主日礼拝式のおしらせ
礼拝宣教 ルカ6章1-11節
本日は安息日に起こった2つの出来事から、御言葉に聴いていきたいと思います。
ここに登場するファリサイ派の人々たちというのは、律法を厳格に守り、聖なる者として生きるために、自ら世俗と分離させる考えに立つ人たちでした。彼らは「神の救いによる復活の信仰」を持っていましたが、残念ながら目の前におられるイエスさまを受け入れることができませんでした。それどころか、イエスさまのお言葉とそのなされる行いに反感と敵意を燃やします。それはイエスさまが規定に縛られるのではなく、律法の本質とその精神を体現なさったからです。しかも前の4章、5章に記されたようにイエスさまの言葉とその教えには「神の子としての権威」があったということです。そのためすでに多くの民衆がイエスさまを慕い求めて従おうとしていましたから、一部のファリサイ派の人たちや律法の専門家たちは自分たちの地位をも脅かしかねないと、イエスさまに対して激しい怒りと嫉妬の念を持っていたのです。そこで彼らは何とかしてイエスさまの揚げ足を取って貶めようと策略を図るのです。
その最初の策略は、安息日にイエスさまの弟子たちがあまりの空腹のため麦の穂を手で摘んで食べたことを問題にして、ファサイ派の人たちは、「律法では安息日に労働することを禁じているのに、手で穂を摘んで手で揉み、殻をとって食べた。それ安息日に働いた律法違反じゃないか」と、訴えるのです。
それに対してイエスさまは、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と、ズバッとお答えになるのですね。
イエスさまはユダヤ人として生まれ、ユダヤの宗教教育や律法について学ばれ、それを大事にされていました。マタイ福音書の5章のところでイエスさまは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と、おっしゃっているとおりです。
律法とは、そもそも人が人として生きるためにあるもので、神の御心に適う祝されたあゆみをなすために与えられたものなのです。そもそも人を縛り、裁くためにあるのではない。「安息日は人のために定められた、人が安息日のためにあるのではない」と、おっしゃるのです。
出エジプト記には、安息日に関する様々な規定が記されています。その20章8節以降に、律法の大本となる十戒の1つとして、「安息日を心に留めこれを聖別せよ」との主のお言葉がこう記されています。それは「6日の間働いて、7日目は主の安息日だから如何なる仕事もしない。息子も娘も、さらに奴隷も、家畜も寄留者も安息日とする。なぜなら主なる神さまご自身6日の間天地創造のみ業をなされ、7日目に休まれたから。主がそうして安息日を祝福し聖別なさったから」、というのですね。又、23章12節以降には、「奴隷や寄留者や家畜を休ませて、元気を回復させ、過酷な労働から保護する」規定が記されています。さらに31章13節以降には「過酷な労働から弱者や奴隷を保護せず、安息日を侵害する者に対する厳格な裁き」について記されています。
それらはかつてエジプトで奴隷の状態にされていたイスラエルの民を神が救い出されたその恵みの出来事に、応答してそのようにしなさい、ということであります。
もう、おわかりですね。そもそも「安息日とは、人間が神の御業と祝福に応えるべく聖別された日であると共に、苦役や過酷な搾取から人間を解放し、安息して生きる力を取り戻す日である」のです。
私たちも又、主イエスによって救われ、解放を受け、その感謝と喜び、又救いを求める願いがあるからこそ、こうして時間を聖別し、ここに集うのであります。そこに安息を見出すからです。
私たちも又、主イエスによって救われ、解放を受け、その感謝と喜び、又救いを求める願いがあるからこそ、こうして時間を聖別し、ここに集うのであります。そこに安息を見出すからです。
聖書に戻りますが。そのような祝福の安息日のはずが、一部の熱心なファリサイ派の人々たちは、その規定の精神や心を大切にすることよりも、ただ規定を杓子定規に、マニュアルどおり厳守することにこそ神に従うことだと考え違いするようになったのです。
そうなりますと、自分たちがそのことに捕らわれるだけでなく、人を裁くようになっていきます。様々な事情を抱えて安息日も労働して生活を守らなければならない人たちもいました。規定を守ることが難しい事情があったのです。又、社会的に弱く貧しい人たちは、宗教教育も受けられず律法の知識を持てないまま厳しい境遇や貧しさのため、その日暮らしで精いっぱいです。神の聖別された安息日とその精神は活かされず、格差と分断が惹き起こしていたのです。
さて、もう一つの安息日に起こった出来事について見ていきましょう。
ある安息日にイエスさまが会堂にお入りになると片手の萎えた人がいました。ファリサイ派の人たちは、「イエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」とあります。彼らは、ここでイエスが「いやし」を行えば、安息日に労働して規定を破るとは何事か、とイエスを訴えようとしたのであります。
すると、イエスさまはこのファリサイ派の人たちの思いを見抜いて彼らに言います。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか。悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」
このイエスさまの権威あるお言葉に対して、ファリサイ派の人たちはただ沈黙するほかありませんでした。仮に彼らがここで、「善を行うことです」「命を救うことです」と答えるなら、それはイエスさまのなさったことを認めることになります。結果的に益々民衆はイエスさまに従うようになっていくでしょう。
反対に病人を見捨てるともとれるような発言をすれば、彼ら自身の倫理性や人間性が問われることになるのです。だから彼らは「黙りこむしかなかった」のです。
この「ファリサイ」という名称は、「分離する」という意味がありました。
自らを律法の細かな規定まで厳格に守っている者と自負し、規定を守れない人を罪人として見なし、見下して隔ての壁をつくっていたのです。この見下して隔ての壁をつくることが、どれほど人の尊厳を傷つけ損なう事でしょう。
イエスさまご自身、敵意の目で見られていることをご存じでしたが。何より居たたまれなかったのは、目の前にいる手の萎えた人がご自分をおとしめる道具として扱われたことであったのです。
皮肉と申しましょうか。怖ろしいことに、律法の規定を厳格に守り、それを第一としていた人々が神の憐れみと愛に満ちた律法の精神から離れ、人を蔑視し、恨み憎む者となるのです。
ここを読む時、「原理主義」のもつ恐ろしさを感じました。社会の安定や秩序が守られるため原理原則も必要でしょう。しかし、それが絶対化され自分たちだけが正しい、誤りがないというふうになりますと、閉鎖的で硬直化し、自分たちと異なるものを排除してく非寛容なものとなり、本来の善い教えの精神が相反するものに変質してしまうのです。
それはこのファリサイ派の人たちだけに起こったことではありません。地上に起こっている諸所の争い事はじめ、実に私たちの生活の中にも起こり得ることなのです。倫理や道徳でさえ排他的な原理主義になることがあるのです。
では、どうすればこの原理主義的な指向を回避することができるでしょうか。
私たちがそこに陥らないためには、自分と考え方やモノの見方の異なる人、又国や文化、様々な立場の人との出会いを大切にすることです。実際それは神がお造りになった世界のゆたかさに目を向けて、自分の世界が開かれ拡げられていくことからそのゆたかさを知ることになるでしょう。
ちなみに、イエスさまがここで「命を救うことか」とおっしゃったこの「命」は、原語で「プシュケー」、それは人間の肉体・身体(ソーマ)だけでなく、霊的な命をもつ存在であるという事です。それをプシュケー「魂」と訳されます。
イエスさまはこの一人の魂に熱いまなざしを注いで、神さまとの交わりにおける「魂の救い」、その命の回復を切に願われたのです。
さて、本日の箇所には、「会堂に一人の人がいて、その右手が萎えた人がいた」と記されてありますが。マタイ、マルコの福音書には「片手の萎えた人」と記されています。このルカのその萎えた人の手が「右手」であったとは、まあ普通右の手とは、人にとって利き手、働きの手であります。しかしその手が萎えて、動かなくなったということを強調しているのでしょう。この人はどういう仕事していたんだろうかと想像することもできるでしょう。何か仕事をするにも日常の生活をするにも、その利き手、働き手が動かなくなってしまう。それは致命的なことで、先行き、将来に対しての望みが断たれてしまったのも同然であったと言えるでしょう。その人の心の悲しみは如何ほどであったことでしょう。すべてに自信を無くし、顔を上げることもできず、もしかすると、会堂の目立たない片隅でうずくまるように座っていたのかも知れません。
イエスさまは、その手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさ」と、呼びかけられるのです。
「真ん中に立ちなさい」。このイエスさまの呼びかけ。それは、「あなたは神の御前にあって尊い一人の人間である」という祝福の招きであります。
「真ん中に立ちなさい」。このイエスさまの呼びかけ。それは、「あなたは神の御前にあって尊い一人の人間である」という祝福の招きであります。
旧約聖書のイザヤ書43章4節に、神さまが民に語りかけられた御言葉としてこういうお言葉がございます。「わたしの目にはあなたは価高く、尊い。」
この世界では多くの場合、社会的に弱い立場の人たちは脇へ脇へとおいやられる、まるで無いモノのように扱われ、疎んじられ、忘れ去られます。。
けれどもイエスさまはこの身体の萎えた人に、「あなたの存在そのものが大切なのだ。神の前に価高く尊い存在なのだから」と、そのような思いを込めて「真ん中に立ちなさい」と、招かれたのですね。
すると、この人は身を起こして立ったのです。
イエスさまはさらにその人に言われます。「手を伸ばしなさい。」
逆境にある時に、一歩を踏み出すというのは本当に勇気がいる事です。この人は人々の見下しと敵意の視線を浴びる中で、イエスさまのお言葉に応えていくには大きな緊張と恐れがあったことでしょう。けれども彼はイエスさまのお言葉どおりに、イエスさまに信頼してその手を伸ばしたのです。
すると、その手は元どおりになった、というのです。
その人にとって萎えた右の手が元どおりになったことは喜びであったことでしょう。しかしそれにもまして、彼自身が神の御前に価高く尊い存在として見出されたこと。その魂が回復されたこと。その救いこそが、何よりも喜びの出来事であったのです。
言換えれば、彼はこの安息日に・・・本当の意味で、神の御前における真の安息を得たのであります。律法の本質である、「善を行うこと、命を救うこと」の祝福を私たちはこのイエス・キリストから聞き、主に祈りつつ、そのお姿に倣ってまいりたいと願うものです。
最後に、先週の火曜日は阪神淡路大震災から18年目を迎え、関西地方連合でも1・17祈念集会がオンラインで行われました。今回は東日本大震災後、長い間現地震災委員長としお働きくださった、仙台長命ヵ丘キリスト教会牧師の金丸真さんから、「震災と備え」についてお話を伺いました。
その中で特に心に残った一つは、「私たちは震災後にではなく、今も震災と震災の間に生きていることを自覚しておく、目を覚ましておく」という言葉です。その意識をもって防災に備える必要があるということですね。
二つ目は、教会のなすべき最大の備えは、「み言葉に聴く」こと。世の声でなく、神に聴き続けることが大切ということでありました。マタイ7章12節には、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」という聖書の黄金律の尊さのもと、その例として「善いサマリア人」(ルカ10章)の個所を引用されました。
ある律法の専門家がイエスさまに「何をしたら永遠の命を得られるのですか」と尋ねると、イエスさまは「律法に何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問い返されます。彼は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とありますと答えます。すると、イエスさまは「正しい答えだ。それを実行しなさい、そうすれば命を得られる」とおっしゃるのです。が、彼は「では、わたしの隣人とは誰ですか」と言って、自分を正当化しようとします。そこでイエスさまは彼に善いサマリア人のたとえ話しをなさったのです。
このたとえ話は、律法を学ぶユダヤの指導者や宗教家が追剥に遭って瀕死の状態で横たわる同胞を見捨てるのですが、ユダヤ人から信仰観が堕落していると見なされ、軽蔑されていたサマリア人が、その瀕死の状態のユダヤ人に犠牲を払ってまで助けたのです。
イエスさまはこの律法の専門家に対して「だれがその傷んだ人の隣人になったか」と問うと、彼は「そのサマリア人です」と答えます。するとイエスさまは彼に、「行ってあなたも同じようにしなさい」と言われるのです。
金丸さんはこうおっしゃいました。「この律法の専門家は、『律法に何と書いてあるか』については理解していた。しかし、『それをあなたはどう読んでいるか』ということが答えられなかった。聖書の言葉をただマニュアルどおりにするのと、考えてするのとは違いがある。考えないで行う中に、思い込みやすれ違いが生じる。本人は相手が傷ついていると考えられない。だからこそ、私たちはみ言葉に聴くことが最大の備えになる。」
この話を伺いなるほどなあと思いながら、本日の個所のファリサイ派の人たちがそこに重なって見えました。
私たちは、このところにあらわされた「安息日の主」なるお方、イエス・キリストのお姿に、神の愛と隣人愛の尊さを知らされます。私たちも又、この安息をいただてこの一週間それぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
本日の宣教 ルカ5・17~26
本を読んでいたら、このような逸話がありました。
「あるところに井戸を上手に掘ることで知られた人がいまして、他人が失敗したところでも、彼は必ず井戸を掘り当てるというのです。人々は彼の力を不思議に思いました。誰かがある日、その人に尋ねました。「あなたはどうしてそのように上手に井戸を掘ることができるのですか」。その時彼はこのように答えたそうです。「私は他人が失敗したところへよく呼ばれていきます。私が井戸を掘る秘訣はただ一つです。他人は水が出そうな所を選び、掘っているうちに水が出ないとあきらめますが、私はどこまでも、水が出るまで掘り続けます。」
どうでしょうか。あきらめないで愚直なまでに一つのことを貫いていく人が、恵みの水脈に到達できるのです。
これは私たちの神への期待や祈り、行動にも通じます。ある目的のために祈るということを私どもはいたします。しかしその答えが得られないうちから、もう祈るのをやめてしまうことはないでしょうか。多くの場合、最後まで、あきらめずに祈っていないということがあります。
それを神との関係性、人との関係性から考えていきたいと思います。
本日は一人の人の存在が輝きを取り戻すために、一見非常識ともいえる行動をとった人たちの物語です。
「主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした」とあります。
当時のパレスチナ地方の一般的な家の屋根は、糸杉やレバノン杉で骨組みを作り、その上に藁や草を詰め込んで、仕上げにこねた泥で覆ったそうです。 ですから比較的簡単にはがすことができたのです。
又、その屋根は季節ごと手入れがなされるために家には屋根に上る階段があったそうで、まあ簡単に上れたということです。
この中風の人については、彼を運んで来た男たちとどういう関係であったのか何も記されていませんのでわかりませんが。いずれにしても彼らはその中風の人がいやされることを我が事として切に願い、何がなんでもあのイエスさまのもとへ連れて行こうという固い意志があったのです。
だから突拍子もない無鉄砲ともいえるような手を使っても、それを果たそうとするわけであります。
人の家の屋根によじ登り、それをはがして大穴をあけ、横たわった病人を床ごとつり降ろし、イエスさまの反応をその大穴から覗き込む男たち。ボロボロと落ちてくる屋根の土をあびながらあっけにとられている群衆。何とも言えない光景です。
とにかく男たちは、「何が何でもイエスさまのもとに連れていくぞ!行きさえすればどうにかなる。イエスさまなら何らかの形で答えてくださる」と、その期待と強い意志、祈りがあった。だからこそ彼らは、他人の家の屋根をはがすことで当然受けるべき非難や代償もいとわず、それを行動に移したのでしょう。
男たちのしたことは現代であれば器物損壊・家宅侵入の犯罪に値するものです。
それは人から非難されても仕方ない非常識な行動です。
ところが20節にあるように、イエスさまは、それを「その人たちの信仰」と見なされたというのです。
「イエスさまはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』とおっしゃるのです。それは原文で、「あなたの罪はもう赦されている」となっています。たった今そうなったのではなく、「もう罪は赦されている」。
