日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主がお入り用なのです

2018-02-25 15:24:43 | メッセージ

礼拝宣教 マルコ11・1-11 レント・受難節Ⅲ

「十字架への道・苦難の道」

27日よりイエスさまが神の御心に従い全人類の御救いのために歩まれた受難の道をおぼえるレント、受難節を過ごしておりますが。

本日は、イエスさまがいよいよ十字架を前にしてエルサレムに入られる場面であります。

主はこのエルサレムで最後の一週間を過ごされるのです。劇団四季による主イエスの最後の7日間・ジーザスクライストスパースターエルサレムバージョンのミュージカル公演が先週の火曜日から今日まで大阪で行なわれているそうですが。

このエルサレム入場からの出来事は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書すべてに記されていますが、特に今日のマルコの福音書は、全体の三分の一がその7日間の記事になっています。記者のマルコはそれだけ、イエスさまの十字架への道のりがいかに重要であるかを示しているのですね。

 

イエスさまはこれまで弟子たちにご自分が「祭司長たちや律法学者たちに引き渡される」ことを伝えてこられました。「彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」と三度に亘り、ご自身の苦難と死、そして復活について予告しておられたのです。

このエルサレム入場からまさに全世界の歴史が大きく2つに分けられる、すなわちキリスト以前、キリスト以後という神の救いの業が成し遂げられていくのですね。

 

「先立ち備えたもう主の御業」

さて、主イエスさまはそのエルサレムに入られる際して、2人の弟子たちに「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい」と言われます。

弟子たちには、どうしてイエスさまがそれをご存じなんだろう、そんな役に立たない子ろばなんか連れて来てどうなさるだろう、と疑問を持ったのではないかと思うのですが。けれどイエスさまは、その子ろばの用途や使用目的については何もおっしゃらず、ただ連れてきなさい、と言われるだけです。

そして「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入りようなのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」と弟子たちに言われるんですね。

そこで二人の弟子たちは、イエスさまの言われるまま出かけて行きますと、おっしゃったとおり子ろばを見つけたので、これも言われたとおりつないであるのをほどくのであります。

まあ、弟子たちはイエスさまのお申し付けとはいえ、そんな人様の家畜を勝手にほどいて連れてくるなんて大丈夫かな、泥棒と言われかねないんじゃないか、という思いもあったのではないでしょうか。

 

案の定、彼らが子ろばをほどいたとき、そこに居合わせたある人々、ルカ福音書では持ち主たちとありますから共同で使うため飼われていたのでしょうが、人々から「その子ろばをほどいてどうするのか」と言われてしまいます。

弟子たちにとって大変緊張する場面だったと思うのですが。まあそこで、二人の弟子たちはイエスさまから予め指示されていたとおり、「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」と話しますと、子ろばを連れて行くのを許してくれたというのです。すべてはイエスさまが言われたとおりだったのです。

二人の弟子たちは、イエスさまのご計画通りに行動してみたら、御言葉どおりにそれは用意されていたということです。それを実際に体験するのですね。

 

私たちは時々、何か起こされて来ることに関わるようになったとき、本当に大丈夫かな。周りはどう言うかなあ、理解を得られるだろうかなどという心配がわいて来ることもあると思います。そこで大事なのは、主の教えと導き、つまり御心によってなされることであるなら、主が自ら準備をしていて下さる。この二人の弟子が体験したように、主がおっしゃった通りだという人知を超えた神の御業を見ることができる、ということであります。世間や周りにとらわれることなく、主とそのお言葉に従い行く、信仰の人生でありたいと願います。

 

「子ろばに乗る王」

さて、イエスさまはエルサレムに入られるにあたり弟子たちがほどいて連れて来た子ろばに乗られます。ろばを連れてきた弟子たちはよもや、イエスさまがこのような特別な場面に、この子ろばをお用いになるなどとは驚きだったのではないでしょうか。

イエスさまは勇ましく神々しい白馬や軍馬に乗ってではなく、「まだ誰も乗ったことのないそんな小さな子ろば」をお用いになり、それに乗ってエルサレムに入場なさるんですね。イエスさまはそのことによって、ご自分がどういうお方であるかをお示しになられたのです。

ろばは、荷物や人を運んだり農耕などに用いられていました。いわば人と一緒に働く動物です。私は幼い頃親に動物園に連れていってもらうと、「ろば」の背に乗せてもらいコースをゆっくり一周するのが楽しみでしたが。人と同じくらいの目線ですから、威圧感もなくて、ほのぼのとした感じがしますよね。どこか頼りないようで、わりとどっしりしているのがろばという動物だと思います。

一方馬は、聖書の時代も戦いの時や権力者が力を示すために用いられる動物です。私はこれも小さいときテレビで暴れん坊将軍が好きでよく観たものですが、白馬に乗っていましたね。馬は古来より、権力や武力の強さの象徴です。世の将軍や王が子ろばに乗って入場行進すれば、なんともみすぼらしく見え、王位にふさわしくないというのが世の考えでしょう。

