礼拝宣教 出エジプト3:1-15
先週は沖縄での3バプテストの牧師・牧師配偶者研修会に大阪教会から送り出していただきありがとうござました。研修会ではたいへん有意義な学びと交流の時が与えられました。私どもバプテスト連盟、又バプテスト同盟の方々、そして沖縄バプテスト連盟の方々と共に3日間を過ごしたわけですが。時間に追われるようなかなりのハードスケジュールでしたけれども、沖縄のエメラルドグリーンの海、美しい花々にはたいへんいやされました。一方、21日の大阪教会での賛美と証の礼拝については幾人かの方から、恵みゆたかな礼拝が捧げられたとの報告を伺い、嬉しくされました。
本日は、主がイスラエルの民をエジプトから導き出し、解放を与えるためモーセに使命をお与えになる「モーセの召命」の記事から御言葉をともに聞いていきます。
エジプトの王女の加護のもとヘブライ人の母に育てられたモーセは、大きくなると王女の子としてエジプト人の中で生活を送ります。けれどもモーセはその成長とともに自分がヘブライ人であることを強く意識するようになります。成人したモーセは、同胞のヘブライ人に関わる2つの出来事によってエジプトから逃亡することになるのです。
その一つは、意を決し同胞のところへ出て行ったモーセは、そこで同胞のヘブライ人がエジプト人から重労働を課せられている現状を目のあたりにするのでありますが、一人の同胞がエジプト人に打ち叩かれている現場に遭遇した時、モーセはそのエジプト人を自らの手で打ち殺し、砂に埋めて隠したのです。どんな理由であれ殺害が肯定されるものではありませんが。それはヘブライ人への強い思い入れがあったからでありましょう。
ところが翌日、もう一つの出来事が起こります。今度はヘブライ人同士が喧嘩をしているのをみかねたモーセが、「どうして自分の仲間を殴るのか」とたしなめたところ、「お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」とののしられてしまうのです。この予想もしなかった言葉に、モーセは大きなショックを受けます。彼らの苦しみを見かねてなした事が、逆に非難とののしりとなって跳ね返ってきたのです。この事はエジプトの王ファラオに知れるところとなりモーセは命を狙われます。
育てられたエジプト人からは命を狙われ、ヘブライ人からは同胞として受け入れられないというこの二つの出来事を通して、モーセはさらに「自分は一体何者なのか」という深い問いのもとで悩み苦しみ、ついにエジプトを逃亡するほかなかったのであります。
モーセはシナイ半島の南東部にあるミデアンの地へと流れ着くのでありますが。それは自分探しの旅といえるような計画的なものではなく、ただ今の現実から逃れるほかないさすらい人、寄留者のモーセであったのです。
モーセは不思議にもこの逃亡先ミデアンで、祭司レウエルとその娘ツィポラと出会い、結婚し、家庭を築き、ゲルショムという息子を得て、羊飼いとしてかの地で40年間過ごすのでありますが。その期間はモーセにとって心いやされる平穏な時であったことでしょう。
さて、そういった経緯を経て、先程読んで頂いた本日の3章の「主がモーセに出エジプトの使命を与える」箇所に至るのであります。
彼が羊の群を追って行き神の山と呼ばれるホレブに来た時、目の前に現れたのは燃えているのに「燃え尽きない柴」であります。それを見たモーセは「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう」と言って、日常の道をそれてその燃える柴に近づくのであります。今日こうして私たちも日常の生活を一時おいてこの礼拝に臨んでいるわけでございますが、
神さまはその柴の間からモーセの名を呼んで声をおかけになります。
モーセが「はい」と答えると主はその聖なることを示されモーセに、「わたしはあなた
の父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と語られます。
「わたしは何者か」というモーセの問いがここで「わたしはあなたの父の神である」、さらに「わたしはあなたの先祖の神である」という彼のルーツにまで遡って説き明かされるのですね。モーセの存在のルーツは祖先に与えられた神の契約にあったのです。その神さまと一対一で出会ったモーセの中に畏れの念が生じ、彼はついて「神の顔を見ることを恐れて顔を覆う」のであります。
7-8節で神さまは、御自身の意志と決意を次のようにお語りになります。
「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。」
神さまはここでイスラエルの民を「わたしの民」と呼んでおられわけですが、それは礼拝の冒頭で今日の招詞として申命記7章6-8節が読まれましたけれども。もう一度そこをお読みしますと、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛ゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」
神の民としての選びは、彼らに力があり数が多かったからではなく逆に貧弱であったからだ、というのです。その彼らを神さまは愛してやまなかった。この愛はヘブル語でヘセドと言い:「腸わたが引きちぎれんばかりの思いをもって」という意味です。貧弱であった彼らの痛みや苦しみを断腸の思いでお受けになり、愛する宝の民と呼んでくださる神さま。そこに神さまの愛の原点を読み取ることができます。
本日のところでも、神さまは「わたしの民の苦しみを見、叫び声を聞き、痛みを知った」と語られます。
そのことから思いますのは、モーセの前に現れたこの燃え尽きない柴は、神さまご自身の燃えるようなその愛がどんなに厳しい状況の中にあっても、又どんなに時を経ても決して燃え尽きることはない、という実に大きなお約束を象徴しているようであります。どのような時代の中でも燃え尽きることなく、貧しく小さくされた民の苦しみ、叫び、痛みを御自分のこととして感受し、寄り添い導き続けてくださる神さまのお姿をそこに見る事ができます。
さて、その神さまはモーセに、「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとへ遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と招かれます。
この神の召しに対して、モーセは「はい、わたしがまいります」とは言えず、「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さなければならないのですか」と答えるのであります。
先にも申しましたが、モーセはミデアンの地で身も心もいやされたとはいえ、わが子につけた「ゲルショム」;寄留者と名づけたように、自分は「異国にいる寄留者」であるという認識をモーセが持っていたことが伺えます。いまだ彼の脳裏には、「わたしは何者なのか」という葛藤といいますか、それはエジプトでの殺害事件や同胞のヘブライ人から見捨てられた事が記憶とともにずっと残っていたのです。
「わたしは何者しょう」「自分のような者がどうしてそのようなことができましょう」同胞からも信用されず、見捨てられたような者がどうして同胞を救い出す大任を果たし得るのか?彼はまったく自信を失っていました。それは同胞のヘブライ人のおかれた状況とその苦しみに負い目をもちながらも、どうすることもできない無力さを抱え続けてきたのからではないでしょうか。
そのようなモーセに対して神さまは、「あなたにその能力があるから」と、そんなことはおっしゃらないのですね。神さまはモーセがどうであるかという事には一つも触れず、ただ「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」とおっしゃるのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」。実はそれこそが「燃え尽きない柴」に顕わされた神さまのお約束であったのです。
すると、モーセは神に、「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります」と答えたというんですが。ただ、ここでモーセはイスラエルの人々が「わたしを遣わされた神についてその名前は」と問われた時、如何に答えたらよいでしょうか、と神さまに尋ねています。「神さまは何者でしょう」という問いがなされているんですね。
すると神さまはモーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」と、イスラエルの人々にこう言うがよい、とお答えになられます。
「わたしはある。あるという者だ」、口語訳では「あってある者」というお名前。それは「すべての存在を存在させうる者」という意味があるそうです。「わたしは何者でしょう」と、自分の存在、そのアイデンティティを見出し得なかっモーセにとって、この神さまの御名、その存在は、どんなにか力強いものだったでしょう。
モーセとってこの神さまとの出会いがなかったのなら、彼はおそらく自分の存在の根拠を見出すことなく、「自分の罪のうちに死んでいった」のではないでしょうか。彼を救い出し、生きる意味を与え立たしめたのは、「すべての存在を存在させ得る者」というお名前をもつ神さまが共にいるとおっしゃったそのお約束であったのです。
先にも触れましたが、モーセは父の神さま、さらに祖先の神との契約にあって自分のルーツを見出しましたが。さらに彼は「わたしは必ずあなたと共にいるという」約束のしるしによって「自分の存在意義」を確認したんですね。私たちはどうでしょうか。
「自分は何者か。」主イエス・キリストにおける神の新たな約束によって「神の宝の民」とされ、さらに主イエスの「わたしは世の終わりまであなた方と共にいる」との十字架の愛のしるしによって今、ここに存在し、生かされていることを今日もこの聖書から確認したいと思います。
