礼拝宣教 エゼキエル40章1-4節.43章1-7節,10-12節
本日はエゼキエル書からの宣教の最後となりますが、先ほどエゼキエル書40章の始めと、43章1-12節が読まれました。今日はここから「天の物差し」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
イスラエルの人々(正確にいえば南ユダ王国のイスラエルの人々)がバビロンの捕囚となってから25年を経た時のことですが。エルサレムの都と神殿はすでにバビロンによって壊滅的に崩壊していたわけでありますが。イスラエルの民は、先週の枯れた骨に神の霊が吹き込まれると生き返り、神を知って1つの民となる幻を示されつつ、異教の地バビロンにあっても主にある共同体としての生活を送っていました。望郷の念を持ちつつも、あきらめと日常の生活で、もはやエルサレムも神殿のことも口にはのぼらなくなっていたのかも知れません。
そういう中で、神は預言者エゼキエルに臨まれ、「新しい神殿の幻」、ビジョンをお示しになられるのです。エゼキエルは幻のうちにイスラエルの地に連れてゆかれ、非常に高い山の上におろされ、そのところから南側に都のように建設された建物を見せられます。神がエゼキエルをそこへ連れていきますと、青銅のように輝いている一人の人が立っており、エゼキエルを伴って神殿の隅々に至るまでその寸法を測り始めるのです。
測るという行動は、単にどれくらいあるのか測るというのと、正しくできているのかを測るというのがあると思うのですが。いずれにしても、計画されたものにふさわしく出来ているのか、あるいは計画にふさわしく作るために測るわけですね。神は、いずれエルサレムへと帰還して神殿を再建する日が来るという幻をお与えになっておられるのですが、ただ「神殿を建てる」というのではなく、「どのように建てるべきか」ということの重要さをここで示されるのです。そのためにエゼキエルは、同伴者なる方と共に神殿のすべての領域まで測るようにと告げられるのです。神殿は神の臨在が顕されるにふさわしいところでなくてはなりません。エルサレムの旧い神殿は偶像礼拝で神の忌み嫌われるところとなり、神は去って行かれました。
いくらよい建材を用い、煌びやかで神々しい立派な建物が建ったとして、神に臨在頂けないものならそれは空しいことです。教会も、又私たち1人ひとりも神への畏れの念と救いの感謝、悔い改め。そして真心からの賛美と祈り。そのような礼拝の心。そこに生きた霊なる神さまにお住まい下さるのです。
ところで、43章1節や2節に「神はエゼキエルを東の方に向いている神殿の門に導いた」「見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から到来しつつあった」、4節にも「主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った」とありますように、「主の栄光」はいずれも「東」の方から訪れるのであります。どうして東なのでしょうね。近隣にございます四天王寺さんでは、メインは西側の門で多くの人が行き交っていますが。ちょっと調べてみますと、西は極楽浄土に通じる方角で、ちょうど西門から望む夕陽の情景を見てたのだそうですが。
私たちの大阪教会の教会堂を見ますと、東側に門、玄関があります。世界中のキリスト教会の教会堂については、教会の門、入り口が東側に設計・施工されているところも多いということであります。それは、キリスト教の中心的な主の復活が、夜明けであったところから、主の栄光がそこから到来し、全地を、主の教会を照らすというそういう観点から、教会の門は東に造られているということであります。
今日のこの個所においても、東の方から到来した主の栄光で「大地は輝いた」、又主の栄光が「神殿を満たした」とあります。朝の光のように神の栄光が輝く神殿、教会。それはどのようなものなのでしょう。神の義(ただし)さ、その測り縄によって私たちはそれを知ることができるのです。
さて、ここまでは一人の人がエゼキエルを伴い神殿のすべての測量を行いましたが。それが5節において「霊(神)がエゼキエルを引き上げ、神聖な内庭に導いた」というのであります。今や、エゼキエルは1人で神殿の内庭へと向かうことになります。そこでまさに1対1で神のみ前に立つことになるのです。その時、「見よ、主の栄光が神殿を満たした」。すべてが明らかに照らし出される厳粛な瞬間です。
神の御前にあって、エゼキエルは何を想ったでしょうか。彼はおそらくこれまで随伴してくれた方と共に、主の神殿の隅々にいたるまで、すべて測ることを通して自分を見つめ直し、自分が何者であるのか、を改めて知らされていったのではないかと思うのです。そしてそれが神御自身との真実な出会いとなっていくんですね。エゼキエルの預言の言葉を受けるイスラエルの民もそうです。神が示された「天の物差し」で自らの人生と、民の歩みを測り直しながら、悔い改めと立ち帰りをもって、自分たちの救いの神とは正にこのお方であった、という生ける神との出会いに与るのです。
そうしてこの時、主はこのように宣言されるのです。7節「人の子よ、ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む」。
クリスチャンで精神科医の工藤信夫先生の著書「これからのキリスト教」の中に、ある牧師の、離婚という自らの辛い体験を顧みてお話されたものが紹介されていました。そこには「今、私の心の中に思えることがいくつかあります。それは第一に、これらの出来事を通して与えられた人生の「破れ」は、自分にとってかけがえのない恵みとなっているということです。人生の破れを通して、私は神様にここまで愛されているのかと思わされたのです。神さまは私を見捨ててはおられませんでした。それは、私が破れから這い上がってきた、そうして神さまが私の這い上がるのをお救いくださったということではまったくないのです。むしろ反対です。破れは破れとして今も私の胸の中に痛みとして生き続けています。私に与えられた破れが、もしも後日修復できるものであるなら、それは破れではなく、単に苦しかった「思い出」にすぎません。神様は思い出ではなく、今も破れたままのものを恵みとしてこの私に与えてくださったのです。」
この方は教会の働きと家庭を失われたということですが。こうもおっしゃいます。「しかし失うことによってしか与えられない事実があるのだと気づかされました。今まで自分がいかに自分の世界でしかものを見ていなかったか。もしあのままの私が自分の世界にだけ生きていたとしたら、いったいどうなっていたか。人の訴えに耳を傾けながら、それを『自分の世界』で聞いており、相手の立場でものを考えているつもりで、決して自分の世界から見ることをやめない私」「私は神様に救いを求めながらも、救いを求める者では決してなく、この自分がどうにかしなければならないといつも思っていた者です。おそらく人の何倍も自我の強いこの私を神様は、これでもおまえは気づかないのかと大きな、乗り越えがたい困難をお与えになったのだと思います」と、そういう気づきを与えられたということでした。 そして結びとして「私の中にある人生の破れは、今も破れとしてあります。しかしこの破れを大切にしていきたいと思っています。人生には限りがあることを教えてくれますし、また限りがあるから一人一人との出会い、出来事がかけがえのないものであると教えてくれるから」とありました。
人はそれぞれ自分の測り方とその尺度で生きています。けれどもそれが本当に正しいかどうかは神との関係を基軸にした、他者との関係、教会もそうですがその中に示される「天の物差し」で測っていただくのでなければ、自分の姿やその立ち位置に気づくことはできないのです。
10節「人の子よ、あなたはイスラエルの家、それはボロボロの破れを負ったイスラエルの民でしたが、彼らにこの神殿を示しなさい。それは彼らが自分の罪を恥、神殿のあるべき姿を測るためである」と主はエゼキエルに命じます。
エゼキエルは神の人に伴われながら神殿のすべての領域を隅々まで測りました。それは聖なる天の物差しによって自らとその共同体とが測り直されるということでもありました。人は自分の尺度でもって他者を測ろうといたします。けれど、そもそもその自分の尺度、物差しの基準は自分本意でありますから自分は間違いない、過ちがないという思い込みでもあります。そこから、さげすみや差別、いじめや排除という高慢の罪に陥ってしまうとするなら、なんと残念で恐ろしいことでしょう。
キリスト教の聖典、聖書を「カノン」と申します。それは「規定」を意味するギリシャ語に由来しています。定規の規に定めですね。規は行動や判断の拠所となる基準であり、その定め、カノンが聖書の呼び名なのです。
11節には「もし彼らが行ってきたすべてのことを恥じたならば、神殿の計画と施設と入口、そのすべての計画とすべての掟、計画と律法をすべて彼らに示しなさい・・・そのすべての計画と掟に従って施工させなさい」とあります。
主の神殿を再建する人たちは、神の前に自分の罪を恥じた人たち、自分たちが行ってきたすべてのことを恥じた人たちであった、ということです。
ルカの福音書5章で主イエスは「医者を必要とするのは、健康な人でなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と仰せになりました。 自分には救いなど必要ない、自分の物差しでしっかりと生きているから、と思ううちは神と出会うことはできないでしょう。全き義(ただ)しさの天の物差しによっては、だれ一人神の前に自らを正しい人ということは出来ないのです。私は主の救いを必要としているでしょうか。今日、神さまが私たちに顕してくださったビジョンを日々心に描きつつ、天の物差しを頂いて、建て上げられていく私たちとされてまいりましょう。「わたしはとこしえに住む」というインマヌエルの神さまの祝福の約束に生かされて、またそれぞれの日常の場へと遣わされてまいりましょう。