日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

共に喜ぶために

2019-06-30 13:49:51 | メッセージ

礼拝宣教 フィリピ4章4-16節 沖縄・命どぅ宝の日を覚えて

 

本日は、沖縄「命どぅ宝の日」をおぼえて、礼拝を主にお捧げしています。先に沖縄ご出身のIさんからのご報告、また女性会長より、女性連合による資料やバプテスト誌に連載されている記事等から沖縄の現況についてのご報告と課題について知ることができました。

日常の生活の中にそのような状況がある沖縄と関西圏に住む私どもの温度差はかなりあることが分かります。先の沖縄県知事選では辺野古埋め立てに反対する知事さんが選ばれました。知事は「待って下さい、きちんと話し合いをしましょう」と、政府に協議を求めたにも拘わらず、一方的に埋め立て工事が続けられ、その状況についてマスコミの報道はその後ほとんど流されなくなっています。

時々刻々と神の創造された常夏の美しい海が埋め立てられ、珊瑚や海に住む生き物のいのちと住み家を脅かし、生態系が壊されています。それは又、地元の住民のみならず、県民を分断することになっています。本土でもイージス艦購入や迎撃ミサイル装備など膨大な税金をかけておし進めされようとしています。いずれにしろこの沖縄が平和にならなければ、日本中の平和にはならないということを覚えつつ、「命どぅ宝」(いのちこそ宝)であるとのメッセージを私たちのことがらとして受け取っていきたいと願っております。

 

  「喜び」とは何か。

さて礼拝では4回に亘ってフィリピの信徒への手紙を読んできましたが、今日が最終回となります。

この手紙は獄中にいたパウロがフィリピの信徒たちへ書き送ったものですが。これまでの1章から3章と、そして本日の4章のところでもそうですが、「喜び」という言葉が大変多く出てまいります。

今日の4章8節にも「主において常に喜びなさい。重ねていいますが。喜びなさい」と記されていますが。

漢字にはこの「喜:キ」と書いた「喜び」のほかにも、悦に入るの悦:エツと書いた「悦び」や歓喜するの「歓:カン」と書く「歓び」、さらに慶弔慶祝の「慶:ケイ」と書く「慶び」などもあります。あえてこの「喜:キ」と書いた喜びの漢字が用いられているのには、意味があったのです。その「喜び」の漢字の成り立ち・語源を調べてみますと、なるほどと思わされたのですが。

それは、この「喜」の上の方の口は、「壁に掛けた打楽器」を表わしているそうです。

そして下の口は、文字どおり「口」を表わし、それは「祈りの言葉を意味するとのことです。

つまりこの「喜び」という漢字には、「打楽器をならし、神に祈り、神を楽しませる」という意味があるのだそうです。そこから「喜ぶ」を意味する「喜」という漢字が成り立っているということです。それはまさに私どもにとって、礼拝や諸集会において「主を賛美」するとか「主をほめたたえる」ということですね。

先日の28日金曜の滝元ご夫妻による讃美コンサートも大変すばらしい時間となりました。「主の愛が今」というこの大阪教会でも讃美する曲も、滝元開先生の作詞作曲であったとうことを知ったのですが。先生はすべての讃美は「天から曲と詞が降ってきてそれをキャッチして作られた」とおっしゃっていたのを興味深くお聞きしました。

この天来のオリジナル讃美を集われた方々とも一緒に讃美し、文字通り「神をほめたたえる喜び」の時となりました。

旧約聖書のネヘミヤ記8章10節には、「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」と書き記されています。

天地万物を創造し、生きとし生けるものの主であられる神、そして全人類の救い主であられる主イエス・キリストの御名をほめたたえ、賛美することこそ、被造物である私どもの命、生きる力の源であるということですね。

 

この4節で、パウロが「主において常に喜びなさい」と述べている「主において」とか「主にあって」という言葉はフィリピの信徒への手紙で8回も出てきますが。この「主において」「主にあって」とは、「主イエスに結ばれた者として」という意味であります。いつも救いの主、キリストに結ばれている。主が共におられ、真理の言葉に導かれている平安。どんな時もその幸いを思い起こして「常に喜びなさい」というのです。

わたしたち人間のよろこびは感情や状況によって変わりゆくもの、一時的なものです。しかし、主に結ばれた「喜び」は尽きることがありません。パウロは迫害され、投獄され、むち打たれながらも、神を賛美し歌った時、地震が起り、獄の戸が開いたとあります。苦境の中でもなお主に結ばれている幸いをもって賛美する。そこに私たちの生きる力、命の源があるのです。

 

  「平和の神」

次に、今日の6-7節でパウロは「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めるものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と、述べます。

「思い煩う」。これは私どもも時に経験することであります。心が捕われて思い苦しむ。また、あれやこれやと考えてみたが、これという良い解決方法がなく、途方に暮れる。そういう事があるでしょう。あれやこれやと考えるうちはまだよいのですが、不安や怖れが心を支配するようになってくると、これは思い煩いです。

ここで大事なことは、パウロが言っているように「思い煩いをやめる」ということです。しかしそれは自力や頑張りではできるものではありません。先ほど「主に結ばれた者の喜びは尽きない」と申しましたが。いのちの主への感謝と賛美を捧げ、自分の心の内にある思い、求めをすべて主に打ち明ける。そうすれば、人知を超えた神の平和が、その人の心のうちを支配し、あらゆる思い煩いから守られるのであります。

 

さらに9節においてパウロは、「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」と述べています。

先週の3章17節でも、「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」とありましたが。それと同様に、「わたしが、まだ目標に達していない姿を見てなさい」「わたしの弱さを見てください」「途上にいながら、夢中に端っているのを見て下さい」「ただイエスさまの十字架だけを誇りとしている、この姿に倣って下さい」ということであります。

パウロは、そうすれば「平和の神が共におられる」と言うのです。

これを記した時、パウロは狭く、暗い牢獄の中に拘束されていました。そのパウロが

11節以降で次のように述べています。

「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。

わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」

 

「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」

パウロは、何か自分に力があり、強く、立派であるから、わたしにはすべてが可能なのです、と言っているのではありません。

コリント二12章7-10節を見ますと、このように言っています。

「思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるののだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに自分の弱さを誇りましょう。」

 

また、ローマ8章26節ではこうも言っています。

「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」

 

パウロは、弱さの中でこそ働かれる主御自身の力に信頼しました。聖霊が執り成して助けてくださること。それはまさに「平和の神が共におられる」ことを経験していたのです。

自分の障がいや病が取り除かれるように3度、これは3回ということではなく、徹底的にということです。それほど神に祈り続けたパウロが受けた主からのお答は、弱さからの開放や克服ではなく、弱さの中に働かれる神の力でした。パウロはそのことのゆえに、自分が高ぶったり、誇ったりすることにではなく、ただ主の恵みと力、その源であるキリストを喜びぶことによって、どんな境遇の中でも満たされる秘訣を得たんですね。

 

わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしはすべてが可能です。

何と力強い、信仰の宣言でしょうか。私どもも、「わたしが弱いときにこそ、キリストにあって強い。」

又、使徒パウロに倣い、私を強めてくださるお方によって、私はあらゆる境遇にあっても、福音の力に生きることができる。そのような信仰の歩みとされたいですね。

 

最後にパウロはフィリピの信徒たちにこう言います。

「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。」

パウロがこのフィリピの信徒への手紙を書いたのは、2章に記されているエパフロディトを通してフィリピの信徒たちから献金を受け取ったことに始まりました。

パウロにとってフィリピの信徒は、福音においても、投獄の時も、法廷で弁明する時も、又苦しみの時においても、協力者でしたし、パウロの財政的支援も共に担ったのです。フィリピの信徒たちの支援についてのみパウロは受入れたようですが。

パウロはそのフィリピの信徒の善意を素直に感謝し、喜びを表わしますが、それはただ、「困窮を助けてもらった」とか「物質的必要が満たされた」事だけを喜んでいるのではありません。

パウロは「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」と先に述べていますように、支援金を頂かなくても対処できたようです。が、あえてそのフィリピの信徒たちからの支援金・援助を受けたのです。

それは、彼が孤高に生き、誰の世話にもならない孤立した生き方を選んだのではなく、フィリピの信徒たちと主の福音の豊かさ、その拡がりを共にすることを「喜びとした」からです。パウロは、フィリピの信徒たちが自分の患難をも共にしてくれたことを喜んでいるのです。

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12・15)

神の平和に生きる私たちは喜びと同時に、苦しみをも共にすることができる。それが福音の力であり、弱さの中に働く神さまの力であります。

 

今日は特に沖縄・命どぅ宝の日を覚えての礼拝でもあります。

沖縄のかつての歴史と現状に思いを馳せながら、もはや決して人ごとではありません。私たちも「ぬちどぅ宝」、命こそ宝との声に祈りを共にしてまいりましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7月のこども食堂 6月は、紙ねんどで美味しそうなソーセージパンを作りました!

2019-06-29 09:34:19 | お知らせ

おいでや!こども食堂へ

にちじ:7月10日(水)午後3時30分~7時

 7月もやるよ~

ばしょ:大阪教会2階ホールへおいでください。

こんだて、おたのしみ

小学生50円 中学・高校生100円 親・おとな200円です。


みんなでいっしょにたべて、うたい、あそぼうー。

宿題ももっておいでや~。

赤ちゃん連れのママ・パパも歓迎いたします。

ボランティアさん、ほぼ10人おります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Zawameki 賛美特別集会のお知らせ

2019-06-25 20:18:43 | イベント

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目標をめざして

2019-06-23 20:19:02 | メッセージ

礼拝宣教 フィリピ3章8節-4章1節 神学校週間

 

本日は先のアピールにもございましたように、私たちのバプテスト連盟の教派神学校、西南学院大学神学部をはじめ、九州バプテスト神学校、東京バプテスト神学校と献身者をおぼえる時となっております。特に私ども大阪教会からもKさんを西南学院大学神学部へ送り出しており、今年神学専攻科の最終学年を迎えています。目下彼は、卒業後牧師として立てられる任地のために祈り、備えておられます。

 

さて、本日の宣教箇所として、フィリピの信徒への手紙3章8節から4章1節が読まれました。今日はここから「目標をめざして」と題をつけさせていただきました。

先に、Kさんについてふれましたが、彼の当座の具体的目標は神学専攻科の卒業であり、牧師として立てられる任地が与えられることであり、彼はその目標のために日々祈り、励み、努めておるかと存じます。私たちも当座の具体的な目標を立てた場合、その目標を達成するために計画をたて、日々なすべきことを定め、それに努め、時にはそのために自己規制、節制もしなければならないこともあります。自分の好き勝手なことをしていればその目標を達成することは困難です。

 

礼拝の招詞で読まれたコリント一9章24節以降で「(賞を得るために)競技する人は、皆、すべてに節制します」と記したパウロは、「わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです」と語りました。その後の26節では、「だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません」とも述べています。

 

本日の箇所でパウロが「目標をめざして」と述べています目標とは、まさにこの「朽ちない冠を得る」ということであるのです。

それは今日3章21節で述べた、「キリストがわたしたちの卑しい(朽ち果ててしまう)体を御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」ことなのです。

キリストが、「目標をめざして生きる」者に対して、最終的に「朽ちない冠を授け」、「朽ちるいやしい体を御自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さる」。主を信じて日々信仰の生活に励むクリスチャンには、そこに確かなる希望があるということです。

 

パウロは今日の箇所で、神さまからの大いなるプレゼントについて述べます。

それは神の救いの福音です。

8節にあるように、「救い主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさ」というプレゼントであります。

これまでに何度も申しましたように、パウロはキリストを知るまで、「肉を頼り」にして生きていました。自分がイスラエルの民に属し、神の律法に熱心なファリサイ派の一員で、キリスト教会の迫害者であり、律法の義については非のうちどころのない者であったと3章4節以降で述べているように、これらこそがパウロにとって神の民として生きる重大事であり、誇りであったのです。

しかし、今や彼はそれらのもの一切を「塵あくた」と見なしている、と述べます。まさに、キリスト、救い主(メシア)を知ったからです。主イエス・キリストを知ることの絶大な価値に目覚めたからです。

ここでいう「知る」とは、単に知識をもった、理解できたということではありません。もうわかったという完了や完成ではないのです。私はコーヒーが大好きなのですが。コーヒーを味わうことは奥が深いですね。「私はコーヒーがわかった」なんて言うと、コーヒー通の人達から、「何がわかったのか」とお叱りを受けるくらい色んな味わい方があります。

キリストと出会い、キリストの救いの奥深さを日々経験していることが、ここで言う「知る」ということなのです。「知れば知るほどすばらしい」。

このキリストの救いを経験した者の歩みは、先程の目標に達するまで決して完結するものではないのです。まあコーヒーの話をしてしまいましたが。人間の関係においても、交際している相手についてうまく行っている時というのは意外と相手のことを知らないことの方が多かったりします。

ところが、交際していくうちに相手の性格や癖などがちらほら見えだし、それがもうはっきりとしあらわになってきますと、「あなたのことはよくわかった」と互いに言い合って別れてしまうことになったり、夫婦間であっても性格の不一致という理由で離婚になることもあります。

人間関係においては、「知った」「わかった」ということで疎遠になったり、別れたりということが多々あるものです。

 

しかしパウロはここで「キリストを知った」にも拘わらず、「キリストを得るため」(8節)と言います。

「もうキリストによっての救いに与った、すでに頂いている」のに、「それを得るために」とうのは、一見矛盾しているように思えますが。

そうではありません。それはキリストを知ることのそのあまりのすばらしさゆえに、もっともっとキリストを知りたい、更に深く知りたい、知り続けたい、というパウロの渇望です。

 

そのことについてパウロは10節以降でこう述べます。

「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」

 

救い主イエスさまを信じて救にあずかってできあがり。聖書も神学書もいっぱい読んだから分かったという卒業クリスチャンはないということです。

キリスト者ともいいますのは、わたしたちのうちにイエス・キリストがいつも、どんなときも共に生き、働かれていることを日々の信仰生活の中で体験し、体現していく者とされているということです。

「キリストのために苦しむことまでも恵みとして与えられている」と言い得たパウロは、牢獄の中で、又フィリピの信徒たちとの主にある交わりにおいて、まさに共なるキリストを体験していたのでしょう。

 

10節の「キリストとその復活の力」は2000年以上前に過ぎ去ったものではありません。

現在、今この時を生きる私たちが、キリストと共に古き肉なる人に死んで、キリストの新しい命にあずかるところにその力は今も働いているのです。そうした信仰の日々の積み重ね、その延長線上に、やがて訪れる神の御国という目標があるのです、そのように「キリストのよみがえりの命」「今私たちの内におられるキリストと共に生きる命」そして来たるべき日に与えられる「復活の命」は、それぞれ別々のものではなく、一つにつながっているのです。

 

12節-14節でパウロはこう述べます。

「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標をめざしてひたすら走ることです。」

ここでパウロが「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」と言っているのは、自分たちは既に救いを得ている、その上割礼も受けて、戒律を守っている、とまあ自分を完璧なクリスチャンだというふうに誇り高ぶっていた人達、自己完結していた人達を意識してこう述べているんですね。

パウロ自身もかつてはそのように肉を頼みとして生きていたのであります。だからこそ、キリストを知る、キリストの救い、新しい命を得ている者は、「既にそれを得たとか、完全な者になっている」などとは考えていません、と言い切るのです。

 

パウロが「後ろのものを忘れ」と述べたのは、単に過去のことを忘れなさい、と言っているのではありません。この「後ろのもの」」とは、彼が自分の才能や能力、地位や立場といったものに価値をおき、それらの肉を頼みとしていた古き人、キリスト知る以前の人生を指します。

「前のもの」とは、キリストをさらに深く知り続ける人生を指します。

 

パウロは信仰の生涯を、競技に参加して走るランナーにたとえていますが。

ここからわたしたちの信仰の人生がどういうものかを読み取ることができます。

まず主イエス・キリストとの出会いがあり。そして信仰をもってそれを表明し、バプテスマを受けるのです。

主イエスさまの十字架のあがないの業による罪のきよめによって、古き人はキリスト共に死に、キリストと共に新しい命を受け、新しい人として人生がスタートします。そこから信仰の生活が始まったのです。それは競技にたとえられていますように、本気で目標目指していこうとすると、時に苦しみ、しんどさ、つらさを経験したり、又信仰の闘いも起ってまいります。

けれどもそれは理由もなく、意味のない苦しみや闘いではありません。

 

パウロは又ここで、その信仰の人生をどのように完走したらよいかを伝授しています。

「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標をめざしてひたすら走ることです」。明確な目標の確認と、それをめざしてひたすら走るということですね。

先程から読んできましたように、わたしどもには、「キリストの栄光ある体とされる」「朽ちることのない体とされる」という最終のゴールがあるのです。そのゴールを見上げながら日々キリストと共にひたすら走る。走り抜く。これは信仰の話ですから別に体力はいりませんので、ご高齢の方でも走れます。大丈夫ですよ。

 

さらに今日の後半の17節でパウロは、「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者になりなさい」と述べます。

わたしたちは人に対して、とうていそのようなことは言えないものですが。

けれども、あえてパウロはこのように述べます。自信家、うぬぼれが強かったのでしょうか。そういうことではありません。それは何も、自分はこんなに偉い、立派なのだからと、誇ったりしているのでもありません。

ここで押さえておきたいのは、パウロが「涙ながらに、キリストの十字架に敵対する者が多いのです」と述べている点です。

このキリストの十字架の敵とは、自分を誇る人たちのことです。彼らはすっかり完成し、

卒業したと思い込んでいる信仰者です。

自己完結し、あの人達よりは立派になったと思っている人たちです。そういう人達はもはや十字架の救いを必要としていません。そういう人達は、救いを自分が勝ち取ったと思っているからです。

パウロはこういう人たちの教えにフィリピの信徒たちが惑わされないように注意を促しながら、「わたしが、まだ目標に達していない姿を見なさい」「わたしの弱さを見て下さい」「途上にいながら、夢中で走っているのを見て下さい」「ただ主イエスさまの十字架だけを誇っている、この姿に倣いなさい」と述べているんですね。

 

わたしたちの本国は天にあります」。

完走者に与えられる栄冠は地上にではなく、やがて神の御国、天の国で主御自身の御手から頂くのです。

一生懸命に、イエスさまを信じ、追い求め、闘っている人を、神さまは日々新しい命に生かして下さるのです。

そしてさらに復活の新しいみ体に、栄光の姿に変えてくださる。それはキリストの教会につらなるわたしたちの共通の喜び、希望です。

だから、パウロはフィリピの信徒たちに向け、又、今わたしたちに向けて、「わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」とエールを送ります。

今週も、その信仰の目標をめざして、主によってしっかりと立ち、ここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

 

※次週6月30日(日)は、「沖縄・(ぬち)どぅ宝をおぼえての礼拝」です

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真の喜びに満たされるために

2019-06-16 20:12:00 | メッセージ

礼拝宣教 フィリピ2章1-18節

 

先週より使徒パウロが獄中からフィリピの信徒たち(教会)へ書き送った手紙を礼拝で読み始めていますが。

本日はその2章から、「真の喜びに満たされるために」と題し、先週に引き続き、その喜びを聞き、受け取っていきたいと願います。

先週も申しましたが、パウロとフィリピの信徒たちの関係は良好で、パウロは物心両面でフィリピの信徒たちの支援を受けていましたし、又獄中においてもフィリピの信徒たちの祈りによる霊的な支えがありました。

その一方で、フィリピの信徒たちの間には、対立や不一致の問題が生じていたことをパウロは知っていました。

たとえば42節以降を読むと、どうやらフィリピ教会の2人の婦人たちの間に対立があったようです。そのことに対してパウロは両者に、「主において同じ思いを抱きなさい」と助言します。そして、他の信徒たちに対しても、「この二人の婦人を支えてあげてください」と、執り成すのです。

 

パウロは1節以降で、「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐みの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」と記していますが。

この文面からもそういった対立や不一致の状況がかなり深刻であったことが伺えます。

 

そういう中でパウロは一同に、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と、主にある喜びを新たにすること、又その喜びを共有していくように促します。

同じ主と、その救いを信じる者同志の間にも起ってくる対立や不一致といった問題にあってパウロは、「主において喜ぶこと」が重要な解決の鍵となることを示します。

 

では、その「主において喜ぶ」という、この喜びとはどういうものかということでありますが。

イエスさまご自身、ヨハネの福音書で「喜び」について多くを語っておられますが。

その15912節で次のようにおっしゃっています。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためであるわたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」

イエスさまのおっしゃった喜びは、単に「私はうれしい」「自分は幸せだ」という自己満足で完結するようなものではありません。主の救いと、その愛を知った私たちが、その主の愛を分かち合い。互いに愛する。つまり互いにその存在を大切にする。それが具体的にイエスさまの愛にとどまっていることであり、そういう中で主において「喜びが満ちあふれるようになっていく」という事です、

 

3節以降でパウロは「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いを自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」と述べます。

 

対立や不一致の問題は、「利己心」と「虚栄心」から起こっていることをパウロは知っていました。「利己心」とは自己中心ということです。それは党派心や野心とも訳せる言葉です。

救いの主、イエス・キリストの御心がどこにあるかということよりも、又他者や隣人を大切にする思いよりも、自分に益になることばかりを求め、自分の考えや意見に固執していくときに利己心は働くのです。

また「虚栄心」とは。辞典でひくと、「見栄をはろうとする心」とあります。つまり、

実質が伴わないのに、見せかけだけで人によく思われたり、見られようとすることです。それは、自分が人からよく思われたい、立派に思われたい、特別な存在でありたいというような思いが働いて、その行いが神にささげられるものでなく、又他者や隣人への愛でもなく、見せかけのもの。偽善的なものになっている状態です。

それらの「利己心」と「虚栄心」がフィリピの信徒間、教会内部に対立や不一致を生じさせていたのですね。

 

それらの原因が取り除かれ、主イエスにある喜びがフィリピの信徒たちに取り戻されためには、パウロが1節以降で述べていますように、「キリストによる励まし、キリストによる愛の慰め、聖霊による交わり、神の慈しみと憐れみ」が、お互いの関係の中に必要であったのです。

まさにそれはキリスト、聖霊、神という三位一体の、神さまによる関係性です。

それは何か人間関係の方法論とかリーダーシップ云々とかじゃないのです。

実際、教会にある喜びって兄弟姉妹との主にある励ましや慰め、又主の愛に根ざした言葉のやりとりや祈り合えることではないでしょうか。聖霊のお働きに助けられながら神と人との関係がゆたかにされる時、私たちのうちに喜びがあふれるのです。

 

パウロはここで、「何事も利己心や虚栄心からではなく、へりくだって相手を自分よりも優れた者と考える」よう説いていますが。これは「キリストに倣って、互いがへりくだる。」岩波訳では「謙虚な思い」と訳されていて、こちらの方がしっくりくる気がしますが。

ただこの、「へりくだり」と訳された原語は、ギリシャ文化においては、「卑屈」、つまり「必要以上に他者にへつらう」という、あまりいい意味をもった言葉ではなかったということです。

しかしパウロは、そういう否定的に「人にへつらいなさい」と言っているのではありません。へりくだることを「自分を卑下しり小さくすることだ」と考えて、人の前ででしゃばらないようにするとか、ということでもありません。

肝心なことは、4節5節にありますように、他の人のこと、その思いにも注意して、互いに尊重するように心がけることです

 

パウロはこの「へりくだり」が「キリスト・イエスにも見られるものです」と述べ、当時の初代教会で歌われていた「キリスト賛歌」を引用いたします。

6節「キリストは、神の身分でありながら、神に等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

 

ここに、キリストの「へりくだったお方としてのご生涯」を見ることができます。

イエス・キリストは、まず生まれ、身分の低い人たち、罪人と呼ばれる人たち、社会の片隅に追いやられた人たちと分け隔てなく食卓をともにし、祝福なさいました。そして十字架にかけられ、死に至るまで自分の思いではなく、父なる神さまの御旨に従われました。

世間はこのイエス・キリストの十字架と死は敗北者、失敗だと見るかもしれませんが。このイエスさまこそ、神に従い、救いの業を成し遂げられた救い主:キリストであり、真の勝利者なのです。

 

このため9節、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」と、こうパウロは述べます。

イエスさまが、ご自分の思いをすべて捧げきり、へりくだって父の神の御心に従い、罪の世の人々を愛しぬかれたその十字架のお姿。

まさにキリストがこのように「へりくだった」者となって下さったことによって、私たちは裁きによる滅びから救われ、贖いとられて、晴れて神さまとの新しい命の関係に生きることがゆるされ、日々新しい人とされている。これがキリスト者、クリスチャンであります。

 

パウロは12節で、「だから、おそれおののきつつ自分の救いを達成するよう努めなさい」と勧めます。

「救いを達成するよう努めなさい」と聞くと、どこか自分の力や業によって救いを勝ち取ったかのように聞こえますが。そういうことではありません。

自分の救いを達成する」とは、信仰告白を公に表して、キリストのバプテスマに与った新生者の、救われてからの「信仰生活」に関するお言葉であります。

「救い」は、唯神さまの一方的な恵みの御業によるものであります。

しかし信仰の歩みというものは、神さまの恵みに応えて御心を求め、御心に聞き従っていく、そのような応答の信仰をもって進んでいく日々によるものです

それがもしないとしたなら、神さまの恵みをはじめ、与った尊い御救いさえも忘却の彼方へと見失ってしまうことになります。

それはたいへん残念なことです。私たちに命を与えてくださったお方、真に畏れ敬うべき祝福の基であられるお方を見失ってしまうことほど、もったいないことはありません。

神さまにとっても、それはどんなに悲しいことかと思います。主イエスさまが十字架上で肉を裂かれ、血を流して死んでくださって、救われた命です。

 

だからこそ、「おそれおののきつつ自分の救いの達成に努めなさい」とパウロは述べます。

ここでの「達成」とは、最後までやりぬく、やり遂げる、という意味をもつ言葉です。

信仰の生活を最後までなし遂げていくという意味ですね。岩波訳聖書には「救いを獲得しなさい」と訳されていますが。獲得ですから、失われたり奪われたりすることがあるということです。

だからこそ、日々神の言である聖書を読んで、祈って、御言葉に生きていくことが大事です。又、主日礼拝を捧げ、できれば祈祷会と聖書の学びを共にし、救いの完成の日に向け、福音伝道の使命を共に担い、救いの達成に努めなさいと、これは私たちにも勧められているお言葉です。

 

そのように「自分の救いを達成する」、成し遂げていくという決意をもって日々努めて生きる私たちを、神さまは守り導いてくださいます。

13節、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」

先の「自分の救いを達成するように努める」、日々そのために信仰生活に励む者のうちに、主の霊が共にお働きになり、主の御心を行いよう導いてくださるのです。そのことを期待し、希望を持って信じて生きる。これがクリスチャンですね。

 

16節でパウロは、「わたしは自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄でなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」と述べます。

 

パウロの人生はある意味戦いと苦労の連続でした。パウロが伝道したあとを、かきまわして混乱させたり、兄弟といつわって、パウロを騙したりする人がいました。又様々な迫害が起こり、殺されてしまいそうになったこともありました。そのほかにも教会内にゴタゴタが起き、分裂したり、時には、さすがのパウロも投げ出したくなるようなこともありました」(コリント189.112330、ガラテヤ3:1)。

そのパウロは、今、死を前に、これらの戦いと苦労の連続の人生を振り返る中で、これまで走ってきたことは、無駄ではなかった。苦労したことも、決して無駄でなかった、と確信することができたのですね。

 

そこにはイエス・キリストが父の神の愛に応えて、自らへりくだって十字架の死に至るまで従順であられたことに、自らも倣って生きて来ることができた。その恵みへの感謝と喜びがあったからです。

「命の言葉をしっかりと保って生きたこと」への喜びが。

そのキリストにある真の喜びが、フィリピの信徒たちのうちにも満ちあふれることを何より願っていたのもパウロであったのですね。

 

先日はYさんより「主イエスを信じて、バプテスマを受けたい」とのお申し出があり、私は心から主をほめたたえました。Yさんはご高齢で今車いすでの生活となられ、一人で出歩くこともむずかしくなられましたが。先にお連れ合いが天国に先立っていかれたことを偲びながら、きっと神さまの霊、ご聖霊がゆたかにお導きくださったのだと信じます。どうぞ、これからキリスト者となって新たな歩みをお始めになろうとされているYさんのご準備のうえに、お祈りをお願いいたします。

 

私たちもまた、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心によって、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにしてキリストを模範として、真の喜びに満たされた生涯の日々となるよう共に努めてまいりましょう。又、今週もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

次週は「神学校週間」をおぼえての礼拝。 箇所聖書:フィリピ3章8節-4章1節

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜人企画 演劇「RED」公演

2019-06-15 07:56:40 | イベント

日時 6月15日(土)ゲネ10:00 13:00/17:00 

     16日(日)15:00   

        料金:前売り¥2,500/当日¥3,000(韓国茶・韓国お菓子付)学生¥1,500  公開ゲネは¥500未就学親子等 

会場 日本バプテスト大阪教会

主催 桜人企画(さくらきかく) ご予約フォーム http://my.formman.com/t/A6D2/ お問い合わせ http://sakura-presents.com/

「RED」あらすじ~今回の演劇は韓国です。韓国は人口の3分の1がクリスチャンという、アジアでもフィリピンにつぐキリスト教大国です。今回は韓国最初の※1 殉教者ユン・ジチュン(カトリック司祭)を描いています。そして劇は過去と現在が平行しとて描かれます。現在の韓国を冤罪事件を通して、昨今のニュースやKPOP、韓国コスメなどからイメージされる韓国とは別な側面を描いてています。主人公である山本真一がが、いとこのジェドクに巻き込まれ、韓国で起った※2 冤罪事件にかかわることになり・・・。過去と現在が交錯する韓国の歴史に基づいた物語。劇中にはオリジナルゴスペルも歌われます。

※1 珍山(チンサン)事件 珍山村に住む2人のクリスチャン、ユン・ジチュン、クォン・サンヨンが、ジチュンの母親が亡くなった際、伝統的な埋葬の仕方をせず、キリスト教式にしたので、当時の儒教思想に反すると大問題になり、処刑された事件。

※2 冤罪事件は実在の事件を参考に描いたフィクション。

 

【出演】

綾鷹新、今井敦、春日、中村美咲、馬場さくら、フジサワユウ

masumi(シンガー)、Haruka(歌)、神薗善規(尺八)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こども食堂のご案内

2019-06-11 10:19:45 | お知らせ

おいでや!こども食堂へ

にちじ:6月12日(水)午後3時30分~7時

 6月もやるよ~

ばしょ:大阪教会2階ホールへおいでください。

こんだて、ジャージャーめん みそ汁 でございます。

小学生50円 中学・高校生100円 おとな200円


みんなでいっしょにたべて、うたい、あそぼうー。

宿題ももっておいでや~。

赤ちゃん連れのママ・パパも歓迎いたします。

ボランティアさん、ほぼ10人おります。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キリストが崇められるために

2019-06-09 13:13:58 | メッセージ

礼拝宣教 フィリピ1章12-30節 聖霊降臨 

 

「序」

今日は聖霊降臨;ペンテコステをお祝いする礼拝をお捧げしておりますが。

本日からフィリピの信徒への手紙を礼拝で読み、ここから御言葉に与っていきたいと願っておりますが。その1章の「挨拶」や「パウロの祈り」を読みますと、前週まで読んできましたガラテヤの信徒への手紙と比べて、フィリピの信徒たちとパウロとの関係は親密で良好なものであったことが伺えます。

フィリピの教会の生い立ちについては、使徒言行録16章にありますように、かつてパウロが第2回目の伝道旅行の際に体調を崩してフィリピを数日間滞在しましたが。

その折にパウロはリディアという婦人と出会い、このリディアの家族が中心となって教会が成長していきました。パウロがそこを発ってからもフィリピの教会はパウロとの良き関係を保ち、パウロの伝道の活動を覚え祈り、援助をしてきたのです。

その後、フィリピの信徒たちにパウロが捕えられて、獄中にいるというショッキングな知らせが届いたようです。そういったなかで書かれたのが、このフィリピの信徒への手紙です。

この手紙は、暗く狭い獄中の、自分の身に死がいつ及ぶのか、わからないような状況下にありながらも、キリストによって愛してやまないフィリピの信徒たちに向けた、叱咤激励の言葉で満ちています。又、この手紙には「喜び」という言葉がちりばめられており、別名「喜びの手紙」と言われています。

今日は、その究極的状況の中でのこの喜びの源泉とは何であったのか、ご一緒に読み取っていきたいと思います。

 

「パウロの報告」

1226節において、パウロは獄中にいる自分の安否について気にかけ、心配してくれるフィリピ教会の信徒たちに対してこう記します。

「兄弟たちよ、わたしの身に起った(投獄、監禁)ことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。」

パウロは自分のことがどうなっているか知りたいと、その身を案じているがっているフィリピ教会の信徒たちに対して、自分の身に起ることはすべて福音のために益となっていることであるというのです。

彼は「わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕われているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」と報告します。

パウロの投獄という事態が、ローマをはじめその統治下にあった異邦世界に、キリストや福音とは何なのか、そのことが証し(弁明)される機会となった。

それは又、主に結ばれた兄弟姉妹たちにとっても、主にある信頼を堅くされ、彼ら自身が勇敢な者とされ、御言葉を伝える力となり、まさに「福音の前進に役立った」と証言しているのですね。 

彼らは、「あのパウロさまが捕えられ、投獄されたのだから」と、もう信仰がなえて、後ろ向きになって、何もしなくなったのではなく、そういう状況の中で、主が生きて働かられているという信仰を、むしろ強められて、益々豊かに福音を伝える者とされるのですね。

 

ただそういう中にあって、1517節にあるように、「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者が、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせている。まあ、中にはそういう人たちもいたということです。ちなみに口語訳では「党派心から」となっていますが。

 

パウロの福音宣教と働きに対してねたみと争いの念にかられ、反感や敵意をもつクリスチャン伝道者がいたということです。彼らはパウロが獄中に監禁されるや、自分たちの勢力の拡大を計ろうとしていたようです。

けれども、ここでパウロは「とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」と、述べます。

そうした人間同士のギラギラ、ドロドロとしたものがあったとしても、「キリストが告げ知らされている」ことには変わりない、わたしはそのことを喜ぶ、とパウロは述べます。神さまは人の心の思いや動機まで見通しておられるお方です。パウロの目的は確かでした。一人でも多くの人に「キリストの福音」を伝えたい分かち合いたいというただその一心でした。

 

使徒パウロはこのフィリピの信徒への手紙の1節冒頭で、自らを「キリスト・イエスの僕」と紹介しました。僕、原語でデューロス:それは奴隷のことです。彼は獄に捕われ、見たところ人の奴隷のようにされていました。しかし、彼はキリストに捕えられキリストの奴隷となって働く伝道者、使徒であったのです。それは強いられてそうなったのではなく、キリストと出会い、ほんとうの神の愛を知って自らキリストの僕、奴隷となり仕える者とされたのです。それだからこそ、パウロは主人であるキリストが告げ知らされることこそが、パウロにとっての最大限の喜びであったのですね。

まあ普通は投獄でもされたなら、その思い巡らすのは自分の不幸の身の上であったり、口を開く度に自分を正当化しようとしたり、保身につながるようなことを主張するものでしょう。さらに、誰かを恨み不安にさいなまれますと、心も魂も病んでいくことにもなります。

しかしパウロは違いました。

彼にそうした状況の中におかれても、他を非難中傷することや自己正当化すること、また恨み憎しみに捕われることもありません。それは、彼を捕えているのが世の力ではなく、キリストであったからです。

 

まあここを読みますと、パウロってすごい人だなあと思うのでありますが。

その彼には2つの重要な助けがあって、そのように言い得たということが19節でこう記されています。

「というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。」

 

1つは、祈り。つまりフィリピの信徒たちの祈りの支えがそこに助けとしてあった。

そうですね。辛いとき、苦闘しているとき、主にある兄弟姉妹の祈りがどれほど心強いものでしょう。

もう1つは、イエス・キリストの霊の助けです。

今日は折しも聖霊降臨、ペンテコステの礼拝でありますが。あの使徒言行録1-2章の記事を思い起こしてください。

復活の主イエスさまが天に昇られた後、弟子たちはイエスさまの「父(神)がお約束なさった『聖霊』を送る」とのお言葉を、イエスさまが天にお昇りになった後、信じ、待ち望みながら、心を合わせて、ひたすら祈り続けました。

弟子たちの数も少ないし、イエスさまは肉をもったお姿ではおられません。

それに、まわりはあらゆる反対者や敵対する者がたくさんおり、どうしてよいか分りません。自分たちに力もないし、知恵もないし、不安だらけでした。ですから、神さまの霊、聖霊のお助けをいただく他ありません。そうして必死になって祈る一人一人の内に聖霊がお降りなられたのです。それを機に、弟子たちはその聖霊の力によって働き、福音が拡がっていったのですね。

今日に至りますまで、それは「祈りと聖霊」のお働きによるものなのです。この「祈りと聖霊」は切り離すことができません。主は私共の祈りをお聞きくださり、聖霊の力によって福音はゆたかに分かち合われていくのですね。

 

獄中のパウロにとって、フィリピの信徒たちの祈りはどんなにか支えであったことでしょう。まさに聖霊のお働きがそこにあったのです。パウロは祈りを通して働かれるキリストの霊によって確信を得、苦しみの中でも「喜び」さえ口にする事ができたんですね。

 

パウロはこう述べます。

20節「これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」

 

本日の「キリストが崇められるために」という宣教題は、このパウロの言葉から与えられました。狭く暗い獄中の監禁された状態で、パウロは死を覚悟したことでしょう。

死はだれにとっても怖いことです。しかし、パウロは生きるにしても、死ぬにしても自分の身によって、「キリストがあがめられる」ことを求めました。

この「あがめる」とはもとの原語で、「大きくする」という意味をもっています。

つまりパウロは生きて働く時も、キリストこそ大きくあらわにされることを求め、自分が死ぬことによってもキリストが大きくあらわされることを求めたんですね、

やっぱりパウロがそのように言い得たのは、キリストの霊によってパウロの内に神さまの愛がものすごい力で働いていたからでありましょう。

それとは反対に、神さまの愛を内に持たない人は、自分が大きくされるのをいつも望むことでしょう。あるいは又、自分が大きくされたり、自分が高くされることばかりを求めていないでしょうか。自分が高くされたりすることばかり求める人は、自分が低くされたり、小さくされたりすると、すごい剣幕ですぐ怒る人です。そういう人の心のうちに神さまの平安はありません。

 

パウロは、いつも十字架のイエスさまの前で謙虚にされ、主の愛の中で主こそが大きくなるようにと切に願い、希望したのです。

牢獄に監禁されていた彼には、死ぬこと、生きることが、リアルに目の前にありました。

死とは殉教を指しています。彼は、その死をとおしてキリストがあがめられるであろうと考えたのでしょう。又生きるにしても、パウロの獄中からの励ましによって、フィリピの信徒たちの信仰が深められ、キリストにある喜びをもたらすことになると考えたのです。パウロはそのどちらであったとしても、「キリストが公然とあがめられる」ことを第一に望んだのです。

クリスチャンになりますと、神がほめたたえられる事を喜びとするように生きる人となります。礼拝や伝道集会のために祈ったり、奉仕者のために祈ったりと、自分に直接メリットなど何もなくても、「主がたたえられるため」に祈ります。そうして集会が祝福されると又、主に感謝し、主を喜ぶんですね。それこそが、わたしたちの内に働いて御心を実現なさる聖霊のお働きであります。これも先程の「祈りとキリストの霊の助け」ですね。

 

「信仰の戦い」

さて、12-26節で自分の実情について伝えたパウロは、2730節において、今度はフィリピの信徒たちに対して、彼らの教会が抱えている問題を取りあげます。

パウロは「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者に脅かされてたじろぐことはないのだと」と述べます。

ここには、フィリピの教会を揺さぶり、信徒をバラバラにしようとする反対者(党派心をギラギラさせていた人たち)がいたことが読み取れますけれども。

 

私たち信仰者にも信仰の闘いが日々あります。特には無いという人などいるでしょうか。それは世に流されているのでそれを感じていないのかも知れません。

私たちを神さまから引き離そうとする力、主の御言葉に聞き従おうとするのをやめさせようとする力や働きがたえず内に外にあります。それはいろいろな形で、あらわれていきますが。

このフィリピの時代にあっては、ローマ帝国であったり、偶像崇拝であったり。又、いつの時代にも働く人のうちにある罪の思いです。それらに共通するのは、神さまを神さまとしてあがめず、神さまでないものを神さまのようにしていく力です。

 

私たち主イエスさまの御救いに与っているクリスチャンとはいえ、肉的には弱く、ちょっと油断すれば、初めの愛から離されてしまうような危うい者なのです。

もし私たちが不信であれ、怠惰であれ、真の神さまをあがめさせないとする力に対して戦わないのなら、御霊の火は消え去り、喜びも失せて、信仰生活も味けないものになってしまうでしょう。

その信仰の闘いを戦う時に、その力は自分自身のうちからでなく、先程来申しておりますように、神さまから与えられます。

また、信仰の闘いに勝利する秘訣は、27節にあるとおり、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送る」ことであります。

それは、個々人の信仰の戦いに終始するものではなく、パウロが言っていますように、わたしたちが「一つの霊によってしっかりと立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦う」ことが大切なのです。そこにまさに聖霊を祈り求めていくことの必要性があるのです。

 

最後になりますが。パウロはフィリピの信徒へエールを送ります。

2930節、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」

「苦しむことも、恵みだ」と、そのように受入れることができるでしょうか。

それが、意味のないただの苦しみでしかないのなら、恵みなんて思えません。絶えられませんね。

ただどうでしょうか、たとえば、子をもつ親にとっては、その愛する子どものためなら苦しみや労することも厭いません。むしろ我が子のために喜んでその労苦を負うのではないでしょうか。それは子を愛するがゆえに、苦しみをも負うことができるのです。

 

しかし、もっとすごいのは、イエスさまはご自分を十字架に引き渡していったような罪人のために、又ご自分に敵意や憎しみを持つような者のためにも、その罪の裁きと贖いを果たすために十字架にかかり、究極の苦難を身に引き受けられたのですね。

このキリストの愛こそ、神の愛であります。

 

パウロはそのキリストの愛によって、滅びから救いへと生かされたのです。

ですからこの尊いキリストのために、「苦しむことも、恵みとして与えられている」ということを否定的にではなく、まさに「キリストがあがめられる」ために引き受けつつ、フィリピの信徒たちに対しても、「この同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」と言い切り、エールを送っているんですね。

 

イエスさまは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と、おっしゃいました。

私たちに向けても、イエスさまは何を第一として生きているのか。そのことを、今日の御言葉から受け取っていきたいと思います。

 

ペンテコステの聖霊は、恐れと不安の中にあった主の弟子たちが、主のお言葉をひたすら信じて、心を一つにして祈り続け、信仰の戦いをなし続けた初代教会の信徒たちのうちに臨みました。

私たちも、この聖霊にたえず導かれ、神さまの愛に満たされていることをおぼえ、新しい週もここから、それぞれの証しの場へと遣わされてまいりましょう。祈ります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夕べの礼拝(主の食卓を囲んで)のご案内!

2019-06-04 08:01:52 | お知らせ

日時 7月14日(日)午後6時-7時半  

これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。

気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金の時はあります。
 

 お車でお越しの方は、ご一報ください。


みなさま、お気軽にいらしてください!


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪教会の西側にそびえる夕暮れの通天閣

2019-06-03 19:33:32 | 教会案内

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする