日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

カインのしるし

2011-05-29 07:25:51 | メッセージ
宣教 創世記4章1~16節 

① 神へのささげもの
ここでどうしても疑問に思えるのは、主が「兄カインのささげものには目を留められず、弟アベルのささげものに目を留められた」という点であります。まるで謎解きのようですが。両者は農作物か、動物によるささげものかいう違いはあっても、とりたててそれが良かったとか悪かったとかは何も触れられていません。まあここを読む限りにおいて、アベルは羊の群れの中から初子をまずささげたという点が尊く、カインは土の実りをただささげた、としかないのでカインは例えば古い小麦をささげたなどと考えることも可能でしょう。聖書は初ものなど自分にとって最善と思えるものをささげることで、神への感謝と献身を表すように勧めています。実際アベルは大事に飼っている羊の群の中から初めて母の胎を出た肥えた小羊を選んでささげて主に喜ばれたのです。でもカインのささげものについては、それがどんなものであったか、土の実りである以外分かりません。
ただ、6節のところでカインは主から、「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」と問われているのですね。
祈祷会の聖書の学びの時に、「カインはなぜここで主に対して私のささげものをどうして受け入れてくださらないのですかと言わなかったのでしょうかね」という意見が出されました。そうですよね。自分が心から主にささげものをなしていたのなら、主に顔を上げて「主よ、なぜですか。どうして私のものは受け入れて下さらないのですか」と率直に尋ねることができたのではないでしょうか。ところがカインは主に顔を伏せたままであったというのです。ということは、カインは自分のささげものについて、何らかの負い目があったということでしょう。主は人のささげものをなす姿勢をご覧になっておられるのです。

② 兄弟殺し
この物語は聖書に初めて出てくる人に対する大罪、聖書がいわゆる人類史上最初の殺人事件を記したものであり、それも「兄弟殺し」であったということであります。しかもここをよく注意して読みますと、この事件はいわゆる当事者たちが神から離れた状態にいたときに起こったのではなく、神にささげものをなした時に起こったということであります。罪が忍び込み、このような事態が生じたという事を、聖書は真にショッキングな形で伝えているのであります。この事は私たちに何を語ろうとしているのでしょうか?

旧約聖書の中で知られる兄弟の記事はいくつかございます。例えばヤコブとエサウの物語。ヤコブはエサウから祝福を騙し取りエサウは怒りと妬みでヤコブを殺そうとします。又サムエル記にはアムノンとアブサロムという兄弟がおり、ここでは弟アブサロムが兄アムノンに復讐し殺害します。新約聖書にも、兄弟と神との間にある問題を取り扱った放蕩息子のお話があります。このお話では兄はカインのような形で弟を殺害していませんが、彼は殺人者と同じ状態に立ちました。弟が家に帰って来た時、兄は妬みに燃え家に入ろうとはしませんでした。この兄に罪が待ち受けていたのです。兄は弟との関係だけでなく、見えざるところで既に父との関係が損なわれていたのです。まあこのように旧新約聖書の記事から見えてきますことは、兄弟と神との間にある関係は密接につながっているということであります。
先週、創世記3章からアダムとエバの物語を読みましたが。いずれも、神と人とのゆがんだ関係は人と人との不義の関係を映し出し、又人と人との不義の関係は神とのゆがんだ関係を映し出しているのであります。

この物語は、私たちが、兄弟姉妹としておかれている中において、こうした罪による関係のゆがみが起こり得るということを示しているのであります。カインは主の「お前の弟アベルはどこにいるのか」との問いかけに対し、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と答えています。3章では主は罪の状態にあるアダムに、「あなたはどこにいるのか」と問いかけられましたが。それはご自身の前から迷い出た者への呼びかけです。カインにも同様に、どうして顔を伏せるのか?と呼びかけられました。それは神さまと人との関係性についての問いかけです。しかしこの4章での問いかけは、もはや「あなたはどこにいるのか」ではなく、「あなたの兄弟はどこにいるのか」であります。主はここで兄弟とのつながりを問うておられるのです。それに対してカインは「知りません」と主に嘘をつき、「わたしは弟の番人でしょうか」と口ごたえします。主は、カインに問いかけることを通して、「ごめんなさい」「お許しください」との罪の告白と悔い改めの機会を与えておられるのです。しかしカインはそれに逆らい、その機会を逸してしまうのです。
そこで主はカインに、「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる」といわれます。いわば裁きの宣告がなされるのであります。

