礼拝宣教 マルコ11・1-11 レント・受難節Ⅲ
「十字架への道・苦難の道」
2月7日よりイエスさまが神の御心に従い全人類の御救いのために歩まれた受難の道をおぼえるレント、受難節を過ごしておりますが。
本日は、イエスさまがいよいよ十字架を前にしてエルサレムに入られる場面であります。
主はこのエルサレムで最後の一週間を過ごされるのです。劇団四季による主イエスの最後の7日間・ジーザスクライストスパースターエルサレムバージョンのミュージカル公演が先週の火曜日から今日まで大阪で行なわれているそうですが。
このエルサレム入場からの出来事は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書すべてに記されていますが、特に今日のマルコの福音書は、全体の三分の一がその7日間の記事になっています。記者のマルコはそれだけ、イエスさまの十字架への道のりがいかに重要であるかを示しているのですね。
イエスさまはこれまで弟子たちにご自分が「祭司長たちや律法学者たちに引き渡される」ことを伝えてこられました。「彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」と三度に亘り、ご自身の苦難と死、そして復活について予告しておられたのです。
このエルサレム入場からまさに全世界の歴史が大きく2つに分けられる、すなわちキリスト以前、キリスト以後という神の救いの業が成し遂げられていくのですね。
「先立ち備えたもう主の御業」
さて、主イエスさまはそのエルサレムに入られる際して、2人の弟子たちに「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい」と言われます。
弟子たちには、どうしてイエスさまがそれをご存じなんだろう、そんな役に立たない子ろばなんか連れて来てどうなさるだろう、と疑問を持ったのではないかと思うのですが。けれどイエスさまは、その子ろばの用途や使用目的については何もおっしゃらず、ただ連れてきなさい、と言われるだけです。
そして「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入りようなのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」と弟子たちに言われるんですね。
そこで二人の弟子たちは、イエスさまの言われるまま出かけて行きますと、おっしゃったとおり子ろばを見つけたので、これも言われたとおりつないであるのをほどくのであります。
まあ、弟子たちはイエスさまのお申し付けとはいえ、そんな人様の家畜を勝手にほどいて連れてくるなんて大丈夫かな、泥棒と言われかねないんじゃないか、という思いもあったのではないでしょうか。
案の定、彼らが子ろばをほどいたとき、そこに居合わせたある人々、ルカ福音書では持ち主たちとありますから共同で使うため飼われていたのでしょうが、人々から「その子ろばをほどいてどうするのか」と言われてしまいます。
弟子たちにとって大変緊張する場面だったと思うのですが。まあそこで、二人の弟子たちはイエスさまから予め指示されていたとおり、「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」と話しますと、子ろばを連れて行くのを許してくれたというのです。すべてはイエスさまが言われたとおりだったのです。
二人の弟子たちは、イエスさまのご計画通りに行動してみたら、御言葉どおりにそれは用意されていたということです。それを実際に体験するのですね。
私たちは時々、何か起こされて来ることに関わるようになったとき、本当に大丈夫かな。周りはどう言うかなあ、理解を得られるだろうかなどという心配がわいて来ることもあると思います。そこで大事なのは、主の教えと導き、つまり御心によってなされることであるなら、主が自ら準備をしていて下さる。この二人の弟子が体験したように、主がおっしゃった通りだという人知を超えた神の御業を見ることができる、ということであります。世間や周りにとらわれることなく、主とそのお言葉に従い行く、信仰の人生でありたいと願います。
「子ろばに乗る王」
さて、イエスさまはエルサレムに入られるにあたり弟子たちがほどいて連れて来た子ろばに乗られます。ろばを連れてきた弟子たちはよもや、イエスさまがこのような特別な場面に、この子ろばをお用いになるなどとは驚きだったのではないでしょうか。
イエスさまは勇ましく神々しい白馬や軍馬に乗ってではなく、「まだ誰も乗ったことのないそんな小さな子ろば」をお用いになり、それに乗ってエルサレムに入場なさるんですね。イエスさまはそのことによって、ご自分がどういうお方であるかをお示しになられたのです。
ろばは、荷物や人を運んだり農耕などに用いられていました。いわば人と一緒に働く動物です。私は幼い頃親に動物園に連れていってもらうと、「ろば」の背に乗せてもらいコースをゆっくり一周するのが楽しみでしたが。人と同じくらいの目線ですから、威圧感もなくて、ほのぼのとした感じがしますよね。どこか頼りないようで、わりとどっしりしているのがろばという動物だと思います。
一方馬は、聖書の時代も戦いの時や権力者が力を示すために用いられる動物です。私はこれも小さいときテレビで暴れん坊将軍が好きでよく観たものですが、白馬に乗っていましたね。馬は古来より、権力や武力の強さの象徴です。世の将軍や王が子ろばに乗って入場行進すれば、なんともみすぼらしく見え、王位にふさわしくないというのが世の考えでしょう。
ところが、イエスさまがお生まれになるざっと200年から300年くらい前でしょうか。旧約聖書のゼカリヤ書9章9節には、来るべき王、メシアの到来の折の様子がこう預言されているのです。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」。口語訳聖書では「柔和であって、ろばに乗る」となっていますが。
それは戦乱の世の政治的にも社会的にも権力や強い指導力が求められる時勢にあって、このような預言が語られていたと思うと、ほんとうに驚くばかりですが。
それはさらにユダヤの民のみならず、全世界を救うお方、来たるべき王、メシアとして来られた方が、まさに、このゼカリヤ書の預言どおり、世の力や権力を象徴する軍馬にではなく、子ろばに乗って柔和なお方としてエルサレムに入られるのであります。
そのようにしてイエスさまは自らの力によるのではなく、神のご計画に従い、十字架の道をあゆまれる。それをして神の御救が成し遂げられるのです。
「主がお入り用なのです」
神さまは、勇ましく格好のよい立派な馬ではなく、子ろばという小さい存在を必要とされました。まだだれも乗ったことのない、人を乗せたりする経験もなく、役に立つのだろうかと周りが心配するような子ろばを、「主はお入り用」、必要となさるのです。
「主がお入り用なのです」。それは私たちにも向けられる招きのお言葉ではないでしょうか。
主は私たちが何か経験が豊富だからとか、出来るとか、持っているから用いられるのではなく、御自身が子ろばのようなそんな小さい私たちを愛してやまなかったがゆえあえて選ばれ、用いられた。私たちはそんな主の愛に励まされされながら、それぞれの人生において、主に用いていただきましょう。
「何を第一とするか」
さて、イエスさまが子ろばに乗ると、多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷きます。そして、前を行く者も後に従う者もこう叫びます。「ホサナ。主の名によって来られた方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」。
このホサナは直訳すると「今、救ってください」という意味です。又、ユダヤのお祭りの礼拝の折にこの「ホサナ」を何度も繰り返し叫び歓呼したことから。「ホサナ」は祈りと歓呼の二つの意味を持つ言葉となっていくのです。
このエルサレムの周辺にいた民衆の多くは、かつてユダヤ、イスラエルの民が奴隷の状態から解放されたことを思い起こしつつ、イエスこそ「ホサナ」と叫び、歓呼したのです。
ユダヤの人々はずっと自分たちを助け守ってくれる新しい王さまを待っていました。強く力をもった王様なら、周りの国をその力と権力を示して、解放してくれるだろう、と思っていました。
しかしイエスさまは、ユダヤの人たちが思い描いていた王様ではありません。
この後のことを少し触れますと。イエスさまが自分たちが期待とは異なり、官憲に逮捕され苦難に遭われると、手のひらを返したように、人々は怒り、イエスさまを「十字架につけろ」と叫ぶ側になってしまうのです。
「ホサナ」「ホサナ」と祈り叫び、歓呼し、祭りのように迎えたこの場面。これを一つの礼拝としてみるなら、礼拝するということは「自分に都合のいいことを神さまにお願いする」ことではないということです。礼拝するということは「神さまを第一とする」ということです。もっといえば神の御心に最後まで聞き従い続けたイエスさま、それは人々に裏切られても、なおそんな裏切る人々を愛し抜き、罪を贖うために、十字架の道をひたすらまっすぐにあゆみ抜かれたイエスさま。私たちはこのイエスを第一とする。これが礼拝すること、主を第一とすることです。
自分に都合の良いときや思い通りになる時は「ホサナ」「ホサナ」と言うのに、そうでなくなると文句や悪口を言うのであれば、これは神さまを第一にしているとは言えません。
イスラエルの人々は間違ってしまいました。私たちも間違ってしまうことがあります。
私たちはほんとうにイエスさまに「ホサナ」と言える者でありたいです。又、いつもこのイエスさまを喜ぶ者、御心を祈り求め、すべてのことにおいて主に感謝する者とされてまいりましょう。今日もここからそれぞれの生活の場へと、遣わされてまいりましょう。祈ります。