賛美礼拝宣教 ローマ3章21~26節
真の救いは正しい聖書の福音理解によってもたらされます。このローマ書は難しいとお感じになる事もあるでしょうが。かの宗教改革者ルターをはじめ、多くの人がこのローマ書によって主の救いのゆたかさに与ってきたといえるでしょう。深い地下から尊い水を掘り出し汲みあげるように、いのちのみ言葉を、自分のものとして受け取っていきたいと願うものです。
まず、先ほど読まれましたローマ3章21節以降には、「神の義」とか「信仰による義」など、「義」という言葉が3章の終りの箇所までに9回も出てまいります。前の10節には「正しい人は一人もいない」とありますが。口語訳聖書では「義人は一人もいない」と訳されていまして、これは旧約聖書の詩編から引用されているのです。パウロが20節で解釈を加えているように「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない。律法によっては罪の自覚しか生じない」ということであります。
それは、神の義を前にして、人の立てようとする義の不完全さとその限界を言っているのです。
私たち人間はどれほど熱い思いで善をもって生きようとしても、人の頑張りや熱心などではとうてい神の前に義とされることはない、ということです。多くの人は善良に生きたい、立派な者でありたいと願いますが、皮肉なことにそういう願望が強いほど、人はそのように生きることが出来ない自分の弱さ、至らなさを思い知らされるということもあります。7章15節以降でパウロ自身も、「心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」と述べています。私たちの又、誠実であろうとすればするほど、同様の思いになることもあるでしょう。
だからこそ、21節「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」この「神の側からもたらされる義、ここに救いがあると、パウロは言うのです。
この「神の義」は、人間の努力や精進による正しさや善行によって得られるのではありません。それは唯、神からの一方的恵みであるのです。
23、24節で、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただイエス・キリストによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」と、あるとおりです。
「人は皆、(だれもが)、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」
このパウロの言葉を聞くと、キリスト教会は人を罪人だと決めつける。悔い改めよ、悔い改めよと言う、と。実に多くの人は、「なぜ悔い改めなどする必要がある。私は何も悪いことはしていない」と反感を持たれることもあるわけですが。まあ、人の前ではたとえそのように言えたといたしましても、人は皆、神の前に出たならば、だれ一人として自分は義人である、罪や過ちを犯さないと、神の御前に立つことのできる人などいないのです。
だからこそ、「ただイエス・キリストによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で与えられる神の義。この神の恵みによる「神の義」、これこそが福音なのです。
25節「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」
この「神の義をお示しになる」とは、「神の義」、神の正しさが啓示される、世に現わされるという事です。そのために、神はキリストをおたてになり、十字架につけられた。すなわち、罪に対する裁きを世にお示しになったということです。
世にある私たちは、十字架にかけられた神の子、イエス・キリストを思うとき、自らの罪と世の罪深さ、その代償としての、厳粛な神の裁きを思い知らされます。
そして驚くべきことに、義なるお方である神は、罪人を罰して滅ぼされるのではなく、罪人の裁きを十字架をとおして自ら担われ引き受けることによって、その「神の義」を打ち立てられたのです。神は御独り子・イエス・キリストの十字架のみ業を通して、その人類の負うべき罪の裁きを肩代わりされ、罪に滅ぶべき人類を贖いとってくださったのであります。
私が子どもの時、近所にたこ焼き屋さんがありました。学校帰りに寄り道をしては、そのたこ焼き屋のおばちゃんが作る安くてソースがほんとうにウマい、アツアツのたこ焼きをほおばるのが至福の時間であったのですが。ところが、ある日そのお店のジュースを買って飲もうとしたところ、ジュースの入っていた大きな冷蔵庫のガラス戸を不注意に割ってしまったのです。私は、これは大変なことをしたと慌て、どうしようとうろたえながら、「おばちゃん、ごめんなさい」と謝りました。するとおばちゃんは、たこ焼きを焼きながら「割れたならしょうがないよ。いいから」とゆるしてしてくれたのです。この冷蔵庫のガラスは小さな子どもの私からすれば、高価なもので到底自分のお小遣いで払い切れるものではなかったのです。「どうしよう、このままジュースを冷やせなかったらお店に迷惑がかかる」と思い、心配と申し訳なさでいっぱいになっていた。
私は、おばちゃんがさらり投げかけてくれたこの言葉に、どれほど救われた事か知れません。実際は、後始末も含め大変だったと思うのです。
「贖(あがな)う」というと大げさかもしれませんが、子どもの自分には到底弁償することができないようなものを、このたこ焼き屋のおばちゃんが自分で負って無償で許してくれた、というこの経験は今も忘れることができないのです。
神の一方的な救い、神の義はキリストの贖いの業を通して、その恵みによって私たち人間の罪は無償で贖われる。ここに救いがあります。
しかし「そんな無償で、ただでゆるされなど虫がよすぎる、そんなうまい話などないんじゃないか」と疑う人が殆どではないでしょうか。ひっとすると、それがこの国で福音が浸透しない一つの要因かも知れません。
けれども、この「無償」、ただで罪が贖われるために、神はどれだけ計りきれないほどの犠牲を払われたのか、どれほど想像を絶するような苦悩を身に負われたかということを知れば、その恵みが決して安っぽいものではないことがわかります。神はゆるすために十字架で人として極限の痛み苦しみと侮辱を受けられたのです。
ところで、「贖い」とは、元来は「奴隷を身代金を払って買い戻す」ことを意味していました。神は御独り子、いわばご自分のお心そのものと言えるイエス・キリスト。その最もかけがえのない命を身代金として犠牲にして、人を、そして私を罪の奴隷とその滅びから買い戻し、自由にしてくださったのです。
この義なる神の、恵みの御子イエス・キリストによる罪の贖いを信じる者を神は義とし、救いに入れられるのであります。
一昔前には、さまざまなキリスト教会の中に、「神を信じる者は救われます。信じない者は地獄に行きますと聖書に書かれている」と、伝道する人たちもおりましたが。それは言葉足らずであるように思うのです。
なぜなら、神の義はキリストによって裁きとともに愛としてあらわされたからです。
だから、「神は地獄に行くような人間のために地獄のようなところまで落ちてくださり、人間を救い出してくださった。その神の愛と救いを信じることは救いです」と言うのが福音、ゴスペル、すなわち「よきおとずれ」であろうかと思います。神はまさにこのような仕方で「義」をお立てになられたのです。
話を戻しますが。
今日の箇所で、「義」、神の義とともに本日のもう一つのキーワードになっていますのは、「信じる」「信仰」、原語でピスティスという言葉です。それが3章終りの節迄に、やはり「義」という言葉と同じように9回も出てまいります。つまりこのところは、神の「義」と、キリストへの「信仰」がセットになって語られているのです。
26節「このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、ご自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」。
神は十字架の御子の無残な死を通して、神の「義」、その正しさをお示しになられました。同時にそれは、十字架で罪の贖いを成し遂げられた御子イエス・キリストを「信じ」受け入れる者を「義」となさるためであります。
この救いの恵みを信じ受け入れる人、それは、この救いがなければ神の前に立つことができないことを知る人です。その神の霊、聖霊によって砕かれた心と思いこそ、罪人を立ち返らせ(悔い改め)、神との関係を修復し、人を創り変えて「神の子」として生きる人生へと導くのであります。救われている喜びと感謝は、善を行なわねば救われない、功徳を積まなければ救われないというがんじがらめの生き方を解放します。それは、神の子とされた「救いの喜び」によって、主体的に神の御心を「行なわずにはいられない」又、神の義と愛に生きる喜び楽しむ人生であります。聖霊である神さまがそのように導かれるのです。
今の時代のどこか愛が冷えゆくような世にあって、キリストの救いの喜びをたずさえ、持ち運ぶ者として、私たちそれぞれに託された人生を歩んでまいりたいと、願うものです。