日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

優先順位

2021-10-31 12:12:25 | メッセージ

主日礼拝式「優先順位」詩編92編1節~16節 

 

今週も七日の旅路を守られ、導かれてこの「主の日」を迎え、こうして主の家に帰って来て共に礼拝を捧げることのできます尊い恵みを感謝します。

先ほど読まれました詩編92編2-6節で詩人は次のように歌います。「いかに楽しいことでしょう/主に感謝をささげることは/いと高き神よ、御名をほめ歌い/朝ごとに、あなたの慈しみを/夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは。十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ/琴の調べに合わせて。主よ、あなたは/御業を喜び祝わせてくださいます。わたちは御手の業を喜び歌います。主よ、御業はいかに大きく/御計らいいかに深いことでしょう。」

この詩編は「安息日のために」歌われた賛歌です。

その安息日の基になりましたのが、創世記2章1-3節の「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息さった。その日に神はすべての仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」という御言葉であります。

天地万物を創造なさった神は六日間に亘って仕事をなさいましたが、それですべてが完成されたのではないのです。2節後半にあるとおり、「第七日の日があってそこで神はご自分の仕事を離れ、安息なさった」、そうしてこの第七の日を祝福され、聖なる特別な日として創られるのです。まさにこの日によって天地万物の創造の御業が完成されるのですね。

イスラエル(ヘブライ)の民が囚われのエジプトから救い出され神の民とされた時、あのモーセは十戒(出エジプト記20章)に、神をこそ神とすること。そしてこの「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(同6節)との戒めを授かるのでありますが。ここには「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日眼は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」とあります。イスラエルの民は長い歴史のどこにあっても、この安息日の戒めを守り行ってきたわけですが。

先週からずっとお話してきましたように、この詩編が編纂されたのは紀元前6世紀のバビロニアの捕囚以後であったとされていますけれども。そのバビロニア捕囚と南ユダ王国の崩壊の出来事は、民が神に背きの罪を繰り返し、悔い改めることがなかったために自ら招いたことでした。実に半世紀あまりも捕囚民としての日々を送らねばならなかった人たちが、その異教の地で守り通してきたこと。それが、主の民としての一致とその表明、その生活の基盤こそが「安息日を覚えてこれを守り、聖別する」。つまり主なる神に礼拝を捧げることでした。

その後彼らは、神の奇しき御業を経験します。具体的にはバビロニアをペルシャのキュロス王が支配することになり、遂に捕囚の身から解放されてエルサレムに帰還することが出来るようになるのです。

そこで主の民はここに歌われているように、「朝ごとに神の慈しみを、夜ごとに神のまことを述べ伝える。御名をほめ歌い、感謝をささげることがいかに楽しい」(2-3)ことか、それを味わい、「主よ、あなたは/御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います。主よ、御業はいかに大きく/御計らいはいかに深いことでしょう」(5-6)というような体験をした、と思うのですね。

私たちも緊急事態宣言下、礼拝を開くことが出来なくなった時、ほんとうに辛かったですね。寂しいとかいうのを通り越してしんどかったです。それが、礼拝の門が開かれた時にはまさにこの詩編のような喜び、楽しみに満たされました。もう閉じられることがないようにと、状況の回復を祈るばかりでありますが。

さて、この詩編は一方で、7-10節「愚かな者はそれを知ることなく/無知な者はそれを悟ろうとはしません(それをとは、主の御業の大きさ、御計らいの深さです)。(愚かにも)神に逆らう者が野の草のように茂り/(神の戒めを悟ろうとしない)悪を行う者が皆、花を咲かせるように見えても/永遠に滅ぼされてしまいます。主よ、あなたこそ、永遠に高くいます方。主よ、あなたに敵対する者は、必ず滅び/悪を行う者は皆、散らされて行きます」と歌います。

世の中を見れば酷い事件が日毎に起こり、不正や不義がはびこっているわけであります。自分の意のままにすべてが動かせ、為すことができる。極悪非道と申しましょうか、そういう人もいますが。詩人は10節で「主よ、あなたに敵対する者は、必ず/あなたに敵対する者は、必ず滅び」と歌っているそのことの中には、かつてイスラエルの民が神に逆らい、罪を犯し続けて滅びを招いたという自責の念と共に、もう二度と過ちを繰り返してはならないと、強く自らと後の世代を戒めているような気がいたします。

しかし先ほども申しましたように、異教の地の捕囚とされた人たちはそこでもう一度、自分たちが真に依って立って生きるその喜びと力の源を、「主なる神への礼拝」「主の安息を覚えて、聖別する」、そのところに見出していったのです。

神ならざるものを崇めていく世の中、その社会にあって、自からが何たるか、その存在意義(アイデンティティー)を生けるまことの神、無から有を創り出したもう創造の神に見出し、そのお方を礼拝すること。それが文字通り「安息」となっていくのです。神の憐みによって主の民として回復された感謝と喜び。その礼拝こそが安息なのです。心からの悔い改めと救いの喜び、感謝。これこそが神の御前における最善の捧げものでありましょう。

詩人はさらに、8-9節「神に逆らう者が野の草のように茂り/悪を行う者が皆、花を咲かすように見えても/永遠に滅ぼされてしまいます」と神の義に逆らうことの虚しさを訴えます。それと対照的に、13-14節では「神に従う人はナツメヤシのように茂り/レバノン杉のようにそびえます。主の家に植えられ/わたしたちの神の庭に茂ります」と歌っています。

今日の詩編92編と大変似ている歌を週報の表紙に載せました詩編1編であります。読み比べてみると共通点が多くございますが。

神に逆らう者、悪人の栄えは地の表面にしか茂らず、すぐに虚しく枯れはてる。神に従う人の栄えは草花とは違いナツメヤシのように葉と実が高いところにたわわにしげり、実って人を喜ばせます。レバノン杉もそうです。天までそびえるように、実にたくましく美しく育っていきます。そのよう神の家に植えられ、神の庭にとこしえに茂る人たちは幸いです。

