緊急事態宣言が解除されましたので、礼拝と祈祷会を再開いたします。
とはいってもまん延防止措置の状況ですので、1時間以内の短縮礼拝と祈祷会となります。
感染対策として教会堂の椅子の間隔をあけ、会堂内のオゾン消毒、換気等に努めつつ、
又、ご来会者には検温、手や指先の消毒、マスク着用のご協力を頂いております。
よろしくお願いします。
平 安
緊急事態宣言が解除されましたので、礼拝と祈祷会を再開いたします。
とはいってもまん延防止措置の状況ですので、1時間以内の短縮礼拝と祈祷会となります。
感染対策として教会堂の椅子の間隔をあけ、会堂内のオゾン消毒、換気等に努めつつ、
又、ご来会者には検温、手や指先の消毒、マスク着用のご協力を頂いております。
よろしくお願いします。
平 安
主日礼拝式 Ⅰヨハネ手紙5章6-21節
緊急事態宣言で休会となって2ヵ月半ぶりにこうして礼拝や祈祷会が再開できますことは、このうえないよろこびです。久しぶりに主にある皆さまと互いに顔を合せることができてうれしい思いで一杯です。又、この場に集いたくてもお体の状態や諸事情からご自宅等で礼拝を守っておられる方の事も覚えつつ、共に主に礼拝を捧げてまいりましょう。
本日はヨハネ第一の手紙5章より、「この方こそ、永遠の命」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。この新共同訳聖書の5章始め1-5節には「悪の世に打ち勝つ信仰」と小見出しがつけられています。さらに19節後半には「この世の全体が悪い者の支配下にあるのです」と記されています。
近頃の国内外の情勢を見ますと「無力感」を覚えることばかりですが。
世界各地で起こっています権力と武力による市民への弾圧、政治の混迷とお金の問題、様々な利権をめぐっての不正がどこもかしこもはびこっています。それは無関心と保身を図ろうとする人々に押しあげられ、気づいた時には闇の中です。今はさらにコロナ禍での分断や切り捨てとも言える救済の手薄さといった問題がこの社会に暗い影を落としています。
人間が人間として生きることを奪う悪の力は今も働いているのです。真の神を知らないために、また神に背を向け欲するがまま生きようとするために人が神のようになり、神のようにふるまうのです。こうした真の神を認めようとせず、神でないものを神としていく偶像化(21節)こそ、死に至る罪(16節)なのです。
ヨハネはそういう中で、5章1節「イエスがメシア(キリスト:救い主)であると信じる人は皆、神から生まれた者です。4-5節「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」と、力強く訴えかけるのです。
さて、ヨハネは6-12節でまず、イエス・キリストが「水」(バプテスマ)と「血」(十字架)を通って来られたことを証しします。ここに「霊は証しする」とありますが、聖霊はイエスさまのバプテスマに臨まれ、十字架も又聖霊のお働きのもとで成し遂げられたのです。ヨハネがわざわざこのように書き記すのは当時の信徒の中に、イエスさまが十字架にお架かりになる前に聖霊はイエスさまから出て行ってしまった、という人たちがいたからです。確かにイエスさまは立派な業や行い、奇跡のしるしをなさいましたが。しかし十字架の贖いによる御救いを実現なさるためにこそ、イエスさまは肉をとった人間の姿となられたのです。まさにこの神の愛の集大成といえる「十字架の救いの信仰」を伝えるために、ヨハネは「霊」と「水」と「血」の証しと言ったのです。
さらに、成し遂げられられた水と血の証しは2000年前に完結されたものではなく、今も、そしてこれからも続く普遍的な神の真理であるということを、活ける聖霊が時間や空間、歴史を超えて証ししておられるということです。
この水と血と聖霊という3つの証しによって神の救いの十全性が保証されているのです。ユダヤ社会では裁判の法廷に3人の証人がいなければなりませんでした。「罪あり」と訴えられた人のための3人の証人。霊と水と血の証しによってこそ、私たちは罪のゆるしの希望を持つことができるのです。
ところで話は少しとびますけれど、私たちは礼拝で使徒信条を用いていませんが、その信仰告白には豊かな点も多くあります。
次のようにイエス・キリストについて証しがなされています。
「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、
イエス・キリストを信ず。主は聖霊(せいれい)によりてやどり、
処女(おとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、
かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、
聖徒の交わり、罪の赦し(ゆるし)、身体(からだ)のよみがえり、
永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン。」
ここには「主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ」と、イエス・キリスが人として人からお生まれになったことが信仰告白されています。又、「イエス・キリストはポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられた」とあります。
これは、イエス・キリストが単にポンテオ・ピラト個人に苦しみを受けたというのではありません。このポンテオ・ピラトのもとにというのは、ヨハネが本日の19節で「この世全体が悪い者の支配下にある」と述べたように、それは「悪い者の支配」の総称です。
今の時代においてもこうした「悪い者の支配」、世の力が実にあらゆるところに様々なたちで働いているということであります。まさに社会全体はその支配の下にあって闇の中でもがいているのでありますが、そこにイエス・キリストは救いをもたらすために十字架につけられた、ということです。しかしイエス・キリストは死者の中から復活され、私たちは神の子としての栄光を仰ぎ見るとともに、やがて来るべき正しい審きを司るお方の再臨を待ち望んでいるのです。
だからこそ、私たちはヨハネが強調する信徒の交わりを主の愛のもとで大切にし、罪のゆるしと体のよみがえり、11節にあるように「永遠の命」に生きる信仰の道を歩んでいるのです。
12節「御子と結ばれている人にはこの命がある」。私たちは神が御子を通して証しなさったことを信じることによって、御子と結ばれ永遠の命に与るのです。
そして、ヨハネは13節で「神の子を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」と述べます。
まあ、私たちがイエスは主であるとの信仰の告白をして信じていながらも、世にある日常の生活においては、自分が永遠の命、キリストの命に与っているという事実に心が鈍りがちになることがあるかも知れません。
私は高1の時に主を信じてキリスト者となりましたが。なかなか主の十字架による義とゆるしについて確信に至らず思い悩んでいました。けれど19歳の頃だったかと記憶していますが。会社の研修で半年間京都の長岡京市に来ていた時でした。
その時、一人で口語訳聖書のローマ3章21節以降の御言葉を読んでいたのですが。そこにはこのようにありました。「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。」
ここを読んだその時、何か不思議なお働きによって私の心が開かれ、次のような思いが与えられたのです。「よくよく考えると、自分はあの高1の時にまあ幼い信仰なりにも主を信じた。そのことを主はちゃんと覚えて下さっている」と、そういう確信と平安が与えられたのですね。まさに聖霊のお導きでありました。
私たちの信仰の歩みはまさにこういった確認と確信の連続であります。
ヨハネは14-15節でも信仰者が祈りにおいて「確信」を持つように勧めます。
14節「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れて下さる。これが神に対するわたしたちの確信です。」
神は私たちの痛み、苦しみを知ってくださいます。私たちの訴えや願いにじっと耳を傾けてくださるお方であるという確信であります。その証しとして御子、イエス・キリストご自身の地上の歩みは、ヘブライ人への手紙2章18節に「事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」とあるとおり、
このイエスさまこそ聖霊の導きのもと、絶えず父の神の御心を求める祈りの日々において確信を得ておられました。だから祈りと行動がつながっていたんですね。
さらにヨハネは15節で「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったとは既にかなえられていることが分かります」と述べます。
この事実は、ここに「わたしたち」とあるとおり、教会の皆で心を一つにして祈るようになった願いに対して、顕著に表わされるということを私も何度も経験いたしました。このような時代だからこそ、共に祈り続けてまいりましょう。
最後に18節「わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれなった方(御子)が、その人(神を知る人)を守ってくださり、悪い者は手を触れることはできません。」
5章4-5節には「神から生まれた人は、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ものではありませんか」とあります。
私たちは主イエスにある信仰によって世に打ち勝つことができるのです。
ヨハネ福音書16章でイエスさまは、「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と宣言してくださいました。
始めにも申しましたように、今の時代においても神の愛と招きを拒むところからおこる悪の力や罪の働きは容赦なく、恐れと不安を引き起こしています。それは私たち信仰者の信仰と希望と愛を損なわせようとします。
しかし、主は最終的にそういった悪の力、神に敵対する者に打ち勝たれ、すでに勝利しておられるのです。神の勝利は御子の十字架の愛によってもたらされました。神は世の力を打ち砕かれ、罪の滅びから救い出すために、御子を犠牲にしてまで私たち人間を愛し通してくださるお方なのです。
ですから、いかに暗き世の中にあっても私たちは、この御神の愛に信仰の確信を得て、光の中を日々祈り歩むことができるのです。神ならぬものを神とする力にだまされず、流さず、「イエス・キリストこそ、真実の神、永遠の命です」との信仰を私たちの拠り所として、今週ここから遣わされてまいりましょう。
礼拝宣教 Ⅰヨハネ手紙4章7~12節
有名なシャンソンの曲に「愛の賛歌」というのがありますが。実は聖書に「愛の賛歌」と言われる御言葉がありまして、それは先ほど交読文で読まれましたコリント第一13章、「どんな業も行いも愛がなければ無に等しい。愛は忍耐強く、情け深く、ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」という有名な聖句です。
そこにはギリシャ語の「アガペー」:愛という言葉が9回記されております。それは人間の友愛(フィリア)、性愛(エロス)などとは異なる、神の人間に対する愛です。
そして本日のヨハネの手紙でありますが。この短い箇所には驚くべきことにそのアガペーの愛がなんと、先のコリント13章の9回を遙かに凌ぎ15回も記されているのですね。これまではそんなに気にせず読んでいたのですが。この個所はいってみればヨハネの手紙版「愛の賛歌」と言えるでしょう。
それでは、ここからアガペー・「神の愛」のメッセージを聞いていきたいと思います。
7-8節「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」。
ヨハネは先週の2章のところで、主イエスの「あなたがたは互いに愛し合いなさい」という新しい掟、について触れていましたけれども、この4章ではその「愛」とはいかなるものか、というアガペー・神の愛のご性質について述べています。
まず、その愛は神の愛でありますから、本来私たちの心の内にはありません。肉親や友愛、恋愛などは人の心の内にあっても、このアガペー・神の愛はないのです。ですから、それは神が共におられるのでなければ人の内に存在せず、当然分かち合うことも与えることもできないのです。
それで、ヨハネは7節ありますようにアガペー・神の愛で「愛する者は皆、神から生まれ、神を知っている」。逆に、神の愛で「愛する事のない者は神を知っていません」。そう記すのです。
では、その神の愛に私たちはどうやって与る者とされるのでしょう。
9-10節「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
それはまさに、私たちがこの神の愛を知ることによって、アガペーの愛に生きる者とされるということです。
神は、天地万物を創造し人間には命の息を吹きかけて神の似姿として生きる者とされました。しかし、その人間が罪に陥り、被造物全体が罪と死の支配の下に呻き、苦しみ、さまようようになったのです。そこで神は律法と預言者をお与えになりますが、人はそれを守ろうと熱心になればなるほど、罪を自覚し、自分も他者をも裁いて、愛は益々遠ざかります。しかし、その弱き人間を神は愛してくださいました。私たちが罪の滅びから救われるために、まさに神の愛が「人」となられたのです。
神は御子イエスを、人の罪を償う犠牲としてこの世界に遣わして下さいました。ここに顕わされた神御自身の愛のご性質、その憐みといつくしみ。それはヨハネが言うように「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」下さったゆえに与えられた恵みなのです。罪に滅びる外ない、愛するに価しないような私たち人間であるにも拘わらず、御独り子を犠牲にしてまでも私たちを憐まれ、お救いくださる。ここに人の思いを超えた神の愛がある。これこそ「神の愛」だとヨハネは証しするのです。
ところで、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」という御言葉で思い浮かんできましたのが、ヨハネ福音書15章16節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」とのイエスさまの有名なお言葉です。
ここでイエスさまは、もはや弟子たちをしもべとは呼ばず「友」と呼ばれました。
このところでもイエスさまは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」とおっしゃいました。それは主が選ばれた一人ひとりを友と呼ばれ、愛されたように、互いに主にある友を愛しなさいということです。
さらに主はこうも言われました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」。
自分の命を捨てると聞きますと、何か大きなこと過ぎて思わず後ずさりしてしまう気がします。が、実際には日常の人間関係において常に主に尋ねつつ、、主にゆだねていく。主に差し出し、主に従っていくということであります。小さい事に忠実な者は大きい事にも忠実だ、と主がおっしゃっているとおりです。それを修道女の渡辺和子さんは、「小さく死ぬ」と言っておられましたが。
ところで、ある高校生を対象にしたキャンプで、講師の方がいくつかのグループに分けて、「本当の友達の条件」について話し合ってもらい、出てきた意見の上位3位までを発表してもらったそうです。すると驚いたことにどのグループもその3つの内容と順位が全く同一であったとのことです。本当の友達の条件、第一は「心を開いて安心して話せる人」、第二は「本気で叱ってくれる人」、第三は「一緒にいるだけで楽しい人」。そこでその講師の方が、皆に目を閉じてもらい「自分がこれら3条件を持っていると思う人は手をあげてください」と言うと、誰も手をあげない。「ではこの3条件を一つも持っていないと思う人は手をあげてください」と言うと、全員の手があがったとの事です。
真の友がほしいと思う人は多くても、真の友になりたい、だれかの真の友になれる自信があるという人は、そういるものではありません。主イエスは、私のために命さえ差し出して、私の本物の友となってくださった。神の愛、全き愛を顕わされたのです。
本日の箇所に戻りますが。ヨハネは11節「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」と述べます。
実はここに神の招きと御計画が示されています。ふつう借りがある人が、それを無償で免除してくれたとしたら、本当にその人に恩返しをと思うわけです。ここでも、その愛を下さった神にそれをお返しするために、「神に何かをささげなさい」となるのが一般的な考え方でしょう。しかしここでヨハネは、愛して下さった神を愛しなさい、とは言わず「わたしたちも互いに愛し合うべきです」と述べています。
愛されるに価しない者を神は愛し、ゆるし、生かしてくだった。そのようにして神に愛され、神の愛・アガペーを戴いた者は、神から生まれ、神のご性質に与り「互いに愛し合う」者とされるのです。そしてこれこそが、他のどんな業や行い、ささげものに勝った神の愛の証しとなっていくのです。
12節「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」
ここで2回も「わたしたちの内に」という言葉が使われていますけれども。本日の箇所では9節「神の愛がわたしたちの内に」。今日は読みませんでしたが、神がご自分の聖霊を分け与えて下さるという13節にも「神がわたしたちの内に」と述べられています。
この「わたしたちの内に」と訳されている原語の「エン」には、「わたしたちの間に」という意味もあります。日本語にも「エン(縁)」があるなどと言いますけど。それは人と人の関係性を指しています。そのことを踏まえますと、私たちが神の愛・アガペーを通して互いに愛し合うならば、神は私たちの間にとどまって下さり、神の愛が私たちの間で全うされているという事です。他の聖書には「全う」を「完成」とも訳しておりますけれども。それは、私たちが互いに神の愛を通して愛し合う関係性の間で、完成されていくということなのです。
イエス・キリストは、ヨハネ福音書1章14節にあるように「言は肉となって、わたしたちの間に宿られ」ました。又、ルカ福音書17章20-21節において、主は「神の国はいつ来るのか」と尋ねられたとき、「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と仰せになられました。私が神を愛するのだ、と息巻いていた熱心な信仰が分離主義や人と人を分け隔てしていた時代の中で、神はそのアガペーの愛によって人を救い、この愛が主の友とされた人の間で完成へと向っていくという、その素晴しい壮大な救いの御計画を主は今日も実現へと導いておられるのです。
本日は「愛の完成者」と題し、御言葉に聞いてきました。何かと試みの多い時代でありますが。しかし今も私たちを「友よ」と呼びかけ、アガペ-の愛によって互いの愛へと招かれる「愛の完成者」イエス・キリストに倣う者とされ、今週も一日ひと日を共に祈り合いつつ、歩んでまいりましょう。
礼拝宣教 Ⅰヨハネ手紙2章1~11節
本日はⅠヨハネの手紙2章1-11節から「イエスが歩まれたように」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
先週は1章より「光の中を歩む」という視点で、「御子イエスの血による清め」「神の前における罪の告白」「ゆるし」、そこに神との和解、さらに人と人との交わりの回復が起こされ、光の中を歩み続ける者とされるのだというお話しでありました。
本日の冒頭でヨハネは、「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」と記しています。
ここの「弁護者」と訳されている原語のパラクレートスは、真理の霊、慰め主、聖霊とも訳されますが、もともとは「誰々と一緒に呼び出される」というのが原意、もとの意味です。つまり、たとえ罪を犯してしまったとしても、神の裁きの御前に、私と一緒に呼び出されるお方、弁護者なるイエス・キリストがおられる、ということであります。まあ一般的な弁護士でしたら、被告の無罪を立証しようするわけです。ところが弁護者なるイエス・キリストは、神の前に申し開きのできない罪人、滅びの宣告を受けるしかない者と共に呼び出されて、御自ら罪人の身代わりとなられるのです。主が死の判決を受けて処刑されることで、罪人は断罪されることなく解放されるのです。それはただの弁護者の域を超えた、まさに救い主であります。
キリスト者はこのイエス・キリストの罪の贖い、驚くばかりの愛によってゆるされ、生かされているということを忘れることがあってはならないのです。私たち人間は主の御救いに与っていながらも罪を犯すということがあります。無意識、無自覚であったとしても人を傷つけたり躓かせたりしていることがあります。逆に、人の言動に苛立ち、傷つけられたと感じ、ゆるしがたい思いになることもあるかも知れません。人はほんとうに弱いものです。関係性は損なわれ、心は沈んで暗くなります。しかし主はそのような私たちを再び光の中を歩むようにと受け入れ、正しい道に導こうとしていて下さるのです。大事なことは、日々主と向き合い、御言葉に聞き、心を開いて主に従い生きるということであります。
それは、日々罪の古い性質に死に、罪ゆるされた者として新たな命に生きる道、光の中を歩むとはそういうことです。主は私たちがそれを見出し続けるようにと、兄弟姉妹、主の共同体、教会をお造りになって導いておられるのです。
ここにイエス・キリストは「全世界の罪を償ういけにえです」とありますが。それは言い換えれば、すべての人、どんな人のためにもということです。
ヨハネ3章16節に「神は、その御独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とありますが。そのような寛大な神の愛を受ける者にふさわしく光の中を歩み、今の混沌とした先行きの見えない世界、神に逆らう力と勢力が働く世にあって、神の救い、神の愛と共にあるものとされていくことを願い祈ります。
さて、そのような私たちに、続いてヨハネは「神の掟を守ること」について記します。3節「わたしたちは神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。」
ヨハネは、私たちが「神の掟」を守っているなら、それによって「神を本当に知っている」ということが分かる、と言うのです。ヨハネはまた4節「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人のうちには真理はありません」と断言します。