さて、この主の宣告に対してカインはやっと我に返ったのでしょうか。恐れおののきながら、自分の犯した過ちについて主に次のように告白します。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」。
カインは弟アベルを殺めた負い目をもち続け、命を狙われながら、地上をさまよい、さすらう者となったのであります。後にカインがエデンの東のノドの地に住むことになりますが、このノドとは「さすらい」という意味がありました。つまり、さすらいの地で彼は生涯を送らなければならなくなったのです。けれどもそのノドの地は地獄ではありません。それは実に私たちが生きるこの現実の世界を指しているといえます。
仏教では人間には生・老・病・死の4つの苦しみがあると教えていますように、人の現実には生きていく苦しみ、老いていく苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみがあります。それはノド、さまよい・さすらう人生に違いありません。しかしながら聖書は、その苦しみ自体に苦しみがあるのではなく、神の不在、兄弟姉妹の不在に、その神と人との関係性の不在に、苦しみの根源があると説いています。カインは13節のところで「わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば云々」と意味じくも言っているように、一番の苦しみは、神が御顔を隠されること。神の不在にこそ、苦しみの根源があるのです。

③ カインのしるし
自らの怖しい罪を自覚したカインでありますが、主は罪の縄目に怯え、苦しむカインに言われます。「カインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう」。
そうしてカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた、というのであります。詩編50編14節につぎのようなみ言葉がございます。「告白を神のいけにえとしてささげ、いと高き神に満願のささげものをせよ。それからわたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう」。どのようなささげものにもまして、主の前に罪を認め立ち帰ることは、主の憐れみと救いの基となるのです。
それにしましても実際にこの「カインに付けられたしるし」とは何であったのでしょうか?
果たして手や足に、額に何かのしるしがつけられたのか?想像もつきませんが。まあそういうことよりも、「いつもカインが主に対して自分は罪深い者である」ということを忘れず、気づかせるようなものであったのではないでしょうか。それはまた、この出来事を伝え聞き、そのしるしを目にする人が、人の弱さ、罪深さを思い起こすそのようなしるしとなったのではないでしょうか。私どもにとりましても、自らの罪深さと共に救いを思い起こさせるもの、それはまぎれもなく主イエスの十字架であります。

私ども人間はみなカインの子孫であります。人との関係の中で優劣を付け、ある時は高ぶり、ある時は卑下して落ち込み、妬み、さげすむそんな罪の縄目からなかなか自由になれず、自分を又人を傷つけてしまうような者であります。そして私どもは、この私のうちにもっている罪こそが神の独り子イエス・キリストを十字架につけて殺したのだという気づきと、神の御前における悔い改めをもって御前に立つ者であります。主はカインに救済のしるしをお与えになったように、私どもにも救いのしるしを与えてくださいました。カインのしるしは一生彼が「罪人」であるということを自分に分からせるものであったと共に、カインのいのちを守るためのしるしとなりました。
私どもに付けられた主のしるしとは何でしょうか。それはイエス・キリストの十字架こそがそのしるしであります。私どもは常にその主イエスの死を救いとして身に帯びて生きているのであります。私どもは、主イエスの十字架の御前に立たされてゆく時、主の深い憐れみと赦しのもとに、心からの悔い改めとこの世では決して得られない聖霊によるいやしと平安を戴くのであります。そして十字架のキリストにおける神との和解は、人と人との和解をも促し、もたらしてくれるはずです。
本日は「カインのしるし」という宣教題を与えられましたが、真に私ども一人ひとりが主の御前にいで、十字架の主による和解を戴き、兄弟姉妹共どもに主の礼拝にあずかる者とされたいと願います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

罪の誘惑~私の蛇

2011-05-22 07:05:46 | メッセージ
宣教 創世記3章1~13節 

2章のエデンの園において、神が「人が独りでいるのは良くない。彼らに合う助ける者を造ろう」と男と女をふさわしい助ける者として造られたところを読みました。神と人との関係に加え、人と人との関係が創造されたのです。本日は創世記3章から「罪の誘惑」と題して、み言葉を聞いていきたいと思いますが。その神と人、人と人との関係に一体何が起こったのでしょうか?
 