15節で「白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし」と歌われているその恵みの素晴らしさ。まあ一般的に年老いていきますと、働くことも、行動することも、体調面においても衰えてきて、それに伴い人と出会ったり、交流を持つということがなかなか難しくなり、黄昏感や孤独感、寂しさや失望感を感じるようになっていくことも多いのではないでしょうか。

しかしこの詩人は「神に従って生きる人は、白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし」と歌うのです。この「なお実を結び」というのは、若い頃の生産性による実というのとは違うものです。その実は「命に溢れ、いきいきとし」としていると歌うのです。そのように、「喜び」「楽しみ」「生き甲斐」に溢れた生き様を示しています。

先週の礼拝でも、コヘレトの言葉12章1節「青春の日々こそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」との御言葉に触れましたが。年を重ねても、創造主を心に留め、主に従い生きる者はなお人生の実りを結び、命にあふれ、生き生きとしている。私自身、みなさまも又、きっとそのような人生でありたいと願っておられることでしょう。

私たちの教会では90歳を超えても信仰生活の現役の兄姉が5名いらっしゃいます。ある姉妹は一人で電車に乗り継いで1時間かけて毎週ほぼ欠かすことなく礼拝に出席なさっておられます。又、毎週の水曜日の祈祷会と日曜日の礼拝は欠かすことなく、「それが楽しみ」とおっしゃってご夫妻でお見えになられる兄弟がおられます。また、ケアハウスにて今外出が許されず、教会に行きたい。礼拝に出席したいという強い願いを持たれている姉妹もおられます。又、ご自宅で毎朝、教会とその兄弟姉妹のために祈って下さっている姉妹もおられます。90歳を超えても、神への熱い思いは、衰えるどころか益々燃えておられるのですね。あと80代、70代と続いておられますが。そのような兄姉から沢山の励ましをほんとうに頂き、私の信仰も燃やされています。

私たちキリスト者にとっての安息日は、この日曜の主の日であります。

あのイスラエルの民が奴隷の状態であったエジプトから、神の愛と憐みにより子羊の血を通ってあがなわれ救い出されて神の民とされたように私たちキリスト者もまた、世の力とからみつく罪に滅ぶほかない者を、主なる神は唯、愛と憐みにより御子イエス・キリストを私たちの救い主として世に遣わしくださり、御子、主イエスが十字架の血汐と御体を裂かれることによって、私たちの罪があがなわれ、罪の滅びから救い出してくださったのです。                  

さらに、主イエスはその十字架の死よりよみがえられたのです。それが日曜日であったことから、私たちキリスト者はこの日を主の日として覚え、この日を特別な日として取り分けて、喜びと感謝をもって礼拝を捧げているのです。それは誰かに強制されてなしているのではありません。捕囚時代のイスラエルの民がそうであったように、私たちも唯神の「慈しみ」と「まこと」に感謝と平安を覚えるからこそ、又望みを置いているからこそ、こうして礼拝に集っているのです。そしてさらに、私たちはこの世に生かされている者として、「神に国と神の義」に依って自らの立つところを確認するために「主の日」を特別に取り分けているのです。この主の日、聖霊の助けと導きを頂きつつ主にある兄弟姉妹、又新しく来られた方もご一緒に、主の御言葉、讃美、祈りと願い、ささげものを通して主に礼拝を捧げています。この地上では得難い魂の平安、安息に与って、ここから始まる新たな一週間を生きていくために必要な霊の油を溢れるほど注いで頂くためでもあるのです。

本日は詩編92編から御言葉を聞いてきました。

この詩人の賛歌から響いて来ますのは、神によって造られ、その深いご計画と慈しみによって生かされている私たちにとって、「最も幸いなことは何か」いうことであります。

詩人は3節「朝ごとに、あなたの慈しみを/夜ごとに、あなたのまことを述べ伝え」。5節「主よ、あなたは御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います」と主を賛美します。

神無き人生は虚しいものです。私たちの人生はどうでしょうか。わたしの神とつながり、祈り会話をし、立ち帰って新しくされて生きる人生は、日々「主の御業、御手の業を見、その慈しみとまことを知り」、感謝といのちに溢れ、白髪になってもなお実を結ぶ者とされるのです。

本日の宣教題を「優先順位」(プライオリティー)とつけさせて頂きました。私たちは何を大事にするかによってその生き方が変わってきます。お金や地位、名誉や賞賛を第一にする人はそのためにどうしたらよいかを考え行動します。しかしそういうものはこの世が移り変わればやがて失せ、無くなります。人生には必要なものがありますが、主イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と仰せになりました。

聖書は、すべてを御手のうちに治め、生きる者死ぬ者を統治なさる主なる神を知り、その神さまとの関係性に与って、「何よりもまず、神の国と神の義を求め」つつ生きようとする者に、最も幸いな恵み、祝福を与えてくださることを約束しています。この詩編92編で「いかに楽しいことでしょう。主に感謝をささげることは」と歌われていますように、すべての宝に勝る素晴しい救い主、いと高き安息日の主なるお方を第一とする確かな人生を共に歩み通してまいりましょう。それが私たちの「優先順位」(プライオリティー)となっていくことを求めつつ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神の公正と正義を王に与え給え

2021-10-24 14:35:35 | メッセージ

礼拝宣教 詩編72編1-14節 

 

先週は国政選挙の公示日となり、来週の31日が投票日ということです。未だコロナ感染症は終息に至っておりません。国政においては今後のコロナ終息に向けた対策。又、この1年半の間に私たちの生活や日常に変化がなかったという人はいないかと思います。ようやく日常に近づけるというところに生活に欠かすことのできないガソリン、又電気、食料品等の価格が高騰し、悩ましい状況であります。生活困窮者、子どもたちの貧困や自死は深刻です。さらにこれまでの政治家とお金にまつわる問題や利権や忖度がらみの重大なパワーハラスメントの問題と様々なことがありますが。市民のために奉職することのできる国会議員が立てられていくために、私たち投票権を与えられている者は、その特権を最大限に使って意思を投票というカタチで祈りつつ、表わしていきたいと願います。様々な状況から政治に失望し不信感を持ち、もう何も期待しないとか、別の世界のことだと思う人も多いかもしれませんが。昨今の社会状況においては私たちの生活や暮らし、いのちや平和に直結することです。

