ヨナ書4章より
4章の冒頭を読みますと、ヨナは大いに不満で怒ったとあります。「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみ富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです」と主にありったけの皮肉を込め、訴えます。それはもう駄々っ子のようであり、魚の腹の中で3日間祈り、主に立ち返ったあの同じヨナかと耳を疑いたくなりますが。これは信仰生活を営む私たち自身の姿でもあるなあと思わず苦笑してしまいます。ある時は熱心に悔い改め、涙とともに賛美するかと思えば、自分の願いや、それが満たされない不満でひっくり返って駄々をこね主に不満をぶつける。本当に人の弱さ愚かさでありますが。
二ネべの人々から「おまえは俺たちが滅びると預言していたのに、言っていることと違うじゃないか。おまえは偽預言者だ」と中傷されることを恐れたのではないでしょうか。又、何よりも、主が悪徳の異邦人を滅ぼされないことに我慢ならず、許せなかったのでありましょう。
主はヨナに言われます。「お前は怒るが、それは正しいことか」。主はそんな激しいヨナの怒りに対し、わたしに逆らうのかとか。わたしが間違っているとでも言うのか、などとはいわれません。主は頭ごなしにヨナを叱りつけるのではなく、まるですねた子を諭す父親のように「お前は怒るが、それは正しいことかどうか考えてごらん」と、静かにヨナに問い返されるのです。
ここで、主は「怒り」の感情自体を否定されていないことがわかります。怒ることが正しいことかどうか「心のうちに聞け」と問われます。
新約聖書の主イエスについての記事を読みますと、主イエスが激しい憤りをおぼえられることや怒られるいくつかの場面がございます。神殿の境内から商人を追い出すいわゆる宮清めの記事(ヨハネ2:13)では、神殿の境内で貧しい人々からお金を巻き上げだまし取っていた両替商たちに対して、そのテーブルをひっくり返して激しい憤りをあらわにされました。また、イエスさまの弟子たちがイエスさまのところへ幼子たちを連れてきた人々を叱ったことに対し、イエスさまが逆に弟子たちに憤慨されたこともありました。(マルコ10:13f)「怒り」というもの自体、これは神が人間に与えられた感情です。大切なのはそれがただ自己中心な怒りであるのか、あるいは正しい怒りであるかどうかということです。そのことがヨナに問われているのです。イエスさまが持たれた怒りは人の命を損なう不正や搾取に対するものであり、神の義が軽んじられることに対しての怒りでありました。
自己中心的な怒りとはその逆です。囚われた観念によって人を裁いたり、排除したりといった怒りであり、そこには憐れみなど入る余地はありません。神さまはそこを考えてみなさいとおっしゃったのです。
4章の冒頭を読みますと、ヨナは大いに不満で怒ったとあります。「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみ富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです」と主にありったけの皮肉を込め、訴えます。それはもう駄々っ子のようであり、魚の腹の中で3日間祈り、主に立ち返ったあの同じヨナかと耳を疑いたくなりますが。これは信仰生活を営む私たち自身の姿でもあるなあと思わず苦笑してしまいます。ある時は熱心に悔い改め、涙とともに賛美するかと思えば、自分の願いや、それが満たされない不満でひっくり返って駄々をこね主に不満をぶつける。本当に人の弱さ愚かさでありますが。
二ネべの人々から「おまえは俺たちが滅びると預言していたのに、言っていることと違うじゃないか。おまえは偽預言者だ」と中傷されることを恐れたのではないでしょうか。又、何よりも、主が悪徳の異邦人を滅ぼされないことに我慢ならず、許せなかったのでありましょう。
主はヨナに言われます。「お前は怒るが、それは正しいことか」。主はそんな激しいヨナの怒りに対し、わたしに逆らうのかとか。わたしが間違っているとでも言うのか、などとはいわれません。主は頭ごなしにヨナを叱りつけるのではなく、まるですねた子を諭す父親のように「お前は怒るが、それは正しいことかどうか考えてごらん」と、静かにヨナに問い返されるのです。
ここで、主は「怒り」の感情自体を否定されていないことがわかります。怒ることが正しいことかどうか「心のうちに聞け」と問われます。
新約聖書の主イエスについての記事を読みますと、主イエスが激しい憤りをおぼえられることや怒られるいくつかの場面がございます。神殿の境内から商人を追い出すいわゆる宮清めの記事(ヨハネ2:13)では、神殿の境内で貧しい人々からお金を巻き上げだまし取っていた両替商たちに対して、そのテーブルをひっくり返して激しい憤りをあらわにされました。また、イエスさまの弟子たちがイエスさまのところへ幼子たちを連れてきた人々を叱ったことに対し、イエスさまが逆に弟子たちに憤慨されたこともありました。(マルコ10:13f)「怒り」というもの自体、これは神が人間に与えられた感情です。大切なのはそれがただ自己中心な怒りであるのか、あるいは正しい怒りであるかどうかということです。そのことがヨナに問われているのです。イエスさまが持たれた怒りは人の命を損なう不正や搾取に対するものであり、神の義が軽んじられることに対しての怒りでありました。
自己中心的な怒りとはその逆です。囚われた観念によって人を裁いたり、排除したりといった怒りであり、そこには憐れみなど入る余地はありません。神さまはそこを考えてみなさいとおっしゃったのです。