中風の人、又彼のことが我が事のように思い、とりなし祈り、あきらめないで担架に運んでイエスさまのもとに連れてきた人たちの主にある交わりを彼らの信仰と見なし、主イエスは、「もう罪は赦されている」と、おっしゃるのです。これらの人びとはどれほど安堵したことでしょう。
ところが、そこにいた「律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた」というのです。彼らはイエスさまが中風の人に罪の赦しを宣言したことに動揺しました。
そして、「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と、イエスさまを非難しました。
彼らは旧約の律法をただ杓子定規に当てはめて考えることしかできなかったのです。
厳格なユダヤ教の教えでは、人が自らを神のように振る舞ったり、又人を神のように崇めたりすることを、神に対する冒涜と見なしていたからです。又、罪の清めに関して判断を下すのは祭司の務めであったことから、「あなたの罪は赦されている」と宣言したイエスは自らの立場をわきまえない者だと思ったのです。
本来、ユダヤの律法とは、神がご自身の民に祝福の道を歩むために与えられた戒めや教えでありました。その本質は神の恵みといつくしみ。愛です。それがいつしか本来の意味合いを損なうほど、いくつもの細かな決り事や社会規範、そして罰則規定となり、悪しき差別や排除をうみだす社会となっていくのです。
一部の律法学者やファリサイ派の人たちは律法の知識を誇ることによって特権意識を持ち、律法を守ることが困難であった病人、障がいを抱えている人、又、律法を持たないユダヤ人以外の異邦人を罪人として見下し、蔑視していたのです。
本来なら偏り見ることなく、むしろそういった立場におかれた人に救済を与えるための知識であるのに、隔ての壁を作っていたのです。
彼らの立場からすれば、律法の専門家でもない一般人のイエスが中風の病人に、「あなたの罪はもう赦されている」と宣言なさったことは、決して許されることではなかったのです。そして彼ら自身はイエスさまのように関わろうとはしなかったのです。
彼らは、「ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と言うのですが。
そもそも、イエスさまがおっしゃった罪と、この律法学者たちが考える「罪」とでは、その捉え方が異なっているのです。
律法学者やファリサイ派の人たちの問題とする「罪」は、律法の規定違反ないし、守れない事を罪としているのに対し、イエスさまがおっしゃった「罪」とは、神と人、人と人の関係性が破れ、断たれていることを示しているのです。これじゃ食い違いますね。
神を愛し、隣人を我が事のように大切な存在としていく。そこに律法の本質、精神があります。
この律法学者やファリサイ派の人々は神との関係性を自認しながら、その神の愛といつくしみを持つことなく、人を分け隔てしていた。そのところに、「あなたの神との関係性は本物か」ということが、問われているのです。
さて、ここでイエスさまが宣言なさった、「罪の赦し」とはどういう事なのでしょうか。
それは、イエスさまの地上におけるご生涯(福音書)をたどって見ますと。
まずイエスさまが神の国の福音を伝え始められたとき、ユダヤの会堂に入って開かれたイザヤの書から、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(イザヤ書61:1-2)を引用して読まれた後で、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と、大胆にもおっしゃったのです。
この「捕らわれからの解放」の宣言こそが、まさに福音の始まりなのです。
そこからイエスさまのガリラヤからの伝道が始まります。イエスさまはユダヤの社会において差別され、排除されていた病人、悪霊に取り憑かれている人、貧しい立場におかれていた寡婦や生活困窮者、又徴税人、罪人と言われていた人たちと出会われ、病人をいやし、悪霊を追いだし、神の国の訪れを宣べ伝えていかれるのであります。
そしてその最期には、神と人、人と人の破れ、断たれたその関係性、それがまさに「罪」ですが。その関係性を回復するために十字架におかかりになるのです。
本日の5章24節で、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」とありますが。それはまさに、イエスさまが地上における様々な人と出会い、関わり、共に生きてくださった歩みを通して証明されているのです。それは世の至るところで神と人、人と人の関係性の破れと断絶が回復されていくために、罪のないイエスさま自ら十字架にかかげられる事を通して、神の義と愛、律法の本質を顕されたのです。
イエスさまが、「罪を赦す権威をもっておられる」と言われるのは、まさしく神と人、人と人との破れ、断たれたその関係を身をもって回復してくださるお方であることが示されているのです。
さて、今日の所で興味深いのは、イエスさまが中風の人に対して、あなたの身体はいやされると言うのではなく、「あなたの罪はもう赦されている」と宣言なさったことです。
誰が見ても病人にとってまず必要なのは、目に見えるかたちでの回復、いやしであるのに、イエスさまは、「あなたの罪はもう赦されている」と宣言なさったのです。
その様子を怪訝な思いで見ていた律法学者たちにイエスさまは、「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と問いかけます。
皆さんはどうお思いになりますか?
身体的にいやされて歩ける方が目に見えてはっきりしています。
けれども、「罪が赦される」ということは、目に見えるものではないですよね。まあ世の中にはまか不思議な奇跡的出来事はわりとあるものですが。それがその人にとって本質的ないやし、回復になるとは限りません。「罪が赦される」ということは全人的な解放を表す信仰の出来事なのであります。
たとえ病気が治っても、罪、すなわち神さまとの関係性、人と人との関係性が損なわれたままであるのなら、全人的な回復を得ることにはならないのです。
この中風の人は、幾人かの男たちに担がれて主イエスの前に吊り降ろされますが。その心中はどうだったことでしょう。
彼はこれまで社会通念として、「身体に障害を持つ者には罪がある」「それは神の罰や裁き」といった人びとの声に肩身の狭い思いをし、さらに不自由にされ、自分を責め、悩み苦しんできたのではないかと想像します。
それは今日の時代においても、あの人がこうなったのは罪深いから。自分がこうなったのは何らかの因縁、あのことによって神の呪いと罰を受けているのかなどと考えると、神の御顔は怖く、厳しく、怒りに満ちた裁きの姿かも知れません。
肉体的な病気の苦痛だけでなく、何とも言い表わすことのできない重い精神的な苦痛にさいなまれるのではないでしょうか。
しかし今日の聖書のエピソードは、彼の周囲には彼のことをいつも気にかけ見守り、神にとりなし、祈りに覚えていた人たちがいたことです。その男たち数人が彼を担架ごとイエスさまのもとに運んで行くのです。
彼一人では取り戻すことが出来なかった罪からの解放が、幾人かの彼のことをおもんばかっていた人たちの、何とか主イエスのもとへというあきらめない強い意志とその交わりを通してもたらされるのです。、
罪からの解放。それは神と人、人と人との関係性の回復です。
今日の聖書の物語は、イエスさまをとり囲むようにして、そこに集まった群衆、中風の人、彼を担いで運んだ4人の人たち、又律法学者たちが登場します。
今もし、私がそこにいるとしたなら、果たして私はどこにいるだろうか。想像してみましょう。
全人的いやしを求め、信仰の友を必要としている人かもしれません。あるいは身近な人の救いや問題を自らの事として執り成し、祈る人かも知れません。はたまた主の教えとみ業に何らかの希望を見出そうと集る群衆の一人かも知れません。
律法学者やファリサイ派の人たちのように、自らも気づかぬうちにこだわりや、自分の思いに縛られがんじがらめになって真の解放を必要としている人かも知れません。
人はその置かれた状況に影響されるということは確かにあると思います。しかし、この中風の人を担架に担いでイエスさまのもとに連れていった人たちの、あきらめないその意志と希望は、決して環境や状況の変化に左右されるものではありませんでした。
今日私たちにも、その意志と希望を神に願い求めたいと思います。私たちもそのような一人になっていきたいと願います。
本日のみ言葉から聞こえてくるのは、「あなたは誰と一緒に、主の救いとその恵みを分かち合いたいですか」という問いかけであり、それはまた、「あなたは誰と一緒に礼拝し、賛美したいですか」という問いかけであります。
イエスさまに倣い生きる者とされていきましょう。祈ります。
礼拝宣教 ルカ福音書4章1-13節
「お帰りなさい」。七日の旅路を守られ、導かれて共に礼拝を捧げられます恵みを感謝します。お正月も終り、日常の日々がまた始まりました。
本日は先ほど読まれました、イエスさまは、バプテスマを受けられた後、そこからすぐに荒れ野で悪魔の誘惑に遭われる記事から、御言葉に聞いていきたいと思います。
ちなみに、この誘惑とやくされてる原語は「試み」「テスト」「吟味」ということです。一方悪い意味としては「誘惑」という事です。ここで神は荒れ野において御心に応え、今この時立ち得るか否か、試みられるのです。
私は高校1年の時に主イエスのみ救いを受け入れる信仰の告白をしてバプテスマを受けるのですけれども。しかしそれは未熟で、生まれたての赤ちゃんのような信仰者でありました。自分の信仰告白を公に言い表した者にバプテスマは授けられますが、それは救いを保証することではありません。バプテスマを受けたところからが始まりであって、そこから人生をどうキリストと共に生きていくかという事が大事なのです。
バプテスマを受けると、もう問題や悩みはなくなりラッキーなことばかりが起こって、すべてが思い通りになるとは限りません。人として避けがたい状況や自分の願望どおりには行かず、心揺さぶられることもあるでしょう。しかし問題は、それらが起こるか否かではありません。そこで、主によって新たにされた人生を私がどう生きるかが問われているのです。
様々な試練や試みを通して私たちの信仰は試され、銀が精錬されるように練られていくのであります。
まず今日のとこで興味深いのは、イエスさまはが、「荒れ野の中を霊によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられた」と記されている点です。
イエスさまを荒れ野で引き回したのは悪魔でなく、「霊」、すなわちそれは「神ご自身」であったということです。つまり、この荒れ野でのすべての出来事は神が御手のうちに治めておられたということです。
神御自身が悪魔の誘惑を許可されたのです。何てとんでもないことを神はなさるのか、とお思いになられるかも知れませんが。それはあのヨブ記のヨブも同様でありました。神はイエスさまを悪魔の誘惑を通して、神の子として歩むべき道を試みられるのであります。
イエスさまは荒れ野で、「40日間、何も食べず、その期間が終ると空腹を覚えられた」とあります。
この40という数字は、イスラエルの民が出エジプトして荒れ野を旅した40年を思い起こさせるものです。
その申命記8章には次のように記されています。「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」とあります。
厳しい荒れ野の生活において民は神に不平不満をぶつけ、偶像礼拝と罪を繰り返しました。それにも拘らず神は、その罪深い民に天からのマナを降らせて与え、荒れ野の旅路に先立って進み、昼は雲の柱をもって陽に打たれることのないように守られ、夜は火の柱をもって彼らを照らして導かれたのです。
こうして民は荒れ野の40年の旅路において、神のみ守りの中で、その信仰が試され、精練されていったのであります。
へブル書12章には、「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」と記されていますが。神さまは私たちをご自身の子として愛してくださっておられるからこそ、試み、鍛錬なさるのであります。
さて、イエスさまが「空腹を覚えられた」のは、断食中の霊によって引き回されている40日の時ではではなく、その断食の期間を終えられた後であったということです。まあ、一つの大きな目的を達成し、言ってみれば断食の緊張がほどけた時に空腹を覚えられ、悪魔の誘惑を受けたということです。
このことは、私どもがこの日曜日を主の日、特別な日として聖別するのですが。実は日曜日から始まる日常の生活の中においてこそ私どもの信仰は試され、練られていくということを示しているように思えます。
それでは、イエスさまが受けられた試みについて、見てまいりましょう。
1つめの悪魔の誘惑は、パンの問題です。パンは地上で生活するために必要な糧を表しています。
ここで、巧みな悪魔はパンを「神に求めよ」とは言いません。悪魔は、「イエス自身の力」で石に命じてパンに変えてみろ、と誘惑するのです。それは、神に願い求めることなく、「あなた自身の手でそれを作り出せるだろう、どうだ」という挑発です。
自分の欲しいと思うものをほしいままに、神との対話無しに求め満たそうとする、そんな誘惑であります。それがどうしていけないの?って言う人たちは多いでしょう。自分が働いて私の欲するものを得ることは当然の対価、又権利であると言われるかも知れません。けれどそうして得たものが人を幸せにするとは限りません。むしろ資本主義社会の虚しさ、さもしさが露呈している昨今ではないでしょうか。
あなたの力で石をパンに変えて見ろとそそのかす悪魔に対してイエスさまは、「人はパンだけで生きるものではない。」と聖書(申命記8章3節)に書いてある、とお答えになります。
このパンの問題は私たち人間にとって最も身近なことであります。、確かに、人はパンなしでは生きられないでしょう。
神は人がそれを共に喜び楽しむようにと、与えて下さっておられるのです。だからイエスさまは「パンだけでは」と、パンの問題を決してなおざりになさらず、そのように言われたのです。
それは又、パンがあっても貧しい思いで生きている人がいることをイエスさまは荒れ野で飢えを経験しながらご存じであられたからこそ、そのようにおっしゃったのです。
日毎の糧に感謝をもって、それを共に分かち合う幸いを知るならば、「人はパンだけで生きるものではない」という人間本来の喜びを取り戻すことが出来るのではないでしょうか。このイエスさまのお言葉は希望であります。
次に2つめの誘惑は、悪魔がイエスさまを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言うものでした。
一言でいうなら、これは高慢の誘惑です。世の支配欲や権力欲の野心に働きかける誘惑です。
悪魔はイエスさまを、「高く引き上げ」ました。これは褒め立てたのですね。だれでも自分が高くほめられる、高く評価されることに悪い気持ちはしません。そういうところに悪魔はつけいるのです。
イエスさまがここでこの悪魔の誘惑の話を受け入れていたとしたなら、世界はどうなったでしょう?イエスさまは十字架から降りて来て政治的な王となり、世界は権力による支配のもとでの繁栄に満ちたかも知れません。しかしそこには神との和解と真の平安、神の救いと愛が私たち一人ひとりにもたらされることはなかったでしょう。なぜならイエスさまは十字架に磔にされたままなるお姿でその御業を成し遂げられるのです。それは、高慢になった者には決して成し得ない事でありました。
イエスさまはその悪魔の魂胆を見抜いてお答えになります。
「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」とお答えになります。まさに、イエスさまはこのお言葉をもってゲッセマネの園での祈り、十字架の道を自らお進みになられるのです。
ただ神にのみ従って生きる。これこそイエスさまが私どもにお示し下さった神の子としてのお姿であります。
今も世界は権力による暴走と覇権争いが絶えません。私たちが生き、暮らす世界の中で、主イエスのお姿に倣い、主にのみ従い、主の御心に適うように祈り、生きていく者とされてまいりましょう。
3つめの悪魔の誘惑は、イエスさまをエルサレムの神殿の屋根に立たせて、この上から飛び降りて、神が救いにくるかどうか試したらどうか、という誘惑でした。
悪魔は、「神を試せ、神を試みよ」と、実に巧妙に誘ってきます。そのために神の御言葉をも使うのです。
悪魔は、旧約聖書の詩編91編に「主の使いがあなたの足が石に当らぬように守ってくださる」と書いてあるじゃないかと言うのですね。
使徒パウロは、「サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません」(コリント二11章14節)と記しています。
悪魔は、「あなたが神の子であるのなら、神が守ってくださるでしょう」「信仰しているのだからいいことが起こって、何をしても必ず守られるはず」「これだけ祈ったから、これだけ働いたから、これだけ奉仕をしたから、ものごとすべてはうまくいくはず」と、そそのかすのです。それらは一見信仰深いかのように思われますが、そうでしょうか?
以前にもお話しましたが。ある人のお兄さんが重い病気を患い入院したそうです。病室に入り、そのやつれた姿を見た弟は心を痛めながら、「神が必ずお兄さんの病気をもいやしてくださると信じます」と祈ったそうです。そうするとお兄さんは苦しさにあえぎながら、「やめてくれ、おまえの願望を神に押しつけるのではなく、御心が適うようにと祈ってくれ」と言ったというのです。その弟さんは金槌で殴られたようなショックを受けたそうです。お兄さんのその言葉に、それから「神の御心を求める祈り」について本当に考えるようになられたそうです。
私たちは時に神に対して、自分の願望を押しつけ、あたかもそうなることが当然であるかのように祈ったり、振る舞ったりすることがないでしょうか。それは「信頼」とは別物であり、自分の願望こそが主となり、神を試すこと、神を利用し従わせようとすることなのですね。キリストの名を騙ったそのようなカルトがコロナ禍に猛威を奮っておりますが。この悪魔の誘惑と重なってくるようです。
イエスさまは悪魔に答えておっしゃいます。
「『あなたの神である主を試みてはならない』と書いてある。」
私たちも又、日常の日々において生ける神の前に謙虚に正されて、主イエス倣い、御心を生きる者とされてまいりましょう。
元旦礼拝宣教 ルカ2章41-52節
主の年2023を迎え、お慶び申しあげます。今年は元旦が主の日となり、特別な思いでこの礼拝をお捧げしております。こうして生ける神をあがめる兄姉と共に、この一年の歩みに備えて臨めます幸いを感謝します。
今年も皆さまお一人おひとり、そして大阪教会にとりましても、救いのみ業がおこされ、主の栄光が顕される1年となりますよう、お祈りいたします。
本日は元旦礼拝にあたり、12歳になられたイエスさまのエピソードの記事が読まれました。今日はこのところから、「神の家からのスタート」と題し、御言葉を聞いてまいりたいと思います。
ユダヤの成人した男子には律法により年に3回、エルサレムに上ってユダヤの3大祝祭に出ることが命じられていました。
それは春の過越祭、夏の五旬祭、秋の仮庵(かりいお)祭でした。
イエスの両親はこの慣習に従って家族で過越祭を祝うためエルサレムに上ります。イエスは生まれた時から12歳になるまで、ずっとユダヤの律法の慣習に従う両親に連れられてエルサレムの祝祭を守っていたのです。
また彼は両親と、身近な人たちの育みから日常的に学び、ユダヤの律法の教えと精神を徐々に身に着けていったのです。
ユダヤの社会では一般的に男子は12歳になると断食することを教わり始め、13歳になると成人として宗教的な義務に係わるようになりました。それは厳格なものでありましたから、その成人の一歩手前の12歳のみずみずしい感性と大胆さで、今日のエピソードのように律法学者たちと対話なさったのかとも想像します。
さて、祭りの期間が終ってイエスの両親が巡礼の仲間と帰路の途上、少年イエスはエルサレムに残っておられたのです。両親はイエスが巡礼の仲間の一行にいるものだと思い込み、その不在に気づきませんでした。それから1日分の道のりを行ったとき、両親は初めてイエスがいないことに気づくのです。
当然両親は血相を変えて我が子を捜して回ります。
まず、親類や知人の間を捜し回りますが、見つかりません。捜しながら再びエルサレムに引き返し、祭りが終ったエルサレムの街中の心当たりのあるところを次から次に懸命に捜し歩きますが、見当たりません。
ところが、その3日も過ぎた後、我が子イエスが、エルサレムの神殿の境内にいるのを両親は発見するのです。3日の後というのは特別な意味があるのでしょう。イエスさまが死から甦られたのも3日後でありました。
十字架のイエスさまは、愛し慕う人たちの前から取り去られますが、その人たちは3日後に復活のお姿となられたイエスさまを見出すのです。
今日のこの場面で、神殿で我が子を見つけた両親はその様子に愕然とします。律法学者の間に座って話を聞いたり質問したりして、来ている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いているのです。必死に捜し回ってようやく見つけた我が子の姿は、もう一人前に成人した者のようでした。ユダヤでは律法の学びに対する認定を受け、成人の儀式に与ることができるのですが、それもまだなのに何て大それたことをと、血の気が引く思いであったのでしょう。
そんな母マリアの口から真っ先に出たのは、「なぜ、こんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」という言葉であったのです。それは、親が子の事を気にかけ心配してのことであったのでしょう。
すると、少年イエスから思いもよらないような返事が返ってきます。「どうしてわたしを捜したのでえすか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
母マリアにとってイエスの父はヨセフであり、家はナザレにありました。ですから、「両親はイエスの言葉の意味が分からなかった」、と50節にあるとおり、なぜイエスがそんなことを言うのか理解できなかったのです。親としてはさぞかし寂しい思いをしたのではないかと思うのです。
ただ、次の51節に、「それからイエスは(両親と)一緒に下って行き、ナザレに帰り両親に仕えてお暮しになった」とありますように、イエスさまは地上におけるつながりをも、とても大切になさったということです。
母であるマリアも又、我が子として育てながらも、イエスに起こった「これらの事をすべて心に納め」生きて行くのです。あの天使の受胎告知、誕生の時の出来事、又献児式での預言の言葉など、マリアはそれらすべてを心に納め、思いめぐらし続けるのです。
ところで少年イエスが語った、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」という言葉でありますが。
これは新共同訳改訂版では、「わたしが自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか」と訳されています。神殿「父なる神との関係性の中に一緒にいる、必ずいる」ということを知っていれば、母マリアはその意味を理解したかも知れません。
この父とは、天の神のことです。その父の神と子としてのイエスさまとの関係性は、この後に、イエスさまがバプテスマを受けられた時にも示されています。
聖霊が降られ、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、父なる神さまもイエスさまこう呼びかけられているのです。
そうして、「わたしが自分の父の家にいる」とおっしゃった言葉とイエスが最期の十字架上で、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫ばれた言葉は、一つの線でつながっていくのです。まさに、天の父と子の決して変ることのない、その愛の関係性が生涯に亘り貫かれていくのです。
イエスさまは最期の十字架上で、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と絶叫されて死なれました。しかし、その三日後に、天の父なる神との決して変ることのない愛の関係性のゆえに、天の父なる神はイエスを死より甦らせられたのです。
少年イエスを見失って動揺する両親は三日後に神殿で父なる神の子としてのイエスを見つけました。そのように、十字架の出来事で主イエスを見失ったに思えた主を愛する人たちは、栄光に輝く神の子、救い主としてのイエスを見出すのです。主イエスにあり家族とされた者らは、復活の主イエスと再会するのです。
同様に、アーメン。主イエスのあがないによって父なる神との和解に与った私たちも又、主にあって子として迎え入れられ、復活の主イエスのよみがえりによる永遠のいのちの希望にも共に与る者とされているのです。
その永遠は、今日新しい年を迎えられた私たちの日常の中に既に与えられています。
主は私たちの日常のただ中に、共に生きておられるのです。ここから始まるひと日一日に父なる神の子とされた喜びと平安が私たちと共にありますように。
この後、まぶねの中に(新生讃美歌205番)を賛美します。その歌詞を読ませていただきます。
まぶねの中に (新生讃美歌205番)
1.馬槽(まぶね)の中に うぶごえあげ たくみの家に 人となりて
貧しきうれい 生くるなやみ つぶさになめし この人をみよ
2.食するひまも うちわすれて しいたげられし 人をたずね
友なきものの 友となりて 心くだきし この人を見よ
3.すべてのものを 与えしすえ 死のほかなにも むくいられで
十字架のうえに あげられつつ 敵をゆるしし この人を見よ
4.この人を見よ この人にぞ こよなき愛は あらわれたる
この人を見よ この人こそ 人となりたる 活ける神なれ
昨年はブログにご訪問くださり、ありがとうございました。
本年のみなさまの上に、益々のご多幸をお祈りいたします。
よろしくお願いいたします。
平安