 

さて、本日は詩編72編より御言葉に聴いていきたいと思います。

まずこの詩編は20節に「エッサイの子ダビデの祈りの終り」とありますように、ダビデ王がその子ソロモンの王位継承を祝って作ったものと見ることもできます。

けれどもこの祈り手にとって最も肝心なことは、天と地における一切の権能をもって司られる神こそが主権者である、ということなのです。1節に「神よ、あなたによる裁きを、王に/あなたによる恵みの御業を、王の子にお授け下さい」とありますように、王の統治というものは、一人で為すことができるものではなく、そのような主なる神のお導きとお助けが不可欠であるということが歌われているのです。祈り手は王のために必要なものを「神よ、あなた」と実に近しく、かつ畏敬の念をもって呼びかけ、民の平安と王の務めのため、とりなし祈っているのです。

 

このような祈りによって王に就任し、イスラエルの国として当初は非常に繁栄し、この祈りにあるような知恵ある裁きによって平和は確かに一時的に花開くのであります。しかしその豊かさの一方で、様々な偶像が持ち込まれてくるのです。やがては王も民衆もその心が主なる神から遠のいていきます。ソロモンの統治の後にはイスラエルの国が南と北に分裂してしまうのです。その後の王たちはいずれも悪王ばかりで、結局、北イスラエル王国、さらに南ユダ王国もまた滅んでいくのであります。この150編からなる詩編は、その崩壊と捕囚からの解放後、それまでのイスラエルの王の統治と民の不義を回顧しつつ、主である神に立ち返って生きるために編纂されたのであります。

今日の72編も「今度こそは神の御心に適う善き社会が築かれますように」と強いの願いをもって、この詩編に加えられたのでありましょう。

捕囚から解放がされたユダの民たちはエルサレムへの帰還という悲願が叶いますが、そのユダの地はかつてのような栄えはなく、荒れ果てていました。ユダの地に残っていた人々の心も状況もそうでした。捕囚から解放され帰還した人たちはそこで神との関係性の回復、信仰の復興と礼拝の再開、崩壊した神殿の再建という、民の本来の祝福が取り戻されていくための事業を取り組み進めていくのであります。そこで求められたのは、ユダの民にとっての理想的な真の指導者でありました。

 

1節の「神よ、あなたによる裁きを、王に/あなたによる恵みの御業を、王の子にお授けください」を新共同訳改定版(2018)で読んでまたいと思います。「神よ、あなたの公正を王に/あなたの正義を王の子にお授けください」とあります。「裁き」が「公正」、「恵みの御業」が「正義」と訳されています。特に「恵みの業」が「正義」と訳されているところは随分ニュアンスが変わるように思えます。そこには、異邦の諸国の脅威に常にさらされていたユダの地には、内に外に「不正」と「不義」がはびこっていた現状が暗示されているようです。

先に申しましたように、かつて北イスラエル、南ユダの両王国を治めていた歴代の王たちのうちにも、不正を働き、不義を行って、国を荒廃させ、民を痛め苦しめた者がいたということです。あの栄耀栄華を極めたとされるソロモン王は、エルサレムに最初の神殿を建てるという一大事業をなします。彼は知恵の王と呼ばれます。その一方で彼の野心的な事業は重税と賦役を民に課し、さらに享楽にふけり財政が悪化。晩年には皮肉にもソロモンの政策は王国に内在していた矛盾を増幅させ、ソロモンの死とともに一気に噴出して、国家分裂していくのです。だからこそ、これからの時代に立てられる指導者はそうであってはならないと、切なる願いを込めて詩人は歌い祈ります。

2節「王が正しくあなたの訴えを取り上げ/あなたの貧しい人々を裁きますように」。                                         ここで注目しますのは、王が「あなた」、つまり神の訴えを取り上げますように、と言っていることです。神が王に訴えるとは、考えればおかしなことですが。それは民が神に訴える声を神が聞かれ、その声を神が王に代弁者として訴えておられる、ということです。

又、「あなたの貧しい人々」という「あなた」も神御自身のことでありますから、「神よ、あなたの貧しい人々」を王が正しく裁きますようにと願っているのです。貧しい人々は神の民でありあすから、神を畏れ敬う王でしたら、この貧しい人々が苦しんでいる事態に対して、ないがしろにすることは決してできないのであります。

そのような善き王について詩人は5節で、「王が太陽と共に永らえ/月のある限り、代々に永らえますように」と詩人は歌っていますが。この5節をまた新共同訳改定版でお読みします。「王が、太陽と月のあるかぎり/代々にわたってあなたを恐れますように」。大きな違いは、異なるのは「あなたを恐れますように」ということです。

ここでの重要点が「神を畏れる」そのところに、王の王たる座といったものが存続されるのだというように読めます。

この「神を畏れ敬う」王による統治にあって、6-7節「地に恵みの雨が降り、豊かな実りがもたらされて民は潤いますように。そしてそのような王が生涯、神に従う者として栄え、月の失われる時までも豊かな平和に恵まれますように」と詩人は祈り、歌います。                                     先ほどの3節にも「平和」という言葉が出てきましたが。この平和は単なる戦争や争いがないということではありません。ユダヤ社会では平和はシャローム、現在もイスラエルの日常の挨拶となっていますが。「あなたに平和、平安がありますように」「共同体全体に平和、平安がありますように」という強い願いがそこに込められています。その平和、平安はどこから来るのでしょう。                                             コヘレトの言葉(伝道の書)12章1節を読みますと、「青春の日々にこそ、お前の創造主を心に留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」とあります。                                        聖書のいう「平和」「平安」とは、創造主であり、すべての源である神との関係性が築かれていくことから来るものであり、それが隣人と社会全体に及んび「平和」「平安」が実現されていく。神との間に私たちの平安、平和が築かれていくところから、人との平和、身近なところでの平和、さらに国、世界の平和へとつながっていくのです。。私たち自身は小さな存在でありますが、そのような平和を造り出す者として創造主なる神は私たちをお造りになられたのです。