この個所を読みますと、女を罪へといざなったのは蛇であったとあります。蛇は自在に体の形を変えて動き回る能力をもち、生命力の強い生き物です。それで古代から蛇はよく信仰崇拝の対象となっていました。蛇は脱皮をしますが。それをよみがえりになぞらえて、強く賢いだけでなく、不死の生き物として崇められてもきました。又世界各地には蛇を食べる習慣があり、絶大な力のもち主にあやかるという意味があるそうです。蛇革のバックや財布やアクセサリーは単なるファッションではなく、蛇のもつ力にあやかるという崇拝行為を表しているという事らしいのです。蛇がすべての生き物のうちで最も賢かったとありますが。まあ蛇がどういった意味で賢かったのかは分かりませんが。ともかくそれが女であるエバに話しかけます。

4節で蛇は女に「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」と誘いました。それは2章16節17節「主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると死んでしまう」」との神のみ言葉に対する挑戦であります。

この時のエデンには死もなく、神の完全な守りと平安が満ちあふれていたことでしょう。そこには食べて余りある食糧もあり、人として何不自由なく生きる世界があったのです。けれども私は多少ひねくれた見方でこのエデンにおかれた彼らのことを考えてみました。
人は何もかも整った環境を与えられ、受けるばかりの中に置かれてしまいますと、その尊い恩恵が恵みであることを忘れ、気づかなくなってしまうということです。そうして恵みに満ちた日々は平凡で飽きたりた毎日となり、感謝なき心はやがて不満をつのらせていきます。そして遂に魔が差すというようなことが起こり得るのです。こうして人は神が「これを食べたら死んでしまう」とまで命じられたものに手を伸ばすことになってしまうのです。そのような事を思いますと、人は本当に弱く、もろいものだと言わざるを得ません。

ところで祈祷会の時に、この蛇とは一体何ものか?ということが話題にのぼりました。
蛇は神の造られた生き物にすぎません。これは一つの象徴です。それをサタンという人もいるでしょう。まあキリスト教会の中には、自分と対立し、敵対する者を平気でサタン呼ばわりして、裁き合い、傷つけたりして教会内に分裂が生じることも起こっていますが。
蛇は人ではありません。蛇でしかないのです。しかしこの「蛇とは何か」ということを私たちが問うことは大事なことです。それは先ほど申しましたように、神と人との特別な関係を妬み、その仲を引き裂こうとする悪意です。又、神の思いではなく自我の思いを優先させようとする高慢です。それは神と人との関係を壊そうとする存在です。祈祷会の聖書の学びで示されたのは、この蛇がアダムとエバの思考のうちに入り込んだ、正確にいえば彼らも蛇を快く受け入れたということでありま。そのような蛇に象徴される力、悪意や高慢は人間のうちに働きかけ、住みつき働くということであります。

さて、アダムは神の「取って食べるなと命じた木から食べたのか」との問いかけに対してこう答えます。12節「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」。自分が悪かったということよりも、女が勧めたのでと弁解し、女に責任を転嫁します。何だか汚職疑惑の政治家が「秘書がやりました、私は知りません」といっているのとおんなじような感じですが。そして女も又、13節「蛇がだましたので」と、弁解し責任逃れをしています。
これはどうでしょうか、私たちのうちにも彼らと同様の思いが潜んでいるのではないでしょうか。素直に犯した過ちや失敗を認めるのは損をする愚かなことだとするような風潮が当然のように現代の社会にあるわけですが。一緒に痛みや重荷を負い合うのではなく、何とか自分だけは傷つかないで、守ろうとする思いや自己を正当化しようとする感情が働いたということであります。聖書はよく人の姿、本質をあぶり出しています。

このアダムは、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が・・云々」と弁明しながら、そもそもの原因は神さまあなたにあると言い訳しているのです。神と人との信頼関係が損なわれ、人と人の関係も損なわれてしまう。そこで人は本来与えられた祝福を見失ってしまうのです。アダムにとって神は祝福を与えて下さるお方でした。エバはその祝福を分かち合い、喜び合う存在として神が与えて下さったパートナーです。逆に裁き合い、責任をなすり合うのなら、本来の祝福は遠ざかってしまいます。

最後に、彼らが木の実を食べると「二人の目が開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」とあります。
2章のところでは二人は裸であったわけで、お互い裸であることは見えていた事になります。では、この二人の目が開いたとは何を言っているのでしょうか。
それは互いの心のうちに「恥ずかしい」という意識が生じたということです。それは罪の自覚が生じたということでもあります。これは確かに賢くなったとも言えるかも知れませんが、問題は罪の自覚が生じたところに不義を犯す思いも生じてしまったということです。
赤ちゃんには羞恥心はありません。二人は神の御心から逸れてしまうまでは、共に無垢な存在であったといえましょう。すべて神のみ心のうちに生きるところに喜びと楽しみが伴ったことでしょう。エデンの園の原型がここにあります。
ところが罪の自覚が生じ、自分の中に義人とはとても言い得ない部分があることが分かって、恥ずかしくなり、うしろめたくなって、いちじくの葉なんかでとりつくろい、神のみ顔を避けて、身を隠してしまうのです。神と人、人と人の関係が損なわれ、歪んでしまったからです。それが初めの人アダムとエバから続く人の姿であります。

それではもう、その損なわれた関係はもはや元に戻らないのか、修復不可能なのでしょうか?私たちはもう二度とエデンの園に帰れないのでしょうか?新約聖書はその神と人の関係のゆがみの修復、関係の回復は、神の独り子・イエス・キリストを通して与えられたと記されております。先ほどT兄より転入会の証しをお聞きしましたが。その中に放蕩息子のお話が出てきましたけど。放蕩の限りを尽くしていわばどん底に落ちてしまった時、弟はこう告白しました。「父の家には、あんなに食べ物がある」。父の家。それは私たちに「エデンの園」を連想させます。人はもはや自力で喜びと楽しみの楽園・エデンに戻ることはできませんが、主イエスによって神のもとへ、父の家へと立ち帰っていく道が備えられたのであります。問題の解決は主なる神のもとから逃れること、身を隠すことではありません。罪のあるまま、足らざるまま、そのままの姿で主なる神さまと「向き合うところ」にあります。
人として生きる上で罪を犯さずにいることはある意味不可能なことです。だからこそ、罪人であることを認め、十字架の贖いの主イエスのもとにあって赦されて生きる喜びと平安が必要なのです。十字架と復活の主イエスが、私たちの真の助け主、真の友として、私たちの孤独や不安を自らのこととして担われ、神さまとの和解の道、天の平安、永遠の命を授けてくださっておられるのです。
その昔、神はアダムとエバに皮の衣を作って着せられエデンの園を追放されました。
しかし今や信仰によって罪を覆う義の衣としてイエス・キリストを着せられ、父の家へと招き入れてくださるのです。エデンの園・喜びと楽しみのパラダイスに通じる道。この救いの道を共にあゆんでまいりましょう。今週もこのみ言葉から頂く祝福を携えて、人と人の間に遣わされてまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

独りでは生きられない

2011-05-15 07:15:43 | メッセージ
宣教  創世記2章18~25節

神は人を「生きる者」としてお造りになった後、エデンの園に住まわせられます。
エデンとは、へブル語で「楽しみ」「喜び」という意味があります。ギリシャ語では「パラダイス」(楽園;ルカ23:43)と言います。エデンには、人が生きる喜びや楽しみがありました。4つの川に通じ肥沃な地、豊かな鉱物や食べ物があり、多くの生き物がいたエデン。神は人をそのエデンの園に住まわせ、そこを耕し、守るようにされたのです。そのように初めの人アダムには、エデンで土を耕し、守っていくという仕事があり、その報酬としては余りある程の食物がありました。
ところが、主なる神さまは、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われます。それは人が食べ物や仕事などによっては支えられないもの、根源的な孤独があったからです。
そこで神は人を造られたように、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来られて、人がそれぞれに名をつけて呼ぶのをご覧になられますが、「人がそれらのうちに自分に合う助ける者を見つけることはできなかった」とあります。
ではなぜ、神さまご自身が直接助ける者とはなられなかったのでしょうか。もちろん神さまは私たち人間を助けて下さるお方であります。しかしここにある「助ける者」、それは同伴者や相棒、仲間という意味を持ちます。実にそのような助け手が人には必要なのだと神さまはお考えになられたということです。そのような助け手は野の獣や、空の鳥たちでも、又神さまですらなかったのです。神は具体的な人に合う助ける者をお造りになられて、出会わされるのであります。そこで21節22節、「主なる神は、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた」というのです。

ここで注目したいのは、神は他の生き物のように土のちりからではなく、人のあばら骨の一部から女を造られたということであります。それは土ではなく、「人を介して」助ける者を造られたのであります。なぜあばら骨からだったのか、頭や手足の骨であってもよかったのではないかとも思いますが。古くからあばら骨のある胸には「愛情の宿るところがある」とか「魂のやどるところがある」と信じられていたからです。神はその胸のあばら骨の一部を抜き取って女を造り上げられ、人に合う(ふさわしい)助ける者として、彼に出会わされたというのであります。それは、人には心の楽しみや喜びを、又労苦や悲しみといった感情を分かち合うことのできる存在、そういった助ける者が必要であるということを表しています。又、ここをただ表面的に読んで、女は男の一部から造られた。だから女は男に劣る、服従するというような考え方。又逆に、女が男の一部から造られたなんてこれは女性蔑視の考え方だとするのも、これはどちらも間違ったものであります。
確かに助ける者(ヘルパー)といえば、手伝いとか助手のような響きがあり、助ける側と助けられる側といった定まった関係を思いがちです。しかし、ここで主がおっしゃった「助ける者」とは、ただ「~してあげる」「~してもらう」というような上下の関係や従属の関係ではなく、仕え合い、支え合う相互の関係としての助け手が必要だという事であります。

同じ2章に「人は土の塵で形づくられた」と記されています。それは弱く、もろいものであるということであり、「独りでは生きられない」存在であります。「いや私は強いから大丈夫、自信がある、人の世話になんかならん。自分で生きていける」という人、又「何でも自分でできるから」という人も世の中にはおられるかも知れませんが。しかしそういうものではありません。どんなに強気で生きていても、病や突然の事故はいつ起こるか分かりません。自分独りではどうすることもできないような状況になって初めて、結局は人の世話にならざるを得ないことを知らされるのです。
「人は独りでは生きられない」。そのことを最初にお気づきになったのは神さまでありました。そこで神は助ける者、すなわち同伴者、相棒、仲間をお与えくださった。それが本日のメッセージであります。

1995年の阪神大震災でご自分の尊い家族を犠牲にされた被災者の方が、震災後の当時のことを振り返りながらおっしゃっていました。「そこで自分の心を支えてくれたのは、他人のような人が自分のことを覚え、支えてくれたという「人と人の絆」だった」と。
東日本大震災から2カ月を迎えますが、被災されて家族や家を失われた方々が自ら被災者の方々を励まし、支えておられたり、又、阪神大震災を経験した方々が、東北の被災地を訪れて支援される光景が新聞やテレビで伝えられています。

聖書は人の創造に際し、土のちりから造られたと伝えます。肉体的にも精神的にも人がいかにもろく、弱い者であるかということです。しかし神は「人は独りでいるのは良くない。
彼に合う助ける者を造ろう」とおっしゃって、弱さやもろさをもつ人が互いに励まし、支え合うための友、パートナーをお造りになられたのであります。人はみな草のように弱く、やがては枯れていくはかない存在です。だからこそ、その弱く、もろい者同士が互いにつながっていけたらどんなに人生は豊かで、有意義なものとなるでしょう。

25節のところに、「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」とありますが。自分がしんどい時やサポートが必要な時に、助けてほしい、祈ってほしいということを、恥ずかしがらず言い合えるってことはとても大切なことだと思います。そういった声をあげられるような、又その声に応えられるような間柄、関係があると、どんなに嬉しく、心強いでしょうか。
そのようになっていくには、自分も又、助け手を必要とする弱く、欠けたる面の多い「人間」であることを自覚することです。又人の弱さも責めたりもの笑いしないことが、本当に必要なことです。この「恥ずかしがりはしなかった」とは、互いが、まず神からかけがえのない作品として愛のうちに造られた者であるということを認め合っていたからです。弱さを恥じ、隠すこともありません。しんどい時は、苦しい時は「助けてほしい」「祈ってほしい」と互いに言い合い、引き受け合える関係が大切なのです。主にあってそういった関係を祈りつつ、これからも作っていきましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神の創造世界

2011-05-08 06:52:37 | メッセージ
宣教 創世記1章1~3節、26節~31節  

これから3カ月の予定で創世記からみ言葉を聞いてまいります。
科学者によれば、「150億年前の宇宙の誕生から今日までを1年として見るなら、宇宙カレンダーという概念では、人類の歴史は12月31日の最後の10秒に過ぎない」ということです。これは如何に人間の歴史や個々の人生の時間が宇宙的にみれば微々たるものであるかということ。創世記が神の天地創造完成までに6日かかったというのも不思議で興味深いことであります。その1日のもっている意味は宇宙カレンダーでは計りがたい「神の時」という暦の中での創造であったことでしょう。新約聖書のペトロ第二の手紙3章8節にも「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」と記されている通りです。そのように私どもの命や人生は実に限られたものであります。しかしながら、この宇宙全体から見れば極々限られた時間、小さな人の命を神は祝福されたと聖書は記しているのです。

① 初めに
ユダヤ教の正典でありますヘブライ語の旧約聖書は、創世記に「ベレーシート」というタイトルがつけられています。それは1章1節の「初めに神は天と地を創造された」とあるこの「初めに(ベレーシート)」という言葉から取られたものだということであります。
では、なぜユダヤの人々は「初めに」(ベレーシート)ということにこだわったのでしょう。そもそもユダヤ教の正典であるヘブル語訳旧約聖書は、紀元前6世紀頃、バビロニア帝国に敗れ捕囚のとなった人びとによって編纂されたものです。

