宣教 創世記4章1~16節
① 神へのささげもの
ここでどうしても疑問に思えるのは、主が「兄カインのささげものには目を留められず、弟アベルのささげものに目を留められた」という点であります。まるで謎解きのようですが。両者は農作物か、動物によるささげものかいう違いはあっても、とりたててそれが良かったとか悪かったとかは何も触れられていません。まあここを読む限りにおいて、アベルは羊の群れの中から初子をまずささげたという点が尊く、カインは土の実りをただささげた、としかないのでカインは例えば古い小麦をささげたなどと考えることも可能でしょう。聖書は初ものなど自分にとって最善と思えるものをささげることで、神への感謝と献身を表すように勧めています。実際アベルは大事に飼っている羊の群の中から初めて母の胎を出た肥えた小羊を選んでささげて主に喜ばれたのです。でもカインのささげものについては、それがどんなものであったか、土の実りである以外分かりません。
ただ、6節のところでカインは主から、「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」と問われているのですね。
祈祷会の聖書の学びの時に、「カインはなぜここで主に対して私のささげものをどうして受け入れてくださらないのですかと言わなかったのでしょうかね」という意見が出されました。そうですよね。自分が心から主にささげものをなしていたのなら、主に顔を上げて「主よ、なぜですか。どうして私のものは受け入れて下さらないのですか」と率直に尋ねることができたのではないでしょうか。ところがカインは主に顔を伏せたままであったというのです。ということは、カインは自分のささげものについて、何らかの負い目があったということでしょう。主は人のささげものをなす姿勢をご覧になっておられるのです。
② 兄弟殺し
この物語は聖書に初めて出てくる人に対する大罪、聖書がいわゆる人類史上最初の殺人事件を記したものであり、それも「兄弟殺し」であったということであります。しかもここをよく注意して読みますと、この事件はいわゆる当事者たちが神から離れた状態にいたときに起こったのではなく、神にささげものをなした時に起こったということであります。罪が忍び込み、このような事態が生じたという事を、聖書は真にショッキングな形で伝えているのであります。この事は私たちに何を語ろうとしているのでしょうか?
旧約聖書の中で知られる兄弟の記事はいくつかございます。例えばヤコブとエサウの物語。ヤコブはエサウから祝福を騙し取りエサウは怒りと妬みでヤコブを殺そうとします。又サムエル記にはアムノンとアブサロムという兄弟がおり、ここでは弟アブサロムが兄アムノンに復讐し殺害します。新約聖書にも、兄弟と神との間にある問題を取り扱った放蕩息子のお話があります。このお話では兄はカインのような形で弟を殺害していませんが、彼は殺人者と同じ状態に立ちました。弟が家に帰って来た時、兄は妬みに燃え家に入ろうとはしませんでした。この兄に罪が待ち受けていたのです。兄は弟との関係だけでなく、見えざるところで既に父との関係が損なわれていたのです。まあこのように旧新約聖書の記事から見えてきますことは、兄弟と神との間にある関係は密接につながっているということであります。
先週、創世記3章からアダムとエバの物語を読みましたが。いずれも、神と人とのゆがんだ関係は人と人との不義の関係を映し出し、又人と人との不義の関係は神とのゆがんだ関係を映し出しているのであります。
この物語は、私たちが、兄弟姉妹としておかれている中において、こうした罪による関係のゆがみが起こり得るということを示しているのであります。カインは主の「お前の弟アベルはどこにいるのか」との問いかけに対し、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と答えています。3章では主は罪の状態にあるアダムに、「あなたはどこにいるのか」と問いかけられましたが。それはご自身の前から迷い出た者への呼びかけです。カインにも同様に、どうして顔を伏せるのか?と呼びかけられました。それは神さまと人との関係性についての問いかけです。しかしこの4章での問いかけは、もはや「あなたはどこにいるのか」ではなく、「あなたの兄弟はどこにいるのか」であります。主はここで兄弟とのつながりを問うておられるのです。それに対してカインは「知りません」と主に嘘をつき、「わたしは弟の番人でしょうか」と口ごたえします。主は、カインに問いかけることを通して、「ごめんなさい」「お許しください」との罪の告白と悔い改めの機会を与えておられるのです。しかしカインはそれに逆らい、その機会を逸してしまうのです。
そこで主はカインに、「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる」といわれます。いわば裁きの宣告がなされるのであります。
さて、この主の宣告に対してカインはやっと我に返ったのでしょうか。恐れおののきながら、自分の犯した過ちについて主に次のように告白します。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」。
カインは弟アベルを殺めた負い目をもち続け、命を狙われながら、地上をさまよい、さすらう者となったのであります。後にカインがエデンの東のノドの地に住むことになりますが、このノドとは「さすらい」という意味がありました。つまり、さすらいの地で彼は生涯を送らなければならなくなったのです。けれどもそのノドの地は地獄ではありません。それは実に私たちが生きるこの現実の世界を指しているといえます。
仏教では人間には生・老・病・死の4つの苦しみがあると教えていますように、人の現実には生きていく苦しみ、老いていく苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみがあります。それはノド、さまよい・さすらう人生に違いありません。しかしながら聖書は、その苦しみ自体に苦しみがあるのではなく、神の不在、兄弟姉妹の不在に、その神と人との関係性の不在に、苦しみの根源があると説いています。カインは13節のところで「わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば云々」と意味じくも言っているように、一番の苦しみは、神が御顔を隠されること。神の不在にこそ、苦しみの根源があるのです。
③ カインのしるし
自らの怖しい罪を自覚したカインでありますが、主は罪の縄目に怯え、苦しむカインに言われます。「カインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう」。
そうしてカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた、というのであります。詩編50編14節につぎのようなみ言葉がございます。「告白を神のいけにえとしてささげ、いと高き神に満願のささげものをせよ。それからわたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう」。どのようなささげものにもまして、主の前に罪を認め立ち帰ることは、主の憐れみと救いの基となるのです。
それにしましても実際にこの「カインに付けられたしるし」とは何であったのでしょうか?
果たして手や足に、額に何かのしるしがつけられたのか?想像もつきませんが。まあそういうことよりも、「いつもカインが主に対して自分は罪深い者である」ということを忘れず、気づかせるようなものであったのではないでしょうか。それはまた、この出来事を伝え聞き、そのしるしを目にする人が、人の弱さ、罪深さを思い起こすそのようなしるしとなったのではないでしょうか。私どもにとりましても、自らの罪深さと共に救いを思い起こさせるもの、それはまぎれもなく主イエスの十字架であります。
私ども人間はみなカインの子孫であります。人との関係の中で優劣を付け、ある時は高ぶり、ある時は卑下して落ち込み、妬み、さげすむそんな罪の縄目からなかなか自由になれず、自分を又人を傷つけてしまうような者であります。そして私どもは、この私のうちにもっている罪こそが神の独り子イエス・キリストを十字架につけて殺したのだという気づきと、神の御前における悔い改めをもって御前に立つ者であります。主はカインに救済のしるしをお与えになったように、私どもにも救いのしるしを与えてくださいました。カインのしるしは一生彼が「罪人」であるということを自分に分からせるものであったと共に、カインのいのちを守るためのしるしとなりました。
私どもに付けられた主のしるしとは何でしょうか。それはイエス・キリストの十字架こそがそのしるしであります。私どもは常にその主イエスの死を救いとして身に帯びて生きているのであります。私どもは、主イエスの十字架の御前に立たされてゆく時、主の深い憐れみと赦しのもとに、心からの悔い改めとこの世では決して得られない聖霊によるいやしと平安を戴くのであります。そして十字架のキリストにおける神との和解は、人と人との和解をも促し、もたらしてくれるはずです。
本日は「カインのしるし」という宣教題を与えられましたが、真に私ども一人ひとりが主の御前にいで、十字架の主による和解を戴き、兄弟姉妹共どもに主の礼拝にあずかる者とされたいと願います。
① 神へのささげもの
ここでどうしても疑問に思えるのは、主が「兄カインのささげものには目を留められず、弟アベルのささげものに目を留められた」という点であります。まるで謎解きのようですが。両者は農作物か、動物によるささげものかいう違いはあっても、とりたててそれが良かったとか悪かったとかは何も触れられていません。まあここを読む限りにおいて、アベルは羊の群れの中から初子をまずささげたという点が尊く、カインは土の実りをただささげた、としかないのでカインは例えば古い小麦をささげたなどと考えることも可能でしょう。聖書は初ものなど自分にとって最善と思えるものをささげることで、神への感謝と献身を表すように勧めています。実際アベルは大事に飼っている羊の群の中から初めて母の胎を出た肥えた小羊を選んでささげて主に喜ばれたのです。でもカインのささげものについては、それがどんなものであったか、土の実りである以外分かりません。
ただ、6節のところでカインは主から、「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」と問われているのですね。
祈祷会の聖書の学びの時に、「カインはなぜここで主に対して私のささげものをどうして受け入れてくださらないのですかと言わなかったのでしょうかね」という意見が出されました。そうですよね。自分が心から主にささげものをなしていたのなら、主に顔を上げて「主よ、なぜですか。どうして私のものは受け入れて下さらないのですか」と率直に尋ねることができたのではないでしょうか。ところがカインは主に顔を伏せたままであったというのです。ということは、カインは自分のささげものについて、何らかの負い目があったということでしょう。主は人のささげものをなす姿勢をご覧になっておられるのです。
② 兄弟殺し
この物語は聖書に初めて出てくる人に対する大罪、聖書がいわゆる人類史上最初の殺人事件を記したものであり、それも「兄弟殺し」であったということであります。しかもここをよく注意して読みますと、この事件はいわゆる当事者たちが神から離れた状態にいたときに起こったのではなく、神にささげものをなした時に起こったということであります。罪が忍び込み、このような事態が生じたという事を、聖書は真にショッキングな形で伝えているのであります。この事は私たちに何を語ろうとしているのでしょうか?
旧約聖書の中で知られる兄弟の記事はいくつかございます。例えばヤコブとエサウの物語。ヤコブはエサウから祝福を騙し取りエサウは怒りと妬みでヤコブを殺そうとします。又サムエル記にはアムノンとアブサロムという兄弟がおり、ここでは弟アブサロムが兄アムノンに復讐し殺害します。新約聖書にも、兄弟と神との間にある問題を取り扱った放蕩息子のお話があります。このお話では兄はカインのような形で弟を殺害していませんが、彼は殺人者と同じ状態に立ちました。弟が家に帰って来た時、兄は妬みに燃え家に入ろうとはしませんでした。この兄に罪が待ち受けていたのです。兄は弟との関係だけでなく、見えざるところで既に父との関係が損なわれていたのです。まあこのように旧新約聖書の記事から見えてきますことは、兄弟と神との間にある関係は密接につながっているということであります。
先週、創世記3章からアダムとエバの物語を読みましたが。いずれも、神と人とのゆがんだ関係は人と人との不義の関係を映し出し、又人と人との不義の関係は神とのゆがんだ関係を映し出しているのであります。
この物語は、私たちが、兄弟姉妹としておかれている中において、こうした罪による関係のゆがみが起こり得るということを示しているのであります。カインは主の「お前の弟アベルはどこにいるのか」との問いかけに対し、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と答えています。3章では主は罪の状態にあるアダムに、「あなたはどこにいるのか」と問いかけられましたが。それはご自身の前から迷い出た者への呼びかけです。カインにも同様に、どうして顔を伏せるのか?と呼びかけられました。それは神さまと人との関係性についての問いかけです。しかしこの4章での問いかけは、もはや「あなたはどこにいるのか」ではなく、「あなたの兄弟はどこにいるのか」であります。主はここで兄弟とのつながりを問うておられるのです。それに対してカインは「知りません」と主に嘘をつき、「わたしは弟の番人でしょうか」と口ごたえします。主は、カインに問いかけることを通して、「ごめんなさい」「お許しください」との罪の告白と悔い改めの機会を与えておられるのです。しかしカインはそれに逆らい、その機会を逸してしまうのです。