先週の礼拝にある姉妹がお越しくださったのですが。その方のお母様はクリスチャンで教会の礼拝のオルガニストとして長年ご奉仕をされていたそうですが。末期の癌で痛み止めを入れつつ、家族でふれあえることのできるご自宅で緩和ケアをしておられるとのことでした。ご来会された姉妹はクリスチャンではないそうですが、キリスト教の信仰について小さい頃からお母様を通して話を聞く機会もあったそうです。そのお母様の思いを間近に感じながら、最後に召される折には牧師に家に来てもらってお祈りしてあげてほしいという願いをもって先週私たちの教会の礼拝に来られたということでした。その2日後にお母様は天国に旅立っていかれました。わたしはご家族とともにお母様の看取りができなかったのですが、前夜式というかたちでご自宅に伺い、姉妹とお父様と共に、しばし、いのちの御言葉を読ませて頂きました。お母様のことを偲びつつ、お祈りを捧げ、「いつくしみふかき」の賛美を救いの主に捧げる時を持ちました。お父様もクリスチャンではないのですが、お話を伺えば、お爺さまでしたか、牧師であられたそうです。奥様の信仰の遺志を大事にしたいという思いから、わたしを快く迎えいれくださり、天国への旅立ちと共に再会の希望をお伝えすることができました。故人の遺されたお証と共に、残されたご家族が「真の創造主」とお出会いになり、その魂がとこしえの平安に与っていかれることをお祈りいたします。

詩編に戻りますが。詩人はユダの地、シオンの都にある「神を畏れ敬う」王の統治に伴う、豊かな実りと平和のため祈り、次いで8節-11節に、その統治が世界の果てにまで及ぶようにと祈ります。

8節「王が海から海まで/大河から地の果てまで、支配しますように。砂漠に住む者(遊牧民)が彼の前に身を屈め/敵が塵をなめますように。タルシシュ(南スペイン)や島々(地中海の島々)の王が捧げ物を/シェバ(南イエメン)やセバ(エチオピア)の王が貢ぎ物を納めますように」と、諸外国の王が、神を畏れ敬う王をほめたたえるようにと祈るのです。

さらに、12-14節「王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を/助けるものもない貧しい人を救いますように。弱い人、乏しい人を憐れみ/乏しい人の命を救い/不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。王の目に彼らの血が貴いものとされますように」と詩人は祈ります。

ここで、詩人が「貧しい者を救い」「乏しい人の命を救い」、そして「彼らの命を贖い」と祈っていることに目が留まります。命を救う、ましてや命を贖うとまでありますと、これはもはや、この地上の一王ではない「王の王なるお方」、神から出で世を救うメシア(救世主)なるお方でなければ成し得ません。まさにイザヤ書で預言されていますように、神によってもたらされた権勢と統治とがそのお方の肩にかかっているのであります。

詩編が編纂された後、ユダヤ人たちは非常に厳しい時代を経て、歴史的には紀元前6年~4年の時期に、この預言的祈りのとおりの王がユダヤの地にお生まれになります。それは地の果てに至るまで神の権能によって統治される諸国の王の王、主の主として世界にお出でくださったのであります。それが主イエス・キリストであります。

詩人は17節で次のように祈ります。「王の名がとこしえに続き/太陽のある限り、その名が栄えますように。国々の民は皆、彼によって祝福を受け/彼を幸いな人と呼びますように」。                                                     この世界の王の王、真のメシヤ、救い主として、ユダヤの人々からこの異邦人である私たちのもとに来てくださったことを、心から喜び、主をほめたたえていきましょう。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創造主を知って生きよ

2021-10-17 13:55:56 | メッセージ

主日礼拝宣教 詩編24編1-10節

本日は詩編24編から御言葉に聞いていきたいと思います。この詩は、週報の表紙に記載しました詩編15編と共に、「神殿に入るための資格を詠う礼典歌」(岩波訳・詩編解説参照)であったとされています。                                           ここにはまず、天地万物の創造主であられる神の力と威厳が高らかに賛美されています。「地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは、主のもの。主は大海の上に地の基を置き/潮の流れの上に世界を築かれた」。                                                     神殿を訪れる人は千差万別です。日課として礼拝を守るため。祝い事や弔いのため。願い事や癒しを求めるため。懺悔のため。遠方からの巡礼のために等々。この詩(うた)は今、まさに神殿の門をくぐろうとする人たちに向け、これからどのようなお方の前に立とうとしているのかを告知するのです。そこで詩人は、そのお方がこの地上のいっさいをお造りになられたのであり、全天全地に至るすべての世界を築いておられる存在であることを知らせます。

人間はあたかも社会と文明。ともすればこの世界までも人が造り、建て上げてきたように錯覚してしまいがちです。私たちは自分が苦労して得たものに対して、自分の努力や働きの結果、自分のものと考えます。その結果起こって来ることは今日の世界において大変問題視されていますように、地球の資源や自然が乱獲され、消費されて膨大な二酸化炭素ガスが排出し、地球温暖化の大きな要因となって、それに伴う甚大な災害が様々な地域で起こっています。大規模開発による環境破壊、生態系崩壊により、自然環境のバランスが大きく崩れ、山に食べ物を見いだせなくなったクマやサルが村や町の畑や人家にまで下りて来るということが増えています。又、種の絶滅、今までいた生き物や草木が絶滅していくということが大変なスピードで起こっています。その被害は自然界や動物のみならず、人間の側にも跳ね返ってきて、将来の若い世代や子どもたちにとっての地球環境を脅かすものになっています。

天地万物をお造りになられた神は、私たち人間を祝福するためにこう仰せになりました。創世記1章28節「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。口語訳・新共同訳改訂版は「支配せよ」ではなく「治めよ」と訳されています。神のお造りになったこの素晴らしい世界を治め、その祝福を享受し、感謝しつつ、幸いを得るように、と創造主である神は人を祝福なさったのですね。

さて、詩人は3節で「どのような人が、主の山に上り/聖所に立つことができるのか」と問いかけます。先に申しましたように神殿に入るための資格を問うているのです。「主の山」とは「シオンの山」、聖所とは「エルサレムの神殿」を指していまが。その場所でどのような人が、いっさいをすべ治めておられる神の御前に、礼拝者として立つことができるのか、と問うているのです。

詩人は4-5節でこう答えます。新共同訳改訂版の訳がよいのでこちらをお読みします。「汚れのない手と清い心を持つ人。魂を虚しいものに向けず/偽りの誓いをしない人。魂を空しいものに向けず/偽りの誓いをしない人。その人は主から祝福を/救いの神から正義を受ける」。 詩人は「その人は主から祝福を/救いの神から正義を与えられる」と告げます。又、「汚れのない手と清い心を持つ人。魂を虚しいものに向けず/偽りの誓いをしない人」こそ、礼拝者としてふさわしいと詩人は戒めます。これは神殿の門を前にして、その心に問いかけられているわけですから、自分はそうとは言えないなぁと自覚する人はそのような心備えをもって神の前に生きていく者となりたい、そうなっていこうと心に願いつつ、その門をくぐる恵みが与えられているのです。「主がその人を祝福し、救いの神が正義を与えられる」というところがとても大事な点なのです。それは、どんなに人の側が清くなろう、正しく生きていこうとしても、完全な神の聖さと義(ただし)さの前に立ち得る人は一人もいないからであります。どのような人も「救いの神の御憐み」に与らなければ、如何なる人も神の御前に礼拝者として立つことはできない、と詩人は詠っているのであります。神殿を詣でる礼拝の最も大きな祝福はまさに、この「救いの神からの正義」、それは「ゆるし」と「きよめ」、又「神の前における正しさ」を与えられるということなのです。                                          その神の祝福を受け取る人は、6節「主を尋ね求め、神の御顔を尋ね求めるほかない人」であるということです。主を尋ね求め、主の御顔を尋ね求め、魂の飢え渇きを覚える人、祈らずには生きていけない人、礼拝に与ることが生きる力の源である人。そのような神を慕い求める人に、救いの神は恵みを与え、祝福してくださるのです。今日この礼拝に与っておられるお一人おひとりが、主イエス・キリストにある救いの神の祝福のもとに招かれた恵みを共々に喜び合いたいと思います。

次に、後半部分の7節以降には、「栄光に輝く王とその到来」について、ここも告知され呼びかけと応答の詩(うた)となっています。                                                    「城門よ、頭を上げよ/とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる」。まるで城門を人間であるかのように呼びかけています。これは、エルサレムの神殿での入場の際に神の箱を担いだ人々が、門の内側にいる祭司に向かって呼びかけた言葉であったとされています。

頭を上げよというのは、一説によりますと、当時の城門が横開きではなく、外敵からの侵入に備ええバタンと閉じることのできる跳ね上式であったことから、そう表現したとも思われます。荒野で授かった民の祝福の象徴とも言える十戒やマナなどが収められた「神の箱」の入場と栄光に輝く王の入場とがここには重ねられているのでしょう。もちろんこの王とは10節にあるとおり、「万軍の主」ということですが。

ここには、さらにそれが「とこしえの門」と詠われています。この「とこしえ」というのは、ここでは「非常に古い」という意味があるそうです。古来より、幾人もの王となる人物が現れてはくぐってきた門であることが象徴されています。しかし、今までの王たちとは異なる、遥かに勝った王が来られ通られることがここに示されているのです。まあそう聞きますと、やはりあの主イエスのエルサレム入場の場面が思い浮かんでくるのでありますが。ここでは、門の内側にいる祭司から8節「栄光に輝く王とは誰か」と呼びかけがあると、神の箱を担ぐ人々から「それは強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。城門よ、頭を上げよ/とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる」との応答がなされるのであります。                                                   「強く雄々しい主、雄々しく戦われる主」、又10節にも「万軍の主」という言葉が出てまいりますが。旧約聖書にはイスラエルの民を守り、又共に戦われる万軍の主、圧倒的な力を行使される戦いの神として記述されております。しかし、主イエスの戦いは父なる神に従い通して、権力や武力によらず諸国の民に罪のゆるしと神との和解を実現なさる、まさに5節にあるような「救いの主としての戦いであります。それは、罪に滅びる外ない私たちの身代わりとなって、自ら十字架に引き渡し、その尊い命をもって私たちを贖いとってくださった戦いなのであります。もはやイスラエルやユダヤの固有の王としてではなく、メシア、救いの主なる世界の王として父なる神より地上のいっさいの権能をお受けになった王の王、栄光に輝く新しい王、世界の民の救い主としておいでになられたのであります。この新しい王、メシアに冠された「栄光」は、世の栄えや栄誉とは全く異なるものなのです。

ヘブライ語の栄光は元来「重たさ」を意味します。出エジプト記3章で、主がモーセを出エジプトのために召し出した折、主はモーセにこう言われます。                                          「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。今、行きなさい。わたしがあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルを連れ出すのだ」。ここで主は民の苦しみと痛みを自らのものとされたのです。まさに神の栄光は、民の苦しみと叫び、その痛みを知って、それを担い行かれたその重み、重たさによって主の栄光が顕されていくのです。                                        この新約の時代に至り、全人類の救い主として神は御独り子、イエス・キリストを通して私たち人の弱さと罪を自ら負われ、救いの御業を成し遂げてくださった。この重みによって神の栄光は顕されているのです。主イエス・キリストこそ、「栄光に輝く新しい王、真の救い主」であられます。

本日は、「創造主を知って生きる」と題して、詩編24編から聞いてきました。全世界の王なるお方は、主の御顔を尋ね求める者とどこまでも共にいてくださいます。その救いの十字架のお姿に神の栄光を仰ぎながら、今週も心からの感謝と、祈りと賛美の喜びをもって、それぞれの持ち場へと遣わされてまいりましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしの羊飼い

2021-10-10 13:21:41 | メッセージ

礼拝宣教 詩編23編1-6節

 

この詩は旧約聖書の中でも最もよく知られ、且つ新約聖書の中の「主の祈り」のように、よく暗唱されている詩ではないでしょうか。それは、この短い詩の中に逃れがたい人生の局面において、何を望みとし、如何に平安を得るかという人の思いが重ねられるからでありましょう。この詩によってクリスチャンのみならず、世々の人びとが如何に励まされ、力づけられ、勇気を与えられてきたかということでしょう。その事実は「主はわたしの羊飼い」という信仰の言葉が文字通り、世々の人びとを導き、養い、生きる支えとなっているということの証しであります。神は生きておられます。

冒頭の1節に「賛歌。ダビデの詩」と記されています。ダビデはユダ部族ベツレヘムびとエッサイの子で、初代の王サウルの後にイスラエル第2代の王となりました。彼は8人兄弟の末っ子として生まれ、姿の美しい少年で、父の羊を飼っていました。そういう中で、獅子や熊といった猛獣から羊を守る経験を幾多もしたことでしょう。ダビデは羊飼いの経験を通して、羊飼と羊の関係を主なる神と自分との関係になぞらえながら、この詩を詠んだのでありましょう。

羊は群れをなして生きる動物です。一匹では生きられない弱い存在でもあります。又、こう言っては何ですが、決して賢い動物とはいえず、すぐに道に迷ってしまうような生きものであります。ですから、羊飼がいなければ牧草地に行くことも、水のあるところにも行くことができません。そればかりか、いつの間にか散り散りばらばらとなり猛獣の餌食にされやすい動物です。ですから、遊牧された羊にとって羊飼は欠くことの出来ない存在なのです。

一方の羊飼は、羊との信頼関係を築きます。羊との信頼関係がなければ羊は言うことを聞かず、牧することは出来ません。羊飼いはこの詩にもあるように鞭や杖を用いますが、鞭は羊を襲う野獣を威嚇するために使われるもので、羊に罰を与えるためではなく、外敵から守るためのものです。又、

杖は迷い出ようとする羊を連れ戻すために使われるものです。そのように羊飼いは羊の生存を保証してくれるような頼れる存在であります。そんな羊と羊飼いの関係をダビデ自らと主なる神さまに重ね合わせているのです。

 

古代の東方世界では王を羊飼いや牧者にたとえることがよくあったようであります。民衆を守り、牧する者ということです。ダビデは父の羊を飼うものから、文字通りイスラエルの王、牧者となるのであります。

そのダビデ王が「主はわたしの羊飼」と賛美したのです。それはダビデの栄光の一方で明らかにされた破れある生涯を顧みるとき、牧者なる主である神さまに導かれていればこそ、「何一つ欠けることはなかった」と言うことができたのだろうと思います。

山あり谷あり、幾度も死の陰を通るような人生の体験を通して紡がれたのが、この23編であり、だからこそ多くの人の共感を得るのでしょう。

 

新共同訳聖書では「主は羊飼い」と訳されていますが、それはよい訳ではありません。最近出された新共同訳改訂版には「主は私の羊飼い」と正しく訳されております。そこには「主」と「わたし」という関係性こそが、この詩の最大のメッセージであることを読み取ることができます。

私たちの信仰において大切なことは何でしょう。それはキリスト教という宗教ではなく、まさしく生きた神との交流であります。私たちはその主なるお方との生きた関係性を見出し、活き活きと保たれてこそ、キリスト者の人生の歩みとされていくのです。

 

さて、1節から3節までを読んでみますと、「主はわたしの羊飼い、わたしには欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる」とダビデは謳っています。

ここに「主は」(正確にはヤハウエなる神)とダビデが呼びかけて、主が自分にとってどのような存在であるかが証しされています。

それが4節から5節を読みますと、ダビデは「主は」という3人称の呼びかけ、こんな方ですといった語り口から、「あなたは」という直接的な呼びかけに変わっていることがわかります。このこと

にとっても大事なメッセージがこめられています。つまり、ダビデはここで主なる神に対して「あなたは」と、大変親しく密接な相手として呼びかけているのです。

 

始めの3節までがいわば公の「信仰告白」であるとするなら、「あなたは」という呼びかけは「主との対話」であるといえましょう。

ある方が、以前教会に通い始めたとき、クリスチャンが祈りの中で神に対して「あなた」と呼びかけているのを聞いて、「神様とそんなに近く話すとは・・・」と驚くと同時に、自分もそのような関係性に与りたいと願い、祈るようになったという話でありました。

ダビデがそうであったように、主を信じる私たちも又、主を「あなた」は呼びかける1対1のさしで向き合うように、直接的な主との対話へと導かれたいものであります。

では、ダビデがここにあるように「主」から「あなた」へと呼びかけが変わった。それはどういうときであったのでしょうか。

それは、4節の「死の陰の谷をゆくとき」であり、5節の「わたしを苦しめる者を前にしたとき」であります。これは、具体的にダビデがどういう状況におかれたときかは記されておりませんが。

例えば、サウル王に命を狙われたときであったでしょうし、息子アブサロムの反逆に遭い命を狙われたそのときであったのかも知れません。

王としての栄光と同時に多くの闘いと苦難を身に負う経験をしたダビデでした。そのように屈辱的な中に置かれ、心身ともに疲れ果てたとき、彼は本当の意味で、主と1対1で差し向かい、神との対話へと否応なしに導かれるのです。

 

彼はこう謳っています。「わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」。

先ほどお話しましたように、羊飼いが鞭で敵を追い払って羊を守り、その杖で羊の行くべき道を導くように、主は共にいてくださる。この主が共におられ守り導かれるという、信頼と確信によってダビデは力づけられ、魂の平安を戴くのであります。

 

牧師として、私は終末期をむかえる方と、共に祈りを合わせ、主の御許に与る備えとしての信仰の確信と平安のため、そのお手伝いをさせて戴いておりますが。天に召されるときが近づく折に、私はこの詩編23編をその方のお傍で読ませていただく機会があります。

「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。死の陰の谷をゆくときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」。

すべてを御手におさめておられる主が、命の生ける水を飲ませて魂を生き返らせてくださいます。あなたといつまでも共におられます、と。この魂を活かし得る命のみ言葉を、朗読させていただき、天における目覚めの朝への備えを共にさせていただくのですが。まさにこの詩編23編の恵みのゆたかさは、霊的な魂を生かしめる力にあるのです。

ダビデがそうであったように、この詩を読む私どもも又、この世にあって様々な試練や災いといえる出来事、悩みや苦しみを経験します。そして、人間は誰しもその生涯の中で、死の陰の谷を行くような経験をするのではないでしょうか。

私は何度もそんな経験をした、とおっしゃる方もおられるかも知れません。どんな人もその日、その時がいつ起こって来るかはわかりません。

だからこそ、主イエスは「目を覚まして祈っていなさい」。わたしとの対話をしていなさい、といつも招いておられるのです。

このダビデが「主は魂を生き返らせてくださる。あなたがわたしと共にいてくださる」と謳ったように、主との親密な信頼の関係性を日々得、強められ、命の限り真の平安に与れるようにと願うものであります。

 

最後に、この詩編23編を受けて、私どもの羊飼いなる主イエスの御言葉を2つほど見ていきたいと思います。

1つは、ヨハネ福音書10章の「イエスは良い羊飼い」として記されている御言葉です(週報表参照)。10―11節。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。

「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」との御言葉は、お分かりのように、主イエスが罪深い人間を救うために自らの命を十字架に引き渡され、その犠牲をもって罪の贖いを成し遂げてくださったことがそこに示されています。「わたしの羊飼い」なる主は、御自身の命を捨てるほどにわたしを愛してくださる、そのような偉大な羊飼いであられるのです。

 

2つめは、ルカ福音書15章の「見失った羊のたとえ」話です。

4-6節「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った羊を見つけ出すまで探し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人びとを集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」。

一人の魂が救われること。神の前に取り戻され、共に喜び合えることを、これほどまでに願われ、全身全霊をかけて贖われる主。この100匹の中の迷い出た1匹に注がれる主のご愛、それは決して100分の1ではありません。100分の1ではなく、1対1の愛の関係であって、主は1匹の、それは今日このところにおられるお一人おひとりに100%の愛のまなざしを注いでおられます。

この世界にあっては誰もが迷える羊といえます。クリスチャンであっても例外ではありません。自分を受け入れられない、自分を愛せないという人も世に多いでしょう。主はその暗闇をさまよう人の救いを求める声に、日々耳を澄ませ、探しておられるのです。

命をも差し出されたほどに愛される「わたしの羊飼い」なる主。その主の愛は信頼に値する真実の愛であります。

 

今日は「わたしの羊飼い」という題のもと、詩編23編からみ言葉を聞いてきました。

私たちは羊のように時に迷い、試練が襲いかかれば慌て震えあがるような者であります。

しかし、6節「命ある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う」とダビデは謳います。試練や試み、つまずきや罪の過ち、様々な経験をする中で、主は決してダビデをお見捨てにならなかった。ダビデも又、その主に信頼することを決してやめなかった、信仰とはまさにその生きた主とわたしの関わりなのであります。

信じてこそ、良きわたしの羊飼いと、どこまでも仰ぎ生きたダビデ。このダビデが謳った「わたしの羊飼い」は、インマヌエルの主として、生きて共におられる神、人の姿をとってわたしたち一人ひとりのうちに来てくださいました。

わたしの羊飼いなる主イエス・キリストのそのお言葉に耳を澄ませ、聞き、信頼し、いつも主に祈り、対話していくものとされてまいりましょう。そこに「命ある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う」との平安と恵みが伴い、「主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう」との朽ちることのない希望の確信が与えらるのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創造と贖いの御業

2021-10-03 12:26:54 | メッセージ

礼拝宣教  詩編19編1-15節 

 

本日から8週に亘り礼拝では詩編から御言葉を聞いていきます。詩編はヘブライ語で「Tehillim:テヒリーム」;「賛美の歌」という意味です。天地万物を創造し支配したもう神への賛美をはじめ、虐げられた奴隷の状態から民を救い出してくださった神への賛美。又、罪の悔い改めと懺悔をもって主に嘆願する切なる祈りの歌。捕囚から民を解放しエルサレムへの帰還と復興を導かれた神への賛美などなど。それはどのような状況でおも連綿と成し遂げられて神の契約とそのお働きが証しされた珠玉の賛歌集といえます。詩編は今から2千3百年前頃に編纂されたものとであると言われますが、ユダヤ民族の歴史を超えて、主イエス・キリストによって接ぎ木された私たちの魂を、救いの神へ賛歌と祈りに活き活きと導く霊的性質をもっています。

今日はその詩編19編から「創造と贖いの御業」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

まずこの詩編は「神の栄光」が「天の空」と「太陽」によって表されています。大空を見上げ日の光を仰ぐ時、人は天の神なるお方の存在をおぼえ、その御手の業に思いを馳せるのではないでしょうか。

「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。話すことも語ることもなく/声は聞こえなくても/その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。」

こどもの頃山で、田んぼで、又川や海で、昼は澄みきった大気と青い空を仰ぎ、夜は満天の星を見上げる時、この空はいったいどこまで拡がっているんだろうと、感動ともに畏敬の念に打たれたという思い出を持つ方も多いのでないでしょうか。

