日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

岩波「沖縄ノート」差し止め訴訟(時事速報)

2008-03-28 11:43:37 | メッセージ
朝10時過ぎに「沖縄ノート」(岩波書店)差し止め訴訟(大江健三郎氏に名誉を傷つけられたとして損害賠償を求めていた)の判決が、大阪地裁法廷にて行われた。裁判官は「原告側の訴えを棄却し、裁判にかかった費用を原告側が支払うように」と命じた。裁判官は5つの点で原告らの訴えを退けた。そのことについては、午後の各紙夕刊等で詳しく載ると思うので、そちらを読んで頂きたい。

 特に裁判官が「手榴弾が配られ集団自決をなしたのは、日本軍の指揮のもとでなされ、原告もそのような中で関わったことは相当認められる」という指摘をなした事に心がとまった。これは、沖縄戦においてなされた集団自決は、国家(日本軍)の関与があったという事実をしっかりと踏まえたもので、今後の教科書問題に光を照らす。

昨日から大江訴訟のこれまでの法廷記録や証言をネットより一通り眼を通して臨んだかいがあったのか。朝家を出る前に一度、そして傍聴抽選の時に二度と祈って臨んだのがよかったのか。

13039という傍聴抽選券が見事に当たり(傍聴入廷者66名)、法廷に入り傍聴を許された者としてほんとうに幸いな場面をともにさせて頂いた。法廷で緊張と自信に満ちた大江氏のお顔がとても印象的でした。(俊)

                   
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イースター宣教

2008-03-25 12:23:06 | メッセージ
「主イエスの復活~新しい命のはじまり」② ヨハネ福音書20章1~18節

 さて、復活のイエスが「マリア」と喚ばれると、マリアはとっさに後ろを振り向いて、「先生」と答えたとあります。これはヨハネ福音書10章3~4節でイエスがおっしゃった「羊飼いは自分の名を呼び、羊は羊飼いの声を聞く」という、その事がここで起こったのです。それは1対1の向き合う信頼関係が結ばれている証しともいえましょう。

昔私の母が車にはねられて怪我をした迷い犬のマルチーズを家出引き取って買いました。その犬はもうだいぶ歳をとっていたのですが、その後何度も獣医に診てもらいながら7年も生きました。母が帰宅して玄関前に来ると、そんなに足音もさせないのに、よくワンワンと鳴いて玄関先まで迎えに来たものでした。こちらが声をかけないうちから分かるんですよ。以前福岡で全盲の藤井牧師を特伝でお呼びした時に、セイルという盲導犬も一緒だったのですが。普段は地べたにだらんとしていても、この先生が「セイル」と声をかけると、しゃきっと起きあがり次の指示を待ちます。しかし藤井先生以外の私とか他の人が「セイル」と言っても、地べたにのほほんとしたまんまなのです。この先生と盲導犬との信頼関係、これはよほどのものだなあと、思わされたものです。

 さて、私たちはこの地上にあって生きている時に、「主はどこにおられるのか」「主はいったいどこに行かれたのか」と問いたくなる時、又そのように嘆きたくなるような時がないでしょうか。それまでの信仰の言葉も、あゆみも、証しもふっとんでしまいそうな時に、復活の主イエスは、あなたの側に立ち、「なぜ泣いているのか」「もう泣かなくともよい」「見なさい、今ここにわたしがいる」と語りかけてくださいます。あなたの名を呼んで、信頼と平安という御手をのべてくださいます。

私たちの発する「主はいったいどこにおられるのか」という切なる叫び、その問いと嘆きは、実にイエス御自身が十字架の苦難と死を前に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのか」というその叫びに連動しているのです。つまり、イエスはこの地上にあって生きていくうえで体験する私たちすべての苦悩や苦痛、そして死の恐れさえ、十字架に担い抜いてくださったのです。それは私たち人間がイエスの十字架によって罪に死んで、神さまとの新しい交わり・新しい命に生きるようになるためです。
 ヨハネ福音書11章25節にこのようなみ言葉があります。 
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」

復活の主イエスは、「主よ、どこにおられるのですか」と尋ね求める者を決してお忘れになりません。主は、その人の名を呼び、み言葉をもって臨み、語りかけてくださいます。

詩編4・4に「主の慈しみに生きる人を主は見分けて、喚び求める声を聞いて下さると知れ。」とあります。うれしいお言葉です。

主イエスは復活なさって、「今この時、あなたの側におられます。」そして、「あなたの名を呼んでおられます。」

 さて、復活のイエスは、喜びのあまりすがりつくマリアに対して、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と制したとあります。どうしてそのようなことをおっしゃったのでしょう。ずっとお側に居たいというマリアの心情をイエスは十分知っておられたのではないでしょうか。それなら少しばかりよそよそしい態度のようにも思えます。

ここに実は二つ目の「復活」のメッセージがあります。
マリアにとってみればいつまでもこのようにしてイエスさまのお側にいることが、喜び、又幸いなことであったでしょう。けれどもそれは、復活のイエスのお働きを限定してしまう、ということでした。イエスは、ご自分が復活なさって天に昇られた後、「聖霊(真理の霊)」を送る(ヨハネ14章26節)と言われました。
ここに復活のイエスのお働きがあります。復活のイエスが天に昇り、聖霊を送られるのですが、それはまさに主を信じる者が聖霊を戴いて主イエスの証しをすることを通して、そのところ、そのところ、、世界の至る所に於いて、主の十字架と復活のみ業が実現されて行く、そこにこそ主のみ心があります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)

復活のイエスとお出会いしたマリアのなすべきこと、それは弟子たちのところへ行って、復活のイエスが言われたとおり、「わたしは主を見ました」と、告げ知らせるということでした。
マリアにとってみれば、それは、確かに今までと違ったかたちでイエスさまと関わって生きていかなければならないことでした。けれどもそれは、この世の滅び行く命ではなく、「新しい命」を主から賜り、どこにいても、どんなときも、復活の主が共におられ、共に生きてくださるとの、この上ない約束をもってあゆみだすということであったのです。

復活の主イエスの証人として生きる、、、。ここにもう一つの「新しい命」のはじまりがあります。主に愛され、生かされている私たちに今日聖書は、「新しい命」をもって出で立ちなさい、と語りかけています。

イースターを心からよろこびつつ。




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イースター宣教

2008-03-23 19:26:35 | メッセージ
「主イエスの復活~新しい命のはじまり」 ヨハネ福音書20章1~18節

イースターおめでとうございます。先週はイエスのご受難とその死を心にとめて過ごす受難週でありましたが、皆様それぞれに祈りつつ過ごして来られたことでありましょう。人類の救いのみ業は、イエス・キリストの受難と死を通して成し遂げられました。この世にあって限りある命を生きる私たちにとって最も大きな闇と言える「死」、又「苦難」や「苦痛」「苦悩」といったあらゆる苦しみを神さまは自ら共にしてくだったのです。その暗闇から死に勝利して復活されたイエス・キリストは私たちの希望であります。
 
使徒パウロは申しました。「わたしはキリストとその復活の力とを知り、その苦しみに与ってその死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
 
本日はその大いなる希望であります復活について、ヨハネ福音書20章よりみ言葉を聞いていきたいと思います。

 まず、この主イエスの復活の記事を読みますと、マグダラのマリアを中心に描かれていることが分かります。他の福音書には複数の女性がイエスの埋葬された墓を訪れたと記されているのですが、ここではマグダラのマリアに焦点が当てられています。このマリアは、ガリラヤ湖西岸の町マグダラの出身で、イエスに7つもの悪霊を追い出してもらった女性でありました。そえからというもの彼女は終始イエスに付き添い、従ってきました。よい時ばかりでなく、多くの従う者たちがイエスのもとを去った時も、12弟子に従い、又その弟子たちも逃げ出した十字架の側までイエスに付き添った、そんな女性でした。そして本日の箇所においても、彼女の思いは、弟子たちが恐れて誰一人近づくことのなかったイエスの墓へ夜明け前のまだ暗いうちから向かった、もう日が明けるのが彼女は待ちきれなかったのですね、そのことからも分かります。イエスにどこまでも付いて仕えたいという思い、それは
弟子たちよりも強くこの女性は持っていたのでしょう。

ところが、マグダラのマリアが墓に来ると、墓の入り口をふさいでいた石がすでに取りのけられられてあったのです。

動転したマリアは、まずペトロと主の愛弟子のもとに走り、そして告げます。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 

そして再び彼女は自ら墓を訪れ、墓の外に立って泣いたのです。するとそこに二人の天使が見えて、「なぜ泣いているのか」と尋ねたということであります。そこで彼女は天使たちに、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」答えます。それから更に、後方にいた復活のイエスに、それがイエスだと分からず園丁だと思って、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と訴えました。

この弟子たち、天使たち、更に復活のイエスと、マグダラのマリアがそれぞれ訴えた言葉の中に共通していること、それは「主イエスはどこに」「主イエスは何処に」ということであります。せめてイエスの遺体の側に付き添っていたい、そんな彼女の切なる思いがひしひしと伝わってくるようです。

ところがそんな彼女の思いを誰よりもご存じであろう天使たち、そして復活のイエスは、そのマリアに、「なぜ泣いているのか」と同じ言葉かけをなさいます。天使にしても復活のイエスにしても、マリアが嘆き悲しんでいる理由は重々ご存知のはずです。それなのにどうしてそのようにお尋ねになったのでしょうか。
 
 実は、そう問いかけることによって、「もう泣かなくてもよいのですよ」「もう泣く必要はなくなったのですよ」、「よく目を開いて、今ここにいるわたしを見なさい」と、そう語りかけておられるのです。そういう意味での「なぜ泣いているのか」というお言葉なのです。
 実は、そこにマリアの「主イエスはどこに」という問いかけに対する答えがあるのです。イエスは復活されて、まさに「今この時、マリアの側におられる」のであります。まずここに、本日の聖書が伝える「復活」のメッセージがあります。(つづく)






























                                                                                                                                                     
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巻頭言

2008-03-16 07:34:57 | メッセージ
♤ 友愛委員会 ♤ H・Y ♤
 
今年は、「友愛」というはじめての委員会の担当になりました。ほんとうに仕事の担当範囲も、まだよく呑み込めていません。前任のYさんに何から何まで教えていただく見習い中です。
 交わりの時間コーヒーブレイク、昼食の諸々の配慮、会堂の清掃、前社会委員会が扱っていた社会問題の学習や署名、募金、からだを動かしてお掃除したり、物品を購入したりは数人の方々が自発的に奉仕して下さっています。今まであたり前と思って気づかなかった陰のところで何人もの方々が、心をくだき、気をくばり、体をうごかして働いて下さっていたことに、気づかされ、心から感謝しています。
 たのしい交わりの中で教会員も、新来者も、求道者の方々も、来訪者も心安らぎ、いやされ、力強い支えを受けたり、提供したりして、この群れが共に成長していく一助となれたらと思います。
 慣れない者ですが、皆さんから学ばせていただきつつやっていきますので、よろしくご協力おねがいいたします。
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イースター・ハンドベル コンサート3/23

2008-03-14 10:05:05 | イベント
演奏グループ「ベル・フィリア」の紹介

1996年9月 大阪教会・旭伝道所を母体に結成されました。現在のメンバーは
14名。リンガーとしての経験は10数年~3年で、3~4オクターブの曲を演奏しています。「フィリア」とはギリシャ語で「友愛」を意味しています。「愛」を基盤として、みんなで心を合わせ神さまを賛美し、人と人の和を作りだしていく美しいハーモニーを奏でたいと思い、練習に励んでいます。年間を通して、老人施設や病院、教会その他で、ベルのもつハーモニーを楽しんでいただいています。

[演奏曲目]
Prayar(祈り).When I survey the Wondrous Cross(栄えの主イエスは).
Christ Aros(キリストはよみがえらえた).The Phantom of the Opere(オペラ座の怪人).さんぽ(「となりのトトロ」より).川の流れのように.日本の四季.
シルクロード.Rondo-Passacaglia(ロンド パッサカリア).ふるさと etc.


日時 3月23日(日)午後2:30~4:00

   入場無料

場所 大阪教会1階会場

なお、当日午前10時30分よりイースター礼拝を行っています。そちらの方に
もどうぞお出かけください。

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巻頭言

2008-03-09 07:38:29 | メッセージ
「財務委員をして」 T・K

総会が終わり2008年がスタートしました。
昨年に続き財務のご奉仕をさせて頂きます、財務は初めてのご奉仕でした。
毎週 〃 コツコツと、先輩達は教会を守ってこられた事を、感じております。
私は教会生活から離れていた長い時間があります、その頃の私は「教会は存在し続ける」と、漠然と思っていました。でもそうではなく 自分の時間をやりくりして、教会と関わり、守り続けていた兄弟姉妹達が居られたことを実感しております。
私も大阪教会の会員として、教会に関わり今この瞬間(とき)を神さまに捧げられることに、感謝しこの先どんな状況に於いても、芯がブレナイ事、自分の真ん中に、イエスキリスト!・・と、願っています。
全てのご奉仕には、助け手が必要です。幸いに財務にはO姉・Y姉2人が与えられています、また現在仕事の関係で大阪を離れて居られますが、T兄には総会の資料等で大きな力を頂きました。礼拝後の3人は事務室で少しでも早く皆さんと一緒にコーヒーブレイク・交わりの時を持とうと、必死かつ楽しく・・・頑張っています。
コンピューターが示した数値と残った金額??何で??と言いつつ・・最後のOK迄。
財務のご奉仕は教会そのものを、兄弟姉妹達を現実的かつ客観的に冷静に見つめられる様に感じています。
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