ではその「神の掟」とは具体的に何でしょうか。続く5節では、その神の掟を「神の言葉」を守るなら云々とあるように、「神の言葉」と言い代えてます。実にこの「神の掟」「神の言葉」とは、十字架を前にしたイエスさまがお語りになった告別説教に語られたイエスさまの「掟」であり、その「言葉」でありましょう。
この時のヨハネの念頭にあったのは、ヨハネ福音書13章にあります最後にイエスさまが弟子たちの足を洗われた出来事であったでしょう。弟子たちの足を洗われた後、イエスさまは弟子たちに向けてこう言われました。「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたにするようにと、模範を示したのである。」
イエスさまの洗足で気になりますのが、銀貨でイエスさまを売り、裏切るユダの足をも洗われたということです。3度イエスさまを知らない、仲間じゃないと否んだペトロもそうです。イエスさまを置いてけぼりにして弟子たちは皆逃げて行ったのです。そうなることは分かっていたけれども、イエスさまは彼らを愛しぬかれ、その足を洗われたのです。そこでイエスさまは、「新しい掟」について語られます。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ福音書13章34節)
逃げ去り、裏切り、見捨てて散り散りばらばらに去って行く弟子たち。それでもイエスさまは全身全霊をもってすべての弟子たちを愛し、「わたしが愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。これこそ新しい掟であるとおっしゃるのですね。
ヨハネは今日の3節でこう記しています。「神の掟を守るなら、それによって神を知っていることが分かる」。この分かるというのは単に知識として知っているというのとは違います。自分の体験としてほんとうに知っているということです。それは5節の「神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています」の「実現している」と同様です。ヨハネは「これによって、私たちがほんとうに神の内にいるかどうかが分かる、と言うのです。
その「新しい掟」について、ヨハネはさらに7-11節「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。」
ヨハネは6節で「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければならない」と記します。
まさに、弟子たちの足を洗われたそのイエスさまに倣って歩む。そのように歩み続けることによってこそ、この罪深く弱き私たちもまた「神のご性質」に与らせていただくものとされるのです。
先週は「光の中を歩む」という宣教題でした。今日のところにも「イエスが歩まれたように自らも歩む」と、「歩む」ということが繰り返されて語られています。
この「歩む」というのは、立ち止まらないということです。たゆみなく淡々とそうあり続ける。そのように努め続けるということです。ウオーキングはとても体にいいですね。認知症や心が疲れ、しんどさをおぼえる方も歩くといやしの効果があるそうです。走らなくてもいい。ゆっくりと足を軸にからだを動かすと、全身によい刺激が与えられ諸所のからだの器官、脳も内臓なども活性化されるそうです。歩行が難しくなったり、床から起きられない方も足を動かすリハビリ、マッサージをする病院等も多いようですね。
主イエスによる新しい命を頂いて、信仰の歩みもひと足、一足。足が汚れたら互いに洗い合い、ゆるしゆるされ励まし支え合い、イエスさまが歩まれたように互いに愛し合う主にある交わり、教会・エクレシアを志してゆきたいですね。
キリスト者の地上の歩みも、年齢とともに体は衰え、歩くことさえ困難になるかも知れません。しかし、その有限的な私たちが今日の「主の掟とお言葉」に応えて歩み続けるなら、17節「神の御心を行う人は永遠に生き続けます」とのこのうえない祝福に与るのです。永遠の命イエス・キリストにあるかけがえのない交わりを保ち、本物の祝福、光の中を歩む人生を受け取っていきたいと願います。歩み遅く、立ち止まり、しゃがみ込もうとも、手本を示し、手を引き、ほんとうに歩けなくなったら背負ってでも歩んで下さる主イエスがおられます。今週もイエスさまに倣う歩みをなしてまいりましょう。
礼拝宣教 Ⅰヨハネ手紙1章1~10節
先月、道頓堀のカニ料理店の店先においていた巨大なカニのオブジェが壊される事件がニュース等で流れましたが。先週新聞に、その後の顛末が大きく取りあげられており、要約するとこんなことが書かれていました。『カニ店を経営する社長さんは電話で事態を知った。「現実を受け止められなくて、しばらくオブジェに触ることもできなかった」。脚はバラバラになって散乱していた。「心がポキッと折れてしまってね。コロナにも勝てないかと思った」。事件後、「絶対に許せない」として、警察にも被害届を出し、防犯カメラの映像を報道各社に提供した。破壊行為を捉えた映像はテレビの報道番組などで繰り返し流された。オブジェが壊されてから3日後。社長さんの元に防犯カメラに映っていた2人が訪ねて来、「申し訳ありませんでした」と対面するなり土下座した。2人は最近まで同じミナミにある飲食店で働いていたが、3月末で解雇された。事件の当日の深夜、二人は落合い、ミナミで大酒を飲んだ。「どうして俺たちの仕事がなくなるんだ」。さんざん愚痴を言い合って店を出ると、酔いもあって気が大きくなった。 2人は過ちの経緯をカニ店の社長に全て告白し、オブジェの製作費を全額弁償した。社長の心境には変化が生じた。「この子たちもコロナの被害者で、自分と同じなのかも知れない。ただ怒るだけじゃ駄目かな」。そうして警察に出した被害届を取り下げた。4月25日、2人の姿は大阪浪速区のあるキリスト教会の礼拝堂にあった。クリスチャンであるこの社長さんが、「本気で償いたいなら、神の前でざんげしてはどうか」と、自身も定期的に通うこの地に誘ったからだ。讃美歌が流れる中、十字架に向かって両手を組んで目を閉じる2人。「人に迷惑をかける行為はもう二度としません」。心の中で何度もこう誓った。社長さんは「彼らの人生はこれから新たなスタートを切ってほしい」と励ました。2人は「今思い出しても苦しくなることもあるけど反省し続けるしかないと思っています」と話し、社長から「また会おうな」と肩をそっとさすられると、深々と頭を下げ、「将来社長のような人になって飲食店を切り盛りしたい」と夢を口にした』ということです。
この福音の力、罪の悔い改めとゆるしの和解に、何かと世知辛い今の世の中に光を見た思いでした。
さて、本日のヨハネの第一の手紙1章ですが。
同じヨハネが書いたといわれるヨハネ福音書1章には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった・・言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と記されています。それは、今日のヨハネ第一の手紙1章の「命の言」「わたしたちに現れた永遠の命であるキリスト」、さらに「神は光であり、神には闇が全くない」「神は光の中におられる」という記述とも共通のメッセージとして響いてくるものであります。
まず、キリストとは、どんなお方かいうと。「初めからあったもの」、天と地が創造された時すでに存在しておられる方であり、すなわち、永遠の神であられるということです。
さらにキリストは、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの」、すなわち弟子たちが実際に出会い、触れ合うことのできるお方として、肉をとって人となり、世界とその歴史の只中に来られたという事実。そうしてこのお方はその命によって世の罪を贖い、死より復活された生ける神の子、救いの主、キリストであられるのです。ヨハネはその自分たちが見、また聞いた、生けるキリスト、永遠の命キリストを、改めて伝える目的を語ります。それは、「あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」とあるように、キリスト者の信仰生活に不可欠な主イエス・キリストにある信徒の交わりについてです。それはキリスト者が神との交わりを継続するため欠くことの出来ないも
のものであるからです。
本書はその実際が如何なるものであるか、又、どのように捉え、どのように思いを持ち、どのように交わりを保つべきかを教えているのです。主を信じる人々は、肉眼でイエス・キリストを見ること、手で触れることができなくても、主にある交わり(コイノニア)を築いていく中で、キリストの命に与る者とされていくということです。ここでの「交わり」とは、その原意、元の意味は「分かち合う」とか「共有(シェア)する」ということです。