先日、大阪に来てから初めてプラネタリウムに息子と二人で出かけましたが。大阪の街から臨む四季折々の星が天蓋に映し出されて、何とも言えない安らぎを覚えました。その数えきれない星々とその営みが天空に見事に配置されている様を見上げながら、改めて天地万物の創造主とその御業は何と壮大なことかと思わずにいられませんでした。

半世紀以上前の1960年代、アポロの宇宙飛行士たちが地球から飛び立って初めて悲願の月面に着陸いたしました。その後も次々と宇宙へ飛行士たちが送り出されていきます。その多くの飛行士たちは、そこで超越した「何か」の存在を感じ、確信し、世界観が変わったと語っています。アポロ15号で月に着陸したジム・アーウィンという飛行士は、月面において「神の臨在」を実感したと語ります。彼は「姿を見たわけではなく、声を聞いたわけでもないが、確かにここにいるのが分かった」と証言し、その後キリスト教の伝道師なられたということです。まあ非科学的でない科学の最前線に立つ方々が、このように人知を遙かに超えた神の存在を感じ、認識されているのですね。

壮大な天空を仰ぐ時、同じダビデの詩編8編に「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も星もあなたが配置なさったもの。そのあなたが御心にとめて下さるとは人間は何ものでしょう。あなたが顧みて下さるとは」とありますように、自らもその御手の業による者であることを自覚し、創造主への賛美へと導かれていくのです。

今日の19編の5節後半-7節には「そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。太陽は、花婿が天蓋から出るように/勇士が喜び勇んで道を走るように/天の果てを出で立ち/天の果てを目指し行く。その熱から隠れ得るものはない」と、神の栄光が太陽にたとえられいます。その光と熱は人の命と生活において欠かすことのできないものです。

主イエスはマタイの福音書で「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなた方の天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるからである」と神の慈愛と御憐れみの深さが太陽を通して言い表しておられます。

この詩編で「その熱から隠れうるものはない」と言われているのも、どのような人でも神がご存知でない人はいない、すべての人を神は知られているということであります。

 

ここまでは神がお造りになられた天空や太陽を通して顕される神の栄光について見てまいりましたが。

8節からは今度は人間の内側を照らし出しています。

8-9節「主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。」

このように神の栄光の光は律法の教えと戒めとなって人間の魂、心を照らし、目に光を与えます。

そこで注目しますのは、神の教えと戒めである神の命の言が、人間の「魂を生き返らせる」ということです。

先にも申しましたように、モーセの時代、主なる神はイスラエルの民を奴隷の地から解放されて「主の民」とされ、まさに「魂を生き返らせて」くださいました。主は彼らがご自身の宝の民となさり、祝福を与えて、幸いに生きるように十戒をはじめとする律法、シナイの契約を民と結ばれました。

ところが、その後イスラエルの民はその神の教えと戒めに背き続けます。そして遂に国は滅び捕囚の民とされるのです。しかし神はその民を決してお見捨てになることはありませんでした。

先週までエゼキエル書を読んできましたように、時至って彼らを捕囚の地から解放し、エルサレムへの帰還と復興という御手の業をもって栄光を顕されるのです。それは民にとって信仰の復興の時、神の教えと戒めに立ち帰る時となったのであります。まさに主の律法(御言葉)には「魂を生き返らせる」力があり、神は救いの御計画をもってご自身が真に信実なお方である事を証明されたのです。

 

今日の詩編はさらに、「主の戒めは清らかで、目に光を与える」とあります。箴言6章23節で「戒めは灯、教えは光、懲らしめや諭しは命の道」と語られていますように、主の戒めは太陽の光のように混じりけなく私たち人間の内側に臨み、目に光を与え、主への清い畏れがいつまでも続くようになさるというのです。神は愛です。けれども神への畏れを知らず、その裁きの正しさを思わないなら、その愛の深さは知ることができないでしょう。

神への畏れを知る人は祈ります。

13節「知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしたちを清めてください。あなたの僕を驕りから引き離し/(罪に)支配されないようにしてください・・・心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。」と。

この詩編の作者はダビデ王であります。勇者であり偉大な王であったダビデの功績について称賛されることは多かったわけですが。けれども、ダビデはその生涯において人生の汚点といえる罪を犯します。横恋慕して人の妻に手を出し、その夫はダビデの忠実な部下であったのです。ダビデは地位を利用し、計画的に戦(いくさ)の最前線に彼を送り込んで見殺しにさせてしまうのです。そのダビデが自分の罪に気づかされた時、如何に自分が主の憐みを乞う外ない者であることを思い知らされるのです。神の正しさの前に到底立つことの出来ない自分、罪の性質がいつ頭をもたげてくるかもわからず、気づかないうちにも神の正しさにそぐわない生き方をしているかも知れない自分。それを人一倍知るからこそ彼は、「知らずに犯した過ち、隠れた罪からどうか清め、驕りから引き離し、支配されないようにしてください」と、心の底から主に祈っているのです。

ダビデにとってその祈りをお聞きくださるのは、唯「わたしの贖い主」でしかない、と主に隠さず打ち明けているのです。

 

本日はこの詩編19編から「創造と贖いの御業」と題して、御言葉から聞いてきました。

主なる神の栄光の御業は、マクロの壮大な天空や太陽、あらゆる自然界の驚異や神秘を通して知ることができますが。さらに神秘なのは、主なる神の栄光の御業が「命の言」となってミクロの世界ともいえる私たちの心の内にまで臨んでおられるということです。

その光は、自分でも気がつかないような罪の性質や隠れた罪を照らし出し、明らかにするのです。そこで私たちにとって最も幸いなことは、私たちが真の創造主と出会うこと。その主の御言葉の正しさによって主に立ち帰るよう導かれていること。そして罪のゆるしを得させてくださる揺るぎなき「贖い主」によって救いの道が開かれているということ、であります。

創造と贖いの御業を今もすべての人間、その一人ひとりに指し示してくださる主の招きに、今日のこの日も応えて生きる者とされてまいりましょう。

主よ、わたしの岩!わたしの贖い主よ!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする