日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

キリストと共に結ばれるバプテスマ

2010-10-31 07:26:13 | メッセージ
宣 教  ローマ6章1~11節

 クリスチャンとされバプテスマを受けて信仰をもってから歳月が経過していきますと、ややともすれば、「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」、それは「日々キリストの十字架を共に負って歩む」ことが見落とされ、抜け落ちてしまうことが起こります。ローマの教会は当時、ユダヤ教から改宗しクリスチャンとなったユダヤ人が、バプテスマを受けた後も、ユダヤの律法主義にまだ縛られ、自分の義を立てることに縛られていました。そればかりかローマ人のクリスチャンに律法を強要していたのです。一方で、それとは逆にバプテスマに与った異邦人が、すべての罪が赦され救われているのだから、何をしてもよい。赦されるのだという誤った教えを主張するそんなローマ人がいたのです。そのように「~をしなければならない」、或いは逆に「何をしても十字架の業でゆるされる」というような人々に対してパウロは、「キリストと共なるバプテスマに与ったのは、キリストと共に死に、キリストと共に生きるためではなかったのか」と指摘します。

それを私どもに引きつけて読めば、例えば、バプテスマを受けながら、まだ自我への執着、神にではなく自我を頼みと
していく、いわばそれまで得た自分の知識や経験に縛られて、そこから抜け切れずに真に救われていないようなクリスチャンがいます。キリストと共に死んでいない。キリストと共に自我の罪が死んでいないのです。そこには真の解放がありません。一方、バプテスマを受けたのだから教会も主の交わりはもういらない。わずらわしい。救われたのだからもう関係がないと、たがを括ってしまっているような卒業クリスチャンもいます。今インターネットで礼拝するのが流行っているそうですが。仕事や病気ならともかく、人との関わりが面倒だからというのは寂しいことです。それではキリストと共に生きることにはなりません。せっかくバプテスマを受けても、キリストの体なる教会につながっていないなら霊的な魂は枯渇し、罪の世界にまいもどる人が多いのです。バプテスマを受けても、その後キリストの体なる教会から離れてしまうなら、キリストと共に生きる実践の場や、学びの場、又励ましを受ける機会を逃してしまうでしょう。
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キリストと共に結ばれるバプテスマ

2010-10-31 07:26:13 | メッセージ
宣 教  ローマ6章1~11節

 クリスチャンとされバプテスマを受けて信仰をもってから歳月が経過していきますと、ややともすれば、「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」、それは「日々キリストの十字架を共に負って歩む」ことが見落とされ、抜け落ちてしまうことが起こります。ローマの教会は当時、ユダヤ教から改宗しクリスチャンとなったユダヤ人が、バプテスマを受けた後も、ユダヤの律法主義にまだ縛られ、自分の義を立てることに縛られていました。そればかりかローマ人のクリスチャンに律法を強要していたのです。一方で、それとは逆にバプテスマに与った異邦人が、すべての罪が赦され救われているのだから、何をしてもよい。赦されるのだという誤った教えを主張するそんなローマ人がいたのです。そのように「~をしなければならない」、或いは逆に「何をしても十字架の業でゆるされる」というような人々に対してパウロは、「キリストと共なるバプテスマに与ったのは、キリストと共に死に、キリストと共に生きるためではなかったのか」と指摘します。

それを私どもに引きつけて読めば、例えば、バプテスマを受けながら、まだ自我への執着、神にではなく自我を頼みと
していく、いわばそれまで得た自分の知識や経験に縛られて、そこから抜け切れずに真に救われていないようなクリスチャンがいます。キリストと共に死んでいない。キリストと共に自我の罪が死んでいないのです。そこには真の解放がありません。一方、バプテスマを受けたのだから教会も主の交わりはもういらない。わずらわしい。救われたのだからもう関係がないと、たがを括ってしまっているような卒業クリスチャンもいます。今インターネットで礼拝するのが流行っているそうですが。仕事や病気ならともかく、人との関わりが面倒だからというのは寂しいことです。それではキリストと共に生きることにはなりません。せっかくバプテスマを受けても、キリストの体なる教会につながっていないなら霊的な魂は枯渇し、罪の世界にまいもどる人が多いのです。バプテスマを受けても、その後キリストの体なる教会から離れてしまうなら、キリストと共に生きる実践の場や、学びの場、又励ましを受ける機会を逃してしまうでしょう。
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信仰による義

