宣 教 ローマ6章1~11節
クリスチャンとされバプテスマを受けて信仰をもってから歳月が経過していきますと、ややともすれば、「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」、それは「日々キリストの十字架を共に負って歩む」ことが見落とされ、抜け落ちてしまうことが起こります。ローマの教会は当時、ユダヤ教から改宗しクリスチャンとなったユダヤ人が、バプテスマを受けた後も、ユダヤの律法主義にまだ縛られ、自分の義を立てることに縛られていました。そればかりかローマ人のクリスチャンに律法を強要していたのです。一方で、それとは逆にバプテスマに与った異邦人が、すべての罪が赦され救われているのだから、何をしてもよい。赦されるのだという誤った教えを主張するそんなローマ人がいたのです。そのように「~をしなければならない」、或いは逆に「何をしても十字架の業でゆるされる」というような人々に対してパウロは、「キリストと共なるバプテスマに与ったのは、キリストと共に死に、キリストと共に生きるためではなかったのか」と指摘します。
それを私どもに引きつけて読めば、例えば、バプテスマを受けながら、まだ自我への執着、神にではなく自我を頼みと
していく、いわばそれまで得た自分の知識や経験に縛られて、そこから抜け切れずに真に救われていないようなクリスチャンがいます。キリストと共に死んでいない。キリストと共に自我の罪が死んでいないのです。そこには真の解放がありません。一方、バプテスマを受けたのだから教会も主の交わりはもういらない。わずらわしい。救われたのだからもう関係がないと、たがを括ってしまっているような卒業クリスチャンもいます。今インターネットで礼拝するのが流行っているそうですが。仕事や病気ならともかく、人との関わりが面倒だからというのは寂しいことです。それではキリストと共に生きることにはなりません。せっかくバプテスマを受けても、キリストの体なる教会につながっていないなら霊的な魂は枯渇し、罪の世界にまいもどる人が多いのです。バプテスマを受けても、その後キリストの体なる教会から離れてしまうなら、キリストと共に生きる実践の場や、学びの場、又励ましを受ける機会を逃してしまうでしょう。
クリスチャンとされバプテスマを受けて信仰をもってから歳月が経過していきますと、ややともすれば、「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」、それは「日々キリストの十字架を共に負って歩む」ことが見落とされ、抜け落ちてしまうことが起こります。ローマの教会は当時、ユダヤ教から改宗しクリスチャンとなったユダヤ人が、バプテスマを受けた後も、ユダヤの律法主義にまだ縛られ、自分の義を立てることに縛られていました。そればかりかローマ人のクリスチャンに律法を強要していたのです。一方で、それとは逆にバプテスマに与った異邦人が、すべての罪が赦され救われているのだから、何をしてもよい。赦されるのだという誤った教えを主張するそんなローマ人がいたのです。そのように「~をしなければならない」、或いは逆に「何をしても十字架の業でゆるされる」というような人々に対してパウロは、「キリストと共なるバプテスマに与ったのは、キリストと共に死に、キリストと共に生きるためではなかったのか」と指摘します。
それを私どもに引きつけて読めば、例えば、バプテスマを受けながら、まだ自我への執着、神にではなく自我を頼みと
していく、いわばそれまで得た自分の知識や経験に縛られて、そこから抜け切れずに真に救われていないようなクリスチャンがいます。キリストと共に死んでいない。キリストと共に自我の罪が死んでいないのです。そこには真の解放がありません。一方、バプテスマを受けたのだから教会も主の交わりはもういらない。わずらわしい。救われたのだからもう関係がないと、たがを括ってしまっているような卒業クリスチャンもいます。今インターネットで礼拝するのが流行っているそうですが。仕事や病気ならともかく、人との関わりが面倒だからというのは寂しいことです。それではキリストと共に生きることにはなりません。せっかくバプテスマを受けても、キリストの体なる教会につながっていないなら霊的な魂は枯渇し、罪の世界にまいもどる人が多いのです。バプテスマを受けても、その後キリストの体なる教会から離れてしまうなら、キリストと共に生きる実践の場や、学びの場、又励ましを受ける機会を逃してしまうでしょう。