日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

ヨナの怒り

2009-09-27 07:24:21 | メッセージ
ヨナ書4章より

4章の冒頭を読みますと、ヨナは大いに不満で怒ったとあります。「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみ富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです」と主にありったけの皮肉を込め、訴えます。それはもう駄々っ子のようであり、魚の腹の中で3日間祈り、主に立ち返ったあの同じヨナかと耳を疑いたくなりますが。これは信仰生活を営む私たち自身の姿でもあるなあと思わず苦笑してしまいます。ある時は熱心に悔い改め、涙とともに賛美するかと思えば、自分の願いや、それが満たされない不満でひっくり返って駄々をこね主に不満をぶつける。本当に人の弱さ愚かさでありますが。
二ネべの人々から「おまえは俺たちが滅びると預言していたのに、言っていることと違うじゃないか。おまえは偽預言者だ」と中傷されることを恐れたのではないでしょうか。又、何よりも、主が悪徳の異邦人を滅ぼされないことに我慢ならず、許せなかったのでありましょう。
主はヨナに言われます。「お前は怒るが、それは正しいことか」。主はそんな激しいヨナの怒りに対し、わたしに逆らうのかとか。わたしが間違っているとでも言うのか、などとはいわれません。主は頭ごなしにヨナを叱りつけるのではなく、まるですねた子を諭す父親のように「お前は怒るが、それは正しいことかどうか考えてごらん」と、静かにヨナに問い返されるのです。
ここで、主は「怒り」の感情自体を否定されていないことがわかります。怒ることが正しいことかどうか「心のうちに聞け」と問われます。
新約聖書の主イエスについての記事を読みますと、主イエスが激しい憤りをおぼえられることや怒られるいくつかの場面がございます。神殿の境内から商人を追い出すいわゆる宮清めの記事(ヨハネ2:13)では、神殿の境内で貧しい人々からお金を巻き上げだまし取っていた両替商たちに対して、そのテーブルをひっくり返して激しい憤りをあらわにされました。また、イエスさまの弟子たちがイエスさまのところへ幼子たちを連れてきた人々を叱ったことに対し、イエスさまが逆に弟子たちに憤慨されたこともありました。(マルコ10:13f)「怒り」というもの自体、これは神が人間に与えられた感情です。大切なのはそれがただ自己中心な怒りであるのか、あるいは正しい怒りであるかどうかということです。そのことがヨナに問われているのです。イエスさまが持たれた怒りは人の命を損なう不正や搾取に対するものであり、神の義が軽んじられることに対しての怒りでありました。
自己中心的な怒りとはその逆です。囚われた観念によって人を裁いたり、排除したりといった怒りであり、そこには憐れみなど入る余地はありません。神さまはそこを考えてみなさいとおっしゃったのです。
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悔い改め

2009-09-20 07:37:44 | メッセージ
ヨナ書3章

 今年の夏は息子と天王寺公園にクマゼミをとりに数回行きました。クマゼミが小さな虫かごいっぱいになると、逃がしてあげるということを、3、4回くらい繰り返して楽しませてもらいました。いくつかの発見がありました。セミは夏の初めは木の高いとことにいるのですが、暑さが増してくるにつれだんだん低いとこころにまで降りてくるのです。仕舞いには息子も手で捕まえることができました。又、最初はオスばかりいたのですが、夏の後半になると今度はメスばかり見かけるようになりました。セミの世界でも女性の方が忍耐強いのか。そして今年は不思議なことに、例年はまず二イ二イゼミという小さなセミが鳴き出し、それからワシワシワシとクマゼミが、ついでジーとアブラゼミが鳴きだし、最後にツクツクボウシというせみが鳴くはずですが、今年はこのツクツクボウシがまったく姿をみせませんでした。すでに秋の虫たちの鳴き声が聞こえます。時期を逸したのでしょう。このような異変というのは初めてです。
 
 先週は政治の面でも異変が起こりました。日本の総理大臣として鳩山由紀夫首相が誕生し、組閣がなされ、諸大臣の方針が霞ヶ関を激震しているようです。早速、テロ対策として自衛隊がインド洋沖の米軍艦へ給油の後方支援活動することを今後打ち切る方針を米国政府に伝え、米国政府筋はアフガニスタンへは異なる支援をなすということを前提に了承したというニュースがありました。後期高齢者医療制度の廃止、障害者自立支援法の廃止が打ち出され、矢継ぎ早に、目まぐるしくいろんな政策に伴う変化が起こっていることを、感じます。今後の新政府の動向を見守り、祈らねばと思わされています。

 本日のヨナ書3章に示されるメッセージを整理してみます。
ニネベの人々が、ヨナの言葉を聞いて悔い改めたということです。これは尋常なことではありませんでした。これまでニネベを含むアッシリア帝国はヨナのイスラエルの国に対して暴虐を繰り返し苦しめてきたのです。その彼らがヨナの預言の言葉を受け止め、聞いていったということであります。もちろん彼らがヨナの言葉に聞いていく姿勢があったといえばそれまででしょうが。「それは主の霊の先立ちがなければ起こり得ないことでありましょう。自由な主の霊が先立ち、ヨナを用いてニネベの人たちのうちに打ち砕かれた霊、悔いる心を、お授けになられたのであります。彼らの悔い改めは本物でした。自分たちのなした行為を後悔するということだけでなく、又口先や言葉だけで悔い改めますといって終わるのでもなく、祈りながら悔い改めの実践を行い、神さまに栄光を帰すのであります。
 
