主日礼拝式「優先順位」詩編92編1節~16節
今週も七日の旅路を守られ、導かれてこの「主の日」を迎え、こうして主の家に帰って来て共に礼拝を捧げることのできます尊い恵みを感謝します。
先ほど読まれました詩編92編2-6節で詩人は次のように歌います。「いかに楽しいことでしょう/主に感謝をささげることは/いと高き神よ、御名をほめ歌い/朝ごとに、あなたの慈しみを/夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは。十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ/琴の調べに合わせて。主よ、あなたは/御業を喜び祝わせてくださいます。わたちは御手の業を喜び歌います。主よ、御業はいかに大きく/御計らいいかに深いことでしょう。」
この詩編は「安息日のために」歌われた賛歌です。
その安息日の基になりましたのが、創世記2章1-3節の「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息さった。その日に神はすべての仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」という御言葉であります。
天地万物を創造なさった神は六日間に亘って仕事をなさいましたが、それですべてが完成されたのではないのです。2節後半にあるとおり、「第七日の日があって、そこで神はご自分の仕事を離れ、安息なさった」、そうしてこの第七の日を祝福され、聖なる特別な日として創られるのです。まさにこの日によって天地万物の創造の御業が完成されるのですね。
イスラエル(ヘブライ)の民が囚われのエジプトから救い出され神の民とされた時、あのモーセは十戒(出エジプト記20章)に、神をこそ神とすること。そしてこの「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(同6節)との戒めを授かるのでありますが。ここには「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日眼は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」とあります。イスラエルの民は長い歴史のどこにあっても、この安息日の戒めを守り行ってきたわけですが。
先週からずっとお話してきましたように、この詩編が編纂されたのは紀元前6世紀のバビロニアの捕囚以後であったとされていますけれども。そのバビロニア捕囚と南ユダ王国の崩壊の出来事は、民が神に背きの罪を繰り返し、悔い改めることがなかったために自ら招いたことでした。実に半世紀あまりも捕囚民としての日々を送らねばならなかった人たちが、その異教の地で守り通してきたこと。それが、主の民としての一致とその表明、その生活の基盤こそが「安息日を覚えてこれを守り、聖別する」。つまり主なる神に礼拝を捧げることでした。
その後彼らは、神の奇しき御業を経験します。具体的にはバビロニアをペルシャのキュロス王が支配することになり、遂に捕囚の身から解放されてエルサレムに帰還することが出来るようになるのです。
そこで主の民はここに歌われているように、「朝ごとに神の慈しみを、夜ごとに神のまことを述べ伝える。御名をほめ歌い、感謝をささげることがいかに楽しい」(2-3)ことか、それを味わい、「主よ、あなたは/御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います。主よ、御業はいかに大きく/御計らいはいかに深いことでしょう」(5-6)というような体験をした、と思うのですね。
私たちも緊急事態宣言下、礼拝を開くことが出来なくなった時、ほんとうに辛かったですね。寂しいとかいうのを通り越してしんどかったです。それが、礼拝の門が開かれた時にはまさにこの詩編のような喜び、楽しみに満たされました。もう閉じられることがないようにと、状況の回復を祈るばかりでありますが。
さて、この詩編は一方で、7-10節「愚かな者はそれを知ることなく/無知な者はそれを悟ろうとはしません(それをとは、主の御業の大きさ、御計らいの深さです)。(愚かにも)神に逆らう者が野の草のように茂り/(神の戒めを悟ろうとしない)悪を行う者が皆、花を咲かせるように見えても/永遠に滅ぼされてしまいます。主よ、あなたこそ、永遠に高くいます方。主よ、あなたに敵対する者は、必ず滅び/悪を行う者は皆、散らされて行きます」と歌います。
世の中を見れば酷い事件が日毎に起こり、不正や不義がはびこっているわけであります。自分の意のままにすべてが動かせ、為すことができる。極悪非道と申しましょうか、そういう人もいますが。詩人は10節で「主よ、あなたに敵対する者は、必ず/あなたに敵対する者は、必ず滅び」と歌っているそのことの中には、かつてイスラエルの民が神に逆らい、罪を犯し続けて滅びを招いたという自責の念と共に、もう二度と過ちを繰り返してはならないと、強く自らと後の世代を戒めているような気がいたします。
しかし先ほども申しましたように、異教の地の捕囚とされた人たちはそこでもう一度、自分たちが真に依って立って生きるその喜びと力の源を、「主なる神への礼拝」「主の安息を覚えて、聖別する」、そのところに見出していったのです。
神ならざるものを崇めていく世の中、その社会にあって、自からが何たるか、その存在意義(アイデンティティー)を生けるまことの神、無から有を創り出したもう創造の神に見出し、そのお方を礼拝すること。それが文字通り「安息」となっていくのです。神の憐みによって主の民として回復された感謝と喜び。その礼拝こそが安息なのです。心からの悔い改めと救いの喜び、感謝。これこそが神の御前における最善の捧げものでありましょう。
詩人はさらに、8-9節「神に逆らう者が野の草のように茂り/悪を行う者が皆、花を咲かすように見えても/永遠に滅ぼされてしまいます」と神の義に逆らうことの虚しさを訴えます。それと対照的に、13-14節では「神に従う人はナツメヤシのように茂り/レバノン杉のようにそびえます。主の家に植えられ/わたしたちの神の庭に茂ります」と歌っています。
今日の詩編92編と大変似ている歌を週報の表紙に載せました詩編1編であります。読み比べてみると共通点が多くございますが。
神に逆らう者、悪人の栄えは地の表面にしか茂らず、すぐに虚しく枯れはてる。神に従う人の栄えは草花とは違いナツメヤシのように葉と実が高いところにたわわにしげり、実って人を喜ばせます。レバノン杉もそうです。天までそびえるように、実にたくましく美しく育っていきます。そのよう神の家に植えられ、神の庭にとこしえに茂る人たちは幸いです。
15節で「白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし」と歌われているその恵みの素晴らしさ。まあ一般的に年老いていきますと、働くことも、行動することも、体調面においても衰えてきて、それに伴い人と出会ったり、交流を持つということがなかなか難しくなり、黄昏感や孤独感、寂しさや失望感を感じるようになっていくことも多いのではないでしょうか。
しかしこの詩人は「神に従って生きる人は、白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし」と歌うのです。この「なお実を結び」というのは、若い頃の生産性による実というのとは違うものです。その実は「命に溢れ、いきいきとし」としていると歌うのです。そのように、「喜び」「楽しみ」「生き甲斐」に溢れた生き様を示しています。
先週の礼拝でも、コヘレトの言葉12章1節「青春の日々こそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」との御言葉に触れましたが。年を重ねても、創造主を心に留め、主に従い生きる者はなお人生の実りを結び、命にあふれ、生き生きとしている。私自身、みなさまも又、きっとそのような人生でありたいと願っておられることでしょう。
私たちの教会では90歳を超えても信仰生活の現役の兄姉が5名いらっしゃいます。ある姉妹は一人で電車に乗り継いで1時間かけて毎週ほぼ欠かすことなく礼拝に出席なさっておられます。又、毎週の水曜日の祈祷会と日曜日の礼拝は欠かすことなく、「それが楽しみ」とおっしゃってご夫妻でお見えになられる兄弟がおられます。また、ケアハウスにて今外出が許されず、教会に行きたい。礼拝に出席したいという強い願いを持たれている姉妹もおられます。又、ご自宅で毎朝、教会とその兄弟姉妹のために祈って下さっている姉妹もおられます。90歳を超えても、神への熱い思いは、衰えるどころか益々燃えておられるのですね。あと80代、70代と続いておられますが。そのような兄姉から沢山の励ましをほんとうに頂き、私の信仰も燃やされています。
私たちキリスト者にとっての安息日は、この日曜の主の日であります。
あのイスラエルの民が奴隷の状態であったエジプトから、神の愛と憐みにより子羊の血を通ってあがなわれ救い出されて神の民とされたように私たちキリスト者もまた、世の力とからみつく罪に滅ぶほかない者を、主なる神は唯、愛と憐みにより御子イエス・キリストを私たちの救い主として世に遣わしくださり、御子、主イエスが十字架の血汐と御体を裂かれることによって、私たちの罪があがなわれ、罪の滅びから救い出してくださったのです。
さらに、主イエスはその十字架の死よりよみがえられたのです。それが日曜日であったことから、私たちキリスト者はこの日を主の日として覚え、この日を特別な日として取り分けて、喜びと感謝をもって礼拝を捧げているのです。それは誰かに強制されてなしているのではありません。捕囚時代のイスラエルの民がそうであったように、私たちも唯神の「慈しみ」と「まこと」に感謝と平安を覚えるからこそ、又望みを置いているからこそ、こうして礼拝に集っているのです。そしてさらに、私たちはこの世に生かされている者として、「神に国と神の義」に依って自らの立つところを確認するために「主の日」を特別に取り分けているのです。この主の日、聖霊の助けと導きを頂きつつ主にある兄弟姉妹、又新しく来られた方もご一緒に、主の御言葉、讃美、祈りと願い、ささげものを通して主に礼拝を捧げています。この地上では得難い魂の平安、安息に与って、ここから始まる新たな一週間を生きていくために必要な霊の油を溢れるほど注いで頂くためでもあるのです。
本日は詩編92編から御言葉を聞いてきました。
この詩人の賛歌から響いて来ますのは、神によって造られ、その深いご計画と慈しみによって生かされている私たちにとって、「最も幸いなことは何か」いうことであります。
詩人は3節「朝ごとに、あなたの慈しみを/夜ごとに、あなたのまことを述べ伝え」。5節「主よ、あなたは御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います」と主を賛美します。
神無き人生は虚しいものです。私たちの人生はどうでしょうか。わたしの神とつながり、祈り会話をし、立ち帰って新しくされて生きる人生は、日々「主の御業、御手の業を見、その慈しみとまことを知り」、感謝といのちに溢れ、白髪になってもなお実を結ぶ者とされるのです。
本日の宣教題を「優先順位」(プライオリティー)とつけさせて頂きました。私たちは何を大事にするかによってその生き方が変わってきます。お金や地位、名誉や賞賛を第一にする人はそのためにどうしたらよいかを考え行動します。しかしそういうものはこの世が移り変わればやがて失せ、無くなります。人生には必要なものがありますが、主イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と仰せになりました。
聖書は、すべてを御手のうちに治め、生きる者死ぬ者を統治なさる主なる神を知り、その神さまとの関係性に与って、「何よりもまず、神の国と神の義を求め」つつ生きようとする者に、最も幸いな恵み、祝福を与えてくださることを約束しています。この詩編92編で「いかに楽しいことでしょう。主に感謝をささげることは」と歌われていますように、すべての宝に勝る素晴しい救い主、いと高き安息日の主なるお方を第一とする確かな人生を共に歩み通してまいりましょう。それが私たちの「優先順位」(プライオリティー)となっていくことを求めつつ。