2節に「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」と記されています。これはエルサレムが滅び、国を奪われ、家族も財産も失い、イスラエルの民もバビロンの捕囚として散らされしてしまうというまさに混沌とした中、又先の見えない闇のような中でなされた労作でした。「神はどこにおられるのか?」「救いはどこにあるのか?」「私たちは一体何者なのか?」「何のために生きているのか?」というような問いの中で創世記は編纂されていったということです。それは今一度自分たちのアイデンティティー、自分が何もので、何によって立っているのかという存在そのものの意味を確認する作業であり、人として最も根源的な問いに対する答えを模索していく作業であったのです。

私たちはそれぞれの人生の歩みの中で、「初心に帰るとか」「ふりだしに戻ってとか」「ゼロから再出発」という事を口にすることがあります。物事が順調にいっている時は、そんなことを考えることもありませんが。何かが崩れてしまった時、何かを失った時、行き詰まった時、先の見通しがつかなくなった時、そして悲しみの中で、苦しみの中で、「初め」のことに思いを馳せることがあります。混沌とした状況、先の見えない闇の中におかれた状況のもとで、「初めに」ということを意識する時、人は今一度、生きる力を取戻すことが出来るでしょう。

さて、同じ2節に「神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」こうして、光があった」と記されています。ここに実は人間の最も深いところで与えられた答えがあるのです。
ユダヤの人びとにとって、国が滅び、民族が離散してバラバラになり、すべてがゼロになってしまったと思えるような状況で、しかし、神は滅ぶままにはなさらない。水もまた混沌を意味する言葉でありますが、神がその水のうえを覆いかぶさるようにして滅びの勢いをせき止められて、光をお造りになって闇を照らし出される。そこに希望の「光」が示されています。4節を読むと、「神が光と闇を分けられた」との記載がありますが。これは、神が「もはやここまで、これ以上は闇の勢力が及ぶことを許されない」ようにされたということであります。創世記は「初めに」ということを大事にしているということを申しあげましたが。「初めに、神が天地万物を創造された」。そこにすべての始まり、根源があると聖書は語りかけています。混沌とした、闇が深淵の面にあるような中に、「光あれ」と言葉を発し、世界を新しく創造される方がおられる。み手のみ業が織り成される。これが聖書全体を貫く希望のメッセージとして、まず聖書の一番初めに示されているのであります。

今、日本はあの未曾有の震災による災害と、現実とは思い難い原発事故の危機を前にして、文明の力、経済力、人間の知恵や知識ももはや及びもつかないような状況にあります。あのどこまでも続く膨大な瓦礫の山と、建屋が吹っ飛び無残な姿で放射能をまき散らす原発の姿。あれを混沌と言わずして何でありましょう。
「長い歴史を経て、人間世界の発展と繁栄によってこれらの自然災害に打ち勝つ防具を手に入れたものの、時代はまわります。今度は、薬品や核物質、電磁波等等、人間の営みが生み出したある意味での「地の産物」に人間が支配され、振り回され、命が脅かされる時代となってしまいました。私たちは再び、本当の意味で「地を治める」ことを真剣に求める時代を迎えているのだと思います。」(聖書教育4~6月号 P.87引用)

今、日本に住む多くの人々も又、このような事態の中で、「人は一体何ものなのか?」「何のために存在するのか?」というような根源的な問いかけに対する答えを暗中模索しているのではないでしょうか。

水曜日の祈祷会に、元教会員の姉が出席されました。京都に用事があったそうですが、大阪教会の皆さんに震災の被災地石巻へ救援物資を送って戴いたお礼が言いたいということで立ち寄られました。皆様に宜しくお伝えくださいということでした。そしてこの創世記の箇所と震災に遭遇された自らの体験を重ね合わせながら、姉は「神さまが人を造られたのは、人が生きるように造られた」。「生きよ」。それが人の本能であり、それを「実感」したとおっしゃっていました。とても重たい言葉でありますが、被災地の人たちが真に生きようとしている思いと姿が伝わってきました。

今日の世界情勢や日本の状況を見ますと、先行きが見通せない、又いつ何が起こるか分からないといった不安と恐れに覆われた時代であることを私たちはそれぞれに実感しながら過ごしているのではないでしょうか。確かに聖書は終末について触れております。しかしそれは、映画や小説にあるような世界の滅亡といった世の終わりのことではありません。それは様々な多くの試練や苦難を経ながらもなおも、その究極には、「神は見捨てられない」「どこまでも共におられる」との命の初めである方への確信と平安がある。聖書が示すのは、終末の恐怖ではなく、終末の「希望」であります。真の創造主を知り、救いの約束を胸に、主と共に在る掛け替えのない命の日々を、やがて地上の歩みを終える日が訪れても、それは主と相見える喜びの始まりの日であるのです。だからこそ、私たちの「初め」なる真の創造主を知り、信じて生きる者は、この地上にある限り、創造主のみ思いに応えて精一杯「生きる」のであります。

