聖霊降臨礼拝宣教 ローマ8章14節~30節
本日は聖霊降臨によってキリストの教会が誕生し、世界に福音が伝えられてきたことを記念する特別な礼拝です。それは、復活された主イエスは天に昇って行かれる折、弟子たちに「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである」とおっしゃいました。そしてエルサレムにとどまり続けていたところ、遂に聖霊の降臨の約束が実現されます。主イエスは「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダとサマリア全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われました。その出来事は実に今日の時代に至るまで連綿と続いているのです。
礼拝や祈り会、又讃美を共にささげている時、心の中に感動が溢れたり、胸が熱くなったり、何だかわからないけれど涙が流れたり、主が生きておられることを実感したというような体験をお持ちの方もおられるのではないでしょうか。そこには人間の側からではなく、神さまの側からの介入、聖霊ご自身がお働きになることを望んでおられます。心を開いて聖霊による神の愛と慰めを受け入れる時、新生の命と共に平安を得、主が共におられる確信が与えられていきます。聖霊のお働きを信じ、望み、祈り求めてまいりましょう。
今日は「聖霊の贈りもの」と題し、聖書のメッセージを聞いていきたいと思います。
聖霊の贈りものについては14-17節のところで、まず「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」また、「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」と記されています。聖霊は人を「神の子」とする霊なのです。さらに、「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光を受ける」と述べられています。
キリストによって神に立ち返り、聖霊に導かれて神の子として生きる者は、神の恵みの相続人とされ、来るべき日にキリストと共に神の国を受け継ぐ相続人となるのです。
この驚くばかりの恵みですが、それは神の子とされた者がキリストと共に苦しむことをとおしてもたらされることが、ここに示されています。そのことは、キリストの愛と忍耐に倣い、キリストの似姿とされて、キリストと共に神の国を受け継ぐ神の子とされていくという事です。
聖霊のお導きによって神の子とされていても、この地上において問題や困難がなくなったかというと、決してそうではありません。むしろ先週お話ししたように、神の光に照らされますと、内在する罪が明らかになります。古い自分と新しくされた自分との闘いが生じていきます。
ローマ12章2節には、「あなたがたはこの世に倣ってはいけません。むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」とあります。これが聖書の示す優先順位であろうかと思いますが。
実に、そこで信仰の闘いや心の中に葛藤が生じてまいります。それは神に誠実であろうと思えば思うほど強くそういった闘いがあるわけです。まさにそうした中で忍耐強く神に従っていこうとするとき、「キリストと共に苦しむ」ということが生じます。そうやってキリストの似姿に変えられていくのです。
さて、18節で「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るにたりない」と、述べられていますが。栄光に至るまでの現在に苦しみは3つのうめきに関連して述べられています。
①「被造物のうめき」
1つ目のうめきは、被造物のうめきであります。これは今日の時代においてもリアルであり、実感されてていることではないでしょうか。地球温暖化が進み、気象変動が様々な国々、地域において災害となっており、生態系や動植物にも影響を及ぼしています。
人の生活圏にクマやサルといった野生の動物が入りこみ、危害を加え、農作物を奪うような事が起こっていますが。原因は境界線ともいえる土地の管理が行き届かなくなり、ずさんになってきたため、動物が人の居住区域に入りこんできている、といることだそうですが。人間が身勝手な利益のために自然の動物を奪ったり、又自然環境を荒らすというような逆のこともいえます。いずれにしろ、大本は、神が造られた世界の被造物を「治めよ」と人間に言われた恵みの言葉に対して、人間だけの欲望や利益、発展のみを追求し、自然や動植物を管理する事を怠ってきたところに原因があるといえます。
一方、そのように地球が痛み、傷ついて叫びをあげている中で、地球に優しいライフワーク、持続可能な社会を作る運動も推奨されております。神がお造りになったすばらしい世界を回復に導く神の子たちが、実際必要とされる昨今です。
パウロは、ここで被造世界の「希望」について次のように述べます。
「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」終りのとき、来るべき時に、神の子たちが神の国を相続するとき、被造物もその栄光に共にあずかっていく大きな希望があるということです。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。それは産みの苦しみでありますから、待ち望みつつうめいている、ということです。来るべき主の来臨の時に向け、全被造物も共に忍耐しつつ、うめいているのです。
②「霊の初穂をいただいている者のうめき」
2つ目のうめきは、霊の初穂をいただいている者のうめきです。
23節に「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体が贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちはこのような希望によって救われているのです」とあります。この霊の初穂というのは、十字架と復活のキリストであられます。イエスを主、救い主として信じ受け入れて救われた者は、みなこのキリストにある新しい命を宿しているのです。それは、やがて訪れる終末、主の来臨の時に、キリストと共にその栄光を受ける神の子として、朽ちる肉の体を脱ぎ、「霊の体に復活する」(Ⅰコリント15・44)。「体が贖われる」ことを希望として待ち望む。これが、主イエスによって救われている者の究極の希望であります。
しかし主を信じていても、絶望的思いになったり、挫折したり、さらには神さまを見失ったような思いになったり、又、神さまから見捨てられたような気になったりということが起こることもあるかも知れません。大使徒パウロであっても困難や苦しみの中で、言葉さえ失い、言葉にすることができないうめきを経験したという事が書簡の中に出てまいります。
③「霊のうめき」
しかし、パウロは気づきます。
26~27節「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」それは「霊のうめき」によるとりなしです。
私たちは、ほんとうに苦しいときにどう言うでしょうか。「苦しい」「しんどい」という場合もありますが、度が過ぎたり、理解を超えるような苦悩や苦痛が生じたときに思わず「うーー」とか、言葉にならないような「うめき」になるのではないでしょうか。
そういうときに、「霊もうめきをもって弱い私たちを助けてくださる」(26節)のです。
この「助ける」ということですが、原語では「共に」「代わって」「重荷を負う」という深い意味を持つ言葉なのです。霊は「苦しみを共に担う」ことによって弱い私たちを助けてくださるのです。日本語の「助ける」では、そこまでその深い意味を味わい知ることができませんが。そこには十字架の主イエスが深い苦悩と叫びをもって執りなされたご愛が、この霊の「助け」のなかに同様に働いておられることを知らされます。
この「霊による助け」「言葉に表せないうめき」ということについて思うことがあります。
以前、ホスピスケア・ターミナルケア(これは、その人らしい余命を全うさせ安らかな死を看取るとの視点に立った緩和ケアのことですが)、そのことについて学ぶ牧師研修の折、京都の日本バプテスト病院のチャプレンがこういうことをおっしゃっていました。
「患者さんは、その病状が重度なゆえに、「ノ―」ということが言えない状況にもある。しんどくても我慢して大丈夫と言っている。言いたいことも押し殺している。私たちはそのような患者さんの思いを聞き取り、サポートができたらと願っている。」
このケアは一人の魂に医師や看護師といった専門職だけが関わるのではなく、「その人に愛情をもって接することのできる人なら誰でも可能」だということです。それはその患者さんの話を聞かれるご家族や友人をはじめ、お部屋を毎日来られる掃除婦の方など様々な人との関わりを通して、その一人の魂を多面的に看ていく。そして可能な限りその人の声を聞いていく、そういうことがスピリチュアルケアに大事な面であるということを教えて戴いたのでありますが。私たち一人ひとりも又、神の霊が共におられ、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成されているのですね。
ここで覚えておきたいことは、先の話のように、一人の患者さんの言葉にできない思いは、主にある私たちの間で、共にそのうめきは、とりなされ、覚えられ、祈られていくということが大きな力、喜びとなっていくことに違いないでしょう。
それは、主にある隣人として主が導かれた、共に礼拝に与る方がたの「言葉に表すことのできないようなうめき」を聖霊ご自身がうめいてくださり、私たちも又、主にあって愛をもってとりなし祈り、祈られる者として招かれています。そこに聖霊のゆたかなお働きと交わりがあります。
そこで、祈る側の私としてですが。人のために霊によって祈るということは、感情や感覚に頼ってはなかなかできないことです。あの人のためには祈れるが、この人のために祈れないという場合もあるかも知れません。ここに信仰の闘い、血肉ではない霊の闘いがあります。闘いといっても、それは自分の内側から起こってくるものが大半でありますが。
そもそも霊の初穂をいただいている者は、救われた義人ではありません。どこまでも救われた罪人であります。そのような罪人が、唯、主の憐れみによって罪赦され、神の子とされ、神の国を受け継ぐ者とされているという救いの原点に立ち戻ることが大切です。
そうして主の前にあって自らを低くされ、人を愛し、ゆるし、とりなす者とされてゆきます。神は引き上げてくださる、とイエスさまは仰せになりました。これが神の子としての祝福であり、神の霊が共に働く人の姿です。
私たちは、聖霊のとりなしとお働きを祈るということにうみ疲れてはなりません。自分自身のため、身近な人のため、又主にある同胞のため、主が成し遂げてくださった御救いがすべての人、又全被造物にもたらされていくように祈り続ける。そのために召されています。神は霊の人の祈りに耳を傾けてくださり、万事を益としてくださるのであります。
ここに、「神はわたしたちを御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められた」とあります。
何と畏れ多いことでしょうか。キリストと共に喜ぶことだけでなく、キリストと共に苦しむ。それはキリストの救いに与り霊に導かれて神の子とされる者が、キリストの似姿にされるという神のご計画によるものです。
この聖霊降臨、ペンテコステにおける聖霊のゆたかなお働きと恵みに感謝し、今日の御言葉を受け、さらに祈り求めつつ、キリストと共にその栄光を受けていくものとされてまいりましょう。