礼拝宣教 創世記49・28-33
お帰りなさい。23日(火・休)は関西地方連合の信徒大会が神戸教会でもたれ、諸教会より220名を超える方々が集いました。共に主を賛美しつつ「いのちと平和」の調べを響かせる実に恵み豊かな集会となりました。大阪教会も有志の方々で出演し、沖縄の小学生が作った平和の詩の朗読と「花も」を賛美させて戴きましたが、いろんな方から感動したというお声を頂き感謝でした。今回大阪教会からこの信徒大会に13名が参加しましたが、みな口々に足を運んでよかった、心満たされ、力をいただき、リフレッシュされた、と笑顔で喜びいっぱいにされたのはうれしいことでした。主は賛美の上に座しておられるとの詩編の言葉がございますが、心を込めて賛美をささげ主を仰いでいく時、ほんとうに不思議な力が働き、主が共におられることを実感いたします。これからも益々いやしと解放を与えてくださる主への賛美に満ち溢れた教会でありたいですよね。
また、集会では沖縄の平和を訴えるアクションとして継続されている「官邸前でゴスペルを歌う集い」の活動の報告やフクシマの被災地の子どもたちを迎え入れて心身ともにリフレッシュを計る活動の報告もなされました。これらの働きも忘れることなく祈りに連なっていく必要を覚えました。
さて、4カ月に亘って礼拝で読んできました創世記からの宣教も今日で最終となります。
本日は創世記49章から「おのおのにふさわしい祝福」と題し、御言葉を聴いていきたいと思います。
この箇所は、実は47章後半からの「ヤコブの遺言」という長い文脈から続いているもので、ヤコブは自分が主のみもとに召される日が近づいたことを悟り、その子らを呼び寄せるのであります。
信仰の父祖であるアブラハムに始まり、その子イサク、そしてこのヤコブをとおしていよいよ神の祝福はイスラエルの民の基となっていく12人の子らに継承されていくのであります。その遺言は28節を読みますと、父ヤコブによって祝福の言葉として語られ、ヤコブは彼らを「おのおのにふさわしい祝福をもって祝福した」ということが書かれています。
このたった1節の中に実に祝福という言葉が3回も出てくるわけですが、普通一般に祝福というと、良いこと、幸いなこと、そういうことを願い、祈るものでありましょう。ところが49章からの「ヤコブの祝福」と小見出しが付けられた、ヤコブが12人の子らを祝福する箇所を読みますと、これがどうして祝福なのかと、そのように思えるようなことが幾つもあることに気づくのであります。
たとえば、ヤコブの初めての子で、神の契約を継承する長子の権利を有していたルベンは、他の兄弟たちより名誉と権威をもって生まれたのですが、自分の情欲のままに行動し父の側目と関係をもったため、長子の権利を失う、と語られます。
ヤコブの遺言どおりルベンの部族は衰退の一途を辿りゆくことになりますが、後々それはルベンの部族からは、士師、王、預言者などが一人も出なかったという事であります。
又、次男三男の気性のよく似たシメオンとレビの兄弟は、妹ディナに対する暴行への報復としてシェケムとその町の人々を怒りにまかせて無残に殺害したことのゆえに、厳しい裁きともいえる言葉が語られます。ヤコブは「彼らの謀議に加わるな」と告げていますが。どのような理由であれ自分の怒りの感情のままに人を殺めることによって受ける呪いは大きく、将来シメオンはユダの一族に吸収され、又レビは自分たちの地所を得ることができなくなってしまうのです。このように、ヤコブの遺言では彼らの行いが問われ、それに対する審きと呪いが語られています。
ところが、この49章のヤコブの祝福は到底喜ばしいとは言えないようなことまで語られた子らが、みな何か悪いことをしたかと言えば、そうとも言えないのがこの神の選びの不思議なところであります。
ヤコブは、その一方でユダに対してはこれでもかという程その幸いを語っています。
ユダという名は「讃える」という意味があり、その名のとおりユダは兄弟たちに讃えられるとヤコブは言うのですが。なんでユダに関してはそうなのか、ユダに特別よいところがあったのか、そのことについて聖書は何も触れていません。ユダは他の兄弟と共に弟ヨセフを妬み、亡きものにしようとした恐ろしい罪を犯したことがかつてありました。後々それを深く悔改めることになるのですが。それからすれば無条件ともいえる祝福に与ったユダは長子の権利を受け、このユダ族からダビデが生まれイスラエルの王となり、その王権と統治はユダから離れない、との祝福の約束は現実のものになっていきます。
そして時到って真のメシア・救い主イエス・キリストはこのユダのダビデ王の子孫としてお生まれになられるのです。
もう一人あますことなく祝福に与ったのはヨセフです。
ヤコブはヨセフに対して「限りない祝福が臨む」ことを宣言します。ここにはかつてヨセフが兄たちの妬みを買い、エジプトに売り飛ばされてしまい多くの試練の中におかれたことが思い起こされます。しかしそのヨセフを守り、導き、エジプトの総裁へと高めたのはまさに主ご自身であったのです。そしてこのヨセフを通して、父ヤコブをはじめ兄弟たちは飢饉を逃れエジプトに寄留することができたのです。
ヤコブは最愛の息子ヨセフが死んでしまったと思い長い年月を悲しみに暮れて過ごしました。しかしその長い歳月を経てヨセフと再会した時、すべては神のご計画であったことを悟ります。神は飢饉に滅ぶほかなかったヤコブの一族をこのような形で救い出し、遂には12人の兄弟に祝福が継承されることになるのであります。
話は変わりますが、15日と22日は二人の姉兄の納骨式がご親族と大阪教会の有志の方々と共に新会堂で行われました。天に召されたお二人とも新会堂の完成を目にすることはできませんでしたが、ご遺族も故人の遺志を汲まれ、主にある礼拝や交わりの家でありましたこの大阪教会に納骨することができて、ほんとうによかったと思いますが。
50章には、ヤコブの死後、ヤコブの息子たちが父の遺言どおりにアブラハム、イサクらが眠るカナンの土地であるマクペラの畑の洞穴に父ヤコブを葬るのであります。
父ヤコブの遺言どおりに行うためその手はずを整えていったのはヨセフでありました。彼の父ヤコブへの忠実な思い、それはまさに主に従いゆく彼の姿でもあったのです。
そしてヤコブの埋葬後にヨセフとその兄弟たちは共にエジプトに帰っていくのでありますが、聖書には「ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪を仕返しするのではないかと思った」(10:15)とあります。そこで兄たちはヨセフに人を介して「あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください」と伝え、兄たち自身もヨセフのところにやって来て、ヨセフに平伏し、「私どもはあなたの僕です」(10:18)と伝えます。
すると、ヨセフは「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民のいのちを救うために、今日このようにしてくださったのです」と言ったとあります。
聖書は「ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた」(10:19-21)と記しています。このヨセフと兄たちとの和解は、まさに「神の祝福」でありましょう。ヨセフはすべて「神のご計画であった」というのであります。しかし、そのヨセフ自身の苦労というのは並大抵のものではありませんでした。けれども彼は、真の主が共におられることをいつも信じ、主の御業が現わされることを仰ぎ望みつつ歩んでいたのであります。ここにヨセフが祝福されていく所以(ゆえん)がありました。
本日は、ヤコブの遺言から「おのおのにふさわしい祝福」という題で御言葉を聴いてまいりましたが。私たちは神の祝福というと、どこか耳触りのよい、快く自分に都合の良いことばかりを祝福として期待いたしますが。ヤコブが12人それぞれに「おのおのにふさわしい祝福」を語ったように、神のご計画、神が示される道は、一人一人それぞれにオリジナルなのです。人の目にこれが祝福といえるのかということさえ、神に依り頼み、神の救いに留まり続ける限り、それは「祝福」、「おのおのにふさわしい祝福」と聖書は28節にあるように言いきっているのです。ヤコブもまた、人の目には到底祝福に満ちたとは言い難い生涯でありました。けれども主と共にその人生を最後まで歩み通した暁には、「自分の足を寝床の上にきちんとそろえ、息を引き取り、先祖の列に加えられた」と聖書は記しています。つまり、彼は神の祝福に生きた信仰の先達に連ねられたのであります。
神の御子イエス・キリストは、私どもの祝福の基であります。この世界にあって滅びるほかないような人間が受ける審きを、ご自身が身代わりなって受けられ、そのすべての罪を贖ってくださったと、聖書は語ります。そんなの虫がよすぎて信じられるか、そんなバカげたことがあるか、と世間は言うかも知れません。けれどもその真実は生きて今もお働きになられる主なる神さまとその御言葉にございます。私どもは血肉によるならアブラハムやイサク、ヤコブの相続人ではありません。しかしながらローマの信徒への手紙8章には次のように書かれています。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人の奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光を受けるからです。」
神の言葉である聖書に触れ、日々馴染む中で、救い主イエス・キリストによって祝福を受け継ぐ者として連ねられ、共に祝福の人生を歩み通してまいりましょう。人生いろいろ。おのおのにふさわしい祝福があります。神は私たち一人ひとりを価高い者として愛し、祝福してくださっておられるのです。この神さまのもとに真の祝福があります。「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たち知っています。」(ローマ8:28)
ヤコブが最期に足をそろえて天に召されたように、私たちも人生の最後まで主に心を向け、心を整えつつ、日々を歩んでまいりたいものです。祈ります。
お帰りなさい。23日(火・休)は関西地方連合の信徒大会が神戸教会でもたれ、諸教会より220名を超える方々が集いました。共に主を賛美しつつ「いのちと平和」の調べを響かせる実に恵み豊かな集会となりました。大阪教会も有志の方々で出演し、沖縄の小学生が作った平和の詩の朗読と「花も」を賛美させて戴きましたが、いろんな方から感動したというお声を頂き感謝でした。今回大阪教会からこの信徒大会に13名が参加しましたが、みな口々に足を運んでよかった、心満たされ、力をいただき、リフレッシュされた、と笑顔で喜びいっぱいにされたのはうれしいことでした。主は賛美の上に座しておられるとの詩編の言葉がございますが、心を込めて賛美をささげ主を仰いでいく時、ほんとうに不思議な力が働き、主が共におられることを実感いたします。これからも益々いやしと解放を与えてくださる主への賛美に満ち溢れた教会でありたいですよね。
また、集会では沖縄の平和を訴えるアクションとして継続されている「官邸前でゴスペルを歌う集い」の活動の報告やフクシマの被災地の子どもたちを迎え入れて心身ともにリフレッシュを計る活動の報告もなされました。これらの働きも忘れることなく祈りに連なっていく必要を覚えました。
さて、4カ月に亘って礼拝で読んできました創世記からの宣教も今日で最終となります。
本日は創世記49章から「おのおのにふさわしい祝福」と題し、御言葉を聴いていきたいと思います。
この箇所は、実は47章後半からの「ヤコブの遺言」という長い文脈から続いているもので、ヤコブは自分が主のみもとに召される日が近づいたことを悟り、その子らを呼び寄せるのであります。
信仰の父祖であるアブラハムに始まり、その子イサク、そしてこのヤコブをとおしていよいよ神の祝福はイスラエルの民の基となっていく12人の子らに継承されていくのであります。その遺言は28節を読みますと、父ヤコブによって祝福の言葉として語られ、ヤコブは彼らを「おのおのにふさわしい祝福をもって祝福した」ということが書かれています。
このたった1節の中に実に祝福という言葉が3回も出てくるわけですが、普通一般に祝福というと、良いこと、幸いなこと、そういうことを願い、祈るものでありましょう。ところが49章からの「ヤコブの祝福」と小見出しが付けられた、ヤコブが12人の子らを祝福する箇所を読みますと、これがどうして祝福なのかと、そのように思えるようなことが幾つもあることに気づくのであります。
たとえば、ヤコブの初めての子で、神の契約を継承する長子の権利を有していたルベンは、他の兄弟たちより名誉と権威をもって生まれたのですが、自分の情欲のままに行動し父の側目と関係をもったため、長子の権利を失う、と語られます。
ヤコブの遺言どおりルベンの部族は衰退の一途を辿りゆくことになりますが、後々それはルベンの部族からは、士師、王、預言者などが一人も出なかったという事であります。
又、次男三男の気性のよく似たシメオンとレビの兄弟は、妹ディナに対する暴行への報復としてシェケムとその町の人々を怒りにまかせて無残に殺害したことのゆえに、厳しい裁きともいえる言葉が語られます。ヤコブは「彼らの謀議に加わるな」と告げていますが。どのような理由であれ自分の怒りの感情のままに人を殺めることによって受ける呪いは大きく、将来シメオンはユダの一族に吸収され、又レビは自分たちの地所を得ることができなくなってしまうのです。このように、ヤコブの遺言では彼らの行いが問われ、それに対する審きと呪いが語られています。
ところが、この49章のヤコブの祝福は到底喜ばしいとは言えないようなことまで語られた子らが、みな何か悪いことをしたかと言えば、そうとも言えないのがこの神の選びの不思議なところであります。
ヤコブは、その一方でユダに対してはこれでもかという程その幸いを語っています。
ユダという名は「讃える」という意味があり、その名のとおりユダは兄弟たちに讃えられるとヤコブは言うのですが。なんでユダに関してはそうなのか、ユダに特別よいところがあったのか、そのことについて聖書は何も触れていません。ユダは他の兄弟と共に弟ヨセフを妬み、亡きものにしようとした恐ろしい罪を犯したことがかつてありました。後々それを深く悔改めることになるのですが。それからすれば無条件ともいえる祝福に与ったユダは長子の権利を受け、このユダ族からダビデが生まれイスラエルの王となり、その王権と統治はユダから離れない、との祝福の約束は現実のものになっていきます。
そして時到って真のメシア・救い主イエス・キリストはこのユダのダビデ王の子孫としてお生まれになられるのです。
もう一人あますことなく祝福に与ったのはヨセフです。
ヤコブはヨセフに対して「限りない祝福が臨む」ことを宣言します。ここにはかつてヨセフが兄たちの妬みを買い、エジプトに売り飛ばされてしまい多くの試練の中におかれたことが思い起こされます。しかしそのヨセフを守り、導き、エジプトの総裁へと高めたのはまさに主ご自身であったのです。そしてこのヨセフを通して、父ヤコブをはじめ兄弟たちは飢饉を逃れエジプトに寄留することができたのです。
ヤコブは最愛の息子ヨセフが死んでしまったと思い長い年月を悲しみに暮れて過ごしました。しかしその長い歳月を経てヨセフと再会した時、すべては神のご計画であったことを悟ります。神は飢饉に滅ぶほかなかったヤコブの一族をこのような形で救い出し、遂には12人の兄弟に祝福が継承されることになるのであります。
話は変わりますが、15日と22日は二人の姉兄の納骨式がご親族と大阪教会の有志の方々と共に新会堂で行われました。天に召されたお二人とも新会堂の完成を目にすることはできませんでしたが、ご遺族も故人の遺志を汲まれ、主にある礼拝や交わりの家でありましたこの大阪教会に納骨することができて、ほんとうによかったと思いますが。
50章には、ヤコブの死後、ヤコブの息子たちが父の遺言どおりにアブラハム、イサクらが眠るカナンの土地であるマクペラの畑の洞穴に父ヤコブを葬るのであります。
父ヤコブの遺言どおりに行うためその手はずを整えていったのはヨセフでありました。彼の父ヤコブへの忠実な思い、それはまさに主に従いゆく彼の姿でもあったのです。
そしてヤコブの埋葬後にヨセフとその兄弟たちは共にエジプトに帰っていくのでありますが、聖書には「ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪を仕返しするのではないかと思った」(10:15)とあります。そこで兄たちはヨセフに人を介して「あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください」と伝え、兄たち自身もヨセフのところにやって来て、ヨセフに平伏し、「私どもはあなたの僕です」(10:18)と伝えます。
すると、ヨセフは「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民のいのちを救うために、今日このようにしてくださったのです」と言ったとあります。
聖書は「ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた」(10:19-21)と記しています。このヨセフと兄たちとの和解は、まさに「神の祝福」でありましょう。ヨセフはすべて「神のご計画であった」というのであります。しかし、そのヨセフ自身の苦労というのは並大抵のものではありませんでした。けれども彼は、真の主が共におられることをいつも信じ、主の御業が現わされることを仰ぎ望みつつ歩んでいたのであります。ここにヨセフが祝福されていく所以(ゆえん)がありました。
本日は、ヤコブの遺言から「おのおのにふさわしい祝福」という題で御言葉を聴いてまいりましたが。私たちは神の祝福というと、どこか耳触りのよい、快く自分に都合の良いことばかりを祝福として期待いたしますが。ヤコブが12人それぞれに「おのおのにふさわしい祝福」を語ったように、神のご計画、神が示される道は、一人一人それぞれにオリジナルなのです。人の目にこれが祝福といえるのかということさえ、神に依り頼み、神の救いに留まり続ける限り、それは「祝福」、「おのおのにふさわしい祝福」と聖書は28節にあるように言いきっているのです。ヤコブもまた、人の目には到底祝福に満ちたとは言い難い生涯でありました。けれども主と共にその人生を最後まで歩み通した暁には、「自分の足を寝床の上にきちんとそろえ、息を引き取り、先祖の列に加えられた」と聖書は記しています。つまり、彼は神の祝福に生きた信仰の先達に連ねられたのであります。
神の御子イエス・キリストは、私どもの祝福の基であります。この世界にあって滅びるほかないような人間が受ける審きを、ご自身が身代わりなって受けられ、そのすべての罪を贖ってくださったと、聖書は語ります。そんなの虫がよすぎて信じられるか、そんなバカげたことがあるか、と世間は言うかも知れません。けれどもその真実は生きて今もお働きになられる主なる神さまとその御言葉にございます。私どもは血肉によるならアブラハムやイサク、ヤコブの相続人ではありません。しかしながらローマの信徒への手紙8章には次のように書かれています。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人の奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光を受けるからです。」
神の言葉である聖書に触れ、日々馴染む中で、救い主イエス・キリストによって祝福を受け継ぐ者として連ねられ、共に祝福の人生を歩み通してまいりましょう。人生いろいろ。おのおのにふさわしい祝福があります。神は私たち一人ひとりを価高い者として愛し、祝福してくださっておられるのです。この神さまのもとに真の祝福があります。「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たち知っています。」(ローマ8:28)
ヤコブが最期に足をそろえて天に召されたように、私たちも人生の最後まで主に心を向け、心を整えつつ、日々を歩んでまいりたいものです。祈ります。