礼拝宣教 フィリピ4章4-16節 沖縄・命どぅ宝の日を覚えて
本日は、沖縄「命どぅ宝の日」をおぼえて、礼拝を主にお捧げしています。先に沖縄ご出身のIさんからのご報告、また女性会長より、女性連合による資料やバプテスト誌に連載されている記事等から沖縄の現況についてのご報告と課題について知ることができました。
日常の生活の中にそのような状況がある沖縄と関西圏に住む私どもの温度差はかなりあることが分かります。先の沖縄県知事選では辺野古埋め立てに反対する知事さんが選ばれました。知事は「待って下さい、きちんと話し合いをしましょう」と、政府に協議を求めたにも拘わらず、一方的に埋め立て工事が続けられ、その状況についてマスコミの報道はその後ほとんど流されなくなっています。
時々刻々と神の創造された常夏の美しい海が埋め立てられ、珊瑚や海に住む生き物のいのちと住み家を脅かし、生態系が壊されています。それは又、地元の住民のみならず、県民を分断することになっています。本土でもイージス艦購入や迎撃ミサイル装備など膨大な税金をかけておし進めされようとしています。いずれにしろこの沖縄が平和にならなければ、日本中の平和にはならないということを覚えつつ、「命どぅ宝」(いのちこそ宝)であるとのメッセージを私たちのことがらとして受け取っていきたいと願っております。
① 「喜び」とは何か。
さて礼拝では4回に亘ってフィリピの信徒への手紙を読んできましたが、今日が最終回となります。
この手紙は獄中にいたパウロがフィリピの信徒たちへ書き送ったものですが。これまでの1章から3章と、そして本日の4章のところでもそうですが、「喜び」という言葉が大変多く出てまいります。
今日の4章8節にも「主において常に喜びなさい。重ねていいますが。喜びなさい」と記されていますが。
漢字にはこの「喜:キ」と書いた「喜び」のほかにも、悦に入るの悦:エツと書いた「悦び」や歓喜するの「歓:カン」と書く「歓び」、さらに慶弔慶祝の「慶:ケイ」と書く「慶び」などもあります。あえてこの「喜:キ」と書いた喜びの漢字が用いられているのには、意味があったのです。その「喜び」の漢字の成り立ち・語源を調べてみますと、なるほどと思わされたのですが。
それは、この「喜」の上の方の口は、「壁に掛けた打楽器」を表わしているそうです。
そして下の口は、文字どおり「口」を表わし、それは「祈りの言葉を意味するとのことです。
つまりこの「喜び」という漢字には、「打楽器をならし、神に祈り、神を楽しませる」という意味があるのだそうです。そこから「喜ぶ」を意味する「喜」という漢字が成り立っているということです。それはまさに私どもにとって、礼拝や諸集会において「主を賛美」するとか「主をほめたたえる」ということですね。
先日の28日金曜の滝元ご夫妻による讃美コンサートも大変すばらしい時間となりました。「主の愛が今」というこの大阪教会でも讃美する曲も、滝元開先生の作詞作曲であったとうことを知ったのですが。先生はすべての讃美は「天から曲と詞が降ってきてそれをキャッチして作られた」とおっしゃっていたのを興味深くお聞きしました。
この天来のオリジナル讃美を集われた方々とも一緒に讃美し、文字通り「神をほめたたえる喜び」の時となりました。
旧約聖書のネヘミヤ記8章10節には、「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」と書き記されています。
天地万物を創造し、生きとし生けるものの主であられる神、そして全人類の救い主であられる主イエス・キリストの御名をほめたたえ、賛美することこそ、被造物である私どもの命、生きる力の源であるということですね。
この4節で、パウロが「主において常に喜びなさい」と述べている「主において」とか「主にあって」という言葉はフィリピの信徒への手紙で8回も出てきますが。この「主において」「主にあって」とは、「主イエスに結ばれた者として」という意味であります。いつも救いの主、キリストに結ばれている。主が共におられ、真理の言葉に導かれている平安。どんな時もその幸いを思い起こして「常に喜びなさい」というのです。
わたしたち人間のよろこびは感情や状況によって変わりゆくもの、一時的なものです。しかし、主に結ばれた「喜び」は尽きることがありません。パウロは迫害され、投獄され、むち打たれながらも、神を賛美し歌った時、地震が起り、獄の戸が開いたとあります。苦境の中でもなお主に結ばれている幸いをもって賛美する。そこに私たちの生きる力、命の源があるのです。
② 「平和の神」
次に、今日の6-7節でパウロは「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めるものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と、述べます。
「思い煩う」。これは私どもも時に経験することであります。心が捕われて思い苦しむ。また、あれやこれやと考えてみたが、これという良い解決方法がなく、途方に暮れる。そういう事があるでしょう。あれやこれやと考えるうちはまだよいのですが、不安や怖れが心を支配するようになってくると、これは思い煩いです。
ここで大事なことは、パウロが言っているように「思い煩いをやめる」ということです。しかしそれは自力や頑張りではできるものではありません。先ほど「主に結ばれた者の喜びは尽きない」と申しましたが。いのちの主への感謝と賛美を捧げ、自分の心の内にある思い、求めをすべて主に打ち明ける。そうすれば、人知を超えた神の平和が、その人の心のうちを支配し、あらゆる思い煩いから守られるのであります。
さらに9節においてパウロは、「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」と述べています。
先週の3章17節でも、「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」とありましたが。それと同様に、「わたしが、まだ目標に達していない姿を見てなさい」「わたしの弱さを見てください」「途上にいながら、夢中に端っているのを見て下さい」「ただイエスさまの十字架だけを誇りとしている、この姿に倣って下さい」ということであります。
パウロは、そうすれば「平和の神が共におられる」と言うのです。
これを記した時、パウロは狭く、暗い牢獄の中に拘束されていました。そのパウロが
11節以降で次のように述べています。
「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。
わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」
「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」
パウロは、何か自分に力があり、強く、立派であるから、わたしにはすべてが可能なのです、と言っているのではありません。
コリント二12章7-10節を見ますと、このように言っています。
「思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるののだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに自分の弱さを誇りましょう。」
また、ローマ8章26節ではこうも言っています。
「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」
パウロは、弱さの中でこそ働かれる主御自身の力に信頼しました。聖霊が執り成して助けてくださること。それはまさに「平和の神が共におられる」ことを経験していたのです。
自分の障がいや病が取り除かれるように3度、これは3回ということではなく、徹底的にということです。それほど神に祈り続けたパウロが受けた主からのお答は、弱さからの開放や克服ではなく、弱さの中に働かれる神の力でした。パウロはそのことのゆえに、自分が高ぶったり、誇ったりすることにではなく、ただ主の恵みと力、その源であるキリストを喜びぶことによって、どんな境遇の中でも満たされる秘訣を得たんですね。
「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしはすべてが可能です。」
何と力強い、信仰の宣言でしょうか。私どもも、「わたしが弱いときにこそ、キリストにあって強い。」
又、使徒パウロに倣い、私を強めてくださるお方によって、私はあらゆる境遇にあっても、福音の力に生きることができる。そのような信仰の歩みとされたいですね。
最後にパウロはフィリピの信徒たちにこう言います。
「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。」
パウロがこのフィリピの信徒への手紙を書いたのは、2章に記されているエパフロディトを通してフィリピの信徒たちから献金を受け取ったことに始まりました。
パウロにとってフィリピの信徒は、福音においても、投獄の時も、法廷で弁明する時も、又苦しみの時においても、協力者でしたし、パウロの財政的支援も共に担ったのです。フィリピの信徒たちの支援についてのみパウロは受入れたようですが。
パウロはそのフィリピの信徒の善意を素直に感謝し、喜びを表わしますが、それはただ、「困窮を助けてもらった」とか「物質的必要が満たされた」事だけを喜んでいるのではありません。
パウロは「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」と先に述べていますように、支援金を頂かなくても対処できたようです。が、あえてそのフィリピの信徒たちからの支援金・援助を受けたのです。
それは、彼が孤高に生き、誰の世話にもならない孤立した生き方を選んだのではなく、フィリピの信徒たちと主の福音の豊かさ、その拡がりを共にすることを「喜びとした」からです。パウロは、フィリピの信徒たちが自分の患難をも共にしてくれたことを喜んでいるのです。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12・15)
神の平和に生きる私たちは喜びと同時に、苦しみをも共にすることができる。それが福音の力であり、弱さの中に働く神さまの力であります。
今日は特に沖縄・命どぅ宝の日を覚えての礼拝でもあります。
沖縄のかつての歴史と現状に思いを馳せながら、もはや決して人ごとではありません。私たちも「ぬちどぅ宝」、命こそ宝との声に祈りを共にしてまいりましょう。