宣教 フィリピ4章19節
本日は神学校週間を覚えて礼拝をお捧げしています。日本バプテスト連盟の諸教会・伝道所の教派神学校として、西南学院大学神学部をはじめ、九州、東京の各バプテスト神学校が立てられ、伝道者育成と神学教育が日夜なされております。どうか、それぞれの神学校の働きと献身者のことを覚え、お祈りとご支援をお願いいたします。
私は22歳の時でしたが、大阪教会から推薦を戴いて4年間西南学院大神学部での学びの道が開かれました。その間奉仕神学生として久留米教会、シオン山教会、糟屋教会の3つの教会に在籍して実践的な学びをさせて戴きました。
その際、推薦教会であった大阪教会から他の教会に出席する場合、教会籍を移すか否かという議論がありました。移すことに否定的な考え方として、推薦教会との関係が切れてしまうかも知れないという事がありました。連盟の奨学金を推薦教会の名前で借り受けしていましたので、卒業迄は大阪教会に籍をおいておいた方がよいとの考え方であります。 しかし大阪教会の当時中島牧師からは、その行くところ行くところでの教会生活が始まったら、たとえ1年でもあっても、教会生活の実体のある教会にきちんと籍を移す方が、お客さんでなく教会員として奉仕や交わりができる、という明快な助言を戴いたのであります。私は祈りながら、たとえ1年であってもその行くところの教会に籍を移し、奉仕やお交わりを共にさせて戴くことが相応しいという選択をいたしました。そうして久留米、シオン山、糟屋と、それぞれの教会に籍を置き、主にある豊かな交わりと学び、奉仕の時が与えられました。
私にとって神学部での聖書神学の研鑽は人生の宝となりました。それは自分勝手な観念で読んでいた聖書の読み方が変えられ、自由にされていくことでもあり、学べば学ぶほど、自分は如何に多くのことをわかっていたような顔をしていたかに気づかされました。神学寮での4年間は志を同じくする学友たちと寝食をともになし、寮の早朝の礼拝にも参加し霊性が保たれていきましたが、時に信仰観や教会観について夜通し熱く語り合い、激論になりぶつかり合うこともありましたね。そこで学生たちは自分の持っていた信仰観や教会観を揺り動かされたり、ぐらぐらにされたりと、突き動かされていく経験を一度はいたします。私はその中で「信仰とは何か」「教会とは何か」ということを再度問われ、見つめ直す時が与えられました。それは牧師として働く今も、その問いかけに耳を傾け続けていくことを怠らず、主と向き合って歩んでいく者でありたいと思っています。
私は大阪キリスト教短大神学科、さらに西南学院大学神学部をあわせると6年間の神学の学びと共同生活をさせて頂きました。神学校での出会いと学び、又3つの教会に籍を移しての教会生活は、その後牧師となるための豊かな肥やしになっていきました。
大阪キリスト教短大神学科での2年間は、この大阪教会とのお交わりが与えられ、お祈りとお支えがあったことは大きかったですね。当時大阪に来るにも元手や学費や生活費が必要でした。会社を退職し車を売ったお金が少しありましたのと、大阪キリ短神学生には当時授業料全額支援という真にありがたい奨学金制度がありそれを利用させて戴きましたのと、あとは日本育英会からの奨学金、そして大阪教会のひかり駐車場でのアルバイトによって、2年会の学費や生活を賄うことができました。
又、西南大神学部での専攻科を含む4年間の学費と生活についても、連盟の奨学金をはじめ、大阪教会やシオン教会からのご支援、奉仕教会からのご支援、又幼稚園での聖話のアルバイトや神学部校庭の草刈りのアルバイトなどによって、必要なものすべてが備えられていきました。ほんとうに感謝なことでありました。
先程、フィリピ4章19節の使徒パウロの言葉が読まれましたが、もう一度お読みしたいと思います。「わたしの神は、御自身の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」
このみ言葉のとおり、神学校時代において、神さまは私に必要なものをすべて備えてくださいました。それは経済的な面だけではありません。自分の信仰や教会観が突き動かされ揺さぶられるような経験をする中、しかし主はわたしに必要な信仰を残してくださったのです。
使徒パウロはフィリピの信徒たちに向けて、「神はキリスト・イエスにあって必要なものをすべて満たしてくださいます」と書き記しましたが。この「神が必要なものをすべて満たしてくださる」という言葉は、真に含蓄があります。まあ私たちは、「必要なものをすべて満たしてくださる」と言われれば、すごく心地よいもの、すべてよいものばかりを想像いたしますけれども。そうとは限りません。時として私たちにとって嫌な出来事や来てほしくない出来事も起こることがあります。そういう時に、なお神さまに信頼をして歩むことができるか、という信仰の真価が問われるのです。
しかし信仰の真価といっても、それは人の頑張りとか精神力でどうにかしろということではありません。使徒パウロはそこに重要なキーワードを記しました。それは「キリスト・イエスによって」という事なのです。つまり「十字架と復活のキリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて神さまが満たしてくださる」、そこに信頼していく、かけていく、ゆだねていく、ことなのです。十字架と復活の主を順調な折も、不調な折にも、時が良くとも悪くとも仰ぎ見ながら、その信仰をにぎりしめて歩んでいく時、主は「あなたに必要なものをすべて満たしてくださる」。その御業をきっと体験するでしょう。
使徒パウロは次のようにも書いています。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(1:29)。
主イエスが世に計りがたい祝福をもたらすために払われた犠牲の愛を思い起こしつつ、主の御跡を踏みしめてまいりましょう。
本日は神学校週間を覚えて礼拝をお捧げしています。日本バプテスト連盟の諸教会・伝道所の教派神学校として、西南学院大学神学部をはじめ、九州、東京の各バプテスト神学校が立てられ、伝道者育成と神学教育が日夜なされております。どうか、それぞれの神学校の働きと献身者のことを覚え、お祈りとご支援をお願いいたします。
私は22歳の時でしたが、大阪教会から推薦を戴いて4年間西南学院大神学部での学びの道が開かれました。その間奉仕神学生として久留米教会、シオン山教会、糟屋教会の3つの教会に在籍して実践的な学びをさせて戴きました。
その際、推薦教会であった大阪教会から他の教会に出席する場合、教会籍を移すか否かという議論がありました。移すことに否定的な考え方として、推薦教会との関係が切れてしまうかも知れないという事がありました。連盟の奨学金を推薦教会の名前で借り受けしていましたので、卒業迄は大阪教会に籍をおいておいた方がよいとの考え方であります。 しかし大阪教会の当時中島牧師からは、その行くところ行くところでの教会生活が始まったら、たとえ1年でもあっても、教会生活の実体のある教会にきちんと籍を移す方が、お客さんでなく教会員として奉仕や交わりができる、という明快な助言を戴いたのであります。私は祈りながら、たとえ1年であってもその行くところの教会に籍を移し、奉仕やお交わりを共にさせて戴くことが相応しいという選択をいたしました。そうして久留米、シオン山、糟屋と、それぞれの教会に籍を置き、主にある豊かな交わりと学び、奉仕の時が与えられました。
私にとって神学部での聖書神学の研鑽は人生の宝となりました。それは自分勝手な観念で読んでいた聖書の読み方が変えられ、自由にされていくことでもあり、学べば学ぶほど、自分は如何に多くのことをわかっていたような顔をしていたかに気づかされました。神学寮での4年間は志を同じくする学友たちと寝食をともになし、寮の早朝の礼拝にも参加し霊性が保たれていきましたが、時に信仰観や教会観について夜通し熱く語り合い、激論になりぶつかり合うこともありましたね。そこで学生たちは自分の持っていた信仰観や教会観を揺り動かされたり、ぐらぐらにされたりと、突き動かされていく経験を一度はいたします。私はその中で「信仰とは何か」「教会とは何か」ということを再度問われ、見つめ直す時が与えられました。それは牧師として働く今も、その問いかけに耳を傾け続けていくことを怠らず、主と向き合って歩んでいく者でありたいと思っています。
私は大阪キリスト教短大神学科、さらに西南学院大学神学部をあわせると6年間の神学の学びと共同生活をさせて頂きました。神学校での出会いと学び、又3つの教会に籍を移しての教会生活は、その後牧師となるための豊かな肥やしになっていきました。
大阪キリスト教短大神学科での2年間は、この大阪教会とのお交わりが与えられ、お祈りとお支えがあったことは大きかったですね。当時大阪に来るにも元手や学費や生活費が必要でした。会社を退職し車を売ったお金が少しありましたのと、大阪キリ短神学生には当時授業料全額支援という真にありがたい奨学金制度がありそれを利用させて戴きましたのと、あとは日本育英会からの奨学金、そして大阪教会のひかり駐車場でのアルバイトによって、2年会の学費や生活を賄うことができました。
又、西南大神学部での専攻科を含む4年間の学費と生活についても、連盟の奨学金をはじめ、大阪教会やシオン教会からのご支援、奉仕教会からのご支援、又幼稚園での聖話のアルバイトや神学部校庭の草刈りのアルバイトなどによって、必要なものすべてが備えられていきました。ほんとうに感謝なことでありました。
先程、フィリピ4章19節の使徒パウロの言葉が読まれましたが、もう一度お読みしたいと思います。「わたしの神は、御自身の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」
このみ言葉のとおり、神学校時代において、神さまは私に必要なものをすべて備えてくださいました。それは経済的な面だけではありません。自分の信仰や教会観が突き動かされ揺さぶられるような経験をする中、しかし主はわたしに必要な信仰を残してくださったのです。
使徒パウロはフィリピの信徒たちに向けて、「神はキリスト・イエスにあって必要なものをすべて満たしてくださいます」と書き記しましたが。この「神が必要なものをすべて満たしてくださる」という言葉は、真に含蓄があります。まあ私たちは、「必要なものをすべて満たしてくださる」と言われれば、すごく心地よいもの、すべてよいものばかりを想像いたしますけれども。そうとは限りません。時として私たちにとって嫌な出来事や来てほしくない出来事も起こることがあります。そういう時に、なお神さまに信頼をして歩むことができるか、という信仰の真価が問われるのです。
しかし信仰の真価といっても、それは人の頑張りとか精神力でどうにかしろということではありません。使徒パウロはそこに重要なキーワードを記しました。それは「キリスト・イエスによって」という事なのです。つまり「十字架と復活のキリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて神さまが満たしてくださる」、そこに信頼していく、かけていく、ゆだねていく、ことなのです。十字架と復活の主を順調な折も、不調な折にも、時が良くとも悪くとも仰ぎ見ながら、その信仰をにぎりしめて歩んでいく時、主は「あなたに必要なものをすべて満たしてくださる」。その御業をきっと体験するでしょう。
使徒パウロは次のようにも書いています。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(1:29)。
主イエスが世に計りがたい祝福をもたらすために払われた犠牲の愛を思い起こしつつ、主の御跡を踏みしめてまいりましょう。