最後に、先程Yさんから沖縄の研修から感じ取った事についてのお分ちがありました。
私はこの沖縄の地に足を運び、沖縄の教会の方やルワンダの和解のプロジェクトを実践されている佐々木さんのお話、又、ほんのわずかな時間でしたが辺野古のテント村への訪問やキャンプシュワブゲイト前の座り込みに合流しました。沖縄バプテスト連盟信愛バプテスト教会牧師の饒平名さんが講演で開口一番「沖縄を抜きにした平和論は、机上論に過ぎない」との言葉が強烈に私の中に残りました。佐々木さんからは「平和はみんなのもの。自分の平和と他者の平和は一つになっているか。そうでなければ平和とはいえない」という現地ルワンダの青年たちからの言葉をご紹介くださいました。沖縄についていえば、「日本が琉球王国を暴力によって略奪し、さらにサンフランシスコ講和条約では沖縄を日本から切り捨てた。未だに米軍の管理下のもとで沖縄に不条理と不平等を強いている。日米両国は沖縄の米軍基地に象徴される支配権と利権のために存在し続けているその沖縄の実体は琉球処分以来何も変っていない。沖縄の人たちを琉球人と日本人という二重の意識に追い込み、苦しめ、傷めつけてきた歴史、さらに今もそのようなことが繰り返されていることにどれだけ鈍感であったのかを思い知らされ、「自分は何者か」を問われました。
講演の最後に饒平名さんはこうしめくくられています。
「国家と神の国は、絶えざる緊張と抵抗関係にある。神の支配の実現の日・終末、国家は消滅する。強大な悪の力と戦いに(エフェソ6章10-18節)、時に意気消沈することもあるかもしれない。しかし、「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16章33節)
キリスト者は「キリストにあって、すでに勝利している。この終末的希望に生きるのが、キリスト者の生の実践である。辺野古の戦いは、すでに勝利している。神にのみ栄光あれ」とおっしゃったのです。
今後も、沖縄のことに関心をよせ、忘れずに、見守り、祈りながら、沖縄の方がたの思いに心を向け続けていきたいと思うものですが。同様に、ヌチドゥ宝。「いのちこそ宝」が、私たちの生きる世界、そのどのところにありましてもないがしろにされることがありませんように、人の苦しみをつぶさに見、叫び声を聞き、十字架の上でその痛みを知って下さった主イエスとともに祈り努める者でありたいと切に願います。祈ります。
先週は沖縄での3バプテストの牧師・牧師配偶者研修会に大阪教会から送り出していただきありがとうござました。研修会ではたいへん有意義な学びと交流の時が与えられました。私どもバプテスト連盟、又バプテスト同盟の方々、そして沖縄バプテスト連盟の方々と共に3日間を過ごしたわけですが。時間に追われるようなかなりのハードスケジュールでしたけれども、沖縄のエメラルドグリーンの海、美しい花々にはたいへんいやされました。一方、21日の大阪教会での賛美と証の礼拝については幾人かの方から、恵みゆたかな礼拝が捧げられたとの報告を伺い、嬉しくされました。
本日は、主がイスラエルの民をエジプトから導き出し、解放を与えるためモーセに使命をお与えになる「モーセの召命」の記事から御言葉をともに聞いていきます。
エジプトの王女の加護のもとヘブライ人の母に育てられたモーセは、大きくなると王女の子としてエジプト人の中で生活を送ります。けれどもモーセはその成長とともに自分がヘブライ人であることを強く意識するようになります。成人したモーセは、同胞のヘブライ人に関わる2つの出来事によってエジプトから逃亡することになるのです。
その一つは、意を決し同胞のところへ出て行ったモーセは、そこで同胞のヘブライ人がエジプト人から重労働を課せられている現状を目のあたりにするのでありますが、一人の同胞がエジプト人に打ち叩かれている現場に遭遇した時、モーセはそのエジプト人を自らの手で打ち殺し、砂に埋めて隠したのです。どんな理由であれ殺害が肯定されるものではありませんが。それはヘブライ人への強い思い入れがあったからでありましょう。
ところが翌日、もう一つの出来事が起こります。今度はヘブライ人同士が喧嘩をしているのをみかねたモーセが、「どうして自分の仲間を殴るのか」とたしなめたところ、「お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」とののしられてしまうのです。この予想もしなかった言葉に、モーセは大きなショックを受けます。彼らの苦しみを見かねてなした事が、逆に非難とののしりとなって跳ね返ってきたのです。この事はエジプトの王ファラオに知れるところとなりモーセは命を狙われます。
育てられたエジプト人からは命を狙われ、ヘブライ人からは同胞として受け入れられないというこの二つの出来事を通して、モーセはさらに「自分は一体何者なのか」という深い問いのもとで悩み苦しみ、ついにエジプトを逃亡するほかなかったのであります。
モーセはシナイ半島の南東部にあるミデアンの地へと流れ着くのでありますが。それは自分探しの旅といえるような計画的なものではなく、ただ今の現実から逃れるほかないさすらい人、寄留者のモーセであったのです。
モーセは不思議にもこの逃亡先ミデアンで、祭司レウエルとその娘ツィポラと出会い、結婚し、家庭を築き、ゲルショムという息子を得て、羊飼いとしてかの地で40年間過ごすのでありますが。その期間はモーセにとって心いやされる平穏な時であったことでしょう。
さて、そういった経緯を経て、先程読んで頂いた本日の3章の「主がモーセに出エジプトの使命を与える」箇所に至るのであります。
彼が羊の群を追って行き神の山と呼ばれるホレブに来た時、目の前に現れたのは燃えているのに「燃え尽きない柴」であります。それを見たモーセは「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう」と言って、日常の道をそれてその燃える柴に近づくのであります。今日こうして私たちも日常の生活を一時おいてこの礼拝に臨んでいるわけでございますが、
神さまはその柴の間からモーセの名を呼んで声をおかけになります。
モーセが「はい」と答えると主はその聖なることを示されモーセに、「わたしはあなた
の父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と語られます。
「わたしは何者か」というモーセの問いがここで「わたしはあなたの父の神である」、さらに「わたしはあなたの先祖の神である」という彼のルーツにまで遡って説き明かされるのですね。モーセの存在のルーツは祖先に与えられた神の契約にあったのです。その神さまと一対一で出会ったモーセの中に畏れの念が生じ、彼はついて「神の顔を見ることを恐れて顔を覆う」のであります。
7-8節で神さまは、御自身の意志と決意を次のようにお語りになります。
「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。」
神さまはここでイスラエルの民を「わたしの民」と呼んでおられわけですが、それは礼拝の冒頭で今日の招詞として申命記7章6-8節が読まれましたけれども。もう一度そこをお読みしますと、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛ゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」
神の民としての選びは、彼らに力があり数が多かったからではなく逆に貧弱であったからだ、というのです。その彼らを神さまは愛してやまなかった。この愛はヘブル語でヘセドと言い:「腸わたが引きちぎれんばかりの思いをもって」という意味です。貧弱であった彼らの痛みや苦しみを断腸の思いでお受けになり、愛する宝の民と呼んでくださる神さま。そこに神さまの愛の原点を読み取ることができます。
本日のところでも、神さまは「わたしの民の苦しみを見、叫び声を聞き、痛みを知った」と語られます。
そのことから思いますのは、モーセの前に現れたこの燃え尽きない柴は、神さまご自身の燃えるようなその愛がどんなに厳しい状況の中にあっても、又どんなに時を経ても決して燃え尽きることはない、という実に大きなお約束を象徴しているようであります。どのような時代の中でも燃え尽きることなく、貧しく小さくされた民の苦しみ、叫び、痛みを御自分のこととして感受し、寄り添い導き続けてくださる神さまのお姿をそこに見る事ができます。
さて、その神さまはモーセに、「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとへ遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と招かれます。
この神の召しに対して、モーセは「はい、わたしがまいります」とは言えず、「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さなければならないのですか」と答えるのであります。
先にも申しましたが、モーセはミデアンの地で身も心もいやされたとはいえ、わが子につけた「ゲルショム」;寄留者と名づけたように、自分は「異国にいる寄留者」であるという認識をモーセが持っていたことが伺えます。いまだ彼の脳裏には、「わたしは何者なのか」という葛藤といいますか、それはエジプトでの殺害事件や同胞のヘブライ人から見捨てられた事が記憶とともにずっと残っていたのです。
「わたしは何者しょう」「自分のような者がどうしてそのようなことができましょう」同胞からも信用されず、見捨てられたような者がどうして同胞を救い出す大任を果たし得るのか?彼はまったく自信を失っていました。それは同胞のヘブライ人のおかれた状況とその苦しみに負い目をもちながらも、どうすることもできない無力さを抱え続けてきたのからではないでしょうか。
そのようなモーセに対して神さまは、「あなたにその能力があるから」と、そんなことはおっしゃらないのですね。神さまはモーセがどうであるかという事には一つも触れず、ただ「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」とおっしゃるのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」。実はそれこそが「燃え尽きない柴」に顕わされた神さまのお約束であったのです。
すると、モーセは神に、「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります」と答えたというんですが。ただ、ここでモーセはイスラエルの人々が「わたしを遣わされた神についてその名前は」と問われた時、如何に答えたらよいでしょうか、と神さまに尋ねています。「神さまは何者でしょう」という問いがなされているんですね。
すると神さまはモーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」と、イスラエルの人々にこう言うがよい、とお答えになられます。
「わたしはある。あるという者だ」、口語訳では「あってある者」というお名前。それは「すべての存在を存在させうる者」という意味があるそうです。「わたしは何者でしょう」と、自分の存在、そのアイデンティティを見出し得なかっモーセにとって、この神さまの御名、その存在は、どんなにか力強いものだったでしょう。
モーセとってこの神さまとの出会いがなかったのなら、彼はおそらく自分の存在の根拠を見出すことなく、「自分の罪のうちに死んでいった」のではないでしょうか。彼を救い出し、生きる意味を与え立たしめたのは、「すべての存在を存在させ得る者」というお名前をもつ神さまが共にいるとおっしゃったそのお約束であったのです。
先にも触れましたが、モーセは父の神さま、さらに祖先の神との契約にあって自分のルーツを見出しましたが。さらに彼は「わたしは必ずあなたと共にいるという」約束のしるしによって「自分の存在意義」を確認したんですね。私たちはどうでしょうか。
「自分は何者か。」主イエス・キリストにおける神の新たな約束によって「神の宝の民」とされ、さらに主イエスの「わたしは世の終わりまであなた方と共にいる」との十字架の愛のしるしによって今、ここに存在し、生かされていることを今日もこの聖書から確認したいと思います。
最後に、先程Yさんから沖縄の研修から感じ取った事についてのお分ちがありました。
私はこの沖縄の地に足を運び、沖縄の教会の方やルワンダの和解のプロジェクトを実践されている佐々木さんのお話、又、ほんのわずかな時間でしたが辺野古のテント村への訪問やキャンプシュワブゲイト前の座り込みに合流しました。沖縄バプテスト連盟信愛バプテスト教会牧師の饒平名さんが講演で開口一番「沖縄を抜きにした平和論は、机上論に過ぎない」との言葉が強烈に私の中に残りました。佐々木さんからは「平和はみんなのもの。自分の平和と他者の平和は一つになっているか。そうでなければ平和とはいえない」という現地ルワンダの青年たちからの言葉をご紹介くださいました。沖縄についていえば、「日本が琉球王国を暴力によって略奪し、さらにサンフランシスコ講和条約では沖縄を日本から切り捨てた。未だに米軍の管理下のもとで沖縄に不条理と不平等を強いている。日米両国は沖縄の米軍基地に象徴される支配権と利権のために存在し続けているその沖縄の実体は琉球処分以来何も変っていない。沖縄の人たちを琉球人と日本人という二重の意識に追い込み、苦しめ、傷めつけてきた歴史、さらに今もそのようなことが繰り返されていることにどれだけ鈍感であったのかを思い知らされ、「自分は何者か」を問われました。
講演の最後に饒平名さんはこうしめくくられています。
「国家と神の国は、絶えざる緊張と抵抗関係にある。神の支配の実現の日・終末、国家は消滅する。強大な悪の力と戦いに(エフェソ6章10-18節)、時に意気消沈することもあるかもしれない。しかし、「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16章33節)
キリスト者は「キリストにあって、すでに勝利している。この終末的希望に生きるのが、キリスト者の生の実践である。辺野古の戦いは、すでに勝利している。神にのみ栄光あれ」とおっしゃったのです。
今後も、沖縄のことに関心をよせ、忘れずに、見守り、祈りながら、沖縄の方がたの思いに心を向け続けていきたいと思うものですが。同様に、ヌチドゥ宝。「いのちこそ宝」が、私たちの生きる世界、そのどのところにありましてもないがしろにされることがありませんように、人の苦しみをつぶさに見、叫び声を聞き、十字架の上でその痛みを知って下さった主イエスとともに祈り努める者でありたいと切に願います。祈ります。