ところが、イエスさまがお生まれになるざっと200年から300年くらい前でしょうか。旧約聖書のゼカリヤ書9章9節には、来るべき王、メシアの到来の折の様子がこう預言されているのです。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」。口語訳聖書では「柔和であって、ろばに乗る」となっていますが。

それは戦乱の世の政治的にも社会的にも権力や強い指導力が求められる時勢にあって、このような預言が語られていたと思うと、ほんとうに驚くばかりですが。

それはさらにユダヤの民のみならず、全世界を救うお方、来たるべき王、メシアとして来られた方が、まさに、このゼカリヤ書の預言どおり、世の力や権力を象徴する軍馬にではなく、子ろばに乗って柔和なお方としてエルサレムに入られるのであります。

そのようにしてイエスさまは自らの力によるのではなく、神のご計画に従い、十字架の道をあゆまれる。それをして神の御救が成し遂げられるのです。

 

「主がお入り用なのです」

神さまは、勇ましく格好のよい立派な馬ではなく、子ろばという小さい存在を必要とされました。まだだれも乗ったことのない、人を乗せたりする経験もなく、役に立つのだろうかと周りが心配するような子ろばを、「主はお入り用」、必要となさるのです。

「主がお入り用なのです」。それは私たちにも向けられる招きのお言葉ではないでしょうか。

主は私たちが何か経験が豊富だからとか、出来るとか、持っているから用いられるのではなく、御自身が子ろばのようなそんな小さい私たちを愛してやまなかったがゆえあえて選ばれ、用いられた。私たちはそんな主の愛に励まされされながら、それぞれの人生において、主に用いていただきましょう。

 

「何を第一とするか」

さて、イエスさまが子ろばに乗ると、多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷きます。そして、前を行く者も後に従う者もこう叫びます。「ホサナ。主の名によって来られた方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」。

このホサナは直訳すると「今、救ってください」という意味です。又、ユダヤのお祭りの礼拝の折にこの「ホサナ」を何度も繰り返し叫び歓呼したことから。「ホサナ」は祈りと歓呼の二つの意味を持つ言葉となっていくのです。

このエルサレムの周辺にいた民衆の多くは、かつてユダヤ、イスラエルの民が奴隷の状態から解放されたことを思い起こしつつ、イエスこそ「ホサナ」と叫び、歓呼したのです。

ユダヤの人々はずっと自分たちを助け守ってくれる新しい王さまを待っていました。強く力をもった王様なら、周りの国をその力と権力を示して、解放してくれるだろう、と思っていました。

 

しかしイエスさまは、ユダヤの人たちが思い描いていた王様ではありません。

この後のことを少し触れますと。イエスさまが自分たちが期待とは異なり、官憲に逮捕され苦難に遭われると、手のひらを返したように、人々は怒り、イエスさまを「十字架につけろ」と叫ぶ側になってしまうのです。

「ホサナ」「ホサナ」と祈り叫び、歓呼し、祭りのように迎えたこの場面。これを一つの礼拝としてみるなら、礼拝するということは「自分に都合のいいことを神さまにお願いする」ことではないということです。礼拝するということは「神さまを第一とする」ということです。もっといえば神の御心に最後まで聞き従い続けたイエスさま、それは人々に裏切られても、なおそんな裏切る人々を愛し抜き、罪を贖うために、十字架の道をひたすらまっすぐにあゆみ抜かれたイエスさま。私たちはこのイエスを第一とする。これが礼拝すること、主を第一とすることです。

自分に都合の良いときや思い通りになる時は「ホサナ」「ホサナ」と言うのに、そうでなくなると文句や悪口を言うのであれば、これは神さまを第一にしているとは言えません。

イスラエルの人々は間違ってしまいました。私たちも間違ってしまうことがあります。

私たちはほんとうにイエスさまに「ホサナ」と言える者でありたいです。又、いつもこのイエスさまを喜ぶ者、御心を祈り求め、すべてのことにおいて主に感謝する者とされてまいりましょう。今日もここからそれぞれの生活の場へと、遣わされてまいりましょう。祈ります。

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夕べの礼拝(主の食卓を囲んで)のご案内

2018-02-22 09:57:40 | 教会案内

2月25日(日)午後6時ー7時半  


これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865

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神の国に入るのは・・・

2018-02-18 18:58:40 | メッセージ

礼拝宣教 マルコ10・17-31 レント(受難節)

 

キリスト教会暦では先週の14日水曜日からイエス・キリストの十字架のご受難をしのびつつ歩むレント・受難節に入りました。3月末に受難週となり、今年のイースター・復活祭主日礼拝は4月1日となります。礼拝ではそれまで引き続きマルコ福音書より、いのちの御言葉を聞いていきます。

 

今日の個所は、17節「主イエスがこれから旅に出ようとされると」いう言葉で始っていますが。口語訳では「道に出て行かれると」となっていまして、それはまさにこれから十字架の受難の道であるエルサレムへ向かい始めるという受難節のはじまりにふさわしい今日のところとなります。

そのイエスさまのもとに、たくさんの財産をもっていたある人が(マタイでは青年となっていますが)走り寄って、ひざまずいて「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか」と尋ねます。

それに対してイエスさまは「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」とおっしゃいます。そしてさらに19節「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」といわれますが。それらはユダヤの律法である十戒であり、神の民として守るべき掟でありました。

さて、これを聞いたこの人は、待っていましたとばかりに、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えるのですね。

ユダヤの社会では13才になるとバル・ミツワーといって、旧約聖書にある律法を暗唱し、あなたもこれから宗教的、社会的な責任を持った成人ですよ、という、儀式を行います。彼も律法の掟を暗唱し、それらを誠実に守ってきたのでした。その自分の正しさを認められるだろうと期待し、そう誇らしげに答えるのです。

 

そんな彼をご覧になったイエスさまは、彼を見つめ、慈しんでこう言われます。

「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従ってきなさい」。ここを「小さくされた人々のための福音」本田哲郎訳は「あなたに欠けているものが一つある。行って、にぎっているものを貧しい人たちと交換しあい、提供しなさい」と訳されています。

イエスさまは彼の鼻をくじくつもりでそう言われたのではありません。彼なりに思いを尽くしてきたことをご存じのうえで、慈しんでおられるのです。その上で、彼に欠けているものをお示しになるのですね。

それは律法のうちに流れる本質、律法の実体であります。「神を愛し、隣人を自分のことのように愛する」。その精神がその人の生き様にあらわれてくることこそが、神に期待されている。

「あと何をすればよいか」と尋ねるこの人に、実践すべきその唯一つ大切なことを示すために、イエスさまはこのようにアドヴァイスをなさるのですね。

 

結局、たくさんの財産を持っていた彼は、イエスさまのおっしゃることに気づかされ

つつも、その財産を売り払い貧しい人々に施すことは至難の業であることを思い知り、

気を落として、悲しみながらイエスさまの前を立ち去っていきます。

 

この「財産を売り払って貧しい人々に施す行為」は、永遠の命を受け継ぐ条件ではありません。それは彼への信仰のチャレンジのことばであったのです。どこに自分の価値観を見出し、何に仕え、従っていくか。その判断をイエスさまはこの人自身にゆだねられます。

彼が本当に捨てなければならないのは財産や所有物ではなく、自分のうちにあるプライド、人々から自分がどう見られるかというようないわば、自己顕示欲。又、自分の力や能力によってすべて所有でき、永遠の命も手に入れることができると考えていたこの人に対して、イエスさまはそういうひとりよがりの自己完結型の信念ではなく、むしろあなたをそうさせているそれらを手放して自由になる。先に申しましたように、神を愛し、隣人を自分のことのように愛する生き方こそ、イエスさまに従って生きる道なんですが。これこそが、永遠の命を受け継ぐ道、神の国に入る道なのだ、ということをお示しになられたのだと思うのですね。

 

さて、今日の個所には続きがあります。

それは財産と神の国についてのイエスさまとその弟子たちとの会話です。

イエスさまが弟子たちを見回して「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われたことに、弟子たちが非常に驚いたというところからこのやりとりがなされるわけですが。

弟子たちが驚いたのは、ユダヤの教えでは「財産」は神の恵み、祝福であり、賜物であったからです。

ところがイエスさまがここで「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」とおっしゃったので、弟子たちは戸惑い驚いたのです。

もちろんすべての食物も物質的な恵みも、すべては神のものであり、神が造られ与えたもう祝福、賜物に違いありません。それ自体が悪いわけではありません。しかし、いつの間にやらそれに囚われてしまい、自分の所有するものに、自分の存在価値や命の保証までも置いて生きていこうとするようになってしまう。これが「富、マモンのもつ力」なのであります。それは時に神との関係、人との関係も損なわせていき、天の国(神の国)はその人から遠のいていきます。

私は財産を所有していることがどうだと言っているのではありません。それを如何に用い、どのように生きているかが大切なことだと思います。それは単に財産だけの問題ではありません。私たちも又、周りにあるモノ・人・地位なども命の源である主なる神さまよりも重要になり、地上の富に心を奪われていないか。日々主に立ち返り、主が与えたもう恵みとは何かを尋ね求めていく事は、主への信仰を保うえで必要です。

 

聖書に戻りますが。

「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とのイエスさまのお言葉を聞いた弟子たちはさらに驚いて「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った、とあります。

それに対してイエスさまは「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできる」とおっしゃるのです。これこそが、今日の聖書の救いのメッセージであります。

 

ローマ3章23-24節で使徒パウロはこのように述べています。

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3章21-24節)

 

先のたくさんの財産を所有していた人は、イエスさまがおっしゃったお言葉に対して、

自分の足りなさを認め、その場を立ち去るほかありませんでした。

しかし、成し遂げられた神の救い、十字架の主イエスの贖いは、そのような欠けをもつ者を救うことができるのです。もはや欠けそのものが問題なのではなく、問われるのは主の救いの恵に如何に応えて生きるか否かです。救いの業は人間に出来ることではないが、神には出来る。

私たちは唯ありのままの自分を、欠けだらけのままひっさげて主の十字架の救いのもとに出たらよいのです。主のあふれる愛を身に受けて「いつも喜び・たえず祈り・すべてのことに感謝する」。この恵みに生涯生かされていきたいものです。

 

最後に、イエスさまの「財産を持つものは神の国に入るのは、何と難しいことか」との

言葉に驚いた弟子たち。彼らを代表するようにシモン・ペトロは「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と答えます。

あの財産を所有していた男と自分たちとは違う。私たちはあなたに従ってすべてを捨てています、という誇らしげなペトロや弟子たち。

イエスさまは、「そのようにわたしのため、福音のためになしてきた者は、今世にあって厳しい迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世で永遠の命を受ける」と約束なさっています。

けれども、皆さん如何でしょうか。主に従って来たからこそ頂いている様々なゆたかな恵み。それはみな救いに与った者でなければ得られない祝福を私は本当に頂いているとつくづく思います。特にここで主に従いゆくものに与えられる天の国は、主にあって共につながっている主の家族のような祝福の世界なんだと、うれしく思います。

 

さて、イエスさまは言われます。

31節「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。

実はこの出来事の前に、イエスさまは弟子たちが「自分たちの中で誰が一番偉いか」と議論し合っていて、イエスさまがその彼らに「一番先になりたい者は、すべての人に仕える者になりなさい」とおっしゃる場面があるのですね。

先のたくさんの財産をもっていた彼、握りしめた自我や自己完結型の信念に囚われて主の救いの招きに応えることができなかったこの人と同じように、ここで弟子たちも又、

財産を捨てて来たといくことが何か自分たちは偉いんだとの誇りと自負となるなら、それはせっかくの主の招きと救いの恵みは台無しになってしまう。主を悲しませることになります。

私たち人間は常に上を目指そうとする者でありますし、執着心はそう簡単に手放せるものではありません。私たちも又、「それでは、だれが救われるのだろう」というほかない者ではないでしょうか。その問いかけに主は言われます。

「人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。

その真の証こそが、十字架による死と復活によって成し遂げられる全人類の救いであります。今、その救いの完成に与る私たちにとっても大切なのは、救われた日の「初めの愛」に留まり続けることです。

 

最後に黙示録2章4-5節にエフェソの教会に宛てた手紙の一文をお読みして本日の宣教を閉じます。

「あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」。

主イエスの受難を覚えてあゆむレントを迎えました。私たちにとっても新しい道が始まりました。今日もここから遣わされてまいりましょう。祈ります。

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エッファタ・開け!

2018-02-11 13:57:32 | 教会案内

礼拝宣教 マルコ7章31-37節 信教の自由を守る日

 

七日の旅路をそれぞれ神さまに守られ、導かれてこの神の家に帰ってくることが許され、ここから1週のあゆみを始めることのできる恵みを感謝します。

今週も主イエスのお姿と聖霊のお働きを通して平安と新たな力に与ってまいりたいと願っております。

さて、この日本では先々週は火山の噴火がありましたが、先週は極寒が続き、北陸地方、特に福井では大豪雪となり、交通はマヒ、車は大渋滞、と大変な状況となりました。

更に明日あたりから北日本・北陸地方に再び寒波による豪雪となるかもしれませんが。

また、台湾東部では大きな地震が起こり大きな被害と犠牲者も出ておるようで、心が痛みます。どうか主がこれらの状況の中、ただ祈るほかない人たちを助け起こしてくださいますように、祈るものです。

 

本日、2月11日は日本では紀元節に基づき「建国記念日」とされていますが。私たちは、この日を戦後生まれた日本国憲法20条にも規定されています「信教の自由を守る日」として覚えています。この自由が社会的にも保障されているから、こうして教会に集まって私たちは信じる神さまを礼拝し、その教えと奨めを分かち合うことが、公然とできているわけです。又、考え方は違っていても、それぞれの良心に基づいた思想や信条が尊重される。そういった社会はゆたかでありますし、逆にそれが弾圧され、排除されて、力で一つに統制されていく社会は、閉ざされた危険な状況に陥っていくでしょう。この信教の自由が守られ続けますように。

 

さて、本日はマルコ7章31-37節のところから「エッファタ・開け」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

