日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

信仰のバトン

2010-09-19 07:13:51 | メッセージ
宣 教 詩編103編

今週の9月24日、私たちの大阪教会は宣教開始60周年を迎えます。
クリスチャン1世から2世、あるいは2世から3世へバトンタッチされていくそのような過渡期に今この大阪教会はあるといえましょう。

この詩編からまず示されましたのは、長生きや長寿であることがそのまま祝福、幸いといってはいないということです。そこには罪を赦し、病をいやし、命を墓から贖い出して下さるお方との交わりがあるから幸いなのであります。。それゆえに「長らえる限り良いものに満ち足りる。鷲のような若さを新たにしてくださる」とその祝福が言い表されています。

二つ目に心に留まりますのは、2節「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」というみ言葉であります。それは、詩人が個人的に「罪をことごとく赦され、死に至る病からいやされ、命を墓から贖い出された」主の御計らいを忘れるなということであり、私どもにとっても「数えてみよ、主の恵み」という賛美歌にもありますように、すべての恵みの源は、十字架の主から来るのです。このことをしっかりと心に留め、主にことあるごとに感謝をささげ、賛美してまいりましょう。

三つ目は、7節に「主は御自分の道をモーセに、御業をイスラエルの子らに示された」。又、17節に「恵みの御業は子らの子に」と詠われていますように、主の御計らいと恵みの御業を次世代の子どもたち、孫たちに語り継ぎ、信仰を継承していくことがとても大切な働きであると指摘されているのです。

本日は信仰の先輩方のあゆみに感謝しつつ、主に礼拝を捧げています。私たちはこうした信仰の先輩方から信仰のバトンを受け継いでいることを心に留めると共に、今度は私たちが次の世代の子や孫たちに、信仰のバトンを渡していくという役割が託されています。お年寄りから赤ちゃんまでのあらゆる世代が集う教会とされていきたいと願っています。
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宣教60周年記念特別集会のご案内

2010-09-16 09:20:20 | イベント
テーマ 「変えられた人生」

日 時 9月25日(土)午後2時~4時  

講師 松岡広和先生(のぞみ教会牧師)
   
   1962年 東京の寺の次男として生まれる。
   1987年 大正大学大学院仏教学部修士課程卒業。在学中より僧侶となる。
   1989年 韓国東国大学仏教学部大学院留学(ソウル)
   1996年 東京中央神学院卒業。 
    現 在 のぞみ教会牧師、著書「イエスに出会った僧侶」他。 
    
講師からお誘いの言葉。
 私は以前、僧侶でした。仏教の中で真理を追究していました。ところが、韓国に留学中に
 キリスト教会に通い、単に宗教的教養だと思って聖書を学ぶ中、イエス・キリストを信じ 救われました。そして、私が追究してしていた真理はここにあったことがわかり、僧侶を 辞めて、現在牧師になっています。神様は、僧侶をやめたものを救ったのではなく、僧侶 であった私を救われました。ですから、だれであっても、そのままの姿で救われます。救 われる為には、まず、現在の自分を変える必要などありません。一人でも多くの方が、そ のままの姿で、イエス様のもとに来られますよう、せつに願っています。(松岡広和)

(ゲスト) ベル・フィリア(大阪旭伝道所所属)
 教会、諸施設、催し等で素晴らしい演奏活動なさってるハンドベルグループ
  
(入場無料) 自由献金はあります。

26日(日)は午前10時半から松岡広和先生を迎えての特別礼拝も予定されています。

*初めての方でもお気軽にお越しください。心から歓迎いたします。


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主に養われる羊の群れ

2010-09-12 07:14:32 | メッセージ
宣 教  詩編100編  

この詩は、エルサレムの神殿に巡礼にのぼる時に歌われたものだと言われます。時代的にはバビロン捕囚後、エルサレムに帰還を許されたイスラエルの民が、主に感謝と喜びの賛美をもって主に礼拝を捧げていった神殿の礼拝の様子が、歌によって物語られているのです。かつて神への背きの結果、エルサレムの崩壊、捕囚という暗黒、死の陰の谷を歩んだイスラエルの民でしたが、そこで神の愛と戒めから離れて生きることの罪の深さとその闇を思い知らされたのでした。長い悔い改めの年月を経て、活ける神はその民をバビロンの捕囚から解き放ち、エルサレム帰還へと導かれるのです。
この詩編100編は、そのようにイスラエルの民が捕囚からイスラエルの民が捕囚から解き放たれ、遂にエルサレムへの帰還を果たすという大いなる歓喜のもと、解き放たれ、主に礼拝をささげていったそのような感謝と喜びの歌なのであります。又、その感謝と喜びを心新たに思い起こすよう呼びかける歌であるのです。
それは現代に生きるキリスト者の私どもにとりましても、然りでありましょう。人生の暗闇から、死の陰の谷から、罪における裁きと滅びから贖われ救い出された感謝と喜びを、この詩編100編によって思い起こし、歌うのであります。

3節にこう歌われています。「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ」と。ここには、わたしども人間のいのちのルーツはどこから来るのか。わたしどもは何ものなのか。何に所属し、根源的にどのような根っこにつながっているのかが示されています。実にそれらの根拠が、「主こそ神である」という信仰の宣言と共に、「主はわたしたちを造られた」「わたしたちは主のもの、その民」「主に養われる羊の群れ」というみ言葉によってはっきりと示されています。

使徒パウロは、ローマの信徒への手紙14章8節に、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、『わたしたちは主のものです』」と書き記しています。「生きるにしても、死ぬにしてもわたしたちは主のもの」。詩編100編の詩人もまた、「わたしたちは主のもの、その民」と声高らに歌います。この言葉は私どもキリスト者の存在そのものをいい表しているいわばアイデンティティーともいえるものです。

本日は特に召天者記念礼拝として、故人をしのびつつ、主に礼拝をささげていますが。
私は、この「わたしたちは主のもの、その民」とのみ言葉のもとにあって、本当に主に感謝すること、主を喜ぶことができると思うのです。生きるにも、死ぬにも「わたしたちは主のもの、その民」との大いなる平安に、主は私どもを招いてくださっています。

ここで興味深いのは、詩人が「わたしは主のもの」とは言わず、「わたしたちは主のもの、その民」と歌っている点です。実はそこにわたしどもが主に属する豊かさが示されているのです。それは「共に」祝福と恵みに与ってゆくという豊かさであります。

連日のように社会がすさみきっていることを反映するような事件や犯罪が連日のように新聞やニュースで流れてきます。娘(もう高齢ですが)がタンスに親(生きていれば100歳以上)の遺体を隠し、既に亡くなった親が生きているかのようにしてその年金をもらい暮らしていたということです。考えがたいことですが、どうもこういうことが幾例も起こっているようです。様々の事情もあっての事でしょうが。虐待の事件などもそうでありますが。それは確かに個人や肉親の問題ではありますけれど、それはまた私どもの社会そのものに問題があることを露呈しています。地域の方、ご近所の方というつながりの喪失がこれらの事件の要因であるとしたら、あまりに寂しすぎることです。これはわたしどもの生きている地域社会の問題でもあります。共に生きるという命の関係性が取り戻されることは、現代の社会に切実に必要とされていることだと、考えさせられます。

詩編に話を戻しますが、詩人は自らの存在の根源が造り主なる神にあることを認めつつ、「わたしたちは主のもの、その民」と、それがわたしであると同時に、わたしたちであると歌います。わたし独りではないのです、わたしたちという主の交わりのなかに互いがおかれ、主にあってともに生かされ、養われているのです。

詩人は、「わたしたちは主に養われる羊の群れ」と歌います。
あの詩編23編「主は私の羊飼い」という歌は、羊飼いと羊という個人的な関係を示す歌でありますが。この詩編100編はいわば「主はわたしたちの羊飼い」という歌であります。それは羊飼いと羊の群れの関係が歌われています。羊という動物は一匹では迷いやすく害敵から襲われやすい弱い動物なので、羊飼いのもと、群れをなして飼われ、養われるわけですね。それはキリストと教会の関係に重ね合わせて見ることができるでしょう。

私たちの血縁や親族という絆は尊いものであります。召天者記念礼拝も故人のご家族やご親族と共に守ることができるのはありがたいことです。けれども、たとえそれが叶わなくなったとしても、「わたしたちは主のもの、その民」と信ずる礼拝者の群れによって故人は記憶され再び主のみもとにおいて相まみえるその日を待ち望みます。今日というこの日に、主によって招かれたわたしどもが、故人をはじめ、会衆一同と共々に「わたしたちは主のもの、その民」と喜びの叫びをあげて、主を賛美できる豊かな恵みを今日も覚えてまいりましょう。
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神の力とは?

2010-09-05 06:30:53 | メッセージ
宣教 詩編62編6~13節

去る8月15日の日曜日の午後に、関西地方連合社会委員会主催の「8・15おとな&こどもの平和祈祷集会」が大阪教会を会場に開かれました。講師の梶原寿先生から公民権運動で知られるキング牧師のことを中心に大変興味深いお話を聴くことができました。
梶原先生は、「われらの悲しみを平和への一歩に9・11犠牲者家族の記録」という本の翻訳をどうしても自分にやらせて欲しいと出版元に申し出、それが叶われたそうですが。その内容は、あの世界貿易センタービルが一瞬に崩壊したテロ事件で、その犠牲者のある家族たちが、「自分たちの受けた悲しみを理由も無く他者に押し付けるべきでない」と主張して、米国の報復戦争に反対しました。そういう犠牲者家族の会の記録集であるそうです。この犠牲者家族の会の名称は、「平和な明日を求める9・11犠牲者家族の会」(略称:ピースフル・トウモロー)というそうでありますが。それはキング牧師がベトナム戦争に反対して述べた、「戦争は平和な明日を彫り出すことにおいては、切れない彫刻刀のようなものである。」「平和は単にわたしたちが求める遠い目標ではなく、わたしたちがその目標に達する手段でもある。ここが大切なのですが、わたしたちは平和的目標を平和的手段によって追求しなければならない」との言葉からピースフル・トウモローというこの名称がつけられたそうです。
梶原先生は、この人びとが自分たち家族の犠牲死の意味を{贖罪死;自己犠牲を通して他者を救う}と捉えてこの会が結成されたことを知り、キリスト教の牧師、神学者としても日本でこの{贖罪死の意味}を証ししたかったという思いから、この記録集の翻訳を自らかって出られたとおっしゃっていました。

この詩人はダビデとされていますが、彼が具体的にどのような暴力の中で苦悩し、痛んでいたかは定かでありません。しかし、彼はその苦しみの中で心が激しく揺れ動き、葛藤していたことが読み取れます。人は信頼すべきものが暴力でないと頭では分かっていても、自分に襲いかかり、苦しめるような勢力や暴力に対して、同じように仕返し、やり返すというのは自然の考えともいえます。その力の魅力は大きいです。しかし、詩人はそういう中で、「わたしは神にのみ、希望を置いている」「わたしの救いと栄えは神にかかっている」と、何度も激しく動揺し、葛藤しながらも、なお繰り返し自分に言い聞かせています。そしてそのような苦悩と葛藤の中で神と向き合い、祈る中で詩人は12、13節にありますように、「力は神のものであり、慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである」との信仰の確信へと導かれていくのであります。

11節に、「暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心奪われるな」とあるとおり、暴力に対して暴力という手段によれば、争いと憎しみの連鎖は絶えません。暴力による報復が繰り返され力をもってして、決して明日の平和は築けないということであります。正義の戦争。平和のための戦争などあり得ません。暴力をもちいる限り、明日の平和を築くことなどできないのです。この11節には、今の世界各地で起こっている戦争や紛争の要因。又、経済力でもってあらゆるものを奪い、手中に治めてゆこうとする大国や政治家の策略などが重なって見えてくるようです。核やミサイルといった軍事力に依存しようとする国がどれ程多いでしょう。支配し、従属させ、搾取して肥え太ってきた国、わが国日本も例外とはいえません。又、力ある国がさらに力を得ようとそのことに心奪われるような政治がなされているのが世界の現状といえます。このような不均衡でいびつな世界から、神が本来すべての人びとにお与えになった祝福が取り戻されるためには、暴力を手段とせず、平和的手段でもって、平和を築いていく道が、今の世界に、又日本に、さらにわたしたち一人ひとりに求められているのです。

では、その「神の力とは一体何のだ?」とお思になるでしょうか。実はその回答も梶原先生の言葉の中に既に与えられていたのです。それは、9・11のテロで犠牲者家族の方たちが、自分たちの家族の犠牲死の意味を贖罪死(自己犠牲をとおして他者を救う)と捉えて「9・11明日の平和を求める会」を結成されたということを、はじめに紹介させていただきましたが。ここに、この神の力というものが示されているのです。つまり、神はその独り子イエス・キリストを地上に送り、その御子イエス・キリストのいのちを犠牲にして他者である私ども人間を救われた、その贖罪の死に神の力が示されたということです。それはまた、神の御慈しみをも示しています。神ははらわたがちぎれるような断腸の思いをしながら他者である私ども人間を憐れんでくださっておられるのです。

そのような神の力と憐れみに思いを馳せながら、詩編62編を先週何度も黙読し、黙想している中でわたしに示されたのが8、9節のみ言葉でありました。そこを読んでみます。
「わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神に信頼し 御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」
ただ読めば淡々と読み過ごされてしまうようなところですが、ここに深いみ言葉のメッセージが秘められていることに気づかされたのです。
ここで詩人は、はじめに「神はわたしの救い」ということを言っているのでありますが。
「わたしの救い」ということだけで詩人は終わってはいないのです。彼は「神はわたしたちの避けどころ」とこのように告白する者となっているのです。

私たちも、ただ主イエスの尊い十字架の贖いによって、わたしの罪が贖われ、救われた。その神さまとわたしの関係がまずあるわけです。しかしキリスト信仰は、神とわたしの関係だけで終わるものではなく、神とわたしたちという関係性を抜きにはないのです。
それは、贖罪死という神の力が、単に個人だけの救いのためにあるのではなく、その救いは他者を生かすためのものであることを意味しているからです。

先の9・11被害者家族の方がたが、自分たちの家族の犠牲死の意味を贖罪死(自己犠牲をとおして他者を救う)と捉えて「9・11明日の平和を求める会」を結成されたということが物語っていますように、「神の力」は、このような救いの深い広がりを具体的にもっているというリアルな神のあかしでありましょう。

わたし自身、キング牧師の無抵抗主義、公民権運動を支えたその信仰の精神が、「贖罪の死による救いであった」ということを今回改めて教えていただき、本当に心の目が開かるような思いでした。贖いの十字架、贖罪の死などの賛美歌や聖歌を、わたしはこれまで個人的な信仰の高揚のために歌ってきた気がしますが。改めて、神の贖罪の死による救いの深さと広さを示す9・11犠牲者家族の会の信仰者としてのあかし、又、自分のいのちを犠牲にして他者を救うことを最期まで実践されたキング牧師の言動からもう一度、神の前に悔い改めを迫られました。

神の力とは?と題し、み言葉を聞いてきました。自己を犠牲にしてまでも他者を救う。それこそが神の力であります。それはまた神の慈しみです。イエス・キリストの十字架の道から、それぞれの歩むべき道をしっかりとみ言葉から聞き、祈り続け、主に従いゆく者とされていきましょう。
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」マタイ5・9
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