礼拝宣教 列王記上21章1~24節
先週は北九州での全国壮年大会に参加でき感謝でした。教会の消滅という辛く悲しい体験をされた北九州地方連合では、地域共働プロジェクトを立ち上げ、教会間交流や祈りと連帯をして、互いに近隣教会のことに関心を寄せて関わりあうことをとても大切にされているお話を伺い、元気を頂きました。
本日は列王記上21章の「ナボトのぶどう畑」をめぐるエピーソードから「神の御前に如何に生きるか」と題し、御言葉を聴いていきたいと思います。
ここには4人の登場人物が出て参ります。まず農夫のナボト。彼はイズレエルの地におけるぶどう畑の所有者であります。それから北イスラエルの王アハブとその妻のイゼベル。そして預言者エリヤであります。
アハブ王はイスラエル人でしたが、先々週お話しましたように妻イゼベルはシドンの国王の娘でありました。彼女は異教のバアル宗教を持ち込み、アシュラ像を北イスラエルの都サマリヤに建てさせ、偶像崇拝を持ち込みます。それはイスラエルの人々にとって罠となりました。人々はいつの間にやら自分たちの救いの神と、バアルのご利益宗教とを混同してしまうようになったのです。それは私たちと関係がないとはいえないでしょう。この世の中にはあらゆる偶像、神なぬもの、それは人、もの、地位や名誉もそうです、自己もそうです、それを神のように奉る偶像崇拝があふれています。神の愛から引き離すそのような力や働きかけにNO!と、否といえる信仰を今日のナボトとそのエピソードから聞き取っていきたいと思います。
「ナボトのぶどう畑を巡る問題」
さて、アハブ王はサマリヤを夏の都にしていましたが、冬の宮廷をイズレエルに持っていたと言われています。そこで王は宮殿のそばにあったナボトのぶどう畑に目をけるのであります。
王はナボトに、「お前のぶどう畑を譲ってくれ。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を銀で支払ってもよい」と話を持ちかけます。まあこういう要求の仕方は一般的に考えれば、王としては丁寧であるようにも思えるのですが。それに対してナボトは、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」と返答します。
「嗣業の土地」とは「神の約束として与えられた地」であり、神から「代々に亘って守り治めるように託された土地」のことであります。
神の律法には、「嗣業の土地を売り渡すことはできない」と定められていました。神に託されているわけですから人の思いつきや判断でそれを売買するものではありません。それゆえナボトは、「たとえ王さまであろうと嗣業の土地を引き渡すことはできません」と、はっきりと断るのです。
それを聞いたアハブ王は、「ナボトの言葉に機嫌を損ね、腹を立てて宮殿に帰って行った。寝台に横たわった彼は顔を背け、食事も取らなかった」と記されています。まあ駄々子のようですが、ここには王ですら神の戒めに従わなければならない、ということが示されています。
「神の律法を知らなかったイゼベル」
まあこうしてアハブ王は引き下がり事は終わったかに見えたのでありますが。ところが事態は王女イゼベルの介入によって一変いたします。
王から事情を聴いたイゼベルは、「今イスラエルを支配しているのはあなたです。わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう」と王に言い放つのです。
イゼベルの郷里シドンでは王の権威は絶対的でしたので、おそらく彼女はこの事態に大変憤慨したのでしょう。彼女にしてみれば、イスラエルの律法などは固苦しい決まりに過ぎず、自分には関係のないことでした。ですから、「ナボトからぶどう畑を取り上げること」に対して何の抵抗もなかったのです。神ならざるいくつもの偶像を拝し、物質的繁栄を追い求めていくような国で育ったイゼベルには、すべてを治めたもう生ける神への畏れの念などありません。彼女は王の権力を笠に着て、無実のナボトを罪に陥れ、抹殺し、そのぶどう畑を奪い取るという恐ろしい策略を立て、実行したのです。
アハブ王は全面には出てきませんが、彼はイゼベルの策略を後方から支持したという点において、同罪でありその罪を免れ得るものではありません。そうしてアハブ王はイゼベルによって、自らは直接関与することなくナボトのぶどう畑を手にします。イゼベルもまたアハブに借りを作り、彼の心を手中にしてコントロールしていくのです。生ける神を畏れないイゼベルの欲望は留まることを知りません。
「罪の裁き」
さて、「ナボトが死んだとの知らせを聞いたアハブ王は直ちにイズレエルの人ナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下っていきます。その時、主の言葉がエリヤに臨みます。「アハズ王に裁きを告げよ」と主はお命じになります。
エリヤは主の言葉どおりアハブ王に、「あなたは人を殺したうえに、その所有物を自分のものにしようとするのか」「犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる」と宣告するのであります。
主はすべてをご存じでした。アハズは「主の前に如何に生きたか」が問われたのです。
アハブ王はイスラエルの主を知り、律法の何たるかを知らされていながら、20節にあるように、「自分を売り渡して主の目に悪とされることに身をゆだねた」のです。そのことが厳しく裁かれます。「イゼベルにそそのかされたのだ」といえばそうかも知れませんが、彼は主の目に悪とされるその恐ろしい策略が実行されることを知っていながら、そのれに身をゆだねて罪に手を染めたのは事実であります。それはまさに、十戒にある「殺してはならない」「盗んではならない」「隣人に関して偽証してはならない」「隣人のものを欲してはならない」との4つもの戒めをアハズ王は破ったということです。これに主は非常に厳しい裁きをもって臨まれます。それは又、アハブ王のみならず、その指示に従ったイスラエルの長老と貴族たちも同様です。主の目に悪とされることを知りながら身をゆだね、指示されるままに偽証を工作してナボトを死に至らせたのですから。神の律法は、偽りの証言をして冤罪を作り出すことに対して、厳格に戒め、それを禁じています。それを知っていながら主の目に悪とされることに長老たちや貴族らも身をゆだねたのです。それはたとえ一国の王であろうとも、神さまから託された嗣業の地を売り渡すことを拒んだこばナボトとは何と対照的であり、その罪は大変重いという事であります。
「神を畏れて生きる」
次にそのナボトについて見ていきましょう。
彼のぶどう畑の土地は、先祖から引き継がれたものでありました。そこには彼の先祖たちの眠るお墓があったかも知れません。けれどもそれ以前に、神から与えられた約束の地として代々に亘って守り続け、治めるよう託された土地であることを、彼は主の御前に果たすべき責任として認識してしました。彼はアハズ王に対して、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」ときっぱりと断りました。たとえ相手が王であろうとも売り渡すことはできない。ダメなものはダメ。ナボトの主への信仰はほんとうにまっすぐで骨太なものでした。
しかし、「主にかけてわたしにはできません」と断ったために、彼は嗣業の地だけでなく、自分の命までも失ってしまうことになりました。このナボトの最期は、この世的に人の目から見れば実に悲惨極まりないものであったといえましょう。彼は神に対して忠実に生きようとしたのに、「イスラエルの神と王を呪った」という根も葉もない濡れ衣を着せられ、石で打ち殺されたうえ、嗣業の地まで奪われたのですから。
彼は明らかに無実であり、冤罪でした。ナボトがもし、主なる神でなくアハズ王を恐れて、「わたしの土地を譲りましょう」と言っていたのなら、彼は平穏無事であったでしょうし、その生活も補償されていたことでしょう。けれどもナボトはそのような生き方になびかず、唯、主なる神をこそ生けるお方であると信じ、従ったのです。
王の権力に屈することなく、主の掟に忠実に生きたナボト。神に従い、生きようとするとき、世の力との戦いが生じます。それは時に孤独な戦いであります。ナボトはならず者らから不当に訴えられた時、誰からも擁護や弁護もされず、ひとり孤独に石で打ち殺されたのであります。
それは、無実の主イエス・キリストが十字架につけられて殺された、そのお姿と重なります。イエス・キリストはユダヤの社会にあって、弱い立場におかれていた人々、差別や偏見を受け苦しんでいた人々、罪人とよばれていた人々、外国人や病の人々と、日夜出会われ、いやしと解放をもって神の国を宣べ伝えられました。
しかしそのことが、いわゆる自分たちこそ正当派だと主張するユダヤ人たちから恨みと妬みを買い、イエスは神を冒涜したという偽りの証言によって不当に裁きの座に引き出されました。そしてユダヤ民衆までもがこぞって、「イエスを十字架につけろ」と叫び出し、遂にイエスさまは十字架につけられました。あのナボトがそうであったように、主イエスは父なる神さまの御心に従っていかれた、その結果、無残な最期を遂げられたのです。
しかしそれは、まさにそのことで人の罪が露わになり、その罪のため罪無き神の子が死なねばならなかったという、その神の義と愛によって、私たちがほんとうの悔い改めと救いとに導かれるためであったのですね。主の十字架を見上げるとき、私たちはナボトのように神に従う人の死がどれほど価高く尊いものであるかを知らされるものであります。
「久山ワークキャンプに参加して」
最後になりますが、今年も福岡県糟屋郡久山町にある重症心身障害児者施設・久山療育園のワークキャンプに参加してきました。このワークキャンプも今年で27回目となるそうですが、今年も小学生から80代の方々の老若男女100名を超える参加者がありました。
毎年ほんとうこういう素敵な出会いとゆたかな学びの場が提供されているのです。
プログラムは、実際に入所されている方々のことを知る体験学習やふれあいのとき。職員の方や保護者の方のお話を伺うことができます。又、福岡市内街頭に立って「街頭募金」のお手伝いもするのですが、これも多くの方々の善意と出会えてうれしい時間です。今回は久山療育園のためではなく熊本地震で被害に遭われた障害者施設への寄付を呼びかけ、小中学生たちに混ざって街頭に立ちました。そしてメインは療育園周辺の草刈ワークでありますが。これがかなり厳しい暑さとの戦いでもあるのですが、後にもたれるバーべキューを楽しみに汗を流します。
今回それらのプログラムの中で特に印象に残ったのは、久山療育園に今年16歳になるお子さんを通所されているお母さんが次のようにお話しなさったことでした。「相模原市の障がい者施設で殺傷事件が起こりました。その加害者は、『役に立たない人は排除したほうがいい』という思いで犯行に及んだということですが。わたしの子どもも重い障がいを抱えて生まれました。子どもに手はかかる。思いを汲み、常に見るから手はかかる。けれど手がかかる、ただそれだけでしょうか?この子は生きるのに一生懸命。その子の存在によって私は支えられ、生かされています。私はこの子に「生まれてきてありがとう」って心からそう思い、感謝しています。人は一人じゃない。だれも支えられて生きている。犯行に及んだ加害者にはその気づきがないのではないか」と、実際の日常のご経験からこのような言葉をわたしたちにも発してくださったんですね。
この事件は、何でも目に見える効率や成果、又経済原理によって、人の価値や評価までも決めてしまうような私たちの社会の病巣を映し出しているように思えます。役に立つかどうか。お金になるかどうか。そんな判断基準ばかりが横行するならこの世界は何と殺伐としたものでしょうか。
久山療育園はミット レーベン「ともに生きる」という標語を掲げて今年で40年となりますが、わたしたちはだれひとり、一人じゃあ生きることはできない存在であるということを、この久山療育園の働きをとおしていつも教えられます。
天地創造の記事の終わりにこうあります。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」神さまは人が「役に立たないから排除する」なんておっしゃっていません。人が神さまに成り代わっていのちに優劣をつけることは大きな罪です。私たちは神さまに愛されるために生まれ、ともに生きるために存在しています。
今日はナボトのぶどう畑のエピソードから「神の前に如何に生きるか」を聞いてまいりました。神さまが私たちに託されている嗣業の地を私たちも又、受け継ぐものとして立てられています。
それはまさにイエス・キリストとその救いの福音を基とした神の国であります。父なる神の御心に聴き従い、隣人を自分のように愛する。主イエスはそこに「律法全体と預言者とがかかっている」おっしゃいました。ナボトの骨太の信仰に倣い、「神の前に如何に生きるか」そのことを、神が与えてくださる出会いや体験、関わりの中に見出す者とされてまいりましょう。祈ります。
先週は北九州での全国壮年大会に参加でき感謝でした。教会の消滅という辛く悲しい体験をされた北九州地方連合では、地域共働プロジェクトを立ち上げ、教会間交流や祈りと連帯をして、互いに近隣教会のことに関心を寄せて関わりあうことをとても大切にされているお話を伺い、元気を頂きました。
本日は列王記上21章の「ナボトのぶどう畑」をめぐるエピーソードから「神の御前に如何に生きるか」と題し、御言葉を聴いていきたいと思います。
ここには4人の登場人物が出て参ります。まず農夫のナボト。彼はイズレエルの地におけるぶどう畑の所有者であります。それから北イスラエルの王アハブとその妻のイゼベル。そして預言者エリヤであります。
アハブ王はイスラエル人でしたが、先々週お話しましたように妻イゼベルはシドンの国王の娘でありました。彼女は異教のバアル宗教を持ち込み、アシュラ像を北イスラエルの都サマリヤに建てさせ、偶像崇拝を持ち込みます。それはイスラエルの人々にとって罠となりました。人々はいつの間にやら自分たちの救いの神と、バアルのご利益宗教とを混同してしまうようになったのです。それは私たちと関係がないとはいえないでしょう。この世の中にはあらゆる偶像、神なぬもの、それは人、もの、地位や名誉もそうです、自己もそうです、それを神のように奉る偶像崇拝があふれています。神の愛から引き離すそのような力や働きかけにNO!と、否といえる信仰を今日のナボトとそのエピソードから聞き取っていきたいと思います。
「ナボトのぶどう畑を巡る問題」
さて、アハブ王はサマリヤを夏の都にしていましたが、冬の宮廷をイズレエルに持っていたと言われています。そこで王は宮殿のそばにあったナボトのぶどう畑に目をけるのであります。
王はナボトに、「お前のぶどう畑を譲ってくれ。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を銀で支払ってもよい」と話を持ちかけます。まあこういう要求の仕方は一般的に考えれば、王としては丁寧であるようにも思えるのですが。それに対してナボトは、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」と返答します。
「嗣業の土地」とは「神の約束として与えられた地」であり、神から「代々に亘って守り治めるように託された土地」のことであります。
神の律法には、「嗣業の土地を売り渡すことはできない」と定められていました。神に託されているわけですから人の思いつきや判断でそれを売買するものではありません。それゆえナボトは、「たとえ王さまであろうと嗣業の土地を引き渡すことはできません」と、はっきりと断るのです。
それを聞いたアハブ王は、「ナボトの言葉に機嫌を損ね、腹を立てて宮殿に帰って行った。寝台に横たわった彼は顔を背け、食事も取らなかった」と記されています。まあ駄々子のようですが、ここには王ですら神の戒めに従わなければならない、ということが示されています。
「神の律法を知らなかったイゼベル」
まあこうしてアハブ王は引き下がり事は終わったかに見えたのでありますが。ところが事態は王女イゼベルの介入によって一変いたします。
王から事情を聴いたイゼベルは、「今イスラエルを支配しているのはあなたです。わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう」と王に言い放つのです。
イゼベルの郷里シドンでは王の権威は絶対的でしたので、おそらく彼女はこの事態に大変憤慨したのでしょう。彼女にしてみれば、イスラエルの律法などは固苦しい決まりに過ぎず、自分には関係のないことでした。ですから、「ナボトからぶどう畑を取り上げること」に対して何の抵抗もなかったのです。神ならざるいくつもの偶像を拝し、物質的繁栄を追い求めていくような国で育ったイゼベルには、すべてを治めたもう生ける神への畏れの念などありません。彼女は王の権力を笠に着て、無実のナボトを罪に陥れ、抹殺し、そのぶどう畑を奪い取るという恐ろしい策略を立て、実行したのです。
アハブ王は全面には出てきませんが、彼はイゼベルの策略を後方から支持したという点において、同罪でありその罪を免れ得るものではありません。そうしてアハブ王はイゼベルによって、自らは直接関与することなくナボトのぶどう畑を手にします。イゼベルもまたアハブに借りを作り、彼の心を手中にしてコントロールしていくのです。生ける神を畏れないイゼベルの欲望は留まることを知りません。
「罪の裁き」
さて、「ナボトが死んだとの知らせを聞いたアハブ王は直ちにイズレエルの人ナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下っていきます。その時、主の言葉がエリヤに臨みます。「アハズ王に裁きを告げよ」と主はお命じになります。
エリヤは主の言葉どおりアハブ王に、「あなたは人を殺したうえに、その所有物を自分のものにしようとするのか」「犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる」と宣告するのであります。
主はすべてをご存じでした。アハズは「主の前に如何に生きたか」が問われたのです。
アハブ王はイスラエルの主を知り、律法の何たるかを知らされていながら、20節にあるように、「自分を売り渡して主の目に悪とされることに身をゆだねた」のです。そのことが厳しく裁かれます。「イゼベルにそそのかされたのだ」といえばそうかも知れませんが、彼は主の目に悪とされるその恐ろしい策略が実行されることを知っていながら、そのれに身をゆだねて罪に手を染めたのは事実であります。それはまさに、十戒にある「殺してはならない」「盗んではならない」「隣人に関して偽証してはならない」「隣人のものを欲してはならない」との4つもの戒めをアハズ王は破ったということです。これに主は非常に厳しい裁きをもって臨まれます。それは又、アハブ王のみならず、その指示に従ったイスラエルの長老と貴族たちも同様です。主の目に悪とされることを知りながら身をゆだね、指示されるままに偽証を工作してナボトを死に至らせたのですから。神の律法は、偽りの証言をして冤罪を作り出すことに対して、厳格に戒め、それを禁じています。それを知っていながら主の目に悪とされることに長老たちや貴族らも身をゆだねたのです。それはたとえ一国の王であろうとも、神さまから託された嗣業の地を売り渡すことを拒んだこばナボトとは何と対照的であり、その罪は大変重いという事であります。
「神を畏れて生きる」
次にそのナボトについて見ていきましょう。
彼のぶどう畑の土地は、先祖から引き継がれたものでありました。そこには彼の先祖たちの眠るお墓があったかも知れません。けれどもそれ以前に、神から与えられた約束の地として代々に亘って守り続け、治めるよう託された土地であることを、彼は主の御前に果たすべき責任として認識してしました。彼はアハズ王に対して、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」ときっぱりと断りました。たとえ相手が王であろうとも売り渡すことはできない。ダメなものはダメ。ナボトの主への信仰はほんとうにまっすぐで骨太なものでした。
しかし、「主にかけてわたしにはできません」と断ったために、彼は嗣業の地だけでなく、自分の命までも失ってしまうことになりました。このナボトの最期は、この世的に人の目から見れば実に悲惨極まりないものであったといえましょう。彼は神に対して忠実に生きようとしたのに、「イスラエルの神と王を呪った」という根も葉もない濡れ衣を着せられ、石で打ち殺されたうえ、嗣業の地まで奪われたのですから。
彼は明らかに無実であり、冤罪でした。ナボトがもし、主なる神でなくアハズ王を恐れて、「わたしの土地を譲りましょう」と言っていたのなら、彼は平穏無事であったでしょうし、その生活も補償されていたことでしょう。けれどもナボトはそのような生き方になびかず、唯、主なる神をこそ生けるお方であると信じ、従ったのです。
王の権力に屈することなく、主の掟に忠実に生きたナボト。神に従い、生きようとするとき、世の力との戦いが生じます。それは時に孤独な戦いであります。ナボトはならず者らから不当に訴えられた時、誰からも擁護や弁護もされず、ひとり孤独に石で打ち殺されたのであります。
それは、無実の主イエス・キリストが十字架につけられて殺された、そのお姿と重なります。イエス・キリストはユダヤの社会にあって、弱い立場におかれていた人々、差別や偏見を受け苦しんでいた人々、罪人とよばれていた人々、外国人や病の人々と、日夜出会われ、いやしと解放をもって神の国を宣べ伝えられました。
しかしそのことが、いわゆる自分たちこそ正当派だと主張するユダヤ人たちから恨みと妬みを買い、イエスは神を冒涜したという偽りの証言によって不当に裁きの座に引き出されました。そしてユダヤ民衆までもがこぞって、「イエスを十字架につけろ」と叫び出し、遂にイエスさまは十字架につけられました。あのナボトがそうであったように、主イエスは父なる神さまの御心に従っていかれた、その結果、無残な最期を遂げられたのです。
しかしそれは、まさにそのことで人の罪が露わになり、その罪のため罪無き神の子が死なねばならなかったという、その神の義と愛によって、私たちがほんとうの悔い改めと救いとに導かれるためであったのですね。主の十字架を見上げるとき、私たちはナボトのように神に従う人の死がどれほど価高く尊いものであるかを知らされるものであります。
「久山ワークキャンプに参加して」
最後になりますが、今年も福岡県糟屋郡久山町にある重症心身障害児者施設・久山療育園のワークキャンプに参加してきました。このワークキャンプも今年で27回目となるそうですが、今年も小学生から80代の方々の老若男女100名を超える参加者がありました。
毎年ほんとうこういう素敵な出会いとゆたかな学びの場が提供されているのです。
プログラムは、実際に入所されている方々のことを知る体験学習やふれあいのとき。職員の方や保護者の方のお話を伺うことができます。又、福岡市内街頭に立って「街頭募金」のお手伝いもするのですが、これも多くの方々の善意と出会えてうれしい時間です。今回は久山療育園のためではなく熊本地震で被害に遭われた障害者施設への寄付を呼びかけ、小中学生たちに混ざって街頭に立ちました。そしてメインは療育園周辺の草刈ワークでありますが。これがかなり厳しい暑さとの戦いでもあるのですが、後にもたれるバーべキューを楽しみに汗を流します。
今回それらのプログラムの中で特に印象に残ったのは、久山療育園に今年16歳になるお子さんを通所されているお母さんが次のようにお話しなさったことでした。「相模原市の障がい者施設で殺傷事件が起こりました。その加害者は、『役に立たない人は排除したほうがいい』という思いで犯行に及んだということですが。わたしの子どもも重い障がいを抱えて生まれました。子どもに手はかかる。思いを汲み、常に見るから手はかかる。けれど手がかかる、ただそれだけでしょうか?この子は生きるのに一生懸命。その子の存在によって私は支えられ、生かされています。私はこの子に「生まれてきてありがとう」って心からそう思い、感謝しています。人は一人じゃない。だれも支えられて生きている。犯行に及んだ加害者にはその気づきがないのではないか」と、実際の日常のご経験からこのような言葉をわたしたちにも発してくださったんですね。
この事件は、何でも目に見える効率や成果、又経済原理によって、人の価値や評価までも決めてしまうような私たちの社会の病巣を映し出しているように思えます。役に立つかどうか。お金になるかどうか。そんな判断基準ばかりが横行するならこの世界は何と殺伐としたものでしょうか。
久山療育園はミット レーベン「ともに生きる」という標語を掲げて今年で40年となりますが、わたしたちはだれひとり、一人じゃあ生きることはできない存在であるということを、この久山療育園の働きをとおしていつも教えられます。
天地創造の記事の終わりにこうあります。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」神さまは人が「役に立たないから排除する」なんておっしゃっていません。人が神さまに成り代わっていのちに優劣をつけることは大きな罪です。私たちは神さまに愛されるために生まれ、ともに生きるために存在しています。
今日はナボトのぶどう畑のエピソードから「神の前に如何に生きるか」を聞いてまいりました。神さまが私たちに託されている嗣業の地を私たちも又、受け継ぐものとして立てられています。
それはまさにイエス・キリストとその救いの福音を基とした神の国であります。父なる神の御心に聴き従い、隣人を自分のように愛する。主イエスはそこに「律法全体と預言者とがかかっている」おっしゃいました。ナボトの骨太の信仰に倣い、「神の前に如何に生きるか」そのことを、神が与えてくださる出会いや体験、関わりの中に見出す者とされてまいりましょう。祈ります。