この出来事の前の7章のはじですが、イエスさまの弟子たちの中に洗わない手で食事をする者がいるのを見たユダヤ教のファリサイ派の人たちと律法学者たちが、イエスさまに「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と尋ねる場面があります。彼らは皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしなかったのです。現代ならそれは衛生上、健康上の話になるでしょうが、彼らにとってそれは「汚れを清める」というような宗教上の習わしと同義でした。それで宗教家とその学者らは、なんであなたの弟子たちは神の前に汚れた行為をするのか、指導が行き届いていないじゃないか、というような意味合いでこう言ったのです。

すると、イエスさまは預言者イザヤの言葉を引用して「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている」とおっしゃいます。そしてモーセの「父と母を敬え」との神の掟を持ち出し、「父と母に対して、あなたに差し上げるべきものは、神への供え物です」と口で言うだけで、実際に父と母を敬うことをしていないと言われるのですね。ここをリビングバイブルでは、父や母に対して「すみませんが助けることはできません、差し上げるはずのものは神にささげてしまいました」と言いさえすれば、助けを求める両親をおろそかにしてもかまわないと教えている、と訳されていますが。そのように「神の本来の戒めや掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守って」いると、その彼らの偽善を指摘されます。そして、今日の招きの言にもありましたように、イエスさまは「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と、人々に言われるのですね。

7章22節以降で主イエスは「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」と言われています。

 

さて、そのようなことがあってイエスさまと弟子たちはユダヤのゲネサレトから北の異邦のティルス、すなわちシリア・フィニキア地方にまで足を運ばれます。するとそこに、ギリシャ人・異邦人の母親がイエスさまのもとに来て、娘から悪霊を追い出してくださいと頼むのです。

するとイエスさまは、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない」と言われるのですね。子供たちとはユダヤの民のことであり、異邦人の彼女にすれば、なんとも素気のないお答えのようにも思えますが。しかしこの母親はあきらめません。引き下がりません。「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます」と言いますと、イエスさまはこうお答えになります。「それほど言うのなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」。この母親が帰ると、その娘から悪霊は出てしまっていたということです。

ユダヤ人たちは異邦人に対して、彼らは神の戒めを守らず清くないので、神の救いから除外されている、と見下していました。しかし主イエスは、その異邦人の地において、切実に神のいやしと解放を乞い願う人たちがいることを体験なさいます。そうして、ティルス、シリア地方から先週のデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へ再びやって来られたというのが、前置きが長くなりましたけれども、今日の場面です。

 

聖書の後ろの付録の地図をご覧になると、ガリラヤ湖を中心に北のティルスから東南部のデカポリス地方までの距離はそうとう離れていることがお分かりになるかと思います。そのようにイエスさま自ら神の国の福音を、ユダヤの地方だけでなく、その周縁の異邦の地とそこに住む人々にまで拡げて行かれたのです。正に閉ざされた地が開かれてゆくという出来事がここから始められていくのです。

さて、そのデカポリス地方のガリラヤ湖岸から近いある町で、イエスさまのもとへ「人々が耳の聞こえず舌の回らない人を連れて来て、イエスさまに彼の上に手を置いてくださるように」と願います。

その異邦人の人々も又、イエスさまに大きな期待をもっていたということですね

この耳の聞こえず舌の回らなかった人は、自分では如何ともしがたい状態であったので、イエスさまの御業に期待するこの人たちに伴われるかたちで、連れてこられたのです。

この信仰をもって願いとりなす人々の存在があったから、イエスさまは彼をお受けくださることができたと言えるでしょう。

私たち人間には救う力はなくとも、主のもとには救いがある。そういう主への信頼にあって家族を、隣人を主につないでいくそのとりなしの祈りと行動に、主は御業を起こしてくださるのですね。礼拝で救いのお証をしていただいた、くずめさんの憲法9条のTシャツを世界の人々に配るというお働きも、主にあって起こされたいのちと平和への願いを世界の人と分かち合いたいと祈り、ささげる人たちの、とりなしを通して実現されているんですよね。

私たちはそれぞれ、その形や方法は違っても、期待をもって祈りとりなす、世の光、地の塩でありたいと願うものです。

 

聖書に戻りますが。

33節「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」と記されています。

 

イエスさまは、なぜか群衆の中からこの人だけを連れ出します。そうして、この一人の人と一対一で向き合われるのです。

ここで、イエスさまはご自分の指を、この人の不自由な両耳に差し入れたり、その指に唾をつけ、彼の舌に触られるのです。

実にイエスさまは福音書の中で3回、唾を用いて病人をいやしておられますが。唾の効果については医学的な効果は定かではありませんが。小さい頃よく転んだり、ちょっと擦りむけたりしたとき母親が唾を指につけて、ちょんちょんと触れて、「もう大丈夫」と、言われた経験があります。それだけなのに、安心感がありケガのことなどすぐ忘れてまた遊びに熱中するという。まあ同じような経験をされた方もおられるでしょう。けれどそういうのはこの時代の彼らの間にはまずないことでした。

イエスさまがこの人になさったように、直接患部に触れることは汚れを受けると考えられていたのです。

先に7章のはじめの汚れに関する言い伝えについて、ユダヤ教のファリサイ派の人たちや律法学者たちのもっていた偽善的な考えをイエスさまは見抜かれ、一蹴なさったと申しましたが。

この場面ではイエスさま自ら患部に触れられ、言い伝えのように汚れることなどないということを示す機会となったのです。

 

この時、イエスさまは「天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ・開け!」と言われます。

ここでイエスさまが「深く息をついた」のは、汚れについての人々の言い伝えによって、この人がこれまで傷つき苦しんできた痛みを知った、感じ取られたからではないでしょうか。あるいは、神の愛と慈しみから与えられた律法や戒めの本来の姿から遠く離れ出た人や社会に、イエスさまは嘆き、ため息をつかれたのかもしれません。

そして「エッファタ・開け!」とおっしゃるのであります。それは、そのような単なる言い伝え、人を縛りつける力の呪縛から開放されよ!と宣言なさったということであります。

イエスさまは彼に、「いやされよ」とはおっしゃっていない。あなたを卑しめ縛りつけているものから解放されよ、解き放たれよ。そして「開かれよ!」と言われているのです。イエスさまはこの一人の人と全身全霊で向き合われ、その魂に触れられるのです。

そうすると「たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」と記されています。それはただ聞こえるようになった、話せるようになったというのではなく、開けて「はっきり」話すことができるようになったということであります。この「はっきり」という言葉の原語オルソースは「正しく」という意味があります。卑しめられ、抑圧された者は、思いを正しく語ることができなくなり、ゆがめられています。しかし解放され、自分を取り戻した人は、自分の思いを正しく発することができるようになるのです。

 

本日の聖書は、単に病気や障害が治ったという話ではありません。要は、主によってお一人おひとりが取り戻される。解放され、開かれ、正しく話すことができるという神の力のメッセージなのです。

 

最後に、イエスは人々に、だれもこのことを話してはいけない、と口止めされましたが、人々はかえってますます言い広めた、とあります。

イエスさまはこのことでご自分がヒーローやカリスマ的指導者に持ち上げられることを避けようとなさったのかもしれません。けれどもそのイエスさまのなさった業はたちまち人々に知れわたりました。人々はすっかり驚いて口々に、「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人たちを聞こえるようにし、口の利けない人たちを話せるようにしてくださる」と言ったとあります。

こうして旧約聖書で預言者イザヤが終末のメシア、救い主の到来に際して預言したとされるイザヤ書355節の「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く、そのとき、歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」という福音の出来事が現実のものとなりました。

そして今や世界の隅々にまで主イエスの御救いの福音は伝えられ、2000年を経た今日を生きる私たちの間においても、主イエスによる解放の御業、エッファタ・開け、の出来事は脈々と起こり続けているのです。

 

私たちは日常の様々な状況によって揺れ動かされたり、プレッシャーを受け、人の言うことが聞こえず、口も利けなくなるようなこともあるかもしれません。又、そういう人が身近にいるかもしれません。

主はそのような私たちに共感をもって御手を触れてくださるお方、エッファタ・開け!と、私たちの魂が主よって解放され、開かれることを願っていてくださるお方なのです。今日の箇所は又、思いがありながらも自分の力ではどうにも動けない、この一人の人をイエスさまのもとへつないでいくために、一緒に伴った人々。自分一人ではどうもこうも動けないその人に関心を寄せ、主のなさることに期待をもってとりなしていった人たちの存在も覚えました。

この混沌とした社会にあっても、主イエスさまの豊かな福音、御救いの恵みに日々与り、生きる私たちとされてまいりましょう。祈ります。

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夕べの礼拝(主の食卓を囲んで)ご案内

2018-02-08 09:55:40 | お知らせ

2月11日(日)午後6時ー7時半  


これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865
メール obcs@nifty.com

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主イエスの解放を身に受けて

2018-02-04 14:47:15 | メッセージ

礼拝宣教 マルコ5章1-20節

 

先週は、礼拝、愛さん昼食、総会、夕べの礼拝と続きましたが。それぞれに充実した時となり感謝でした。

礼拝では介護老人ホームの会社に就職されたばかりのミャンマーの方お二人を会社の方々が伴って出席されましたが。カリーとアウンラム、それからカントゥ共々良い交流の時がもて感謝でした。

又、その後年に一度の定期総会が開かれ、週報にも記載しておりますとおり、今年は「喜び・祈り・感謝して今を生きる」テサロニケ一5章16-18節の標語と聖句を掲げた歩みが始まりました。

総会には旭伝道所の中島牧師ご夫妻が御一緒に駆けつけて下さりこれも感謝でした。

総会後の夕べの礼拝には新しくお見えになられた方々を含め、こちらも主にある恵みの時を持つことができ感謝でした。

さて本日はマルコ5章1-20節のところから「主イエスの解放を身に受けて」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

この箇所の中心は、新共同訳聖書の小見出しにありますように、悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやし解放された「イエスさまの権威(権能)」にあります。

今日は、そのイエスさまが如何にこのゲラサの人と向き合われたのか。又、彼に取りついている汚れた霊どもと、どのように立ち向かわれたか。そして解放といやしに与った彼をイエスさまはどのようにお導きになられたのか。それらの事に着目しながら、主イエスがもたらされる解放の御業を私たちの事柄として読みとっていきたいと思います。


舞台はゲラサ。聖書の後ろのページに記載されている地図を参照しますと、このゲラサはガリラヤ湖岸から東方約55キロですので随分内陸の奥にある町です。マタイ福音書ではガダラとなっており、ここだとガリラヤ湖畔からすぐの町ということになりますが。いずれにしろここは10の町からなるデカポリス地方で、ローマの主権の下にあり、ユダヤ人が汚れた動物と忌み嫌う豚が飼われていたとあるように、いわゆる異邦人が多く住む商業の盛んな町であったようです。

さて、イエスさま一行はこのゲラサの地方に着き、イエスさまが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来たます。この人は墓場を住まいとして、これまでにも度々、足枷や鎖で縛られていたようですが。自ら鎖を引きちぎり足枷は砕いてしまい、もはやだれも鎖を用いてさえ彼をつなぎとめておくことができなくなっていたというのです。

そうして、彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりして、毎日を送っていたということであります。
この人にしてみれば、如何ともし難いその状態から何とか脱したい、解放されたいと切に願えど、自分ではどうすることもできない。

そういうジレンマの中でただもがき苦しみ身体を石で打ち叩いてその痛みによって耐え難い魂の苦痛から逃れようとしていたのかもしれません。この人の苦痛というものはいかばかりであろうかと思いますが。

 

さて、その人はイエスさまを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と叫びます。それはイエスさまがその人と出会った時に、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからだと記されています。

汚れた霊どもは、イエスさまが「いと高き神の子」であることを認めていたということですね。しかし、そのことを知っていながら「かまわないでくれ」と、訴え願うのです。

それはイエスさまが介入されることによって、人間を縛り、苦しめるという彼らの働きができなくなる、その存在意義が失われるからです。

現代にあってもそのような人間を縛り、抑圧し、苦しめる悪魔的な力が様々なかたちで、そこら中に存在するわけですが。

汚れた霊はその存在と働きそのものが否定されることを強く恐れ、「大声で、かまわないでくれ」と、神の力の介入を断固拒否するのです。

イエスさまはこの人に「名は何というのか」と、その名前を聞かれます。これは大事なことです。人を縛っている力の正体、本質とは何か。それを知ることから解放の業が始められるのです。

すると汚れた霊はこの人を通して、「私の名はレギオン。大勢だから」と答えます。

レギオンとはラテン語からなる言葉で、ローマの4000人から6000人の兵士で構成される一軍団を指していたと言われています。つまり、イエスさまは、この人にとりついている一つの汚れた霊ではなく、その人の尊厳を損なわせている軍団と相対するのであります。

 

まあ、この人はそれほどの複数の悪霊に捕らえられ苦しんでいたということでしょう。

ある説にはこの人がローマの兵士に属していてその残虐な行為を見たり、実際に自ら行なったことで恐怖症となり、長く苦しんでいたという説もあります。
近年でも無謀で残虐な行為を見せられたり、殺害やそれに等しい行為をなした事が脳裏に記録として残って離れず、永きに亘って苦しみ悩まされ、心病んでいる人たちがいる、そういう話を耳にすることもありますが。そういった組織や集団による破壊的な力が人間性を損なわせ、永きに亘って人を縛りつけ、苦しめ続けているというのは事実であります。

 

いずれにしろここで留意すべき事は、イエスさまはそのような人そのものを悪霊とか汚れた霊とは言っておられない、ということです。「あの人はサタンだ」なんてことはおっしゃらない。主は、その人を苦しめ縛り続ける汚れた霊と、この一人の人とを区別します。

汚れた霊に対しては出て行けと強く命じ、その霊に取りつかれている人の苦しみと痛みを感受され、一人の人間として向き合われるのです。

 

さて、汚れた霊どもは自分たちの存在意義がなくなるのを恐れ、イエスさまに、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、しきりに願い、自分たちを「豚の大群の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願います。

すると、「イエスさまはそれをお許しになられ、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った・・・

2千匹の豚の群ががけを下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ」と記されています。

イエスさまはこうして、この人を汚れたれた霊どもの呪縛から解放し、いやされた。

ここに主イエスの権威(権能)が示されています。
囚われたた人に解放をもたらす権威、権能をおびた主イエスはそのような存在であられるということであります。

 

それにしてもイエスさまはどうして汚れた霊どもが豚の中へと頼んだとき、それをお許しになったのでしょうか。それは直接的には分かりません。けれども想像しますに、汚れた霊どもがただこの一人の人から出て行ったとしても、また他のだれか別の人に取りつき、同じようにその人を縛って人生を損なわせるだろう。だったら、貪欲に餌をむさぼり食う豚の大軍に乗り移りたいというのだからそうしたらよい、とおっしゃったんではないでしょうか。まあ、そうすると汚れた霊どもが入った豚は、自ら崖を下って湖になだれ込んで次々とおぼれ死んだ。そのように汚れた霊どもの力は結局、貪欲にむさぼるところから自滅に至る、ということなのでありましょう。

 

さて、ところでゲラサの町や村の「人々は、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった」とあります。彼らは豚の騒動を知って恐ろしくなったのではなく、汚れた霊に取りつかれていた人の変わりようを見て、驚き恐れたのであります。

まあ次は自分に取りつくのではないかという恐れたのでしょうか。あるいはイエスさまが神の国の権威によってなされた事がわからず、別の箇所にあるように「悪霊の頭」だ

とでも思ったのかもしれません。人々はそれが何の権威によるものかわからなかったのです。

そうして、一人の人の尊厳と存在がイエスさまによって回復されたにも拘わらず、その地方の人々はイエスさまに「ここから出て行ってほしい」と訴えるのです。

どっちにしましても、人々は自分に被害が及ぶことや、地域社会に波風が立つことを避けたかったのですね。

最初に、この一人の人が汚れた霊に取りつかれた折も、この地方の人々はその人に無関心であり、もはや手に負えなくなってからは墓場や寂しいところに彼を足枷や鎖で縛りつけて、地域の生活圏に出入りできないようにしていたのであろうと考えられます。

「この地方から出て行ってほしい」。それはよくよく思いますと、あの汚れた霊が「かまわないでくれ」と言ったのと同じことを、町の人々もイエスさまに言っていることになるのですね。

「イエスさまと関われば面倒なことが起ったり、やっかい事が増えるに違いない。巻き込まれたくない、そんなのは御免こうむりたい」。彼らはそう考えたのでしょう。

彼らもまた、イエスさまとの関わりを拒絶する汚れた霊に縛られたような状態であったということができないでしょうか。

 

私だったらどうだろうか。「主よ、主よ」と口では言いながら、この町や村の人と同じではない、と言い切れるだろうか。本当に問われます。そういう人間的な弱さの中でも私たちはなお「イエスさまがどうなさったのか」「今、イエスさまならどうなさるか」を考え、行動していく者でありたい。そう願うものです。

最後に、本日の箇所の終わりところで、解放といやしに与った人は、「イエスさまと一緒に行きたい」と願ったありますが。イエスさまはそれをお許しならないで、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」とおっしゃいます。

 

なぜ、どうして主イエスはその人の願いをお許しにならなかったのだろうか、と思いますが。実に主イエスがお示しなったこの事こそが、彼の使命、任務であり、彼と、救いの証とが最大限に用いられる最善の道であった、ということです。

彼は、その主イエスのお言葉、招きに聞き従っていきました。自分の思いにではなく、主のお言葉にその身をかけて言ったのです。

その彼の働きは具体的に、イエスさまに関わりたくないという人々の町、いわゆる異教の地において「主が自分を憐れみ、なしてくださったことをことごとく」身内の人に、それは又自分を知る町の人たちに知らせる、証していくことであります。

ある意味これは、見ず知らずの地に行って伝えることより難しいかもしれませんね。私たちもそうではないでしょうか。けれど真の救いに与った人の変わりようが一番分かるのは身近な人でもあります。

このイエスさまに従って行きたい。「献身」でありますが。それは漁師であったペトロやアンデレたちのように、舟や網、さらに親や雇い人をも置いて、フルタイムで従事するそういった献身もあれば、今日読んだこの人のように身近な、たとえば家族を含めた地域社会との関わりや仕事を通して務めていく道もあるでしょう。どちらにせよ大切なのは、主イエスの解放と救いの喜びと感謝を身に受けて、主イエスの証人となるという事であります。これこそが先に主の御救い・福音によって新しくされた私たちに委ねられた大切な使命なのです。

 

今日のこの主イエスの解放を身に受けて主の証人とされた人によって、はじめは身内、家族に主の解放といやしの福音が伝えられ、それがその町の人々、さらにゲラサの地域、遂にはデカポリス地方全体にまで言い広められていくことになるのです。それは彼に与えられた彼にしかできない役割であり、働きであったということであります。それは、その後遂に成し遂げられられた主イエスの十字架の救いの業と復活と共に、主イエスの「神の子としての権威」を全世界に証することとなっていったのですね。

 

異教の地といえるこの日本においても、又それぞれのお住まいの地域においても、私たち一人ひとりに、私にしかできない働き、私だからこそ与えられた役割が必ずあります。身近な家族や隣人、さまざまな出会いと関りの中にそれはあるのかも知れません。

今日から始まりました一週も又、それぞれに主のお導きと守りのもと、主の証人としてここから遣わされてまいりましょう

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