そこで主はカインに、「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる」といわれます。いわば裁きの宣告がなされるのであります。
さて、この主の宣告に対してカインはやっと我に返ったのでしょうか。恐れおののきながら、自分の犯した過ちについて主に次のように告白します。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」。
カインは弟アベルを殺めた負い目をもち続け、命を狙われながら、地上をさまよい、さすらう者となったのであります。後にカインがエデンの東のノドの地に住むことになりますが、このノドとは「さすらい」という意味がありました。つまり、さすらいの地で彼は生涯を送らなければならなくなったのです。けれどもそのノドの地は地獄ではありません。それは実に私たちが生きるこの現実の世界を指しているといえます。
仏教では人間には生・老・病・死の4つの苦しみがあると教えていますように、人の現実には生きていく苦しみ、老いていく苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみがあります。それはノド、さまよい・さすらう人生に違いありません。しかしながら聖書は、その苦しみ自体に苦しみがあるのではなく、神の不在、兄弟姉妹の不在に、その神と人との関係性の不在に、苦しみの根源があると説いています。カインは13節のところで「わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば云々」と意味じくも言っているように、一番の苦しみは、神が御顔を隠されること。神の不在にこそ、苦しみの根源があるのです。
③ カインのしるし
自らの怖しい罪を自覚したカインでありますが、主は罪の縄目に怯え、苦しむカインに言われます。「カインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう」。
そうしてカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた、というのであります。詩編50編14節につぎのようなみ言葉がございます。「告白を神のいけにえとしてささげ、いと高き神に満願のささげものをせよ。それからわたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう」。どのようなささげものにもまして、主の前に罪を認め立ち帰ることは、主の憐れみと救いの基となるのです。
それにしましても実際にこの「カインに付けられたしるし」とは何であったのでしょうか?
果たして手や足に、額に何かのしるしがつけられたのか?想像もつきませんが。まあそういうことよりも、「いつもカインが主に対して自分は罪深い者である」ということを忘れず、気づかせるようなものであったのではないでしょうか。それはまた、この出来事を伝え聞き、そのしるしを目にする人が、人の弱さ、罪深さを思い起こすそのようなしるしとなったのではないでしょうか。私どもにとりましても、自らの罪深さと共に救いを思い起こさせるもの、それはまぎれもなく主イエスの十字架であります。
私ども人間はみなカインの子孫であります。人との関係の中で優劣を付け、ある時は高ぶり、ある時は卑下して落ち込み、妬み、さげすむそんな罪の縄目からなかなか自由になれず、自分を又人を傷つけてしまうような者であります。そして私どもは、この私のうちにもっている罪こそが神の独り子イエス・キリストを十字架につけて殺したのだという気づきと、神の御前における悔い改めをもって御前に立つ者であります。主はカインに救済のしるしをお与えになったように、私どもにも救いのしるしを与えてくださいました。カインのしるしは一生彼が「罪人」であるということを自分に分からせるものであったと共に、カインのいのちを守るためのしるしとなりました。
私どもに付けられた主のしるしとは何でしょうか。それはイエス・キリストの十字架こそがそのしるしであります。私どもは常にその主イエスの死を救いとして身に帯びて生きているのであります。私どもは、主イエスの十字架の御前に立たされてゆく時、主の深い憐れみと赦しのもとに、心からの悔い改めとこの世では決して得られない聖霊によるいやしと平安を戴くのであります。そして十字架のキリストにおける神との和解は、人と人との和解をも促し、もたらしてくれるはずです。
本日は「カインのしるし」という宣教題を与えられましたが、真に私ども一人ひとりが主の御前にいで、十字架の主による和解を戴き、兄弟姉妹共どもに主の礼拝にあずかる者とされたいと願います。