2010-10-24 05:43:19 | メッセージ
宣 教 ローマ3章21節~31節

この短い個所に「義」という言葉が実に9回出てまいります。前の10節を見ますと、この義ということに関して、パウロは「正しい者は一人もいない」「善を行なう者はいない。ただ一人もいない」と、詩編の言葉を引用します。さらにパウロは20節「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とないからです」と述べます。
私たち人間はどれほど善をもって生きようとしても、人の頑張りなどではとうてい神の前で義とされることなどできない、ということです。多くの人は善良に生きたいと願いますが、皮肉なことにそういう願望が強いほど、人はそのように生きることが出来ない自分を思い知らされるのです。ですが、今日の個所で語られる「義」とは、そういった人間の努力や精進などによる正しさや善行によっては決して得る事のできない「神の義」について書かれているのであります。
それは23、24節「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただイエス・キリストによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で与えられる義」であります。更に25節「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」。ここには、私たちには実に納得しがたいことが述べられています。「人が犯した罪を見逃して、神の義を示す」。どうして「罪を見逃す」ことが義となるのでしょうか。私たちは逆に「罪を罰してこそ義は成り立つ」「そんな悪を罰せずして何が義といえるのか」と思います。けれども人はみな神の前にあって罪人であるということを踏まえなければなりません。罪に大も小もありません、罪は罪なのです。
神が義を立てれば人類すべては罪の裁きを受けて滅ぶしかないのです。私どもは人の罪や悪ではなく、まず自分自身の罪の問題と向き合い、しっかりと見つめなければなりません。
しかし義なるお方である神は、罪人を罰して滅ぼされるのではなく、罪人の裁きを自らお引き受けになることによって、その義を立てられたのです。罪を単に見逃したのではなく、神がそれを実に負ってくださったのであります。

大阪教会の前のとおり谷町筋を大きなスピーカー音で、「神を信じる者は救われます。信じない者は地獄に行きますと聖書に書かれています。神を信じなさい」と言いながら走っていく宣伝カーを幾度と見ました。でも正確には聖書にはそんなことは書かれておりません。もしそう言うのであれば、「神は地獄に行くような人間のためにその地獄のようなところまで落ちて、人間を救い出してくださった。その恵みをぜひ受け取ってください」と言った方がより聖書のメッセージに近いと言えるのではないでしょうか。神はまさにこのような仕方で「義」をお立てになられたのです。
神は、罪のゆえに罰され、滅んでもおかしくない罪人を無償で「義」とするために、一点の曇りもない罪なき御独り子・イエス・キリストをその罪を贖う犠牲とされました。その十字架上でながした御子の「血」によって、人間の罪を償う供え物となさったのです。
この神の一方的な救いのみ業によって私たち人間の罪は無償で贖われる。言ってみれば帳消しにされるということです。しかしその恵みに対して、そんなのただ、無償でなされるなど虫がよすぎる、そんなうまい話などないと疑う人が殆どではないでしょうか。
けれども、このただ、「無償」には、神が私たち人間の罪のためにどれだけ計りきれないほどの犠牲を払われたのか、想像を絶するような苦悩を身に負われたか、知る必要があります。むしろそれを知らないことは本当に罪であります。
この「贖い」とは、元々、奴隷を身代金を払って買い戻し、解放することを意味します。
神は御独り子、いわばご自分のみ心そのものと言えるイエス・キリスト。その最もかけがえのない命を身代金として犠牲にして、人間を罪の奴隷から買い戻し、神の子としてくださったのです。

私が子供の時でした。近所によく食べに行くたこ焼き屋さんがありました。ある日そのお店にあるジュースを買って飲もうとしたところジュースの入っていた大きな冷蔵庫のガラス戸を割ってしまったのです。これは大変なことをしたと慌て恐れと不安に襲われました。「おばちゃん、ごめんなさい」と謝ると、たこ焼きを焼きながらおばちゃんは「割れたならしょうがないよ。いいから」と赦してくれたのです。この冷蔵庫のガラスは高価なもので到底子供の自分のお小遣いでは払え切れるものではなかったのです。「どうしようこのままジュースを冷やせなかったらお店に迷惑がかかる」という不安や恐れに襲われていた子どもの私は、おばちゃんがかけてくれたこの言葉にどれほど救われた事か知れません。
贖うというと少し大げさかもしれませんが、子供の自分には到底弁償することもできないようなものを、このたこ焼き屋のおばちゃんが無償で許してくれたというこの経験は今も、この先も決して忘れることはないと思います。

26節「このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、ご自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」。
神は十字架の無残な死を通して、神の「義」をお示しになられました。それは十字架の血によって罪の贖いを成し遂げられた御子イエス・キリストを信じ受け入れる者を「義」となさるためであります。赦されている。無償で。そこに計りしることのできない大きな犠牲が払われたことを知らなければなりません。

さて、この神の義はただ赦されて「はい」終わりというものではありません。
ここが肝心なのですが、神は御子イエス・キリストを通して、罪人を立ち返らせ(悔い改め)、神との関係を修復し、罪人を創り変えて「神の子」として生きる人生へと導くのであります。つまりそれは善を行なわねば救われない、功徳を積まなければ救われないというがんじがらめの生き方から、救われ、神の子とされた恵みによって、神の御心を「行なわずにはいられない」「喜びをもって義に生きる人生」へと、ご聖霊である神さまが導かれるのであります。

この個所には興味深いことに「義」と同様9回も出てくる言葉があります。
それは「信じる」(信仰)ということであります。興味深いことに、義が9回述べられたら、信じるという信仰も9回述べられているのですよね。義と信仰は対になっているのです。
これまでずっと読み説いてまいりましたのは、神さまが存在のすべてをかけて示された義、み子を犠牲にしてまで罪の贖いをなしとげてくださったということでありますが。そこに同じ数だけ記される「信仰」とは、その神の義、赦しと愛を私どもがそのままアーメンと、受け取っていくということであります。一言でいえば、神の義なるキリストの救いをまるごと受け取る。これが信仰です。このことによって人は義とされるのであります。

31節「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです」とあります。「神の律法、旧約の聖書の律法書や十戒」が意味のないものになったというのではなく、信仰によって義とされたものは、むしろ受け入れられ、赦されているという平安の中で神のみ心を大事にして生きる者とされるということです。これが、キリストを信じる者の姿なのであります。
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神の憐れみと裁き

2010-10-17 07:20:27 | メッセージ
宣教より  ローマ2章1~11節

パウロはイエスさまと出会い救われる前までは、自分がしている事に間違いがいはない、と信じ疑いませんでした。パウロは神様の教えである律法を熱心に学び、守ることに一生懸命でした。新興宗教のように現れたキリストの教会が大嫌いで、イエスさまを信じている人たちを憎み、捕まえてはひどい目にあわせていました。でもそれがパウロには正しいことだと思われたのです。けれどもイエスさまはそのパウロに出会い声をかけられました。「サウロ、サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」。生きて呼びかけるイエス・キリストとの出会いによってパウロは、自分の間違いに気づかされました。こうして、それからはすっかり神の赦しと愛に満たされた者へと変えられて、イエスさまのために精一杯働く人、福音を伝えずにはいられない人になりました。
パウロはイエスさまに当然裁かれてもおかしくなかったのですが、イエスさまはパウロを赦されました。それで、パウロがその赦しを受け取った時、彼はやり直すことができたのです。それが悔い改めです。
外側からどれだけ裁いても人の心は変わりません。ただ神の愛と赦しだけが人の内側から変える力を持つのです。そうして本当に自分が赦されていると知った人は、もはや神の裁きより先走って人を裁こうとは思いません。神が自分さえ赦し受け入れてくださったことを知っているからです。
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何によって生きるのか。

2010-10-10 07:41:30 | メッセージ
宣 教   ローマ1章8~17節より  

使徒パウロは熱心なユダヤ教徒であった時は、十字架のキリストに敵対し、これを攻撃し、それを福音として伝えていたキリスト教会とその信徒を徹底的に迫害しました。
しかし彼は復活の主イエスと出会い、これまで誇りとしてきた血統、学歴、知識、能力、業績などが、イエス・キリストを知ることの価値の偉大さに比べれば、如何に塵あくたのようなものであるかを思い知らされたのでした。まさに、人の目には愚かと見える福音こそが、信じる者に救いを得させる「神の力」であるということを実体験したのです。

ちょっと話が逸れますが。先日伝道用トラクトのサンプルが届きました。それは阪神タイガースのマートン選手の証しが載っているのですが、とても印象的でしたのでご紹介します。シーズン210安打というイチロー選手の最多安打日本記録を塗り替える新記録を出し大活躍をしているすごい選手でありますが。彼はこんなことを言っているんですね。「罪のないイエスさまが罪を持った人間のため 
先日の特伝で松岡先生が、「ただ100パーセントの神さまの愛を100パーセントあるがままの姿で受け入れることでよい」と福音を語ってくださったのですが。このマートン選手も「たとえ僕が、失敗してしまったとしても、イエスさまはありのままの僕を愛してくださる。そういう確信があるから、大舞台でも落ち着いてプレーできます。僕が試合中に意識しているのは、究極的には観客は一人、神さまだということです。すべてのことを、神さまに栄光をささげるためにさせてください、と祈っています。」といっているんですね。彼の力は、実は福音の力、神の力だったのです。

十字架のキリストを信じ受け入れるということは、自分の弱さをさらけだし、無力であることを告白するということでもあります。それはある意味確かに勇気がいることです。
自分を主にすべて明け渡していくということだからです。けれど「そこに」神の力が働くのです。まさパウロがここで述べていますように、福音の力、神の力によって神の栄光が現わされていくのです。

私たちは生きていく上で、衣食住や健康などいろんなものが必要であります。が、人間を生かしめている根源的な力は何なのかを今日の聖書はパウロを通して語っています。それは目に見えるものではなく、見えないものであり、人の評価や能力によるものではなく、神の力によるのです。
人間は天地万物をお造りになったすべてのいのちの源である主なる神さまを知り、その口から出る一つひとつの言によって真に生きることができます。その神さまは、御子イエス・キリストを世に送り、十字架の救いのみ業を通して死と罪に滅ぶしかない私たちを救い出してくださいました。
このキリストを通して与えられた福音によって、私たちは本当に生きることが出来るのです。この地にあって真に生きる意味を見出し、やがて訪れる終末にも備えて日々生きることができるのです。ハレルヤ、主の御名を賛美します。
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主のみ守り

2010-10-03 08:18:54 | メッセージ
宣教より 詩編121編

詩編121編は「都に上る歌」となっておりますように、それは聖地エルサレムの都を目指した巡礼者の歌であります。エルサレムの都へ至るその道のりを思いますとき、パレスチナの山々は険しく、自然の環境は大変厳しいといえます。当時のことですからむろん車も鉄道もありませんし、おいはぎが出ることもあったでしょう。エルサレムの都を目指す巡礼者は、その旅路において険しい山々を越え、厳しい自然環境にも耐えしのばなければならなかったのであります。険しい山々を前にして、巡礼の期待と共に、大きな不安を抱く、そんな巡礼者の様子が想像できます。

121編は神に礼拝を捧げるための旅であります。わたしたちも又、一週間の旅路を主に守られて、それぞれの場所からこの主の日の礼拝に集っています。過ぐる一週を皆さま恐らく祈りつつ、主に頼みつつ、歩んで来られたことでしょう。けれどもそこには、見えざるところでの兄弟姉妹の執り成しの祈りがあったことを忘れるわけにはいきません。

私たちもまた、自分だけの意志や力だけで人生の旅路を続けているのではなく、主の招きと共に兄弟姉妹のとりなしによって導かれているということを覚え、私も又執り成し祈る者となることを心に留めたいと思います。教会には本当にこの世にはない神の救いの力が秘められていると信じます。その中で何よりも素晴らしいのは、十字架と復活の主イエスの御名によって、互いに執り成し、祈り合うという豊かな恵みが与えられているということです。その主イエスの御名で祈り合い、執り成し合う中で、本当に人知では計り知れない奇跡やいやしの出来事も起こされます。御独り子を十字架に引き渡して犠牲にしてまで、私たちの魂を滅びから救い出す道を選ばれた主のご愛のもとから、私たちは「主に見守られている」者として、互いに執り成し合い、祈るという素晴らしい主のみ業に参与してまいりたいと願うものです。
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