その結果ニネベは滅びを免れるわけですが、神は「真に悔い改める者が滅びることを決して望んでおられない」ということであります。神さま御自身が方向転換をなし、一度決断されたニネベの滅びをも、思い直し、災いを下すのをおやめになられたのです。主なる神さまは、「誰々は救われない、滅びる」と最初からそういった前提で人間、あるいは国家に線引きをしておられません。否むしろ、人間の側がそういった線引きをし、戦争、民族紛争が繰り返されています。これは来週の1つのテーマにもなってくるでしょうが。神さまの愛は広く、その憐みは深いのです。といってもそれは人間の常識や思いを遥かに超えています。主はどの民族も国家もみ手をもって創造されました。そして、今日もすべての国々がこのニネベの都のように真に悔い改めて救われることを願っておられるのです。私たちも又、そのみ心の実現のために祈り、執り成す務めが託されています。
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ヨナへの召し

2009-09-13 07:32:01 | メッセージ
ヨナ書1章~2章1節より

昨日、アメリカのオバマ大統領が核の廃絶に向けた大きな決断を示されました。
核を保有する大国が何よりもまず率先してその責任を果たし負っているということを注視しつつ、私たちもこの動きに賛同し、祈っていきたいと思います。

さて、本日から3週にわたり、旧約聖書のヨナ書を読みながら、み言葉を聴いていきます。どうしてこの寓話のような話が記され、旧約聖書の39巻の中に組み込まれたのでしょうか。このユニークなヨナという人物を通して示される神からのメッセージとは何でしょうか。それを知るにはまずヨナ書の書かれた時代背景について少し触れる必要があります。
それまでのイスラエルの歴史を振り返りますと、たえずイスラエルは巨大な周辺国家に脅かされ、圧迫が繰り返されていました。そして遂には北イスラエルと南ユダは滅亡し、人々は捕囚に連れて行かれます。ようやく時を経て、イスラエルの民は捕囚の地から帰還がかないますが、主に背いた過去のあゆみを省みていく中で、異邦人との結婚の禁止や安息日の厳守など律法に基づいた宗教的な改革がなされました。それは全地を造り、アブラハムによって祝福の約束を与えたもう唯一の神を尊んでいくことであり、モーセを通して導かれた神の民として生きることの再確認の時となりました。しかし一方で、その過激な選民意識から異邦人蔑視や軽視を生むことにもなったのです。異民族を排斥し、裁きの対象とするような偏狭で急進的な民族主義が台頭するのであります。
このヨナは、そういった偏狭的な教えや信仰に囚われていたイスラエル共同体の象徴的人物としてここに登場します。そのようなイスラエルの民に対して主は、真に解放された者として、神の福音宣教の使命に生きるように、と招かれます。それがヨナ書なのです。
 しかし、このメッセージはヨナ書をして、今日のイスラエルのみならず、世界や日本の社会に生きるわたしたちに語りかけているものなのです。

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真の希望

2009-09-06 07:21:16 | メッセージ
エレミヤ書32章6節~15節より

エレミヤが「銀17シュケルの大金を支払って、畑を買い取り、購入証書を作成し、証人を立て、獄舎にいたユダの人々全員にも見せた」とあります。その行為は15節にありますように、災いの後、主が奪われた土地をすべて返して今一度ユダの地で再び、「家、畑、ぶどう園を買い取る時が来る」という希望を象徴的に示したものでした。エレミヤを通して示されたこの希望は、災難や審判から回避するというところにあるのではなく、避けることのできない審判や災いの中にあって、なお保たれ、残されているところの希望であります。それは、人間の側からではなく神の側から来る希望であります。
この希望は、順風満帆なとき、人生がうまくいっているときにはなかなか見ることのできないものであります。ある意味、人生の分岐点とも言えるとき、大きな病気にかかったとき、仕事や事業の失敗をしたとき、そして何よりも自分が死すべき存在であり、自分が滅び行く者であるということを思い知らされたときに、人は初めて、真の希望を欲するのであります。
エレミヤという人物がどのような状況にあっても、主のみ言葉に聞き、従って生きた人であったので。それは戦火の中、投獄の中、先行き見えない死さえ迫るような非日常的な状況の中におかれていたにも拘わらず(もちろん彼も人ですからさまざまな葛藤や不安もあったのでしょうが)、しかしそういう中でエレミヤは、真に主のみ声に聞き、従っていったのであります。非日常的状況にあって、エレミヤがまるで日常の出来事のようにアナトトの地を買い取り、普段どおりきちんと書類を作った。これはすごいことです。宗教改革者のルターは、「たとえ明日世の終わりが来るとしても、わたしは一本のりんごの木を植え続ける」といったそうですが。そこには、主こそすべてを支配しておられるという信仰、主がすべてのことを導かれるという希望があるからこそ、なし得ることができるのでありましょう。
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