日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

おのおのにふさわしい祝福

2014-09-28 22:37:41 | メッセージ
礼拝宣教  創世記49・28-33       

お帰りなさい。23日(火・休)は関西地方連合の信徒大会が神戸教会でもたれ、諸教会より220名を超える方々が集いました。共に主を賛美しつつ「いのちと平和」の調べを響かせる実に恵み豊かな集会となりました。大阪教会も有志の方々で出演し、沖縄の小学生が作った平和の詩の朗読と「花も」を賛美させて戴きましたが、いろんな方から感動したというお声を頂き感謝でした。今回大阪教会からこの信徒大会に13名が参加しましたが、みな口々に足を運んでよかった、心満たされ、力をいただき、リフレッシュされた、と笑顔で喜びいっぱいにされたのはうれしいことでした。主は賛美の上に座しておられるとの詩編の言葉がございますが、心を込めて賛美をささげ主を仰いでいく時、ほんとうに不思議な力が働き、主が共におられることを実感いたします。これからも益々いやしと解放を与えてくださる主への賛美に満ち溢れた教会でありたいですよね。
また、集会では沖縄の平和を訴えるアクションとして継続されている「官邸前でゴスペルを歌う集い」の活動の報告やフクシマの被災地の子どもたちを迎え入れて心身ともにリフレッシュを計る活動の報告もなされました。これらの働きも忘れることなく祈りに連なっていく必要を覚えました。

さて、4カ月に亘って礼拝で読んできました創世記からの宣教も今日で最終となります。
本日は創世記49章から「おのおのにふさわしい祝福」と題し、御言葉を聴いていきたいと思います。
この箇所は、実は47章後半からの「ヤコブの遺言」という長い文脈から続いているもので、ヤコブは自分が主のみもとに召される日が近づいたことを悟り、その子らを呼び寄せるのであります。
信仰の父祖であるアブラハムに始まり、その子イサク、そしてこのヤコブをとおしていよいよ神の祝福はイスラエルの民の基となっていく12人の子らに継承されていくのであります。その遺言は28節を読みますと、父ヤコブによって祝福の言葉として語られ、ヤコブは彼らを「おのおのにふさわしい祝福をもって祝福した」ということが書かれています。
このたった1節の中に実に祝福という言葉が3回も出てくるわけですが、普通一般に祝福というと、良いこと、幸いなこと、そういうことを願い、祈るものでありましょう。ところが49章からの「ヤコブの祝福」と小見出しが付けられた、ヤコブが12人の子らを祝福する箇所を読みますと、これがどうして祝福なのかと、そのように思えるようなことが幾つもあることに気づくのであります。

たとえば、ヤコブの初めての子で、神の契約を継承する長子の権利を有していたルベンは、他の兄弟たちより名誉と権威をもって生まれたのですが、自分の情欲のままに行動し父の側目と関係をもったため、長子の権利を失う、と語られます。
ヤコブの遺言どおりルベンの部族は衰退の一途を辿りゆくことになりますが、後々それはルベンの部族からは、士師、王、預言者などが一人も出なかったという事であります。

又、次男三男の気性のよく似たシメオンとレビの兄弟は、妹ディナに対する暴行への報復としてシェケムとその町の人々を怒りにまかせて無残に殺害したことのゆえに、厳しい裁きともいえる言葉が語られます。ヤコブは「彼らの謀議に加わるな」と告げていますが。どのような理由であれ自分の怒りの感情のままに人を殺めることによって受ける呪いは大きく、将来シメオンはユダの一族に吸収され、又レビは自分たちの地所を得ることができなくなってしまうのです。このように、ヤコブの遺言では彼らの行いが問われ、それに対する審きと呪いが語られています。

ところが、この49章のヤコブの祝福は到底喜ばしいとは言えないようなことまで語られた子らが、みな何か悪いことをしたかと言えば、そうとも言えないのがこの神の選びの不思議なところであります。

ヤコブは、その一方でユダに対してはこれでもかという程その幸いを語っています。
ユダという名は「讃える」という意味があり、その名のとおりユダは兄弟たちに讃えられるとヤコブは言うのですが。なんでユダに関してはそうなのか、ユダに特別よいところがあったのか、そのことについて聖書は何も触れていません。ユダは他の兄弟と共に弟ヨセフを妬み、亡きものにしようとした恐ろしい罪を犯したことがかつてありました。後々それを深く悔改めることになるのですが。それからすれば無条件ともいえる祝福に与ったユダは長子の権利を受け、このユダ族からダビデが生まれイスラエルの王となり、その王権と統治はユダから離れない、との祝福の約束は現実のものになっていきます。
そして時到って真のメシア・救い主イエス・キリストはこのユダのダビデ王の子孫としてお生まれになられるのです。

もう一人あますことなく祝福に与ったのはヨセフです。
ヤコブはヨセフに対して「限りない祝福が臨む」ことを宣言します。ここにはかつてヨセフが兄たちの妬みを買い、エジプトに売り飛ばされてしまい多くの試練の中におかれたことが思い起こされます。しかしそのヨセフを守り、導き、エジプトの総裁へと高めたのはまさに主ご自身であったのです。そしてこのヨセフを通して、父ヤコブをはじめ兄弟たちは飢饉を逃れエジプトに寄留することができたのです。
ヤコブは最愛の息子ヨセフが死んでしまったと思い長い年月を悲しみに暮れて過ごしました。しかしその長い歳月を経てヨセフと再会した時、すべては神のご計画であったことを悟ります。神は飢饉に滅ぶほかなかったヤコブの一族をこのような形で救い出し、遂には12人の兄弟に祝福が継承されることになるのであります。
話は変わりますが、15日と22日は二人の姉兄の納骨式がご親族と大阪教会の有志の方々と共に新会堂で行われました。天に召されたお二人とも新会堂の完成を目にすることはできませんでしたが、ご遺族も故人の遺志を汲まれ、主にある礼拝や交わりの家でありましたこの大阪教会に納骨することができて、ほんとうによかったと思いますが。
50章には、ヤコブの死後、ヤコブの息子たちが父の遺言どおりにアブラハム、イサクらが眠るカナンの土地であるマクペラの畑の洞穴に父ヤコブを葬るのであります。
父ヤコブの遺言どおりに行うためその手はずを整えていったのはヨセフでありました。彼の父ヤコブへの忠実な思い、それはまさに主に従いゆく彼の姿でもあったのです。
そしてヤコブの埋葬後にヨセフとその兄弟たちは共にエジプトに帰っていくのでありますが、聖書には「ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪を仕返しするのではないかと思った」(10:15)とあります。そこで兄たちはヨセフに人を介して「あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください」と伝え、兄たち自身もヨセフのところにやって来て、ヨセフに平伏し、「私どもはあなたの僕です」(10:18)と伝えます。
すると、ヨセフは「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民のいのちを救うために、今日このようにしてくださったのです」と言ったとあります。
聖書は「ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた」(10:19-21)と記しています。このヨセフと兄たちとの和解は、まさに「神の祝福」でありましょう。ヨセフはすべて「神のご計画であった」というのであります。しかし、そのヨセフ自身の苦労というのは並大抵のものではありませんでした。けれども彼は、真の主が共におられることをいつも信じ、主の御業が現わされることを仰ぎ望みつつ歩んでいたのであります。ここにヨセフが祝福されていく所以(ゆえん)がありました。

本日は、ヤコブの遺言から「おのおのにふさわしい祝福」という題で御言葉を聴いてまいりましたが。私たちは神の祝福というと、どこか耳触りのよい、快く自分に都合の良いことばかりを祝福として期待いたしますが。ヤコブが12人それぞれに「おのおのにふさわしい祝福」を語ったように、神のご計画、神が示される道は、一人一人それぞれにオリジナルなのです。人の目にこれが祝福といえるのかということさえ、神に依り頼み、神の救いに留まり続ける限り、それは「祝福」、「おのおのにふさわしい祝福」と聖書は28節にあるように言いきっているのです。ヤコブもまた、人の目には到底祝福に満ちたとは言い難い生涯でありました。けれども主と共にその人生を最後まで歩み通した暁には、「自分の足を寝床の上にきちんとそろえ、息を引き取り、先祖の列に加えられた」と聖書は記しています。つまり、彼は神の祝福に生きた信仰の先達に連ねられたのであります。
神の御子イエス・キリストは、私どもの祝福の基であります。この世界にあって滅びるほかないような人間が受ける審きを、ご自身が身代わりなって受けられ、そのすべての罪を贖ってくださったと、聖書は語ります。そんなの虫がよすぎて信じられるか、そんなバカげたことがあるか、と世間は言うかも知れません。けれどもその真実は生きて今もお働きになられる主なる神さまとその御言葉にございます。私どもは血肉によるならアブラハムやイサク、ヤコブの相続人ではありません。しかしながらローマの信徒への手紙8章には次のように書かれています。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人の奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光を受けるからです。」
神の言葉である聖書に触れ、日々馴染む中で、救い主イエス・キリストによって祝福を受け継ぐ者として連ねられ、共に祝福の人生を歩み通してまいりましょう。人生いろいろ。おのおのにふさわしい祝福があります。神は私たち一人ひとりを価高い者として愛し、祝福してくださっておられるのです。この神さまのもとに真の祝福があります。「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たち知っています。」(ローマ8:28)
ヤコブが最期に足をそろえて天に召されたように、私たちも人生の最後まで主に心を向け、心を整えつつ、日々を歩んでまいりたいものです。祈ります。

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和解への道

2014-09-21 13:20:04 | メッセージ
主日礼拝 創世記33・1-20       

先週は創世記32章のヤコブと神の使いとの格闘の物語から御言葉を聴きました。
ヤコブは神と格闘(相撲を取る)する中、腿の関節を外されたにも拘わらず、「祝福してくださるまでは離しません」と神を去らせず夜明けまで闘い続けました。神はそのヤコブを祝福され、神の人として生きる新しい名前イスラエル、神闘いたもう、神守りたもう、神治めたもうという名をお授けになります。ヤコブも又、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って神にある救いを賛美し、その場所をペヌエル・神の顔と名付けたと、いうことです。

先程、本日の「ヤコブがエサウと再会する」記事が読まれましたが。ヤコブは神のお言葉に従い帰郷するに及んで、自ら出し抜き、恨みをかってしまった兄エサウとの再会を余儀なくされました。兄の復讐を恐れるヤコブは自分がどれほど罪深く、弱い者であることか、それゆえ神にのみ頼る外ない者であるということを思い知らされ、先の神との「祝福してくださるまでは離しません」との格闘となったのでありましょう。そして、これらすべての出来事はヤコブが神の約束の地で、新しい人として生きていくために導かれ、備えられていたことであったのです。ヤコブは神の祝福を継承する者として整えられていく必要があったということであります。

さて、このペヌエルでの経験を経た後、1節「ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えました。」
 始めは家族の一番後ろにいたヤコブでしたが、ここでヤコブは家族たちを守るために家族を3つのグループに分けて群れの後ろに置き、自らは「群れの先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地に平伏しました。」
やっぱり現実に兄エサウが四百人もの者を引き連れて来るのを見れば、ヤコブもそのただならぬ気配に非常に大きな恐れを抱いたはずです。何しろ27章にあるように兄を出し抜いたヤコブは、母リベカから「兄エサウがおまえを殺して恨みを晴らそう」としていると聞かされ逃亡したわけでありますから、ヤコブは20年という歳月が経ってもなお兄へのひけ目と恐怖心を決して拭い去ることはできなかったのであります。

ヤコブはその兄の復讐を覚悟しつつも、神の祝福の約束にすべてをかけて自ら群の先頭に進み出て、兄のもとに着くまで七度地に平伏すのであります。七度地に平伏すというのは、自分に一切敵意がないことを表すと共に、兄に最大級の敬意を表したということです。
すると、そこでヤコブにとっては思いもかけぬ驚くべきことが起こります。
何と「エサウの方から走り寄って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけした」というのですね。そして感極まった二人は「共に泣いた」とも聖書は記しています。
ヤコブの流した涙とエサウの流した涙はそれぞれ意味が違ったかも知れませんが。それでも長い年月を経て互いに心を通じ合わせることができたというのは違いなかったでしょう。
ヤコブはこのような兄エサウの姿を果たして想定していたでしょうか。それはきっと思いもよらなかった、まさしく彼にとって神の守りと祝福以外の何ものでもなかったでありましょう。

まあ一つの見方として、ヤコブが下手に出て、贈物を先に送り、地に平伏し謝罪を表したからエサウの心が和らぎ対応が変わったのではないか。あるいはまた、20年という歳月がエサウの恨みや憎しみを解かしていったのではないか、と考えることができるかも知れませんが。ただはっきりしていることは、ヤコブが自分の思いを遥かに上回る和解の出来事の中に、「確かに神さまが生きて働いておられる。」 そのことをヤコブはひしひしと感じたことでありましょう。ヤコブは「和解の祝福」を戴いてまさに兄との再会をするためには、ペヌエルで主なる神との格闘でその心を変えられる経験が必要でした。自分本位に生きて来たヤコブでしたが、もはや神に信頼することこそがヤコブの生きる力となったのです。

今週の聖句として、知恵の書10:12(アポクリファー)から「神を信じることこそ、すべてにまさる力である」との御言葉が与えられました。私たち人間は弱く、罪深い者であり、その中でもがき苦しむこともあります。対人関係においても恐れやひけ目、怒りや恨みなどの感情をそう簡単に拭い去れるものではありません。けれどそういったものが心に引っかかっているうちは、人はほんとうに解放されているとはいえないでしょう。そこに私の自我と真に解放をもたらそうとなさる神との格闘が必要なのです。そして、折り合いのつけられないそんな自分の感情も、自分にはどうすることもできない相手の思いも、そこに活ける神がお働きくださることを祈り、期待し、依り頼んでいく中で私がまず変えられ、すべてにまさる神の力に生かされてゆくのですね。

ヤコブとエサウのことから思いますのは、許せない相手というのは、自分と全く関係がない人ではなく、家族、親戚、友人、同僚など、近しい関係の人であることが多い。
近しいだけになぜ分かってくれないのか。そんな言い方、仕打ちをするのかと、そう簡単に相手を許せないものです。形式的に許せても、ほんとうに心から許すことは私たちには難しいことであります。そこには、ヤコブの腿の関節が外れた、というような痛みが伴うかもしれません。けれども、そこで私たちは、主イエスの十字架という犠牲による神と人との和解の福音を思い起こします。
まず私自身が十字架の主イエスさまの痛みと執り成しの中でゆるされ、神との和解を得ているのです。何よりもそれは計りがたい救いであります。

私たちも生身の人間でありますから、性格や考え方の違いから、あの人はどうも合わないと言うタイプの人もいるのではないでしょうか。むろん時にはほんとうに逃げることが必要な場合もあるでしょうが。それだからと言って、軽々ともう付き合わない、無視するというのはでは、主イエスのお奨めになった「世の光、地の塩として生きる」人生とはなり得ません。人間的な性格や考え方の違いで合わない人もいるものでしょうが、そこで主に執り成しを祈り、相手のためにも祈り、主の御業に期待して、和解に努めることは神さまの御心であります。

さて、12節以降で、エサウはヤコブに「さあ、一緒に出かけよう。わたしが先導するから。」と言うのですが、ヤコブはその誘いを断ります。ヤコブは群れに小さな子どもたちがいること、家畜がいること等で、無理ができないので家畜や子供の歩みに合わせてゆっくり後から参ります、と伝えます。
さらに、ヤコブは「わたしが連れている者を何人か、お前のところに残しておくことにしよう」とのエサウの申し出も断ります。
ここを読みますと、先程まで共に泣いて和解した兄弟であったのに、ヤコブはどうして兄の誘いや申し出を断ったのか、という疑問が起こります。まあヤコブの心のうちにまだ兄に対する猜疑心があったとか、完全に心許せなかったということももしかするとあったのかも知れませんが。けれどもここで何にもましてヤコブの心の内にあったこと、それはあのべテルで、神が仰せになった「わたしは必ずこの土地に連れ帰る」;生まれ故郷カナンの地に連れ帰る、との約束の言葉でありました。兄エサウはその時すでにカナンの地から南東に離れたセイルの町、エドムの地方に住んでいました。情に流され誘われるままに兄について行けば主の約束のカナンの地とは違う道に行くことになるとヤコブは考えたのです。彼は主の約束をにぎりしめていたので、たとえ人間的に許してもらった兄の誘いであっても、セイル地方のエドムに赴くことは避けるべきと考え、丁寧に兄に断りを入れて、妥協することなく主の約束に従う道を選んだのです。
主に救われ、主に聴いて従う私たちは、和解も、歩むべき道をも、主の招きによって選び取ります。そこがとても大事なのです。なぜならそこに主の導かれる本物の祝福があると信じるからです。

さて、そうしてヤコブは遂にカナン地方にあるシケムの町に着き、その町のそばで天幕を張った土地の一部をシケムの住民から買取り、そこに祭壇を建てて、それをエル・エロイ・イスラエル「イスラエルの神の神と呼んだ」と記されています。
かつて石の枕で夢を見たべテルで、ヤコブが「無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら」と誓願を立てて言ったとおりのことが神によって起こされたことを確認し、その誓願どおりにヤコブは行い、「イスラエルの神の神」と主の御名を賛美して礼拝を捧げるのであります。

私たちの信仰の旅路もまた、そのように主に依り頼み、御言葉に聴き従い、主がなしてくださる御業と導きを確認しつつ、主の御名を讃え、祭壇を築く(礼拝の)連続であります。
たとえ困難や悩みの多い日々の中にありましても、ヤコブのように主に信頼し、依り頼んで生きる歩みのうちに、祝福はゆたかに臨み、神の御前にかけがえのない人生とされていくのであります。主の招きに応えつつ、信仰の歩みを続けてまいりましょう。
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祝福してくださるまでは離しません

2014-09-15 08:58:59 | メッセージ
主日礼拝 宣教  創世記32章23~33節       

本日は、ヤコブと神との格闘の記事より、私たちのそれぞれに必要な御言葉を聴いていくことができたらと思います。

まず今日の箇所に至るまでの経過を辿ります。
ヤコブは主の「あなたは生まれ故郷に帰りなさい」とのお告げのとおり従って伯父ラバンのもとを去り故郷をめざします。しかしそこには出し抜いて祝福を奪い取った兄エサウと対面しなければならない、避けがたい状況が待ち受けていました。かつて激しい怒りと恨みをもった兄からその命を狙われそうになり、遥か遠いハランの伯父の家に逃れたヤコブです。
ヤコブは主に祈りました。「どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかも知れません」。
ヤコブは兄エサウの状況を把握するために使いを送ります。そうしたところが、兄エサウはヤコブを迎えるため400人の供を連れてすでにこちらへ向かっている、という報告を使いのものから受けるのです。大きな恐れにかられたヤコブは思い悩んだ末、供の人々を家畜と共に2組に分けます。万が一エサウが攻撃してきた時のまあ担保とするわけですね。さらに彼は何とかエサウをなだめ好意を得ようと、自分の持ち物の中からエサウへの大量の贈物を選び、召し使いたちを通して贈物を先に行かせます。そしてその夜、ヤコブは妻や子供たちも先に送り出し、自らはヨルダン川の支流のひとつであったヤボク(相撲の意味)川の渡しにひとまず留まるのであります。
まあ本当に用意周到といいますか、ここまでやるかというくらいですが。けれども、しかしそのような緊張感の中でこのように彼は祈るのですね。
10節「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と」。13節には「あなたはかつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と」。この神さまの約束はずっと以前に、ヤコブがエサウから逃れ伯父の家に向かう道で野宿した時、その夢の中で主が語られたことであります。ヤコブはその約束をあたかも杖のように握りしめてこの時まで身を支えてきたのですね。そうしてここに来てダメ押し「あなたは確かにこう祝福するとおっしゃいましたよね」と、まあいわば神さまに問い詰めるかのようにその約束を持ちだすのであります。ここがヤコブのヤコブたる所以と申しましょうか。もうかかとをつかんだら離さない。祝福をそれは奪い取るくらいの祈りであります。私たちは祈る時に「神さまお願いします」と言うのですが。しかし信仰というのは、主の御言葉と約束に、このヤコブのように依りすがり、それを確認していくことなのですね。
そのように独り残ったヤコブに思わぬ出来事が起こります。突然ヤコブの前に何者かが現れ、ヤコブと格闘するのです。この格闘は双方とも決着がつかずに夜明けまで続けられます。まさにここ一番の大勝負であります。しかし遂に相手は勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったためその関節が外れてしまいます。まあ聞くだけでも痛そうですが。ところがそれでもヤコブは取っ組み合ったまま相手を離そうとしないんですね。相手は「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」と言います。これでもうヤコブがあきらめて勝負がつくだろうと考えたからです。
ところが、腿の関節を外されてもなおヤコブは「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」と言って相手を去らせようとはしません。

腿の関節を外されながらも、「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」と、祝福を乞い求めていくヤコブ。この腿の関節を外されたというのは、ヤコブが「もはや自分の力に頼ることができなくなった」ということを示しています。ヤコブはこれまで人の足を引張ったり、自分の願うものを手に入れるため策略を練り、がむしゃらにそれを手にしてきた人生でありました。ヤコブの名が表すとおりそれは人のかかとをつかみ出し抜くような人生でもあったのです。
ところが、この腿の関節が外されることによって自分の力にもはや頼ることができなくなった今、ヤコブはその人生がそういった力でどうこうできるものでない、自分の意のままにできるものでないことを知るのです。それは自分の人生、もっと言えばいのちは、どこまでも神さまが与えてくださる以外のなにものでもないということを思い知った瞬間でもありました。であればこそ彼は、「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」と、その手を、その祈りを、決して離そうとしなかったのであります。

ヤコブは相手から、「お前の名は何というのか」と尋ねられ、「ヤコブです」と答えます。自分の名は「かかとをつかむ」というとおり自己中心で罪深い者であるそのことをヤコブは自覚していたのでしょう。自分で自分の人生を守ろう、良いものに与かろうと人を出し抜きに策を練り賢く立ちまわってきたヤコブでした。
しかし、この人はこう言うのです。「お前の名はもうヤコブではなく、これからイスラエルと呼ばれる」。イスラエルには、「神戦いたもう」「神の支配したもう」「神守りたもう」などの意味があります。それは人の力によるのではなく、神が主体であり、そこには祝福は神から受けるものである、という意味が込められているのです。神を主として生きる人、それがヤコブに付けられた新しい名でした。

さらにこのヤコブと格闘した人はこう付け加えます。「お前は神と人と闘って勝ったからだ」。ヤコブと格闘した相手は神さまであったと明記されているわけですが。果たして神が人と取っ組み合って闘い、人の方が勝ったというのはどういうことでしょうか。まあ、人の力や頑張りで神に勝ったということではまずないはずです。ただ、ここで確かななことは、ヤコブが腿の関節まで外されながらも、神との格闘を投げ出さず、決して神を去らせなかったという1点であります。もはや自分の力にではなく神に望みをかけ、神を主として生きる者となったそのことをして、「ヤコブよ、あなたは神と人と闘って勝った」と聖書は語るのであります。

ヤコブは自分と闘った人に名を尋ねますが、その人は教えてはくれず、その場所でヤコブを祝福します。陽は昇りつつありました。
31節には、ヤコブが「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた」とあります。
ヤコブは、ここで「わたしはこの場所で神と闘って勝った」とは言いません。又、ここは「わたしが神と格闘して勝った記念の場所」とも言わず、「神の顔、ペヌエル」と付けるのです。
旧約時代は「神を見る者は死ぬ」という言い伝えがありました。それは人間が如何に神の前にあって罪深く滅ぶほかない者であるかということを表しているようです。ヤコブ自身、神と顔を合わせて神を見れば、その罪深さのゆえに滅びるほかない自分であることを知っていました。けれども「顔と顔とを合わせて神を見たにも拘わらず、わたしはなお生きている」。自分を知ったのであります。これは新改訳聖書には31節が次のように訳されています。「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、わたしのいのちは救われた」。こちらの方がより、ヤコブの心境と神の救いがよく伝えられていると思います。
ヤコブは神さまに完全に敗北する者でしかないのです。しかしそんな自分ではなく神さまこそがわたしの主となられた、先程の「イスラエルですね」。その一方的な恵みによって「わたしのいのちは救われた」と、彼は主を告白するのです。その救いの神といつも顔と顔とを合わせて生きていく事を心に留める思いで、この場所を「ペヌエル(神の顔)」と彼は名を付けたのです。私どもにとりましてのペヌエルは教会でありましょう。「自らの罪に滅ぶしかない私のいのちを主は救われた」。そのことを心に留めながらこうして今日この場で主のみ顔を拝しているわけであります。

さて、「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた」とあります。それは不確かで恐れと不安にのみ込まれそうになる暗闇の世界にいたヤコブが、「神守りたもう」「神治めたもう」とのイスラエルという名のもとに新たに歩み出していった希望の光を象徴しているかのようであります。しかしその腿の関節の傷は消えず、ヤコブは足を引きずって郷里カナンへの道を辿るのであります。これはヤコブがイスラエルという名を与えられたことをいつまでも心に留めていくようにとの神の使信であります。神こそ主であること、その救いの恵みの祝福を決して忘れることがないように、ヤコブの子孫も、その後のイスラエルの人々も腿の関節の上にある腰の筋を食べない、ということであります。

私は今日のヤコブの格闘を思う中で、新約聖書でイエスさまが語られた一つのたとえ話が重なってまいりました。それは、貧しい寡婦が裁判官にひたすら裁判を行ってくださいと懇願していった末に、裁判官がその執拗さに押されて裁判を行ってくれるようになった、というたとえ話です。新約聖書p144 ルカ18章7節に「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほっておかれることがあろうか」。イエスさまは私たちが気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるためこのたとえをお話しになったのでありますが。そのように執拗なまでに神に祈り求め、神に依り頼んで生きる者には、世の朽ち果てて消え去るような祝福ではなく、その魂に救いと平安をもたらす神の不変の祝福が備えられているということを、このたとえも今日のヤコブの格闘のエピソードも伝えているのであります。

本日は敬老感謝の礼拝として主にお捧げしていますが。年を重ねていくごとに体の様々な部分や器官が衰えていくといったことが実際生じてまいります。確かにそれは不安な思いであることでしょうが、それも人間として自然の営みの経過であります。信仰の視点からするなら悲観的なことではございません。自分の力や自我に頼むのではなく、主を頼みとしていく人のうえには、世にはない平安と幸いが臨み、宿るのであります。
イスラエルいう新しい名をもって歩み出したヤコブは、痛みや不自由さを感じる腿をさするとき、あの神と格闘をして受けた祝福を思い起こしたことでしょう。キリストの福音を広く伝えていった使徒パウロもまた、その痛みと不自由な体に思い悩むとき、主なる神の「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」との御声を聴いて、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と語りました。「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」(Ⅱコリント4章16節)。年を重ねていく毎に、神さまとの交わりがより密に蜜に、また身近になって神と共なるゆたかな日々が備えられていくことに希望をもってこれからも共に歩んでまいりましょう。
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共に父を葬った兄弟

2014-09-08 10:06:11 | メッセージ
召天者記念礼拝宣教  創世記25章7-11節

本日は先に天に召された兄弟姉妹を偲びつつ、召天者記念礼拝を主に捧げています。先ほど、召天会員・会友者の名簿が読まれ、ご出席くださったご遺族の方々のご紹介がありました。私たちの信じる神は、天地万物をお造りになられ、今もすべてを治め、生きとし生ける命を司っておられます。又、先に天に召された方々の魂は主イエスの救いの約束のもとに、今や天の憩いと平安のうちにあることを信じます。ご遺族の方々のうえにこれからも主のお守りと導きがゆたかにありますように、お祈りいたします。この生ける神さまにある希望を、今日ご出席くださった召天者のご家族、近親の方々、そして大阪教会に連なる主にある兄弟姉妹と共に再度確認し、感謝を持って主を礼拝したいと願っております。

先程、創世記25章の「アブラハムの死と埋葬」の箇所から読まれましたが。それは、「共に父を葬った兄弟」のエピソードでもあります。
このアブラハムについては、新約聖書のヘブライ人への手紙11章にも記されておりますが、そこを少しお読みしますと。
まず一つ目に、「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」とあります。アブラハムはただ主の言われた「わたしが示す地に行きなさい。あなたを祝福する」とのみ言葉にのみ信頼し、それに聞き従ったのであります。彼は先に見える保証も行き先さえも知らされずに、ただ主の「わたしが示す地に行きなさい」とのお言葉に自分を従わせたのであります。これを「信仰」と申します。

彼についての二つ目の記述は、「信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。このイサクは子であり、ヤコブは孫にあたりますが。アブラハムは、「神が設計者であり建設者である」堅固な土台を持つ都を待望していたからです」とあります。
主の御約束のもと従って出て行ったアブラハムでしたが、示されたカナンの地に入ると、先住民とのいざこざやひどい飢饉に見まわれるといった問題が起こってきました。
そこで彼は移動しながらの天幕を張り生活をすることを続けました。生涯そのような遊牧民としての生活を送り、定住することはなかったのです。聖書に、それはアブラハムがカナンという目に見える土地を仮の住まいとしながら、「神の建てたもう堅固な土台を持つ都を待ち望んでいたから」と記されています。
 では、この神の建てたもう都とは一体どういうものであるのでしょう?いろいろと想像してみますが。
一つには、それはこの世の建物、この世の時間や規範という制限を受けないものであるでしょう。それは、神による霊的建てもの、神のすべ治めたもう都であり、それこそが堅固なゆるぎない土台をもつ彼の住み家であった。又、それがこの地上に実現されていくことをアブラハムは信じ待ち望んでいたのではないでしょうか。
このヘブライ人への手紙11章に次のように記されています。
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ」と。

アブラハムとその連れ合いのサラは、「海辺の数えきれない砂のように、彼らに多くの子孫が生まれる」という神の約束の成就を、この地上において見る事ができませんでした。彼らは約束の都を見ずして死んだのであります。けれども、アブラハムは「遥かにそれを見て喜びの声をあげ」、主の約束を確信しつつ、その地上での生涯を全うしたのであります。

本日の創世記25章8節に、「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」とあります。新共同訳聖書にはこの「満ち足りて死に」という言葉にこだわりが感じられます。
「満ち足りて死に」というのは、単に長寿の人生であったとか、繁栄の人生であったということを意味していません。アブラハムのうちに神による霊的建物の完成への望みがあり、この地上での生涯の歩みの中にも、神の霊なる建物は、神の堅固な土台を持つ都が築かれているのだと信仰の確信が、「満ち足りて死に」という言葉に込められているのではないでしょうか。

先程、召天者の方々のお名前が読まれました。今年は新たにニ名の兄姉が主の御もとに召され、召天会員の名簿に加えられました。主の御もとに召された方々のその生涯は年月の長さ短さに関わらず、神さまの御前に尊い命として召され、今や御もとにおける憩いと平安によって、来るべき復活の命の希望のうちに満ち足りておられることであると信じます。

さて、今日の箇所からもう一つ、アブラハムが「満ち足りて死に」と聖書が伝えるその所以を、読み取ることができます。
それは、9節「息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った」とのエピソードであります。アブラハムは生前に、自分の葬りに際して息子イサクとイシュマエルが共に集うということを想像できたでしょうか。イサクはアブラハムと妻サラとの間に生まれた息子でした。イシュマエルは、アブラハムと女奴隷ハガルの間に生まれた息子でした。二人は異母兄弟であったのです。アブラハムの跡継ぎを巡る争いに二人の息子は翻弄されます。そして遂にはイシュマエルはその母ハガルと共にカナンの地から追い出されてしまい、生きる望みをなくして母も子も号泣していたその時、天から神の使いが呼びかけ、その子もまたアブラハムの子であるゆえに、イシュマエルを必ず「大きな国民とする」と約束なさるのです。一方のイサクは、父アブラハムによって神に捧げられる試練を経て、アブラハムに与えられた主の約束を直接継承する祝福を神から受けるのです。ちなみにイサクの子孫はイスラエル人としてユダヤ教の基となり、イシュマエルの子孫はアラブ人としてイスラム教の基となったとも言われています。
異母兄弟であったイサクとイシュマエルは、サその母サラとハガルの間に生じた確執や家族の間に波立つ問題に翻弄されながら、別れ別れになって離れた地で生きざるを得ませんでした。アブラハムも人間的にはそのことにどんなにか悩まされ、心を痛めていたのではないでしょうか。
ところが今日の聖書は、アブラハムが死ぬと、イサクとイシュマエルが父の葬りの場で会い、一緒に「父を葬った」と記すのであります。ここに、イサクとイシュマエルが共にいることを、イサクやイシュマエルのそれぞれの家族や部族の誰が想像できたことでしょう。そして実にそのことを誰よりも驚き喜んだのは父アブラハムではなかったでしょうか。
旧約聖書の詩編133編1節に「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」とございますが。そのようなイサクとイシュマエルの様子を見た人たちは、「ああこれで、アブラハムは満ち足りて死に、先祖の列に加えられたことだろう」、と大いに慰めを受けたのではないでしょうか。神とつながる生涯の幸いがここにあります。

家族との別れというものはどんなにか悲しく、つらい出来事であります。そればかりでなく、ご家族の間に波立つ問題、苦悩も起こってまいります。牧師である私もそこでなすすべなくただ神に祈るほかございません。けれども、天に召された方の信仰の歩みと証しを偲びつつ葬りの備え、葬儀を行う中で、ご家族が一つ心にされていくご様子を、幾度も私は見せていただきました。葬儀という葬りの時は、単なるセレモニーではなく、天に召されていく方の信仰と祈りに執り成され、ご家族が一つとされていく、神さまの大いなる御業を見させていただく時でもあるのでしょう。

本日は召天者記念として特別な礼拝を共に主に捧げています。
私たちはイエス・キリストの贖いを通して「揺るぎない天の都」を受け継ぐ者とされていることを感謝します。
先に天に召された方々の地上でのご生涯を偲びつつ、死より復活されたイエス・キリストと、その復活に与る御約束を仰ぎ見て、天の故郷をめざす私たちの希望とさせて頂きたいと願います。私たちに与えられた人生は限られておりますが、天の国の福音に命の力を与えられ祝福を分ち合って生きる者とされてまいりましょう。希望の信仰を持って。
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