礼拝宣教 創世記11章1~9節
バベルの塔は古代バビロニア・今のイラクのあたりに実在したようでありますが。考古学による発掘調査と同時代の文書によれば、バベルの塔はジグラトと呼ばれる宗教的建造物だとされ、7階建てで高さが90メートル。1階が幅90メートル、奥行90メートル、2階以降はその容積が下の階よりも小さくなっていたそうです。大阪教会の新会堂が建った2013年時間を同じくしてあべのハルカスが建ち、その高さが250メートル。長いこと日本一でしたが先日さらに高い商業施設のタワーが都心に建ったようですが。なにわの通天閣の高さはだいたい100メートルですから、ほぼバベルの塔の高さに近いです。ただバベルの塔はピラミッドのようなずっしりとした造りなので単にタワーというより、まさに「巨大建造物」であったということです。それだけに当時としては、大変な人の数とものすごい労働力と最新技術を駆使しての建築であったことでしょう。
さて、1節「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」とあります。
この世界中とは、全世界という意味ではなくこの時代のバビロニア(シンアル)一帯に住む人々のことを指しています。私たちも「世界の発祥バビロニア」などと習いましたように、古代文明においては確かに世界の中心的な地であったのでしょう。
この世界中とは、全世界という意味ではなくこの時代のバビロニア(シンアル)一帯に住む人々のことを指しています。私たちも「世界の発祥バビロニア」などと習いましたように、古代文明においては確かに世界の中心的な地であったのでしょう。
まあ「世界中」と表現されるくらいですから、かなりの広さがあって、そこに住む大勢の人々が、「同じ言葉を使って、同じように話していた」ということです。そうなりますと、皆が同じ方向に向かい、力が結集された中でバビロ二アの町はものすごいスピードで発展を遂げていったのかと想像いたします。
それは3節に、「彼らはれんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた」とあるとおりですが。そのように文明の発展や進化を遂げる街並みを眺めがら、彼らは、そのれんがとアスファルトを用いて町に先進的な塔を立てようと「話し合った」とあります。
古代の世界において塔を建てるというような大きな建築は、それは宗教的建造物と申しましたように、建立する場合、たいがいは神へお伺いを立て、祈りつつ、神と共同で行なうものです。古代イスラエルのソロモン王の神殿建設はそういった意味でその原型となっていますが。
しかしこの塔の建設の記述には、そういった祭儀が行なわれていたとは何も記されておりません。人々は何ら神に祈り、お尋ねすることもなしに、いわば「神不在」のなか、自分たちの思いだけを先行させ、判断して塔の建築へ舵をきったのであります。
かつてアダムとエバ、又カインもそうでしたが。彼らは神に問うことも、お伺いを立てることもせずに、自分勝手に判断して事をなすという同じ過ちを犯し、神の祝福を損ねてしまいました。バベルの塔のある町の建設も、まさにそのような中で進められていったのであります。
彼らは4節でこう言っています。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう。」
彼らが真摯に神に問い、尋ねることなく、事をなそうとしたのは、神への畏れや敬いからではなく、自分たちの名を世に知らしめ、誇示しようと自分たちの野望のために、神不在の中で、自分たちの欲求だけに従い天まで届く塔のある町を立てようと事を運んだのです。それは又、そのように「全地に散らされないために」ということであります。つまり、裏を返せば彼らの思いの根底に、「全地に散らされてしまうという不安があった」ということです。日々築かれてゆく一大文明・文化。力強い国家の一員であるという誇りと安心感。彼らはそれをより確かなものとしたいとの願望が増し、これが散らされてしまっては大変だと言う不安と恐れが神殿の建設という名目で進められていったということです。不安を解消するために強く団結し、一丸となって天に届く塔のある町を建てようと企てるのであります。
彼らが真摯に神に問い、尋ねることなく、事をなそうとしたのは、神への畏れや敬いからではなく、自分たちの名を世に知らしめ、誇示しようと自分たちの野望のために、神不在の中で、自分たちの欲求だけに従い天まで届く塔のある町を立てようと事を運んだのです。それは又、そのように「全地に散らされないために」ということであります。つまり、裏を返せば彼らの思いの根底に、「全地に散らされてしまうという不安があった」ということです。日々築かれてゆく一大文明・文化。力強い国家の一員であるという誇りと安心感。彼らはそれをより確かなものとしたいとの願望が増し、これが散らされてしまっては大変だと言う不安と恐れが神殿の建設という名目で進められていったということです。不安を解消するために強く団結し、一丸となって天に届く塔のある町を建てようと企てるのであります。
力に依存し、依り頼もうとする神不在の古代宗教施設の建立は、かつての宗教カルトの事件を彷彿とされるような不気味さが感じられます。しかし、それは特殊な話でしょうか。バベルの塔を建て、名をあげて自分を何とか守ろうとする姿、現代社会自体がそのようではないでしょうか。そびえるように建つ高層ビル、最高の業績、高額な所得、世にあって確かな地位や名誉。それらすべてを手に入れたとしても、神不在の世界観は満足できないばかりか、不安と虚しさが人を支配するのです。人は神と共にあゆんでこそ、夢や希望を心から楽しむことができ、御心を思うことで、人生にしろ、仕事にしろ、生きがいにしろ、本来の生きる意味と目的を見出し、平安のうちに生きることができるのです。
さて、先に、「同じ言葉」を使い、同じように話す彼らの結束力と、それによりもたらされる繁栄について述べましたが。それは一見、大変よいことのように思えますが、果たしてどうなのでしょうか?
さて、先に、「同じ言葉」を使い、同じように話す彼らの結束力と、それによりもたらされる繁栄について述べましたが。それは一見、大変よいことのように思えますが、果たしてどうなのでしょうか?
この「同じように話す」というのは、画一的思想をもっていたということでしょうが。人間の社会生活において、それは本当によいことばかりなのでしょうか?
5節以降にこうあります。「主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て言われた。『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない』。」
これはですね、画一的思想のもとスローガンを掲げ、それを個人に押し付けようとするとき、異論を持つ少数者を数の論理のもと圧力や怖れで抑えこもうとしたり、排除しようすることが起こっていきます。そのような企てでもって起こってくる悲劇は後を絶ちません。かつて日本は戦時下にあって同じような過ちを犯しました。
軍国教育と皇国史観が絶対化される中、戦争反対者は非国民扱いされ、迫害、排除されました。よく戦争は軍部の独走と言われますが、それだけではできないことです。国民の心と協力が不可欠です。そこには、人の不安や恐れを結束させて、敵を作ってその敵を打ち負かすことに高揚と満足感を与えるのです。
これはですね、画一的思想のもとスローガンを掲げ、それを個人に押し付けようとするとき、異論を持つ少数者を数の論理のもと圧力や怖れで抑えこもうとしたり、排除しようすることが起こっていきます。そのような企てでもって起こってくる悲劇は後を絶ちません。かつて日本は戦時下にあって同じような過ちを犯しました。
軍国教育と皇国史観が絶対化される中、戦争反対者は非国民扱いされ、迫害、排除されました。よく戦争は軍部の独走と言われますが、それだけではできないことです。国民の心と協力が不可欠です。そこには、人の不安や恐れを結束させて、敵を作ってその敵を打ち負かすことに高揚と満足感を与えるのです。
それは本日の聖書にあるように、「同じ言葉を使い、同じように話す」、つまり1つの教えや思想により、団結力が強められいくとき、人々の心は昂揚し、虚栄の塔となり、神不在の中で人間性が損なわれてゆくのです。
人は不安や恐れを抱くときに、皆と同じであること、他を排除すること、力を誇示するものを持つことによって不安を解消し、安価な安心を手にしようと計りますが、それは幻想です。
フランスの作家:フランク・パヴロフさんの「茶色の朝」という物語を元大阪教会員の武田芳枝さんが以前世の光で解説されたものから引用ご紹介をさせていただきますが。
『主人公の「俺」と友人「シャリルー」は、今日もビストロでコーヒーを飲みながら心地よい時間をゆったりと過ごしています。最近「俺」は猫を、「シャリルー」は犬を安楽死させました。それは茶色のペット以外は禁止という「ペット法」ができたからです。はじめ「俺」は違和感を持ちますが、それも仕方ない、と自分に言い聞かせます。しばらくして、「ペット法」に批判的だった新聞が廃刊になり、系列会社の本が次々に強制撤去され、言葉や単語に「茶色」を付けなければ危険を感じる社会になって行きます。初めに感じた違和感や反発も徐々に薄れて行き、茶色社会に適応しようと「シャルリー」は茶色の犬を、「俺」は茶色の猫を飼い、「茶色に守られた安心、それも悪くない」と考えます。ある朝「茶色いラジオ」が「最近、茶色い動物を購入したからと云って、考え方が変わったことにはならない。過去、茶色以外のペットを飼ったことがあるなら国家反逆罪に問われる」と報じます。そして二人に「茶色の朝」が・・・。』
武田さんは、「読み終わった時、言いようのない恐怖に襲われるのは何故なのでしょうか?「シャルリー」と「俺」は「わたし自身?」と気づかされるからかも知れません」とコメントなさっている言葉にドキッとしました。あの得体の知れない巨大建造物のように、一つの言葉、一つの民の中に引きずり込まれ、自分を見失っていく社会の不気味さ。
『主人公の「俺」と友人「シャリルー」は、今日もビストロでコーヒーを飲みながら心地よい時間をゆったりと過ごしています。最近「俺」は猫を、「シャリルー」は犬を安楽死させました。それは茶色のペット以外は禁止という「ペット法」ができたからです。はじめ「俺」は違和感を持ちますが、それも仕方ない、と自分に言い聞かせます。しばらくして、「ペット法」に批判的だった新聞が廃刊になり、系列会社の本が次々に強制撤去され、言葉や単語に「茶色」を付けなければ危険を感じる社会になって行きます。初めに感じた違和感や反発も徐々に薄れて行き、茶色社会に適応しようと「シャルリー」は茶色の犬を、「俺」は茶色の猫を飼い、「茶色に守られた安心、それも悪くない」と考えます。ある朝「茶色いラジオ」が「最近、茶色い動物を購入したからと云って、考え方が変わったことにはならない。過去、茶色以外のペットを飼ったことがあるなら国家反逆罪に問われる」と報じます。そして二人に「茶色の朝」が・・・。』
武田さんは、「読み終わった時、言いようのない恐怖に襲われるのは何故なのでしょうか?「シャルリー」と「俺」は「わたし自身?」と気づかされるからかも知れません」とコメントなさっている言葉にドキッとしました。あの得体の知れない巨大建造物のように、一つの言葉、一つの民の中に引きずり込まれ、自分を見失っていく社会の不気味さ。
私たちにとって人生を生きるための設計図は「聖書」です。この聖書から如何に聞き、主イエス・キリストがどのような平和を造り出すために、世に来られたのか。又、それをどのように造り出そうとなさったのか。それを知って、心に刻み、生きて行くところに人の平安、平和な社会が実現していくことを信じ、それを希望としていただいているのです。
さて7節、「主は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉を聞き分けられぬようにしてしまおう」となさいます。さらに8節には、「主は彼らをそこから全地に 散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた」ともあります。
造られた塔は宗教的な建築物であったといわれていますが偶像に等しかったのです。それは人が1階、2階と高く高く上るごとに、神々に近づくことができるという、あくまでも人が神のようになるための建造物であったのです。人は一つの民、一つの言葉によって統一し、上へ上へと天に届くように一番頂上の天に届けとばかりに上りつめようとします。しかし私たちの神は下へ下へと地に向かい、人 びとのもとへ降りて来てくださるお方なのです。そこには大きな違いがあります。
造られた塔は宗教的な建築物であったといわれていますが偶像に等しかったのです。それは人が1階、2階と高く高く上るごとに、神々に近づくことができるという、あくまでも人が神のようになるための建造物であったのです。人は一つの民、一つの言葉によって統一し、上へ上へと天に届くように一番頂上の天に届けとばかりに上りつめようとします。しかし私たちの神は下へ下へと地に向かい、人 びとのもとへ降りて来てくださるお方なのです。そこには大きな違いがあります。
神は罪と滅びへと向かう人のところに降りてきてくださるのです。これまで神を見上げ ずに自分を高めようとしてきた人々は、「天から降って来られた主」なる神を見て、ど う思ったことでしょうか?又、そのお言葉を聞いてどう思われたことでしょうか。
私たちは、すべての人に救いをもたらすために、父なる神さまが御子イエス・キリストを世にお遣わしになって救いのみ業をなし遂げられたことを知っています。神の御子が私たちの罪と滅びのどん底にまで降りて来られ、私たちの罪の代価を十字架の血汐によって支払い、贖いとって頂いたことを。
私たちの主は、滅びるほかない罪ある私たちのところにまでお降りくださったのです。私たちがもはや悪しき企てに捕らわれないため、滅びることなく立ち返って本来の人間性を取り戻して生きるためです。感謝のほかありません。
本日のところでもう一つ心に留まりましたことですが。
それは、主なる神は、人々が建てた塔のある町を破壊されたのではなく、人々の言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにされてから、全地に人々を散らされたということであります。
私は最初にこのバベルの塔のお話を聞いた時の印象が強烈だったために、この塔を含め町は倒壊してしまったのだと、ずっと思い込んでいたのですが。実はそうではなく、人びとは言葉の混乱と、互いの言葉が聞き分けられなくなった事で建設を中止せざるを得なくなったということです。そうして人々は全地に散らされるのです。それは神の断罪ではなく、神が人間に多様性をもって生きることの意義と幸いを見出すようにと、地に散らされたということです。
もちろん言葉が通じないということは混乱も起こります。又、同じ言語でも、世代間や立場によって意思疎通の難しさが生じることも多々ありますが。私たちの礼拝にも様々な国の方、様々な言語の方とも共に主を礼拝していますが。そこで大切なのは、違いをもった人がお互いに理解を示し、尊重し合えるかどうかです。互いに良き隣人となれるなら、そのゆたかさを知ることになるでしょう。逆に、違いに対して寛容でなく排他的であるなら、争いや差別の多い人生、殺伐とした社会となるでしょう。
もちろん言葉が通じないということは混乱も起こります。又、同じ言語でも、世代間や立場によって意思疎通の難しさが生じることも多々ありますが。私たちの礼拝にも様々な国の方、様々な言語の方とも共に主を礼拝していますが。そこで大切なのは、違いをもった人がお互いに理解を示し、尊重し合えるかどうかです。互いに良き隣人となれるなら、そのゆたかさを知ることになるでしょう。逆に、違いに対して寛容でなく排他的であるなら、争いや差別の多い人生、殺伐とした社会となるでしょう。
冒頭でシンアルの地の人たちがバベルの塔を築こうとしたのは、天地万物の造り主なる神さまの御心を尋ね求めることなく、ただ、自分たちのおごりと高ぶりのため、又神のようになって散らされる不安を解消するためであった、と申しましたが。今の時代も同様に、創造主なる神を知ろうともせず、その御心を思わないままどんなに立派な高い塔を築いたとしても、分断と混乱が生じ、やがては崩壊に至るのではないでしょうか。
「創造主なる神に立ち返って生きよ。」これが創世記の初めからの聖書が語るメッセージであります。
主は旧約聖書の時代を貫き、時満ちて、あの新約聖書のペンテコステ・聖霊降臨の日に遂に、あらゆる民族、あらゆる言語、文化の違いをもつ人々をエルサレムに集められ、主の救いの福音、十字架と復活の福音をそれぞれの国の言葉で聞き、主の福音が世界に拡がっていくのです。
「創造主なる神に立ち返って生きよ。」これが創世記の初めからの聖書が語るメッセージであります。
主は旧約聖書の時代を貫き、時満ちて、あの新約聖書のペンテコステ・聖霊降臨の日に遂に、あらゆる民族、あらゆる言語、文化の違いをもつ人々をエルサレムに集められ、主の救いの福音、十字架と復活の福音をそれぞれの国の言葉で聞き、主の福音が世界に拡がっていくのです。
使徒言行録3章に記されていますように、「一同(イエスに従ってきた人たち)が聖霊に満たされ、霊が語るままに、ほかの国の言葉で話し出し」、「あらゆる国々からエルサレムに来ていた人びとは自国の言葉で主イエスの救いの福音を聞いて大変驚く」ことになるのです。
そしてこのペンテコステによってキリストの教会は誕生します。すべての人に神の救いと和解の福音を伝え、証しする尊い使命が、聖霊によって立てられたキリストの教会、私たちに託されていくのです。
そしてこのペンテコステによってキリストの教会は誕生します。すべての人に神の救いと和解の福音を伝え、証しする尊い使命が、聖霊によって立てられたキリストの教会、私たちに託されていくのです。
散らされていたあらゆる違いをもった人々は、聖霊によって主の愛を受け、心を通わせ、祈り合い、神と人を愛し、仕えていくのです。私たちは神の作品として造られたお互いとその違いの多様性を導き、互いを理解し、祝福し、祈り合うように招かれています。
今週もまたここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
礼拝宣教 創世記9章1~17節
みなさまお一人おひとりにとって支えになっているという御言葉がおありだと思います。人生の嵐のような試練の中で支え、励まし、前に進んでいく力になったという御言葉、それは一つだけでなく、いくつもあるでしょうが。
私にとっての最も力となっております御言葉を一つあげるとしたら、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)この御言葉が、いつもわたしを支え、守り、導く、力の源になっています。それは「約束のことば」として神さまが心に留めてくださり、その約束をもって生きる私を顧みて下さっておられるとのことです。
本日は創世記9章の「神の祝福と契約」について記されたみ言葉に聞いていきたいと思います。
「祝福」
神はまずノアと彼の息子たちに、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福されました。これは、1章28節で神がアダムを祝福されたお言葉と変わっていないように思えます。
ところが、よく見ますと、「地上の生き物をすべて支配せよ」という言葉がありません。
どうして、神さまはこのアダム以後の時代に「地を支配せよ」地を従わせ、治めよ、という祝福を除かれたのでしょうか。
エデンの園においては人間は神がお造りになったすべての生き物、動物とよい関係であったのです。アダムはそれらに名前を付けました。争わずとも多くの食物の実がなり、肉は口にする必要もありませんでした。
ところが、アダムは神との関係性を軽んじ、善悪の木の実を取って食べて神の命じられたことを破って神を避け身を隠す者となります。その時から神との関係の破れは、人と人との関係の破れ、さらに動物や自然界の生き物との破れとなっていきました。人の罪の性質によって動物や自然界の生き物は人間に脅威を覚えるようになったのです。これは今や世界規模で明らかになっている環境破壊、生き物の乱獲や種の絶滅危機といったことが示しているとおりです。
そのような人間の性質をご存じの神さまは、もはやノアの時代に「地を治めよ、支配せよ」とは仰せにならなかったのです。神の権威を人の特権として乱用し、被造世界を破壊させる危険があるからです。今の世界を神はどのような思いで見ておられるのでしょう。
神はそうした人間に、恐れと脅威を感じている動物や生き物、自然界との関係性を回復すべく生きるようにと招き続けておられます。
ところで、本日の個所で神は人間の食糧について、「動いている命あるものも、青草と同じように食べるがよい、それを与える」と許可なさるのです。そうすると、なんだか他の生き物との関係回復と矛盾しているようにも思えますが。食に与ることも又、共存共生あってこその恩恵なのであります。
ここで神は、「ただし、肉は命ある血を含んだまま食べてはならない」とお命じになっておられますが。血を除いて食べるという事、それは、命への敬意を示すことです。自分が食し生きるために赤い血、命が流されているのです。その命の尊さを忘れないようにしなければなりません。
お肉をお店で買う人は今はほとんどででしょう。血をみることなく、きれいに処理、パッケージされた商品、食材としか見なされず、余れば捨てられ生き物たち。もとは命ある存在であったのです。
次の6節ともなりますと、人の血が流されたことへの賠償について命じられています。「人の血を流す者は、人によって自分の血が流される」とあります。これは復讐を肯定しているのではなく、人の命と尊厳を損なうことがないようにと、神は強く戒めておられるのです。なぜなら、「人は神にかたどって造られた」存在だからです。
7節で「産めよ、増えよ」とおっしゃった創造主なるお方の命の祝福を損うような争い多き世界が一日も早く、イザヤの預言書11章に描かれた、「主を知る知識で満たされた平和・シャローム」が実現されていくように、祈り続けてまいりましょう。
「虹の契約」
さて、神はノアとその息子たち、さらに、そこにはまだ存在していない未来の子孫と、すべての生き物と契約を立てられます。
11節で、神は「わたしがあなたたちに契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」と、約束なさるのです。
私たちの世の中は「契約」社会とも言えます。物を買ったり、保険に加入するにも、家を建てたり住宅を借りるにも、又就職するにも相手があり、契約を交わします。これらの契約には互いの信頼関係、信用をベースに、その誠実さが求められます。万が一契約した約束事にもし違反するようなことが起これば免責の義務が生じます。
ところが、ここで神が立てられた契約ですが。一般的な契約とは大きく異なっています。人間の側がその心に思うことはおさないときから悪く、罪深いものであるにも拘らず、唯一方的に神ご自身が人間を憐まれてお立てになった契約なのです。
それは「あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」という約束です。神はこうして新しい創造の業をお始めになります。
ただ、その後の世界において確かに、すべてが滅びるまでのものでなくても洪水は起こってきました。直近ではリビアにおいて、24時間で1年分の雨が降る大きな洪水が起こり、1万人以上の人が亡くなられ、多くの行方不明の方がいらっしゃるようです。モロッコの地震が起きたばかりですが。近年は顕著な異常気象も相俟って大きな豪雨水害、山火事、地震による災害が起こっていますが。これは神の裁き、天罰によるものだとの考えもあります。
果たしてそうなのか、それは私どもにはわかりません。祈祷会の聖書の学び会では、昨今の様々な災害は地球温暖化や地殻変動を招いた人間の責任が大きいという見方も出ましたが。確かに、「地を従わせ、治めよ」との、本来人に期待されていた役割を、人間が罪のゆえに果たせなかった結果が今問われているとも言えるでしょう。
どちらにしましても、神は先の8章で「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と知っておられるのに、「わたしはこの度したように生き物をことごとく打つことは二度としない」と御心に言われ、本日のこの契約を結ばれるのです。
神はその契約について、13節で次のように仰せになります。
「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」
そうです、この契約は先に申しましたように神が無条件の愛によってお立てになり、雲の中に「わたしの虹を置く」という顕われをもって示された神の契約なのです。
みなさんは近頃虹を見られましたか?まあ虹といえばロマンチックで、美しく、さわやかなイメージを持ったりもしますが。
ヘブライ語で虹という言葉には「弓」という意味もあります。弓と言えば戦争の道具であります。又、権力を象徴するものであります。神はそのご自身の弓を自ら置かれるのです。それを契約のしるしとなさるのです。どういうことでしょうか。
それは神が人間に対して、御自らの弓を放って滅ぼすことはしないということです。神はご自身の弓を置いて、虹の契約を人間とその子孫、又、すべての生き物と立てられるのです。争いの弓は、和解と平和の象徴といえる美しい虹となりました。
厳しい大洪水が過ぎた後に、美しく輝く虹は、ノアたちの裁きに対する恐れを心から取り除いてくれたことでしょう。虹は天と大地とをつないでいるように見えます。罪深い人間と慈しみ深い神さまを結ぶ平和の架け橋であるように思えます。虹は、人間とすべての被造物を愛し、滅ぼすことを決して願っておられないという、神の無限の愛を表わしているようです。だれもが虹を見てほっとし、安らぎます。
事実、虹は神ご自身が心に契約を思い起こされるため、御自ら雲を湧き上がらせて虹を立て、その都度それを御覧になって、あの時のように滅ぼすことは二度とすまいと確認して下さるのです。どれほどの忍耐とご慈愛でしょうか。それは「永遠の契約」、変わることの約束なのです。、
「キリストによる契約の実」
神さまが「虹を置いて」なされたこの契約は、神の子イエス・キリストにおける新しい契約によって、信じるすべての人に、より確かなカタチをもって現わされました。
人間を弓の力によって滅ぼすことをなさらず、その「弓を置き」、私たち人間の罪を自ら背負い、その罪の裁きを引き受けて下さり、主御自身の命である血を流し、肉を裂かれて私たち人間のためのあがないの救いを成し遂げられたのです。
ヨハネ3章16節「神は、その独り子を賜ったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
神は最も尊いみ子キリストを罪に満ちた世界とそこに生きる私たちのためにお遣わして下さり、その血汐をもって、天と地を結ぶ永遠の平和の契約を実現してくださったのです。
そのことを思うとき、唯主への感謝と賛美しかありません。それは私たちが罪に満ちた世にあって、神の御前に自らの信仰と思いを守っていく力、又、あらゆる闇の力や悪に対してキリストに倣い打ち克っていく力なのです。
神がご慈愛をもってかけられた虹の契約。
「わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てた永遠の契約を心に留める」とのお約束。それは、主イエスの「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」とのお言葉によって保証されているのです。主は私たちのことを忘れることなく心に留めてくださり、どんな時も共にいてくださるのです。
この主の日、御前に与り、救われ、生かされている日々への感謝。神への信頼と愛、そして願いを込めて、賛美をささげ、今日のいのちの言葉をもって、この礼拝からそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
礼拝宣教 創世記8章1-22
今日でノアの箱舟のエピソードも3回目となりますが。
創世記6章の記事では「主は地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められ」、地を一掃なさる決断なさいます。
そうして起こった洪水は7章にありますように、「大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれ、洪水が地上に起こ」り、40日40夜天の窓が開き怒濤の雨が降り続け、洪水となり、地上で動いていた肉なるものはすべて、鳥も家畜も獣も地に群がり這うものも人も、ことごとく大水に飲み尽くされて息絶えてしまうのであります。
水は150日もの間、地上で勢いを失うことなく、「ノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残される」のです。
ノアは、40日の洪水の間、さらに水が地上で勢いを失わなかった150日の間、どのような思いで箱舟の中にいたのでありましょう。
豪雨と洪水、勢いが絶えない大海原の中で、不安や恐れ、あるいは箱舟の中で生き物と共に過ごす苦労や疲労も当然あったのだろうと想像いたしますが。
ここからが本日の8章でありますが。
その冒頭で、「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた」とあります。
この地の上に神が風を吹かせられた「風」(ルーアハ)は、単なる風ではなく、天地創造の時に水の面を動いていた「霊」と同じ存在です。
それは単なる自然現象によるものではなく、創造の主、すべてを司っておられる神のご意志による御業であります。
そのようにして、箱舟はアララト山の上に止まり、山々の頂が見えたというのです。この水がどんなに高い水位まで上っていったのかということが伝わってきますが。
箱舟の中にいたノアやその家族の人たちは、外の状況がどのようになっているのか全くわかりませんでしたから、地上の様子を確認するためにノアは4回にわたって烏や鳩を箱舟から放つのです。
最初、烏を、次に鳩を放ちますが何の収穫もなく箱舟に戻ってきました。7日において3回目に鳩を放ったら、その鳩がくちばしにオリーブの葉をくわえて帰って来たのを見て、水が地上からひいたことをノアは確認します。オリーブの葉は水の中でも芽を出すと言われます。柔らかい新芽の葉です。それはこの地上で、既に神の新しい創造のみ業が始まっているあかしでした。
その「オリーブの葉をくわえた鳩」は、いのちの希望を表わすしるしでした。
窓から放たれた鳩はノアの祈りをもって送り出されますが、帰ってきた鳩はその祈りに対する答えっであることを物語っていました。
鳩といえば、ヒロシマとナガサキの原爆投下の日をおぼえて行なわれる平和記念式典の場においても大空に放たれます。その鳩もまた、平和への祈りをもって放たれるのです。
そうして放たれた鳩は、大地が乾き、再び芽吹いてきた生命のあかしとして、くちばしにオリーブの葉をくわえ戻ってきます。それはノアの祈りと忍耐が決して無駄ではなかったことを表します。
ノアはこの壮絶な大洪水が始まりから完全に地がすっかり乾くまでの1年もの間、どういう思いであったでしょうか。
何しろ、完全に箱舟の中に閉じ込められていたのです。そのうえ猛獣までも一緒です。ノアは自らのこと以外に、家族や動物たちが起こすあらゆるトラブルにも見舞われ、それらを解決しなければならなかったでしょう。
しかし、何よりも大きな不安は、この災いがいつ迄続くのか、それが彼には知らされていなかったことです。
これはコロナ危機が2年半以上も続くなかで、一体この危機はいつまで続き、いつ解決するのかわからないといった私たちの苦悩や不安、焦りとも重なるように思います。
ノアはそのような中で、なおも忍耐をもって苦難を忍び希望する力を、一体どこから得、何を頼りにしていたのでしょうか。
それは、6章18節の「わたしはあなたと契約を立てる」という神の御言葉の約束にありました。その希望の約束を信じ、受け取ったノアは、どのような目に見える厳しい現実をも乗り越えていく力を与えられていたのです。
それは、ヘブライ11章1節に記されている「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」主への信仰です。
契約というのはご存じのとおり大変な重みを持っています。ひとたび契約が交わされたならば、互いが何かしらの利益を受け取ることに義務を負い、責任が生じます。時に契約は履行されるための強い効力をもっています。
神はノアに「あなたと契約を立てる」と仰せになられましたが、ノアははその契約がどのようなもであるかは伝えられていませんでした。それにもにも拘らず、「箱舟に入り、生き延びるようにしなさい」との神のお言葉に聞き従いました。
本日の8章の冒頭で、「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた」とあります。
神はそのノアを御心に留めてくださるのであります。
「御心に留める」という言葉には、深い慈しみをもって顧みられたということです。ノアは想像を絶するような様々なかで、この深い慈しみをもって臨まれる神に望みもち続けたのです。
さて、ノアは更に7日待って、再び鳩を放ちます。すると、鳩はもう帰ってこなかった、とあります。ノアとその家族はこの日が来る事をどれほど待ち望んでいたことでしょう。
神はノアに、「家族とともに箱舟から出なさい」と仰せになります。さらに「すべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい」と言われます。神はすべての命を祝福なさるのです。それは、再びこの地上が命にあふれる世界となることでした。
そこでノアが真っ先にしたこと、それは祭壇を築き、献げものを捧げ、救いの主であられる神を礼拝することでした。
主なる神は、そのノアの捧げもののかおりをかいで、こう御心に言われます。
「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」
これは、主であられる神さまがご自身のお心のうちに、決定的な決断をなさったということであります
人の罪の性質すべてをご存じでありながら、人間という存在を引き受けていかれる大決断を神はなさるのです。人間は、昔も今も何ら変わりません。どんなに高度な文明や科学技術が進んでも、自分が賢くなったと思っても、富み栄え偉くなったように思ったとしても、人間そのものは大して変わっていない。
神が、人は幼いときから悪いのだとおっしゃったように、この洪水物語の前も後も、そして今日の世界も、先にも触れましたように、罪に満ちた世界の実情は昔も今も変わっていません。そうでないなら、なぜ世界中の人のみならず、動物も、命あるものが苦しみと悲しみ、破滅的な痛みの中でもがいているでしょうか。人間の側はいつの時代も何も変わらないのです。
それにも拘らず、創造主なる神さまは、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」と決意なさるのです。それは変わりようのない人間に対して、神さまご自身が変わられた、ということであります。一体そんなことあるでしょうか。全能なるお方ご自身が変わろうとなさるとは・・・
それは唯、ご自分が創造された人間やあるゆる生物の命が滅びていくことに断腸の思いをもって痛まれるそのご慈愛のゆえです。
人の言葉に言い表せないようなそのご慈愛のゆえに自ら変わられ、洪水後なおも反抗し続けるような人間、み心に反し破壊的な世界に向かっていくような人間を受け入れ、関わり続けようとなさることを御心に決められたのです。
人間の愛は条件つきであります。これだけ相手にしたのだから、尽くしたのだから、その見返りはあると期待し、求めるものです。しかし神の愛は条件つきの愛ではありません。神の愛をアガペーと申しますが。神は人を妬むほどに愛し、憐れみといつくしみに富んでおられると、聖書に幾度も語られていますように、人がどのような者であるかご存じでありながら、ご自身心を痛めつつ、なおも人の立ち返るのを忍耐のうちに待っておられるのです。
この慈愛の神のお姿は、ついにイエス・キリストにおいて、すべての人に現わされます。慈愛の神が人を愛するがゆえにご自身痛みと想像を絶する犠牲を負って下さった。この神の慈愛の究極のお姿がキリストご自身なのです。
フィリピ2章6節以降にこのように記されています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でした。」
神の御子であるキリストが神の慈愛そのままに人間の姿となってこの地上に来られ、人間の咎と罪を自ら背負われ、十字架に磔になって死なれ、すべての人の罪をあがなわれたのです。
今私どもはこの慈愛の神の新しい契約によって、すなわち神の御子イエス・キリストの贖いの血汐によって罪がゆるされ、復活の命の希望、神の民、神の子として生きる道が、唯、主イエス・キリストを信じる信仰によって与えられているのです。
キリスト者は、この神の愛に出会い、その愛の中で生きることを決意した人、罪に死に、新しいキリストの命に生きる信仰とキリストに従い行く意志を与えられた人、主のご慈愛によって生きる人です。
この後、主の晩餐が持たれますが。私たちを愛するがゆえに人の姿となられ、十字架で肉を裂き、血を流された主イエスの愛と神の深いいつくしみ。これこそ私たちを確かに生かす命の源であることを今日も確認いたしましょう。新しい週が始まりました。ノアが箱舟から出て祭壇を築きましたように、私どもそれぞれの生活の場で主を拝し、仕えてまいりましょう。
召天者記念礼拝宣教 Ⅰコリント15・1-8,12-24
3年にも及ぶコロナ危機が続き、葬儀の形態も家族にのみで、一日葬で行われるところも増え、そのかたちも変わってきました。私事で恐縮ですが、私の母もコロナ下に亡くなりました。病院に救急搬送されてからは一切面会ができず、最期さえ看取ることがゆるされませんでした。
コロナはまだ終息していませんが、社会では五類となりマスクは個人の判断となり、ようやくこうして気兼ねなくご遺族の皆さまにご案内することができましたが。まだコロナは無くなったわけではありませんので、各々において適切に対応していきましょう。
本日は先に主のみもとに召された故人を偲びつつ、復活の主を記念する礼拝をお献げしています。
私たちの主なる神さまは、天地万物をお造りになられ、すべてを治め、生きとし生ける命を司っておられます。
先ほど、召天会員・会友者の名簿にそっておひとりお一人のお名前が読みあげられました。主なる神さまによってこの地上に生を受け、イエス・キリストと出会い、主と共に歩まれ、十字架のあがないによる救いの約束のもと、天の神のもとに帰って行かれました。
今日この召天者記念礼拝にご列席くださいましたご遺族のなかには、故人は教会員でクリスチャンであられても、ご自身はクリスチャンでない方、あるいは他の宗教をもっておられる方もおいででしょう。今日ここに、故人の信仰を尊重してくださり、この場に集って頂けたことに感謝と敬意を表したいと思います。
私がクリスチャンになる決心をしたのは高校1年生でした。
その時、悩んだのは家が仏教であるということでした。長男であった私がクリスチャンになると親のことも含め家の仏壇のこと、法事や祭儀はどうしたものかといった心配がありました。
そのことについて当時バプテスマ(洗礼)の準備クラスでお世話いただいた牧師は、ご自分の体験を通じてこのように私にアドヴァイスをしてくださったことが思い出されます。
「きみの信仰は神さまとの関係として大事にすることが一番。ただし親の信仰も尊重してあげることは十分にできる。例えば私の場合は亡くなった母のための仏壇はおかないけど、母の信じていた信仰に基づき、母の小さな位牌は家において大事にしているよ。」
私はその言葉でクリスチャンになることに対してのわだかまりが解けました。そうして高校1年のときに主イエスを救い主と信じ受け入れて、バプテスマを受けたのです。「自分の信仰、神さまとの関係を大事にするという信念はしっかりと保ち、故人の信仰は尊重する。」とっても大切なことを教えて頂いたと思っております。
「キリストの復活」
今日は先に読まれました聖書、Ⅰコリント15章の「キリストの復活」と「死者の復活」についての、み言葉に聞いていきたいと思います。
15章1-8節までは、復活されたキリストが、そのお姿を表されたことが、記されています。
その中で最も大切なこととして伝えられているのは、「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとり三日目に復活したこと」であります。
私たちの罪を贖うために十字架によって死なれたキリストは、よみに下り、三日後に死よりよみがえられたのです。
今日の5節以降には、「復活されたキリストが、ケファ(シモン・ペトロ)に現れ、その後12人(弟子)に、次いで500人以上もの兄弟に同時に現れました」とあります。
7節には、「次いでヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたし(パウロ)にも現れました」とあります。
かつてパウロは、生前のキリストについて何も知りませんでした。ただキリスト教は邪教だということで、キリスト教会とその信者を激しく迫害していたのです。その頃キリストの内に働かれていた聖霊が降臨し、主イエスは救い主、キリストと信じる人たちが爆発的に増えていきました。そうした中、パウロは復活のキリストと出会う体験をするのであります。彼はそこで主のみ声を聞き、茫然自失となるのです。キリスト教会とそキリスト者を迫害していたのは、実は神を迫害していたことだった。神を冒涜していたのは自分であったと思い知るのです。
その自分の罪の恐ろしさを知ったパウロはキリストの救いを受けとり、キリストの福音を伝える使命が与えられたのです。
私たちのなかで、復活のキリストにお出会いしたという方はおられるでしょうか。なかにはおられるかも知れませんが。しかし単にキリストを見るということと、お出会いするということは違います。
「聖書」をとおして、キリストのお言葉とその生き方に触れる時、又、祈りの中で呼び求める時、キリストが自分の罪のために死んでくださったことを身に染みて感じれることもあります。肉眼で見なくとも確かにキリストは今も生きておられる、この聖霊のお働きをとおして私たちはそのこと知り、体験することができます。復活のキリストは今も信じる者と共に生きておられます。
「死者の復活」
今日のもう一つのお話は、「死者の復活」についてであります。
それは先の「キリストの復活」が基盤になっているのです。
12節以降にこうあります。
「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」
これは当時のコリントの教会において、死者の復活について否定する考えがあったということです。しかし聖書は人の死が終わりでないことを旧約聖書の時代からずっと伝え続けています。
今日の15章35節以降のところには、「復活の体」、「霊の体が復活する」という驚くべきことが大いなる希望として記されています。「死者は復活して朽ちないものとされ、朽ちない霊の体を着る」と約束されているのです。
パウロはここで、「死者の復活」を信じないのであれば、あなたがたの信仰はむなしく、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったことになる。
「この世の生活、でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」と、その不信仰を嘆きます。
そこで私たちが再確認しておかなければならないのは、20節の「キリストが死者の中から復活し、眠りについた者の初穂となられた」とうことです。
この「初穂」とは、果物や穀物のうちで、その年の最初に実ったものを指します。初穂は収穫の始まりであり、そこから次々と実りの収穫がなされていくのです。
死から復活されたキリストは、復活の命の初穂となられ、キリストにある者の「霊のからだ」が復活するのです。
22節以降にはこう記されています。
「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべて人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」
アダムは罪により神との関係性を損なって死をもたらしましたが、キリストは神との和解による死と滅びからの解放がもたらされたのです。
さらに23節で、「復活」には順序があるということです。
始めは、初穂であるキリストの復活です。この出来事は起こりました。次の段階では、キリストが再び来られる来臨のときです。そのときがキリストを信じていた人たちの復活です。その折には、先に天に召された信仰者から復活して変えられます。ついで、地上におかれている信仰者も復活のからだに変えられます。そして、世の終りが来る、とあります。
私たちはいつ地上の歩みを終えることになるのかわかりません。だからこそ、キリストの救いの喜びと感謝を日々新たに、復活に与る希望、死が死で終わるものでなく、キリストにあって朽ちない命に与るという希望をもって一日一日を大切に歩んでまいりたいと願います。
今日のいのちの御言葉の約束の確かさに信頼し、主の御前に生きてゆきましょう。