②神の創造世界と人間
「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。神は御自分にかたどって人を創造された。」(26~27節)
ここには私たち人間は神に似せて造られたというまことに驚くべきこと、畏れ多いことが書かれています。この神はヘブライ語で「エル・ヒム」と「我々」と複数形で表されております。それを聞きますと「神は唯一というのに他にも多くの神々がいるとか」「八百万の神々」というようなものを連想されるかも知れません。そういうことではないのです。それは、世界中には今や80億以上ですか、どれくらいの人がおられるのか正確には分かりませんが。天地創造の神は、実にその一人ひとりを掛け替えのない存在として、生きた交わりを持たれる神であられる。その一人ひとりの神として存在なさるお方であられるということであります。だからこそ、その一人ひとりは本当に尊い存在であり、その人がその人として創造されたまさに「神の作品」であるということであります。ですから、聖書はそのわたしに、あなたに、掛け替えのないその命と与えられた時を、「生きよ」とエールを送っているのであります。
神の似姿として創造された私たちは今一度、本当に人間らしい生き方とはどのようなものか、ということを創造主の御前にあって、「初めに立ち帰り」それを「再び見出していく者」とならねばなりません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主イエスの復活

2011-05-01 07:32:58 | メッセージ
イースター宣教 マルコ16章1~8節   

「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。』(6節)
主イエスの復活・イースターおめでとうございます。死に打ち勝たれたイエスさまは、墓の中におられませんでした。主イエスはよみがえられ、生きておられるのです。

聖書は主イエスの復活の出来事が「朝ごく早い」夜明けに起こったと語ります。冬から春に向かう時期は、一日一日夜明けの時刻がだんだんと早くなってまいります。私たちの教会には早起きをされる方々が何人もおられますけども。夜明けの光景は自然の中でも、又都会の眠っている部屋でも経験しますように、それまで真暗だったその所が、いつの間にか明るくなってきて、やがて陽が臨み、光が射し込んでまいります。そして人口の電灯やあかりはもはや意味がなくなり不要になります。主イエスの復活はこのような夜明けに起こりました。暗い闇の中にいますと人は不安になり、怖れを持ちます。そこで電灯やあかりをつけて周囲を照らして不安や怖れを一時的にしのいでいこうとします。
私どもの人生にとって最大の闇といいますか、不安や怖れ、それは「死」ということでありしょう。怪我や病気もそうですが、まったく未知のものであるという点においては、「死」への不安や怖れを強く抱いて生きています。今日はその「死」に打ち勝ち、よみがえられた主イエスの復活の記事から思いを深めたいと願っております。

旧約の時代、安息日(礼拝の日)といえば、金曜日の日没から土曜日の日没でしたが。
キリスト教会では、このイースター以降日曜日に礼拝を捧げることになりました。それは、何よりも日曜日にイエスさまが主として死よりよみがえられ、死に勝利された記念日だからです。キリスト教会が日曜日に礼拝するということは、週の始まりにイエスさまを救い主としてお迎えし、このすべ治めておられる主を第一とし、その主の豊かな恵みに与って生きるということであります。それは世では決して得ることの出来ない魂の安息の日であります。

「復活の記事」はこのマルコの他にもマタイ、ルカ、ヨハネの福音書すべてに記載されており、すべてイエスが埋葬された墓を舞台にしています。又、主イエスの復活の知らせを聞いたのはイエスの弟子たちではなく、女性たちであったというのも共通しています。
他の福音書等とあわせて読めば、少なくとも6名以上の女性たちがイエスの埋葬された墓に行ったと考えられるそうです。
マルコ福音書では3人の女性が墓に向かいます。イエスが捕えられ処刑されるとき弟子たちは逃げましたが、この女性たちは遠くからイエスの最期を見守り続けた人たちです。
そしてイエスの遺体が埋葬された後も、ずっとその場所を見つめていたと記されています。この女性たちはある意味では弟子たちよりも強い意志をもって、イエスさまを慕い続けていたといえます。