たとえ、キリストを肉眼で見ること、手で触れることができなくても、主にある交わりを通して、キリストの命に共に与れる喜び、感謝、恵みに溢れる経験をすることができるのです。それは単に都合の良い楽しみや仲間づくりのためでなく、キリストにある命の奥深さを知り、共に真のキリスト者として建てあげられていくための関係性です。そこで学ぶのは人の愛にまさる神の愛であります。キリストの命に共に与って生きる。これこそ著者ヨハネの「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」と言った目的なんですね。
今、コロナ禍で教会に集まることができず悩ましい日々が続いていますが。友愛委員から互いに祈り合う課題を出し合った「祈りの表」が作成されました。毎日およそ6名から7名の人が自分のことを覚え祈ってくれる。また私も主にある兄弟姉妹の祝福を主の名によって祈る。それは素晴らしい励ましであり、霊性が培われる場となるでしょう。こういう時だからこそ、共に祈りを共有することで、キリストの愛の内に留まる実践となすことが、ひいては主の恵みと御業を見せていただく喜びにつながっていきます。世にはなき平安を得る時とされていきたと願います。
聖書に戻ります。5節「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」
ここには神のご性質が「光」であるということが語られています。闇はすべてを隠し、見えなくしてうやむやにします。しかし光はすべてを明らかにしま
す。後の文脈から見ると、闇は罪を表し、神の「光」のご性質は全き「清さ」だと考え
られます。 そこでヨハネは問いかけます。これは主にある共同体に向けての問いかけであります。 6-7節「わたしたちが、神との交わりを持っているといいながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」
ここでの重要なことは、「わたしたちが光の中を歩く」ということは、「互いに交わりを持つこと」だということです。つまり御子イエスの血による罪の贖いに与り、全き清めと神との交わり与ったキリスト者は、主にある隣人との交わりに努めて歩むよう招かれているということです。ヨハネが呼びかけているように、主のもとに和解に与って共に生きるキリストの光の共同体としての交わりです。
8-10節「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽りものとすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」
自分は正しいと正当化や絶対化をする時、その人はもはやゆるしの救いを必要としていません。逆に神から、本当に自分がゆるされていることを知る人は謙遜にされ、人を裁くことから自由にされます。光の中に歩む者は、自らも絶えず神の前に罪を告白し、悔い改めざるを得ない者であることを知っているのです。そこに起こされてくるのは、「罪の悔い改め」と「ゆるし」という関係性、すなわち神と人、人と人の交わりです。ここに「光の中を歩む」というキリスト者としての真実の証しが立てられていくのです。
ただ1つ注意したいことがあります。それは9節に「自分の罪を公に言い表わすなら」とあることです。この「公に」は原文にはなく意訳です。むろん明らかな他者への不当な言動があり、それに対する教会の忠告と共に本人が気づきと反省を持つ時、相手が謝罪を受け容れるならそれは素晴しい和解の出来事となります。けれどここでヨハネが教えるのは告解、つまり神の前で神に対して罪を言い表わし、ゆるしを得ることです。それぞれの状況、言い分がありますが。正しく裁くことのできるお方、罪をゆるす権威をお持ちなのは唯神だけです。
キリストス者はそこで何よりもまず、神の前で自らがどのようであるかを知り、罪を言い表わす、告解し、立ち返って新たに生きる決意をする時、神はゆるし、清められた人生へと連れ戻してくださいます。キリストの共同体は新たにされたその人の言動を喜びとするでしょう。こうして神と私たちとの真実の交わりが、光の中を歩み御子イエスの血によってあらゆる罪から清められるという信仰の証が、キリストの共同体を通して立てられていくのです。
冒頭にカニ店の社長の話をしましたが。社長は「本気で償いたいのなら、神の前でざんげしてはどうか」と誘い、罪を悔いる2人は神の前に罪を告白して、二度と人に迷惑をかけるようなことはしません、と何度も神に誓ったとありました。社長は「折れた心は同じ」と言ったそうです。
本日は「光の中を歩む」と題して、お話をしました。神の前に心砕かれた者の内には、一点の曇りのない神の光が射し込み、清々しい神との交わりと平安が臨んだのではないでしょうか。キリストの教会、そして私たち一人ひとりへの招きとして御言葉を受け取ってまいりましょう。