではない」という強いメッセージ、「絆」が命の力となっている。私どもの命はたった一つのかけがえのないものだといえますが、その「命は、つながっている」ということであります。

もう一度、ヨハネによる福音書1章4節~5節をお読みいたします。(口訳聖書が適訳)
「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。暗闇はこれに勝たなかった。」この言とはイエス・キリストであります。神の言が受肉した。
聖書は「イエス・キリストに命があり、その命であるキリストは人の光」だと語ります。
神の御子イエス・キリストが救い主としてこの世にお生まれになられたクリスマス。
それを記念しこうしてキャンドルライトサービスの時を持っておりますが。この暗闇にキャンドルの灯が照り輝くように、キリストにこそ、まことの命をもって人を照らす光なのであります。このキリストを信じ、受け入れ、キリストとつながって生きる時、まことの命によって生きる者とされるのであります。キリストは暗闇のうちにある人にまことの命と希望を与える光なるお方であります。

「光は暗闇の中で輝いている」と記されてあるように、暗闇が深ければ深いほど、その光は輝きをまして人を照らすのであります。そして何よりもあり難く、心強いのは、「暗闇は光に勝たなかった」、どのような闇の勢力であっても、光であられるキリストに打ち勝つことができなかったというのであります。その私たちのための勝利、すなわち完全な救いは、キリストの十字架の贖いによって完全に成し遂げられました。神は今、この「救いの光」という素晴らしいプレゼントを私たちに差し出して下さいます。

今日このように共にキャンドルライトサービスに与り、キリストが今助けを必要としているすべての人々のもとに、救い主として、まことの光としておいで下さったことを聖書から聞きました。本日初めていらっしゃった方もここにおられるでしょう。ぜひ、神の独り子イエス・キリストを心にお迎えし、新しい人生を始めて戴きたいとお勧めいたします。まことの光によって希望の光を灯された人は、そのともし火の光を身近な隣人一人一人と一緒に共に分かち合うべく、今希望の灯を必要としている方々のもとへ、と遣わされてまいりましょう。そこに真実の絆が結ばれてゆくことを願い祈ります。

クリスマス、すべての人々に与えられた神さまからの愛の贈りもの。「栄光がいと高き天にありますように、地には平和」が、すべての人々のうえに臨みますように。メリークリスマス!主イエスのご降誕を心からお祝いいたします。
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変えられる時

2011-12-18 18:39:36 | メッセージ
宣教 ルカ1章26~38節 

本日はルカ1章より、「変えられる時」と題し、み言葉を聴いていきます。この個所は受胎告知の場面としてよくこのアドヴェントの時期に読まれる箇所であり、私どもにも馴染み深い記事であります。
救い主誕生の告知は、マタイ福音書ではマリアのいいなずけのヨセフに、このルカ福音書ではマリアという一人のおとめにスポットライトがあてられています。
祈祷会の聖書の学びの時に、教会学校のクリスマスページェント(降誕劇)のこの場面のことが話題にのぼりましたが。天使が「恵まれた女よ、おめでとう」と受胎告知をいたしますと、マリアが間髪入れずに「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と、まあそんなふうに即答するのですね。けれどもマリアの置かれた状況等を考えましても、そんなに「はいはい、ありがたいことです、どうぞ」などと言えるものではなかったでしょうから、マリアが天使の言葉を受け入れていくには相当な沈黙の時間といいますか、思い巡らし悩んでいる時間があったのではないでしょうか。教会図書の棚に「マリア」という比較的新しい映画のビデオがございますが。それを観ますと、天使の言葉を聞きマリアが「お言葉どおりに」と応えていくまで、彼女は日常の中でそれを思い巡らし悩んだ様子が丁寧に描かれております。今日はそんなマリアが、神のみ言葉とご計画を受けとめていくプロセスを覚えながら、み言葉に聴いていきたいと思います。

さて、マリアは婚約者のヨセフと結婚をし、平凡ですが幸せな家庭を築くはずでした。
ところが、そこに天使が現れて「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」との言葉を聞くのです。マリアは戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ、口語訳では「思い巡らした」とあります。
いきなり天使の出現を受け「おもでとう、恵まれた方」と言われても怖じ惑うのは当然でしょうし、「主があなたと共におられる」と言われても、一体何の事だろうかと考え込んだのも無理ありません。さらに天使は「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みを戴いた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」とお告げになります。
マリアはこの天使のお告げを一体どのように聞いたのでしょうか。一方的に語られる神のご計画。それも自分が子を産むことから起こされるというのです。そうなりますと、おのずといろんな思い悩みや不安、恐れがきっとマリアのうちに襲ってきたはずであります。マリアはヨセフと婚約していました。が、ヨセフが知らないうちに胎に子を宿すということになるのですから、その現実を引き受けなければならない苦悩は深刻でした。それは姦淫罪で石打ちの刑に処せられるというマリア自身の身に危険が及ぶことであり、又婚約者のヨセフに対してどう申し開きができるのかという恐れと不安もあったことでしょう。
マリアは天使の言葉に「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と答えます。そこにマリアが天使に対して、「そんなことはありえない」という精一杯抵抗する様が読みとれます。

しかし、マリアは38節では「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と、まっすぐに応えていくのですね。そのように本日の個所には、重大なお告げを受け入れ切れずに戸惑い、恐れと不安を抱いていたマリアと、御言葉を受け入れて生きようとするマリアの姿が描かれています。

マリアがそのように変えられたのは一体何によるのでしょうか。ここでもう一人の登場人物である天使にスポットをあててみましょう。
天使は「神に仕え、神のみ旨を伝えたり、人間を守護し導く存在」と言われています。
ルカ福音書によれば、マリアに主のお告げを伝えたのは大天使ガブリエルであったとあります。先ほどの話にも出ましたクリスマスのぺ―ジェント(降誕劇)の中で、その舞台回しをしていく役割、話を進めていく役割は、よくよく考えますとみな天使たちなのです。マリアに天使が現れて告げる。羊飼いに天使が現れて告げる。博士たちにやはり天使が現れて告げる。その前後にはザカリアに、またヨセフにも天使が現れます。これはクリスマスの物語の一つの特徴であります。クリスマスの出来事はこの天使を抜きに語ることができないのです。そして今日の場面では、主の言葉を受け入れ切れずに戸惑いや恐れ不安を抱えているマリアが変えられて、それを受け入れて生きるようにと天使が励ましているのです。

以前にもお話しましたが。私が神学生の時代に恩師である牧師が、礼拝の幼児祝福式に「この子のため、又、この子を守り育てる親や家族、また教会の家族のためにお祈りします」と祈られた後に、「この子にいつもついて守ってくださる天のみ使いのためにお祈りします」とおっしゃった言葉が今でも心に残っています。その恩師からは「親は子供に対して支配的になったり、自分に都合よく、思い通りに育てたくなる。しかし、人はそれぞれに、たとえそれが子どもであっても、神さまがかけがえのないたった一つの作品としてお造りになり、育んでおられる。その御心が成るために、その子には、その子を守る天使がついている。その子にはその子を守る専門の天使がついてくださっている。だから、その子の神聖なる領域を侵したり、蔑ろにすることは親ですら許されていない。その天使が許さなければ、親はどうあろうともその子を支配することなどできない」ということを教えて戴きました。これは親子関係だけのことではありません。人と人の関係、又教育の現場にもあてはまることといえるでしょう。大阪の教育基本条例が改悪されようとしていることも、これはある意味天使の領域を侵す問題と言えないでしょうか。
まあ今の子どものことを申しましたが、大人に対してもイエスさまはマタイ18章で、「心を入れ替え、幼子のようにならなければ決して天の国に入ることは出来ない。自分を低くして子どものようになる人こそ、天の国でいちばん偉いのだ」と言われました。又、主のために、そのような小さき弱い人を受け入れる人の幸いを説かれました。それから続けてこうも言われています。「これらの小さな者を一人でも軽んじないよう気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつも天の父の御顔を仰いでいるのだから」。

さて、話を聖書に戻しますが。
マリアは天使の励ましによって変えられたのですが。それは具体的に「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。さらに「神にできないことは何一つない」というみ言葉であります。この天使の言葉を信じて受けとった時、彼女はもはや迷いなくまっすぐに、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言い表すことができたのです。
その決断の先に待ちうけていた現実の問題は確かに厳しいものでありました。マリアが引き受けていこうとしていることは、ごく若い一人の女性が負うにはあまりに大きな課題がありました。婚約者や社会からもドロップアウトされてしまう、これから何も頼るものがなく、何も支えられるものがないところに身をおくという決断であったからです。
しかしマリアは、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」とのみ言葉を身に受け、その約束にかけて生きようとする決断をしたのです。
誰にも頼れない。親にも、いいなずけのヨセフさえ頼れないその中で、ただ一つ確かな支え。それは天使の伝えたこのみ言葉であり、「神にできないことは何一つない」というみ言葉への信頼でありました。彼女は目に見える保証によらず、聖霊によって支えられる信仰に自分を委ねきった、かけたのです。マリアはその信仰によってこの未知の出来事を受けとってゆくのです。
高齢のエリサベトの胎に子(バプテスマのヨハネ)を宿すという告知も、このおとめマリアの胎に救い主イエスを宿すという告知も、神のご計画は人の思いを遥かに超えており、それは人の計画とは異なるものであります。差し出された神のご計画が、自分の計画や願望と異なった時、マリアのように「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」とは素直に言えないのが私たちではないでしょうか。又、私たちは自分の力で何かを得ようとしたり、逆に遠ざけようとするので、自分がこれだけのことをするから、恵みを受けるにふさわしい、あるいはできないからふさわしくないと思ったり、又神さまこれだけのことをしたのに、何の見返りもない、と考えるかもしれません。でもそんな人の計り事と神のご計画、なさる事とは異なるのです。ここに人の側の葛藤が起こる。
神が先にあるんではなく、まず自分があって神が後にあるんです。何かをしたから当然報いがある、恵まれる。また逆に、何もしないで恵みに与れるなんておかしい、自尊心が満足しないという人もいるかもしれません。又、自分の思いどおりでないプレゼントなど神さま私はいりません、とクリスチャンであってもなかなか主の恵みを受け入れることができない。けれども、それではせっかくあなたのために主が用意されたご計画が台なしになってしまいます。
ローマ9章33節の「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者(イエスを信じる者)は、失望することがない」との約束は真実です。
み言葉にどこまでもより頼みつつ、与えられている主のご計画と約束された恵みを受けとり、主に従う。そういうシンプルな姿勢が大切なのです。それがほんとうの謙遜であり、信仰であります。私たち一人ひとりが30節に記されているとおり、マリアと同様、聖霊によって「神から恵みをいただいた」ものなのです。

私どもも又、変わりたい自分があります。変わりたい課題をもっています。そうであるならば、この今日のみ言葉は私たちにも真理となるでしょう。「み言葉を聞いて、受け入れることによって私は変わる」。そうだからクリスチャンの人生には希望があるのです。 
ヨハネ福音書1章に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と記されていますが、このマリアの応答「お言葉がこの身に成りますように」というのは、まさにそれは「イエス・キリスト」のことなのであります。神の言葉が受肉した。そのイエス・キリストを聖霊のお支えによって信じ、受け入れる時、その魂の根底に変化が起こっていきます。求道中である方も、すでにクリスチャンとなった者も、今日心新たに救い主を受け入れていく決心が与えられますよう、祈ります。

私たちはこのマリアに天使の語りかけがあったのは、「彼女が受け入れ難いことに悩み、苦悩する中であった」ということを、希望として心に納めておきたいと思います。私たちが苦闘の中にある時、どうしようもなくお手上げのその悶々とした只中に、主は天使を送り、み言葉を与え、ご聖霊の臨在と、信頼への導きをお与えくださいます。ある場合は人との出会いを通して、ある時には聖書を通して、メッセージを通して、ささいな出来事を通してそれは働かれるでありましょう。主は何らかのサインを私たちに送ってくださいます。信仰に基づく柔らかな感性でそれをキャッチできる人は幸いです。
マリアはページェントの降誕劇のように、天使の言葉に「即答」したのではありませんでした。彼女は天使の言葉を心に留めて戸惑い、何度も思い巡らし、祈りの葛藤をする中で、最終的に「主の言葉とご計画」、そして「救い主イエス」を受け入れる者に変えられたのであります。
「変えられる時」。アドヴェントとは、まさにこのような神の恵みの出来事を待ち望む時なのです。解き放たれたい自分、変えられたい自分、その自分を神のみ前にひっさげて謙虚に立つ。まさにその自分の貧しく、弱いところに、ご聖霊が降り、「神からの恵みを受けとっていく」私たちでありたいと切に願いつつ、主のご降誕に備えてまいりましょう。
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心は燃えていたではないか

2011-12-11 11:36:16 | メッセージ
礼宣教 ルカ24章13~35節

イエスさまの十字架の出来事を目撃した弟子たち二人は、そのいまわしさから一刻も早く逃れようと、エルサレムの町からエマオの村へ向かう道を辿っていました。その距離はだいたい11.5キロメートル、人が歩いて半日の距離だということです。その道すがら二人は、自分たちがメシアだと期待して従ったイエスさまが、こともあろうに十字架刑に処されて悲惨な死を遂げたことについて話し合い、論じ合っていたのです。その時、復活の主イエスご自身がその彼らに近づいて来て、一緒に歩き始められます。しかし、彼らの目は遮られていてイエスさまだと分からなかったというのです。

復活の主イエスは、彼らと歩きながら「やりとりをしているその話は何のことですか」とお尋ねになります。弟子クレオパが「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」と返しますと、主イエスは「それは、どんなことですか」と彼らの心の奥底に持っている思いを引き出すように、又お尋ねになります。
クレオパは「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長や議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」。
彼らにとってイエスさまはこの時すでに過去の人でしかなかったのです。そこにあるのは深い喪失感、失望感でした。人はあまりにも思いがけない大きな苦しみや失望を味わった時、よく目の前が暗くなったなどと言いますが。それゆえに、彼らは復活の主イエスに気づくことが出来なかったのです。

私どもも時として、過去の出来事(それがよい事であれ、悪い事であれ)、過ぎ去ったことに捕われて「今、目の前にあるもの、目の前にある人」、そして「今、与えられている恵みが遮られて見えなくなる、ということがありはしないでしょうか?しかし、主イエスはまさに「今」、私たちと共にいてくださるのです。私たちの過去がたとえどのようなものであったとしても、どんな挫折、失望、不安や悲しみがあったとしても、主は、そのあなたと歩みを共にしていてくださるのです。

さて、主イエスはそのような彼らに、「ああ、もの分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された、とあります。
弟子たちにとって忌むべき呪いの十字架の出来事。けれどもそれは人類の救いの道が開かれるため成し遂げられねばならない出来事であったのです。その十字架の出来事があったからこそ、私どもはこのように神のみ前に罪赦され、新しい命、神の民とされて生きる救いの恵みを戴いているのです。イエスさまはその救いが真実であることを示されるためご復活なさいました。
その復活の主イエスは二人の弟子たちに、聖書(律法・預言書)全体は救い主メシア、イエスご自身について書かれたものであることを説明されますが、その時、二人の弟子たちの心が燃やされたというのです。

私どもにとって聖書は活きた主の言葉であります。私どもは聖書を介していつも活けるキリストと出会うことができます。確かに聖書を読んでいて理解しにくい点や分からない点もあるでしょう。私もそうです。しかし、主イエスが二人の弟子たちに忍耐強く、み言葉の解き明かしをなさったように、実に聖霊は日々生活の中で、私どもの魂のうちに語りかけ、聖書の言葉を解き明かしてくださるのです。皆様もみ言葉が真実だという体験、又み言葉が実体となって心に迫ってきたというご経験がきっとおありではないでしょうか。
聖書は一人で読むことは大事ですが、主にある兄弟姉妹との交わりの中に、又様々な出会いの中に聖霊が働いて生ける主が共におられることに気づかされたり、心熱くされる感動が与えられるのです。

さて、主イエスのみ言葉の解き明かしを聞いた二人の弟子たちは、主イエスと共に歩き、語り合っているうちにエマオの村に近づきます。主イエスがなおも先に行こうとされる様子を見て、彼らは「一緒にお泊まりください」と「無理に引きとめた」とあります。えらい強引だと思いますが。それだけ彼らの心は主イエスに惹きつけられていたということでしょう。あの暗い顔をしていた二人が、心燃やされ「ちょっと待ってください。もっと話をお聞きしたい。どうか一緒にお泊まりください」と、強引に引きとめる様子は想像すると嬉しくなります。黙示録3章20節で、主は「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をする」とおっしゃいました。この時まさに復活の主イエスをお迎えしたのであります。おそらく彼らが主イエスを「一緒にお泊まりくださいと、無理に引き止めて」いなければ、この後の主イエスとの愛餐の食事の機会もなかったし、目の前にいるお方が復活の主イエスだと知るよしもなかった、といえましょう。彼らは「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになる」主イエスのお姿を見るや、その目が開け、イエスだと分かったというんですね。そうです、それはまさにイエスさまが十字架につけられる前夜、弟子たちと共に持たれた最後の晩餐のときの光景であり、そこでイエスさまが「パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂いて、これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と、おっしゃったその場面が、よみがえってきたのです。そして聖書は、「彼らの心の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」と伝えます。復活の主イエスの姿がなぜ見えなくなったのかは分かりません。それを「復活の主が霊なるお方だから」と解釈することも出来るでしょうが。ここで大切なのは、彼らの「心の目が開け、イエスだと分かった」ということです。それは、目に見える世界だけに囚われがちな私どもの心の目が開かれる時、「復活の主イエスは生きておられる」ということを知るということであります。み言葉に聞く時、心の目が開かれます。又主のみ前にあって共にパンを裂き、恵みと共に痛みをも分かち合う時、心の目が開かれます。

さて、二人の弟子は次のように言います。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。それは勿論、彼らがエルサレムからエマオへ向かう道の途上のことを指しているのでしょう。しかし、それは同時に彼らが生前のイエスさまと一緒に過ごしてきたそのすべてのあゆみを振り返りつつ、そのイエスさまと共に歩んだあの日々をして、「心は燃えていたではないか」なのです。
彼らはイエスさまが十字架によって殺された事から来る失望感や喪失感にさいなまれ続けていたのですが、主イエスによる聖書の解き明かしを聞く時、改めてイエスさまとの交わりの恵みを思い起こし、力を戴いたのです。そして彼らは33節以降に記されてあるように、時を移さず出発し、エルサレムにいた他の弟子たちにも、「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した、というのです。今度は彼ら自身が復活の主イエスの証人となるのです。この彼らの「心が燃えていたではないか」との言葉に、「信仰の再決心」というものが読み取れます。

この聖書の個所はよくイースターの時に読まれるのですが。クリスマスを待ち望むアドヴェントのこの時期に何でこの個所なのか、と思われた方もおられるでしょう。私もはじめはそのように思ったのでありますが。その点について聖書教育は「クリスマスを待ち望んで備える」ということと、「終末、主イエスが再臨なさる時を待ち望む」ことを重ねて読む意図があるということです。
クリスマスは2000年前に歴史上に起こった一度限りの出来事ですが。しかしその主イエスは今も生きておられるのです。それは心の目が開かれていないと分かりません。私どもはそれを聖霊によって知ることができるのです。主を信じて生きる私どもは、この世界がやがて終わる終末の時、主イエスが再臨なさり、顔と顔とを合わせてお会いできる希望を抱きつつ、この地上での生涯を歩んでいるのであります。
イエスさまは、終末に臨む時代の中で如何に生きるべきかを「10人のおとめ」(マタイ25章)のたとえ話を通して語られました。主イエスが再び来られるその時に備えて、「目を覚ましていなさい。あなた方にはいつ花婿帰って来るか分からないのだから」とこのたとえを語られたのです。そこに、花婿を迎えに出ていくための準備をしっかりしていた賢い5人と準備ができていなかった愚かな5人が出てまいります。今、主イエスのご降誕を迎えるため、それを待ち望む待降節・アドヴェントの時でありますが。終末・再臨をその延長線上に見据え、今を如何に備えて生きるか、ということであります。私どもは花婿であられる主イエスと一緒に婚宴の席に入るための準備、備えができているでしょうか?
賢いおとめは、ともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていました。ともし火の油が切れないように備えていたのです。しかし、愚かなおとめは、一度限りのともし火でこと足りる、と考えていたのか、ともし火の補給用の油を持っていませんでした。

本日、私は「心は燃えていたではないか」という宣教題をつけさせて頂きました。
私どもの信仰はまことに弱く、このロウソクのともし火のようです。風が吹けば揺らぎ消え入りそうになってしまいます。だからこそ、信仰のともし火のための油を日々欠かさず祈り求め、主イエスがやがて来られる終末のときに備えていく必要があるのです。人間は感情を持っていますから、勢いよく燃えているように思える時もあれば、静かに、あるいはかすかに灯されているように思える時があるでしょう。けれどもそこで、信仰のともし火を灯し続けていくこと、そのための油を切らさないことが大事なのです。
本日の個所で復活の主イエスは、暗い顔をしていた二人の弟子たちに自ら近づかれ、共に歩かれます。二人は気づきませんが。しかし主イエスは忍耐強く彼らの思いを聞かれ、懇切丁寧に聖書の解き明かしをなし、キリストが苦しみを受けて栄光をお受けになられた、その十字架と復活の福音をはっきりと提示されるのです。そして彼らの消えてしまったかに見えた信仰のともし火が再び燃やされたのです。ここに本日のメッセージの中心があります。
主イエスが生きて共におられること、インマヌエルの主としておられることが分かった時、彼らはもはや暗い顔で歩いて来た道を勇み足で戻って行きます。エルサレムに留まっていた兄弟姉妹とその証しを分かち合うために。

私どもも又、信仰のともし火が消えてしまうことのないように、日々の祈りと霊想、礼拝と祈祷会を通して復活の主、インマヌエルの主と日々出会い、御霊の油をたえず補給して戴いて、来るべき主の来臨の備えをなしてまいりましょう。

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豊かな献げもの

2011-12-05 07:59:39 | メッセージ

本日は、スチュワードシップ・特に「献金について」の宣教をさせて戴きます。使徒パウロが書いたⅡコリント8章1~9節から「豊かな献げもの」と題し、み言葉を聞いていきます。

パウロは異邦の教会からエルサレムの教会を助ける献金を募りました。それはユダヤ人信徒たちと異邦人信徒たちの間の和解の道となりうるすべでもあったのです。そして何よりも、福音宣教の基盤地エルサレム教会が貧しくてその働きが十分にできないのを助けて、支援するものでありました。この手紙が書かれる以前から、すでにコリントの教会の信徒たちは、この献金に賛同し、それを献げていたようであります。が、何事も継続的に続けて行ない、全うすることは難しいものです。彼らは熱意をもって始めましたが、当初の目標を達成することができない状況にあったのです。そこでパウロはマケド二ア州のフィリピやテサロニケの教会がなした献げものを例にとり奨めをなします。パウロはマケドニアの諸教会がエルサレムの教会を助けるために献金したことをして、「神の恵み」と言い表しました。この献げものは神から受けた恵みによるものである、というのです。
与えることができるのは恵みです。これは使徒20章35節で、「主イエスご自身が、『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました」と、パウロが語っているとおりです。

さて、献金のためパウロが引き合いに出したマケドニア州の諸教会でありますが。彼らの献げものは決してその有り余っていた中からしたものではありませんでした。彼らは極度の貧しさにおかれていました。又、苦しみによる激しい試練を受けていたのです。マケドニア地方は、肥沃な土地に豊かな天然資源に恵まれた地域であったのですが。当時はローマ帝国の支配下にあったため、人々はすべての資源を採取する権利が奪われるなど搾取され貧しかったのです。又、政治的な迫害を受け、過大な税をかけられていました。さらに、キリスト教会の信者たちはそれらに加えてユダヤ教徒たちからの迫害を受けていたのです。
けれどもマケドニアの教会の信徒たちは、このような極度の貧しさや、苦しみによる激しい試練を受けている中にも、救いの福音に満たされた喜びがありました。それはまた、喜びを共に分かち合おうとする心となって溢れ出るほどのものでありました。
2節「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」とあるとおりです。しかし、この「極度の貧しさが溢れ出て」というのは、ほんとうに印象的な言葉であります。豊かな中から溢れ出てというのは、誰でもわかります。けれども、貧しさ。それも極度の貧しさが溢れ出た、というのです。マケドニア州の諸教会の献げものは、何かゆとりがあるからなされたものではなく、「満ち満ちた喜びと極度の貧しさ」があふれ出て、惜しまず施す「豊かさ」となったのです。信徒たちが抱えていた貧しさや苦しみによる激しい試練。しかしそれが、福音の満ち満ちた喜びの中で、溢れ出る愛と献身になっていったというのです。これが福音の力であります。

私たちは普通常識で考えますと、貧しくなれば献金はできないと考えるでしょう。仕事もなく、収入も少ないと献金できない、と思います。しかし福音の力に満たされた人はそうではないんですね。貧しい中で真の豊かさを見出し、苦しい中でも悲しみ喜びを分かち合い、人を思いやることが出来るのであります。そのことをマケドニアの諸教会の献げものは示しているのです。
それはどうしてでしょうか?どうしてそんなことが出来るのでしょうか?それは、私たちクリスチャンは、「主イエスさまの恵みを知っている」からです。「主は豊かであったのに、わたしのために貧しくなられた」。その豊かな恵みに与って生かされているからです。
ここに、マケドニアの諸教会の献げものは「人に惜しまず施す豊かさとなった」とありますが。この「豊かさ」は、ただ、献金の額が多いということを意味するものではありません。マルコ12章で、レプタ2枚を献げた貧しい女性に対して、イエスさまは「他の誰よりもたくさん献げた」と言われました。それは、自らを与える、献げることを喜ぶ、その大きな広い心を表しています。
この豊かさは、献金の額が多いということによりません、この豊かさは、「献げものに伴う犠牲(痛み)によって表されます。イエス・キリストの恵み、「主が豊かであったのに、わたしのために貧しくなられた」。その大きな犠牲を主が払われたことを知っている人は、主のために献げる犠牲(痛み)をいとわない。それは又、イエス・キリストのからだなる教会を助け、欠乏している兄弟姉妹を支えるために献金を喜んで献げることができる。犠牲を伴うような献げものをなすことができるのです。

パウロはマケドニアの諸教会の信徒たちの事についてまた3節以降でこう証ししています。
「彼らが自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりに願い出た」。その献げものは、人に強要されてなすものではなく、自分から進んで心からなされたものでした。そしてさらに重要な点ですが、「彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げた」というのです。この、まず自分自身を主に献げる、ということが献金の精神といえるでしょう。それは結果的に人のために用いられますが、まず主に献げられるものです。

さて、パウロはそのようなマケドニアの諸教会の証しをなしつつ、コリント教会の信徒たちに向かって奨励します。すでにコリント教会の信徒たちの間で開始されていた献金の業を継続し、全うしていきなさいというのです。パウロはコリント教会が信仰、知識、あらゆる熱心など、すべての点で豊かなのだから、この献金の業においても豊かになりなさい、と勧めます。

そして最後に、パウロは献金の雛形はイエス・キリストご自身に表されているといいます。
9節「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。
今アドイヴェントの時節ですが、神の独り子イエスさまが私たち人間の姿となって救い主としてお生まれくださった恵みの出来事クリスマスを覚えつつ、日々を過ごしております。フィリピ2章6節以降にも、「神の御独り子であられるキリストは、神の身分でありながら、それに固執しようと思わず、かえって自分を無にして」とありますように、主は、その地位や権力を放棄し、ご自身を捨て、しもべの姿をとって人となられ、最期には人類の罪を背負って十字架で死なれました。
このことによって、私たち神の前に罪深い人間は赦され、贖われたのです。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。この尊い神の御子が受肉された、そこに献げものの精神が豊かに示されています。

私どもクリスチャンにとりまして、礼拝や祈祷会に出席することは基本的なことでありますが、献げものについても又、聖書から学び実践することは、自らの信仰を見つめ直す機会となります。「主イエスの恵みを知っている」という私たちが、主のみ前にあって具体的にその恵みに応えてゆく、応答していく時だからです。

もう一つ、献げものは、教会がキリストの愛によって互いにつながり、共に建て上げられていくうえで大事な有機的な働きをなすものであります。それはキリストの体の一部としての自分の存在の意味を見出すことにもなるからです。主に献げる時、主は数えきれないほどの恵みの生きた証しを与えてくださいます。キリストのからだなる教会を通して、これからも喜びを共に分かち合いたいものです。

終わりに、Ⅱコリント9章6節~8節をお読みして閉じたいと思います。
「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆるよい業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」。
神さまは、祝福としてあらゆる善い業を私どもにさせてくださると同時に、そこにあらゆる恵みを与えてくださると、聖書は約束しています。この主に信頼し、神と隣人に愛をもって仕える務めを、喜びをもって共になしてまいりましょう。
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