週の初めの日曜日の夜明けに、3人の女性たちは「誰が墓の入り口をふさいでいる大きな石を転がしてくれるのだろうか」と話し合いながら、イエスの遺体が埋葬された墓に向かうのであります。ところが、その墓の入り口に着くと、「大きな石は既にわきへ転がしてあった」というのです。彼女たちはまずこの事実に大変驚いたことでしょう。
当時のお墓は、岩を掘った横穴に大きな円盤状の石を立て掛けるようにして蓋がされていました。女性たちは男数人がかりで石を転がし封印する様と、見張りの兵士が決してそれを開ける者がないよう番をしているのを見ていたからです。ともかく女性たちは墓の中に入り、イエスの遺体を捜そうとして目をこらすと、「白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、彼女たちはひどく驚いた」とあります。この若者がきていたとされる「白い長い衣」は、終末の聖なるみ使いや聖徒が象徴されているとも言われます。非常に大きな石がすでに転がされていた驚き、さらにそこにそのような出で立ちの見た事もない若者が座っていたというのですから。ひどく驚いたのも当然のことであったでしょう。

そして、この白い長い衣を着た若者が女性たちにこう言います。
6,7節、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』」。

女性たちは、以前イエスさまが受難を受け、三日目によみがえると言われたことを聞いていましたが、それはただ不気味な言葉、謎のような言葉としてしか響いていなかったようです。そのことよりも、この女性たちにはこの世のものとも思えぬ若者の出現と埋葬された場所にイエスの遺体がないという事実を間の当たりにしたことへの衝撃があまりに大きく、「墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた」というのですね。彼女らはあまりのショックに若者から聞いたことを「誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と、このように聖書は記しています。

例えば他のマタイ福音書には、婦人たちは「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走っていった」(28:8)と記されているのですが。このマルコ福音書はこういった形で唐突に復活の記事が終っているのです。結びとして続きがありますが、これは後になって付け加えられた部分とされていますので、やはりマルコの記事は一応ここで終わっているんですね。

しかしそこに私は、この福音書を書いたマルコの記者としての誠実さを見る気がします。女性たちはイエスの受難と死、又イエスの遺体がどこかへ消えてしまったという現実を前に悲嘆にくれ、不思議な若者の言葉になす術もなく震え上がり、もはやこれらの事をどう理解したらよいのか分からなくなってしまったのです。マルコ福音書の記者はその現実を大事に扱い、人間の嘆き、又先の見えない不安や怖れをありのまま伝えているのです。

私はこれらの事を心に留め黙想する時、「震災で被災されている方々」のことが重なって見えてくるのです。想像もつかない恐ろしい出来事。家族や最愛の人を失われた方。いまだ行方不明であられる方。何とか捜索がなされせめて遺体であっても見つかって欲しいと切に願っておられる方がたがおられます。先が見えず悲嘆にくれる日々。私たちも又、主を信じ生きる者として、これらの出来事に対する疑問を内からも、外からも投げかけられます。「なぜ」「どうしてこのようなことが」という問いを前に、私たちもあの女性たちのように、成す術もなく、沈黙する他ありません。それが人の側の現実であります。もし人がそれに勝手な解釈を加えたりするなら、それはおごりと見なされるでしょう。ただ祈り、執り成すことだけが私たちの答え得るところです。

しかしその無力さの中で、私たちはあの天の声を聞くのであります。
『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、言われたとおり、そこでお目にかかれる』。辺境の地ガリラヤ、そこはかつて弟子たちが主イエスと出会われた場所であり、日常と人々の苦悩、人生の悲しみや喜びが交差する生活の場であります。差別や偏見、貧しさや隔たりの中で、一日一日を精一杯生きようとする人びとの住むところ。主イエスは弟子たちに「そこで会おう」と言われるのです。このみ使いである若者の言葉は今日登場する女性たちには理解しがたいものがあったことでしょう。しかし復活なさった主イエスはこの女性たちに先立って「ガリラヤへ行かれた」のであります。
若者はさらに「弟子たちとペトロ」と、あえてペトロを名指ししていますが。それはその時ぺトロが深い絶望の淵に陥っていたからです。イエスを3度も知らないと言い放って否定したふがいなさ、罪深さに自分を責め続けていたペトロに、「わたしたちのガリラヤで待っているよ」と伝言されたのです。それはこの女性たち、又ペトロにとっても、ガリラヤからそれぞれの新しい歩みがまた新たに始まることを表しているのです。

聖書は、イエスさまの遺体は墓になかったと伝えます。私たちは例外なくやがては死にゆくものです。けれども主イエスの十字架と復活を信じる者の魂は墓に葬り去られることはありません。やがては天の国において主と相見えるとの復活の希望が与えられているのです。そこで、主を信じてこの世を去った者はみな再び、相まみえるのです。主イエスが復活されたこのイースターは、主を信じる者にとって、死から復活する希望を戴いている約束の記念の日であることを心から感謝しつつ祝いましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする