日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

救いの喜び

2023-04-30 14:51:52 | メッセージ
賛美礼拝宣教 ローマ3章21~26節 

 真の救いは正しい聖書の福音理解によってもたらされます。このローマ書は難しいとお感じになる事もあるでしょうが。かの宗教改革者ルターをはじめ、多くの人がこのローマ書によって主の救いのゆたかさに与ってきたといえるでしょう。深い地下から尊い水を掘り出し汲みあげるように、いのちのみ言葉を、自分のものとして受け取っていきたいと願うものです。

 まず、先ほど読まれましたローマ3章21節以降には、「神の義」とか「信仰による義」など、「義」という言葉が3章の終りの箇所までに9回も出てまいります。前の10節には「正しい人は一人もいない」とありますが。口語訳聖書では「義人は一人もいない」と訳されていまして、これは旧約聖書の詩編から引用されているのです。パウロが20節で解釈を加えているように「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない。律法によっては罪の自覚しか生じない」ということであります。
それは、神の義を前にして、人の立てようとする義の不完全さとその限界を言っているのです。
 私たち人間はどれほど熱い思いで善をもって生きようとしても、人の頑張りや熱心などではとうてい神の前に義とされることはない、ということです。多くの人は善良に生きたい、立派な者でありたいと願いますが、皮肉なことにそういう願望が強いほど、人はそのように生きることが出来ない自分の弱さ、至らなさを思い知らされるということもあります。7章15節以降でパウロ自身も、「心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」と述べています。私たちの又、誠実であろうとすればするほど、同様の思いになることもあるでしょう。
 だからこそ、21節「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」この「神の側からもたらされる義、ここに救いがあると、パウロは言うのです。
 この「神の義」は、人間の努力や精進による正しさや善行によって得られるのではありません。それは唯、神からの一方的恵みであるのです。
23、24節で、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただイエス・キリストによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」と、あるとおりです。
「人は皆、(だれもが)、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」
このパウロの言葉を聞くと、キリスト教会は人を罪人だと決めつける。悔い改めよ、悔い改めよと言う、と。実に多くの人は、「なぜ悔い改めなどする必要がある。私は何も悪いことはしていない」と反感を持たれることもあるわけですが。まあ、人の前ではたとえそのように言えたといたしましても、人は皆、神の前に出たならば、だれ一人として自分は義人である、罪や過ちを犯さないと、神の御前に立つことのできる人などいないのです。
だからこそ、「ただイエス・キリストによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で与えられる神の義。この神の恵みによる「神の義」、これこそが福音なのです。

 25節「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」
 この「神の義をお示しになる」とは、「神の義」、神の正しさが啓示される、世に現わされるという事です。そのために、神はキリストをおたてになり、十字架につけられた。すなわち、罪に対する裁きを世にお示しになったということです。
 世にある私たちは、十字架にかけられた神の子、イエス・キリストを思うとき、自らの罪と世の罪深さ、その代償としての、厳粛な神の裁きを思い知らされます。
 そして驚くべきことに、義なるお方である神は、罪人を罰して滅ぼされるのではなく、罪人の裁きを十字架をとおして自ら担われ引き受けることによって、その「神の義」を打ち立てられたのです。神は御独り子・イエス・キリストの十字架のみ業を通して、その人類の負うべき罪の裁きを肩代わりされ、罪に滅ぶべき人類を贖いとってくださったのであります。

 私が子どもの時、近所にたこ焼き屋さんがありました。学校帰りに寄り道をしては、そのたこ焼き屋のおばちゃんが作る安くてソースがほんとうにウマい、アツアツのたこ焼きをほおばるのが至福の時間であったのですが。ところが、ある日そのお店のジュースを買って飲もうとしたところ、ジュースの入っていた大きな冷蔵庫のガラス戸を不注意に割ってしまったのです。私は、これは大変なことをしたと慌て、どうしようとうろたえながら、「おばちゃん、ごめんなさい」と謝りました。するとおばちゃんは、たこ焼きを焼きながら「割れたならしょうがないよ。いいから」とゆるしてしてくれたのです。この冷蔵庫のガラスは小さな子どもの私からすれば、高価なもので到底自分のお小遣いで払い切れるものではなかったのです。「どうしよう、このままジュースを冷やせなかったらお店に迷惑がかかる」と思い、心配と申し訳なさでいっぱいになっていた。
私は、おばちゃんがさらり投げかけてくれたこの言葉に、どれほど救われた事か知れません。実際は、後始末も含め大変だったと思うのです。
「贖(あがな)う」というと大げさかもしれませんが、子どもの自分には到底弁償することができないようなものを、このたこ焼き屋のおばちゃんが自分で負って無償で許してくれた、というこの経験は今も忘れることができないのです。

 神の一方的な救い、神の義はキリストの贖いの業を通して、その恵みによって私たち人間の罪は無償で贖われる。ここに救いがあります。
しかし「そんな無償で、ただでゆるされなど虫がよすぎる、そんなうまい話などないんじゃないか」と疑う人が殆どではないでしょうか。ひっとすると、それがこの国で福音が浸透しない一つの要因かも知れません。
 けれども、この「無償」、ただで罪が贖われるために、神はどれだけ計りきれないほどの犠牲を払われたのか、どれほど想像を絶するような苦悩を身に負われたかということを知れば、その恵みが決して安っぽいものではないことがわかります。神はゆるすために十字架で人として極限の痛み苦しみと侮辱を受けられたのです。

 ところで、「贖い」とは、元来は「奴隷を身代金を払って買い戻す」ことを意味していました。神は御独り子、いわばご自分のお心そのものと言えるイエス・キリスト。その最もかけがえのない命を身代金として犠牲にして、人を、そして私を罪の奴隷とその滅びから買い戻し、自由にしてくださったのです。
この義なる神の、恵みの御子イエス・キリストによる罪の贖いを信じる者を神は義とし、救いに入れられるのであります。

一昔前には、さまざまなキリスト教会の中に、「神を信じる者は救われます。信じない者は地獄に行きますと聖書に書かれている」と、伝道する人たちもおりましたが。それは言葉足らずであるように思うのです。
なぜなら、神の義はキリストによって裁きとともに愛としてあらわされたからです。
だから、「神は地獄に行くような人間のために地獄のようなところまで落ちてくださり、人間を救い出してくださった。その神の愛と救いを信じることは救いです」と言うのが福音、ゴスペル、すなわち「よきおとずれ」であろうかと思います。神はまさにこのような仕方で「義」をお立てになられたのです。

話を戻しますが。
今日の箇所で、「義」、神の義とともに本日のもう一つのキーワードになっていますのは、「信じる」「信仰」、原語でピスティスという言葉です。それが3章終りの節迄に、やはり「義」という言葉と同じように9回も出てまいります。つまりこのところは、神の「義」と、キリストへの「信仰」がセットになって語られているのです。

26節「このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、ご自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」。
 神は十字架の御子の無残な死を通して、神の「義」、その正しさをお示しになられました。同時にそれは、十字架で罪の贖いを成し遂げられた御子イエス・キリストを「信じ」受け入れる者を「義」となさるためであります。
この救いの恵みを信じ受け入れる人、それは、この救いがなければ神の前に立つことができないことを知る人です。その神の霊、聖霊によって砕かれた心と思いこそ、罪人を立ち返らせ(悔い改め)、神との関係を修復し、人を創り変えて「神の子」として生きる人生へと導くのであります。救われている喜びと感謝は、善を行なわねば救われない、功徳を積まなければ救われないというがんじがらめの生き方を解放します。それは、神の子とされた「救いの喜び」によって、主体的に神の御心を「行なわずにはいられない」又、神の義と愛に生きる喜び楽しむ人生であります。聖霊である神さまがそのように導かれるのです。
 今の時代のどこか愛が冷えゆくような世にあって、キリストの救いの喜びをたずさえ、持ち運ぶ者として、私たちそれぞれに託された人生を歩んでまいりたいと、願うものです。
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2023/4/30 主日賛美礼拝式

2023-04-29 09:43:10 | 教会案内

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今が旬 長居公園植物園 part-3

2023-04-26 08:20:09 | お知らせ

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ツツジ科 真珠姫、ハイドンハンター、リージェント、コウエン

2023-04-25 15:46:44 | イベント
今が旬・長居公園植物園ーpart2
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今が旬

2023-04-25 15:24:51 | イベント
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神の憐れみと正しい裁き

2023-04-23 13:30:58 | メッセージ
主日礼拝宣教  ローマ2章1~11節 

 先週の1章のところでは、パウロのローマ訪問への熱い思いが語られていました。それは共にキリストの福音を分かち合いたいという願いからでありました。それが今日の2章になりますと、一転して厳し口調になります。
 その前の1章18節以降において、パウロは「人類の罪」について記します。「天地万物を創造された神とその永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通してこの世界は神を知ることができるのに、神を神としてあがめないし、感謝することもしないでむなしい思いにふけり、心が鈍く、暗くなっている。(人は)自分では知恵がと吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這う者ものなどに似せた像と取り替えた・・・造り主の代わりに(神が)造られた物を拝んでこれに仕えた」と言及します。
このように神を知る知識は、すべての人に明らかに提示されているのですが、当の人間は神を神として正しく知ろうとしていない神無き世界観が人間の罪の状態と結びついていると指摘するのです。                           
 それが1章29-31節の「不義、悪、むさぼり、悪意、ねたみ、殺意・・・」と続く長い罪のリストであるのです。ここを読むと、人間の悪とその罪の深さ、恐ろしさを知らされます。これらが社会にまん延しているとするなら、それは天地創造の神を神として認めず、その神を畏れず感謝もない、そういった状態から生じているということです。
 そして、パウロはその1章32節の最後で、「彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています」と、人類の罪について総括します。
 これはどこか遠い世界の話ではなく、今なお日常的に繰り返されている私たちの世界、社会であることを知らされるわけです。
 
 さて、本日は2章から御言葉を聞いていくのでありますが。
パウロが先ほどのように人類の罪について言及したことに対して、ユダヤ人たちは一様に「そのとおり」だと同意したと思われます。
 しかしこの2章で今度は、その彼らに対して、「すべての人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」と、批判がなされてるのです。それは正確にいいますと、「ローマに住むユダヤ人キリスト者」であったと考えられます。
 彼らは異邦人とは違い、自分たちは神に選ばれた民であり、神の律法が与えられている、異邦人は律法を持たず、それを知らないと裁き、非難し、自分たちの優越性と正当性を主張していたのであります。
 人は時に先入観や思い込みによって他者を裁いてしまうことがあります。服装、話し方、立場、様々な差別もそうですが。自分の概念に合わない、そぐわない者を排除し、レッテルを貼っていく。それは結局自分自身の世界を狭くし、苛立ちが生じさせて社会の息苦しさを作り出しています。昨今ヘイトクライム(憎悪犯罪)が増加していることもその一因であり、残念なことです。
 先週も触れましたが、パウロはイエスさまと出会い救われる前までは、自分が考え、行っている事に間違いがいはない、と信じ疑いませんでした。パウロは神の教えである律法を熱心に学び、守ることに一生懸命でした。ユダヤ人として現れたイエスとキリスト教会とその信徒を憎み、捕まえてはひどい目にあわせていました。それがパウロには神に従い、神に対して正しいことを行っている、と思っていたのです。
 復活の主イエスはそのパウロと出会い声をかけられました。「サウロ、サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」。この主イエスのみ声を聞いた時、パウロは自分が神に対して正しいことをしていると、キリスト教会とその信徒たちを憎み、迫害していたことが、実は彼が信じてやまなかった神さまに対するものであったと知り、衝撃を受けるのですね。自分はどんなにわかっていなかったか。狭く偏った考えに縛られて、真実が見えていなかったかを思い知るのです。

しかし、主イエスはそのパウロを断罪し、罰するのではなく、赦し救われました。パウロはその主の愛によって、本心から神の御心に生きる人生を歩み出すのです。それが「悔い改め」、メタノイアです。それは単なる一時的な後悔や懺悔で終わりません。パウロが以降の生涯文字通りそうでありましたように、日々神に祈り、神との対話の中でただされ、神の恵みのみ座に立ち返り、主に従って生きていく。それが悔い改めであります。
本当に自分が赦されていると知った人は、神より先走って人を裁くようなことは慎むようになっていきます。神は私を赦し、受け入れてくださったことを知っているからです。
私たちが「キリスト者である」ということもそういうことではないでしょうか。

ところで、その時のユダヤ人のキリスト者たちがユダヤ人以外のキリスト者たちを裁いたことと、パウロがそれを批判していること、その裁くこと批判することとはどう違うのでしょうか。
 パウロはここでかなり厳しい批判をしていますが。それは人を裁いているのではありません。パウロはユダヤ人であれ異邦人であれ、「主の福音に分け隔てなく与ってほしい」という熱い願い、神の愛がその言葉の根底にあったのです。
 一方、この時のユダヤ人のキリスト者たちの律法主義的な裁きは、独善的になりがちで、自分がどのようであるかも忘れて他者を評価し、善し悪しをつけるようなことをしていたのです。主の憐みによって生かされている、という自覚が欠如していたのです。
「裁きは神のものである」(申命15章・マルコ15章)と聖書にあるように、すべてをご存じの神だけが人を正しく裁くことがおできになるのです。

 話を戻しますが、
 4節でパウロは、「神の憐れみがあなたがたを悔い改めに導くことを知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」と、述べます。
神はすべての人間に、特にイスラエル、ユダヤ人に対し、恵み豊かであられました。
それは旧約聖書の歴史を読みますと理解することができます。
 一方でユダヤの人々は神に選び立てられたがゆえに様々な苦難や窮地も経験しますが、その中で神に守られ、導かれていきました。ところがイスラエルの民はその神の深い憐みをすぐ忘れ、神の教えに逆らい、罪を繰り返すのです。にも拘わらず神はイスラエルの民をお見捨てになりませんでした。それはまさにここに示された、神の「慈愛」と「寛容」と「忍耐」がたゆみなくあったからです。

 旧約の神は怒りと裁きの神であると言われることがありますが。確かに神は「義」そのものであり、そのみ前にあって人は立ち得ない者であります。しかし又、神は憐み深く、慈しみにとんでおられる「愛」なるお方であられるのです。神はすべてを知っておられ、人の弱さをご存じです。神の「寛容」と「忍耐」は、憐みと慈しみによるものであり、人を断罪するのではなく、人が罪を悔い改めるのを耐え忍び、待ち続けていて下さるのです。

イエスさまがお話になった「放蕩息子のたとえ」、みなさんもよくご存じだと思います。放蕩息子を本心から、本来あるべきところへ立ち帰らせたのは、他でもありません。ひたすら放蕩の限りを尽くした息子を待ち続けた父の愛でした。その姿こそ、御神の慈愛、寛容、忍耐のお姿であります。その神の寛容と忍耐に気づく時、放蕩息子の弟は真の悔い改めへと導かれるのです。
しかしこの話は、悔い改めに導かれた弟だけでなく、自分は正しく悔い改める必要などないと思っていた兄の話でもあります。兄は父が罪深い弟を、ただ許し受け入れ、祝宴まで開くその様子を知り、不平を言い腹を立てます。兄は実は父のそばにずっと居て、父の慈愛の中にあったのです。しかし、自分は正しい行いをなし、立派に父に従って生きてきたというおごりが、逆に父の無条件の愛とあわれみを見えなくし、自分だけが子として祝福を当然受ける資格があるかのように思っていたのです。その傲慢さが父や弟に対する非難と裁きの言葉になっていったのです。

パウロがこの2章でローマのユダヤ人キリスト者に対して、「人を裁くな、あなたも同じことをしてしまっているからです」と、幾度も「裁くな」と繰り返し訴えていますが。
それはマタイの福音書7章1節以降で、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分を裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤ではかり与えられる。兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気づかないのか」と、これは他でもなく、イエスさまご自身がよくよくおっしゃった言葉なのです。

しかし、「自分の目の中の大きな丸太」に気づかない、気づけなくなってしまうのはなぜでしょうか。

それについてパウロは5節で、「あなたは、かたくなな心で悔い改めようとはしない」からだと言っています。実に多くの人が「なぜ悔い改めなどする必要がある。私は何も悪いことはしていない」と口にします。しかし、それは神の前に出ようとしないからであって、そこで神の前に出たならば、だれ一人立ち得る人などいないでしょう。自分の目の中にある丸太に気づくからです。パウロはかたくなな心で神に向き直ろうとしないなら、その人は「神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きが行われる怒りの日に現れるでしょう」と述べます。

パウロは熱心に律法を学び守っていましたが、その生き方は的外れでした。けれど生きておられる主と対面したとき、自分の目の中にある大きな丸太に気づくのです。
 パウロはこんな自分の罪のために神の御子・イエス・キリストが十字架で死なれたことを知ったのです。そしてイエス・キリストの十字架の死をとおして、神はまことに正しい裁きを行われるお方であられることをさとるのです。それがどれほど深い神の愛のお姿であるかをわきまえ知ることになるのです。

慈愛と裁きの神は別々のものではありません。神の裁きを知らずに神の慈愛を知ることはできません。それがはっきりと啓示されたのが、主イエス・キリストの十字架であります。
義であられる神は人間の罪を決してお見逃しになるお方でありません。その罪の代価は死と滅びです。しかし、憐み深い神は御独り子・イエス・キリストをこの世界に救い主としてお送りくださって、すべての人類の罪の贖い、清算を為してくださったのであります。イエス・キリストの十字架によって、まさに神の義と愛が示されたのです。
 何よりも、神は私たちの罪の裁き、滅びから救うために、その独り子なるイエス・キリストをお与えくださり、私たちの罪を贖うために尊い血をながし、肉を裂かれたのです。
今や、この神の義と愛によって、どのような人も分け隔てなく、この神のみ救いを受けることがゆるされているのです。

 さて、パウロは6節から11節のところで、「神はおのおのおの行ないに従ってお報いになります。すなわち忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。すべて善を行なう者には、ユダヤ人はもとよりギリシャ人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません」と、述べています。

ここでパウロが主張していることは、神の憐みと正しい裁きによって救いを知った者各々がその後の人生をどう生きていくか。それが重要だということです。ユダヤ人であれ、ギリシャ人であれ、律法を知っていようが、いまいが。神の愛と義を知り、その救いに与った者が如何に、感謝と喜びをもって如何に神の御心に生きて行くか。最後の審判の時には、そのことが主のみ前にあってみな等しく明らかになるということであります。
神の憐れみと正しい裁きによって、救われ、生かされたキリスト者としてのまさにその新しくされた生き方が問われるのです。
主の愛と恵みに心新たにされ、この礼拝からそれぞれの場へ遣わされてまいりましょう
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2023/4/23 主日礼拝式

2023-04-19 13:48:56 | 教会案内

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ローマの信徒たち訪問への熱望

2023-04-16 12:40:27 | メッセージ
礼拝宣教 ローマ1章8~17節

この手紙を書いた使徒パウロも又、復活の主イエスと出会い、キリストの弟子、福音の使者、使徒とされた人物であります。
 彼は当時のローマの属州キリキア(現・西トルコ)の主都タルソスで、紀元前後に生まれたようです。厳しいユダヤ教徒に対する迫害から両親がタルソスに逃れ、その地でパウロは生まれるのです。タルソス市民には当時特別にローマの市民権が付与されていたようです。したがってパウロは生まれながらローマの市民権を享受していたのです。その一方で、彼はユダヤ教徒の家庭で、その教育と教えの中で育まれたのです。
 パウロは、若くしてファリサイ派の一員、リーダーとなりユダヤ教の律法に対して熱心な生き方をしていくのですが、その熱意のゆえにキリストの教えとその救いを信じる人たちを憎んでキリスト教会を迫害し、それを撲滅する活動に従事しました。
 しかし、その迫害の只中で復活の主、イエス・キリストのみ声を聞き、出会うのです。そこでパウロは律法に対する熱心さによって行ったキリスト教会とその信徒たちに対する迫害や撲滅活動が、実はこれまで自分が神として敬い、あがめてきたお方に対してなしてきたことだということを思い知らされるのです。自分がよく物事を見ている、見えていると思ってきたけれど、実は何にも見えていなかった。その衝撃からか彼の目は閉ざされるのですが。その失意の中で、まさに自分が主なるお方を十字架にはりつけにして殺したのだと罪を認めるに至り、さらに、主のお導きによるクリスチャンとの出会いをとおして、イエス・キリストがその自分の罪を担い、贖ってくださる救い主であるとの確信を得るのです。それは旧約の預言者たちが告知した「やがて来るべきお方」「神にとりなしをする者」のお姿であることを彼はさとったのです。こうしてパウロは閉ざされていた心の目が開かれ、主なる神に180度向きを変えて悔い改め、キリストの使徒となってキリストの十字架と復活の福音を特にユダヤ人以外の人たちに伝えていくのです。
先週はRさんの、イエス・キリストを救い主と信じる「信仰告白」を共にお聞きしましたが。そこに至る道においても、神のお導きとしかいいようのない出来事がその折々に備えられていたとのお証しがありました。キリスト者、クリスチャンにはそれぞれにそういった神のお導きと道が備えられていることに気づかされいった者ではないでしょうか。

話を戻しますが。
新約聖書にはパウロが書いた手紙がこのローマの信徒への手紙の他にも、コリントの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、テサロ二ケの信徒への手紙などありますが。
これらの教会はパウロが3回に亘る伝道旅行の折、実際にその地に赴いてキリストの福音を伝え、そこでキリストの教会の基礎が築かれ、建てられていったのです。
しかしこのローマの教会は、パウロ自身が伝道する前に、ユダヤ教からキリスト教に改宗したユダヤ人クリスチャンはじめ、ローマのクリスチャンたちによって建てられた教会でした。
パウロがローマの信徒への手紙を書いたきっかけの一つは、コリント(ギリシャ)の町でのアクラとプリスキラ夫妻との出会いが大きかったようです。彼らはユダヤ人であるためローマから追放されたクリスチャンでした。彼らからローマの信徒や教会の事情を聞いたパウロの思いは熱くされ、まだ一度も赴く機会がなかったローマの信徒たちをぜひ訪問したいと強く願ったのです。
 パウロはローマ訪問に先がけ、信徒たちに宛ててこの手紙を書くのですが。その内容も彼自身が受けた福音、又、信仰の義人(これは次回以降お話しますが)と、そのキリスト信仰の集大成ともいえる書簡です。
 ところが、その第3回伝道旅行中にエルサレムの教会に献金を届けた折、パウロは捕えられてしまいます。その後パウロは裁判のためローマに連行され、そこで軟禁状態におかれながらも訪ねてくる信徒はじめあらゆる人たちに最後まで福音を語り続け、紀元60年頃に処刑されたと言われています。

 本日はその1章の8-17節よりみ言葉を聞いていきます。
 パウロは8節で、「まず初めに、イエス・キリストをとおしてあなた方一同についてわたしの神に感謝します」と述べています。
 パウロにとって遠く離れているまだ一度も会ったことのないローマの信徒とは直接親しい関係があるわけではありません。しかし彼は、「祈るときはいつもあなたがたのことを思い起こし」と記しているように、その心には常にローマの信徒への熱いとりなしがあったのです。
 私たちにも、それぞれに思いを持って祈りとりなす人たちがいるでしょう。家族、友人、知人。又、職場の人たち。信仰の友、そしてパウロがそうであったように、未だ直接、個人的に近いわけではなくても、諸教会とその信徒、又、災害や社会の状況にあって苦境に立たされた人たちと。その一方で、私たちも又、気づかないうちに覚えられ、祈られていることも確かにあります。その祈りのつながりによって教会も私たちひとり一人の今日があるのです。

 パウロの場合、ローマの迫害からコリントに逃れて来たアクラとプリスキラ夫妻との出会いをとおして苦境にあるローマのまだ会ったことのない信徒たちのことを覚え、切なる祈りと願いを持ち続けていたのです。
 そのローマ訪問を願い出るにあたりパウロは、まず「主に感謝」をささげます。それは、彼らが忍耐をもってキリストの福音、その救いの信仰を固く守り、それが証しとなって各地に伝えられていたからです。「そのようあなた方のことを覚えて祈っている。何とかして、そのあなた方のところへ行くことができるように願っている」と、パウロは書き送ります。
 そして、「あなたがたにぜひ会いたい」そのわけは、12節「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたい」からだというのです。
 パウロほどの人でありますが、使徒としての自分が一方的に何かを教えたり、与える側に立つのではなく、ローマの信徒と励まし合いたいのだと願っているのです。それも、「互いの持っている信仰によって」励まし合うことを求めています。
 私たちの信仰は神と私という一対一の関係が基礎にありますけれども、独りだけで信仰を保つことはできません。現に計り知れない多くの信徒の祈りと献身によって今、私のもとに福音がもたらされているからです。又、主にある信仰の交わりを持たなければそれは独りよがりな解釈に陥りやすく、受けた恵みも色あせていきます。人はそんなに強くありません。たとえ個人の信心を保ったとしても、とりわけ神の家族として召された人と御言葉に生きることの確信や実践がなされなければ信仰はなえてしまうでしょう。互いに持っている信仰によって励まし合い、御言葉に生きていく。それがキリストの救いに生き続けることであり、そのためにキリストの教会が建てられているのです。

 さて、16節以降において今日の御言葉の核心ともいうべき、「福音について」、「神の力」についてパウロはこう記します。
 16節「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
 福音とは十字架にかけられた神の救い、イエス・キリストであり、そのあがないの業による罪の赦しと神との和解であります。その福音をしてパウロは、それを「恥としない」と、はっきりと宣言します。
 この恥という言葉の背後には、キリストの福音を軽蔑し、キリストの十字架の死は敗北だとさげすむ多くの人がいたということです。
 しかしパウロはここで、そういう世の勢力にあらがい、ひるむことなく「福音を恥としない」と宣言します。
 先にも申しましたように、かつて熱心なユダヤ教徒であったパウロ自身、キリストの福音に逆らい、それを蔑視し、憎んでキリスト教会と信徒を迫害していた者でした。律法の行いによって義を得ようとし、目に見えるしるし、証明を求めるユダヤ人。又、己を誇るための知恵と知識を求めるギリシア人にとって、十字架に架けられたキリストの姿はまさに愚かであり、敗北者であり、躓き以外の何ものでもなかったのです。又、あらゆる政治・経済・軍事力を世界に誇っていたローマ人にとって、ナザレの大工の子イエスが神の子であると信じ告白するなんぞ、しかも十字架刑で死んだイエスなんぞ信じるとは、はなはだ馬鹿げたことのように思えたでしょう。
 しかしそれはなにも昔のことではなく、神がおられることを信じることさえ嘲笑されるようなこの世の中にあって、私たちもまたキリストの十字架の福音を公然と言い表すことの難しさを覚えることもあるでしょう。ただ目に見える力が誇りとされ、ほめたたえられる世の中で、キリストの福音に生きることは容易なことではありません。
 罪を認め、キリストの十字架の救いにすがり、主に立ち帰って恵みに応えてゆこうと努める。キリスト信仰は世の風潮からすれば愚かに見えるかも知れません。
 
 パウロ自身熱心なユダヤ教徒であった時、十字架をかかげるキリスト教会に敵対し、これを攻撃し、その信徒たちを徹底的に迫害しました。
 しかし、復活の主イエスとの出会いを経験したパウロは、これまで自ら誇りとしてきた血統、学歴、知識、能力、業績などのすべてが、このイエス・キリストを知ることの価値の偉大さに比べれば、如何にそれらが塵あくたのようなものであるかを思い知ったと、彼はフィリピの信徒への書簡でそのように告白しているのです。
 人の目には愚かと見えるイエス・キリストの福音。それこそが、信じる者に救いを得させる「神の力」である。それを自ら体験したパウロだからこそ、「わたしは福音を恥としない」と宣言し得るてのです。

 また同時に、パウロは「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす」と、宣言します。
16節にあるように、「福音」はユダヤ人はじめ、ギリシア人にも、あらゆるちがい、立場、あり方を超えて、「信じる者すべてに救いをもたらす神の力なのです。」

 今日は福音と信仰、そのキリストによる救いの本質を共に聞いてまいりました。十字架のキリストを信じ受け入れることは、ある意味自分の弱さをさらけだすことです。それはある人にとっては恥ずかしいことかも知れません。又、勇気のいることです。それは自分を主にすべて明け渡していくということだからです。けれど「そこに」神の力が働くのです。パウロが自分の身体のとげについてそれを取り除いて欲しいと主に3度祈った時、主はその祈りに答えられず、主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われた、とコリント信徒への第2の手紙に記しています。
まさにパウロがここで述べていますように、福音の力、神の力は弱さの中で、又罪深さ、足りなさ、至らなさに泣き、嘆く中で自分を主にすべて明け渡して生きていくとき、十分に発揮され、神の栄光が現わされていくのです。

 最後の17節で、パウロは次のように述べます。
「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終りまで信仰を通して実現されているのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いているとおりです。「神の義」を前にして一体だれが立ち得るでしょうか。ただ人を義とする神の力、キリストの十字架の救いの御業を通して、神の恵みにより、信仰によってこれを受け、私たちは神の義に与る者とされるのです。それは神の一方的な賜物であります。そこには何の分け隔てもないのです。

ハレルヤ、主の御名を賛美します。日毎主の救いの事実に与りつつ、キリストの福音を誇りとする人生を歩みぬいていきたいと願うものです。
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2023年4月16日(日)主日礼拝式

2023-04-12 13:17:58 | 教会案内

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イースターおめでとう!

2023-04-10 12:31:25 | 教会案内
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